智慧の言葉
 
宇宙のエネルギー 1/3 一九八九年五月八日フォルモサ 高雄(台湾語)    Part 1
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フォルモサ(台湾)の テレビ局に 「心の旅」と呼ばれる 番組があります そこでかつてチベット

ラマ僧との一連の 対談を放送しました どなたか その番組を ご覧になりましたか

私がその番組を見た時 非常に感動を 覚えました なぜか 著名なチベットの 禅マスターの 全ての言葉が マスターの教理と 一致していたからです そのインタビューの 最初のエピソードで 禅マスターは フォルモサ(台湾)の 仏教の修行について 見解を述べました 彼は言いました フォルモサ(台湾)には 多くの寺院があり どの寺院も 多くの崇拝者を 抱えていると でも彼は言いました 私達には十分な 安全はなく不信心だと なぜでしょうか 誰かが あの寺院の神は もっと強力だと 宣言するたびに 皆そこへ押しかけます 道教の探求において 私達は同じ過ちを 犯しています

彼は私達に心から 忠告を与えました 彼は チベットの僧は 開悟したマスターを 非常に真摯に 探求すると言いました それは実際 最も重要な事です 彼は言いました フォルモサ (台湾)の人々は 多くの異なる マスターの法門を学び 全てこれらの マスターは各自が 非常に異なっていると しかし私達は無差別に 全て吸収します 私達は欲が深すぎて 良くないです なぜか 沢山 情報を 吸収しすぎたら ただ自分自身を 混乱させるばかりで 皆さんの霊修行に 障害を及ぼすからです マスターは 真のマスターを 持つ事の重要性を 「即刻開悟の鍵」の 第一巻で 強調しています

また全ての講演でも 開悟したマスターを 探求する事は 重要だと強調してます ですから両者は同じ 考えだということです 次に 禅のマスターは 人間の人生の目的に ついて話されました 皆さんには彼の返答は 思いつかないだろうと 思います 人間の人生の目的とは 死を探求する事と 彼は言いました これを聞いて 衝撃を受けるはずです 通常そんな事を言う 人はいませんから どうして人間の 人生の目的が死の探求 なのでしょうか 私達は理解できません それで 死のその時 私達の各々が 恐れで一杯になります マスターはまた 第三巻でこの事を 論じています

彼女は言います 生まれて以来私達には 勉強の仕方や食べ方 働き方 振舞い方等 教えて くれる人はいますが 私達に 最も重要な事 死について 教えて くれる人はいないと マスターの法門 観音法門は 単純に 人々に死に直面する 方法を教えるものです この部分を読むたびに 私は非常に感動します マスターの法門が いかに特別か 認識したからです 最近 私の同僚の 親戚が口腔癌で 死にました 死の時 そのガンが 突然 破裂しました あまりの痛みに 彼はベッドで のたうち回って 悲痛の死を遂げました そこにいる誰もが その光景を見るに 耐えられませんでした

私が思うに 殆どの人が全人生を 高名や幸運の探求に 費やしています 本当に僅かな者が 数時間 静かに死の 準備をするだけです 私達は死に対し 準備していないので 死に直面した時 非常に恐怖に陥ります 私達は自らが作った 悪いカルマ(報い)に引っ張られ 魂がどこに行くか 分かりません マスターは死に 直面する方法を私達に 専門に教えています

ありがとうございます

それでは 偉大な敬意を持って マスターの講演に ご招待しましょう 紳士 淑女の皆様 こんばんは (こんばんは)

私達中国人は 伝統的な霊修行を 保持しています 私達が霊修行を 始めたのは 「マスターチンハイ」が フォルモサ(台湾)に 来てからだけではなく 常に霊修行の道が ありました ですから 古代の 経典を読むと そこには 道徳上の教えや 霊修行の事が満載です 多くの経典が人々に 霊修行するよう 喚起しています 多くの書籍 老子 荘子 孔子 孟子 墨子等の本があります 私達には 黄帝 堯王 舜王等が います

もっと大勢います 私達も知らない 未だ多くの霊修行者が いるはずです 多くの偉大な開悟した マスターがいて 私達は接触できません おそらく彼らの本は 破られたか 師の存命中 弟子達が その教えを 記録しなかったか 今日まで書籍が保存 されなかったからです でも私達が修行すれば 例えばですが 観音法門を修行すると 私達は古代の 霊修行者と 交信できます 他の様々な境界で 彼らを見る事でしょう 「霊修行」という言葉を 聞くと 私達はこう思います

あるものは頭を剃って 僧になり 茶色か黒い僧衣を 着ているに違いない また あるものは 山の洞穴に隠匿して 世俗の人々と 全く接触せず 野の野菜を食べるか 一日一食しか食べず 藁の服を着て わらじを履き 茅葺小屋に住んでると 私達はこんな風に 霊修行の概念を持ち 多くの人々には この種の考えが あります 皆さん「霊修行」という 言葉を聞くや否や この様なイメージが 心に浮かぶのです そうではありません 全く違います なぜなら もし霊修行者が皆 頭を剃って 僧になったとしたら 家族の血統を受け継ぐ 子供達をもはや 持てなくなります

その様にも働きません そうはなりません 人々には異なる 嗜好がありますから また人々にはそうする 必要があります 国には未だ政治家 大統領 警察官等が 必要なのです それでどこへ行こうと 観音法門を 宣伝しているのです 観音法門の修行は 僧になる 必要がなく 洞穴に住む事を 必要としませんから 未だ多くの人が この世界に留まり 仕事や責務を果たし たいに違いありません それは間違っては いませんね 人間として 皆 責任があります 私達は生死の輪廻から 解脱するために 自らの責務を ちゃんと 果たすべきなのです これらの責務とは 仏教用語でいう 「原因と結果」或いは 「カルマ」と言います

今生の定まった カルマは 私達の過去世の 行為から来ています 私達は 今生での行動 社会的地位 生活様式 を見ることで 私達が過去世でした 善悪の行為が言えます それで 仏教経典では 「定まったカルマ (報い)は変換不可能」 と言われるのです 孔子と孟子両者が 強調しています 私達はこの世界に 留まり 自らの責務を果たし 同時に霊修行を 行うべきであると ある日 孔子は こうした隠者や 社会から隠れた 隠匿者をからかって こうした人々は自身が 障害だと言いました 彼は教えました

全ての局面に対し 自身を開発したいなら 私達はこの社会に 留まるべきであり それで私達は完璧な 衆生になれると 私達は逃げられません 学校をズル休みしたら 書くことも学べず 知識も得られず 教師にもなれません 古代以来 真の霊修行の 法門は この世界と 切り離されません 仏教でも 言われています 「ダルマ(真の教え)は 世俗に存在する」と 孔子 孟子がこれを 言うのみならず 仏教でも同様の事を 言っています イエス キリストを 見て下さい

たとえ しばらく隠れて 四〇日間 隠匿生活を行って 十年以上 他の国々を旅し 真理を探求していても 彼自身 隠れたという 意味ではありません 代わりに 真理を探究し勉強し 完全な開悟に 到達した後で 彼は世俗に戻りました そうですね そして彼は 衆生に交ざって 彼らに教え 霊性面と道徳面で 面倒を見たのです 二種類の霊修行が あります 仏教によれば そこには 「戒律と瞑想」 そして 智慧があります 孔子 孟子は 「道」と「徳」を 強調しました 「道」とは何でしょう 「道」は通りの事です 方法のことで それは私達が求める 目標に到達させます 「徳」とは私達が 社会で果たすべき 責務のことです

孔子もまた 「慈悲 義務 寛容 智慧 信心」を 強調している からです 孟子もまた同じ事を 言っていますが 「慈悲」という言葉は 使いませんでした 彼は「宇宙愛」と 言いました ね 愛 同じことです 無慈悲であれば 愛せません 私達に慈悲がなければ 誰も愛せません 誰も愛さなければ 無慈悲だという事です それらは 同じ意味合いです 釈迦もまた 慈悲深く 同情心を 持つよう教えました イエスキリストもまた 同じ事を教えました 孟子は私達に霊修行を して美徳を積むべきだ と言いました 私達は道徳の訓練を 自身に課すべきです

道徳は仏教では 戒律と 同じものです 慈悲と同情も 同じ意味を表します やはり 孟子も強調しています 私達は「浩気」を 持つべきであると もし「浩気」を 得なくても 私達はただ戒律を 修行します 彼は良い人になるだけ では十分ではないと 言いました それは仏教の教えと 同じで 私達が戒律を守り 集中すれば 智慧を得ます 「戒律を守る」とは つまり良い人になる べきということです 例えば 盗まず 邪淫せず 不正せず 嘘をつかず 賭け事 飲酒をしません 「瞑想」とは つまり 瞑想中 集中すべき ということです

そうしてのみ偉大な 智慧を得られるのです 誰かが孟子に 「浩気」の意味を 尋ねると 彼は解説できないと 返答しました しかし彼は言いました 私達がこの浩気を 修行すれば 私達が理解し 到達すれば この魂は 天と地 全てを 包括するものだと そうですよね 「孟子」を読んだ事が ありますか ええ 正しいですね (はい) ね 有難う

この 「浩気」について 孟子も説明が できなかったのですね 孟子は霊修行者であり 偉大な智慧者でした 彼はいまだに有名です 彼と孔子は 儒家で最も有名な マスターです そうでしょう けれど彼は 「浩気」を 解説できませんでした この魂が空気ならば 彼は解説できます 正しく 天と地から どこにでもあります そうでしょう 水の中にも空気があり 岩の中にも 樹木の中にも 空気があり私達の 人間の体にもです しかしそれは空気の ようではないです それなら彼は呼吸する 空気と言うでしょう でもそうではないです

そこに気が私達の体の 中にあると考えるなら または気功のように これも正しいと 私には思えません なぜなら気つまり エネルギーが私達の 体内にあるなら彼は また解説できるはず でしょう そうですね 気功を修練した人々は 皆 気 エネルギーを 幾らか習得した後 気はそれ自体で回り 始めるでしょうから そうでしょう (はい) 私達は気が ここ そこから 体中から 来るように感じます これを「人間の気」と 呼びます これは「浩気」と 異なると思います 孟子の解説する この「浩気」は 大きすぎますから それはこの家である 肉体の体を回るか 体の周りを旋回するか 限定することは できないものです 多くの人々が気功を 修錬する様に見えます 私自身も以前気功を 修行しました

私はプロではないし 専門家ではありません 少し修練しただけです ですが私は内在の力を 私達の四肢や 手と手の間に 強くしっかりした力を 送れるということを 知っています 私達が両手を使い 人々を打つなら 間違いなく傷つけます それで私はこれは 柔和な修行の種では ないと思いました それですぐ止めました 万が一私の手が非常に 剛健になり私は意図 せず人々を傷つけ得る ことを恐れたのです これは問題になります 修行しないで下さい 私はしていません そういう法門もあると 知らせるだけです

従って私が思うに 孟子が言及したもの 「浩気」は 気の一種ではないです 気はそれでも非常に 限界があるからです これは取り出すことが でき行為によって 実践できるか 働きはあるが 優しくはありません 「浩」(崇高)の意は 広大の意味です これは「太極」と 同じ意味の言葉で 道教のものです 「太極」の意味はまた 非常に大きく巨大で 無限の意味です それは広大と 同じです その上私達は 考えればたとえ儒教と 道教が異なる言葉を使用するのを見ても それらが同じ事を 言及しているのが 分かりますね

それで「浩気」は 何か信じがたいもので 少なくとも「太極」と 同じ位偉大です 老子の言及によれば 又は何か巨大で 「太極」と同じ位 偉大なはずです 単なる平凡な空気では なく内在の気 つまり エネルギーです ところで 気もエネルギーも 体の中にあります そこに存在しないとは 言っていません そこには二種類の 「気」が体内に あります 思うに魂と孟子が 言及したものは 二番目のものです 一番目の気は 「気功」のです 私達は感じる事ができ コントロールできます そして体の部位全てに 送ったり伝えたり できるものです エネルギーを使って この気功を修行した 人は時にナイフでは 傷つきません

彼がこの気を使い 内面を強化し 彼の筋肉を石同様に 硬くできれば 彼らは打たれても何ら 痛みは感じません 彼を傷つけられません ガラスの破片を つきつけてもです 本当に存在します また大きな鉄の棒を 体に突き刺そうと したなら筋肉は非常に 硬くなり突き刺さる ことはありません

すべての気をここに 集め石のように 硬くするのです ナイフでさえ切る ことができません それは非常に強力です この気は役立ちます でもどんな気でしょう それは何か既に内面に 持ち合わせています 誰もが皆保持します この気は私達の 体内の循環の面倒を 司っています 暖かくし 毒物を排出します 汗や涙のように 私達の排泄組織の ようです 私達の体の面倒をみて 丁度家の支配人の様に この気なしでは私達は 生きていけません

私達はまずそれに 触れられません その方がいいでしょう 触れられれば私達は 自然の摂理の組織を 妨害することに なるでしょうから 私は見ました でもあえて言いません 私自身何人かの人々が 気功を修行してきて 最後には 彼らは異なることを 見てきました どう異なるか私は 言いませんけれど あえて言わず 人々は 私が彼らを排除すると いうのは恐れますが 本当ではないです これは智慧と 無関係のことです

気功修行者は 智慧に達している ようには見えません もちろん身体はもっと 健康かもしれません 刃物では 切れません でも智慧は 開いていません 智慧を開くのに 気功は使えません この気は内側にあり 身体に属してるからで ある身体エネルギーに 属しています 別の類の気があり それは 制御できません 二番目は私達が制御 する為のものではなく ただ自然に存在します これは最初の気を 制御します ですから 最初の気も その制御下にあります 最初の気がなくても すべての衆生は まだ生きられます

二番目の気がないなら 何も生きられません その気こそ 孟子の言う 「浩気」です 私達は夜の 十二時過ぎに 身体の外に出て 自然の空気を吸い またその空気こそ 「浩気」だと 考える人々もいます 本当ではありません もしそうなら 孟子のよう大賢人は それを説明できたと 言わないでしょう

オゥラック(ベトナム) には「浩気」は 地と天が 一つになった時の 深夜の自然の空気だと 考える 霊修行者達がいます
時々 私達は苦痛では ない 人間になるのも 良いと言いますが 他の人の 苦痛を見た時 霊修行を続行する という願望が生まれ 宇宙の秘密の鍵を 持ちたいという 願望が生れます それでこの世界を変え 親戚と友人を 救うことができます

それが必要だと 私達は思いません 例えば  釈迦牟尼仏が 観音法門を 修行する前 そして彼が  悟りを開く前 彼は王子でした 王宮にはすべてが ありました 感情的にも 精神的にも 充実していました 彼は何も欲望がなく 苦痛や病気が何か 知りませんでした ですから  彼は霊修行の追求に 願望はなかったのです ある日 彼が町を訪れるため 外出した時 多くの人々が 生老病死で 苦しんでいるのを 見るまではそうでした その時彼の慈悲が 目覚めたのです 彼はすべてを癒す

治療薬を 探したかったのです いったん見つけたら 他の人を救うことが 出来ると 彼は思ったのです だからこれは必ずしも 彼だけの目的では ないのです 彼の本当の目的は 他人を救うことです ですから 苦しんでいる人は  確かに苦痛から 逃れるために霊修行を 追求するでしょう 苦しんでいない人も 苦しんでいる人々を 確実に救うために 霊修行を するでしょう 私達が儒家に 属しているなら 孟子の手本に従って 修行をして 「浩然の気」を 維持すべきです 「浩然の気」は 説明できませんし 触れられませんが 天国の扉が開いて 智慧眼が開いたら それが何であるか 分かるでしょう

ただ知っているだけで 説明できないのです それを持ち出し他人に 見せられませんが 貴重な「浩然の気」を 持っていることを 私達は知っています 「浩然の気」を 手に入れた後は  何でも簡単にできます 例えば 当初 お金がなく  それで何をしても 簡単ではなく 米国に行くのも困難で 事業を始めるのも 簡単では ありませんでした 沢山のお金を 稼いだ後は 何をするにも 簡単ではないですか または貧しい人を 救いたいなら 簡単になりますね たとえ自分達に お金が必要でなくても 大丈夫です

お金を使って 孤児 未亡人 高齢者 病人 苦しむ人 貧しい人を 救えます そうですね 同じように いったん 「浩然の気」を得たら つまり本性 あるいは 創造者の秘密を得たら 悪いカルマ (報い)を変え 治すことができます 他の人のもできます 私達が彼らの未来を 変えることができます この人生を変えるのは 簡単ではありません でも実際 大きな カルマ(報い)を縮小でき 小さいのを 解消するのです または 現実を夢に 変えることができます

例えば 「浩然の気」を取得し  創造者のパワーを 得たら たとえ  私達の弟子の一人が 交通事故に遭う運命で 命を失う 予定だとしても 交通事故を夢に 変えるができるのです 夜に 交通事故の夢を 見るのです それだけです それで朝になると 彼は起き上がり 工場へ行き働きます この交通事故が 夢で起こらなかったら その弟子は 命を失ったでしょう たとえ悪いカルマ (報い)が 変えられなくても 少しは変わります または  誰かが交通事故で 命を失うはずでも 最終的には 手の骨折で 苦しむだけです それで彼は数針 縫うだけで済むのです

大きな悪いカルマ(報い)は小さい ものに変わるのです または 本来  その人は過去世の 重いカルマ (報い)のために 地獄に行くはずでした でも私達は 「浩然の気」の力を 持っているので 彼の悪いカルマ (報い)を 少しずつ変えて  少しの間だけ 病気や苦痛に させることで 地獄に行く 悪いカルマ(報い)から変えるのです

ですから霊修行者は 本当に無限の力を 持っていて 簡単に望むことが できるのです そのような場合にだけ 私達は自分が宇宙と 一体だと言えます

宇宙と一体でない間は 私達はただの 人間にすぎません ただの人間なので 人間の能力しか 持たないのです 皆さんは人間の能力が 非常に限られたものと ご存じですね 肉眼で壁を通して 物を見ることも 耳で非常に遠くの音を 聴くこともできません 離婁のように 視野を特別に 訓練していてもです 太古の昔 黄帝の時代 離婁と呼ばれる 人物がいました 彼は非常に遠い所を 見ることが出来ました 数キロ遠くに置いた 数本の髪の毛を はっきり見ることが 出来たのです 彼の優れた視力でさえ 宇宙には及びません

他にも確か 師曠という名の 人物もいました 彼は異なる音楽の 調べを正確に告げる ことが出来ました でもある人が彼に 君は内在の神秘的な 音楽については何も 知らないと指摘します 内在の神秘的な 音楽は「浩然の気」で 自性や仏性 天国のパワーなどと 呼ばれるものです これこそが私達が 手に入れたいものです

私達はこの人生で 非常に無力です 沢山の良い事を したいと望んでも 果たせません 十分な 力がないからです そうでしょう 時に隣人達が ひどく苦しんだり 重病に罹ったりして 私達に少し自分達の 面倒を見て欲しいと 望みます でも私達にどれほどの 余力があるでしょうか 自分達の家族を 養うので精一杯です 私達には夫や妻 子供達がいて 生活費を稼がなくては なりません 今日の社会では 一人の稼ぎでは 十分ではなく 夫婦が共働き せねばしなりません 自分達の 子供の世話も 十分出来ないのに 隣人の子供の世話など とても手が回りません 本当に悲惨です 私達が隣人を助けたく ないのではなく 能力が本当に 限られているのです

ですから時々私達は 不安を感じ自分自身を 責めてしまいます 本当に助けたいのに 出来ないのです それで嫌になったり 何か間違っていると 感じますが現状打破の 手立てがありません ですから神の力 「浩然の気」の力を 必要としその力を 働かせて親類や友人を 助けるのです この肉体を使って 助けるのでは ありません 私達は肉体の能力で ベストを尽くしますが 「浩然の気」自性 仏性やパワーを 使う場合に限り より助けることが 出来るのです なぜならその力は 人々の祈りに 応えると同時に どこにでも現れる事が 出来るからです

観音菩薩はこの 「浩然の気」内在の力 創造主の秘密の鍵を手に入れました だから祈りに応えて 同時に 何千もの場所に 現れることが 出来たのです それが 彼が手や眼を何千も 持っていた理由です 釈迦牟尼仏が この創造主の 最も偉大なパワー 無量無辺の 「浩然の気」を得た後「浩然の気」を得た後 彼は何十億もの 化身を持ち 地獄から天国へ 天国から仏陀の国へ この世界から仏陀界へ 人々を 上昇させることが 出来たのです 孔子は私達に 「人間の内なる本性は 完全なる善である」と 教えました そうですか(はい)

人は生れたばかりの時  本性と性情は善良です つまり一人一人はこの 善性を持っています 孟子もまた その 一人一人の人間には 敏感な心がある 私達は何に対して 敏感ですか 彼は例をあげました 例えば 私達は誰であれ 良くても悪くても 高い社会的地位が あるがあるまいが 勉強しろうがしないが 子どもが井戸に 落ちるのを目撃した時 助けられないなら 心配しませんか 駆けつけ  助けようとしませんか これは 自発的な反応です これは私達の真の品性 善良な本性です なぜなら 私達はこの 品性と良い本性を持ち 霊修行をしたく 「浩然の気」を 手に入れようとします

それは私達個人の力で 全ての人を助ける事が できないからです 世の中にはあまりにも 苦しみがあります 私達は分かち合い 苦しんでいる人々を 助けるため出来る事を 何でもやるべきです 生来の善良な 本性のために 釈迦牟尼仏は 四十九年間もの苦難に 耐えました 生来の善良な本性の ためイエスキリストは はりつけになりました 生来の善良な 本性のために 孔子はあらゆる 困難を乗り越え その教えを広めました 多くの国が 彼を非難しました 当時 彼は命を 落とすところでした 霊修行をしていない 人々は普通の人間です まだ宇宙と一体に なっていません

それにもかかわらず 私達は依然この生来の 善良な本性を持ちます 私達は 孔子または イエスキリストの ように  有名ではありません 釈迦牟尼仏のように 名前を歴史に残す事も ないでしょう それは 私達が生来の 善良な本性を発展して こなかったからです 生来の善良な本性を 完全に発展する方法を 探そうとしなかった 他の人を助けたくても 方法を探そうと しませんでした それも私達の過ちです

それで 寝つきが 悪いように感じます それは誰のせいですか 私達自身のせいです ですから 皆さんに ある方法を教えます それは皆さん自身の 生来の善良な本性を 完全に発展させ 皆さん本来の慈悲深く 思いやり深くなる 願いを認識させます ある子どもが井戸に 落ちたのを見たら 心配で駆け寄り 助ける方法を探します それは既に慈悲心が あることを意味します それを教えてくれる 経典は必要ありません しかし 世の中に 何十億もの感覚ある 衆生がいることを 知るべきです 彼らは井戸に落ちた 子どもよりもっと 悪い状況です 私達はただ傍観する ことができません 

どんな時も何もせずに こう言います 「人は皆生れつき 品性と本性が 善良である」 または「天下に 元々何事もなし」と あるいは「誰にも 仏性があります」 他に何がありますか 他に大きい話は 人々はよく次のような 大言を唱えます 「行 住 座 臥 皆 禅である」と それで私達は誰にも 役に立たない 非常に無益な生活を 続けます 私達は胃袋のために 一日中働き その他の 理想を忘れます 私達が 古代の経典を読み  過去の悟りを開いた マスターを崇拝する時 彼らは 最も高い理想を 代表することを 知るべきです 彼らと同じようになる ことを切望するなら 私達は彼らを 本当に崇拝しています

私達が毎年素敵な服を 着た時それは本当の 崇拝でありません 孔子廟に行って 牛を生贄として捧げ 二、三回叩頭します 長い文学作品を読んで それから楽しく 家へ帰ります これは人々を助ける 方法ではありません これは世界を救う 方法ではありません そして仏教徒は 寺院に行って 釈迦の仏像の前で 多くの果物と花を 供養しますが 本当の 崇拝でありません 二、三回 叩頭して それから 果物を持って 家へ帰って食べます なぜ私達の世界は 苦しみに満ちてますか 誰が知っていますか なぜ神は不公平で 私達を苦しめますか なぜ仏陀は 慈悲深くなく私達を
マスター 女性が出家した場合 生涯 八敬法を 守らねばなりません そのうち一つでも 破った場合 仏教の秩序を乱します これらの八敬法を 広める必要が ありますか

ありません

八敬法の 経緯はこうです 釈迦牟尼仏陀の お母様は 彼に従って 出家したいと申し出た 女性初の人です 元々 インドの女性は 出家できません 中国の女性が 外に出られないのと 同じです これは知っていますか (はい) 彼女達は高い塀の 内側に閉じ込められて 男性を見ることも男と 直接話しをすることも 禁じられています インドの女性も これと同じです 今日でも状況は ほぼ同じです 外に出るときは 同伴者が必要です 一人で 外出すると 襲われたり なめられたりします そこで 釈迦牟尼仏が 女性の出家を 認めたことは 革命的なことでした そして多くの人に 攻撃されましたが

避けられないことです もともと 彼は女性に 出家させたく なかったのです  良くない雰囲気や 人々の攻撃 社会の彼に対する 排斥を恐れたからです そこで彼は女性に出家 させたくはなかった 釈迦は叔母を テストするため 八敬法を設けました 叔母は子供の時から 釈迦を育てたので 釈迦にとっては 母のような存在です 親孝行のため 釈迦は叔母の要求を 拒めません このため この方法を取りました 釈迦は「八敬法を 守れるなら 尼僧に ならせてもいい」 と言いました

八敬法の第一条 「私のすべての男の 弟子に会った時 僧になってどのくらい 経つかにかかわらず 僧にお辞儀を しなければならない 僧がいくら若くても いくら年寄りでも 僧に敬意を払うべき」 となっています 守れますか 彼女は「はい」と答えた テストのため釈迦は あらゆる無理難題を 述べ続けました 彼女はこれらすべてを 守れると言いました ですから釈迦は 彼女の強い信仰心と 謙虚な姿勢を 拒否出来ませんでした 釈迦牟尼仏は もともと叔母は 国王の妻である 妃として また釈迦牟尼仏の 育ての母として 非常に傲慢で ついてきても サンガ(僧団)の 規則を守れる はずがないと 思っていました

ここまで厳しい規則で 彼女を試した理由も ここにあります 釈迦は叔母の尼僧に なろうとする思いを 留まらせたかったが 母はすべての条件を 飲み込んだので 釈迦も前言を 撤回できませんでした 釈迦は母を尼僧に ならせました その日から釈迦の サンガ(僧団)に 尼僧が存在するようになりました 八敬法は その時代に限って 有意義です その時代では その時代では 釈迦の男の弟子 つまり僧侶たちは皆 非常に謙虚で しかも ほとんどは阿羅漢の 位を得ていたため 釈迦はここまで 厳しくしなければ 尼僧になったばかりの 叔母はそれら阿羅漢 つまり菩薩たちを 尊敬しなかったら 叔母は大きな悪い カルマ(報い)を 作ってしまいます

結果として彼女は 霊修行に成功できなく なってしまいます だから「老若と年齢に かかわらず男の弟子に 敬意を払うべき」と 言ったのです これで釈迦は 彼女が傲慢になったり また以後の尼僧の 行動が軽率で 僧侶に 近くなり過ぎたりする ことを防いだのです そうしないと 女男が 深い関係になり 多くのトラブルを 起こすかもしれません

その時代には 八敬法が必要でした

マスター 怒りを 制御することと 怒りを抑えることの 違いは何でしょうか 怒りに どう対処すべきですか 観音法門を修行したら 対処の仕方が 分かるようになります 対処の方法を 教えるのは難しいです 修行すれば 智慧を得られますので その時に どう対処すべきかが 分るようになります 簡単に分かります 普通の人は時々 怒りを制御したくても 出来ません 私たちには 力が足りないからです まず内面の力を 持つようになれば 制御の方法を 知るようになります これは教えられません 自分で悟らなければ なりません 悟れば分ります

親愛なるマスター 以前の講義で 悪い定まったカルマ (報い)例えば ひどい交通事故は 軽減できると お聞きしました その後間もなく 観音法門の修行を 始めましたが 交通事故の 夢を見ました 命を救って頂き 有難うございました

親愛なるマスター 観音法門の修行では ずっと智慧眼に 集中する 必要がありますが 太極拳をやっても いいでしょうか 古代のマスター達磨も 健康と座禅を 向上させるため 人々に拳法を 教えていました 呼吸のコントロールと 全く 関連がなければ 太極拳をやっても いいですよ 運動として やってもいいです

太極拳ですね それは中国の伝統的な 武術ですね (はい) 人を死なせますか 違いますね ならやってもいいです 人を死なさないなら やってもいいです そうならやらないで マスター 目の良くない人は 観音法門を 修行できますか はい 私たちの修行では 目は使いません 親愛なるマスター 観音法門は 浩然の気を高めます 世界終末は 事実ですか 世界が壊滅したら 浩然の気を修めても 役に立たないのでは ないですか 違いますか いいえ でも世界がある日 終わってしまうと いうなら 何もする 必要がありません

今日から食事も 止めたらいいでしょう 何をしても 人はいつかは死にます ですから 世界の終末を 待つまでもありません そうですね そうだとすると 名声や富 毎日汗を流して働き お金を稼ぎ 高い地位を得るために 競争し霊修行するなど 何の役に立つのですか 役に立ちません 遅かれ早かれ 私達は皆死にます 世界の終末が あってもなくても 引き続き 修行すべきです 私達の命もいつかは 終わります ですから自分の 未来のことを整理して おきたいのです でないと 死後どこに行きますか 死後の世界は 沢山あり私達は それを知りません

沢山の永遠の 世界がありますが 私達はまだ知りません この浩然の気の法門を 修行すれば 私達は本来の源に戻り 沢山の違った 世界を見つけてそこに 住むことができます 世界の終末を 待つ必要はありません 親愛なるマスター 極楽世界とは何ですか 言って上げて下さい 極楽世界は私達が 永遠に住むことが できる世界で 二度とこの苦しみの 世界に輪廻して 来なくてもいい 世界です 極楽世界で私達は 永遠の幸せを得ます

マスター私はあなたの 経の講義を沢山聴き 本も読みました あなたの講義は 動いている雲と 流れている水のように 完璧です 講演会場は 安らぎと喜びに 満ちています これは天国以外に この世界では 体験しがたいことです この世界では まれにある現象という 意味です 一つ聞きたいのは あなたは講義するとき オゥラック(ベトナム) 語と英語と中国語で どの言語で 考えていますか オゥラック語 (ベトナム語) 中国語それとも英語ですか 仏陀の言語を使います 三、四種の言語で 考えていては 何も話せません 古代の禅マスターは 「言葉は道を妨げる」 と言いました この意味は 人間は話をする時と 考えるときは「道」と 疎通できないという 意味ですか

彼は「言葉は道を 妨げる」とは 話をする時は 「道」と切り離され 「道」と通じ合えない という意味なのかと 聞いています そういう意味ですか そういう意味ではなく 古代の人々の意味は 私達は言葉で 「道」を表すことが できないという意味で 禅は言葉で表せない という意味です まさにその通りです そうでないと私が 話をすると「道」と 分離されることになり これは大問題です

私は話をしてる時でも「道」と一緒にいます 私は「道」と分離した ことがありません

親愛なるマスター 仏教徒が キリスト教の病院で 働く場合 朝の祈りの時 どうやって 神と交流しますか 仏法僧の三法と 仏陀の名号を 黙読すると 罪になりますか なぜ罪になりますか 彼はキリスト教の 病院に勤めていて 朝の祈りがあって 彼はどうやって神と 疎通したらいいか 分からないのです そこで働くのであれば イエスを暗唱すると 神に近くなるでしょう なぜキリスト教の所で 仏陀の名前を 唱えることで そんなに心の 葛藤が多いのですか それが三法に対して 悪いと思うので あれば 仏教の所で仕事を 探したらいいでしょう

イエスに不快感を 与えたくなかったら そこで神かイエスの 名を暗唱することです 万物は 一体であり 五大宗教は一つである と感じられなければ 自分に合った環境 作りをすることです 言っておきますが そこで唱えても 三法の気を悪くする ことはありません 彼らはもっと 喜びます あなたは仏陀を キリスト教の機関に 持ち込んで二宗教を 融合させたからです ただ神と疎通するには 別の道を探さなければ なりません 観音法門を 修行することです マスター コーヒーは 植物性の飲み物ですが 興奮剤です 修行者は飲んでも いいですか

飲んでもいいです しかし 私たち修行者には そのような不自然な ものは要りません 私達は浩然の気で 動かします 私達のセンターには お茶やコーヒー コーラなど覚醒剤の 飲物を置きません 時にはお茶を飲みます それは私達が厳しいと いうことでありません お茶を飲みたい 気分なら お茶を飲みます コーヒーを飲みたい 気分なら コーヒーを飲みます 気楽にやります そのような感じが しなければ飲みません それに没頭するように 毎日それを飲みません したがって これは異なります お茶とコーヒーを 飲まなければ 機能出来ず 体が壊れるわけでは ありません

修行すればするほど より自由になります 何かが気に入れば 持てますが いつでも問題なく 止めることが出来ます 親愛なるマスター私は 印心を受けてませんが 印心を受ける時 マスターが過去世の 悪いカルマ(報い)を すべて引き継ぐと 聞きました 印心後自分の 悪いカルマ(報い)を 自分で削除したいなら それが霊修行に 影響を与えますか はい 与えます あなたの過去世の 全ての悪いカルマを どう除去できますか 除去できるなら 印心を受ける必要は ありません でも 何回もの人生にわたり 沢山の悪いカルマを 蓄えたためそうする ことが出来ません

それは私達が 悟りを開けないことと 浩然の気と 繋がらないことの 理由なのです そういう訳で私が あなたのドアの前の 障害を排除するのを 手伝うのです あなたを妨げている 全ての悪いカルマ (報い)を取るか 焼き尽くして 広く前方が 見られるようにします

親愛なるマスター 私が静まるとき 時々一種の振動を 感じます それは 自然の力ですか まだです それは気功を修行した 結果あなたの内部で 発生した エネルギーです 浩然の気ではないです 浩然の気とは 他のものです

 
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