今日 仏陀はもう私達から 遠く離れているので ここにいないと 思っているでしょう したがって私達は共に グループを組みます とても大きいのです ものすごい規模です
悪魔と規模は中国語で 発音が似ています それで悪魔のように 聞こえます 知ってますか 昔は 王様の名前とか 親とか先祖の名前を 再び使うのは避ける べきだったですね そうでしたね (はい) 同様に多分私は悪魔が 嫌いなので違った風に 発音するのです 釈迦が 講演する時 どんな道具を使ったか 知りたいですね 数万人の人々が 彼の講演を聞きに 来たと聞いてます 身分の低い人 仙人達 人間 さらに龍とか 多くの他のものも 講演を聞きに来ました 彼はどんなマイクを 使っていたのでしょう その時マイクが あったでしょうか
私達には分かりません そこにいませんでした そこにいましたか 可能ですね たぶん 私達は何度も輪廻 したかも知りません どうしたらそこに いなかったでしょう さもなければ なぜ今日私の講演を 聞きたいのでしょう それは私が 釈迦とほとんど 同様に話すからです 前に聞いたことが なかったら なぜ今 聞きたいの ですか 聞いたのです 聞いた事あるのです 少なくても一、二回は 聞いた事があるのです
すみません 皆さんにお会いして 嬉しすぎて何を話して いいか分かりません 明日まで笑って いられたらと願います それは 講演を聞いた後 忘れてしまったとか 興味がなかったとか 教えを修行する機会が なかったからです 多分信じてなかったか 誹謗もしたかもしれず その結果智慧との縁が 断絶されたのです 長い歳月が過ぎてこそ 同じものを再び聞く 別の機会が 与えられるのです さもなければ なぜ毎回 偉大な師の 講和を聞くのでしょう 例えば 釈迦とか イエス 孔子 老子とか 他の師のですか 深く研究したら 彼らは皆同じことを 話していました
善行をしなさい 良い人になりなさい 自分自身を培って 家庭の事を処理し 国を治めよ 世界を平定せよと 同じ教えです 釈迦も同じことを 言いましたね 多分 彼はもっと広い 意味で もっと広く 言ったか 他の用語を 使ったのでしょう
ですから 釈迦がもうそんなに 話したのなら なぜ孔子も話す必要が あったのでしょう 老子もこれを 強調しました イエスもこれを 強調しました 「隣人を愛せよ」と 隣人を愛せよ とか 敵を愛せよ など これは 釈迦牟尼仏の教えと 一緒です 同じ倫理規定を教えて くれただけでなく 同じ法門も 教えてくれました 彼らは去ったので 実際何を教えてくれた のか分かりません たぶん 私達と一緒の時 何か教えてくれたのに 興味がなかったのです 学ばなかったのです それで私達は まだここにいるのです よく勉強していたら たぶん今ごろ 天国で他の仕事を しています 工場とか事務所へ 急いだり この 地球の上で忙しくする 代わりにです
どんな生涯でも いつも 仏陀 菩薩 聖人 神がいて この世に輪廻し 同じことを 私達に喚起します すなわち この体から解脱し 生死から解脱して 優れた存在になって 人間として戻るのを 止めることです それは苦しすぎます 人間として 戻ってくるなら 完全に自由な人で いましょう
天国が何かさえ知り ませんし ましてや そこに行って講演に 出席などできません 例えば 大学で研究するために 入学しなかったら 構内に入ることさえ できず ましてや 教授が行う講演になど 出席できません 小学校さえも 入学しなかったら 入って座ることも できず 大学は 言うまでもありません
印心してからのみ そういう話をします
印心しなかったことは 入学しなかったことと 一緒です 学校へは入って行けず 先生の事を知ることも できないのです 先生は 内面で話しています たとえすぐ外にいても 先生の言ってることが 分かりません すぐ隣に住んでいても まだ聞きに入って 行けないでしょう 同様に 天国では マイクとか 言語とか 必要ありません 話してないように 私達は話します 話していませんが 私達は話しました 音を聞かなくても 聞こえるようで どんな言語かは 分かりませんが 理解できるのです
帰って来て たぶん 先生が何を話したか 天国でマスターが 教えた事や 仏陀が教えた事などを 言うことはできません それらの仏教経典は インドと ネパールから来た 釈迦牟尼仏の 大弟子が 書いたものです 彼らの経験を 書いたのです 例えば どのように 天国へ行き 瑠璃光王仏の 場所へ行き そこで彼らは どんな世界を見たか 瑠璃光王仏は どのように見えたか 彼に話すのです その場所で 釈迦牟尼仏は 瑠璃光王仏を 紹介しました ずいぶん前に 彼はある方法で 修行していて 大きな願をかけました
仏陀になった後も まだ願をかけました ですから 多くの衆生は 彼によって 生まれているのです 例えばそういう事です 彼の願と福報は 例えば 非常に大きいのです その時 瑠璃の世界を 見ることが できた人はいません
その人だけが 釈迦牟尼仏と一緒に 化身で 行ったのです 彼だけが聞き 理解し 戻って来た時に それを書きました その時 釈迦牟尼仏と 一緒だと言いましたが 恐らく釈迦は 彼に印心を授けていたか 一緒に瞑想をしていた
彼は釈迦がそこで 話すのを見たのです 例えばですが 釈迦牟尼仏が その人に話かける時 彼らはこの物質世界に いません
彼らの肉体が この世界に あったとしても 瞑想している時に そのような事を 話します それは二人とも 高い境界に 行った時に 彼らは瑠璃の世界に ついて話しました 瑠璃の世界は 彼の誓いであり パワーなのです
インドは大きい国で 釈迦牟尼仏は四十九年 弘法していたので 無数の弟子がいます インド全体から 彼の弟子の 体験が集められ 経典として 多くの体験が 記録されました 分かりますか 素晴らしい 釈迦牟尼仏は もちろん 彼が天国へ行く時 マイクは要りません マイクは 必要ありません 釈迦牟尼仏が 講義をした時 たぶん 彼は最初に一部の々に 話す可能性があり そしてこの人々は 彼の言葉を周りに広げ それを大勢に 広げたのでしょう
それはこのように 恐らく彼らはまず すぐに彼の言葉を 書き止め その後 様々な集団に広げ 右の 左の そして後の グループのリーダーが まず聞き そしてマイクを 使わずにメッセージを 伝えるのです 天国では もちろん 必要ありません 彼らは別の種類の 言語を使います 口語ではありません 時には とても高いレベルでは 先生の体さえ 見えません 体でさえもです ただ一面の光のように しか見えません とても美しく魅力的で 明るいのです 中央から光が 放射している ように見えます 振動のようで 一面の光の 振動のようです
それだけです 手も 足も無く 頭も無く 口も 目もありません しかし みな理解します
釈迦牟尼仏は 時々 私達が 理解できない 稀有な話をしました 瑠璃光の世界 阿弥陀の世界 華厳の世界 龍の女の子が 仏陀になった 事などです これらは決して 理解できません
それで私達はいかに 釈迦牟尼仏が 言った事を信じますか 彼は二千五百年前に 往生して もう 彼に会えなくても 私達はまだ信じてます
釈迦牟尼仏は 二千五百年前に往生し 彼に会う可能性は ありませんが 私達は彼を信じてます 現在の人の言葉を 私達はなぜ 信じないのでしょう
簡単なことです 現在の人々も 体験をしています 私の弟子も沢山の 経験をしています しかし 私が 公の場に出たのは ほんの数年で 私達は弟子の経験を 全て集める機会が ありませんでした もっと沢山あります 今それを読みたいなら これ位の厚さの 本くらいはあります 本一冊です 沢山の 体験がありますが 全てが書き留めている 訳ではありません ある高齢女性ですが 実際 無学ですが
彼女は北京語を 全く話せず 私とも 会話ができません 彼女は自分の体験を 静かにただ楽しみ 時々 彼女は 私に会いに来て 自分の体験を 明かすだけです
従って 釈迦牟尼仏の 弟子だけが体験が あるとは言えません 私達も 体験があります 出家者 在家者 年配者 子供達 若者も含めてです 病人でさえも 眼が不自由でも 聴覚障害があっても 体験があります 問題ありません 私はつい最近 台北で盲目の男性に 印心を授けました 彼は誰かに暴行され 視覚を失いました 彼は非常に苦痛で 苦悩しました 私は聞きました なぜ そんなに苦しむのかと これらの眼は本来 役に立ちません この眼があるから 転生してこの世界に 来なければ ならなかったのです 私達は 外面的に是非を 見ているからです 外面的な影響により 捕えられて 私達の本性を 見ることに集中できず 自身の内面を 見られないのです ずっと 私達は外面を見て 外面的な状況に とらわれてました
捕えられ より堅く 縛られました 眼を持たない方が もっと良いのです 悔しく 思わないで下さい 禅師の言葉 「今こそ分かりました 大変悔みます」を 思い出します 彼が言いたいのは 赤ちゃんが出生時に 眼と耳がない方が 最も理想的だと 同じことです 私も同じ事を言います 肉眼は 私達を この世界に縛り付け この世の眼は この世界に縛ります 仏陀の眼は仏陀の地に 連れて行ってくれます 従って 最も重要なのは 仏眼を開くことで 肉眼があるかないかは 問題ではありません なぜなら 霊修行者として 時々 暗い家の中とか 真夜中でさえ ものが見えるのです 非常に明るいからです 私たち自身も 輝くことができます 私たちは仏陀で 光を持っています 仏陀の本性は この光です 私たちは 仏性を見ています すなわち私たち自身の 光を見ています
これは仏陀の本性 つまり神の王国です 神の王国にも 多くの境界があり 光だけではないです 私達ここに家があり 天にも家があります 更に美しいだけです 物質的なものはなく 例えば ここには 車や電車があります あそこにも 輸送の車両があります しかし 私達のとは 違います たとえば 雲や霧に乗ると 聞いたことがあります ありますか 本当です 間違いではありません 作り話ではありません 昔の人々はそこに行き 今 私達もそこに行け 例えば 上の境界に行けば 私達は雲に乗れます 雲があるとしたら 私たちが望めば すぐに来て楽しい ドライブに連れて行き あるいは商売をしに 連れて行ってくれます お風呂に入りたいと 思うと それは すぐに止まります 何も言う必要は ありません キーやブレーキの 必要はありません ここではブレーキを 踏んでも 時々 止まりません
それで 多くの自動車事故が 起こるのです あそこにはありません 雲は互いに衝突して 壊れたりしません そうですね 雲は非常に柔らかく 二つ雲の時さえ 仮に 交通渋滞があって 雲が一緒に ぶつかっても どちらも 壊れません それら二つは ただ手をつないで 二つの雲がです 二つの雲は 手をつないで 進みます 仲間がいて良い事です 問題ありません 雲は 感覚があります 私達のどんな行動も 必要としません 私達が思うだけで すぐに止まります お風呂に入った後 雲に乗ります
すると それはすぐに 目的地へ飛びます すごくないですか たとえ私達にそうした 体験がなくても それを聞くだけでも 楽しいです それは何らかの期待を 与えてくれますね 私達の世界はとても 物質的で 汚染されて いて 惨めなので 私達がそうした物語を 聞くのは良いことです それで毎日子供達に そうした物語を 話すのですね なぜ彼らはそうした 物語を聞くと幸せに 感じて 速く眠りに つけるのでしょう つい最近 そうした境界から 来たばかりだからです 子供達はより純粋で そうした境界に より近いのです
彼らは純粋なので より簡単に理解します 従ってそうした物語を 話すのをやめたら 恐らく彼らはこの 物質界に住み続ける 事が出来ないでしょう とても汚染されて 苦しみに満ちています 子供達は生き残れない かもしれません 従って 私たちは毎日 素晴らしい天人 仏陀 菩薩に関する 心地良い話で 昔話で 子供達を「騙し」ます 本当に子供を馬鹿に してるのではないです 彼らに物語を 話さなければ 彼らは不幸でしょう そうではないですか あなたは毎日子供達に 物語を読んでいますか
そうです 夜です 彼らはパパ ママに 物語を読んでと せがみませんか それで西洋の子供達は そうするのです 彼らは物語を 聞かないと 眠りません ここではどうですか 同じですね そうした物語を読む時 時々 私達大人でも 大いに楽しみます 子供達だけではなく 覚えているからです 心の奥に 私達自身の国 私達の本当の家を 覚えているようです それで そうしたおとぎ話で 喜ぶのです 純粋に作り話ではなく いくつかは実話です なぜ真実なのでしょう それらは 霊修行者の体験 だからです そうした境界に行き 戻ってきて それを書いたのです しかし 霊修行者の体験は 普通の人々のと まったく異なります
それで時々 それを明らかにできず 言います 「これは私の体験です 向こうに行って 天人 仏陀や 菩薩を見ました 非常に美しい 世界を見ました」と すると 気が狂って 悪霊に取りつかれたと 思われるでしょう こんな事が起こります 人々と 違うからです そうではないですか したがって 三蔵法師は 実際 観音法門を 修行していました 彼の物語を読むと 分かります 私の本の第一巻に 彼が観音法門を 修行してた事を非常に 明確に説明しました したがって 彼は言葉で多くの 境界を解説しました たとえば 猿王はある場所に 行って観音菩薩を 見つけました 天国の王 李靖や 紅孩児などを 見つけました それらは 彼個人の体験です
ただ彼はあまりに 謙虚だったので 自分の体験と 言えなかったのです 彼は 唐の時代の人でした そうした体験をした 人はごくわずかでした 当時恐らく彼は そうした体験をした
そうした世界に行く 事ができた世界唯一の マスターだったのです 従ってそれを人々に 明確に言えないのです 恐らく弟子の数人に 言えただけです 恐らく同じ体験をした より近い二、三十人の 弟子に言えただけです それで彼らは信じ 少なくとも少し そういう体験をして 彼らは信じました それで彼はそうした 話を「西遊記」に入れる 必要がありました それは作り話ではなく それら境界は本物です
私はそうした人々と 繋がれる能力を持つ 道士を 一人、二人 知っています 彼らは 観音菩薩や紅孩児と 繋がれます 昨日話した 道士の話を 覚えていますか その道士は 一昨日 私を見て 「マスター 五日前 あなたの 化身が来て 今日 いらっしゃると教えて 下さいました」 「四日前です」と言うと 彼は言いました「そう 四日前です」と お互いに約束 したのですが彼は 歳のせいか忘れました 彼は 観音菩薩も来て 彼に同じ事を 言ったと言いました この人は地方から来た 人のようで とても純粋でした
彼には嘘が何やら 分かりません 彼を見たら 決して力があるとは 思わないでしょう 道士だなんて 言うまでもないです 皆さん 彼を見下すでしょう 歯は半分抜けてしまい 半分しかありません 爪も切っていません
一日中 同じ服を着て 外に分厚いコートを 軍服のような物を 着ています そんな感じです 彼に会うといつも 同じ服を着ていて 一年中 洗っていない みたいです 他の服も ほとんど一緒です 彼はテーブルの下に 座って瞑想します
テーブルの下に隠れて テーブルの上に 観音菩薩や紅孩児等を 置きます 彼は紅孩児とも 話すことができます 彼は 「マスター 会いたいです」と 二人とも私を一回しか 見た事がありません 私を知る前に 彼は既に私の化身が ある死にかけた人を 救いに行ったのを 見たのです 彼は私がそこにその人 彼の友人を連れに 来たのを知ってました 彼の奥さんは 印心者で夫を連れてく よう私に頼みました 彼女の夫はとても カルマ(報い)が重くて 大変な作業でした それは別の話でした 二人は友達でした
彼が死にかけた時 道士は彼に会いに行き 私の化身が そこで彼を連れて 行くのを見たのです それが最初で彼はまだ 私を知りませんでした それで 私が入ると 彼はすぐに 私に気づきました 彼が最初で最後に 私を見た時の話です その後彼は私にとても 会いたくて いつも 私に来て欲しいのです 昨日私を見て 既に 来たと分かりました 心がとても純粋です 彼らは印心する必要が ありません 正式に印心した人のみ 私が見えるとは 限りません
一回私を見ると 印心されます これは証明できます 時には私を 見なくてもです 彼らの友人は 印心者ですから その友人の 目を見たら 彼らも印心されます 彼の友人を通じて 私に印心されたのです ですから まだ私に 印心されていないと 思わないで下さい すでに昨日 印心済みです しかし 教えていない事が 沢山あります それで 時には 印心者でさえ 知りません 非常に純粋であれば 印心の時に 体験があるのです
その道士は 非常に純粋なので 体験がありました ですから 一昨日 私を見て 言いました 二人とも 夫と妻の両方が 大変高齢で 私に会いたかったと 彼は ここに来るのに なぜそんなに時間が かかったか尋ねました
私は「長くないです ほんの数ヶ月ですよ」 「そんなに私が恋しい なら なぜ一緒に 来ないのですか」 彼は言いました 「来年 来年 弟子として学ぶため マスターに従います 今は子供達が まだ結婚してません 来年には 結婚するので私達は 自由に行けます」 二人は弟子達に 「あなた達は正しい マスターに追随してる 来年 私達も仲間入り します」と言いました 素晴らしい 私は 「それ程私を思うなら 暫く私と台南にいても 構いません
二人とも高齢なので 働いてませんね」と 道士は言いました 「今すごく忙しいです」 多くの人が行方不明の 妻や子供を捜す助けを 求めるからです 「大した事ありません 土地公に頼んで捜して もらって」と私が言い 彼は答えました「ああ 土地公は遅すぎます のろのろ歩きです」 彼も私も冗談は 言っていません 自分達が話すことには 真剣でした でも 冗談を言ってる みたいに見えますね 構いません それもおかしな事です
やはり そうでもなく 私達には面白い事です これは警察に 助けを求める時に 似ています 時々 警察はあまり 頼りになりません 警察は他の場所を 見られないからです
土地公はもっと便利で 走れます 道士は 「土地公は 歩くのが遅すぎて 見つけられません」と 私は 「今の土地公は 現代化していて 車を運転できますよ」 道士は言いました 「運転しても遅いです 私にとって より便利なのは 三太子を送ることです 彼の風火二輪で 空を飛べますからね」
彼は三太子を呼ぶ方が 彼にはより便利だと 言いました 彼は本当にその人達を 召喚できるのです 冗談は言ってません 道士もそうです 彼は冗談とは何かも 知らないのです 彼が初めて私に 私の化身を見て 私がこれこれの 昔の仏陀だったと 言ったとき 私は道士の事を笑って からかいました 「貴方は間違ってます あなたの目が 悪いんですよ」 彼は「私は正しいです」 私は言いました 「何を見たんですか 正確に見てませんよ」
彼がフォルモサ(台湾) 訛りで話すので 私はからかいました 「違いますよ あなたの 目が悪いんです」
道士は言い続けました 「私は正しいです」 彼は本当に驚いていて 私は言葉を疑いました
それで 私達は続けました 私は「間違ってますよ」 彼は「私は正しいです」 私は「違う」と言い 彼は「正しい」と言い とても可愛いです 彼には私の冗談が 分からないのです 彼はとても真剣で 子供っぽい真剣さです とても純粋なのです 私が彼を信じないのを 信じないのです 一〇〇%確かです
決して嘘をつかない為 それで私は疑うのです 道士は大変傷つき 自分を守り続けました 私達の出家者達は 笑い転げていました そうだったでしょう 彼は本当に可愛いです 私がただ冗談を言って いるのが分かりません ただ自分をかばい続け 道士は言いました
「いえ確かに見ました」 確かに見たと 言い続けました ですから この人の 心は大変純粋で まるで子供のようで する事に悪いカルマ (報い)はありません 「私」を完全に 放棄していたからです
それで そうした高い存在と 繋がれるのです 例えばです でも言っておきますが 最高のではありません したがって 猿王も 雲や霧に乗って 多くの境界を 見に行けたのになおも 三蔵法師に従わねば なりませんでした 三蔵法師が正しい道を 修行していたからです
あらゆる物質と 境界を越える 最高の法門をです 猿王はまだ物質界に いたのです
彼にはまだ多くの 仏陀と菩薩が いました まだ「私」と「彼」が まだ霊修行や 境界などがありました 三蔵法師に関しては その時ですら 恐らく西遊記に書いて あると思いますが
どんな境界も見ず 本当に稀です しかしながら 彼には高い理想があり 偉大な智慧と非常に 偉大な使命があり 最後には菩提に たどり着きましたね
猿王は菩提には たどり着いていません 今もまだ達してません 大変神通力があったが 役に立たなかったと 聞きました だから今でも猿王は まだ天国でふざけて 混沌を作る 一匹の猿なのです でも可愛いですね どうでもいいです そう 猿王は 単に三蔵法師の 智慧の象徴です
心 知性 彼はこれらを使え 神通力がありますが 低いレベルです しばらく 修行した後には 多くの神通力を得ます
でも役に立ちません だから猿王は なおも弟子として 三蔵法師に 従わねばなりません つまり神通力は単に 道全体の一部にしか 過ぎないという事です ただある部分で 意味のない段階です
それを超えて 別のレベルがあります 例えば 仏陀や 菩薩になるレベルです 猿王はまだ 観音菩薩や仏陀に 救いを求める 必要がありました そうではないですか 猿王の目が輝くまで 彼を炉で焼いた 太上老君に 救いを求めたのです
私は七才か八才の頃 この物語と 三国志を読みました とても幼かったのです
ですから その道士を 皆が凄いと言いました 病を治すことができ 誰が仏陀の所に 行ったのか 誰が得たのかを どこで仏陀を探せるか 知っているのです 或いは 観音菩薩や なんとか仏陀や インドの仏陀を 見る事ができるのです
それに土地公や 先ほど触れた 三太子や 紅孩児を 使う事もできます それができるのです それでも彼は 私に従いたくて 弟子になりたいのです 自分のレベルがまだ 確かな所に達してない のが分かるからです
空の境地にまだ 達してません なぜか 彼は多くの境界や 仏陀を見ているのに まだ私の弟子に なりたいのです 理由を知っていますか 知っていますね ええ 言って下さい
マスターが大変高いと 知っているからです そうです でも私が高いと なぜ分かるのですか (自然と知っています) 自然と 自然もですが 道士は 霊修行に 励んでいるからです
猿王みたいです 彼は修行で高レベルに 達したので三蔵法師は
偉大と知ってたのです それに猿王は 観音菩薩がしなさいと 言うことは何でも 聞かねばなりません 多くの境界が見れる 存在なのに なぜまだ 究極ではないでしょう 土地公を 召喚したり 人を探したり 行方不明者を探せても なぜまだ 満足できず私の弟子に なりたいのでしょう 言っておきますが それらの存在 例えば土地公 三太子 紅孩児はみな 私達の心の中です その存在たちを見る時 私達はまだ心の レベルを走り回り 「全ては心が作り出す」 境界にいるのです
私達の心が 大変強力なら 私達が思う事は何でも 実現します 言っている事が 分かりますか それらの境界の創造者 である私達はまだ その「全ては心が作り 出す」にいるのです 私達は「心」の中に まだいて 「心」に 閉じ込められています この「心」の 大きさや広さは 関係なく これは檻なのです
心がどれ程美しくても 関係なく 所詮 黄金の檻です 私達は内面で 制限されているのです それは 非常に美しく 私達は 良く食べさせてもらい 待遇も良いですが 外に出られません これもまた低い 境界ではありません それも大したものです しかしながら こうした境界にいても 開悟したマスターが いなければ 私達はこれらの 境界を超越できません
私達の心が 大変強力なら 私達が思う事は何でも 実現します
それらの境界の創造者 である私達はまだ その「全ては心が作り 出す」状態にいます 私達は「心」の中に まだいて 「心」に 閉じ込められています この「心」の 大きさや広さは 関係なく これは檻なのです
心がどれ程美しくても 関係なく 所詮 黄金の檻です 私達は内面で 制限されているのです それは 非常に美しく 私達は 良く食べさせてもらい 待遇も良いですが 外に出られません これもまた低い 境界ではありません それも大したものです しかしながら こうした境界にいても 開悟したマスターが いなければ 私達はこれらの 境界を超越できません なぜなら太上老君に 縛られ猿王や 紅孩児に縛られて そうした境界へは 行けないからです
また観音菩薩に 縛られています 例えばです 私達はまだ観音 菩薩ではありません
私達はまだ観音菩薩を 崇拝しています 私達はまだ 彼女より下で 彼女と一体ではなく 同じではありません 従って 猿王が観音菩薩を 見た時 もちろん 彼はまだ彼女に救いを 求めねばなりません 彼は 彼自身や他の人々を 助けるために 観音菩薩ほどの力は 持っていませんでした 彼は同時に 千の祈りに 応えることは できませんでした 彼は 化身できましたが たった三〇分しか もちませんでした
時々 彼は 何本か髪の毛を むしり取ってね それを口に入れ 数回あおって 吹き出すと 沢山の猿王に 化身します これで敵を 惑わせます
どれが本物か 分からなくさせます 彼らは全部の猿王も 捕まえますが それらは全て髪の毛に 戻ってしまいます 彼らはとても怒ります
それはたった 三〇分しかもたず 人々を騙せません 時に彼は 別の猿王を出して 鎖に繋ぎ その間に 本物は逃げ出します 人々は彼がまだそこに いると思いましたが 後で彼が逃亡した事に 気づきました 彼に騙されたと 知ると すぐに後を 追いかけました 時にそれでも追いつく こともありました 化身の体はたった 三〇分しかもちません だから違うのです 従って 彼は 観音菩薩を見たのです 彼自身 観音菩薩に なる代わりにです 私達は観音菩薩に なるまで修行せねば なりません
仏陀を見るだけでは まだダメです 最終的に自分が 仏陀になる所まで 到達せねばなりません ですから彼が 最高の天界の王を 見た時 彼は天界の宮殿で 混乱を巻き起こし 天界の王に 齊天大聖の名を 授けてくれるよう 求めました 天界の王が拒否した為 彼は大暴れしました
彼が天界の王として 既に高ければ 全てのこうした問題を 起こす事はありません 誰が本物か知っていた はずなのです 全て不必要なのです
実はこれは私達の 心の中の葛藤を 象徴しています 私達は私達が最高だと 知っているのです しかし まだその レベルに未到達であり 自身を 信じられないでいます ある日私達は信じます 別の日は信じません 今日再び信じられ 明日は違います なぜ時に信じられ 時に信じられなく なるのでしょうか なぜなら時に 私達は開悟して その日 自分達が誰で あるか知るからです 少なくとも 私達は非常に崇高で 天地において平等で 全ての創造主と一つ だと感じるからです
でもまた別の日 困難に出くわします この物質界には 沢山の 困難や問題 妨害があり それで 普通の人間の レベルに陥り 私達自身を疑うのです この普通の人間とは 非常にうるさくて とても厄介で とても弱く 全体的に 無力で力不足なのです こんな時 私達は 非常にイライラします ここに来て私達に 私達は仏陀であると 言う人の話は 聞きたくありません
私達は自信を 完全に失ったのです 従って この猿王の話は 実際 開悟する前の 私達の内在の葛藤を 象徴しています 私達はある日開悟し 翌日 無明になります 常に切り替わります 観音法門修行者は 多かれ少なかれ 猿王のような 体験をしています それで 日々葛藤し 混沌を 作り出すのです ある日私達は 仏陀になりますが 別の日は違います ある日は成功しますが 別の日は失敗します ある日 私達は仏陀であり 別の日 悪魔になり 行ったり 来たりするのです 猿王の葛藤は 三蔵法師の内面の 葛藤の 象徴だったのです
彼はただ文中で それを猿に変えて 象徴を書いたのです 私達の心は猿のように 落ち着きがなく あちこち行きますが 高い知性と偉大な 神通力を持ち 何であれ 欲しい物を手にでき 望む境界どこにでも 行けるのです しかしながら これら全ては未だ 心の範囲内なのです 「全ては心が作り出す」 の意味する所です それゆえ 私達は 六祖慧能の 「本来なにもない」の レベルへの到達を 目標とすべき なのです その後 私達はなおも 「無」のありさまを 打破せねばなりません 霊修行は無限で キリがありません 私達はある日 やめるとは言えません 私達がそれをやめたら 非常に退屈になります
いつか私達が 最高の境界に 到達するのが確実なら 私なら修行したくなく なるでしょう 本当に あまりにも簡単で 単純すぎるからです 私一人がこう言って いるのではありません 釈迦とイエスも 言っています なぜ私は一緒に多くの 開悟したマスターを 言及するのでしょう 区別したく ないからです 私は仏教の事のみ 話したくありません どんな宗教も仏教です それが私の意見です
仏陀とは何でしょうか 開悟した人です 開悟した人を 信じる人々 それが仏教徒なのです イエスキリストを 開悟した人を 信じる人々は やはり仏教徒です
私にとって あらゆる 偉大な聖人が仏陀です 全ての宗教は仏教です 従って 釈迦の話のみを すべきではないのです
釈迦も 私がしたのと同じ事を 話しました 私はただ霊修行には 上限がないと言って きました 最終的な 境界はありません 少なくとも今まで 私が知る所ではですが
私達が高く行けば 行く程 更に遠く 先があるのです こうではないのです 今日 修行を 成し遂げ 明日はやめて 修行する必要はないと そんな事はありません 従って 釈迦は菩提に 到達した後も 毎日瞑想したのです 聞いた事がありますか 経典で言っています 彼は涅槃から 出てきて ある経典について 話したと そうでしょ それは彼がなおも毎日 修行していたからです 六祖慧能も 同様です 彼は 霊修行は 瞑想するだけでは ないと言いました
彼が瞑想しなかった という意味ではなく つまり 瞑想してる 時のみが霊修行では ないという事です 生きる 歩く 座る 寝る 全てが禅です しかし 開悟した人 だけがこのように 話せるのです 開悟してない人々は こうは言えません 彼らがそう言っても 冗談にすぎません 皆さんも日常生活で 同じ行動をしています そうではないのです 従って 今 霊修行をして いない人々に 修行するように 言うたびに 彼らは言います 生きる 歩く 座る 寝る 全てが禅だと 従って 私達は 明確に知るべきです 霊修行者は彼らの 認識のレベルで 話をするのです 私達が真似たり 写したりしても 冗談にすぎません 全く役に立ちません
法華経の中で 釈迦牟尼仏は 涅槃 (最高の楽園)は 存在しない 涅槃 (最高の楽園)は究極 ではないと言いました
そう言いましたね 皆さんは法華経を 読んでいますか
知らなければ家に 帰って読んでください 「化城比喩品」を 読んでください
その中で釈迦はこう 言っています 涅槃は 幻想の城と同じで 私達にそこで休んで もらってから引き続き 前進させるためだと 釈迦はまた 「化城比喩品」の中で 私が 真理を求める道は 永遠に終わりがない というと皆さんは 大変疲れを感じて 修行したがらない でしょうと言いました それは悲しいことです ですから時には 涅槃があって究極の 所があると言います ただし皆さんが 高い境地にまで 修行した場合 私はまた涅槃などない というかもしれません なぜなら修行には 頂点がないからです そうでないと 釈迦牟尼仏が 仏陀になった後も なぜ 引き続き 瞑想するのでしょう 何のためですか
以前私はいわゆる 高僧に会いました 私は彼に質問しました 釈迦が仏陀になった後 なぜ引き続き 瞑想するのですかと 彼のレベルを量って 見たかったのです 彼は 釈迦が仏陀に なった後 瞑想はして いない ただ休んで いたと答えました 素晴らしいです 早く仏陀になって 休んでください 私はいつの日か 休める日が来るなんて 知りませんでした この話で 私は禅師が 仏陀になった後 休みたがる話など 読んだ事がありません 精進するのです 精進とは 毎日努力することです 彼は言った事を実行し 毎日瞑想していました
そして高い境界に行き そこの衆生を 教え導いたのです ただし彼は 食べている時も 寝て いる時も修行しました 彼は二十四時間 修行の状態 禅の中にいました 私達はまだその レベルに達していない ため 理解できません 観音法門を 修行すれば わりと早くそれを 理解できます なぜならこの法門は 最も早い法門です 他の法門を修行する ことにより体験を 得ることもありますが それは速くありません 他の法門を 修行すると ゆっくり悟りますが 観音法門を 修行すると たちまち悟ります 最速の法門です
時々私達は電車で 高雄に行きますが 飛行機だと速いです これと同じです イエスキリストも 同じ事を言いました 何を言ったでしょう 私の天なる父の所には 多くの大邸宅があり 私はそこへ行って 皆のために用意します 皆さんが住む大邸宅を 用意すると言いました これは彼が この世を去る時に 弟子に言った言葉です どういう意味ですか なぜ天国にはあんなに 多くの異なる大邸宅が あるのでしょうか 修行すると一緒に 住めないのでしょうか 別々に住むべきですか 私達はそれぞれ 家を 建てるのでしょうか 凡夫のようにです 互いにケンカする ことを恐れて 別々に 住むのでしょうか 実際 多くの素敵な建物や 高層の建物は それぞれ異なる レベルと境界を 代表しています
これは 皆さんが上に行った時 ある人は このレベルに またある人は そのレベルに別の人は 別のレベルに達したと いうことです そこで レベルによって 違った建物を 持ちます そうです 彼が言おうとする 意味は修行には 定まった限度が ないということです 一緒に修行して いるからと行って 皆が同じ 国に住むという わけではありません そうではありません たとえ同じ国に 住んでいるとしても レベルによって 違った場所に住みます
仏典に書いて あります 上等な境界と下等な 境界があるように 仏典にも 多くの建物がある ことを示しています
ですから私達は この世界の 言葉に とらわれないで その意味を 知ることです 真の法門は 人間の言葉では 表現できません だから多くの 宗教の間に紛争が 起こるのです 何れも 言葉の違いのためです 私達には確かに 最も小さく かつ最も 大きな問題があります それは言葉の 違いです 私達は 皆それぞれ 違った言葉で話します もちろん 異なります
例えば 昔 インドの人は 釈迦のことを 仏陀と呼びます これを中国語に 翻訳しました 以前中国には 仏陀という言葉が ありませんでした
後に仏陀という言葉に 執着するようになり 釈迦は唯一の仏陀だと 思っているのです これはただの名前です 医者 弁護士 技師 というのと同じです 先生 医者 歯科医 弁護士など 名前にすぎません 釈迦は大変有名なため 私達は仏陀といえば 釈迦だと思います 例えば 華陀と扁鵲はこの 世界の唯一の名医な わけではありません ただ彼らはあまりにも 有名なので ある人は小説とか 文章に書いたため 有名になったのです 他にも 名医がいて彼らと 同じ能力を持っている かもしれませんが 有名ではありません 誰も彼らについて 書かないからです
釈迦牟尼仏が 有名なのは 彼は王子だからです 仏陀になった後 国中に知れ渡りました 仏陀になる前 すでに国中の人が 彼を知っていました なぜなら彼は国王の 座を放棄したからです その時王は 最高の地位でした 今でも国王は 最高の地位です 彼は全てを放棄し 何の躊躇もなく 出家して行きました 彼は美しい妻が 一人だけでなく 数百人もいました 私達は一人の妻でさえ 離れられませんが 彼は数百人もの 妻を手放しました
彼は並外れて普通では ないではありませんか
彼はまた 全世界と 王の座と贅沢な 生活を手放しました そこで国中の人々に 衝撃を与えたのです 彼は大変有名でした もちろん 公に 人々に教えることは 容易だったのです 馬祖(マーツ)という 禅師がいました 祖(ツ)は法師の意味 マーは 馬という漢字です 一人の法師がいました 預言者が将来 馬祖と呼ばれる人が 出てくるだろうと 預言しました 後に彼が馬祖として知られるようになり 彼の家族は 高い身分ではなく 彼は高い社会的地位は ありませんでした 彼は故郷に戻り 経の講義をした時 誰も信じてくれなくて 誰も彼を尊敬して くれませんでした
彼の弟子達が外に出て 彼を宣伝しました 今日 マスターが 戻ってきて 経の講義をすると 人々に宣伝しました 皆が来て だれが マスターを見たら 彼がだれか分かったら 例えば彼は 農夫の息子だとか 清掃者の 息子だとか言って 離れて行きました 彼の講義を聞く人は 誰もいませんでした 誰も彼が 持っている智慧を 尊重しませんでした 見るからに 彼は以前と何も 変っていないのです
ですから馬祖は 今日でも有名ですが 彼は故郷で経の講義を することができません 人はみな 外見を見るからです しかし 釈迦牟尼仏は 王子でしたので 公に人々に教える事が できました 皆が彼を知っていて 彼を尊敬していて 彼を讃え 彼を知っていました 彼は有名だったのです 彼の弟子達も 彼を沢山助けています 高いレベルの 体験を収集しては 書き残し 沢山の 経典にしたのです 釈迦は四十九年も 教え導きましたので 当然弟子が多いわけで 弟子達の体験も 沢山あるわけです ですから 自分達の体験を 書き残したものが 経典になっています だから人は今でも 釈迦を敬服し 彼が持っている力と 彼が弟子達に 何を教えたか 弟子達はどんな体験を したか 分かるのです
ですから 仏陀という言葉は 中国語の辞書には なかったのです 中国語だけではなく オゥラック語 (ベトナム語) スリランカ タイの言葉にも ありません ですから 後に 翻訳する時に この名詞を借りて 文章に書き入れ 仏陀に変ったのです 仏陀が訳語に なってから 後に私達は 仏陀のことを 考えるたびに 釈迦を思い出します また私達が 神医を考える度に 神医を考える度に 華陀を思い 名医を思う度に 華陀の生まれ変わりだ と思うのと同じです 華陀は生まれ変われた ではなぜ 仏陀は できないのでしょうか 仏陀は華陀より 低いのでしょうか なぜ 仏陀は生まれ 変れないのでしょうか
華陀は名医に 過ぎませんが 生まれ変わって人々を 救うことができます 仏陀は華陀より 慈悲心が ないのでしょうか なぜ 仏陀は五十万年 過ぎても現れないの でしょうか 天国で長い間 何を しているのでしょう 天国では人を救う 必要性がありません 仏国土では 皆が善良で 皆が修行の 仕方が分かっていて 下位の衆生だって 素晴らしいのです 彼らはゆっくり 修行し仏陀を 沢山必要としません
私達は多くの仏陀 少なくとも 八十八仏がいると 聞きますが なぜこの 世にいないのでしょう 法華経に 何時の時代にも 菩薩が地面から 現れるとあります これはたとえ い仏陀がないとしても 少なくとも菩薩は いるということです なぜ片方も見つけ られないのでしょう 一人はいるはずです ですから誰かが あえて自分は 菩薩だと名乗る場合 彼を信じるべきです 敢えて名乗る場合は 彼を信じ 祝福すべきです 大した事ありません 論争してはいけません 菩薩は沢山 いるからです
大した事ではないです 道教の人に聞けば 彼らはよく分かります 彼らが言うには 仏陀は沢山いて ある仏陀は衆生を救い そうでない仏陀もいて この世に住む仏陀や 別の世界に住む仏陀 仏陀がいないと 衆生はどうしますか 先生がいないと 子供はどうしますか 時代がいくら変っても 先生はたった一人です 最も有名なのは 老子です 世々代々老子しか いません 先生はどこにいますか
先生は老子一人です しかしこの世界には 沢山の学生がいます 世々代々 孔子がいます それぞれの時代には 少なくとも一人の 孔子はいます 少なくとも各時代に 一人の老子はいます 少なくとも一人います いないはずは ありません 一人もいないとしたら あまりにも絶望的で 失望的です 生きて何の希望が あるのでしょうか 長くて百年生きます その後どうなりますか 誰にも助けてもらえず 昼夜教えてくれる 仏陀もいません 仏陀は極楽世界にいて 遠すぎて私達の叫びが 聞こえないのです
聞こえるとしたら なぜ来ないのでしょう 彼らは聞こえていて 来ていますが 私達の智慧眼が開いて 初めて見えるのです 彼らは来ていない わけではありません たとえ仏菩薩が私達の 目の前にいるとしても 分からないでしょう
私達と同じく見えます 釈迦は私達と同じく 見えますか 光を放つ事を除いては しかし彼は存命の時 彼の光を誰もが見えた わけではありません そうですね(はい) イエスが 在世の時も外見は 普通の人と同じでした 皆さんはイエスの 外見を見ましたか 彼は髭を生やし目も 西洋人の目で 外見は ハンサムな西洋人です
後光以外は同じです 皆が彼の後光が見えた わけではありません だから彼は十字架に 掛けられたのです 彼の後光が見えたら 彼らはひざまずいて 彼を崇拝するでしょう 彼らには 光が見えなかったため 彼を迫害し凡夫として 扱ったのです 人は彼がなぜ自分を 菩薩だと名乗るのか 不思議に思うのです 彼らには 釈迦の光が 見えません 彼の特殊な パワーも見えません 智慧眼が開いていない それで彼を邪道だと 中傷したのです そうですね
釈迦が 宮殿に戻って来た時 彼の父は依然 彼を息子として扱い なぜ物乞いのように なったのか 私達は皇族の血筋だ どうして自分を物乞い にしてしまったのか 私達の顔を潰している と彼を叱ったのです なぜなら父は その時の釈迦が 以前と どこが違うか どんな優れた品性が あるか分かりません 彼の智慧眼が 開いていないのです 釈迦の弟子でも誰もが 彼が放つ光が見えた わけではありません だからデバダッダが 彼を迫害しようとし 沢山の外道の人達が 彼を迫害しようと したのです
ある女性は 妊娠を装い 釈迦を訴えようとし 別の人は釈迦を殺害 しようとなどしました 何れも 無明な衆生が 仏菩薩の後光が 見えないからです 凡夫に見えるのです 智慧眼が開いていれば 私達は彼らと私達の 間の違いが見えます 彼の内面の智慧が 分からないとしても 彼の肉体の違いを 見分けられます 肉体はとても 美しく光輝き 私達と違うのです 私達には見えないし 分かりません 普通の人と同じように 見え 彼が 自分は仏陀だというと 石を投げるでしょう
だから 彼らは釈迦に 石を投げたのです ある人は 剣や毒で彼を 殺そうとしました 或いは 孔子を追い出したり 老子を追放しました これらは何れも 彼らが仏菩薩と 私達の間の違いが 見えないからです 医者になっても その人は以前と 変りませんね 彼の能力を 見ない限り 分かりません 医者でさえそうです 仏陀の場合なお更 分からないでしょう
仏陀の智慧は 医者よりも偉大で 不可思議です 私達は医者でないと 医者の持つ知識が 分かりません なのに凡夫がどうして 仏陀の智慧が 分かるでしょう ですから 仏菩薩と凡夫は 何も違わないです 霊的なものと 智慧以外は同じです 私達は彼と同じ レベルであってこそ 彼の特別な面と 特別な肉体 特別な智慧が見えます 徐々に分かってきます 彼らの弟子になると 早く知る事ができます そうでないと遅いです 彼と深い縁が ある場合以外 一目で 見分けられます
もしくは彼を見る前に すでに彼が現れます 彼は遍在だからです 時には 彼が家に来て何回も 命を助けてくれて いますがまだ彼を 見ていません 私達はただ それは偶然に 変ったと思うのです 私達は仏菩薩が 来て助けてくれた事も 知らなければ 隣に仏菩薩が 住んでいる事を 知りません 昨日彼に会った事も 知りません といった感じです
高いレベルの人だけが 仏菩薩が来てくれた ことが分かるのです そこで私達は よく昔の話を 耳にします 例えばある人が 突然聖人に会って 彼に明日何が 起きるか 教えてもらったとか または彼を助けた後 消えた話を聞きます
それは仏菩薩の 化身なのです
同じ事が現代に おいても起きています 悟りを開いた マスターに学べば 彼の化身が私達を 助けてくれます 時々 彼の化身は 私達が彼について 学んでいなくても 来て助けてくれます それはたぶん 私達の友人 友人と親戚が彼と 関係があるからです そこで私達は 古代において ある人が 突然聖人や 仙人又は 化身がきて 命を助けて くれた話を聞きます そうですね それは在世の マスターの化身です
在世のマスターがいた ことに違いありません 今もいるし 将来もきっと別の マスターがいます
衆生が存在する限り マスターはいます 学生がいれば 必ず先生がいて 病人がいれば 神業の医師がいます 世界にマスターが いないはずがなく 世界に仏菩薩が いないはずが ありません 世界は イエスのような人が 私達を救わない はずがありません
マスター 火葬して残った 舎利は修行の レベルを意味しますか 説明いただけませんか
そうとは限りません 何故かというと 埔里に ある人がいました 彼はまったく 修行していません 彼は私の弟子の 夫でした 彼は大変厄介でした というのは 最後の最後まで 肉を食べタバコを吸い 酒を飲んだのです 彼は何の 信仰もなく 何も信じていません 仏教も信じていなく 何も拝んだ事も ありません しかし彼は死んでから 舎利があります それを見たいですか 明日車を借りて埔里に 行って見て下さい 彼の息子は嬉しくて 誇りに思っています 沢山の人が彼の父の 舎利を見に来ました 彼のお父さんは私に 助けられたのです
以前話した埔里のある 道教の信者が私を訪ね 私に会いに来た話で 彼の孫が 十歳になりますが 私の化身が来たのを 見ています 彼の息子も 私の化身が来たのを 見ています 彼の妻の他に 印心を 受けた人の他にです レベルが「高過ぎて」 何でも見られます 彼女も修行ができて よくないの ではありません 体験もあります ただ その日ではありません
その日は信心して いない人「外道」の 人だけがマスターが 来たのを見ています そうしてこそ 彼らは信じるのです
その少年は 印心を受けていません 私に会った事もなく 私が誰だか 知りません 私はそこに足を 運んだ事もなく 彼の妻も修行に 関して家で 話した事もありません 夫に反対されるのを 恐れたからです 家族全員 菜食していません お父さんが死んでから 家族は全員菜食に 変更しました 彼らは私が 来たのを見たからです 息子は語っています 道教を最も 信じている人が 言っています 道教の信徒は私が 誰だか知りませんが 彼の記述は まったく同じです それで皆分かりました そういうわけで 私を信じるように なりました 皆が修行し 皆菜食しています 皆菜食しています
お父さんは菜食者 ではありませんでした あの印心した奥さんの 旦那です 彼は 菜食もしていなければ 私を信じることも ありませんでした 死んだとき 沢山の出家者が来て 念仏し 読経しました 人は皆 念仏と読経が 効力を発したら死者の 顔はピンクになると いいますが唱えるほど 悪くなり 顔は黒くなったのです その時死者の 奥さんが焦って 私に呼んだので 結局私が 駆けつけたのです
読経は役立ちません 顔がますます黒く なるだけです 最後に私がくるのを 許したのです そこで 私を呼び出し マスター 夫が 死にました 助けて 下さいと呼んだのです 学生が助けを求めると マスターは ベストを尽くします 呼ばなければ無視する かも知れません いやそれはできません 五世代は 超昇するのですから 一人も疎かにする ことはできません 彼だけが マスターの化身を見た わけではありません 多くの私達の 修行仲間の親類も 死んだ時 マスターの化身が来て いるのを見ています
これは観音法門を 修行している人にとり ごく普通です 特別ではありません すごいと思う事もなく 何でもないことです 私達は修行して 私達は修行して 仏陀になるべきです そうでなければ 何になりますか 仏陀になると 何十億もの 化身があります 化身がなければ どういう仏陀ですか
意味が分かりますか ごく普通のことです 例えば 医者になると 手術もできて 処方箋も書けます これはごく普通の事で 英語を勉強すると 卒業後英語を 教えることができ 人に英会話を教える 事もできます 英語を習ってから 将来英語の先生に なる事もできます 大した事でありません
道教を学んでから 道家になれます 仏教を学ぶと 仏陀になれます 驚くほどの事ではない
彼のお父さんは まったく修行して いなかったので マスターが彼を 救うのが大変難しい ことだったのです 私が言ったのではなく 彼の孫の言葉です その道教のマスターも 私が彼のお爺さんを 助けるとき どんなに大変だったか その様子を 見ています 見るに偲びなく それを見たとき 目を瞑って逃げました まだ子供だからです 彼は私の化身をみて 何が起こったのか 分かりません ただ ある法師がきて祖父を 助けるのを見たのです 大変危険な状態でした 彼はやめて マスター 止めてと言いました その子が言ったのです
彼は見て 恐ろしくて 逃げたのです 後から好奇心から また戻ってみると 私がまだそこにいて 危険は過ぎていました 彼は家族に見た事を 話したところ 家族は彼が魔に 取り付かれたか 病気だと思い 医者に診てもらうため 彼を連れて行きました 子供がその事を 話すとき 禅定の状態でとても うっとりしていました 彼はそのように 以前話したことの ないことを延々と 話をしていたのです その子供は 修行とは何か マスターとは何か まったく知りません
以前そのマスターに 一度も会った事がない この世界の 存在ではない とても美しく 輝いていたと言います 誰もがこの子は病気で 医者に連れて行こうと 思いました しかし医者は病気では ないと言いました そこでこの子を連れて 道教の法師に見て もらいました この家族は道教の 信徒だったのです 道教の法師の話は よく当たって多くの 人を助けています 彼らがその子を連れて 道教の法師に見て もらうと問題ないと 言いました この子はただ化身の 仏陀を見ただけです と言いました 当時その法師は私の 事を知りませんでした その法師はこの子は 化身の仏陀を 見たと言いました
しかも古代の仏陀だと 言い 古代の仏陀が お父さんを 助けたと言いました おめでとうございます あなたのお父さんは 幸福な世界にいます 古代の仏陀が助け ましたと言いました この子に古代の仏陀の 名前を聞きました 知らないと答えました あまりに古くて名前を 知らないと答えました これがそのお父さんの 舎利についての話です 皆さんは見たいですか 私が連れていきます 先日も私はその家に 泊まりました
彼はすぐ自慢します 誰かくると その舎利を見せます その家族には 一人の出家者が 出ました
彼のお姉さんです 彼女は家に帰って お父さんの舎利を見て とても喜びました 彼女は 不思議ですね なぜお父さんに舎利が あるのだろう 出家した僧侶だって ないのにと言いました これは本当の話です 私が言った事ではなく 彼らが言った事です そうですね(はい) それを調べたければ 行って見て下さい 修行仲間の一人が 埔里にいて近いです あなたの質問の答えは 必ずしもそうとは 限らないという事です 舎利があるとは その人は仏陀の パワーと繋がっている ことを意味します
一秒か二秒の間であれ 長い間又は最後の一瞬 であれ繋がると 舎利を持ちます 別の話をします 基隆で起きたことです ある 印心を 受けたばかりの 修行仲間がいます 彼女の夫は 印心していません 六ヶ月前 彼女の夫は 腎臓病を患い 歩く事ができません 脚は障害者のように 麻痺していました ただ椅子に座っていて 強い痛みを感じます 利く薬も ありません 何が起きたのでしょう 私が行って二日間 経の講義をしました 彼も私を大変信じて くれましたが 肉を手放せません なぜなら医師と 看護婦はみんな彼に 肉を食べないと 栄養が足りないと 言ったからです
彼のお父さんは当然 彼の菜食を許しません
そういうことで 彼は菜食することが できません しかし彼は強く 印心を求めていました その時彼の妻が 夫に印心を受けさせて 欲しいとずっと私に お願いしたのです 彼は印心したが正式 ではないと私は言い 彼の家族も彼の病気を 治してくれるよう私に お願いしたのです 私は魂だけを救う事が できます 病気は治せ ませんと言いました 後に私は アメリカに行き 彼にすぐアメリカに 来るように言いました
数日後彼は死にました
死ぬ数日前に彼は 菜食者になりました 彼は菜食して マスターが帰って 来るのを待って印心を 受けたいと言いました その間私は アメリカにいたのです 私は外国人の旅券で 六ヶ月毎に離れねば なりません そこで渡米したのです 彼は印心を望み 私が帰って来くるのを 待っていたのですが 死んでしまったのです 私はそう言いました 彼の病気は 治すことができない 魂だけを救うと 彼が死んだ時 彼の六歳になる息子が 私が来て彼を連れて 行くのを見ています 彼のお母さんも 強い光を見ています
子供が彼を見たとき 彼は健康で 完全に回復し 蓮華座に足を組んで座っていたそうです 彼はマスターの 化身に礼拝しました 後から 彼のお父さんは 普通の服ではなく 黄色の出家者の 僧衣を着て 髪を下ろし マスターに向かって 三回礼拝した後 マスターと一緒に 蓮華座に座って 極楽浄土に行きました また子供も訪れました 彼らについて暫くの間 そこへ行きましたが 戻ってきて はっきり話しています お父さんは私にママの 面倒を頼む さよなら 彼は言ったそうです
どんどん遠くなった後 子供は戻ってきました どういう意味でしょう これは修行者だけが その境界に達すると いう事ではありません 場合によります 私達が誰と関係が あるかによります 例えば 私達は政府の 役人ではなく 政府で働いていません しかし高い地位の人を 知っているとすると 私達も権力を持ちます 友人が訪ねてきて その高官の人に話を つけてもらえませんか この問題は彼なら 助ける事ができると 言うでしょう 同じように 国王の友人を 知っているとすると 私達もいくらか権力を 持ちます そうですね
同様に たとえ私達が 修行していなくても 修行者を 知っているとすると その人の福報を借りて 助けてもらえます ですから 高いレベルまで 修行を積んだ人だけが 舎利を持ち極楽浄土に 行けるのでは ありません 違います さっき引用した二例は 最新のホットな話題で 二千五百年前の クールな話ではなく 二週間前に 起きた話か 二ヶ月前の話です
ホットニュースで 今調べても 確かめられます 疑わしければ それを調べて 私達の修行仲間に 聞いてください 二つの話をして 証明したかったのは 修行のレベルは修行と 必ずしも関係あるわけ ではないという事です なぜなら時々ある人は 大変熱心に 修行しますが しかしレベルは 高くない事もあります 電気がないからです 美しいランプに 見えても 電気が通ってないので 明かりがつきません たとえそこに百年間 立っていても 明かりはつきません 見た目がいいだけです 昼間は 美しく見えます 夜には 暗がりしか見えません これは 大変興味深い質問です
あなたのテープで 聞いたことですが 印心を受けた人は 修行結果は予約済み ということですが そうです 詳しく説明して いただけますか 予約済みとは どういうことですか 例えば 印心を受けた人は きっとマスターを 信じて 引き続き修行します
突然方向を変えて 離れていく人は それはその人の選択で 仕方がありません
それは自由意志が あるからです
自由意志とは 何か分かりますか 全ての宗教はこの 自由について語ります 例えば私について 学びたい人は その人が 修行して到達する レベルを予約して おきます
後に修行をし続けて そのレベルに 達した場合 その地位につきます
少なくとも あなたのために一つの 席を取っておきます 例えば皆さんが劇場で 劇を観賞する場合 まずチケットを予約 しなければなりません
それから予約金を 払わねばなりません 予約金を払わないと その席は 他の人に譲られます
チケットが 必要なくなったら お金を払い戻したり 電話でチケットを 返却できます そのチケットが 欲しくないのです すると行かなくても いいのです たぶん そこへ予約金を取りに 行くかもしれません または少しお金を 失うか何も失わないか これは前に いくら払ったか 何日前に予約したかに よります そうですね それからその位置 その席は他の人に 与えられます 意味が分かりますか はい いいでしょう 同じことです 釈迦も仏典で これを述べています 私だけがこれを言った わけではありません 仏教徒であれば 私が言ったことを 経典と比較してみると 私が言った事は真理 である事が分かります これは大した ことではありません 釈迦に従兄弟が 一人いました
彼はよく家に戻って 妻に会いました 彼には美しい妻がいて いつもこっそり戻って 彼女に会いました
ですから 彼の霊修行は 進歩せず 後退するばかりでした 釈迦は彼を助けるため 彼を連れて 天国に行きました そうですね 天国には 美しい宮殿と 多くの美しい女の子や 妖精がいました 数百人もいました 彼女たちは あちこち走り回り踊り 宮殿を掃除しています
釈迦の従兄弟は 妖精たちに「なぜ この美しい宮殿には 住む人がいないですか 誰のためにこの宮殿の 世話をするのですか 宮殿の主は誰ですか」 と聞きました
彼女たちは答えました 「今は誰も 住んでいませんが 釈迦の従兄弟を 待っています 霊修行で高いレベルに 達したら 私達は彼に仕えます ここは彼の宮殿です しかし彼は今修行が 十分できていません あまり進歩もなく いつになったら 上に上がってくるか 誰も分かりません できなければ これを別の人に 渡します」と これを聞くと 彼は大変動揺して 「私を待ってて下さい 私は上がってきます 帰って修行に精進 します」と言いました 彼は帰ってから 釈迦はまた彼を連れて 地獄に行きました 大きな鍋に油が 煮え立っていました 熱い熱い油です 二人の悪魔が 見るからに可愛く 長い牙が生えていて 長い脚と 炎のような髪はそてもきれいです 彼らは寝ていました
彼は怖くて彼らを 呼び起こし聞きました 「なぜここで 寝ているのですか 何のための油なのか なぜ誰もいないのか」 「釈迦の従兄弟の為に 用意したもので 彼が 修行に励まず 精進しないので 私達はここで彼を 待っています 後からここに落ちて くるかも知れません いつ落ちてくるか 分からないので 準備しておきました 今は仕事がないので 休んでいるのだ」 これを聞いて 彼は大変恐ろしくなり 帰って修行に 励みました 私も席を 予約するといった事を 話しました ただ 皆さんには下にも 予約席があります
マスターを中傷すると その下の所に行くかも しれません 皆さん何を選択するか 私は分かりません 人間には 選択の自由があるので 好きに 選択できるからです 全ては心によって 作られたもので 信じたければ そうしてください 信じなければ 無理強いしません 天国に行きたければ 修行しなければならず 地獄に行きたければ 行ってもらいます ですから両方に 予約席があります 片方だけではなく 釈迦の従兄弟でさえ 地獄に予約席が あります 私達はどうでしょう
仏陀の従兄弟でさえ 安全ではありません 皆さんは私の ただの弟子です
私が仏陀であることを 信じないとしたら もっと修行すべきです 仏陀の従兄弟でさえ そうですから 仏陀の 従兄弟でない人や 仏陀の弟子でない人は 何が起きるでしょう
私が仏陀であると 信じていればよく 私は異議を言わないし 否定もしません 全ては心によって 作られたもので 皆さんは私が仏陀だと 信じれば私は仏陀で 大した事ではないです 私は自分が 仏陀だとか仏陀でない などと名乗りません 皆が仏陀ですから 私もきっとそうです 全ての衆生は 仏性を持っています 動物でさえそうです 私に仏性がない はずはありません 私が仏陀でない はずはありません 私が仏陀でないと誰が ですか 皆さんですか そうですか(はい) 素晴らしいです
いいでしょう 私が仏陀だと 信じた方がいいのです もっと精進する事です 仏陀がマスターに なって光栄です そうではありませんか 私が仏陀だと 信じられなければ もっと修行すべきです 釈迦の従兄弟に 何が起きたかを見れば 分かると思います 仏陀の従兄弟でさえ 安全ではありません 地獄に落ちるのです 私たちは 仏陀の従兄弟でも 弟子でもありません ですからもっと 気をつけなければ なりません もっと修行に励まねば なりません たとえ私が仏陀だと 信じないとしても 皆さんはこれを 証明できません
先ずは 私の法門が最も良いと 信じないとしたら 証拠がありません 別の法門がこれより 優れていると どう証明しますか 凡夫はその違いを 話すことが出来ません 自分が好きな 法門があればそれを 修行していいです 私の法門が 気に入らなければ 習わなくていいのです どの法門を修行するか あなた次第です いつの日か 結果が現れるでしょう
私の法門は 信じやすいです なぜならすぐに 体験できるからです 自分で証明でき 経典で確かめることが できます 他の法門は 体験がありません 数十年も 仏陀の名前を 唱えても無駄です 仏典を拝んでも 何の体験も 得られません 証明もできません
私の法門は少なくとも すぐに体験が得られ 少しは証明でき 何か確かめるものを 持っています 他の法門は 何の体験も 得られません 何を持って確かめるの でしょう 念仏する前と 念仏した後は 何の変りはありません 何も証明できなのです
普通の野菜を 洗って生で食べます ほんの少し食べます 彼らはこのように 生活を送っています 日々このようにです 海辺に 住んでいる人もいるし ガンジス河の川辺に 住んでいる人もいます 一つか二つ洞窟を持ち ガンジス河の 川辺に洞窟が多いです 自然にできた洞窟と 自分で掘った物があり 簡単に掘れます 鍬を使って 山に洞窟を 掘って 蚊が入ってこないよう ドアを作ります ある人は 裕福で 中にお金があります そこで 鉄でドアを作り 刑務所のようです 自分は中に入って 時間になると 出てきます
全ての宗教は 異なります 将来私は ビデオカメラを持って 世界旅行に行くとき それらを撮って おきたいです とても美しいです あるものは 実に美しいです 私はインドの音楽が 大好きです 道場では 様々な楽器を同時に 演奏していました ギターや ドラムなどです それらを同時に 奏でるときに 素敵な音楽になって それを聞くとき とても美しい音楽で ハイレベルの音楽で 聞いていて禅定に入る こともあります そのような体験は ありますか あります 少しあります
私がインドにいた時 出家生活は とても簡素でした ただ時には 二週間も何も 食べるものがなく 本当に空腹でした ガンジス河の川辺には 沢山の人が 洞窟に住んでいます 彼らの教えてくれた やり方では 時々 食べるものがないと ガンジス河の 水を飲み そして洞窟に戻り 瞑想を続けるそうです 暫く瞑想してから 疲れたか 空腹を感じると また降りて行って ガンジス河の 水を飲み そして上がってきて 瞑想を続けます 暫く座っていると また空腹を感じ また降りて行って 水を飲み戻ってから また瞑想を続けます
水を飲むと 満たされ空腹感も なくなるそうです 彼らがこう言いました 私はそのような困難な 体験はありません 三、四日間食べない 事が以前ありました 私が修行する前でした フランスにいた時です 私は一週間か二週間 食べなかった ことがあります それはできます リトリートの時は 何も食べたくないです だから食べません その期間中誰もそばで 面倒を見てくれません 買い物する必要も 料理する必要もなく どちらも面倒なのです だから私は食べません 私は水だけ飲みます それでよかったのです 果物があればそれも いいです 果物ではなくジュース それで過ごせます ただこれは贅沢です 水が最も便利です 死にません ただ 少し痩せるでしょう
やって見て下さい 何日間ですか 二日間か三日です 二、三日ですか 一週間か一カ月でも 問題ありません 本の中で 私達の観音法門を 修行する人は 餓死しない ある日食べる物が なくて餓死しても 問題ないとあります (食べる物があるか ないかは重要でなく) なければ なくていいのです
死にはしません そんなに早く 死にません 慣れます 死にません 観音法門を 修行しない人でも 一人か二人 観音法門を 修行していなくても 最高の力と繋がって いるので食べ物なしで 生き残れます やってみて下さい
怖がらずに 心が平穏なら 問題ありません 少しおなかがすいても 大丈夫です 何日かすると感覚が ないようになります それに慣れて 食べる必要さえ 感じないように なります 本当 私は試しました ええ テストしました でも注目されたく なかったのです 私が アメリカにいた時 一日一食だけでした
一日一食だけで それにとても忙しく 一日十六時間働いて 床を掃いて トイレなどを洗浄し そしてメインホールを きれいに片付けました その後 朝と夕方の 修行を行いました とてもお腹がすいて そういった仕事は 空腹にさせます 私は経典を 唱え続けました 胃袋が 空っぽのままで 胃袋が空になるまで お経を上げ続けました その後料理と多くの 仕事をせねばならず 料理している間も もちろん空腹でした 私は夜 何も食べなかったし 朝も何も 食べなかったからです
料理している間とても お腹がすいていました それで沢山昼食を 食べました 三杯も とてもゆっくりでした とてもお腹が空いていたので沢山食べたけれどゆっくりです それで彼らが毎回 私を見続けるたび とてもきまりが悪く 彼らはからかいました 「彼女は三食を一食に まとめた」と 彼らはからかいました 何回も何回も ある日私はうんざりし もう聞きたくなくなり 言いました「いいです 今日から食べません いいです 皆は食べて 私が料理しますから」 その決定後はお腹が 空かなかったのです 全く空きませんでした その日から私は 食べるのを止めました 彼らはとても恐がり
過去私が食べないのは リトリートの 時だけでしたので 私が食べないと言った のとは違いました 本当にそうしました そのように簡単でした きっぱり止め 食べず 大丈夫今日は食べない 一日は大丈夫です 二日は大したことなく 三日後 彼らは 驚愕し始めました 彼らは怯えました なぜなら まだ私が一生懸命に 働いているのを見て 彼らは怯え始めました 「何か食べて 怒らないで」と 私は「怒ってませんよ 食べることはとても 疲れて厄介なので 食べないと決めました 気にしません」と答え 空腹でなく むしろ 素晴しいと感じました
体は軽くて それに とても気楽でした 消化の問題は ありませんでした 素晴しく いい気分で 時間が過ぎて行っても 食べる気になりません 全く食べたいと 感じませんでした 私は思いました これを続けたら 百年は大丈夫だと 本当にそうなのです でも彼らは動揺し その寺院で彼らは 「騒ぎ」始めました 彼らは毎日 私を煩わし それに 他の人にも話したので それで皆が 私を見に来ました その時私は言いました 「チンハイ あなたは 自分で面倒を起こした そんなことしないで 一碗食べて問題を 最小限にしなさい」と それで私は食事を 再開したのです 本当にただ面倒を 避けるためです 喧騒とした雰囲気を 作りたく なかったのです
それが食事を 再開した理由でした さもなければ とても 自由で気楽でした 私が決定をした日 あたかも脳が命令を 下したようでした 「いいわね 胃袋」 胃は「分かりました もういいね 素晴しい これからは 仕事がないぞ」 両者が同意して 私は全く空腹を感じず とても気楽でした ほんとうに気楽でした 今私は後悔しています 食事を再開して とても後悔しています やめないで続けて いたら 今私は 食べる必要ありません 私はどこにでも行け とても便利で どこに行っても 心配する必要がない 心配してるのではなく 私はどこに行っても 常に食物があります
決して食物に事欠かず 沢山の食物があります たぶん過去において あまりに多くの 布施をしたので それが今沢山実を結び 良いカルマ(報い)が あるのかもしれません ですからご存じの通り 私はどこに行っても 十分過ぎる食物があり 私一人だけでなく 団体の皆が食べても 食べきれません 私達はいつも 多くの人々と 食物を分かち合います そんなに多く 食べられません ですから私は決して 餓死の心配ありません
反対に 食べなかったら 人々が面倒を持って 来るのが心配です 皆が食事を取らない 人を見に来ます 解脱のために 来るのではありません
彼らにはその印象 だけがあるのです
彼らは不思議に思い 皆が食べるのになぜ 彼女は食べないのかと 好奇心のために 彼らは伝説を 見に来ます 奇跡的なものを 解脱を求めに 来るのではありません
私が菩慧尼を 訪問した時でさえ 私にもまた 好奇心がありました
「誰でも食べます 世界中皆食べるのに なぜ彼女は食べない」 例えばそのように 私達はそれを考え続け その考えだけに夢中で 彼女に会って聞こうと 思い続けます 「なぜ食べないの」と それが最初の質問で そう彼女に聞きました でも彼女は何も言わず 彼女の弟子の通訳後 私はもう一度その 弟子に聞きました
「それは本当その人は 何も食べないですか」 当時私はアメリカに 行ったことがなく 自分で断食を 試していませんでした 好奇心にかられて 私は聞きました 「どうするのですか」 彼女にどのように するかと聞いたのです 彼女曰く「ゆっくりと」 どうするかは言わず ただ「徐々に」と 言っただけです そう そして彼女の 弟子は通訳して 言いました「修行者は 気長にすべきです 一歩一歩あまり 急いではいけない 私のマスターは修行の とても高いレベルに 達しました
だから食べなくても 構いません あなたはこの道を 始めたばかりです あまり速く急がないで でなければ 倒れます そう はしごを 登るように ゆっくりすべきです」 彼女はそう言い でも 私は弟子に聞き続け「あなたのマスターは 本当に全然食べない」 彼は「本当です」 「何年になりますか」 と私は聞きました
彼は「二十年以上」 私は言いました 「わあそれは素晴しい それは素晴しい 私は必ず この法門を学びます」 こうして私は 断食だけに集中し 残りことを忘れ 解脱と修行と 高いレベルの智慧を 忘れてしまいました これら全て忘れました なぜ彼女は食べなくて いいか考え続けました
なぜなら当時 私が市場に行った時 寺院の出家人も 時々市場に 行きますが 市場で野菜を売って いる人の苦しい 生活を見たからです
あまりに多くの困難 そして農業はもっと 困難です 辛い仕事の後 彼らは 野菜を丁寧に洗い きれいに見えるよう 並べなければ なりません
ある年老いた女性は お金がなく 屋台の店がないので 野菜の束をいくつか 小さなかごに入れて 叫び売りをします 彼女は大声で叫び続け でも誰も買いません 私はとても辛く感じ また市場では 鶏がカゴに 閉じ込められています 毎日それを見て私は 泣いて家に帰りました 買い物に行きたくなく 何も食べたく ありませんでした でも空腹になります どうにもなりません 私は空腹の時でさえ やはり嫌悪を感じ 私は空腹のために食べ でも気分が悪くなり いったん食べては 全部吐き出しました 食べて吐き出す 私は衆生は非常に 苦しいと感じました 彼らは辛い思いをして そんな金を稼いでいる 食料品の買物を するのは辛かったです それを考えたると 食べたくなくなります
それであまり 考えないようにします 今日の昼食は とれないでしょう 余りにもそれについて 考え続けていたらね 私は自分の話を しています ですからこの状況で 彼女が二十年間も 食べていないと聞いて もちろん私は これらを考えて きわめて重大な問題 霊的な解脱を忘れます 断食が最高だという 事にだけ夢中になって それらの事を尋ね続け 彼女がどんな法門を 修め それが彼女を 解脱に導くかどうか 尋ねるのを忘れました これら全てを忘れ ですから神通力は 厄介なことなのです そうでしょう
普通でないことを したら それは常に とても厄介です それは人々を究極の 目標 究極の目的から 外れさせます そうではないですか だから私は 食べなくてもいいと 皆さんに言っても 食べ続けています 毎日食べますが 草をたべるようです ほとんど 草を食べてるようです 時には 私が これは大変おいしい と言うのを聞きます 皆の為に言ったのです それが美味しいとは 限りませんが 皆さんにとって美味と 私は分かります
皆さんが美味しいなら 私も美味しいです
私達は一体ですから 皆さんが良いなら 私も良いのです
必ずしも味わう 必要はありません 私は時々 耐えられませんが 何か特別なことは したくないです 人々にそういう 思いをさせたく ないのです
私は人々をそんな 無用の考えに 導きたくないので 普通に生活します 「平常な心は 道である」 はい 賢者は 愚者のように見える 私達は修行するほど もっと普通になります もっと修行したら もっと普通になります
私に会いに来ると 人々は失望します マスターは こうである筈だと 思うでしょう 威厳ある態度で座り 目は鼻を見て 話し続け 経典を読み続けて 話してると思います そんなことありません ここには経典の代りに キャンディとナプキン オレンジがあるかも しれません
そう こんな風です 講義を始める前でさえ 時には私達は 大笑いをします
とても自然です 芝居をする雰囲気を 創り出そうとは しません ある人はそれを好み 他の人は好まない かもしれません 彼らはこんな事に 慣れていませんから 私も歌を歌います 私達は柔軟性があり 時にはこのように でも殆どのマスターに とってこれが彼らの 講義の方法です
霊修行は厳粛で なくてはいけない事を 意味しません 修行すればするほど より気楽になります 何もありません 修行は呼吸と同じです 誇りに思って とても重要に 見せる事はないのです そうでしょう 食べる事 寝る事と 同じです 何かする必要があれば そうするだけです 食べる事はこの肉体の 保護するためです 霊修行は精神を 保護するためです 私達は毎日水を使って 体を洗います 音を使って 精神を清め 悪いカルマ(報い)を 浄化します それだけです 自分の外と内の両方を きれいにします それは陰と陽の バランスを保ちます 陰は外側で 物質的な問題です
それは私達の肉体 世界で 物質的なものです 陽は内側の 見えない部分です 私達には陰と陽があり 両方がバランスを 保つと道(タオ)です 平常でいることです バランスを保つのが道 心が平常なのが道 バランスのとれた 衆生だと 私達は幸せで楽しく 何をしても 心配しません
何にも執着しません しかし他人に 害を及ぼすことはせず 道徳ある人として 害になることは するはずがないです
それは基本的なことで 言う必要さえ ありません ですから 霊修行は普通のことを するのと同じです 修行すればするほど より普通になります 修行するほど よりこの人生を 受け入れられます
恨みや拒むことなく この世界を受け入れる べきです また 逃げたりもしません 私達は執着しないが それを拒絶しません そしてこのように より普通であるなら よりリラックスします それが 修行者の道です 深刻なふりをする 必要ありません そうしても良いですが 役に立ちません 私は講義してる時に 厳粛に座っている 人を見たら 悲しくなります 私は彼を見続けます どうしてでしょう なぜそうするのか 彼の目は誰も あえて見ません 鼻を見続けているだけ 私は悲しく 彼に注目します 彼の世話をします
しかしそれは習慣です 彼は他のマスターを まっすぐ見ないことに 慣れているので できないのでしょう 講義の時は 私を見るべきです 私が食べている時 見ないで下さい シャワーを浴びてる時 見ないで下さい しかし講義の時は 見るべきです 私を見たら 福報があります 瞑想したかったら もちろん目を閉じて 瞑想してもいいです 構いません しかしそんな 表面的な態度を 装わないで下さい よくないです
治療者が 修行の力を使って 他人を治療するのは より低いレベルに属し それで彼は患者に 触らねばならず 彼は誰かを触り そこを触り 例えばそのように 彼は痛いところを 触ります 後で彼はすぐに 手を洗うべきです 長い間沢山の水で 手を洗わなければ なりません 長い間 流水の下で洗い そして (振り切る)そう 長い間 これは 悪いカルマ(報い)を 悪いカルマ(報い)の 力との関連を 切り離して しまうためです でなければ 二つの魂が 混ざり合う 可能性があります 恐ろしいことです
霊体 目に見えない いわゆる阿修羅の体は 混ざり合うでしょう それはよくないです 悪いカルマ(報い)は 私達に移ります これは方法の一種で 自己防衛の方法です 彼らは知ってます 魔女は 皆知っています 黒魔術師は 知っています
過去において 釈迦牟尼仏 あるいは開悟した人は 皆ここに 第三の目があり インド人は ここに赤い点をつけて 智慧眼を作ります 内で開悟していなくて 彼らは外に にせの目をつけ それは開いてませんが 智慧眼をカバーします 彼らは ある種の布 あるいはある種の紙で そのように 一つ一つ作ります それは市場で買えます 毎日一つ付けて 落ちたら 次の日もう一つ つけます でなければ 何か赤色の物を使って ここに点をつけます 以前 偉大なマスター達が 印心の時や 法門を授けた時 彼らはこう触れて 智慧眼を開けます 偉大なマスターの手や 体の他のどの部分にも 大きな力が あるからです より良い修行者は マスターの触れる力を 認識します ある人は 感じません それでもなお 役立つのです