智慧の言葉
 
高速道路の法門 第一部/3 (中国語) 一九八十九年一月十五日 嘉義 フォルモサ(台湾)    Part 2
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私達フォルモサ (台湾)人は家に自分の クッキーがあって 誰かに食べるものが ないならきっと彼らと クッキーを半分 分け合うでしょう そうですね フォルモサ(台湾)の 人々は非常に親切で 情け深いのです 慈善については たくさん時間を使って 話す必要はないです どこへ行っても 慈善団体を見ます そうではありませんか それらはたくさんあり ライオンズクラブや 慈済功徳財団など カトリックにも 多くの慈善グループが ありますよね そこには多くの 公共団体があります フォルモサ(台湾)は とても小さいけれども 人々の心は とても大きいのです それが嬉しいのです フォルモサ(台湾)が どんどん良くなるのは 驚く事ではありません 私達のフォルモサ (台湾)はこの世界で 3番目か 4番目に強い国と 格付けされます

私達は金持ちで文明的 また発展しています 私達は他の強い国々に 張り合うことが できるのです 本当に競うのではなく 比較するのです そうですね それが分かりますか そうです 皆さんは自分を誇りに 思うべきです 私も誇りに思います 私達フォルモサ (台湾)は物質的にも 人道的観点でも 何も欠けていません それは我が国が 物質的に最も高い 文明を発展させた ことを意味します

国が実質的に発展の 頂点に達したなら 私達の精神は 変化し始め  そして 私達の心も 変化し始めるでしょう というのは 私達が物質的に満足し 肉体的にも快適な時 例えば 素敵な家に住み 環境もよく そして食べ物も 十分にあると 私達はリラックスし 考え出します 何について考えるのか 私が幼い頃 疑問に思ったのと 私達は同じ事を 考えます 例えば 私達はどこから来たか 死後どこへ行くのか 頭が上下逆さまでは なく このように 見えるのはどうしてか また多くの感覚ある 生物の苦しみを見て 彼らが病気のとき 助けられません 医者でさえ治せない 病気があります 親族がそのような 苦痛を受け そして 混乱に直面するのを 見る時 痛みと 悲しみは感じますが 彼らを助けられません また彼らが亡くなる時 私達は一秒でも 引き止めることが できません さらに辛いことは 私達は彼らがどこへ 行ってしまうのか 分らないことです 昨日まで彼らは私達と 雑談をしていたのに 今日は行ってしまう 最も有名なマスターに 依頼して来てもらっても 彼らは私達の親族や 友人を助けられません そんな時なぜこんな ことが起るかと思う そうですね(はい) 我が国があまりに 多くの問題を抱え とても貧しく お金が不足し 精神的に 心地よくなければ 私達はこれらの複雑な 哲学的問題について 考えないでしょう

しかし我が国は発展し 物質文明の頂点に 達したので 私達は他の何も 心配する必要は なくなりました 私達は裕福で 暮らしも良いので 霊性の問題について 私達はもっと考える 時間があります それはまた我が国の 人々が非常に親切で  至る所で慈善活動を しているからです 慈善団体が お互いに自身に 思い出させますので 私達は良いカルマ (福報)を受け取ります それで優しく 親切な雰囲気を 引き起こすのです 私達に準備が出来た時 仏陀は私達と交信 するようになります そうでなければ なぜ仏陀は地獄へ行き そこにいる衆生と 交信しないのですか または仏陀はなぜ より多くの問題ある国 後進国 鎮圧された国 または非民主主義国に 行かないのですか 私達の国は自由主義で いくつか他の国は 自由主義ではないです それらの国は なぜ霊的な教えや 道徳的な行為や 慈善行為で 繁栄しないのですか それは(カルマ報い)の ためです だからなぜフォルモサ (台湾)には 霊的な 教えを説いている人が 沢山いるのかと 驚いて尋ねるべきでは ありません 多くの人々は その教えを広げるのに 非常に都合よいのです 私は嘉義市の市民は 嘉義の市長のことを 媽祖婆と呼ぶと 耳にしました

媽祖婆は 観音菩薩と 似ています その市長は 大変慈悲深いからです 彼女は大変公平だとも 言われています 彼女は人々からの不法 金銭は一切受け取らず 彼女自身の資金さえ 慈善事業に使うと いうことです もちろん嘉義市の人は そのような恩恵に 値するからなのですが ただ良いカルマ (福報)があるなら 彼らはそのように良い 市長を得られるのです あるいは私達が 先程お話ししたように 私達は即座に穏やかで 親しみやすく歓迎の 雰囲気を感じます 私は多くの場所へ 講演へ出かけましたが 講演を主催するために 8組織も加わって 下さった所は他に どこもありません それは 嘉義市の人々は お互いに非常に 協力的だからです 互いに交戦する 代りに 彼ら自身の間で 協議を行うのです 他党を攻撃するような 政党はなく ある政党は 他党を称賛しますが いまだ他の党は互いに 交戦しあっています 嘉義市の人々は より平和に見えます 従って市長は 他の皆と同様に 思いやりがあります それは一種の 良い集合カルマ (福報)です 例えば人々が 同種の恩恵を 持っていて 同意見で 人々のレベルが 同じ種類で 同じ種のカルマ (報い)なら その人々は同じ場所で 生活します

あるいは同族の中に いることでしょう それがいわゆる 「集合カルマ」 (報い)です もう一つ別の種の カルマ(報い)に 「個々のカルマ」とか 「個人の恩恵」と 呼ばれる物があります それで同じ国に 生まれる人々で ある者は裕福で他者は 貧困だったりします 健康な家族に 生まれる 人々もいれば  虚弱な人々もいます これを個々のカルマ (報い)と 呼びます 集合カルマ (報い)は 一般的なカルマです 例えばですが  どのタイプの人々が 同じ家族に生まれるか または同じ場所に 生まれるかが 決まるのです 嘉義市は良い集合 カルマ(報い)に 見えます 皆が親切です しかし私達が修行し 人間としてそのような 程度であれば既に 完璧と言えましょう 市長は本当に公平で 慈悲深く 彼女は人として 完璧です ライオンズクラブの メンバーは 通常の仕事のほかに 自身の時間を エネルギーを 技巧を 資金を使って 恵まれない人々を助け 彼らもまた人として 完璧でしょう どの宗教を信じようが 関係ありません 完全に道徳的です 彼らはいわゆる 孔子の教えの「慈悲 正義 礼節 智慧 そして 信頼性」を 持っています このような人間に なるため人はそれ以上 発展しないでしょう 彼らがは既にトップに いるので人はそれ以上 進むことはできません

自身の面倒をみる 以外に 私達は貧困の 人々を助けるため 最善を尽くします それは人間であるのに 十分たることです 嘉義市の人々は 人間として 十分良いように 思われます どんな場所とか 国に住んでいても 私達はただその 国の王をみるべきです あるいはその場所の 政府の指導者が 道徳的かどうか 高潔かどうかを それで そこで 生きる人々の一般的な 考えが分ります 私達はそこの人々の 霊性と道徳的な面を 知るでしょう それが理由で昔の王は 「天子」と 呼ばれていたのです

王は天国から送られて きたのです あるいは 高級官吏は天から 権限を委任されました それで王が善良なら 高級官吏も良く もちろん ほとんどの人々は その模範に従い それで良くなるのです

私達はそのような 高いレベルの人間は 自らの人間としての 課題を修めたのだと 知るべきです では私達は今から 何をすべきでしょう 自身の面倒を見る他に 私達は十分な 食事をし 義務を遂行し 自分の 仕事もうまくこなし また隣人や 困窮している人々の 面倒もみます 私達は全てをうまく 成し遂げます そして他に私は何を したいのかと 自身に尋ねるべきです 仕事は多いの(はい)
どんな仕事ですか (修行です) 修行を 遂行することです 良い人であることも 一種の修行です (解脱を得ます) よい人間であることを 修行しなさい ええ 私達は 解脱もしたいし  家へも帰りたいです どこの家ですか お母さんの家ですか それは私達の家で 故郷です この世界へ来て 人間になって そして私達が人間の 標準にしたがって 非常に高いレベルに 到達したなら 私達は仏陀 あるいは 天によって送られた ことを知るべきです 私達はただ自然に 高貴な理想と 高潔な性格と 慈悲心を所有します それゆえ 私達は 普通の人間でないと 知るべきです ここに来ている 私達の任務は 動物を含めて他の 困っている衆生を 助けることです 彼らを助けた後 もう家へ帰る時間だと 知らねばなりません

家へ帰った後 他を助けるために 再び 戻って来たいなら 戻って来られます あまりにも長い間 働いた後なので私達は 力を失うからです そして加護の力は 減少します それは車と同じで 時にもっとガソリンや オイル交換が必要です または機械のようで 修理や定期的な 点検の必要があります メンテナンスのために 家へ持って帰ります 私達は一日中 高速道路を 運転できませんし 修理もせず 休憩もしないまま 車で人を運ぶことや 商売などできません 私達が人間として 完璧であっても 将来よりうまくやる ためには自身を再充電 する必要があります それは創造主がこの システムをすでに 準備したからです 暫く働いた後は 休まねばなりません 一生涯働いたら 長い休みをとる 必要があります 一日中働いたら 夜には睡眠をとる 必要があります  皆が知っています なぜ眠る必要があるか 私達のシステムは 休憩が必要なのです

眠らなかったら とても 不快であると感じて 起きられなくて 翌日は働けません そうでありませんか たとえ私達が 起きようとしても 目と口を開くことが できません 話すとき 「おげ んき ですか」 と話します それは正しいですか 「私は疲れてません ただ 目を開けて いられないだけです 暫くしたら起きます オフィスで寝るには あまりにきまりが悪い と感じるので しかし 後で再び倒れます こんな事がありますか (はい あります) 皆が知っています それは自然に 逆らっているからです 夜眠らなくて  「機械」を 休ませませんでした もちろん 私達の体は 最も完璧な機械ですが 同じに休みも必要です 車があまりに長い間 走るならオーバー  ヒートします そして 壊れるか 爆発します 私達の機械も同じです あまりに長い間使うと 不満を言います そういうわけで  病気と苦痛があります または時々疲れます それはすべて十分な 休息をとらないから 同様に私達は この人生で善人であり この世界に十分な 加護を与えました そして 完全に私達の 任務を果たしました しかし 私達はこの 世界の後の長い休息に 対して少しの準備も しませんでした

自身を再充電できる 静かな所を 準備しないなら 何かを食べて 魂は消耗します  それを重いカルマ (報い)と呼びます カルマとは何ですか それは私達が日々得る 他人との関係です

苦痛または鬱病に かかっている誰かが その感情について 私達と話をするとき 彼の重荷の 半分を共有します 私達には優しさが あるので 確かです 我々が誰かの痛みに ついて聞かされるとき 家に帰った後に 彼のことを 考え続けます あの人はあれだけの 苦しみの中にいる どう彼を助けられるか たとえどんな援助も 提供できなくても 心は彼の問題について まだ考えます そうでありませんか その時 彼の悪いカルマ (報い)を受けます 彼が家に帰ると 重荷は半分に 軽減され 私達は目に見えない 残り半分を受けます それで私達が他人を 助けるとき 他人の問題に 幾らか影響を受けます 彼の精神状態や 消耗や苦悩は 目に見えませんが 私達の心に入ります その時 私たちは彼の 悪いカルマ (報い)を集めます 毎日 多かれ少なかれ 私達は若干のカルマ (報い)を集めます 他人が苦しむのを 見るに耐えられず 私達は何とかして 助けようとします ですからライオンズ クラブとか 慈済功徳会とか 進香団などがあります 彼らは人々の 問題を考え  何とかして 助けようとします でも助ける時は もちろん彼らの 苦しみの影響を受ける ことも避けられません

なぜなら私達には 同情心があり 万物は同一体 だからです そういう訳で 釈迦は全ての衆生には 皆仏性があると 言っているのです それでイエスも 私達は自分を愛する ように他を愛すべき と言っているのです 私達がここに この世界を加護し 完璧にするため来た時 パワーは小さくなり パワーが完全に尽きた 人もいます  全ての功徳 パワーと 福報をこの世界で 使い果たし 全部人に 分けてしまったのです 無形のものも 有形のもの全て 分けてしまったので 魂は大変疲れています 助けを必要とする 人達と同じような 苦しさを感じています そういう訳で真の家に 帰る時がきたのです 私達は家に帰って 休息せねばなりません  別の仕事をしたり リラックスした 仕事をすると 元気を回復できます そしてこの世界に 再び戻って来て この世界を助けたり まだ発達していない 兄弟達を助けられます

例えばある人が とても善良で  よく布施し 善行を行い 人を助けるとしたら その人の魂は 比較的進んでいます

高いレベルか 成熟した魂で 仏菩薩に近いことを 意味します  ある人は 魂がまだ幼く まだ子供みたいです 子供が大きくなると 大人になりますが しかし子供の時は 世間知らずで いたずらばかりして 親や先生を 悩ませ 苦しませます 人間は皆同じで ある人は智慧が発展し 慈悲心も高度に 発展していて 何をするにしても 親切で 皆 人を助ける ためにします ですから人の行為を 見るとその人の 内面の智慧がどれだけ 発展しているか 慈悲心が仏菩薩と どれほど近いかを 知ることが出来ます またある人は 人を助けないばかりか 迷惑ばかりかけます これでその人の魂が まだ幼いことが 分かります 大きくなった人が 常に諭し  彼の手を取り 一緒に 歩くことが必要です ですから魂が 成長した人や 慈悲心が発達した人は 常にこの世界に戻り まだ幼い魂 慈悲も智慧もまだ 発展していない魂の 面倒をみるべきです ただこれらの魂の 面倒を見終わった時は 私達も老いるのです 子供を大きく育てて 教育も受けさせた後は 私達も老いてしまい 歯も抜け始め ひげも伸びます ひげが長く伸び 体も弱くなります これは私達の この世界での役目は 終わって 道具として 必要とされないことを 意味します

家に戻る時が きたのです ただ家に帰るためには 荷物の準備が必要です 私達が老いる前に 老後の生活のために 準備するようなもので 同じです さもないとこの世界を 離れるときに どこに行ったらいいか 分からなくなります 死ぬ時病気で苦しくて 自分自身を 助けられません なぜなら 病気になる前に 老いる前に 家に戻る前に準備して おかなかったからです この目に見えない 荷物を準備すべきで 大変簡単なことです ただ毎日少しの時間を 割いておけばいいです 二十四時間この世界に 奉仕するのではなく 毎日二時間割いて 老後の準備をします 魂を保養するための 準備です 魂が疲れて この世を離れるときに これが必要です というのは私達は この世界に永久に 住めないことを 知っているからです どんな地位にあっても どんな良い事悪い事を した人もみな後で この世を離れます その時のために 準備しておくべきです その瞬間のための 準備を修行といいます 修行には沢山の 法門があります これは周知のことです 例えば フォルモサ(台湾)に 浄土宗の法門があり 禅宗の法門があり 天台宗の法門など 多くの宗派が あります カトリックも 教会に行って 神を賛美し 聖書を読むなどします

一種の道徳面での 修行です 念仏するのも 大変役に立ちます サマディに 入ることもあり 気持ちよくなります しかしこれでは智慧が 発展しません なぜなら他力による ものだからです 修行にも 他力による修行と 自力による修行が あります 他力によって 修行しても 幸せになり 仏陀を 見ることもあります しかし自分自身を 発展させなかったので 智慧を得ることは とても難しいのです 例えば 三十年間 念仏をした人に 会った時 三十年前と比べ 彼の智慧は なんら変わりが ありません 彼らと話をして見ると 智慧は何も変って いない事が分かります 以前より善良になり 純心になっている かも知れませんが 他は進歩がないのです 修行を取ってみると 例えば禅宗の 公案を当てる修行も サマディーに入る こともあり 何かが分かることも あります または一二三四五六 七八九十まで数える 方法でもサマディーに 入ることもあります 何でも繰り返し 唱えるとサマディーに 入れます ですから たとえ数を繰り返し 唱えてもサマディーに 入るのです もちろん阿弥陀仏を 唱えてもサマディーに 入ります 阿弥陀仏は 偉大な仏陀でもちろん サマディーに入れます でもサマディーに入る のと智慧が開くとは 異なることです

サマディーは サンスクリット語で 中国語では 三昧とか 念仏三昧 禅三昧と言いますが これは智慧が開く こととは違いますし 究極の境地に到達する こととも違います しかしたとえ 禅の修行や 浄土法門を学ぶと しても先生を 選ぶべきです たとえば浄土の 法門を修行したい場合 徳の高い人で 念仏を通して三昧を 体験している先生を 選ぶべきです そうしてこそ良い 結果を見る事ができ 進歩も早く 魔に取り付かれず 他の問題にも ぶつかりません また禅の修行を したい場合 一二三四と数を数える ことが好きであれば やはり数を数えて 三昧に入った先生を 探してこそ 結果をみることが できるのです 公案も同じです 沢山の公案の答えが 分かる先生を探して その人について学んで 始めて結果を見る ことができます どんな科学も先生が います そうでしょう 英語を習おうとしたら 語学に堪能な 英語の先生を 探すべきであって そして彼について 習うことができます またダルシマーの 演奏を習うのも同じで よい先生を探して 学ばなければ なりません ABCしかできない 人について学んでも 役に立ちません 同様に 修行をしたい場合 一人で黙って 修行しないことです 魔に取り付かれる 可能性があるからです

魔に取り付かれると 救うことは困難です もう遅すぎます 救うのに時間もかかり 本人も苦しみます ただ永遠に魔に 取り付かれない法門が あります それが 観音法門です 魔に取り付かれる わけがないのです そう願ってもです 安全で速い法門です 沢山の法門があって どれもいくらか ご利益はありますが 観音法門は 最も速く 最も安全で いかなる 副作用もありません なぜでしょうか 例えばオゥラック (ベトナム)では ある人達は 会計を習うのに 六カ月かかります しかしある学校は たった二カ月で 卒業できます 一種の集中的にやる 学校です フォルモサ(台湾)に こんな学校はある? はい または秘書になる ための勉強も大体は 長い時間がかかります しかし二、三カ月しか かからない学校もある そうでしょう 同じです 同様に 修行の場合も ある法門は 相当長い時間 修行して やっと仏陀になる ことができます でも遅すぎます 観音法門は 「高速道路」の法門です ずっと高速を保ちます いやな赤信号や 青信号もありません 観音法門も このようです 街や田舎の道だと 速く運転できない上 車が渋滞したり 赤信号や 青信号があり 人も行きかっていて 時には犬や猫 豚まで道に現れて 迷惑をかけたり 私達の時間を 潰してしまします  慎重に運転しても 安全ではありません 高速道路は誰でも 自由に運転できます そうですね 人々は時速 九十キロ 百キロで 運転します 皆が行く道を 知っていて とても便利です

観音法門も同じです 迅速で楽で 信号のない道です 私は多くの国に行き 多くの法門を 習いましたが この法門が最も有効で ある事が分かりました そこで戻ってきて これを知りたいという 人と分かち合います これを分かち合う事を 恥ずかしがったりせず 皆がこれを学べます 願うのであれば私に ついて習ってもよいし でなかったら他の 法門を習ってもいいし ただ 覚えて欲しいことは  よい先生を探すべきで 自分で試さない事です

それは危険です

多くの私について 観音法門を習いたいと 来た人が すでに 魔に取り付かれていて ひどい状態です 簡単に彼らを助けて 問題を解決する事では ありません ですから私は皆さんに 修行するなら 正しい道を選ぶことを お勧めします

どんな法門を 習うにしても よい先生を見つけると 問題が起きません 話は変わりますが フォルモサ(台湾)は 美しい国で 国際的に名を 知られています 美しいフォルモサ (台湾)は 世界に知られています フォルモサは 蓬莱 つまり美しい島 と呼ばれます だから私達は この国をよく保護し 美しい名に相応しく 振舞わなければ なりません  あるまじき行為で 純朴で美しい伝統を 傷つけてはいけません
美しいフォルモサ (台湾)は 世界に知られています フォルモサは 蓬莱 つまり美しい島 と呼ばれます だから私達は この国をよく保護し 美しい名に相応しく 振舞わなければ なりません  あるまじき行為で 純朴で美しい伝統を 傷つけてはいけません 昔はフォルモサ (台湾)には 賭博をする人は あまりいませんでした 宝くじやお酒を飲んで カラオケをすることは あまりなかったのです 今は至る所にあります 遺憾なことです 数年後 美しい フォルモサ(台湾)は どうなるか 分かりません 大きなカジノに なるかもしれません 美しい伝統は 崩れるかもしれません というのは賭博を やると勝つ人もいれば 負ける人もいて 負けた人は 家に帰って 妻を殴って お金を持ち出したり 盗みを働いたりすると だんだん悪いくせが ついてしまします

または友達とも お金のことでケンカし 腹を立てます お金を全部 負けてしまうと 当然腹を立てます ですから元々あった 美しさを更に 高めねばなりません

私達は人間の道の 最高点に 到達したら  今度は菩薩道を 修行すべきです 私達は人間としての 力は十分あり 多くの貧しい人を 助けることができます 今度は仏陀のパワー 目に見えないパワーを 備えると この世界を 以前よりもっと多く 助けることができます 私達は フォルモサ(台湾)を 助ける力を有し 権利と富と名誉と 社会的地位も 有しています ただないのは 目に見えない 無形のパワーで 仏陀のパワーです 観音法門を修行すると 仏陀のパワーを 得られます 私達は地獄の 衆生を救い 天国の衆生を更に 高い境地に引き上げる ことができ 人々を 自分を含め親戚や友人 先祖五代 九代までを 全宇宙 全世界をも 済度することが できます たとえ私達の法門を 学ばなくても 学ばなくても 私を一目見ると よい縁を 結ぶことができます 彼が死ぬとき助ける ことができるのです または今度この世に 戻って来た時に 良いカルマ (因縁)のため  すぐに修行を することができ 善良な人になって 悪い事はしません だから修行をせねば ならないのです ありがとうございます マスターは以前 私達は仏陀と 同一体なので 仏陀の啓示を受けては ならないと いいましたが なぜ仏陀は 修行している人に 啓示を与えるのですか 瞑想の時 仏陀が 啓示を与えようと したらどうすれば いいのですか あなたが観音法門を 修行しる人なら どう対応するか 教えたはずです 別の法門を 修行しているなら 自分の先生に 聞いて下さい あなたの先生がそれを 教えてくれなかった 場合 私の所にきて 聞いて下さい 皆にとって良い事で あればここで話しても 構いません

これが私の答えです あなたが禅の修行を するとしたら 仏陀が来れば 仏陀を切り 魔が来たら魔を切る ことを知るはずです 浄土宗を修行する としたら 浄土宗の 最高の境地 西方極楽世界を 見ることができます そこでは仏陀は何かを 啓示したりしません マスター 私はあなたの本を読み 沢山のあなたの テープを聴きました

あなたに強く引かれ 印心を受けて もっと多くの道徳的な ことを学びたいと 思いますが 兵役に行くと彼らが 作った菜食にラードが 入っていると聞き それを食べると戒律を 破ったことになり 食べないわけにも いきません 慈悲深い開示を お願いします フォルモサ(台湾)の 政府は軍人に 肉食を強要しないと 思います 彼らは純粋な 菜食を作っています ラードは使いません それは肉食の人に 提供するものです そうですね ええ 心配しないで下さい 長官にあなたが 菜食していると言うと ちゃんと菜食を 作ってくれます 小さな鍋を配って 自分で作るように していると聞きました 印心した軍人が 沢山いますが 彼らは私に とても便利だと 話してくれました フォルモサ(台湾)の 政府は実にいいです 人に無理強いしません 政府に感謝しなければ なりません フォルモサ(台湾)の 人は大変祝福された 人達です 他の所で兵役すると それができないのです

マスター 仏教には 輪廻説があり 人は 死んだら霊体が母体に 入って生まれ変わると 言っています すると 人口は増えないはず でも中国の人口は 現在 十二億もいます これをどう解釈したら いいですか フォルモサ(台湾)の 人口も二千万人に なっていて 鶏肉 アヒル 豚肉の 消費も相応に 増えています これは人間が 生まれ変わることと 関係しますか

関係あります 彼らは全部 母体に入る 人間や豚やアヒルや 鶏に生まれ変わります ですから人口が 増えていますが 仏菩薩は 減っています というのは 仏菩薩の道を 修行する人は ごく僅かだからです 皆はただ人間の道を 修行しているだけです だから再び人間に 生まれ変わるのです 人間に生まれたら 上等です 餓鬼や畜生に 生まれると苦しみます なぜ人口は増える 一方で解脱する人は ごく僅かなのかを 知りたければ 人々の修行を見れば 分かります 観音法門を修行すると 今生で解脱できると 私は保証していますが

どれだけの人が 学ぼうとしますか 多くの私達の 修行仲間達は すでに現世で 解脱しています 死ぬ時解脱するのでは ありません 大半の人はこれに 誤解しています 念仏したり 聖人の誰かを信じていると 死ぬ時に解脱すると 思い込んでいますが そうではありません よい法門を修行すると 今解脱でき 今生きていながら 西方極楽浄土を 知ることができます 死んでからでは 遅すぎます 死ぬ時に 知らなかったら どうしますか 仏陀が来なかったら どうしますか 誰がこれを 保証しますか 観音法門を 修行すると 今生で仏陀の所を 見て 今生で 天国を見ることを 私が保証します 死ぬ前に自分が どこに行くのかを 事前に知ります 行きたい天国 または仏陀の王国を 選択できます これが真の開悟です

実際の証明であり 真の保証なのです さもないと皆が 私の法門を学ぶと 解脱できると言えます いつ解脱するのか 誰に分かりますか 誰が保証するのですか

命をかけて 保証できますか 私はこれを私の命と 魂をかけて保証します できなければ 私は地獄に行きます 簡単です  それでも この法門を学ぶ人は 少ないです  皆は今まで学んで来た 法門と聞いて来た 道理を手放す ことができません

マスター 衆生は 貪欲のために 悪いカルマ (報い)を作り 生死の輪廻を 繰り返します どうやったら 貪欲を絶てますか 観音法門を 修行することです なぜ貪るのでしょうか 以前にも話したように 私達は凡夫では ありません 私達がこの世界に来た 目的は世界を加護し 幼い魂を 助けるためです しかし私達は 自分の使命を忘れて この世界に 執着しているため 再び戻ってくるのです 自分の使命を 果たした後も家に帰る 準備をしてないので また戻って来るのです

私達はこの世界を 加護して力が尽き その結果 そこで霊的レベルが だんだん落ちて行き 徳も人格も だんだんなくなって いるのです ですから今ここに 落ちています もう家に戻れません 観音法門を修行する  過程で自分の 真の家を訪問し 仏陀の国や 神の王国 自分の本性を 見ることができます そして自分は誰なのか 知ることができます こうするとこの世界に 執着しなくなります なぜ貪るのでしょうか それは私達が とても高貴な所から 来たからです この世界に来てから 何もかも 不満足で 何一つ満足できる 良いものがなく 心の中はいつも 物足りない感じです ですから たとえ 良き夫 良き妻 可愛い子供がいて 大きい家と富を 持っていても やはり満足しません たとえ世界最高の 地位にいても やはり満足しません それは私達の内面 または潜在意識の中で 自分の真の家は 更に美しく 輝かしく 自由自適であることを 知っているからです ですから この世界では 満足するはずがなく 満足しないから あれこれ 欲しがるのです

これで少しは 満足するのではと やってみるのです 満足しないとまた別の ものを欲しがります 「これも大した事ない」 と言っては 新しい物を探します 代りになるものを 見つけようとします そこで貪り 怒り 愚かさが生じる訳です

元々私達には 貪り 怒り 愚かさは ありません 例えて言いますと 満腹の時 食べ物を探しますか 食べたいと思いますか いいえ思いません たとえ誰かが 箸でつまんで 口に入れてくれても 食べたいと思いません そうでしょう 満腹の時は 最高の珍味でも 食べたくありません 食欲がないのです そうですね

ここまで既に 飲んでいる時 誰かが世界最高級の飲み物をくれても それを飲もうと しないでしょう

誰かが最高級の 最も有名な 最も高いジュースを くれても それには 手もつけない 満腹で 満足しているからです 同様に なぜ貪るのでしょう それは 私達の内面が 満たされていない からです いつも何か物足りない 感じがするからです それはつまり私達の 真の家が恋しいのです 私達が所属する あの輝かしい境界で 天国における 高貴な地位なのです だからここでは到底 満たされないため 悪いことなどを するのです それら 悪事をする人は 悪人ではありません もしかしたら彼らは 誰よりも早く真の家に 戻りたがる人です

全てがめちゃくちゃで 気に入らないのです そこで苛立ち 切れてしまします 心の葛藤がひどく かえって人と呼吸が 合わなくなります そこで悪い事をし 貪り 怒り  愚かになります ですから 人を殺したり 盗みを働いたり 賭博 飲酒 薬物等を するのです 内面で満足して いないからです 観音法門の修行を 始めると 内面で満足し 貪ることは 自然になくなります 私と修行すると 多くの人は 飲酒 喫煙や 檳榔の実をかんだり (依存性の習慣) などを止め 賭博や殺人も やめます ここに証人が います(はい) 皆さんご存じですね ですから観音法門を 修行してこそ 欲から解放されると 言っているのです 自身の気高い品性を 認識し 現世では 取り替えることの できない内面での 恩恵を知ると 物質世界のものは ゴミのようであると わかります そういう訳で 貪らなくなります でなければ 貪り続けるでしょう そういうことです

マスター 自衛力がない人は 智慧が開くと 魔からとりつかれると 聞いたことがあります 台北で三日間 マスターの講演を 聴いた後 智慧の目が振動して いるのを感じました 魔にとりつかれた のではと心配しました 印心を受ける前までは マスターに守って もらうよう祈りました 大丈夫です マスター 世界平和が実現し 五大宗教が 一つになることは ありえますか 一つになるように 最善を尽くしましょう 協力しない人でも 自由にさせておきます

子供のころは 泥のパイで遊び プラスチックの人形で 遊ぶのと同じです

成長すると それらから 自然に離れていきます 幼いとき 他の人が 何を教えても 聞きたくありません おしゃぶりを 取られれば 大声で泣きます 大丈夫です

大丈夫です 一つになれば いいことですが なくても構いません 大したことありません マスターは老子や 荘子を学びました マスターに お尋ねします 荘子の哲学と 仏教は 同じでしょうか そうです 禅の哲学と 荘子の哲学も 同じだと分ります そうではありませんか

荘子は真の自由を求め タオという 本性を探すべきだと 言いました 言いました

ほんの一文では 荘子の哲学を 説明できません 彼の魂は 解脱していたので とても平穏でした 仏教の教えも 同じですが 膨大で教典が たくさんです 仏陀は四十九年間 真理を説き インド中を放浪した からです 彼が往生したあともアショカ王が仏陀の 教えを広めました このため 仏陀は他の教祖より 有名になり多くの 教典を残しました 荘子は援助してくれる 人はいませんでした 代わりに 攻撃する人は たくさんいました それで教えを 広めることは できませんでした 違いはそれです 印心を受けた後 荘子を読めば 荘子の教えと 仏教の教えは同じだと はっきりと 分かるでしょう マスター 過去のマスターは 仏陀の方法により 仏教を学ぶべきだ と言っています マスター このことを どうお考えですか 仏陀の方法により 仏教を学ぶべき なのはもっともです 仏陀の方法を 知らなければ 仏教を学ぶことは できません 自身の仏性を 認識しなければ 仏教の教えを 理解することは 全くできません 仏教に宗派がたくさん あるのはそのためです それぞれの宗派は 自分らが最高と思い お互いに受け入れる ことができません 仏教の真の教えを 理解しておらず 仏陀の方法により 仏教を学ばなかった ためです ためです 仏教を 現世の言葉でしか 学んでいません 書物を読むのと 同じ方法で 仏教を学びます それで 仏教を学ぶことは 仏教とはどんどん かけ離れていっている ことになりました

学べば学ぶほど 仏教からどんどん かけ離れました ここで知り合った 外国人がいます 彼の質問ですが 皆に仏性があり 誠実に修行すれば マスターを 見つらけれなければ 間違いを犯すことが あるのですかと 彼は大丈夫だと 言いたかったのです 内面に すべての答えがある というのは本当ですか はい そうです 全ての答えは 内面にありますが 鍵がかかって開ける ことができません 内面が何であるか わかりません 望めば 最速の方法は 以心伝心で 伝達されます 内在の宝を 開封した人は 開封した人は どの家も開けれる 万能の鍵を 持っています 彼が援助すれば 内在の宝を今すぐに 開封することが できるのです 彼が援助しなければ その方法を独自で 見つけねばなりません

とてもとても 難しいことです 多くの難関を 突破せねばならないし 鍵を見つけるために 何億光年の間  探さねばなりません そういう快速の 高速道路があり 田舎道もあります 既にお話ししましたが 私達は進む道を選べ 今日この快速の人生を 選び 高速道路を行く なら 更に良いです 別の道を選ばなければ 高速道路を使うより 時間の無駄になります 内在の宝を 開けるために 私達には鍵が必要だと 私は彼に言いました すると彼は自分に鍵が あるのかと私に尋ね 私は彼に言いました 彼には鍵がありますが 失くしてしまい 私はそれを拾ったので 彼が望めば 私は 彼にそれを返せます 私はそう言いました 皆さんも彼と同じで 皆が鍵を 失くしたのです

マスターどうやって 仏教のパワーで 行いの良くない 学生に影響を与え 改善できますか 多くの方法があります 例えば  仏教経典の中に たくさんの 道徳的内容が 含まれています 因果や 十二因縁の経典 あるいは 法華経を読めば それらは皆 人々に善行と持戒を 教えています または金剛経でも 布施 持戒 忍辱 精進 禅定 智慧を 人々に教えています 知ってる事は何でも これらの経典の 道徳的内容を 行いの良くない 弟子に 教えることができます 例えば 私達は このようにできます そして彼らが忠告を 聞くかを見られます 彼らが聞かなければ 仕方ありません 仕方ありません 最も良いのは 経典の真髄を 獲得することです

この無形の真髄は 言語での経典ではなく 真の経典です 経典以外のものでだけ 教えられるのです 例えば 私達が印心して 観音法門を 修行する時は 私達には他人を 感化する無形の パワーがあります 私達を 一目見るだけで 他人は違いを感じます 私達が少し話すだけで 彼らは高揚する様に さえ感じます 私達が2、3日 講義すると 彼らは悟ります 印心を授けると 彼らは解脱します この方法がより良い 魔も仏陀です 魔は仏教の弘法を なぜ破壊しようと するのでしょうか

魔は この世界の王です ここは彼の国土です 仏陀の国土は 別の世界にあります 魔がこの幻想の世界を 担当するように 仏陀によって 送られたとしても 彼はここの王だから 仏陀は彼に担当させ なければなりません この世界の世話が 彼の義務であり 仏陀は彼の仕事を 妨げる事はできません さもなければ 混乱を起こすでしょう 衆生に教えるのは 魔の仕事です しかし ある人々は ここでの仕事を終えて そして彼らは 神の加護を使い果たし もうこの世に 居たくないのです そして 仏陀は この人々を家に連れて 帰る方法を見つけます 仏陀がこの人々を 家に連れて帰るために ここに来る時 ここのシステムを 干渉してはいけません 魔に支配されます しかし 時には 避けられません

この世界は魔 (幻想)に属します 私達が来る時 家に戻る準備が できてる人だけを 連れ帰る事ができます 彼らは 完全な人間の存在に 到達したので 今 仏陀になるために 修行できるのです 他の人は 家に 戻りたくてもできない 彼らはまだ課題を 学んでいないからです その時 魔(幻想)が 干渉するでしょう 例えば 彼は 様々な方法を使って 人々が講演を 聞くことを 邪魔したり 仏教を勉強するのを 阻止したりします この人達が 悪いのではなく これは創造主の手配で すべては 仏陀に手配されます 私は仏陀に頼ります 私は普通の 人間の脳には 頼りません 仕事をするために ここに来たのです 時には他の人と対立することは 避けられません 例えば 運転している時 時にはゴミ箱に ぶつかるかもしれない

そういうことです 彼らに十分に 謝りもしないのに なぜケンカなど できましょうか

マスターは 修行をしたいなら 良い先生に学ぶべきと おっしゃいました どうすれば良い先生か 分かりますか いいですね これは 非常に良い質問であり また難しい質問です 一番いいのは直接 先生に尋ねることです 仮にあなたが 浄土法門が好きで 有名な先生を 見つけたとします

例えば フォルモサ(台湾)に また他のどの国にも フォルモサ(台湾) である必要はなく たぶん他の国にも 有名な先生がいます 彼のことを聞いたなら その後あなたは直接 彼に尋ねるか 手紙で聞くべきです 「西方極楽世界に 行った事がありますか 仏陀の名前を 唱えることで 最高のレベルに 到達しましたか」 最高のレベルはつまり 西方極楽世界を見る事 あるいは上品上生の レベルになる事です

少なくとも 彼は 西方極楽世界の最低の レベルに到達していて 私達を西方極楽世界の 最低レベルに連れて 行けるという意味です 行った事がないのに どう連れて行けますか

直接に聞きなさい それで分かるでしょう 彼がノーと言うなら

他の先生を 探すべきです 彼がイエスと言うなら

大丈夫です
お元気ですかマスター 私は基隆で初めて あなたの講義を 聞いた時 あなたの周りに 金色の光を見ました その後 毎回あなたの講義を聞く度に それが見えます  しかしそれは 講堂の明かりが 強過ぎるか 私の目に問題が あるのではないかと いつも思います しかし今日は 舞台にだけ金色の光が 見えるのではなく ステージの横の 白壁にも金色の 光を見ました マスター私は本当に 愚かで 今までそれが あなたからの光だと 信じられませんでした それは目の状態がどんどん悪くなって いるのではないですね 早合点しないで こういうことです 自身の体験が あったとしても その体験を信じるのは 容易ではありません 私の弟子でもそうです 印心のときに とても良い体験があり とても良い体験があり 私と修行し 体験が多く 不思議なことにも 遭遇しますが 未だに疑いを 持っています これも 避けられません 世々代々 魔(幻想)に 支配されて いたからです

長い間 騙されて来たので  疑念はなくならず どんどん膨らみ 本性より大きくなり 疑念を制御するのは 難しいことです あなたは印心を受ける 前も十分 素晴しかったのです

自分を責める 必要はありません マスター 菜食の持続は簡単で 修行は難しいと 思っている 人がいます どうですか その通りです 解脱するためには どのレベルに 到達すべきでしょう 三界 四界を越え 少なくとも 五界に到達しなければ なりません 五界以上は 仏国土で そこの人々は 本当に自由な 境界でしょう マスター  人が病気になるのは 菩薩がその人を 罰したいから なのでしょうか 罰するのではなく 見返りです 時々私達は現世に 執着しすぎています 働きすぎたり 世俗的な援助を たくさん行って エゴが大きくなります

とても傲慢になり はかない現世の 物質的な力に頼り お金の力や  名声や富の力に頼り 仏陀のパワーを 忘れています ですから私達は 突然病気になります 仏陀は私達に 「我が子よ 肉体ははかなく 名声や富は とるに足りないもの」 と喚起させたい からです

「すぐに 引き返しなさい 一刻も早く 自身の永遠の力を 見つけるために 内面を向きなさい 自身の万能の力を 見つけなさい」 病気は罰でなく 恩恵だと 私は思います 親愛なるマスター 私達は本来仏陀です 私達は 偉大な 智慧を持つ仏陀なら とても挫折を感じる 人間としてなぜ 今日のこんな状況に 陥ったのでしょうか

世界を加護するために 私達はここに来ました この世界には本来 人間は存在せず 生き物は存在して いませんでした ただ暗闇だけでした 後に木々が成長を始め その後人間が やって来て初めて 素晴しくなりました 変化の始まりです 命が現れ始め 活動が起こりました しかし私達はここに 来てあまりにも長い間 働き疲れました

私達は 本来の力を失い それで時々仏陀が 降りて来るのです

家路に着きたいと思う 人々を導くために 「あなたは年を取り過ぎ 引退です 若い魂たちに仕事を 継続させましょう」

お元気ですか マスターチンハイ 私は現在 害虫駆除会社に 勤めています 私は常に他人に 有益なことを 考えてきました 親愛なるマスター 印心して頂けますか みんな どう 思ってますか(はい) はい 印心を授けましょう 私の問題ではなく あなたが何をしようと 私は気にしません 私達が何をしても 仏陀は気にしませんが 因果の法則が あります それが問題なのです 自身がした事は何でも 結果は自身に 戻って来ます 私がこの種類の花を 植えたら 後に 私達は この種類の 花が得られます あの種類の花は確実に 得られません

従ってあなたがその 種類の仕事を選んでも 印心を受けられますが 他に転職した方が 良いでしょう それだけです あなたが別の仕事に 変えるなら  助けとなり 霊修行は早い進歩を 遂げられるでしょう そうでないなら 霊修行の間に同時に  因果の法則により 支払いをせねばならず 何も 得られないでしょう

時間の浪費です 従って印心しなければ そんなに懸命に 努力する必要がなく 何も得られません

お金のために 働きますが 最後には 何も残らないのです

無意味でしょう 親愛なるマスター 仏陀になるためには 六波羅蜜の修行を せねばなりませんか

自戒 忍辱 いうというような あるいは一旦私達が 仏陀になると誓ったら その後 なれるのでしょうか

私達は六波羅蜜を 修行せねばなりません 医者になりたいと 思うのと同じです ただここにいて 医者になると誓うと その後 医者になれますか 私達は医学校へ行き 6~10年の間 勉強すべきです それから毎日手術して 人々の病気を治し 助け そうして 経験を積みます

それから どんどん 素晴らしくなり その事が得意になり 医者と呼ばれるように なるのです あるいは他の例として ライオンズクラブの 代表だったら ただそこにいて「私は 貧困を助ける」とは 言えません そして そのようにしても 彼の仕事は終わりです そうではありません 懸命に働くべきですね

彼は資金を 寄付してくれる人を 探さねばなりません そしてスタッフを集め 一緒に働き 組織を作らなければ なりません  これは大変な仕事です 時には大変苦労します そうでしょう そうして始めて ライオンズクラブの 会長になれます 誓うだけで 済む事ではありません とんでもないです 六波羅蜜を修行 しなければなりません あまりに安っぽすぎて 誓うだけで仏陀に なれるとしたら 私は皆に直ちに 誓うことを勧めます 仏陀になりたいですか ただ誓えばいいのです それですぐなれます

マスター 開悟した 体験とは何ですか どんな体験が ありますか どんな心境ですか

とても簡単です

仏教経典に 悟りを開いた体験が 記載されています たとえば 楞厳経に 二十五人の菩薩の 悟りを開いた体験が 記録されています 内面の光を見たとか と書かれていいます これは開悟の体験です 例えば今私の講義を 聞いていて 光が見えた場合 それは悟りを開いた 体験です

または他の法門を 学んで光を見た場合 それも悟りを 開いた体験です 浄土宗とか 禅宗 天台宗を修行して 少しの内面の光と 内面の音流を体験する こともあります それが悟りを開いた 時なのです 観音法門を修行する 人は 印心の時 即座に悟りを開く 体験をします 印心の時即座に 悟りを開く体験を 得ることができます 即座に高い境界を 見ることができ 仏国土や 仏陀または異なる 境界を見ることができ または自分が体から 離れて高い境界に行き 再び体に 戻ることを見ます これらはいずれも 開悟した体験です 体験が多過ぎて 話し尽くせません また人によって 体験も違います 二人でも 体験は違います

観音法門を修行すると 自分はどのレベルまで 開悟しているか はかることが できます

レベルを正確にはかる システムがあり システムがあり 自分がどのレベルに あるかが分かります 聖書に 聖人が修行する時 または悟りを開く時 大きな火の玉と 雷の音を聞くと 書かれています これらはいずれも 内面の悟りを開いた 体験です マスター 菜食をしている人は 時間が経つにつれ 血液もきれいに なりますが ある日 事故などで輸血を 必要とする時 どうしたらいいですか 肉食している人の 不浄な血液を 断るべきですか 断る必要は ありません それは避けられない 事態です

病気で輸血が必要な時 受け入れるべきです 私達はどれが菜食者の 血液でどれが 肉食の人の血液か 知るよしがありません 菜食者からの血液かも しれません 観音法門を修行すると 菜食者からの血液が 提供されるかも しれません でもたとえ 肉食者からの血液でも 構いません そこまで執着する 必要はないと思います 命を救うことが もっと大事です 後に家に帰って たくさん観音すると どんな不浄なものも きれいに洗い流す ことができます

マスター 私は 何回も印心を受けよう と思ったのですが まだ受けていません 私は一貫道の信者で マスターの講義を 聞いてもっと印心を 受けたくなりました 私は矛盾しているの ではないでしょうか 一貫道と観音法門は どう違いますか

一貫道は観音をする 瞑想がありません 教えは どの宗教も同じです  人々に良いことをし 道徳的なことをして いい人になり 親孝行し 君主に忠実で 国を 愛する事を教えます 一貫道は観音する 瞑想を教えていません お花を一輪 家に持って帰って 花瓶に挿し もっと美しく 飾るだけの話です 互いに矛盾することは 何もありません 一貫道の伝統に 反することありません

一貫道は人に 神に近づくことを 教えています 私が教えているのは 一歩進歩した 早い方法で 速やかにその目的地に 到達させる方法で あなたの西王母に もっと早く会えます 私の法門を習った後は 私に帰依する 必要もなく 何もしなくていいです

修行することは 個人的なことで私は あなた個人を助けます これを習ってからも あなたは一貫道の 団体で彼らと一緒に 以前と同じように 仕事をしてもいいし 法事にも参加し 経を読み上げたり 仏陀を拝んだり 生け花をしたり 会合をしたり 何をしても構いません 何をしても構いません

ハイヒールの靴を 買ってもいいのだから 花一輪買ったり もう一つの法門 観音法門を修行しても いいはずです

マスター 病気の時 瞑想し 禅定に入ると 治療によいのですか 治療に助けに なりますか(なります) または良くないですか 健康にいいです 病気の時はもっと 瞑想をしなければ なりません マスター  仏陀は言いました 法(真の教え)は 智慧眼に潜んでいて 法輪は永遠に 回り続けると どういう意味ですか

その正法が所在する 所の智慧眼を 開くべきだという 意味です この眼は智慧眼であり 仏陀の眼なのです 印心はマスターが 正法を伝授する時で 伝授すると 正法が所在する ところの 智慧眼が開きます 法(真の教え)の法門を 伝授することです

法輪は永遠に 回り続けるというのは 観音法門を 修行すると 私達の内面の法輪が ずっと回り続けると いう意味です ある人は私が 経の講義をしている時 私の内面法輪が 回っているのが見え 私がわざと回して 見せたのではないです 極自然な現象です 観音法門の修行者は 一定期間 修行した後はみな この法輪があります 仏教と道教が 修行している法門は 同じですか 元々は 同じでした 元々 仏教というものもなく 道教もありません 仏教も 道教も同じことを 言っています 後になって マスターの往生後 高いレベルの 悟りを開いた 弟子がいなかったため 後に 人々は自分の 凡夫の頭脳で 勝手に解釈し 神聖な意味と 大修行者の教えを 憶測し 経典の 翻訳もまちまちで 違った用語を 使うようになりました 私達凡夫は内容が 分かっていないのです そこで文章や 名称にとらわれ これは 仏教 道教と 名前をつけて 違うものしましたが 実際は同じです 観音法門を修行し 始めてからそれらは 実際は同じである ことが分かります 何の違いもありません 高い境界に行って 見れば 釈迦と老子が一緒に お茶を 天国の 甘露水を飲んでるのを 見ることが出来ます

かつて舎利仏は 釈迦に 俗世間は 五つの穢土だと いいましたが 浄土ではないですね

それは極楽世界とは 比べ物になりません

その時 釈迦が地面を 踏むと 足を上げて地面を 踏むと浄土が現れた (そう そうです) 心が純粋になると 浄土になります 彼はマスターに 観音法門を 修行すると  死んでから どんな極楽世界に 行くのか聞いています 極楽世界はここです

ここで極楽世界を 見ることが出来ます 眼を閉じても 見られるし 眼を開けて見られます 見えないのは 「眼」を開けてもらって いないからです 子猫は生まれて 三日後に 眼が開いてものが 見えるようになります 知っていますか 三日後に 目が開き 見えるようになった 同じことです 智慧眼が 開かないと どこにいるのか 俗世なのか地獄なのか わかりません 智慧眼が開くと どこにいても 仏国土になります まさにここですが 私の弟子はみな これを知っています

親愛なるマスター 私は印心はまだですが マスターの力の中に いると確信しています 私の両親の健康と 長寿を 祝福して 下さいますか 仏陀に祈り 頼んで みましょう ご両親を お護りくださるよう 私自身は誰のことも 守れるような どんな力もありません でもあなたが 霊修行をすると 自分自身とご両親を 護る力が 持てます 他の面では 私は既に 皆さんを 護っています

私の持つ力は あなたが 悟りを得る方法を 伝達することで それにより あなた自身の 全能の力を 引き出せるのです そして護りたかったり 援助したい誰かの ためにそれを使えます あなたは近親者の 誰でも援助できます 私は自分との縁者を 助けられるだけです

それで私は皆さんに 修行して欲しいのです それが 近親者を 助ける方法なのです 他方で人々はすべて 釈迦牟尼仏に 既に 助けられています 彼は全衆生を 守護しています なのに未だにこんなに 深刻な病気や苦痛に 喘ぐのはなぜでしょう

なぜこうも短命なのか ですから個々の人が 自身の恩恵のために 修行すべきなのです 誰も他人には 頼れないのです

嘘はつけません

マスター 印心後に 私達はまだ吉日を 選びますか 結婚式やお葬式や 祝賀のために

そうですね 日を選ぶのは 悪くありません そうしてもいいでしょ

慣習が人々を 傷つけるなら 却下すべきでしょう けれどその慣習は 無害ですし

有益でさえあります なぜ有益なのでしょう 前にも言いましたが 私達人間は 心が弱いのです 私達は大変パワフルと 信じられないのです だから他の力に 頼りたいのです 私達が 新たに印心した時 まだ仏陀ではなく 私達にとって 霊修行は困難です 解脱するのは 仏陀になるのとは 違います

お話しましたが 皆さんは今生で 解脱できます 私は皆さんが 今生で仏陀になると 話していません 今生で 仏陀になるのは 可能です 不可能ではありません 私は解脱するのは 保証しました 解脱は単なる一歩で 仏陀になるにはまだ もう一歩足りません

こんな感じです 印心したばかりか 長い間の後でも 時に修行は 大きく遅れをとり 完全な開悟を まだ得ていません 吉日を 選びたいなら 構いません

例えば 自分の家族や友人が 結婚する時に 誰かの亡くなる日や あるいは不吉な日を 運の悪い日を 選んだとします それでこの人の 結婚に悪い日を 選んだと気付きます たとえ 自分自身がマスターの 保護を信じていても 結婚する人は マスターを信じる 必要はありません 結婚後 その人はその問題を 昼夜考えるかも しれません 「私の結婚の日は 悪い日だった まあ どうしたらいいの」 そして結婚を別の日に したいと思うでしょう 自分が人々に 問題を起こすのです

自分がする事は何でも 気持ちが安らいだり 幸せであるなら 構いません 規則どおりにしたり 私達の伝統との 繋がりを全て断つ 必要はありません 徹底的に断ち切るのは できません

マスター 観音法門は 最高の法門です 私達が最高のレベルに 達したら 法(真の教え)に対する 執着をも 失くすべきですか

ええ そうです でも皆さんは 高い境界に 達する時は 離れるだけです この世は あちらとは違うので この肉体に 戻る時は まだ 修行が必要です この世に生きる間は 修行が必要です 魔の妨害から 自身を守るため だけではなく 世界の加護もするです 私達はこの世を浄化し 私達の良い波動で 悪い波動を 中和すべきなのです

そしてサマディ中に より高い境界に 行く時に 同時に 私達は法 (真の教え)ですら 気付きません いかなる法 (真の教え) も もう存在しません でも戻ってくる時 法(真の教え)は まだ存在します

また たとえ非常に高い 境界に達してもまだ 毎日その高い境界を 赴く必要があります だからはしごを使って 上るように まだこの法門を 修行するべきです 更に言えば 私達は 自身の家族や友人 弟子に良い例を示す 必要があります 修行しないなら 彼らもしません マスター 全てが一つなら なぜ人々はいまだに 互いに争うのですか  それは私達が 区別をするからです 区別をしたら いかに万物が一体で あるか分かりません だから 観音法門を修行して 万物が一体である事を 理解する 必要があります まだ分からなかったら 私達はまだ 「私」と「他人」を 区別します そして とても はっきりと区別します

マスター 観自在菩薩は誰ですか

観自在菩薩は 観音菩薩の別名です 彼女の名前は観自在で この名前を得たのは おそらく彼女が 音と光の瞑想をした時 自在の境界を得たから でしょう だから 観自在と 呼ばれたのです マスター 「返答不可能の謎 つまり公案を解く」の 意味を説明して下さい

事実 昔の修行者は 何の謎も 解いていません 釈迦は何の謎も 解いていません イエスキリストは 何の謎も解いてません 老子と孔子は何の謎も 解いていません 元々 悟りを得たマスターは 何の謎も解いてません 後の真理を得たかも しれない 一部のいわゆる先生が 弟子の 霊的レベルを審査 しようとしたのです

例えば 先生が聞きます 「お前は誰だ」と あなたは答えます 「私は誰それです」と 王さんだとか何とか 答えます なら あなたはお終いです

あなたの名前は ワン(王)から(完) に 変わってしまいます この方法で 先生には あなたは 良くないと分かります あなたの修行が そんなに良くないと 分かるのです 先生は聞きます 「ビスケットを あげたら お前は 頭で取るかね 手で取るかね」と あなたが 頭で受けたら それは良くありません あなたが 頭を使うと言ったら 3回叩かれるでしょう 手を使うと言ったら 6回叩かれます あるいは ひどく叱られます あなたの霊的レベルが 余り高くないことを 示しているからです

公案を解くとは こんな風なのです

この頃 一部の人々は 日夜 この公案を 解いていますが 悟りを開けず 彼らには 公案を解く理由が 分かりません マスター 霊修行をするには 瞑想をすべきですか 瞑想は修行をどう 手伝けするのですか 瞑想イコール 霊修行です 六祖慧能は 六祖壇経で これに触れています 瞑想は智慧だと 彼は言います

サマディーは智慧で 智慧はサマディーで 二つで一つです

瞑想抜きで 智慧を 得ようとするのは ご冗談でしょう 金鋼経では 以下のように 言っています 智慧を得るに人が すべき事は布施 持戒 忍辱 精進 禅定だと 一つ欠けても あなたの修行は 同じではありません 瞑想をしなかったら 智慧を得られません イエスキリストは 数十年 瞑想をしました 数十年 瞑想を 学んだ後 砂漠へ行って 四十日瞑想しました 出て来て公衆を 教化する前にです 釈迦も同じです 彼は六年 瞑想し 続けて 菩提樹の下で 四十九日間 瞑想しました ついに梵天が現れて ついに梵天が現れて 釈迦に 出て来て 真理を説くよう 勧めた時にです 彼も毎日 瞑想しました それで 経典には しばしば釈迦が どのように 瞑想から出て来て 弟子達にあることを 説明し始めたか 述べられています そうではないですか 経典では 彼が食べて 飲んで 遊んでから 講義に出たとは 決して言っていません 毎回 講義をする前に 彼は瞑想しました これは 釈迦が毎日 瞑想した事を示します

六祖慧能は 「瞑想で 禅は見つからない」と 言いました しかし 彼は毎日瞑想しました 私はこの事実を 本で証明しました  簡単に説明しましょう どういう事でしょう ある人が聞きました 「毎日の瞑想で あなたは見ましたか」 彼は何て言いましたか 彼はその人を叩いて聞きました 「叩かれた時 痛かったですか」と その人は答えました 「はいで いいえ」と 六祖慧能は言いました 「私が瞑想していた時 それを見ました でも見ていません」 つまり 「見た」とは 自分の欠点を見て 「見ていない」とは 他人の悪い行為を 見ていないのです この物語は彼が毎日 瞑想していたことを 示しています 私達現代人は 過去のマスターの例に 従わなければ なりません 彼らには そのような偉大な智慧 偉大なパワーがあり 偉大な悟りを 開いていました それでも 彼らは 瞑想すべきでした 私達は誰ですか 私達は私達のレベルが 彼らのを凌いだとは 言えませんね だから 私達は座禅すべきです 瞑想をするとは 霊修行をすることです

釈迦は私達に 多くの東方西方の 浄土について 紹介し言いました 死後 そこへ行くと 誓いなさいと それなら 仏土には 釈迦の娑婆世界に 降りてくると誓う 衆生がいますか いるなら 私達は なぜ他の仏土に上がる 必要があるのでしょう 釈迦は しばらくの間 この世へ住みに 来ただけで マスターとして永久に 残っていませんでした どの時代にも この世には 異なる仏陀がいます なぜなら この娑婆世界は 無常で 永久の西方極楽浄土の ようではないからです 西方極楽浄土は 永久の世界で 阿弥陀仏が 教主です しかし この世の マスターは往来します だから 現在では この娑婆世界へ 来るのを誓う 衆生がいるのです ちょっと辺りを 見回せば分かります 多くの人々が ここにいます 彼らは願掛けをして 来たはずです 利益を受け取ることが できますから 彼らがこの世に 戻って来たら 修行して 仏陀になれます 彼らがこの世に 戻って来たら 後で西方極楽浄土へ 上がれます そういうことなのです だから この世は 仏国土への出入口です マスター 結婚した 女性が印心したら 誰の家族の五世代が より高い境界に 上がれるのですか 彼女自身のですか または夫のですか 説明して下さい 彼女のと夫のと 両方です でも彼女自身の家族は より多く利益を得ます なぜでしょう 彼女は自分の家族と 血縁関係が あるからです 彼女と彼らには 因果関係と 共有のカルマ(報い)が あります また若干の悪いカルマ (報い)を夫の家族から 借りているので 彼らも利益を得ます でも彼女の家族ほど 深い関係でないのです

ですから 夫も 修行すべきです その方がより良いです

マスター 私は本当に 修行したいのですが 始め方が分かりません ご親切にも教えて もらえませんか

修行したいのですか なら こうして下さい 印心を 申し込みに来て下さい そしたら私が毎日 何をすべきか教えます こんな短い時間では ここで何でも 教える事はできません まだ印心したく なかったら 先に私の本を読むか テープを聞いて下さい 私の教えが 気に入るか見て 気に入れば 私と学びに 来て下さい 気に入らなかったら 良い人でいて 個人的な戒律に従って 修得して下さい それは 盗まず 邪淫をせず 嘘をつかず 殺生せず 酒を飲まず また麻薬や賭博も しないことです これらは 個人的な戒律です 慈善事業を行って 良い人になって下さい 親孝行をし 元首と国家に 忠誠でいて 隣人と自分 そして家族に 親切にして下さい これらは全て 精神的な修得です これらの 個人的な戒律に従うと 将来人生に戻ってくる 時に 私達はなおも 善良な人で 裕福な人で 自由な人になり 困難な事は 少しもありません 私達には病気や 苦痛もありません 従ってそうした行いは 修行とも考えられます あなたが より高いレベルに達し 仏陀になりたければ 私と観音法門を 学びに来て下さい マスター 私の娘は家を出て いつ戻ってくるのか 分かりません なぜこういう事が 私に起こったのですか 私のカルマが 重過ぎるからですか いえあなたのカルマは 非常に軽いです 非常に軽い オゥラック(べトナム) には諺があります 「子は敵であり 配偶者は悪い カルマ(報い)である」 彼女が去ったのなら 行かせて下さい 行きたければ どうぞ 彼女が この世に来る前 あなたは既に一人で 彼女はしばらくの間 あなたとの因縁関係を 築きに来ました あなたとの 因縁関係が終わったら 彼女は去ります 遅かれ早かれ去ります

今日去らなければ 明日 私達は去ります または明後日去ります しばらくして 私達は皆 去ります この世界を去ることを 気にしないで下さい ただし 私の視点で あなたの状況を 見ています あなたにはそう軽く 受け取れません あなたはそれについて 気軽ではいられません 私達には異なる視点が あるからです また 両親は自分達の  子供を愛しています

彼女を深く愛していて 当然 心配します 家に帰って 仏陀に祈って下さい 彼がお嬢さんを家に 送り届けるでしょう 善行をし 慈善活動をし 功を奏すか見て下さい この人の質問です マスター 心をクリアにし真我を 明らかにするとは 心とは 私達の元々の心です または私達の真我です 私達は この肉体ではなく 精神的な存在です 仏陀である者です 輝かしく 素晴らしい者です しかし たった今 この肉体としてしか 自分自身を見てません またこの世の 他の物質的体や 具体的な事物しか 見ておらず 私達の真の本性を 見ていません 私と印心を受け 私と観音法門を 修行したら 何が真我か 見えるでしょう それはこの汚染された 体ではありません この世界は そんなに暗くなく 苦しみに満ちてないと 自分自身の素晴らしい 本性と高い精神状態が 見えるでしょう その時 心はクリアになり 真我が明かになります 心をクリアにし 理解すれば 本当に 私達が誰か見えます その時 私達は公案を解く 必要はありません もう分ってるからです あなたに全ての平和と 幸福を 仏陀があなたに祝福を ありがとうございます

 
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