こんばんは 私は韓国で生まれた 中国人です 両親は中国人です 私は亀浦で生まれて 育ちました 私は亀浦市民と 言えますね でも私は高校卒業後 フォルモサへ 行きました 韓国を離れて以来 十年以上の月日が 経っています それで私は多くの 韓国語を忘れました 私は上手く話せるか どうか心配です 下手でもどうかお許し 頂きたいと思います 私はマスターに 約二年前に会いました マスターに会う前には 私は宗教について 何も知らず特に興味も ありませんでした
しかし二年前の ある日タクシーに 乗った時 私は非常に 美しい若い尼僧の 写真を見ました 私はちょっと 不思議に思って 運転手にこの人は 誰なのか尋ねました 運転手は 彼女は 彼のマスターだと 答えました そして彼女は 観音菩薩だと 在世の 観音菩薩 釈迦無尼仏だと 彼は言いました
その時私は 何も考えずに 彼に尋ねましたが その運転手は 彼のマスターについて 際限なく 話をしたのです 彼は言い続けました 「マスターが講演を していてもいなくても その体は全て 黄金の光を放ち 時には彼女の肌は 黄金で出来てるようで 時々彼女が 講演をしている時に 黄金の光は とても輝き 全ての 聴衆が目を開けて いられないほどだと 光は とても明るく 講演しているホールが すっかり光に包まれ 聴衆はすっかり 包まれてしまいます ちょうど全ての聴衆が 黄金の光の服を 着ているようです」 つまりホール全体で 空間全体のことです 私達が韓国語で言う ホール全体に 光が満ちるのです
その時私はその話が 信じられませんでした 私はこの種の神秘的な 話を信じません タクシーの運転手は 少し変だと私は そんな風に思いました とにかく私は彼の話を 止めたいと思い 何か くだらない事を言い 彼は話し続けました 私は聞かねばならず 私は既にタクシーに 乗っていましたから 私は彼の話を黙って 聞いていました 彼が言い続けた事には 「マスターが 講演をしている間 聴衆の中には 病気を患っている 人々や 他にも自分では解決 できない問題を抱えて いる人々がいます
それら全ての病気の 人々がマスターの顔を 見るか彼女の体の 黄金の光を見たり マスターの声を 聞いただけで自動的に 彼らの病気は 癒されてしまいます そして問題を抱えた 人々の問題は 徐々によくなり自然に 治ってしまいます 彼は多くの 魅惑的な話を車中で 話してくれました 私は黙って聞きました それで私はこの世界に このような人は本当に 存在しているのかしら と思いました
それで車を降りた時に 私は小冊子を 運転手から 受け取っていました 私は家に帰りその本を 読み始めました 読み終えた時 私はまず驚きました 理由は私には常に 何か内面に問題が あったのです しかし私には何が 問題なのかさえ明確に 分りませんでした しかしこの本を読み 終えた時 私の問題の 答えはその本の中に あると分かりました その時 私は更にこの尼僧の 言葉や仕事について 知りたいと思いました それで私はフォルモサ (台湾)台北の 瞑想センターへ行き 本とカセットを幾つか 家に持ち帰りました これらの本とテープは 韓国語にはまだ翻訳 されていませんでした でも英訳版は ありました 読めば読むほど 驚かされました
なぜこの尼僧は 私の深く内面の問題を これほどよく理解し 私を知って いるのだろうか 彼女は私の質問に 全てすぐに答えて くれるのでした その日の後私は彼女の 弟子になったのです 私は印心しました タクシーの運転手が 話した通りの事を全て 私は見て体験する ことになりました
私はマスターに 本当に近く驚くべき パワーを感じられ 多くの信じられない 事柄が起こりました その事はとても世俗の 言葉では表せません 私は自分自身がどれ程 幸運であるか 信じられないほどです 私は自分がこれほど 幸運で幸せで 幸いで あるか知りません 私の故郷釜山で 今日 美しい韓国語で 私のマスターのことを 話せます 真の喜びです ここが私の元々の 故郷です 私はただ韓国語を 美しく 素晴らしく 話せることを望みます この願いは 私が懸命に試しても 私の韓国語はそれほど 良くはありません どうかお許し 頂きたいと思います ありがとうございます
こんにちは素晴しい韓国の 素敵で 賢明な皆さま 私は長い間 あなたの 国を尊敬しています 私に薦められた 車の一つは ヒュンダイでした 韓国製の車で 本当にとても 良い車です 車で 貴国を 尊敬している わけではありません 貴国の人々の 気迫が 私と世界に 強い印象を与えてます 私が米国にいた時 そして 他の 別の国が この「仕事」を する前に 多くの韓国人の 僧侶に出会ったり 在家者だったりが 寺に通っていました 毎回 韓国に 寄るときはいつも 朝鮮人参とキムチを 買うことを 忘れません
それで今日のような 公式的な会談の前に 私は 韓国の方々に 縁が あるのだと思います この機会を持てて とても 非常に 光栄に思い この機会に この素晴らしい 国の人々に 伝えられます 私は ソウル空港で 飛行機を降りた瞬間 沢山の愛情と 良い精神 良い意志を 感じました 人々の圧倒するような 愛情が 私を なぜか少し恥ずかしく 感じさせました でもそれは 皆さんが 内面の愛情を 外面に表現している ことなのだと 感じました この町に着いてから 何人もの人々が 私を 歓迎してくれて 小さな部屋で お会いし 温かい感情が まだ私の心を 圧倒しています 私が出来る限りの ことで貴国に貢献する ことを願います
特に 皆さんの国は 現在とても良く 発展していて 物質的な支援は 必要ありません 皆さんの国は 急速に成長していて 人々の意識も 上ってきていて また 全世界からも多くの 尊敬と感心を呼ぶ 責任ある態度も 上がっているのです 昨日と今日 皆さんの関係者と 連絡を 取って以来 なぜそうなったか 私は理解できます 神または仏陀は 貴国をとても 祝福しているのだと 理解しています 沢山の寺 多くの僧侶を 見ました 町中に 町の中でです 町に そして 首都にも 沢山の異なった 宗教の寺を 見ました キリスト教会も 他の宗教と 共に成長しているのを 見ました
それで貴国を 理解しました 皆さんは 精神的に高く 高揚しています 精神的に高く 高揚している人の 心だけが とても オープンで 考えが寛大で とても広いのです それは 沢山の 良い宗教を 理解でき 主要な 宗教の基本は 人間の幸福の 意味なのです これが私の呼ぶ 文明というものです 文明は 財産や 機械的な 発展だけで 測られるのではなく 人々の霊的な成長で 測られるのです 霊修行は この世の達成とは 無関係だと よく人々が言うのを 聞きます
菩薩 または 神の王国に 到達するためには 全世界を捨てて 全世界を捨てて 隔離された 場所で ただ一人で 修行したり 集団で修行をする のだとよく聞きます その中に真実があり 私達が霊的に 成長すれば良くて そして物質的に この世界の世話したら この世界で 生産的に 良い人生を 暮らせるのです 心地よく感じ それと同時に 智慧を 成長させるのです 韓国の素晴しい 皆さんは 両方を 管理出来ているのです 世界的にも珍しい 平静さなのです 私は心から 皆さんに お祝い申し上げます
そしてこの傾向で 韓国は 霊的に そして 物質的に成長し 平和と幸せと 繁盛を国民にもたらし 続けるでしょう 私達人間は皆 虚弱な体を 持っていて 考えも時に弱いのだと 私は思います とても心地悪い人生で 親切心や物質的な 快適さに欠けていて そうしたら それは 健康と心の平静に 影響し そうしたら 内面的に 穏やかに集中するのが 難しくなっていきます 私達がヒマラヤとか 市場にいても 高いレベルの 瞑想での体験を 求めているところまで 達せません
私達のほとんどには 家族があり 国務 国際貿易 そして 出席する仕事があり それで 皆が山やどこかの 洞窟に隠れ ただ霊修行の 心配だけを することはできません 従って とても 現実的で ただ 家族の世話をして 国務 そして 私達の居場所を 探すのです ヒマラヤに いるのはとても 心地良かったり 離れた静かな場所で 瞑想の成果の至福を 楽しむのは良いですが この至福と 修行を 修行の成果を 大勢の人々と 共有するのもとても 楽しいことなのです これに気付くまで 時間がかかりました
涅槃(永遠の至福)を 捨てるのは 難しいことです 内面の平和と 幸せに達したら この世界に まだ多くの人々が 苦しんでいるのに 気付き 思い出すのは 難しいのです さほど難しくはないが 再び世界に出て 納得するのは そんなに簡単では ないことが起こります なぜなら私達の心が 至福の状態にあるとき 違うように考え 違う感覚になります 皆が仏陀だと 感じるのです 世界は完璧に 見えるのです それは精神状態が 違うからです だから「道徳経」の 中で老子は言いました
天下には何も することがない でも実際にはする事が 何かあります なぜなら 私達が開悟する前の 無明を 思い出すと 霊的な苦痛のようにも なります それで誰かが来て 出かけて彼らに それを教えるように 言ったら 拒否する ことは難しいです しかし 誰かが来て 開悟について尋ねたり 霊的に助けるように するのは良い事です さもなければ どのマスターも 世界に出て すでに達成した知識や 至福を共有したいと 思わないと考えます 先ほど言ったように マスターは 自分本位ではなく 開悟した人は 違うように考えて 違うように 感じるためです そういう訳で 老子は強いられて 本を書いたのです
この素晴らしい本は 「道徳経」と呼ばれます 強制されて書きました その本に加えて 無形の秘密の啓示を 強いられました 数人だけに 明かされました 重要なのは 本自体でなく 記録されてない 選ばれた数人に対し 老子が明かした 言葉の秘密こそが 重要なのです 仏陀が開悟した時も 世界に出て 誰かに教えたくは ありませんでした 涅槃を楽しむべきだと 考えたのです 分らない人が いるといけないので 「涅槃」とは サンスクリット語で 意識 至福 平静が 非常に高い状態にあり 無欲な精神状態を 指します
けれども その後 梵天は出かけて行き 切望する人々を 教えるために 現れました 恐らく当時 彼は どこかに隠れていて 悟りのために 現れてくる人が 彼の 近くにいなかったため 梵天がそうせざるを 得ませんでした さて なぜ梵天は このように 要請したのでしょうか 多くの人々が 加護と悟り 救いを 梵天に 祈り求めたからです 梵天は 第三世界の神です ヒンズー教によれば 梵天は世界の 宇宙の創造者です そこには沢山の 他の神がいます けれど 私は彼らを 招いて来なかったため ここで彼らに 触れるべきではなく 今日は韓国の人々を 招きたいのです 多くの神々の 集会でありません
いずれにせよ 単なる冗談です とにかく神々は ここにいます 一人ひとりが神です ここに三、四千の 神がいます では 質問に 答えましょう なぜ当時 梵天は悟りの教えを 世に広めることを 仏陀に求めたのか 梵天は 宇宙の体系の中で 最高でない神々の 一人だから 彼には 世界の苦しみが聞こえ 見えるのです そのため その時 最高の悟りに達した 仏陀には 分かりませんでした それで 梵天などが 彼に気づかせます 私達は大抵 仏陀や全能の神は 祈りを聞いてくれると 思っています
けれど私の知る限り そうではありません なぜなら 最高の力によれば 世界はすでに 整然としていて 全ての苦しみは 私達が成長し 成熟するための 課題だからです 最高で全能の神や 最高の仏陀は さほど心配しません ある種の神や より低い菩薩には 私達の苦しみが分り 同情します 教育制度で 最高権威にいる 人のように 彼は試験のテーマや 問題を出すだけです
でも彼は 生徒が 答えられる 答えられないとか 生徒の苦しみを 心配したりしません それで ある先生らは 学生を世話し これら全ての障害を 克服するのを 助けねばなりません
仏陀が 最高の悟りに 達した時 本来の面目に 再び戻りました この最初の偉大な 本性は常に至福と 永遠の平和にいます ですから 彼は 彼が達した 悟りの境地に 達していない 無明な人々の苦しみを あまり理解 できませんでした そして 梵天は この世界の幸福を 世話する人であり 誰が善行を 悪行をしたかを 見る人なので より知っています 国の大統領や 国王が 彼の大臣や より低位の部下を 信頼せねば ならないのです 人々の望みを 彼に報告する 議員のように 大臣等のようにです ですから
私達 人々は 無明という刑務所で 大いに苦しんだ時 全能の神や 最も偉大な仏陀に 救い求め祈ります それが全能の神に 報告された時 苦しみを持つ これらの人々を 導くため ある人が ここに送られます 仏陀は送られ 降りて来た中の 一人です イエスもそうでした 他の多くの聖者が この世界の人々の 悟りを助けるために 時々送れられ 降りて来ました けれども 彼は忘れていました 仏陀は忘れていました
およそ三十年間 当時 インドの 人々の苦しみを その目で見る時まで ですから 私達は仏陀かどうか 分りません 私達も偶然 悟った マスターの恩恵で 悟るまでは もちろん 皆さんが仏陀か 仏陀でないか自身で 知るようにすれば それで分るでしょう
仏陀が言ったことが 本当であると 皆さんは仏陀です 皆さんの内面に 発見されるのを待つ 仏陀の本性があります けれど もちろん 自己を発見する 能力は それぞれ違います 従って 悟りの レベルも違います でも二人が 同じ意識のレベルで あったら 彼らの体験は ほぼ同じです そういう訳で 修行の道は 「タオ」と呼ばれ つまり道路です それが道であるので 同じ道を旅する 人々はそれぞれ 実際 同じものを見ます 歩んだ道の長さに 基づいて ものが 違って見えます 二人が 同じ距離を歩けば 同じ景観を体験します
そうですね 道が違うなら なぜ 全ての仏陀が 菩提の境地に到達し 他の所に 到達しないのでしょう 道が沢山あれば 人々の体験は それぞれ違うはずです けれど 仏典によれば または別の宗教の 他の神聖な本によれば 神聖な道を修行する 様々な人の経験は 同じか 大体同じと 言っています もちろん 内面を理解した時 沢山の素晴らしい 体験があります けれど実用的な例を いくつか引用します 例えば あらゆる宗教で 神の偉大な光や 仏国土からの 仏陀の偉大な光に ついて 言及しています
私は異なる宗教の 様々な聖書を 勉強しました そこで述べられている ことは 他の聖書と 非常に似ています 悟る前にこのことを 見定めるのは 難しいですが 悟った後 小さい程度の 悟りでも これが非常に はっきり見えます そういう訳で 先ほど言ったように 韓国の素晴しい人々は 非常に高潔で 意識レベルが 非常に高いです インドの人々も一緒で 彼らは 多くの宗教の 基本的な類似点を 理解しているからです
インドの人々は 多くの神を拝むと ある人々は考えます インドの神の階層が 沢山存在している 訳ではありません 彼らが象徴的に 過去と現在の さまざまな宗教の すべての指導者 すべてのマスターを 尊敬しているだけです 韓国には 実に沢山の寺や 教会や 他の修行のセンターが ありますが よく似た精神です 私が思うには 韓国人は生活に対し より実践的な態度が 備わっています 従って彼らは 精神面を理解しながら 物質面の快適さに 心を配ります それは非常に珍しい と私は言いました
先ほど言ったことに 戻りますと 悟りを得るために 物質世界での これらすべての 成就を失う 必要はありません 家で座って 全ての快適さを楽しみ 義務を果たし 同時に 偉大な 悟った 聖者になれます 心から悟りを 願うなら 生死について 宇宙について 以前私達が 理解し得なかった 事柄について 更に より理解するために より良い方法で 賢明な方法で 世界に貢献するために 自身や宇宙全体に 使用するために 私達は仏陀のように 考え 仏陀のように 人生を送らねば ならないのです 仏陀をただ崇拝する だけではダメです
仏陀は言いました 「私達は 未来の仏陀である」と 彼はおよそ 二六〇〇年前に そう言っていました 私達は今 その未来にいます もう待っている暇は ありません 私達は今 仏陀になれます 少なくとも仏陀の道を 学べます どう仏陀になるのかと仏陀の道は 他の経典に編集されて いますが どう仏陀になるかは 説明されていません 従って 私達は 仏陀を崇拝してから 何千年も経ち 仏陀になることを 夢見る事もありません なぜならどう 仏陀になるかは 言語を話して できるものではなく 私達の内面にある 固有のパワーであり 自身で発見せねばなら ないものだからです
一人でできるなら それもいいでしょう 私達が自身の偉大さを 明らかにできないなら 誰か方法を 示せる人を探さねば なりません 英語を 話せないなら 自身で何らか 学べないのと同じで 私達は誰か 良い英語の先生を 探さねばなりません これは非常に簡潔で 一種の 科学に似ています 私が言及したように 方法は同じです 高速道路の手前には 多くの脇道が あるかもしれませんが 多くの脇道ですが 究極の道は ただ一つです 仏陀に到達する 究極の道とは 楞厳経や 世界の宗教における 多くの他の経典でも 言及しています 観音法門を 修行した後 私が言ったことが 確実に理解できます
誰の教えも 請うことなくです 楞厳経では 言われています 「究極の道 最後の道 それは観音法門」と 観音法門とは 内在の真我を 聞くということです 一種のエネルギーで 一種の振動で 耳がなくても 聞けるのです そうした神の 仏陀の 沈黙の言葉は 全ての智慧の根源です 何でも私が言った事で 興味をそそったり 少し賢明だと 思えるような事 それは私が修行した 観音法門に よるものなのです 全ての創造の根源から 直接学んだ ことです もちろん 言語で説明不可能な 事もあります 多くの 事柄について 私は自分自身は 理解していますが 人間の言語では説明 不可能な事があります
しかし幾つかは 説明がなくても 分かる事もあります 例えば 印心の時 つまり あなたが この法門を 楞厳経の中で 観音と呼ばれるものを 学びたいと思った時 すぐにあなたは 私達が「開悟」と呼ぶ ものに到達し 多くの あるいは 幾つかの または 一種の体験を得ます それは前述の 世界の宗教経典で 述べられている ものです そしてこの開悟を 継続して 高めるのです すると開悟は なお一層大きく 大きくなります 私達は直接 自身の仏性や 神の王国と 繋がっているからです 弟子が私の言葉を 証言できますよ いつでも私の弟子に 手紙を書いて尋ねても いいですよ
誰にでも アメリカの弟子に 書いてもいいですし イギリスの弟子でも ヨーロッパの弟子でも 中国の弟子に 書いても構いません オゥラック (ベトナム)の弟子でも フィリピンの弟子や シンガポールの弟子 タイの弟子にでも お好きに選んで 私が話したことが 本当か尋ねて下さい それこそ 観音法門が 世界の偉大な宗教に 一致しているか どうかを 知る方法です 少なくとも つまり 五大宗教とです 現在 宗教は 仏陀やイエスのような 過去のマスターの 言葉の単なる 復誦ではありません
しかし 彼らの智慧の 私達の日常生活への 結合です それは誠実に よく保たれた彼らの 教訓や戒律であり 大変賢明な方法で 日々 磨かれた 智慧です この一切が 結合されれば それを宗教と言えます 真の仏教徒は 内面で 仏陀と繋がれるに 違いなく 仏陀とは何かを 知っています 真のキリスト教徒は キリストや神と 繋がれるはずです そうでなければ どう神の存在や 仏陀の存在が 本当か知るのでしょう 真の仏教徒は 少なくとも 仏土をちらっとでも 見れるはずで 仏陀の偉大な光をちらっと見たり 仏陀の教えを 直接 聞けるはずです これこそ 観音法門が皆さんに 可能にさせる事です 仏陀は 普通の英語や 普通の韓国語で 教えたりはしません
でも仏陀の教えは 非常に静かな声で 宇宙の言葉で説かれ まさに音楽のようで 美しい旋律のようです だから 仏教経典には 仏陀は一種類の 言葉だけを話すと 記されていますが すべての衆生は 自身の言語で それを理解できます これが仏陀の 真の経典であり 真の教えです ですから内なる音を 聞けば聞くほど 賢明になるのです 神や仏陀の 内なる光を 見れば見るほど 賢明になります これが仏陀や キリストの真の 信奉者になる方法です またこれは 聖書や仏教経典に 記されている ことではありません
観音法門にのみ 述べられているのです 観音法門の 修行者の体験に 表されているだけです ですが修行法には 触れていません 仮に触れていても 開悟したマスターの 力がなければ 効果はありません それは 仏陀の方法は 言葉や行動では 教えられず 内なる智慧から 自身の智慧に伝え られるだけだからです それは印心時に受け 覚醒する 私達の智慧のことで 脳でも心でも ありません そのため いわゆる印心が 必要なのです 自身の仏陀の力を 覚醒させるには 涅槃(最高の楽園)から仏陀の力を もたらすためにです
私の言う「涅槃」とは 皆さんもご存じの キリスト教における 神の王国のことです 私もやはり 韓国の人々のように どんな宗教も 区別しません 私達には同類の理解が あると思います ですから 韓国で韓国の人々と 初対面にもかかわらず 私は気分が良いのです ですから たとえ 方法は聖典には 記されていなくても 内面で伝えられる べきなのですが 多くの体験があるので 修行の結果が 聖典に記されて いるのです したがって 現在 私達に同類の 体験があれば 正しい方法を修行 していると分かります
事実 方法は 力の伝達 智慧の伝達ほど 重要ではありません ただ私達の社会では ある種 具体的な 計画を示す 必要があるからです そうでないと 人々は受入れません そのため こう 言わねばなりません 「はい方法があります」 それで皆さんは理解し 「はい 何か 学ぶこと 知ること 成長する ことがあります」と そんな方法が あったとして 紙に書き留め モノクロ印刷をして 私達がいわゆる その「法門」を読んでも 私達は功徳を 届けられません マスターの力が 伝達する法脈が 失われているからです それで 昔から 聖典に記されている いかなる法門も 発見しないのです
だから ほとんどの人々が 一種の謎である 仏陀の修行を 理解したのです 理解するのは 大変難しく 得るのは困難です ええ 困難です でもそうでもないです 知っている人が 見つからないからです でもすでに知っている 人が見つかれば それは大変簡単で 私達はすぐに 開悟でき 私達が誠実なら マスターは受入れます そうやって私は学び そのように 皆さんも学べるのです たとえ 物質的な類で 達するものがなくても 開悟した時から よく知っているものが あります
続けるべきですか
はい お願いします
ありがとう 皆さんの 誠意を嬉しく思います だから韓国は今 こんなに素晴らしい 国になったのですね それが 韓国の人々の 精神性だからです たとえ彼らにできても 韓国の人は国家を 築くことに有能です では 私達が いわゆる観音法門を 修行する時 私達は宇宙に関する 多くの事や この世に関する 多くの事を理解します
かつて理解するとは 夢にも思わなかった事 隣人を表現できる ことがあっても 絶対に語れない 多くのことが 非常に沢山あります なぜなら 仏陀の言葉は 驚異的で 珍しく この世には 存在しないからです 私達は比べたり 例をあげられます 私達が 開悟した後は さらに開悟します 使っていない残りの 智慧が沢山ありますが その一部は 私達の日常生活に 組み込まれ 私達を更に愛深く 更に知的に 更に献身的で世界に 奉仕できる様にします それに私達がする事は 何であれより良質です
もちろん 仏陀になるには 遠い道を歩みます ですが 開悟する前と 比べれば 私達は 知性と能力では ずっとずっと 良いのです したがって 開悟とは 僧侶だけや ヒマラヤや洞窟にいる 出家者だけの ものではなく この世の すべての人のためです どうして智慧の多くが 使われず残っていると 私は言ったのでしょう それは仏土への 身仕度のための 私達の知識の 一部だからです あるものだけが この世で使えます たとえ 私達が賢くても この世は物質や 異なる情報に 欠けていて 私達の智慧の殆どを 使えないようにします
例えば ほんの少し 高いレベルの 修行ができる時は 仏土を見ます そのレベルは 最高ではありません 仏土や仏陀を 見れるのは 最高レベルでは ありません そうではありません 高いけれど 最高ではありません では 例をあげますが 内面で 仏土や 仏陀が見られるなら 皆さんは 修行の真ん中の レベルだと言えます 仏土を見たなら 仏土を見たなら 皆さんは真ん中です およそ そのように 言えます 更にもっと 先がありますが 仏土を見たなら 私達はすでに 大変賢明です
私達は既に素晴らしい 事を学びました 瞑想中 とか 日々の修行の中や 睡眠中にです 印心後 眠っている時でさえ 高次の境界へ行き 多くを学べます でなければ二時間半の 毎日の修行では 十分ではないでしょう 私達はいかなる 休憩時間も使用します あらゆる活動が 仏陀の智慧で本来 備わるようになります そして仏土を 見たとき 私達は多くを学び 私達は 異なる方法で 家の建て方を学び 例えばUFOの 作り方も教わります
仏国土では家は 水晶 ダイヤモンド 黄金で できていることを 私達は知っています レンガ セメントの 代わりにです なぜなら 私達はそこへ行き 見てきたからです 私達は他にも多くの 驚異的な機械などが 造られているのを 見てきました これは一例です
真実の例です そしてまた 瞑想からこの世界に 戻ってきます 仏国土への旅からです 例えばですが あなたは このような家とか このような機械を 作りたいと思います 人間を助けるために 人類を救うためにです でもあなたは この世界では そんな美しい水晶や 素晴らしい金属を 見つけられません この世界では この種の家を建て 機械を造ることは できないのです 従ってあなたの智慧 知識は使われないまま 残されます ええ それが理由で 私達の多くの智慧は この世界で使われない ままなのです
すべての人間が 開悟しない限り その日が来て ここで皆が 涅槃(最高の天国)を 楽めるよう 願います すると雰囲気が変わり すべての災難は消滅し 全ての疾病や 悲嘆はこれ以上 なくなります そうすればUFOは もはや不要です でもその日まで 私達は 自身で修行し この世界に 満足せねばなりません しかし私達が この世を去った後 観音法門の修行者は この世に再び 転生してくることは ありません その人が戻って 来たいと思わない限り 仏陀となり 菩薩となって 人間を苦しみから 救うためにです
なぜなら そこには更に多くの 美しく 驚異的で 素晴らしい世界が 観音法門修行者の為に 待っているのですから この苦難の世界は もう彼には不必要です 彼の智慧 彼の振動は 観音法門を 修行した後で 引き上がり 聖人のレベルになり 彼は栄光ある 神の王国つまり 涅槃に住むに相応しい 存在となりえます そうでなければ 凡夫には その光 天国の栄光は 辛く感じ彼らには 耐えられないでしょう 彼らは耐えることが できません これはちょうど王様の 宮殿に住み慣れない 物ごいのようです 彼は非常に居心地悪く 卑屈に思います そこに招待された ことについてです
そこでは召使いでさえ 最も卑しい召使いでも 彼よりもずっと 自信があるように良く 見えたりするほどです 従って私達は仏土に 天国へ行く準備をする 必要があります 私達は内なる智慧で 変えねばなりません 私達の振動力を 内面に存在する 周波数をです 私はただあなたが 理解できるように 例を提供したいのです この世界でさえ 私達には異なる 周波数の人々がいます それが理由で時に 誰かを見た時非常に 心地よく感じたり また他の人を 見た時には 非常に不愉快に思い それはなぜなのか 私達にも分かりません
そういう理由で 多くの人々が 僧に会いに 宗教指導者に 会いに ヨギに会いに なんらかの修行者に 会いに来るのです それで 人々は仏陀や キリストが存命中 彼らに会いに行くのが 大好きだったのです これは多くの 嫉み 嫉妬の 原因となり現代でいう 修行者の間でです 人々がその様な人々を 見た時 彼らの振動力 彼らの聖なる周波数 かなり開悟していると 心地よい 癒しのエネルギーを 人々の周りに 快適で至福の 非常に開悟の雰囲気を 作り出すからです 従って今ではあなたは この事を思い出し 理解しています 異なる振動力 異なる周波数が真実 存在している事をです
観音法門を 修行した後 しばらくして 私達は自身で 異なる人々の間の 振動力を 感じるようになります 私達は感覚として 感じるようになります 自分自身で 分かるようになり いかなるレベルに 自身がいるか知ります 私達が「レベルのない」 境界に到達するまでに 区別のない レベルにです それでそれが仏陀の 境界だと言えるのです もちろん 皆が全て この輪に加わるように 招待歓迎されています それだ無料でどんな 拘束もありません 無条件です もちろん私がどこから 資金を得ているかと 尋ねるかもしれません
あなたのポケットから 強制するようなことは ありません 神は私が必要なだけの お金を与えてくれます 必要以上のものを 与えてくれています それで私はこの世の 貧困の 必要な人々に 寄付できるのです 神は私にまた更に 霊的な資産も 必要以上に与えてくれ この世界の人々と 共有できるのです お金は天から 降ってはきません 神は私に 多くの才能を与え 私はそれを通じ 糧を得るのです そして全ての弟子にも 才能があり 皆で世界と共有する ように試みています 私達が持つ何であれ 精神的 物質的な もの何でもです もちろんあなたが 加わりたいなら オーケー自由意思です
では何か質問がある方 はっきり明確でない ことがあればどうぞ 喜んでお答えしたいと 思います ご静聴 ありがとうございます 釈迦牟尼仏は四九年間説教したが一切説教はしてないと言いましたどういう意味ですか 仏陀は何も話さなかったと言ったのです 彼は四九年間一切 経典のようなことは 言いませんでした 何であれ彼の言った ことが属しているのは 一時的な世界の 物質界でのことで 真の智慧ではないです 従って彼は何も 話さないと言いました 彼は四十九年間 経典の中の真理に ついてあまり話して いないという意味です
認識に到達するために なぜ私達は菜食に なるべきなのですか
それは私達の慈悲心と すべての衆生への 愛のためです それは仏陀にとって 非常に益のある事です 仏陀には愛と慈悲が あるべきです でないと仏陀になって 何の役に立ちますか 仏陀は命を救う者で 殺生する者では ありません ほとんどの経典で 仏陀は非常に明確に 説明しています
神が平等で 差別をしないなら なぜカルマ(報い)と区別の記録が なされるのでしょう
神がカルマ(報い)を 記録する訳では ありません 自分自身がします 私達の潜在意識は 私達がした過ちや 他者を傷つけたことを 許せないのです 私達は自身で カルマ(報い)を記録します 神ではないのです 私達は何もかも 神を非難します 聖書で 神は私達に 過ちを犯さないように あれこれを守るように 言います 私達は 全て誤った事をして 全ての結果に対し 神を非難しています
多くの宗教は この文明社会は恐らく 終わると言っています
はい それはこの世の終わり ですね(はい)
それを私がどう 考えるかですね(はい)
この世の終わりは 毎日起こります 誰かが死ぬとき彼の 世界は終わりです 彼にとって 全世界が終わりです 自身の個々の世界を 終わらせないことに 心を配るほうがよく 全世界が終るか 終わらないことに ついて話せる前に 修行する人 悟りを 開いた人にとっては この世界は決して 終わりません たとえこの世界が終わったとしても 私達には他に行ける 多くの世界があります 家が既に台無しになり 破損し 修繕できない 場合は 家から 出るのが賢明です さもなければ 私達も やけどをしたり ケガをするか 家の中で死ぬでしょう
あなたの悟りの経験に ついて説明頂けますか
私の経験は とても多くて ここで どうやって 数分間で 説明できるでしょうか それを知りたいなら 私は あなたが 加わるよう招待します 私はあなたにキムチの 味を説明できませんが キムチを食べるよう 誘うだけで あなたは 辛さの程度が分ります 私がどう説明しても 関係なく それは キムチ自体でないです 私の説明ではそれを 味わう事ができません それを食べるべきです それは役に立ちません 古代より 今まで 悟りを説明した人は 誰もいません 人々はあなたと 悟りの体験を 悟りの体験を 共有できるだけです
悟りを楽しみたいなら 印心のとき あなたは私の体験の 一部を知るでしょう ただ名前を外で 書いてください それで知るでしょう 私が説明できるより 早く知るでしょう 人間が転生することが どうして分かりますか この質問は 私に尋ねる必要さえ ありません 数多くの本があります 心理学研究や 医療経験 患者の 臨死体験からのもの 最近とても多いです これは世界中で 立証されています
仏陀が言った事は 何でも科学的研究に よって立証されました 私に尋ねる必要はなく 出かけて本を 買って読んで下さい 権威のある科学者 医者 心理学者の本を 読むと 皆はよりよく 信じられます
それはその間ずっと 立証されて来ました テレビでさえ 放送しています 死後の人生 輪廻 死後の霊魂 すべてについてです
あなたは観音法門を もっと明確に 説明できますか
観音法門について 説明もしてきましたが それを知る最良の 方法は印心の時です お話したように 伝法は言語でなくて 内面のパワーから 来るからです 皆さんは悟りを 体験するでしょう 仏陀の光を 見るでしょう または天の光を 天の声 仏陀の声を 聞くでしょう それは人間の 言語ではありません これは耳で聞くのでは ありません 全て智慧でなされます ありがとう ありがとうございます
マスターチンハイに 会ってこの法門を 習いたいのですが どうすればいいですか
外に受付があります 観音法門を 習うためのものです そこに行って 聞いてください 名前を書いたら 彼らがあなたを 案内します 彼らがそれを どうするかを 教える所に 連れてってくれます この後で 私が皆様の質問に 答えてからですね 習いたい人なら 誰でも 私が教えます 無料で どんな義務も ありません ええでも慈悲心を持つ ことを誓うべきです 今日から肉食を止めて なぜなら あなたは仏陀を 拝むことを止め 今から自分が仏陀に なりたいからです それで 仏陀のように行動し 仏陀のように生き 考えるべきです 仏陀を拝みたいなら やりたいことを やります でも仏陀に なりたいのなら 仏陀のように なるべきです 菜食主義は すべての衆生に対する 愛の表現です これを理解してもらい 嬉しいです
この世界の普通の人は この世俗社会で 生存するために 毎日をやりくりして いるのを知っています 観音法門を学ぶ 最良の方法は 何ですか
観音法門は あらゆる分野の人に 適しています 問題ありません 更に子供でも 修行できます 外面から 習うのではなく それは自身の智慧から 湧いてくる ものだからです とても合っています それは自身の本性で どこに行こうとも あなたの内面に本性が 存在しています ですからヒマラヤに 行く必要はないのです 私そこで習いましたが 皆のためにそれを 持ち帰りましたので 皆さんは 行く必要はありません 他の人にこの成果を 享受させるために 一人がその若さと時間 エネルギーとお金を 犠牲するだけで 十分です
皆がそのようにする 必要はありません 解脱の目的は 何ですか あなたは解脱を 望まないのですか 唯一の目的は 私達が望むからです すべての罪人は 解放を願います 自身がもう欲望 憎み 怒り 無知から解放されたと 思っているなら 解脱の必要は ありません やはり不安 トラブル 無知で 苦しんでいるなら もちろん解脱を 願うでしょう そうではありませんか
マスターは 悪いカルマ(報い)をどう解決しますか
悪いカルマ(報い)を 解決するのには 仏陀の光を見なければ なりません ちょうど一つの 明かりが部屋の中の 数千年もの暗やみを なくせるのと 同じです
数千年間も 真っ暗だった部屋でも たった一つの明かりを 置くだけで 数千年の暗やみを 追い払うのと同じです 悪いカルマ(報い)は 私達の誤解によって 生じます いったん真理を 理解したら 悪いカルマ(報い)は 全部なくなるでしょう 印心の時 仏陀の光を見て 天国の音を聴くと 数千 数百万年間も積んだ悪いカルマ (報い)が 洗われます 永遠に浄化します それがいわゆる 真の洗礼です
ただ少しの 悪いカルマ(報い) だけを残して この世で続けて 生きられます この少しだけ残った 悪いカルマ(報い)を終わらせたら 去るのです この小さな悪いカルマ (報い)も消したら 死んでしまいます 皆はこの世界のことを まだ終わらせて いません ですからほんの少し 残さねばなりません しかし来世で 待っている 悪いカルマ(報い)は もはやありません そういう訳で 戒律を守って 菜食をすべきです 新しい悪いカルマ (報い)を作らないためです それが目的です はい
輪廻する前 私は どこから来ましたか
あなたは 前世のカルマ(報い) から来ました あなたが普通の存在で あればですが あなたが仏陀であれば涅槃(最高の天国)から 来ました あなたが天使であれば 天から来ました 地獄で罰せられたなら 地獄から来ました それがあなたの運命で あれば 動物や石や 木からも来ます 私達が 無知か 開悟してるかによって創造の異なる 道から 来ました あなたの人生を見れば あなたがどこから 来たのか分かります
私は障害者です 希望を持てるお言葉を 頂けますか
体に障害があることは 大した事ではないです それは戦争や災難 あるいは 前の人生での失敗から 生じたことでしょう それは私達に 関係のある人や 一緒に暮らす人の共同のカルマ (報い)の結果から かもしれません 最も重大な障害は 無明であることです したがって心配する 必要はありません この体を離れたら 私達は完全で 癒され 美しくなり カルマがもう私達に 到達できない 世界に住みます たとえ観音法門を 修行しなくても この人生で 神聖で 徳があれば 体を離れた後 ある程度 仏陀の光を 受けます ですからどうか 体ではなく 自分の 道徳 魂のことを 考えてください 今はもう体を救うには 遅すぎるので 魂を救ってください いずれにしろ体は数年 しか持ちませんから ノストラダムスは 言いました
世界の終わりについて そうですね 私も既に言いました この世界を去った後に 私達が行く所について 心配した方が良いです
世界がここにある間に 世界を去る準備を することを気に 掛けた方が良いです 世界を 遅かれ早かれ 私達は去ります 私達は次の世界への 準備をすべきです
祖先を礼拝する必要は ありますか
はい 大丈夫です
観音法門修行者は そうする必要は ありません 印心後 私達修行者の 先祖全員が 超生します 一つ二つ 例外があり 悪いカルマ(報い)が重すぎれば より時間がかかります ですから私達の感謝や 思いを示したければ 礼拝できます しかし 皆が去ったら あなたの供え物を 食べたり 礼拝を見る 人は誰もいません 他は 礼拝したければ できます でに大部分の いわゆる私達の先祖は そこにはいないので 礼拝を見ていません 彼らは遠くの天国に いるか 人間世界や 他の異なる世界に 輪廻してるかも しれないからです
ありがとう 彼らはすでに 私達の家族に生まれて いるかもしれません 兄弟姉妹や娘や息子 かもしれません そこに私達の供え物を 食べたり私達の祈りを 聞く誰がいるでしょう これはやはり仏教の 理論によることです カトリックでは 祖先の礼拝は 許されません ですから とにかく そうした全てのものが 必要ではありません
人間と神は 共存しますか
もちろん 彼らは共存します 神がいなければ 人間がいないからです 人間がいないと 神に何の意味が あるでしょう 誰が神を認めますか しかしこれはただ 低レベルの解釈です これらすべてのものを 超越すると 神と一つになるのです そうでしょうか あなたが超越すると 神とあなたは 一つです あなたが仏陀で 仏陀があなたです
プラナヤマ (ヨガ式呼吸法)や 中国式のプラナヤマで 解脱できますか
何であれあなたが 信じている法門を 選んでください あなたにとって 相応しくて 快適な法門を 私はここに 観音法門を説明する ためにいます 私は それを試し信じてます 他の方法は 自分に答えるために 自分で経典を 参照してください 私は他の修行法に 反対したり 言及したくありません 私が良し悪しを言うも 自分が何が一番好きか 知る必要があります
マスター あなたは もう悟りを得ましたが 将来 死にます そして 凡人は 悟りを得なくても やはり死にます 何の違いがありますか
私は悟って死にますが 貴方は悟らず死にます それが違いです 私は永遠に死にません 体だけが変わります 悟った人は ただ体だけ変わって もう一度 別の体に 生まれ変われる 必要はありません 魂は永遠に存在します その人が 別の体を選んで この世界へ戻って 人類を助けたかったら それもできます でも 天国とこの世を 選ぶ自由があります 悟らなかった人は 選択の余地もなく 輪廻させられます それが違いです
人間はもともと 仏陀ですが いつ無明に なったのですか
この無明の世界に 落ちて 色々なことを 学ぶことにより 汚染されるからです そして自分達が 仏陀であり 高尚で あることを忘れ 私達がしたり 学んだりする 他の事で自分達を 認識します
誰がこの宇宙を創造し なぜこの創造が 存在するのですか また 人間の究極のゴールは 何ですか
宇宙が存在するのは たぶん私達がそれを 欲するからです 私達皆が望んだのです さもなければ 人間のいない 星や月のない いかなる様々な 境界もない宇宙を 想像できますか それはあまりにも 退屈ではありませんか 万物が存在するのは 悪くありませんね
世界は まる劇場のようです そこで演じても 見ても構いませんが もう帰る時間です もう時間です 世界にあきた人々 世界に疲れた人々 彼らは芝居を見あきて 家に帰りたいのです そうした人は 開悟を求める人々です 他の人々はまだ それを演じたかったり 見たいので 残ります それはあなた次第です
朝鮮半島を どうお思いですか 朝鮮半島は神から 祝福されていますか 神の祝福の国ですか
韓国は 選ばれた国ですか そうお思いですか 選ばれた国ですか
あらゆる国が 選ばれた国です どの国土も その国の人々によって 祝福されています その国の政府の 英智な統治体制に よります 国家が今 繁栄して平和なら もちろん仏陀 神が 祝福していることを あらわしています 聞くまでもありません
私が観音法門の 印心を受けたら 日常生活に 何の利益がありますか 毎日どんな体験が ありますか
あなたは毎日 それがわかります 利益が多すぎて 計算することさえ できません しかしこれは ただ物質的な利益です 最も重要なのは 自分の智慧とパワーを 開いて世界を 祝福できることです
より高いレベルでは あなたは日常生活の 利益など気にしません ただ考えます どう世界に役立つか いかに世界を 助けられるだろうか より高くなればそれを 考えさえしません 私達は自然に 世界に役立ちます 私達は知ることもなく 考えもぜず 気にもしません これらは観音法門から 一歩一歩得られます
なぜ人間は 死にたくないのですか
死んた後 何が起こるか 分からないから 恐いのです 分かるなら恐れません 観音法門は 生きている間に 死ぬことを教えます そうしたら死とは どんなものか分ります あるカトリックの 聖人は言います 「私は毎日死ぬ」と この修行は 体を残して 座るか横になって 霊体で異なる世界に 行って 新次元で学ぶことを 修行します 死ぬことは素晴しいと この体の重荷なしで 私達は多くの 不思議なことができ 多くの奇跡があります 私達は自由で賢く くよくよしません 正々堂々とした生活を 送っていたら 決して死を恐れません
徳のある人は 往生した時 直ちに天国に行きます 美しい所 とても賢く 自由で 光栄になり 二度とこの世界に 戻って来たくも ありません アメリカで 死んで戻って来た 経験のある人々に ついて記録された 本が一冊ありました その内の一人は 彼女が死んだ後 天国のような 美しい所へ行ったと 述べています しかし彼女の時間が まだ尽きていないから 再び世界に 戻らねばならないと 美しい光り輝く衆生が 彼女に言いました この女性は言いました 彼女が肉体に戻って 再びこの世界に 帰った後 何週間も 泣き続けたと 彼女は 美しい世界を見た後 ここに住まなければ ならなかったからです 作者はレイモンド何某博士だと思います (レイモンドムーディ) 彼は医学博士で 数多いこの種の 死後復活したケースを 研究しました
誰か この本を読みましたか 読みましたか そう そう どうもありがとう
3人 4人 わあ そう 韓国語に 翻訳されると思います 医学博士と科学者と 心理学者の多くの 類似した本があります
私は何冊か同種の 本を読みました 彼らは 科学的な人々です 出家者でも ヨガ行者でもないので 信じることができます 彼らが出家者か ヨガ行者ならあなたは 思います「そうとも あなたは私を弟子に するか 寺に供養 させるか あなたへの 金を稼がせるか」とね でもそうではなく あなたはヨガ行者とか 出家者はみな 博士号がないので 彼らの言う事が真実か 確かめられないが これらは科学者や医者 なので信じられると 思うかもしれません 出家人とヨガ行者が 信頼できないと 言うのではありません
彼らは科学者より 信頼できます ただあなたが 彼らを信じない場合 医者を信じることが できます それで その女性がした 経験の種類は 私の知る限り それほど高いレベルの 天国ではありません ずっと素晴らしい 場所があります もっともっと多くの 異なる宗教間の戦いを あなたはどう お考えですか
それは誤解で 悟りを聞いていない 過程だと 私は思います 私達が開悟していたら この種の差別は まったくありません いかなる種類の戦いも 宗教ではありません 戦いを支持する宗教は 決してありません
仏陀あるいはイエスは 敵を殺しに行けと 言ったことありますか 仏陀は何と言ったか 「すべての衆生を愛せ 彼らは皆仏性がある」 イエスは何と言ったか 「汝の隣人を愛せよ 汝の敵を自分のように 愛せよ」 私達はどれほど多く すべての 宗教の信仰者を 愛すべきです 彼らは自分の方式で 修行しています 彼らは最善を尽くして 自分の方式で良い 神聖な人になり 神に 近づこうとしている 話を聞かないなら それは彼らの自由です 聞くなら それは構いません 宗教的な人々は互いに 友人であるべきです 私達の友人で なければなりません
敵でさえ 愛すべきです どれだけもっと 友人を愛すべきですか 宗教は 社会道徳を 支える力です 各々の信仰ある人は 最善を尽くして 彼の宗教団体に来て 道徳的な 生活様式を 理解する誰をも 助けるべきです その仕事でもう 十分です 互いに 戦う必要ありません キリスト教で キリストを信じ キリスト教を信じ 十戒を守るなら それで十分です 仏陀を信じ 五か十の 戒律を 守るなら それで十分です どの宗教を信じても その宗教的な智慧を 自分の生活に 取り入れるなら それで十分です 皆を集めて 自分の宗教を 信じさせる 必要ありません
私達が本当の仏教徒 本当の キリスト教徒に なろうとしない時 自分の宗教を 理解できません それで私達は 戦うのです
あなたの弟子に なるのと 別のマスターの 弟子になるか あるいはただ自分で 修行するのと どんな相違があるか 説明して下さい それは どんなマスターに 従うかにより またどんな 自己修行をして いるかによります 別のマスターの レベルが同じで 修行の方法と 体験が同じなら 私達は皆同じです 自分で修行した場合 神の光がみられ 神の教えが 聞こえるなら 私達は同じです 神の光がなく 神の声 あるいは内在の仏陀の 声が聞こえなかったら どんなマスターに 従ったり どんな法門を自分で 修めても 私達は 同じではありません 重要なのは あなたが得る智慧です
ありがとう