それでは温かい拍手で スプリームマスター チンハイを お迎えしましょう 牧師さんのようで とても美しいです ありがとうございます
本日は 市長に お越し頂いています 施市長もまた この会場に スプリームマスター チンハイの講義を 聞きに来られました それでは 温かい拍手で 施市長もお迎えして お話を頂戴しましょう どうぞステージへ では 温かい拍手で 施市長を お迎えしましょう
わが台南市を訪問の スプリームマスター チンハイを歓迎します 大変嬉しいです これだけ多くの市民が 幸せで平和な生活を 皆が送れるために 社会の浄化を 願っています この事で 私は大変 嬉しく思います 選挙の時 市長に 立候補していた時 スローガンを皆様は 覚えているはずです 「心の中に 神があり 愛があるべきだ」と 選挙活動の際 私も言いました 「心中に神がいてこそ 愛が持てる」と 今日 スプリーム マスターチンハイの 訪問は 台南市の 栄誉となります 都市が より平和で 調和したように なることを示します
皆様の貴重な時間を 取りませんので マスターチンハイに 再度感謝します 台南市と台南市民に 幸せで楽しい日々を 加護を与えて下さって お越し頂き 本当に感謝します ありがとうございます 大変お若い市長ですね 三十歳ですか 三十八歳です たった三十八歳 たった三十八歳で すでに市長です 素晴らしいです ありがとうございます 大変お忙しいのに この講義においで 下さいました 光栄です 阿弥陀仏 ありがとう ようこそ 施市長に感謝します そのような 心からの励ましを 与えて下さって マスター こんにちは 在席の皆様 今日は釈迦牟尼仏の 生誕日です
全国各地の寺院で 盛大にお祝いを 行っている中 私達はここで 真の仏陀と共にいます このような 意義深い日に 私達は 在世仏である スプリームマスター チンハイと共に いることができます とても特別です 釈迦牟尼仏は 楞厳経の中で 在世のマスターに 会うのは非常に難しい と言いました ですが今日 私達は出会いました 明らかにそれは 私達が累世 積んできた功徳だと 言えます またはマスターの 慈悲とも言えます 霊修行の際 必ず本当に開悟した マスターを探すべきで 道に到達したマスター 在世仏を 探すべきです でないと 一日二十四時間 瞑想し続けても 苦行を修行しても 大した結果は 得られません
印心したばかりの 修行仲間でさえ 多くの良い体験があり すべてを話すには 話が尽きません では 温かい拍手で ブラザーのお話を 伺いましょう 修行の心得と体験を 語ってくれます ブラザー どうぞ こんばんは マスター 尊敬すべき出家者 会場の皆さん 今晩 スプリームマスター チンハイの神聖な 講義に参加できて 光栄で有難く思います この機会を借りて 霊修行の上での 個人の体験を簡単に 分かち合います 仏教では 霊修行に 四つの困難があると 言われます 人間に生まれること その地に生まれる事 法(真の教え)に触れ 学べる地にです
また 開悟したマスターに 出会うことです 今 私達は 幸運にも 人間としてこの地に 誕生できましたが どのようにすれば 法(真の教え)に触れ 開悟したマスターに 出会えるのでしょうか 今夜 わずかですが 私個人の経験と 開悟したマスターを 認識する方法を 共有したいです およそ十二年前 機会があって 道教を交えた 仏教の本を読みました それ以来 取り付かれたように 仏教を学び 道教を探索しました しかし私の智慧が 開いていなかったため 頭脳のレベルに留まり 約二年間続きました
その後 秘奥な仏教の マスターから学び 瞑想も行い 約二年間でしたが 宝物に欠け 不正確な修行を 行っていました ほとんど悪霊に 取付かれたようでした 毎日 悪夢ばかりで 心身共に 大変苦しみました 幸運にも 理性を 失っていませんでした 当時 突然目覚めて 瞑想と修行を すぐに止めました その後 再び瞑想に 挑めませんでした ただ仏教経典を研究し 正しい道を 探したかったのです 仏教経典は 理解するには 難しいからです また 家族の一人が カルマ(報い)の病に遭ったため この時 再度 開悟したマスターを 探して 指導と助力を 求めたかったのです
それで他に 二人のマスターを探し 一人は秘奥な 仏教マスターで もう一人は公開の 仏教マスターでした カルマ(報い)を 取り除くため 公開の仏教マスターは 毎日 大悲咒を 唱えるよう教え 法華経を 観音菩薩の名を 普門品を唱えて 仏陀を拝むよう 教えました 長い間経た後でも 私は何も 得られませんでした その代わり 無形の重いものを 背負っている 感じがしました
約二年前 ふと屏東で 数語 書かれたポスターを 見かけました 「即刻開悟 一世で解脱」 このポスターに深く 引き付けられました 驚くほどポスターに 特別な加持力があり マスターの講義を 聞きに行くよう 私を導きました
マスターの講義を 聞いた後 二つの重点が 電撃のように 私の心を打ち その場で印心を 決意しました 印心は 私の 全人生を変えました 理由は二つ まずマスターの話では 弟子が瞑想の時 魔に取り付かれたら 弟子の間違いでなく 先生の過ちであり 守る力が足りない ためだと言いました 第二の重点は マスターには鍵があり 印心の後 即刻に開悟し 一世で解脱できると 保証しました 従って マスターの講義を 二回聞いた後 待ちきれず マスターに従い 屏東の山地門で その夜 印心を受けました それ以来 マスターは 私の人生を変え 私は生まれ変りました
この二年間 毎日マスターの 恩恵に感謝し 静かに修行して より自信を持って 仕事ができました いささか 困難も ありましたが 試練に向かいました けれど無常の人生に 真の永遠があり 辛い人生に 永遠の幸せがあると 体験できました 昔「布袋」という 僧侶がいて 実は菩薩であり 神聖な誓いを 果たすために この世界に下りたと 言われています 彼は常に 杖と布袋を持って よく唱えました 「この布袋を 朝も夜も抱えている それを下ろせば なんて楽だろう」と けれど彼が大衆の前に 姿を現すと 誰も彼を 認識できません
仏教では 朝晩の経典の朗読で こういった 一句もあります 「あらゆる仏陀を 知りたいなら 真の境界にいる 原初の本質を 熟考すべきである すべては心によって 造られる」 それもまた 仏陀を理解するには 彼の教理から 始めるべきだと 教えています ですが今 本当に 開悟したマスターが 私達の前にいても どのようにして 見分けますか 開悟したマスターを 見分けるには 外観からでは 内面の性質を 見るべきです
開悟したマスターは 嘘は言いません
開悟したマスターだけ 約束してくれます ここに七点 個人の修行体験による マスターの識別法を 皆さんの参考として 提供します 第一に 開悟したマスターは 必ず人々のカルマ (報い)を処理し 悪いカルマ(報い)を 断ってくれます 第二に 開悟したマスターなら 十分なパワーで 霊修行する間 弟子の安全を 守ってくれます 第三に 開悟したマスターなら 無限の化身があって 至る所に遍在し いつでもどこでも 祈れば応えてくれます 第四に 開悟したマスターから 印心を受けた後 即刻に開悟します 開悟したマスターは 一世で解脱できて 仏陀の境界に到達 することを保証します
開悟したマスターの 教理と伝授する法門は 古くからの マスターの教理や 経典に記載された 教えと一致します
開悟したマスターなら 身 口 意 (行動 言葉考え)を 浄化すること
生涯の菜食の持続 五戒を守る 日々の 瞑想を教えます このことから 古代の 修行する 多くのマスターは 霊修行しながら 世俗の楽しみを 享受するものは いないということが 分ります 第七に 開悟したマスターから 印心を受けた後 それに従って 修行すれば 内在の体験を すぐに得られます これらの体験は 経典に記載された ものと確認できます 瞑想した後 心身は非常に穏やかで 心地よく感じます 不快感はありません 以上が 個人的に マスターを認識する 方法です 観音法門を修行する 最大の目的は 開悟 解脱 成仏です
ですが霊修行の過程で 通常の人々が 理解し難いことを 私達は体験します 登山のように 目的地に達するまで 途中の道に美しい 景色が広がります こういったものは 自ら経験した人だけに しか分りません 今からさらに 少しの経験を 分かち合います まず 印心後 心身がとても リラックスして 幸せになります 私の経験上 マスターが 私の過去何世もの カルマ(報い)を除去してくださった ためです 第二に しばらく 修行を続ければ 明らかに感じます
一日でも 瞑想しなければ または不足すれば 心地悪くなります 従って マスターが 過去のカルマ (報い)を除去してくれたとしても 毎日の生活で 些細なカルマ(報い)が 残っているため 私達は自身で 浄化すべきです 瞑想した後の感覚は 言い表せず 天の甘露水により 洗われたようで 非常に爽快です 第三に よく聞かれることは 生まれてくる 悪い考えを 除去する方法です 私の経験上 頭脳に悪い考えが 現れた時はいつでも 他の考えが言います 最初の考えは 悪い考えで 仏陀からでなく 魔からの考えだと 私は常に 内面の 悪い考えに言います
その時 悪い考えと その後の考えも 両方消えます 悪い考えは 波を立てる 泡のようです 他の何かを加えれば すべてが静まります それで悪い考えは もはやありません それが私の感覚です マスターチンハイが 話したことを 証明するかのように 私達の中には二つの 品性があります 一つは 仏陀の品性 もう一つは 魔の品性です 二種のパワーがあって 肯定的なパワーと 否定的なパワーです 第四に 印心後 しばらく 修行を続ければ 生活は自然と 変わった気がします 例えば 前のように 落胆しません より自在で幸せです
楽しくないことを 簡単に探したり しません 少し面倒が起きても すぐに離れます さらには 多くのことを 気にしなくなりました 簡単に満足します どんな状況でも より簡単に 順応できます あまり苦しいとは 思わなくなります 外面の幸せもそれほど 執着しなくなりました 様々な人に対し 比較的 外見だけに こだわったり 分別しなくなりました よく心の中で思います 他人も修行していたら レベルは私より 上かもしれないので 他人を批評する 理由がなくなります 第五に どんな事をしても より自信が持てる ようになりました
特に難しいことに 遭遇した時 常に マスターの 助けを黙々と求めます 時々 奇妙な 解決法を見出します それで驚きます マスターのパワーは 遍在しています 維摩詰経の中で こう言われます 「菩薩は衆生のために 生死の輪廻に 戻ってきた 生死ある所には 病気がある 衆生が病気となれば 菩薩もまた病気となる わが子がいる 両親のようで 息子が病気なら 両親も病気となる 息子がよくなれば 両親もよくなる 従って 菩薩の病気は 慈悲ゆえに生まれる」
以前 経典を読んだとき 言葉はそれほど 難しくなくても 本当の意味は 理解できませんでした マスターが智慧を 開いてくれた後 そしてしばらく 修行を続けた後 自然と気づきます 今まで分らなかった 経典は 智慧が開いていなくて 表から 見ようとしたため 分らなかったのです 言い換えれば 実相の世界から 内面から見れば 簡単に経典の意味を 理解できます 例えば 金剛経の中に 一文があります 「諸法(真の教え)は 皆平等であり 高低はない」と 簡単に見えても 前まで意味が 分りませんでした
いわゆる 「諸法(真の教え)」は 衆生を表すべきですが なぜ衆生が平等なのか 分りませんでした 後になって 内面の智慧から 理解しようと試みると 「衆生」は 人類に限らないことを 理解しました 衆生に皆 仏陀の本質があるなら 内在する 仏陀の本質は 平等になるはずです それらの衆生が どんな事をしても 同じ因を作れば 同じ果を得ます これもまた一種の 内面の平等です この観点からすれば 容易に理解できます 「諸法(真の教え)は 皆平等である」と言われるわけです 特にマスターのような 仏陀の場合 彼女は 愛で衆生を見ていて 身分が高いか低いか 裕福か貧困かに 関係なく 皆を平等に扱います これこそが本当の 平等だと感じます 最後に 皆さんに 報告したいことは 今日機会があって スプリームマスター チンハイの講義が 聞けるのは 非常に 稀有なことです 私達各々の智慧を 開くには 鍵が必要です
今私達はスプリーム マスターチンハイが 私達各人の智慧の扉を 開く鍵を持っていて それを得るかどうか 決めるのは 私達次第であり マスターが 決めることではないと 知っています 経典にはそのような 機会は非常に稀で 数千から数万年という 永遠の時間に一度しか 巡り会うことが できません もちろん ここに 法(真の教え)を 聴きに来て マスターの教理を 受けいれて 印心したいと望む限り マスターは 全て平等に愛を込めて 彼らの世話をします ですから私は皆さんに 法(真の教え) を学び 印心を受ける この好機を 逃さないように お勧めしたいのです 最後に 仏陀に人々の加護を 祈りましょう ありがとうございます お話をして頂き 大変有難うございます
それではスプリーム マスターチンハイに 講義をして頂くように お迎えしましょう ありがとう 少々お待ち下さい次に 鐘がお話を読みます ほんの数分 お時間を頂くだけです
この話は私達にとって 大変ためになります
真の悟りを開いた 禅マスターの 驚くべきパワーを 理解するのです お話はこうです 唐の時代 馬祖道一という名の 有名な禅師が いました 彼の隣人も また僧侶でした この僧は非常に 狭量な心の持ち主で 馬祖同一に レベルの高い 弟子がいて 良い講義をする事に 嫉妬していました それでその僧は 馬祖同一の事を よく誹謗中傷しました ある日の真夜中 閻魔大王が 派遣した二人の死霊が 僧の家の扉を 叩きました 僧は答えました 「何ですか」 死霊は「閻魔大王が お前を逮捕するよう 我々を遣わしたのだ」 僧は尋ねました「なぜ 私は六十七歳で ずっと仏陀の教えを 広めるため 懸命に励んできました 人々の質問に 最良の答えを出すため 四十年に渡って 講義をしてきました
機会があればいつでも 人々を仏教に 帰依させるために 仏陀の教えについて 討論をしてきました 懸命に努力しました でも私はあらゆる 種類の討論と人々の 質問に答えるのに あまりにも 多くの力を注いだため 修行の時間が ありませんでした なぜあなた方は私を 捉えに来たのですか」
死霊は言いました 「この四十年間 お前はずっと 経典の説明をしてきて 霊修行をする 時間がなかった 今お前が修行を望んで それが何になる 咽喉が渇いた時に 井戸を掘ることを 考えるようなものだ もう手遅れなんだよ お前も言っただろう 自分はいつも 人々の頭脳のための 質問に答え 討論に参加していたと 非論理的なことだ なぜなら経典には こう書かれている 「我々はまず 自分自身を救ってから 他を救い 自身が解脱してから 他を解脱させ 自身が克己してから 他を同様に 克己させるべきである 我々はまず自分自身が 平和で満足すべきで
そうしてはじめて他を 平和で満足させられる 他を浄化する前に 自分の脳を浄化すべき 他を涅槃(最高の天国)に 連れて行く前に 自分が行くべきである 他を幸福にする前に まず自分が幸せに なるべきである お前は自分の頭脳を 静寂にして来なかった どうやって他の人々を 霊修行で救えるのだ お前の心は 解脱するのに十分な程 純粋ではなく 討論する雄弁さが あるだけだ これは間違った方法で 仏教を教え 人々を欺いている これによって 閻魔大王は非常に怒り お前を逮捕しに 我々を遣したのだ
大王はお前をすぐ 「刀樹林地獄」に 行かせるつもりだ だからお前は舌を 切り落させる 残酷な罰から 逃げられなしない 仏陀は言われた 能弁で教えることは ただ僅かな知性を使い はかない論議に かかわることだと 従って ある者には 多くの障害が生じ ある者は自身の心に 集中できないのだ 自分の心を 集められないなら どうやって公正な道が 分かるだろうか 間違った知性を 使うとあらゆる 悪いカルマ(報い)をつくるのだ 四十年間 お前は 口を使って悪いカルマ (報い)を造り出して来たので 地獄に行くべきだ 今すぐ一緒に ついて来い さもなければ 閻魔王は我々を 罰するだろう
二番目の死神は より慈悲深かったです 彼は言いました 「閻魔王は長い間 これを知っていました なぜ 一日 修行する機会を 彼に 与えないのですか」 最初の死神は言います 「いいとも お前に一日与えよう では地獄に戻って 閻魔王に報告しよう 彼が許すなら 我々は明日また 来よう 彼が許さないなら すぐにお前を逮捕する つもりだ」 太陽が昇る前に 住職は開元寺に行って 戸を叩きました 門番が彼に尋ねました 「誰ですか」 住職は言いました 「私は大安寺の住職で 馬祖大師に会いに 来ました」 門番は戸を開けて 彼を入れて 馬祖師に会わせました
住職は 何が起こったかを 馬祖大師に話しながら 床の上に平伏して 彼にお辞儀しました その後 立ち上がって 言いました「私は 生死の境に立ってます どうしたら良いですか どうか慈悲深く私を 救ってください」 馬祖大師は住職を 彼の側に立たせました 太陽が昇ったとき 二人の死神が 大安寺に来ましたが 住職はどこにも見つけ られませんでした それで彼らは 馬祖道一が住んでいる 開元寺に来ましたが また彼を見つける事が できませんでした それで彼らは地獄に 戻らねばなりません 実際 馬祖と住職は冥府の 使者を見ましたが 使者は彼らを見る事が できませんでした ありがとうございます 分かりますか (はい)
馬祖道一は 偉大な禅師でした 彼のパワーは全宇宙を 網羅するので 閻魔王は彼を 捕えられませんでした 仏陀になる利益は そのようなもので 自分を 救えるだけでなく 他の者のためになる ことができます 私たちがどんな罪を 犯したとしても どんな種類の地獄に 行くことになってても どんな罰を受けねば ならなくても 私たちが悟りを開いた マスター 例えば イエスか 釈迦仏陀に 帰依すれば 彼らに従って 修行をするなら 閻魔王は私たちを もう見つけられません
私達はもう彼の リストにはいません 私達の身体がまだ ここにあるとしても 私達はもはや 人間ではありません もう彼の支配下に 置かれていません 閻魔王は とても強力です 彼は 三界を支配し ただ第一界と 物質界だけでなく 第三界以内のすべてを 支配します 第三界は 阿修羅界 因果の世界および 梵天を含んでいます いわゆる 梵天の境界は 非常に偉大な 第三の天国を 示します しかし そこでさえ 閻魔王の支配から 逃れられません 彼は功徳と罪だけを 考慮するからです 分かりますか 彼は
どの位の福報 または 罪があるか数えます 彼は私たちが高官 大僧侶 または世間の 一般の人であるかを 気にかけません
ほとんどの人々が 多くの経典を暗記し 多くのマントラを 覚え 多くの 異なる理論を研究 すべきだと考えます それで彼らは 素晴らしいと思って 彼らが知っている すべてを 他の人々に言います 彼らはこれが 法(真の教え)を広めることと思います 弘法がこうであれば 今の話はあまり 理解できないでしょう 馬祖道一は 中国で最も素晴らしい 禅師の一人でした 皆が彼を知っています 彼の外観から 隣のマスターと同じで あるように思えました 彼らは 同じ地位を持ち いわゆる仏陀の教えを 広げるような 同じことをしました でもなぜ馬祖に助けを 求めなければ ならないのでしょう この師は表面的な 理論しか知らず 真髄を 知らないからです 馬祖道一は 真髄を得ています いったん真髄を得れば 経典を読む 必要はありません
私が言いたいのは 真髄を理解せず 経典を 勉強するだけでは 役に立たないということです 真髄を理解すれば 経典を知らなくても 構いません
第六祖慧能禅師は 字が読めないことを 覚えていますか 慧能禅師は漢字が 読めませんでした 字すら読めないので 経典もまったく 知らないです 彼は金剛経の 経文を少し 聞いただけです しかし 彼は 道を得たので 経典に精通した人も 博学な人も 彼に追随してきました 経典は知っているが 真髄を 理解していない 人たちが皆 彼に聞きに来ました 例えば 仏教の教えを 勉強した尼僧は 涅槃経について 慧能禅師に 聞きました 慧能禅師は「この 経を聞いたことは ない」と答えました 今日では 誰かが こう言ったら 必ず 異端者だと思われる でしょう
涅槃経すら知らないの ですから 慧能は「聞いたことは ないが 読んで くれれば説明します」 と言いました 本当にそうでした 慧能は聞いた瞬間 すべての経文を 理解しました 以前読んだことすら ないが 慧能禅師は すべての経文を 説明出来ました 開悟した人は すべてのことを 知るからです 知らないことは ありません 小さなことも 知っています 例えば 運転 手術 注射のことまで 知っています 全く習ったことのない ことも 知っています 何でも知っている と同時に 知りません 何でも自然に やるだけです 智慧を得られます ですから老子は 「賢者は愚者の如し」と 言っているのです
老子はまた 「知らずに知ることは 真に知ることだ」と 言っています 表現は 紛らわしいですが 混乱してはいけません
仏陀になることは どんなでしょうか 知りたいですか
私達は仏陀になる 必要はありません 既に仏陀だからです ではなぜ私達は無明に なったのでしょう 私たちは自分が 仏陀であることを 知らないからです 無明なのは誰ですか 私たちの頭脳です 私たちが集めた情報は 頭脳に蓄積され 習慣を形成し 私たちに いつも同じように 行動させます これこそ無明です 私たちの習慣です 自分をこれらの 習慣だと見なします 例えば 「私は 唐辛子が一番嫌い」
「タバコが好き」 この「私」は誰ですか 私たちは生まれた時 タバコを吸いません 私たちは生まれた時 唐辛子を食べません 唐辛子を食べタバコを 吸うのは「私」ではなく 私の習慣に過ぎません この習慣は真我では ない 分かりますか
霊修行者は 明確に理解し 正しい概念を 持つべきです 最も高い境界に 到達するためです さもなければ たとえ何十年 修行していても 損するばかりで 全く役に立ちません 精霊 亡霊 または仏陀への信仰は 全部迷信です 最大の迷信は 自分自身を 信じない時です 本性を知らないことが 一番大きな罪です 私はいわゆる聖典を 沢山読んできました 東洋のから西洋のまで すべてが観音法門は 最良だと言います 観音法門は実際 法門ではありません ただ私達が振り向いて 私達自身を見ることに 過ぎません それだけです
私達が 誰なのかを見るのです 私達がこの体では ないことを見ます 私達は 私達の行動 習慣や先入観では ないことを見ます 私達は他の何かですが これはまだ過程です 後に高い境界に行けば 何も言う事ありません
私には 誰も何も言う べきではありません 皆演じているだけです ドラマを演じていて 私達は偽りの場面が 現実に変わるのを 見ているだけです それで 私達は魅了され 自分自身を騙します
それでこのように 演じ続けるだけです しばらくすると 目覚めて 「家」に帰りたい事に 気づくでしょう でも「家」に帰りたく なくても大丈夫です 私たちの本我は ずっと「家」にいます
地球に降りて来たのは 遊び回っている 影にすぎません 元々何もないのは 真実です
皆が仏陀だと分ります どうして皆さんは 分らないのでしょう それで自分が 苦しんでいると 愚痴をこぼし続け いつ仏陀になれるか 聞き続けます いつ? 何曜日? 皆大声で不満を言い 私は「それはおかしい 皆さんは既に仏陀で 他の何になりたい ですか」と聞きます 他の何ものにも なれません 皆さんは仏陀です 幻覚の中にいるだけで 戯言ばかり言います 誰も本当に苦しんで いません 真我は 苦しまないからです それは私達の幻想 誤解にすぎません そうです 本当に誰も 苦しんでいません 私にはそのようです
こんにちは マスター
仏教の本では こう言います 以前 頭のまわりに ほの暗い光のある人は 釈迦牟尼仏陀を見たり 彼の説法を聞いたり した後 光がより 明るくなり始めます 明るくなり始めます なぜなら彼らの心が 仏陀の金色の光で 開かれたからです ある人はすぐ阿羅漢の レベルに到達します つまりスロタアパナの (流れに入った人)のレベルです これはマスターが 講義と印心を行う時 起こったことと 同様でしょうか 全ての仏陀はこんな 人を悟らせる偉大な 力を持っていますか ええ
彼らが仏陀と 呼ばれる所以です そのような力が なければその人は 仏陀ではありません 必ずしも講義の際に 常に「心」が開かれる わけではありません ある人の心は 私の講義の最中に 開かれ ある人は私の本を 読む時に悟り ある人は印心の時 悟りを開きます それぞれ違います ある人は成就するのが 早く 他の人は遅く 例えば 印心する時などです ある人は 私の講義を聞いて 悟ります ある人は家で私の本を 読んで開悟します 今までに私を見たり 会ったりしていません
ですから皆異なる 速度がありますが 結局は皆 開悟します マスター 私はこう 聞いています 印心後 弟子が戒律を破り 意図的に肉を食べる ようになったら 非印心者よりもっと 重い応報で 苦しむ事になると これは本当ですか そうです なぜでしょう それは皆さんは今生で 解脱したいからです 私は皆さんに 今生で解脱すると 約束したので 皆さんはこれ以上の 悪いカルマ(報い)に耐えられないのです それを清算する更なる 人生がないからです
今生ですべて 清算しなければ なりませんので 悪いカルマ(報い)が多ければ多いほど 多く払わなければ なりません 一回で全部清算 としようしたらもっと 苦しむ 分かりますか ですからもっと 報いで苦しむでしょう それは仏陀の心が 冷たいわけではなく 彼は実はとても 慈悲深いのです 全部清算させて くれるからですが
それを受け入れられる かどうかによります それが非常に苦痛に なる理由です マスターは印心の時 私達の前世からの 悪いカルマ(報い)を 背負って下さいますが 私達は今生で定まった 悪いカルマ(報い)を清算しなければ なりません 仮にある人は 三十年間肉を食べて タバコを吸って 酒を飲んで 嘘をついたとしたら 今 彼は懺悔し 印心の日に これらの戒律に 従い始めようとしたら 今生で過去三十年間の 悪いカルマ(報い)を 全部清算することが 出来ますか 全部払い戻す前に 彼が死んでします 可能性はありませんか 私は全部清算します
何でもありません マスター こんにちは 経典にはこう言います 仏陀と菩薩は より高い境界を 明確に説明できます 彼らは既に 悟りを開いたので 従って彼ら自身の 体験を私達に教える ことが出来ます マスターも同じ方法で 悟りを開いたのですか それゆえに 法(真の教え)を ご自身の体験から 教えて下さいますか
同じだと思いますか (はい) マスター 彼は寝る時 明かに意識を感じるが 体が麻痺していて 動かせません これは彼の魂が既に 他の境界に行った事を 示していますか これはサマディーに いるのと同じですか 場合によって違います あなたがどんな体験を したかによります ただ麻痺を感じる だけでは不十分です あなたにはいくつかの 体験が必要です 時には 心臓発作でも 麻痺を感じますので 何でもありません あるいは 病気で 酸欠になっても 麻痺を感じられます ですので それは 全く意味ありません
場合によります あなたに意識があって 景色や光が見えて 智慧を得るなら サマディーにいます 偉大なスプリーム マスター 私は天道に属していて 修行仲間の話によると 天道は一九四五年に ここに入ってきた そうです ある法要の時 ある仙人が 現れて人々に 二十世紀末に 観音菩薩が 南海からこの世界に 戻ってきて 戻ってきて 人々の霊性の高揚に 対する渇望を満たし 天道のメンバーを 救って家に連れて帰る と告げたそうです 今がまさに 二十世紀末で スプリームマスター チンハイが その慈悲深い 南海から来た観音菩薩 なのです 数え切れない生涯に わたってこの世界に 降りてきました
この世界を蓮華の 王国に変えるまで 涅槃(最高の楽園)に 戻らないと 願を懸けたからです 今また戻って来ました 私達天道のメンバーが この解脱できる 機会をよく利用して 頂きたいと思います 例の先輩の 修行仲間と 彼の家族は皆 印心を受けています マスター 釈迦牟尼仏や 観音菩薩が存命の時 彼らも弟子達の 前世の悪いカルマ(報い)を 持ち去ったのですか 仏陀は皆これを しますか はい そうでないと 悪いカルマ(報い)は どこに行きますか 釈迦牟尼仏は 一人の人の悪いカルマ(報い)に 形があるとしたら 全宇宙を以ってしても 余るほど多いと 言いましたね
それはどこに行ったか それは突然 消えたのでしょうか 違います それを処理 しなければなりません ごみと同じで 独りでに消えることは ありません 誰かがそれをどこかへ 持って行き燃やします 彼らが燃やすのです 私達の世界では 原因があると 結果が出てきます 聖書でも言います 汝が蒔いた種は 刈らねばならないと あなたは蒔いたものの 結果を得ます 釈迦牟尼仏の弟子で 九九人を殺した 人がいました 他の人はよく 知りませんが 彼は九九人殺しました 彼は仏陀さえ 殺そうとしたのです それでも 釈迦牟尼仏は 彼を救い 阿羅漢にしたのです
仏陀がカルマ(報い)を 持ち去ったのですか はい そうです それで 釈迦牟尼仏は 誰かに 足を刺されたのです 多くの人の 過去の悪いカルマ (報い)を 彼が払ったからです 彼は弟子達が 印心を受ける前から徐々に 彼らの悪いカルマ (報い)を払い始めます 印心してからでは ありません 印心を求める以前に マスターはすでに 彼らの悪いカルマ (報い)を洗い始めます 分かりますか それ以外に洗い落とす 方法はありません
仏陀はこんなにも 慈悲深いのです しかし人々は 他人の悪いカルマ (報い)を持ち去る事が できないばかりか 衆生を傷つけ 戒律をも破っても 恥かしく感じませんね 私達が真剣に 仏陀に学ぶと いつか仏陀のように なりますか なぜなりませんか 仏陀のようになります マスター 開悟するには必ず 在世の仏陀に印心を 受けるべきですか だとすると なぜ人は印心を 受けていないのに 開悟の体験が あるのですか 例えば 他人の前世を 見るとか 経典に記載されている 内面の境界を 見るなどです ある人が 独りで開悟し 在世の仏陀の 加護と教えがないと 危険で 魔に取りつかれますか 開悟したマスター なしに開悟したなら それは おめでとうございます ただほとんどの人は できません とても稀です
全世界で たった一人か その半分か 三分の一ぐらいです 自分で模索する場合 ほとんどの人は 魔に取り付かれます ある人が 開悟したマスター なしに開悟した場合 多くの原因があります その原因の一つに たぶんその人は 偶然開悟した マスターに 出会ったのですが 自分は知りません 一瞥しただけで 開悟します またはそのマスターの 本を読んだのでしょう そのマスターに会う 必要さえありません
または偶然その マスターの弟子に会い その弟子と一緒に 瞑想した時弟子が マスターに彼を助ける よう祈ったからです このような形で 開悟するのです その人はマスターの 弟子が彼のため祈った ことを知りません 時には 弟子が祈る必要さえ ありません マスターがその人の 因縁を見て その弟子を通して 助けるのです 沢山の様々な 原因があります またその人が前世で 修行して あるレベルにまで 至って そしてその段階で ストップし死んだの かもしれません 開悟したマスターに 会えないと たとえ少し 開悟したとしても 再び今生でこの世界に 戻って人間になり 以前の悟りを 取り戻さなければ なりません 悟りは永遠に忘れる ことがないからです 以前開悟したとすると 今もそうです 以前賢かったとすると 今もそうです
英語の勉強と同じです たとえ数年間英語を 使わなくても しばらくもう一度 練習するとまた 話せるようになります 一度も英語を 習ったことがないと 何もできません これと同じです ですからある人が
マスターなしに 開悟した原因は 色々あります しかしその場合 ある程度までしか 開悟できません これが問題です 最高の境界を 知らなければ 見つけられません 三界を超えることは とても難しいのです 第一界で 立ちはだかられます 向こうには 多くの神通力や 幻想と私達を混乱 させる場面があって 涅槃(最高の天国)を 得たと思わせるのです 誰かが 私達に「そこで 止まらないでまだ先が 長いのだ」と言って くれないとそこで止り 迷子になります ごく少数の人しか 第一界の落とし穴を 逃れられません
三界を超えることなど 論じる余地もないです 殆んどの人は第一界で 留まってしまいます 彼らは千重の蓮華の 境界に留まっています そういうことです 「蓮華国」とも言います 皆がそこに集まります 全員です そうです 最も道徳的で 最も信心深い人 自分で捜し求めた人 間違った法門を 修行した人や 悪いマスターについて 学んだ人達は皆 そこに集まります 皆さんがそこを通る時 そこが満員で身動きも とれないのを見ます 皆そこにいるからです
ですからやはり 教師がいると安全です 教師は多くの所と 高い所に 行ったことがあり それらの場所を 全部知っていて 私達が落とし穴に 落ちないようにします
マスターお元気ですか 「死と再生」 という本で あるマスターは 言いました 前世では動物で 今生で人間に生まれ 変わって間もない人は 祈りを捧げず 瞑想もしないと 今生は 動物よりややましな だけだと言っています また人は 開悟する前に 二人の人が互いに 長く目を見詰め合うと 危険だとしています 無意識に前世の 動物の意識を 呼び起こし その動物性を他人に 移すからです 仏陀の本にも似た話が あります ある日 バラモンの指導者が 釈迦に対し 甘い言葉で自分の 弟子を盗んだと 叱責しました 釈迦は慈悲深い目で 彼を見つめ 何も 言い争いませんでした
後に釈迦は 弟子に ある人が 動物のように怒る時は 論争せず彼の目を 見ないよう教えました マスター この二つの話は 同じことですか 人の目を見ないことですか そうです 私も弟子に 人の目を見ないように 教えています 偶然の一致です これは読んでいません 印刷して人々に見せて あげてください そうです 人の目を見ると 良し悪しに関係なく 影響されます 良い人であれば 良い影響を与え よくない人だと 悪い影響を与えます ですから時々 ある人の目を見た時 とてもいい感じがして でも ある人の 目を見ると 恐ろしく 冷たく 吐き気がし 嫌悪感を覚えます いずれも その人の影響です
彼は言っています ある人の目を じっと見つめると その人が前世 動物だった場合 その人の動物のエネルギーが 別の人に移ると そうです
恐ろしいです 人の目を覗き込んでは いけません
マスター ある人が 前世では動物で 今生で人間になって 運良く慈悲深い 在世の仏陀の 印心を受け 心から懺悔し 修行に精進すれば 彼は今生で 解脱できますか はい 問題ありません それは皆が仏性を 持っているからです すべての衆生が 仏性を持っています それに 開悟したマスターは 不可思議な力を備え 何でもきれいに 洗い流せます 彼らは 大海の如く大河の如く 何でも中に入れると きれいに完全に 洗い落とします
その人は 無数の生涯で 人間だった人に比べて または天から降りて 来たばかりの人と比べ または 前世で 修行した人に比べて その人は 霊修行の面で難しく 障害が多いのでは ありませんか そうですただ本当に 真摯で謙虚であれば 大きな 問題はありません そういった天から 降りて来た人も 必ずしも優れていて 良い品性を備えて いるとは限りません ではなぜ天国に 行ったのでしょうか それは 前世でその人が 何かの功徳を積んで 天国と因縁を 持ったからです
天国に行くことは 簡単です 何か福報の あることをするとか 天の加護を受ける ような事をするとか 布施を施すとか 人の命を救ったり すると 天国に行けます 天国でその福報を 楽しんでから 動物として または 人間の身に戻ります それは今生で 経験すべき カルマ(報い)に よります 分りますか 長い生涯において 時にはここで 良い行いをし 時には ここで悪い事をします 良い事も 悪い事もして 悪い事に遭遇すれば 落ちていき 暫くしてから また良いことに 遭遇すると 上がってきて しばらく享受します 後にまた悪い事をして 再び落ちていきます
そしてまた 良い事に遭遇します 分かりますか 私達は 善悪から自由になる 以外ありません ですから天国から 落ちてきて 人間になったとしても 大した事はなく 他の人よりましとは 限りません その人が遭遇した よい事と悪い事により そうなったのであって 前世のカルマ(報い)に よるものです 誰にでも チャンスがあります 仏陀になった人 すべてが前世で 良い事だけをした わけではありませんし 天国から降りてきた 人が皆 前世で よい事ばかりした わけではありません
そのような見方を してはいけません 敬愛するマスター 話によると マスターの経の講義が 終わった後ポスターを 家に持っていくと 写真に大きな 加持力があり 光を発するそうです なぜですか 私も分かりません そうでもいいでしょう マスター 悪党が力で 善良な人を 苛めたり 強奪したり 殺しては もっともらしく 曰くこれは 仏教で教えている 因果応報だと言います それらの 強奪され 苛められた人は 前世でその人に 借りがあるからです だとするとそのように していいのですか これらすべては 定まった因果ですか そうです ただ後に その人は彼の 借りを取り戻すために 戻って来ます
次にまた彼が 再び戻ってきてそれを 取り戻すというふうに 繰り返すのです 分かりますか 誰も相手を許さず 誰も許してほしいと 思っていないのです
私も人の良し悪しが わかりません 互いに強奪を 繰り返します ですから寛大な態度を 取るのが一番です 分かりますか ただし その人が言ったことは 正しくありません ただの口実です
仏教を侮辱しています 彼が本当に 仏教を信じていれば そうはしません 仏教では人に寛大で ある事を教えています
人を許しなさい 自分が正しいか否かに 関わらずです それからその人は 前世の因果を 見ていないのです 強奪された人が自分に 借りがあるかどうかも 分かっていないのです ですからそれは 意味のない話です そうはいえません その人はとても 悪いカルマ(報い)を創ります
仏教を侮辱し 嘘を言い 強奪して 重いカルマ(報い)を たくさん 作っています ですからそれ以上 悪事はしないことです そう言ってあげなさい たとえ人が前世で 自分に借りがあっても
許すべきだと 実際は借りがあるか どうかも分からず とんでもない事を言い 人を騙しています
それは大嘘です マスター 私は 全ての悩みと苦しみは 外部の物事に対する 心の反応から来るもの だとつくづく思います いかにこの騒ぐ心を 征服しますか 観音法門を 修行することです マスターこんにちは 私の質問は 智慧眼で 仏陀の名を唱えて 境界を見た場合 これは観音法門と 同じですか 同じではありません それはただ 瞑想で光を観ることで 瞑想で音流を 聴くことと異なります 仏教と心霊術の違いは 何ですか それは異なるものです いわゆる仏教は ただ毎日経典を 読み上げることです これは本当の 仏教ではありません
これはただ古代の 人々のことや 仏陀の名を読む事です これは仏陀に学ぶ ことではありません 仏陀について学ぶとは 私達内面の 仏陀に学び 私達自身の仏性に 学ぶことあり自分の 仏性を観ることです これが 真の仏教です 心霊術は 神霊とか幽霊とか いわゆる菩薩に 頼ることです その菩薩が本物か否か 誰にも分かりません どちらも他力本願です 分かりますか 両方とも真の本性を 知るための修行とは 大分違います
マスター 夫婦の因縁は 前世のカルマの (報い)結果ですか すべてが前世の カルマ(報い)に よるものです 夫婦関係だけではなく 両親や動物 ペットの犬と猫 いずれも前世のカルマ (報い)による結果です 人は自分の悪い カルマ(報い)を 自分の功徳をもって 洗うしかないのですか はい ただ真の功徳の ある所を見つけること 唯一自分の仏性を 見つけて 天国の甘露水でもって 洗えるのですす すると自分できれいに 洗うことができます
でないと余りにも カルマ(報い)が多く 無数の生において 沢山の過ちを犯して 今生の少しばかりの 功徳だけではカルマ (報い)を洗い落とす ことはとても無理です 百年経っても 無数の生涯にわたる 過ちを償うことが できません マスターこんにちは 「死と再生」 という本で マスターが言いました 普通の人は 修行しないと 因果応報から脱出する ことができないが 真摯に修行すると 因果応報を消すことが できると なぜなら 智慧深くパワーに 満ちた高貴で神聖な 人に加護され その慈悲深いパワーが 沢山の 悪いカルマの報いを消してくれるからです しかし 真摯に懺悔し 二度と同じ過ちを 犯さないと 約束せねばなりません その精霊の偉大な パワーが私達に同じ 過ちを犯さないように 助けてくれるとします マスター世の中に 本当にそのような 良い事がありますか あります 彼が言った通りです そのような偉大な 修行者を見つけると 彼らは沢山 助けてくれます
完全に悟りを開いた 仏陀だけにそのような 慈悲深いパワーを 備えて人々の カルマ(報い)を消してくれるのですか そうです ではなぜ定まった カルマ(報い)は 変えられないと いうのですか 真剣に修行すれば 定まった悪いカルマ (報い)も変えますか 少しは変えられます 全部は変えられません 今生の因果応報は 避けられません 例えば 前世で 人を殺したとすると 今生で 殺されねばなりません
しかし私達が 観音法門を修行すると 夢の中で 殺されます 分かりますか 実際に殺される わけではありません ですから 避けられないし 変えられないと言うが 夢で起こります それは悟りを開いた マスターに不可思議な 力があるからです 彼らは魔術のように 何でもできます マスター あなたの話を聞いて 私は魅了されました 素晴らしいです 私は天国にいますか マスター 観音法門は 私達の内面の仏陀を 見つけることです それなら 般若心経でいう 観自在も 観音法門ですか いいえ それは観音 法門ではありません 観音法門は語れ得る ものではありません 般若心経でいう 観自在は 観自在菩薩が 観音法門を修行する時 自分が 空になり 五つの 元素が全部無である ことを悟ったことです この話は私の本の 第一巻で述べたと 思います そうですね
「即刻開悟の鍵」 第一巻でその境界を 説明しています それを読んで下さい
マスター私の 無知をお許し下さい どうしたら 心を穏やかにして 本性を養い 心を超越できますか どうしたらできますか (観音法門を 修行することです) そう印心を受けなさい 人が仏陀になって 諸仏は平等だとすると なぜ経典には 今生での功徳によって 異なるレベルの 成果を得ると いうのですか
レベルは違いますが 仏陀になることは 同じです
仏陀になった後は 同じようになります ただレベルが 違います 例えば人が私から 印心を受けてから ある人は修行に精進し 毎日に二時間から 六時間瞑想します 別の人は三十分瞑想し 三十分は眠ります もちろん二人の レベルは異なります 成果は常の こういうものです どれだけ 瞑想したかによって 違った成果を得て 違った境界に 行きます 例えば今 あなたは沢山瞑想して 自分をますます知る ようになり 自分を認識するほど 高いレベルに達して 仏陀のレベルに 達します そして死ぬとき 仏陀の境界に いきます
ただ 三十分瞑想し 三十分は寝るとなると 自分をそれぐらいしか 知らないということで 死ぬ時その程度の 境界にしか行けません 分かりますか もちろん 二人は違います こんにちはマスター 私は 「生死の感得」という 本を読みました 本の中に 釈迦が存命の時 竹林精舎には 一六〇〇人の人が 座ることができますが バラモン寺院とも 違って そこには 祭壇もなく 神仏への お供えもなく 何も神秘的な雰囲気も なかったそうです 見るからに 霊修行者が集まる 場所のようです 竹林の中は 静かで平和で 霊修行するのに 適しています
これは今日の寺院とも 大部違います 経典を読み上げ 祭祀の儀式を重んじる ことと違います マスター 私達が 釈迦がした事をして 悟りを開いて 在世仏になり 修行に精進し 自分の内面の 仏性を見つける方が 釈迦の伝統に より近いのでは ありませんか そうです あなたは 自分で答えています 私達もそれと同じ形で 修行しています 寺院もありません 私はさっき 屏東の川辺から ここにきました そこで私達は 数週間留まりました 簡素な生活です 各自テントで暮らし 石で 手工芸品を作り 売って稼ぎます
ヤムイモを焼いて もらってそれを食べ 毎日瞑想します 寺院は必要ありません 大変気楽な生活を 送っています 寺院があると それに縛られます 寺院は人々を 仏陀にすることは できません 修行に精進し自分の 仏性を見つけてこそ 仏陀になれます 物が沢山あると 時間をかけて 管理せねばなりません すると時間が なくなります 時間がないと 内面の自性を知る 機会がなくなります 従って障害も 多いのです
釈迦が存命の時は 寺院はなかったのです 釈迦が往生してから 人は寺院を建てて 彼を崇拝しました 彼は人に寺院を建てる よう言っていません 彼はいつも歩き回り たまに静修しました 弟子と一緒に 静修したわけです 寺院は建てていません 親愛なるマスター
三月二日に あなたが台北で 経の講義をする時 私は手紙を書き始めて あなたの写真を見た時 光を放っていた事を 報告しました その後 前のマスターと 他の修行仲間の 影響を受けて 光を見ることが できなくなりました 今再び取り戻しました 三月四日の朝 苗栗センターで あなたの全ての写真が 目から多彩な光を 放っているのを見て 失っていた純粋さが 戻って嬉しかったです 午後印心を受けてから 私は生まれ変わった ような感じでした 嬉しさでいっぱいです 私に沢山の経典に 記載されている 超世界の体験を下さり ありがとうございます
以前一緒に 瞑想した 女性の修行仲間から あなたの講義を聞くな と忠告を受けました 私は論争しません 彼女が口でカルマ (報い)を作らないよう 在世の仏陀を 中傷すると重い カルマ(報い)を作るからです 私は私の 子供二人を連れて 出家してあなたに 追随したいのですが 可能でしょうか 家でも修行できます なぜ出家したいですか 出家生活は大変です 川辺に住み テント暮らしで サツマイモを食べ 手工作をやります 在家者と同じです でも望むのであれば 歓迎します 家族の反対もなく 子供もそれを望み あなたもよければ いいでしょう 私は誰でも 出家したい人は 止めません
ノーベル賞の食事 「私の能力である 知性は牛からの 栄養では得られない」 Gバーナードショー 一九二五年 ノーベル文学賞受賞 菜食者
多くの才知溢れる ノーベル賞受賞者は 倫理的な菜食者でした 彼らの知性の ひたむきな探究は よく発達した理念 動物の感性を認めた 強い個人の価値観と 社会としての 持続可能な選択をする 重要性に 基づいていました 。
菜食の生活様式は より効率的で エネルギー効率に 優れています 個人的に 生まれて 此の方 菜食者で それを変えるどんな 理由も分かりません ヴェンカトラマン ラマクリシュナン 二〇〇九年 ノーベル化学賞受賞 菜食者 人々が 無垢な生き物の 血を流す限り 人々の間に平和 自由と調和が 存在するはずがない 虐殺と正義が共に 存在するはずがない アイザックBシンガー 一九七八年 ノーベル文学賞受賞 菜食者 「あらゆる生物に 自分の思いやりの輪を 広げるまでは 人は自身の平和を 見出せないだろう」
Aシュヴァイツァー 一九五二年 ノーベル 平和賞受賞 菜食者 肉の消費を 減らす方向に 移行することは 人類のためになり また確実に 地球の利益の ためになるでしょう ですから皆さんに よく考慮するように 訴えたいのです しかも皆さんは そのような行動を 起こすとき より健康で 気分が良いと感じます だから地球も同じです Rパチャウリ 二〇〇七年 ノーベル 平和賞受賞 菜食者 「菜食料理は 我々の本質に 深い印象を残します 全世界が 菜食主義を選択すれば 人類の運命は 変えられます」 Aアインシュタイン 一九二一年 ノーベル 物理学賞受賞 菜食者 ベジになりエコを実践 地球を救おう ニジェールデルタ地域 かつて居住のあった島