智慧の言葉
 
毎日神と交流する方法 1/3 一九八九年十一月二二日,コスタリカ(スペイン語)   
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再びコスタリカの 兄弟姉妹に会えて 嬉しいです 到着する前から 私は既に幸せで ワクワクしていました コスタリカの人々を 恋しく思います 皆さんは温かく誠意 ある国の人々ですから この世界では 裕福で文明的な国は 見つかりますが 高い技術を持ち 非常に高い生活水準を維持している国々は でも温かく 人間愛があり歓待する 国は多くありません それでコスタリカには 温かさと人類愛が 沢山だと発見しました 世界で貴国が非常に 人気があるのは 不思議ではありません

最近 多くの大統領が 貴国に訪問した際にも この国を 平和会議の場所に 選んだほどです 大統領はノーベル 平和賞も受賞しました おめでとうございます 私もここへ来られる 栄誉ある機会を得られ 喜ばしいです とても喜びを感じ 神に 仏陀に イエスに 祈りました 私は良い媒介となり 貴国にできる限りの 最高の奉仕ができる かもしれません 私の 短期間の滞在中にです では一分間 共に祈りましょう 目を閉じて 神に 仏陀に 誰であれ皆さんが 信じている方に 私達の会議が貴国に 全世界に恩恵を もたらしますようにと ありがとうございます

皆さんが言語を 理解しなくても 中国人の人々のように 魂で聞くことを 試して頂きたいです それは生まれ持った 智慧という意味です 恩寵や恩恵を幾らか 引き出します 私は考えを皆さんに 提供したいです この世を去った後 何が起きるかについて 今夜お話致します なぜならこの世で 生きている時に 私達は既にどう すべきか分かります 殆どの人がこの世を 去った後何が起こるか 知りません そしてまた私は開悟と いわゆる「死」の 体験のとの比較に ついてもお話したいと 思います はい「死」です 実際 私達が死ぬ時 私達は死なないのです

この肉体を 変えるだけで あるいは 時には ただ短期間の間 この物質的な姿を 放棄します あるいは長期間かも しれませんが おそらく何百年の間 何千年もの間かも しれませんが 再びこの世界に 道具としてこの物質的な道具を通して 智慧と体験を表す ために戻って来るかも しれません 聖書の中で聖人の 一人が述べています 彼は「毎日死ぬ」と また他にもあります 「死に方を学ぶことで 汝は生き始める」 また他の箇所では こう表しています 「放棄することで 汝は生を得る」と それで聖書で そのような文章を 読んだ時 私達は とても戸惑うのです

「どうやって 生きるために 死ねるのだろうか どうやって毎日死ぬ ことが可能なのか どうやって生を得る ために生を放棄できる というのか」と 「死んで私が体験した こと」この本を読んだ 人は多いと思います 米国のある医師が 多くの臨死の人々が この世に 戻って来た時の話を 集めたものです それはほぼ皆 同じ体験をしたと 表しています それは死後の世界で この肉体を離れた後 彼らは偉大な喜びの 感覚と自由な感覚を 味わうのです 彼らは遠くの国へ 飛んで行き 一種の乗り物でですね トンネルのように 見えます 

その後 光と愛に溢れる 衆生に歓待され 最高の援助で 迎えられます そして私達が開悟の 体験をした時 いわゆる悟りの境地で 私達は多かれ少なかれ 類似した体験をします それで「毎日死ぬ」と いうのを聞くのです 「開悟」の意味は 私達が最高の世界の 周波数と接触すると いうことなのです この宇宙で 私達 だけが存在ではなく この世界での私達の 人生もつねに生きる たった一回の人生では ありません それでいわゆる開悟の 体験を得たなら その瞬間高次の世界と 繋がったことを 意味し 時には過去の栄光ある 体験を再現することで 栄光ある世界のです

私達は常に人間だった 訳ではありません 私達は時には 仏陀 天使 聖人 菩薩でした 「菩薩」の意味は 「聖人」キリスト教の 用語ではそうです ただ これは サンスクリットには 翻訳がありません 「菩提」の意味は開悟 「薩」は衆生で 「菩薩」は 開悟した衆生 聖人の 意味になります 私達は異なる多くの 世界で生きてきました 時には非常に 素晴らしい知的な 世界で以前人生を 送ったこともあります しかしこの世界に やって来て殆どの人が 過去を忘れます それで私達が開悟を 得た時 それから時々 これらの過去の記憶を 思い出したりします

それで私達が属してた 私たちがやって来た 場所の跡を追い 私達が偉大な衆生だと 認識し始めます 臨死体験をした 人々の死の 体験と同じです 彼らがその いわゆる臨死体験を 経験したとき 殆どの人々は一種 生前の全体験の映像を 映画を見るように フラッシュバックで 目にしますが 大半のこの「臨死」の 人々はこの人生の 体験を他の世界で それらを 示されるだけに すぎません しかし開悟した人は それは沢山の 何千年 何百年 数千年にも遡って 見ることができます この世界の 体験のみならず この人生も多くの過去 世界のものを見ます

それでそのような 知識の後に人は 彼は凡夫ではなく 仏陀キリストの意識を 持つ者であると 認識します これはイエスが 自身のことを 天の息子と表し 仏陀が彼自身を 悟った者 それが仏陀であると 表した方法です 「仏陀」の意味も 「キリスト」です 「キリスト」は意識の 段階の事であり神の 意識のことです サンスクリット語で 「仏陀」はキリストで ギリシャ語で 「キリスト」は仏陀です

それで私達がこの意識 レベルに到達し理解し 智慧を得るなら私達も また仏陀でキリスト だと理解するでしょう 私達が最高の開悟が 得られないなら ただ一部の体験 臨死の体験などしか 得られません 私達は死後阿修羅の 世界へ行くか 少し高い境界へ 行きます しかし私達は高次の レベルの開悟つまり 高いレベルに到達し 日々の瞑想修行を 通して 高次の世界へ 到達できます そこは高次の智慧を 高次の栄光を 表しています

イエスは言います 私の父の家には 多くの部屋があると ええ それが 彼のいう意味です 聖書でもまた 記録されています 第三天に到達した 人がいました 聖書は天国がいくつ あるか言っていません でも第三天国があり 第二 第四も あるはずだと 同様に仏教において 仏陀は 多くの異なる仏国土と仏国土の多くの レベルについて 説明しています 例えば 阿弥陀仏の浄土が あります この地はそれ自身が 九つのレベル 九つの境界に分れます 低いものから 高いものまで 美徳と修行の 乏しい者は 低いレベルの地に 留まることになります

何千年もたっても 彼はそこに留まります 日々最高の仏陀と 或いは開悟した衆生と 学ぶことを通し 最終的に偉大な覚醒を 得るまではです そうして高次の レベルに行けます 私が思うに これは学校の 教室のようです 高校に多くの教室が あるのと同じです 今 私達にいわゆる 開悟の体験がある時 それは臨死体験に 似ています 私達はただ 肉体の身体を一時的に 離れるだけでそして 再び戻ってきます ちょうどこれら死後の 体験 米国医師の 本のようにです 瀕死の人々が痛がり 困難に思うのは死の 体験がないからです

日々私達が死ぬことを 学べばそれは 楽しみになります ほとんどの人々が 死ぬ時 この世界を失うかもしれないことを 非常に恐れます 彼らはここより良い 世界が存在することを 知らないからです より美しく より心地よく より幸福な世界が 待っていることを それで彼らはこの世界 良く知っている周囲に 愛する者にしがみつき このことが 霊体と肉体との間での 奮闘を 引き起こします それが痛みの 結果です 死が単に一種の 再生だと知っていれば 恐れる事はありません その時を楽しみに 待つようになります

ではどうやって美しい 日の準備をするのか 多くの人々が 誕生や結婚の準備はしますが 死の準備はしません 実際 死は大事な日で それは最も重要な日と なるべきです 誕生の際私達は 肉体を持つだけで 自由が制限がされ 非常にゆっくり 成長の過程があり でも死は より大きな自由 より美しくより柔軟な 身体になり偉大な 智慧を得てずっと 美しい世界に住む事と なります 休み 学び 進歩し 更に 進むためにです それで実際死は非常に 役立つ出来事であり 改革の速度が上がり 私達を高次の智慧に 速く上昇させる ものなのです

しかし死後この地位を 得るためには  私達はまた地球上での 人生を送る間それらの 例を体験できるように 面倒も見るべきです より楽しいタイプの 美徳なものにする為に そしてこの世界を 離れるその時 私達はもう後悔がなく 罪悪感もなく 執着もありません それで私達は素早く 幸せに上昇します 人々がこの物質的な 身体を去る時 他にも 幾らかの障害があり 加えて痛みがあります それは慟哭と 残される 愛する者の 悲嘆です 殆どの人々が 愛する者の死に泣き 何カ月も何年も 悲しみます

ええそれは私達にも 理解し得るもので 愛する者を 良い友人仲間を失くし 私達はその友人が どこへ行ったか 知らず 彼らが行った世界が より良い世界なのか どうか 誰か彼の面倒を 見てくれているのかと それで私達は悲しみ その魂に執着して いると感じます その結果この感情的な 部分は離れようとする 魂を捕えて ある意味 彼の妨げになります また彼の強烈な喜びも 減少させ 自由をも制限する ことになります それで一番良い 正しい方法とは愛する 者が亡くなった際には 悲しまないことです

困難だと分ってますが これは高次の 犠牲と愛と言えます 私達は幸せに 感ずるべきです 魂は物質的な制限から 自由になります 刑務所から その魂は自由に飛び 回ることができ 多くの事を学び 彼がしたいと思う事が 沢山できるのです でも私達はこの死後の 世界について 垣間見ることができないために 友人や親類の死を 喜ぶことができません しかし私達は死後の 世界を非常に科学的な 方法を通して垣間 見ることができます 私達は死に方を 学ぶことができ この人生を超越した 多くの他の惑星の 多くの他の境界を 見られます

そして死後の世界に 安心し 幸福を確信します そして愛する者が どこへ行ったか 見ることもできます またこの物質的な 世界を去った後 どこへ行くか 選択もできます この方法で私達は 決して死を恐れず 泣くこともありません 誰かが去ったり 少なくとも泣いても それ程の重荷を感じず 深刻な喪失と悲しみに 襲われることがなく 私達は喜びと 嬉しさで泣きます この世界を超越した このような 体験をした時 私達はこれを 「開悟」と呼びます 開悟には多くの レベルがあります 有能なマスターとの 印心の時 私達は開悟の一部を 体験することが できるのです

私達はこの世界を 超越して素晴らしい 世界を見られます 肉体を離れ 戻って来て 全く死と同じ体験を 持つのです そして私達は 楽しく死ぬ方法を知り この世への執着を 失うでしょう 私達にはどんな重く 悲しく惨めな感覚も なくなります ある人々は死後 他の世界から この世界に戻って来た ことを説明します この世にこれ以上 いたくはないと 感じています 既により良い世界が あると知ったからです しかし逆説的に 彼らは人生を愛します

それは彼らを 落胆させたり 死にたいと思わせる ことではなく人生は 継続される過程のある もので 永遠に死が ない事を知るからです それが人々をより 肯定的にさせ より勇気づけ より充実した人生を 送ろうと努力し 人生の恩恵を 社会や自分自身に 意義のある生活を しようと努めます それで私達は多くの 経典の中で 全ての 聖人が常に人類の 利益のために絶えず 働いてるのを見ます 人類に その生涯を エネルギーを捧げ 智慧を貢献します 特に霊性の 分野においてです

イエスの人生を見ると 彼は非常に偉大で 天の息子である事は 言うまでもありません 彼が聖人だという事は 彼の人生を見れば 十分分かるでしょう 今私達は彼が 毎日至る所を歩いて 回ったことを 知っています 真理を説くために 人々に神を 思い出させるために 多くの困難と貧困に 耐えた事を 彼はそうする必要は なかったのです 覚えていますか 彼がパンを増やし 五千人もの人々に 与えたのを そして 覚えていますか

水を ワインに変えたことを そのような人は貧困に 耐える必要はないはず でも彼はそれを選択し 人間に奉仕するために 人々に真理を 神の教理を 目覚めさせるために そうしました無知な 惨めさから抜け出す のを助けるために では仏陀の人生に 戻りましょう 仏陀がカトリックとか キリスト教徒でないと 言う必要ありません 彼はキリスト教の イエスと同様であり 又はイエスは仏教徒の 仏陀と同じです では仏陀は何を したのでしょう イエスと全く同じです

仏教経典を 読むと この世での彼の地位は 非常に高位だったと 私達は知ります 彼は国王になるはず でしたが彼は全てを 放棄し貧困と困難に 耐えました 様々な場所を旅し 謙虚に食物を請い 真理を説法して まわったのです 彼はこの食物さえ 必要では ありませんでしたが 謙虚さと慈悲の行為 としてそうしました それで彼に与えた人は  とても少しかもしれ ませんがお返しに 無限の加護を受けます 与えることと無私の 献身を学びます イエスと同じで 彼も食物を乞う必要は ありませんでした

誰かの供養も 必要としませんでした 彼はそうしたのは ただ人々が加護と 智慧を得るためです 聖者をそれ程献身的に するものは何ですか それは彼らが 永遠に続く生命の 知識を得たからです 彼らは 悟りから幸せを 得たので それで彼らも この楽しい経験を 人と共有したいのです 無明であることが どれくらい惨めかが わかっているので 多くの失敗 多く間違い 多くの犯罪は 無明から来ました この世界には 罪人はいません 本当の罪人はいません 最も大きな罪は 無明です

私達が生命の秘密を知れば 生命を愛する方法を 知れば 悟っているなら 私達はどんな犯罪も 犯しません 従って 間違いをする 誰でも 罪を犯した 罪人でも 非難される べきではありません 無明こそ非難すべき ですから聖人は 人々を有罪と 判決する代わりに 人々に無明から 抜け出す方法を 自身を知る方法を 彼らに智慧の使い方を 教えます 誰でも 本性の中に智慧が 隠れているからです それは私達が神の 王国と呼ぶものです 全てが栄光で 全知で 全愛です

この神の王国を 見つけるとき 自身の努力でも それを知っている 誰かから学ぶことで あっても 私達は充実感を 感じ始めます 愛と生命に対する 積極的な姿勢を 感じ始めます そういうわけで過去の すべての聖人は人々に 教えるために 非常に 一生懸命に働きました たとえそうする事で 多くの批判や誤解や 困難などに耐えねば ならなかったと してもです 時には命さえ賭けることもありました 例えばイエスや ソクラテスの場合で 仏陀も同じです

多くの人々は 彼を殺したくて彼の名を 汚そうとしました しかしこれらの困難 すべてにもかかわらず 聖人は人々のために 常に耐えます 聖人は最も偉大な 平和の創造者です 常に世界に平和を もたらす 最も偉大な政治家で 王座のない 国王です 彼らはこの世では何も 必要としないからです イエスは彼の王国は 天にあると言いました 仏陀はこの世の 王国を見捨てました 内面により偉大な 王国を持っているから それは私達が神の 王国と呼ぶものです 「まずは神の王国を 見つけなさい すると 全てのものがあなたに ついて来るでしょう」 本当にそうなのです
神の王国を得た後 私達にはこの世界の 王国に対する 欲求はありません イエスが砂漠にいて 瞑想して いたときに 魔王が来ました 悪魔 サタンが 彼の所へ来て言った あなたが私に頭を 下げたら私はあなたに 三界を与えましょう イエスが言いました 私の後に行きなさい 去れという意味です 彼はこれを必要とせず 三界も 一界さえも 要らなかったのです 三界の王国には 第三天国が 含まれています どうかご理解ください しかしイエスは これを必要としません

仏陀が四十九日間 菩提樹の木の下で 座っていたとき  否定的な力は 様々な方法で彼を 誘惑しようとしました 多くの物を提供しても 彼は望みませんでした それで それらの 悟った魂にとって たとえ人々が王として 彼らを称賛しても それは世間の王という 意味ではないのです しかし世間の人々は これを理解できません 人は一般的に 無知と嫉妬の心で 物事を判断して 行動をとるからです イエスが生きていた時 その当時 多くの政治家が 彼を妬みました そのために彼らは 彼を殺しました

それは彼らが 彼を誤解したせいです イエスがこの世の何も 好きではないことを 本当に知っていたなら 彼らは彼の影響を 恐れなかったでしょう ですから開悟は 常に必要なのです たとえ私達がこの世に いたいとしても  天は欲しくないと してもです 中国ではこう言います まずは悟りを開くこと つまり自己修練して それから家庭の面倒を 見ることができ そして更に国の面倒を 見ることができます そうして更に世界に 平和をもたらせます

私達が自己修練を 修行するなら 私達が何も言う必要も なく 世界に平和を もたらすことができ どんな平和会議を 開くこともなく 平和は 自動的に 自然に 世界を統治します 日常生活の中で どのように 自己修練するのか それはとても簡単です 戒律を覚えて いなければなりません 守るように努力し 最善を尽します 失敗したら再挑戦です 神に頼ることです 常に神や仏陀に向き 助けと導きを 祈ることです 「仏陀」とは過去 現在 未来の開悟した マスターという意味で 彼らに真摯に 助けを求めると 助けてくれます

ですから多くの人が 教会や寺院に行って 祈りを捧げるのです しかし時には 神や仏陀のパワーに 触れることは 難しいです それで私達は祈っても 実現しないと 感じるのです それは私達の連結が 切断されたからです 電話線が繋がって いないのと同じで それでいくら その電話に向かって 話しても無駄です 騒音を立て 隣人が 聞こえるだけで 遠くにいる必要とする 人には聞こえません 遠くにいる友人でも 電話線が 繋がっていれば 今私が皆さんと話して いるように話せます

同じように たとえ神が遠く離れた 天国にいて 開悟したマスターも 大変高く遠い 仏国土にいても 線を繋げば たとえ 目に見えなくても 彼らと連絡がとれて 助けを得られます この連結は いわゆる印心 つまり「真の洗礼」を通して 提供されます ヨハネやイエスが 施した洗礼のことです ええ だから肉体の マスターが必要です でないとイエスは この世界に来る必要がなく 仏陀もここに 来る必要はありません 他の多くの聖人達も 来る必要がないのです 彼らは私達の願いを 知っていますが私達は 答えを得られません

そこで彼らは ここに来て 天国と地球の間を 直接繋いでくれます すると私達は これ以上宇宙と 切り離されません もちろん 聖人達がこの世界に 来る場合決して 多くの人が彼らに 追随するわけではなく 世界中の人が来る わけではありません しかし来る人もいます 公衆電話と同じで ないよりはましです 公衆電話を通して 他の人と連絡を とることができます たとえ個人の電話を 持っていなくても 連絡できます 同様に聖人に追随する 高いレベルの 弟子たちは 天国と地球の間を 連結する 公共の架け橋です 多くはいませんが それでも役に立ちます

もちろん 多いほどいいわけです 同様に自分の電話を 持っているとしたら 直接かつ毎日 天国と繋がれます マスター  例えば イエスや仏陀は この種の 天国の電話を設置し 奉仕を提供します すると私達が 祈りを捧げるたびに 答えを得られます 直感的にそれが 分かります または はっきり見えます これは私達の 修行と理解の レベルにもよります レベルの高い人もいて ある人は意識レベルが とても高いです 低い人もいます これは彼らの 修行背景や 今生における 修行の程度によります ある病気は 治癒できません

たとえよくある病気で あってもです 今の所 治療薬のない 新しい病気について 言っているのでは ありません これは前世と深い 関係があるからです 医師や科学者でも この世界を超越して 遠い過去世にいって 病気の原因を 探し出すことが できません しかしその人が 開悟すれば 自分で どう治すか 分かります 智慧で 治療します なぜ発生したのか 病気の原因が分かり 直感的にまたは はっきり 病因が分かります これも彼らの 修行の度合によります 高いレベルの 魂であれば 物事が目に見えても 見えなくても もっとはっきりします

修行の初心者だと もちろんはっきりは 分かりません 直感的に分かります しかしたとえ生命に ついて少し分かっても 大変助けになります 従って聖人は いつも人々を激励して 必ず開悟するよう 強調し 神の王国と神の パワーに触れることを 強調しています それは今生で 成し遂げ得ることです 死ぬまで待って 死の苦しみを体験する までもありません 死ぬ時まで待って 天国と 繋がることを 学ぶとしたら 大変限られたものに なってしまいます 私達の認識のレベルは 高くないででしょう

今生で死ぬことを 学ぶとしたら もっと高いレベルの智慧に進む 機会があります これは私達が 何かの趣味とか 新しい科学を 学ぶのと同じで 他の責務を 果たしながら学びます 普通の生活と 身分を保ちながら でも毎日少し時間を 割いて生命を超越する 科学を学びます この科学を学ぶには 学位も必要なく 教育背景も経済的 条件も必要ありません すべて無料です というのは 得た智慧は自分から きたものだからです 従って真のマスターは 決して学生から お金を取りません 

なぜなら それは 私達が再び見つけた 自身の宝だからです 私があなたの家に 隠された宝を 教えてあげたとします これは私の 手柄でしょうか 私は見返りを求める ことができません 宝はあなたのものです 私はそれがどこに あるか教えただけです 神の王国は 私達の内面にあり 仏性は私達の内面にあります 聖書に書いてあります これは真実です 「汝は神の神殿であり 聖霊が汝の中に 宿ることを 知らないのか」 聖霊が私達の中に 宿るとすれば それを探すべきです そして聞いて下さい

中で何をしているか なぜ私達を暗闇に 置き去りにしているか  なぜ神は 私達の願いを 聞いてくれないのか  なぜ生活をもっとよく してくれないのかと 神は助けたいのですが 私達が祈らないか 祈り方が間違ってます 聖書にこうあります 「叩けよ さらば開かれん 求めよ さらば 与えられん」と あなたは毎日教会や 家で祈っているのに なぜ答えを得られない のかと言うでしょう 皆さんは忘れています イエスは言いました 「求めよ  だが私の名のもとに さらば神は賜わらん」

彼の名で神に 祈らねばなりません 「私を通らなければ 誰も天なる父の元には 行けない」と これはイエスが神より 偉いという意味ですか どうですか いいえ 違います 彼の仕事なだけです 例えば私達が 大統領に会う場合 直接車を運転して 中に入ることは できません 秘書に連絡を取るか 秘書に連絡を取るか 代理人とか 来客を受け付ける 担当者と アポイントを 取らねばなりません そうではありまえんか これは 秘書や代理人が 大統領より偉いという 意味ではありません

彼らの仕事なのです たぶん皆さんは 「でも私は毎日 祈っています 私達はカトリックの国 キリスト教の国で 仏教徒のあなたに 指図される 筋合いはない」と 言うかも知れません 私は仏教徒ではなく 「神教徒」です 仏教徒やクリスチャン 共に「神教徒」です ただ神のことを 異なる国で違った名で 呼ぶだけのことです 例えば奥さんの 呼び方と同じです 奥さんのことをどう 言いますか(ケリーダ) アメリカでは 「ワイフ」と呼び 中国語では 「タイタイ」と呼びます オゥラック(ベトナム) ではボトイと呼びます 同じ事を色んな違った 名前で呼びます

ではなぜ私達は イエスの名で 毎日教会で祈っても 神の恩寵や光を受け 取れないのでしょうか それはイエスが物質の 世界を離れたからです 仕事が終わったのです 私達は「精霊」を 見つけなければ なりません それはイエスが この世界を離れる時 これを約束しています これらのいわゆる 精霊とは イエスの仕事を する人のことです イエスがやり残した ことを引き続きします 分かりますか イエスは 言いました 私がこの世にいる限り 私はこの世の光である 私は永遠に この世の光だとは 言っていません

この世に生きている 限りです そして後から 精霊を送ると 約束していました その精霊で 私達の最愛の  イエスの代わりの人は きっとイエスと同様の 能力と力があります 彼の言う意味は 彼が去った後 この世界に 光をもたらす別の人が 来るということです イエスの前にも 光をもたらす 別の人がいました そこで ある人がイエスに あなたは過去の偉大な 預言者誰それの生まれ 変わりなのと聞いた時 否定しませんでした 分かりますか 皆同じ聖霊のパワーで 違った肉体に入って 人類に奉仕するのです

だからイエスは天なる 父が私を通してやった 私ではないと言います 聖パウロは私の中に 私でないキリストが 生きていると言います 要するに同じ聖霊が 違った肉体を通して 働くという意味です というのは 全ての開悟した聖人は 最も偉大な 開悟した聖人は 天なる父と 神と仏性と 一体だからです 従ってすべての 開悟したマスターは あるレベルに達すると 「仏陀」と呼びます なぜなら彼らは 同じパワーと 同じ智慧と同じ能力を 持っているからです 分りますか 

了解 皆さんが この種の開悟の体験を 望むとしたら 私は喜んで 皆さんに提供します  なぜなら私は イエスや仏陀の 法脈を受け継いでいて このような方法で 人類に奉仕できます 皆さんが 医者や エンジニア 弁護士になって国に 奉仕するのと同じで 私はこの方法で 世界に奉仕します 仕事が異なるだけです 私を讃える必要もなく 私の仕事や 私の言葉に対し 驚く必要もありません 私はただ違った 科目を勉強し 違った学校を 卒業しただけです 皆さんとは 違う仕事をしています ただの仕事です 分かりましたか

ご静聴 有難うございました 仏教とは何ですか あなたはどんな磁場と 精神的力を 使っていますか 仏教はキリスト教と 同じです 例えば キリスト教は 人々に十戒を教えます 例えば 殺生するな 嘘をいうな 汝の隣人を愛せよ などです 仏教にも 五つの戒律があります 最低限の五戒です しかし十戒や もっとあります 最初は同じく 殺生しない 次は 嘘を言わない 盗まない 邪淫しない など等です

キリスト教では 神が最高で イエスを神の息子と 称し神のメッセージを 人類に伝える人だと しています 仏教でも 最高の神は 阿耨多羅三藐三菩提 即ち最高の仏陀が いるとしています そして仏陀は最高の 神のメッセージを 伝える人だとします 両者の教えと 原理は同様です 仏教とキリスト教の 間には何の違いも ありません 唯一の違いは 神の名称で 一つは神 一つは阿耨多羅 三藐三菩提と呼びます

どちらも 最高の神のことです 薔薇のことをローズ またはメイクイファと 言いますが同じです 分かりますか でもキリスト教は 一つの聖書しかなく 仏教には沢山あります それは釈迦牟尼仏が イエスより長生きし 弟子も多かったので もちろん弟子たちの 体験ももっと多く もっと豊富だった からです 分かりますか イエスは 聖霊を通して 私達に神の声を教え 私達に光の天使が 来るとしています

聖書に 光の天使が来るが 天使を装った 魔がいる これは行動を 見て分かるとあります (そうです) その通りです 羊の皮を着た狼です 実際聖書の言葉は 偽の預言者のことを 指していて その結果を見れば 分かるという意味です 彼は聖書が神に通じる 唯一の道だと言い 神に通じる道は唯一 イエスを通してだと その通りです 神に通じる道は 唯一キリストです キリストは個人では ない神のパワーです イエスは決して 彼個人を 崇拝するのではなく 天なる父を崇拝する ように教えています 彼は何もしていません 天なる父が私を通して やったと彼は言います

一度も個人の栄光と 功績を言っていません 私達が誤解しています 私を誤解しているのと 同じです 私は自分ではなく神を 讃えるため来ています 有難うございました キリストは去ったけど 常に私達と共にいます キリストを 一個の個人と見なして 私達と切り離さないで ください 私達とキリストの間を 隔てないでください キリストを分離しない ことです 私達は皆 キリストの意識を持ち 皆神の子なのです 皆神の子なのです これを知らないのは たぶん私達にはっきり 見えないからです 私があなたに 開悟を与えることは 要するにキリストが どこにいて私達の 内面の神をどう 認識するか教えます なぜなら神は私達の 内面にあるからです

人々は 偏見に満ちていて 神の概念は固まった 限られたものです そのため時間をかけて これら先入観を取り 除かねばなりません 聖書に 「実を見れば分る」と 書いてあります その通りです 私は聖書に反する事は 何も教えていません 同じ事を教えていると あなたは知るべきです 私に服従するように とは言っていません 私の言う意味は マスターの指示に 従うと結果が出る ということです

イエスが言ったように 「私を愛するなら 戒律を守りなさい」と いうこと 分りますか これは決して 自画自賛ではないです 毎回花や果物を 私に供養しているのは 皆弟子達の考えです 彼らは 感謝の気持ちと 愛を表したいのです たとえ私がマスターで なく普通の人でも 遠い所かから来て 疲労に耐え 長い旅をして来て 数時間皆さんに 開悟を与える事に対しいくらかの果物や 花を供養されることは 過分なことではないと 思います 経の講義をする前でも 私はこういったことは 好きではありません

居心地がよく ないのです 何だかあまりにも よく分りませんが 派手過ぎます 天なる父こそこれらの 栄光を受けるべきだと 思います そこで私は 経の講義の前に なぜ毎回花や 果物を買いますか 今日は花や果物なしに しようと言いました すると彼らは言います マスター 大きいステージに 花もなく 何もないと 殺風景です 聴衆にとっても よくなく 見た目もよくないです あなたのためでもあり あなたは沢山のお金と 時間をかけてここに 来て下さいます私達が 少しお金を使うのは 何でもないですと 従って私の意思では ありません 理解して頂きたいです 私は与えるだけで 決して取りません 私ではなく 神がしているからです 私はただ神の道具に 選ばれ 神のしもべ として人類に奉仕する ことを光栄に思います 私にこの機会を与えて くれれば感謝します いいですか 有難う
真理を追い求めるには 何が必要ですか 自分に真理の智慧が あることをどうやって 分るのですか(はい) 何が必要ですか はい 聖書にも 仏典にも 真理は 私達の内面にあると 言っています ただそれを知らねば なりません 私達は 祈りを通して 真摯な渇望を通して または能力のある 案内者や先生を通して 知ることができます 英語を習うのと同じで 自分で習うか 経験豊かな 先生を探して 習うこともできます 習うことは 誰でもできます 私達は内面にすでに 智慧を持っていて 学ぶ能力を 持っているのです いいですか あなたがまだ真理を 見つけていなくまだ 開悟していなければ 私に奉仕させて ください 私が神をお見せします

イエスが使命を 果していないまま この世界を離れたと 思いますか いいえ 彼は使命を 果たしました 彼は離れる時刻を 知っていました 彼は最後の晩餐会で 弟子達に暫くの後 皆は二度と私に会え なくなるといいました 彼は弟子達の足を 洗ってあげ 彼らに引き続き 他の人の足を洗うよう 言いつけました 足を洗うことは 人々の罪を洗うことを象徴します 人々に 光と智慧を見せ 過去の無明と 罪を断つ方法を 教えたのです

足は体の 一番下の部分です 罪と無明は 人間の最も下劣な 特性だからです これは象徴的な動作で 謙虚さを表すだけでは ありません 彼の弟子だけが 分ることです なぜあなたは在世の 神と称されますか 私にも分りません 弟子達はいつも色んな 呼び名で私を呼びます 仏陀だとか 在世の神だとか 観音菩薩だとか 阿弥陀仏だとか 智慧の仏陀 智慧の菩薩など 色々あります 彼らは瞑想の時これを 体験したからです たぶん私は 在世の神なのでしょう 分りません 

たぶん 私達皆が在世の神では ありませんか 汝は神の神殿である ことを知らないか 聖霊は汝の中に宿る と聖書にあります これがイエスと 普通の人との 違いです イエスは大変 高いレベルにまで 開悟しています 彼は自分が 神の息子で在世の神で あると知っています 他の人は 開悟していません その意識レベルに 達していないのです 例えば国王に二人の 王子がいて 一人は成長して 国王になる準備を していて 将来 自分が国王になると 分っています

もう一人はとても幼く まだ玩具を遊んだり 食べたり泣いたりして 自分がどんなに偉いか 分っていません 分らないことは 王子でないという 意味では ありません 私達は皆在世の神です お祝いしましょう 切りのない永遠の 生死輪廻において罪と 地獄の役割は何ですか 罪は誤解から 生じたものです 神の法律を 誤解したか神の法則に 対し間違った概念を 持っているからです 例えば神は 殺生するなと言います 私達は殺人しなければ いいと思うのです

私達は聖書の 神の言葉を忘れています 「汝は雄牛と 雌ヤギを殺して 私に供養するな 汝は懺悔すべきだ さもないと 私に祈っても 私は顔を背け 私は聞き入れない 汝の手は無辜の血で 染まっているからだ」 とありますね 聖書の神の言葉です そうですね 読んでいませんか 雄牛や雌ヤギを 殺して神に供養する ことが許されないなら 殺生し自分に与える ことは尚更です それでも 古代から 私達は神の法律を 誤解し 沢山の動物を殺して 私達の肉体を養います 私達が 誤解したのと 私達のいわゆる 法律学者達の 法律学者達の 不理解と 間違った概念を 説教したからです 申し訳ありませんが 私は真実を言わねば なりません 皆が 喜ばなくてもです 真理以外に私に 何が言えるでしょうか 真理で傷つく事もあり 治癒効果もあります

貴方は神がこの方法で 人類に奉仕せよという 天啓をどのように 分かったのですか

ご存知のように 修行して 開悟すると 物事ははっきり 明白になってきます 電話が繋がると 友達と連絡できる ようなものです 私も躊躇したことが あります  この仕事をしたくなかったのです 人が理解してくれない ことを心配したのです 多くの人が偏見に 満ちているのを 私は見ているからです 私は長い間続いた 信仰や伝統と異なる ものをどう解釈したら いいのでしょうか 私は一人で 単独で 多くの人と比べ 私の考えは 大多数の人と異なり 私の認識と他の人の 認識は大分違うのです

私にどうして できましょうか しかし神は沢山の 人を私に送ってきます 私が身分を隠しても 神は三回も四回も 私を見つけさせ  私を外に 連れ出したのです そこでますます 多くの人に 知られるようになり  いわゆる弟子達と 学生達によって情報が 広がったわけです これは神の意志です 神が私を公衆の前に 曝したのです 私は何回も 逃げましたが 成功しませんでした 従って服従してこの 仕事を続けています いいですか

あなたの教えが 真理だとどうやって 確認しますか さっきまで 私は聖書や仏典に 記されたことを 話しました これらは真理として 認められていますが しかし更に高い 人間の言葉を 超越した真理があって 真の洗礼と 印心を通してこそ 得られるものです 例えば 宇宙の始まりは 言で この言は 神でありこの言は神と 共にあったと言います これは普通の言語や 普通の言葉ではない ということです というのは 宇宙の初めは言葉も なく聖書もありません

従ってここで言葉は 聖霊の音であって いわゆる 神のバイブレーション 神の声なのです 印心の時この音を 聞くことができます これは神の声で 神の指示です 普通の言葉ではなく 宇宙の言葉であり 神の言葉であり 神が話している ことであり この言は神なのです すると私の話が 真理だと分ります 聖書にも 神は大きな炎 光で現れるとあります 印心の時 あなたは この炎を見ます すると私の話が 真理だと分ります 分りましたか さもないと どうやって分りますか 少なくともさっきまで 私は真理を話しました

印心はこれを 更に証明することに なります ヨハネがイエスに 洗礼を与えた時 イエスは白い鳩の ような光が天から 下りるのを見ました 印心の時あなたも 似たような事を 見るかも知れません 少なくても 必ず何かを見ます 中には違ったものを 見る人もいます 大きな炎などです またある人は 音を聴きます 神の声です 雷の音とか 沢山の水の流れる音 などです  分りますかするとあなたは 私が提供したものは 真理だと分ります しかし私が 与えたのではなく神が あなたに与えたのです 「私」はいません

さっき誰かが私に どんな霊的磁場の力を 使っているかと 質問しました 今思い出しました 私は何もしません 私は何も使いません 神がやります そうですその質問は どんな磁場の力を 使うかという事でした 私は何も使いません 何もしません 神がやるのです 本当に何もしません 今皆さんは私が話して いるのを見て私が 話していると思います しかし印心の時は 私は何もしません 皆さんの頭に水を 撒くこともしません 聖霊を使うだけです 聖霊と 炎で 洗礼します これは高等な方式です ヨハネもそう言います

あなたは聖母マリアを どう見ていますか あなたが見ているのと 同じように見ています あなたが崇拝するのと 同じぐらい 私も崇拝します あなたにとって意味は 私にとっての意味です 私の研究によって 分ったことは 人類の進化は 常に前に 前進しているという ことです (その通りです) では人間が どのように 動物や植物や 鉱物に 輪廻するか 説明いただけますか 私の概念ではそれは 退化だと思います

これを質問するのは あなたのサンプル本で この事が起こりうる といったからです 説明頂ければ ありがたく思います いいでしょう ご存知のように私達は 常に前に進み上昇し しかし時々 二、三歩後戻りします 山登りするのと同じで いつも 上に向かって上ります しかし時には 足を踏みはずして 下に転がり落ちる こともあります しかしそこで留まる わけではありません 再び登り始めます 人間は常に前に進む 傾向にありますが 時には 誘惑や人間性の 弱点により滑り落ちる ことがあります

しかし それは一時的で 山登りするのと同じく 足を滑らせて 足を穴に取られるのと 同じです 現在人間として 人間の 良い振る舞いをせず 動物のように 行動すると 動物の生を 与えられ 動物の服を 着せられます そこで動物になるのは 良くなく 霊性の成長に有害で あることを学びます これを学び終えたら 再び戻ってきます 私達は 人生の旅において 時には 慎重さに欠けます 神の法律を忘れ 世俗の誘惑に 引っ掛り または状況に 迫られて 神の子に 相応しくないことを します すると低いレベルに 滑り落ちます 

これは ただ学ぶためです 分かりますか 私達が学校に いる時と同じで 真面目に勉強せず 時々 私達はコーヒーや 音楽 ディスコが もっと好きです 時には体が病気で 勉強の支障に なります  すると再び学校に戻って 学ばねばなりません しかし永遠にそこに 留まるわけではなく 翌年上へ進みます 学校のシステムは 上へ上がること だからです 分かりましたか 性的関係について 性的関係について どんな態度を 持つべきですか 婚姻関係だけに限り 控えるべきです 性関係は愛の表現で あるべきです

肉体的な行為ですが 快楽に溺れたり 乱用しては いけません  そしてなるべく 欲求を控えることで 神を思い起こすことが できます 沢山の時間を 快楽を求めることに 費やすと神を思い 起こすことが難しく なるかもしれません 感覚的な快楽に 溺れると 霊性の成長と進化の 妨げとなります 分かりますか 瞑想を習うには 体と魂を 清潔にし 内心を穏やかに するためには 菜食が必要ですか はい そうです 菜食は私達の 体と魂を清潔に してくれます

聖書にも 動物を殺して 神に供養することも するなと 書いてあります 旧約聖書の たぶん最初のページに 神は野に 沢山の植物と果物を創った 素晴らしく 美味しいものでそれは 皆汝らの食べ物である と言っています 神は食べ物として 動物を食べなさいとは 言っていません 従って 菜食をすることは 言われた通り 神の戒律を 最大限に守ることで 私の戒律ではなく 神の法律です  私は皆さんに思い 出させるだけで 聖書の深い意味を 解釈するだけです

前回六月の講義の時 なぜ魚を殺して 食べてはいけないか よく理解できません イエスの弟子は イエスに魚を二匹 捕えてくるよう言われ ペトロ自身も 漁師だったのです (説明しましょう) 彼は取ってきた魚を 砂漠にいる人々に 分けたのです  皆がそれを食べました とても簡単です ペトロや他の弟子は かつて漁師でした それは 彼らの誤解です イエスはこういいます 漁師をやめなさい 来なさい 私の所に来なさい 私があなたを 人を捕らえる 漁師にしてあげると そうですね

魚釣りはいいとは 言っていません 引き続き魚を釣るべき だと言っていません 「人を釣る」漁師に なるべきだと言います これは人を捕まえて 神の王国に連れて行く という意味です これが一つ目の質問で 次は二番目の 質問についてです イエスは魚を食べたか という質問です 食べていません 二匹の魚を 五千人に分けたことを 信じるとしたら これはどういうことか 考えるべきです それはイエスが施した キリストの奇跡です 彼が水をワインに 変えたように  花をパンに変えられます

彼は魚も肉も 食べません 神の恩寵だけです 彼は 私を食べて飲みなさい と言ったのは イエスの肉を食べ 血を飲むことだと 思ってはいけませんね ですからその魚は 本当の魚ではないです 二切れのパンと 二匹の魚で五千人に 分けるなんて どう思いますか ただ外見だけです 見た目が魚なのです 彼の所に来た人は 全部が菜食者という わけではありません 彼らはイエスの話を 聞き聖なる人を崇拝 するために来ています 彼らは必ずしも戒律を 守り彼の弟子になる 人達とは限りません

彼らは肉や魚を 食べることに 慣れていて イエスは彼らを満足させねばなりません それはちょうど 結婚式の時人々が ワインを飲むようで 彼のお母さんは彼に 水をワインに変えて 欲しいと求めました 実際彼らが飲んだのは ただの水です 名前と味はワインでも 実はイエスの奇跡に よるものです これで分かりましたか 私はイエスが 聖人であり 神と人間を繋ぐパイプ だと知っています 神をどう定義しますか あなたの神に対する 定義は何ですか 神は 全能のパワーで 愛と許し そのものです

私達がこの全能で 愛に満ちて 寛容な パワーに触れると 私達のすべての過ちと 罪は許され 忘れられ 洗い流されます そして解脱します だから私は 今生で即座に開悟し 解脱できると 言っているのです それは全能のパワーは いつも寛大で いつも許しと愛に満ちているからです 私はどうしたら 開悟できますか どうしたら開悟 することがきますか 私の体と 精神の間の葛藤が私の 生活を成り立たなくし 難しくする場合です よく分かります 開悟するには 印心をするか 真の洗礼を 受けることです

この面で 私が手助けできます  私はやり方を習っていて 神は私が道具になる ことを許しています 人は皆 肉体と精神の 葛藤があります しかし印心後 開悟すると 葛藤は少なくなり ほとんどなくなります 沢山瞑想するほど 修行を沢山積むほど 葛藤は少ないです 神の恩寵が 私達のために 道をきれいにし すべての面倒を見 挫けると助けてくれて 私達は神の助けを受け 独りで奮闘するような ことはありません だから 印心を通した開悟と 真の洗礼が 必要なわけです

教会の聖職者が 洗礼を施すとき 神の光と 神の音を与え あなたと全能の神と 繋げてくれるとしたら あなたは 重荷を下ろされた 感じを受けます これがいわゆる 神の恩寵を通して 原罪を洗い流す という意味で 聖職者から これらの体験を 得られなかった場合 私のところで 試してみてください 今晩の話や 六月の講義 明日の晩の講義は 洗礼や印心ではありません 皆さんは何も得ません そんなに得られません

印心してこそ 神と繋がることができ すべての原罪が 洗い流され 神を見て 神の声を聴き 神の光と 神の音楽を聴くことが できます 時には 雷の音のようで 時には沢山の 水の音のようで ハープの音や トランペットの音など 聖書の記述と同じです 他にも 沢山あります 神の音は 心を癒してくれます 沢山聞くほど 心は安らかになり もっと智慧があり もっと愛に満ち 寛大になります これは私達が 得ることができる 永遠の宝物です たやすく得られます お休みなさい 神が常に皆さんに 姿を見せますように

 
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