智慧の言葉
 
神はすべての創造物の根源である 1/3 一九八九年十一月十五日 アルゼンチン(スペイン語)   
Download    

ようこそ 神に祈りましょう 今宵がうまく行き 私達がこの人間の体 この道具を通じて 神からの多くの 恩恵を受けますように アーメン 神に祈りましょう  全能の神 最高の仏陀が 私達の世界を祝福し 毎日がもっと平和で ありますように 平和は私達から始めて ありがとうございます

皆さん来てくれて 嬉しいです こんなに 来てくれるなんて ここに来る車の中から 燦々とした太陽と 買物に忙しい多くの人々があちこち ドライブしているのを 見ました 本当に素敵な日でした たぶん誰も来ないか 二、三人しか来ないと 思いました 私を含めてです ある計画をたてました 私が中に入ったら その二、三人を誘って その二、三人を誘って コーヒーショップに 行ってお祝いしようと 今日仕事がないことを 祝おうと思いました けれどもこんなにも 来てくれて ええ やはり 心の中で祝います 私達の多くはまだ神を 求めていることをです いいでしょう

では一緒に仕事を 一緒に仕事しましょう 神を求めることは 個人の仕事ではない 仏陀になることも そうです 神を求めることが意味するのは 仏陀になること キリストになることで 仏陀やキリストの ようになるには 多くの条件が 要求されます 例えば その個人が 神または 成仏を探し求めるには 非常に切望していて 非常に誠実でなければ なりません 仏教では 「成仏」は 最も高い境界に到達し 神と一体に なることです 仏教では神を 阿耨多羅三藐三菩提 と呼びます 阿耨多羅三藐三菩提 とは 最高の神を意味します

キリスト教では 「全能の神」と言います 名称は異なりますが 意味は同じです ある個人が 神または 阿耨多羅三藐三菩提を とても切望していれば 最高の神に到達できる 方法を知るべきです 私達はたいてい 礼拝または崇拝の形で しています 仏教では お寺に行って 仏像を拝みます そして数珠を このように教えます 仏陀の名を 唱え続けながらです 唱えられる仏陀は 沢山あります 一年経っても 仏陀達の名を 唱えきれません キリスト教に沢山の 聖人がいるように 聖フランシスコ 聖マリア 聖ホセなど そうですね 

同様に仏教では 同様に仏教では 沢山の仏陀があります しかし 仏教とキリスト教での 聖者と仏陀に関する 定義は 少し異なります 仏教では 誰かが仏陀になったら 彼は全能の神と一体に なった事を意味します キリスト教では 聖人はたぶんまだ神と 一体になっていません そうではないですか 聖人は聖人で 神は神です でもそれはただの 誤解かもしれません 聖人にも色々な レベルがあります イエスキリストの様な 聖者は神と一体です 彼は言いました「私と 私の父は一体である」 「私を通さない限り 誰も天の父には 到達できない」と ある意味で  彼は仏陀に似ています 最高の神と 一体になっています 仏陀も言いました 「仏陀を 見つけない限り 解脱できない」 聖パウロも同様です

彼は「私は生きるが 私ではなくキリストが 私の中に宿る」 なぜなら「宿るのは キリストで私でない」 イエスも同様で彼は言いました 「私ではなく 天の父がしています」 キリストとは天なる 父からのパワーです 仏陀のパワーは キリストのパワーと同様で すべて 同じ源から来ていて 体という道具を通じて 世界に利益をもたらすために 使われます まるで 二本とか三、四本の 電線のように 外見から見ると色が異なりますが

中には 電気があります 同様に 同じ源から来ています 仏陀やキリストになり キリスト意識 または 仏陀に到達するには 先ず神への真摯な 切望が必須です 神は私達に内在します 皆知っていますが 神を見つけることは とても難しいです 非常に矛盾しています 神がここにいるなら なぜ見つからないのか 実際あまり難しくなく 私達は神が 内面のどこにあるか 知らないだけです 私達が家にお金を 置いていることとか 親がお金か金を 家のどこかに隠すのを 知っていても その場所が 分らなければ 見つかりません

誰か 父親が金を隠した 場所を知っていたら もちろん 私達はすぐに 見つけられるでしょう キリスト 仏陀は 宝を発見した人達です 彼らが発見した後 彼らが発見した後 他の人にもその情報を 他の人にもその情報を 共有しました そして 彼らの恩寵により 例えば仏陀とキリスト 聖パウロ 聖ペトロ 聖シモンなども 神の国を見つける ことが出来ました 仏陀の加護が あってこそ 彼の弟子 阿難 摩訶迦葉等も 神の王国を見つけ 仏陀になったのです イエスは言いました 「私達は皆神の子です」 仏陀も 彼は知覚ある衆生と 同等だと言いました しかし私達と 仏陀とキリストとの 違いとは 彼らは彼らのパワー 彼らの神 彼らの 天国を見つけましたが 私達はまだだからです

神の国は いつでも 見つかるかもしれず その場所さえ分れば 神を見つける方法は 一つあります 多くの事に やり方があるように 神は決して私達が 神の国に戻るのを 禁じていません 神は既に様々な 「道具」を私達の中に 植え付け 欲しい時 いつでも神に連絡が 取れるようにします しかし 時々 その道具は 使われません ですから 私達には神が見えず 見つからず あるいは 連絡出来ないのです 私達の家に ラジオがあるように 開けなかったり どう開けるか 分からなかったら ラジオ局からの 番組を受信することが できません

誰かその使い方を 一度教えてくれれば 毎日使えるでしょう 時には 私達は幼な過ぎるので それが使えません 使い方が分りません 他の誰かに教わったら 使えるようになります あるいは私達は以前 使ったことがなくて まだ新品だからか 以前ラジオを持って いなかったから その 使い方が分りません 私達は多くのことを 忘れています この世に 滞在している間に なぜならこの世には やる事が 沢山ありすぎて 生きるために 乗り越える奮闘も 沢山ありすぎるから 私達のラジオ 私達の楽器を使う 時間さえありません

しかし実際  私達はずっとそれを 使わねばなりません 少しでも十分です 今 私たちがただ ラジオの隣に立って  つまみを開かないなら 何も受信することが できないでしょう 私たちがそこに立って 叫ぶか 悲鳴を上げて 「なぜ放送局は働いて いないか」と言うなら それは無駄です  それは放送局の せいでなくて 私達が 開かなかったのです それで 私たちが神に 祈っては 神が答え ないと思うならそれは 神のせいでありません それは私たちが自分の 受信機を開かなかった だけで それで 神と一つになることが できません この世界に「電話」が あるように 私達は  神に電話できます ただその電話は 電線がないだけです

目に見えない電話です 時々 人々が海中に 潜水する時 彼らは ボートに連絡するため ある種の接続装置を 持っているかも しれません 彼らは上から情報を  そして ここ下から 情報を聞くために 時折 それを 使わねばなりません 海の中に深くもぐって 連絡がない場合  時には危険なことも あるでしょう さて聖書には キリストが私達に 公開した多くの 秘密のものがあります そして仏教の経典でも 同様です 例えば 聖書に  神の声は 雷のようで 雷の音のようで 多くの水の音のよう だと書かれています

神は大きな炎のように 輝き立っている 神は大きな炎か 火のようである モーセが神を見たとき  一種の大きな光の中 大きな火の中に見て 聖書では また他の 誰かが大きな炎の中で 神を見たことについて 同じ事を示しています それは どの時に 私たちが神を見るか 神と接触しているかは 重要でないことを 意味します  体験はどんな時期でも 同様です 仏教 または仏教の経典には 蓮華経と呼ばれる 一つの経典があります それにもまた 雷の音 多くの水の音 海潮音のような 仏土の音を聞くことが できると示しています

ちょうど聖書で言う トランペット等の 音を聞けます また仏陀は大きな光を 持っていると言います 「仏陀」は「光を持って いる」という意味です それで神が光を持ち 仏陀も光を持つなら 両方は同じもので あるに違いありません そう思いませんか どちらも光があります 同様に見えるなら バラに違いありません オランダから来たか  英国か アルゼンチンから 来たか関係ありません 人々がバラを 自分の国か違う国で 育てても 同じものが 生産されるでしょう 私はイギリスで 同じ花を見ました オゥラック (ベトナム)で 同じ花を見ました

同じ植物を育てれば 同じ花を得るでしょう ですから仏教徒が 修行して光が見えて 雷の音トランペットの 音が聞け 多くの水の 音が聞けるなら クリスチャンの聖人も 炎と光を見る事ができ そして 雷のような音 多くの水の音を 聞くことができます 彼らは同じことをし 同じ地位に 到達するに 違いありません つまり同じ成功です そうでしょう また 聖書には 別の秘密があります それには 「始めに言があった」 と書かれています

「言葉」の意味は 振動 音です すべての振動は 音を生みます 「言葉は神と ともにあった 言葉は神だった」 ですから言葉を 聞いたら  神を聞いたことです 二種類の音 つまり振動が あります 聖書が言う言葉は この世界を 超越した世界の音を 意味し 普通の耳で聞こえる 音ではありません 私達が毎日話す 言語ではありません そうでなければ聖書に 「初めに  人々は人間の言葉で 話していた」と 書かれたでしょう 違います  この言葉は振動です 仏教の経典でも 同じことを 言っています それは 「仏陀は音流に頼って この世界に 降りてくる」と 言っています

「凡夫はこの音流 この振動の流れに 頼って家に帰り 神の王国に帰る」と 言っています これで古代の マスターが明かした 秘密が少し 分かりましたね つまり 私達は家に帰るため 神に繋がるため この言葉 つまりこの音流に 接触しなければ ならないのです 家にラジオがあり ラジオの電源を 入れれば ラジオ局に 繋がるのと同じです ラジオ局に行く必要 さえなく ラジオの 電波はどこにでもあり 遠くまで届きます 神も遍在し どこにも神がいます

ですから 唯一の問題は いかにこの言葉 つまりこの音流と 接触できるかです 方法が分りますか (いえ)分りませんか

(祈り)祈りですか 献身的に 誠心誠意で祈り  極めて深い 意識レベルに入れば その音流が聞こえる 時があります そうすると  神の音が聞こえ  光が見えるでしょう 仏教の経典に 阿弥陀仏経というのが ありますが そこには  真摯で献身的に集中し 一日 二日  一週間 二週間  あるいは 何週間も 阿弥陀仏の名前を 繰り返して念仏すれば 阿弥陀仏が見えると 書かれています ですから  非常に真摯に 集中して祈れば 時には 音が聞こえ 光が見えることも あるかもしれません 毎日真摯に祈れば 毎日光が見え  音が聞こえるかもしれません

でも耳で聞くのでは なく 内面の存在が 聞くのです 一種の深いサマディー 深い禅定に 入るのです それは無意識という 意味ではありません 深い禅定は 無意識ではありません 意識朦朧 恍惚状態 ではありません はっきりした意識の 中で聞くのです そのとき 深く祈りの中で あまり外の世界を 余り外の世界を 意識しません でも神に繋がるため 祈りよりもっと良い 方法があります 実際すでに神と接触し 神がどこにいるかを 知っている人が 私達の中にいれば その人に教われば いいのです そうすると 私達は 毎日神を聞き 神を 見ることが出来ます

これがイエス キリストが彼の弟子と その時代の人々に 教えたものです 仏陀も ムハンマドも 老子もソクラテスも 同じです 今 私達の時代にも  このような人がいます 彼らについて しばらく学び 勤勉に修行すれば 私達も キリストのように 仏陀のようになれます 神と接触し神と一体に なり宇宙と一体になり どこにでも存在する ようになります キリストがキリストに なれたのも 仏陀が 仏陀になれたのも こうしてなれたのです ですからイエスは 「私は天の父と一体だ」 仏陀は「私の中に 仏性があるのと同様に すべての衆生には 仏性がある」と 言ったのです 老子は道徳経の中で 「万物は一体である」 と言いました 全宇宙は一体です

それぞれ異なる信仰の 貴重な経典の中から 多くの秘密と 多くの類似した見方を 発見できるわけです だから 彼らは皆同じ ことを教えていると 知ることができます 今 この時代に 神の光が見え 神の音が聞こえるよう 私達を助けてくれる 人がいれば 私達は正しい道を 歩んでいると 知ることができます この人は仏陀あるいは キリストと同じ教理を 教えていると分ります その人は仏陀あるいは キリストの弟子 あるいはその後継者 だと知るべきです 歴史上 いつもこのような 人々がいます 私達はこの人たちを 神のしもべ  神の息子と呼びますが

彼らは人類のしもべ 人類の息子でも あります 「息子」と言う時 必ずしも男性のことを 意味するわけではなく 神の王国では 性別がなく 性別の 違いはありません 男も女もありません 全てが美しく純粋です この世界のすべてが 神の半分の品質です 私達の内面に神がいる けど 外面は違います それは神の品性と 魔の品性が 混合しているからです 魔とは幻想のことです 聖書には 堕天使の物語があり 堕天使の物語があり 仏典には 幻想の王国 闇の王国という 魔に関する 物語があります 私達は真実と幻想の 混合体です 内面は純粋な魂で 外面はこの世界からの 物を借りて今のように なっています  またこの世界から 沢山の概念を借ります それらの概念は神の 概念ではありません

神は自分の似姿に 全てを創造しています それは全てが輝かしく 美しくて純粋です 私達には想像しにくい ことですなぜなら 私達は物質世界にいて また神の世界にも いるからです 「物質世界にいる」 ということは 私達は肉眼で見て 低いレベルの意識でこの世界を 理解している意味です いったん  智慧眼が開くと 違うように見ます 真の世界と 影の世界を見分ける ことができます 子供の時 または 赤ちゃんの時のように 沢山の美しいものが あるけれど 私達は よく認識できません 美味しい物や 美しい物があっても 分かりません

両親が家にきれいな 女の子を連れて来ても 赤ちゃんの男の子は 無視するでしょう 彼女と 結婚することなど 考えもしません 十年か二十年 経ってから きれいな女の子を見て 考えは違ってきます 彼は鋭い鑑賞力を 示すでしょう ですからこの世界には 常に美女がいますが その赤ちゃんの考えが 変わっただけです 彼が幼い時にも きれいな女の子がいて 彼が大人になっても きれいな子がいます 物事の見方が 変わっただけです

実際 その男の子に 教える必要はなく 本能的に分かります 悟りを開くのも同じで 本能的に神が 分かります なぜなら 内面に それを認識する能力が あるからです 成長したらその能力が 目覚めます 従って 人が 開悟を求めるなら 彼らは既に 成長しています 神を彼らの 目の前に置けば 彼らは認識できます 少年と同じで 成長してから きれいな女の子を 連れて来れば すぐに分かります 好きになるでしょう ジョークがあります ある修行者がいて ある山で瞑想と道徳を 修行していました また彼は一人の 男の子を育ててました

その子供は孤児で 小さい頃から 育てられました 二十年間彼らは 山に住んで一度も 山から下りて人を 見たことがありませ 多くの修行者は そのようにしています ある人はヒマラヤから 一度も降りて来ません この世には何も彼らを 引き付ける物がないと 彼らは感じるのです 彼らは悲観的である わけではありません ただこの世に 執着してないのです 彼らの生活は とても簡素です 何があっても それで生活します

それで二十年間後 ある日 いわゆるマスターは その男の子を連れて 町に行きました 誰かを訪ねて そこで何かを しなければなりません とても重要なので マスターは山から 降りねばなりません とても重要なので 降りて来ました それで 下りてから彼らは 沢山のものを見ました その男の子は人生で 一度も見たことのない ものを沢山見ました 山では 猿や果物 木 滝や花などしか 見ませんでした

突然 美しい女性が 通りを横切りました それでその男の子は マスターに「あれは 何ですか」と聞くと マスターは 「いや あれは見るな  虎だ とても怖いぞ 見るな 見るな 見るな」と言いました マスターは少年を 連れて去りましたが 少年はずっと見て いましたマスターは 早く少年を別の通りに 連れて行きました 少年がずっと見つめて いたからです 彼らは用を済ませて 山に戻りました 家に帰ってお茶を飲み ケーキを食べました マスターは 何気なく 男の子に聞きました 「今日街で 色々見たが 何が一番好きか 話してみなさい」と 男の子は 「虎です」と答えました ですから分かりますね

私達も同じです まだ神を見たことが ないので 神の栄光に魅了され 陶酔することが できません 誰かが見せてくれれば 私達は とても自然に すぐ突然 本能的に知ります するともう 牧師やお坊さんや 尼僧さんや仏陀が 敢えて私達に 「神を愛せよ とか 仏陀になるべきだ 仏陀や神を崇拝しせよ と言うまでもなく 私達はそうします
聖書にこうあります 「悲しきは汝ら 法学者たちよ

汝は神を見ていない どころか人が神を見る ことをも妨げる」と これの意味することは イエスの時代でも 高地位の司祭は神を 知らないという事です 彼らはただお金を集め 大きな教会を建てて 多くの信者を持つ事を 偉大に感じるのです イエスを抑えつけ 傷つけようとして イエスの真理を 聞けなくします 人が自分達に 従わせるためです 民衆を操るのです 外的な儀式や 世俗的なやり方 崇拝の仕方などで 民衆を誤った道に導きほとんど 商売するのと同じです

釈迦牟尼仏は 悟りを開いた後 説法をしたく ありませんでした 誰も彼の話を聞かない と思ったからです 釈迦は言いました 「私が悟った真理は 奥深く 時間の浪費に なるだろう 凡夫に説いたとしたら  彼らは世俗の活動や 達成感に 深く没頭して いるからだ」と でも神 降りて来た ブラフマンが 釈迦にお願いしました 「どうか外へ出て 説法してください まだ完全に 盲目でない人も いるのです」と また当時は 多くの僧侶と司祭が 沢山の 形式的な儀式を作り 宗教を曲解したのです

そこでブラフマン 神がお願いしたのです どうか説法して下さい それで釈迦は出かけて 説法をしたのです このように真理を 説くのは大変です 本当に難しいです ですから イエスは たった三年半で 人々に殺されました 釈迦も四十九年間 苦心して説法しても 全インドの人が彼に 従ったわけではなく 仏典を読むと 釈迦が説法したとき 多くの天神や 神々や天使 仏陀 様々な衆生無形の衆生が来て 説法を聞いたと ありますが 人間は それほどいません もちろん 釈迦には沢山の弟子が いましたが インドの人口と 世界の人口に 比べたら大した 数ではありません

大半の人は 神と繋がっていません もしかしたら あるクリスチャンの 団体は瞑想をし 純潔で禁欲の生活を 送ったので 神を見て 神の声を 聞いたかもしれません また一部の 仏教宗派も 瞑想し とても純粋で道徳的な 生活を送ったため 仏陀を見たでしょう しかしごく少数です

なぜなら聖書にも 「見ずに信じる人は 幸いである」とあり 男性や 知的な人 非常に科学的な思考を 持つ人にとっては どうでしょう 彼らは毎週同じ 説教の内容を 聞くことに 満足しません 彼らはもっと多くの 証拠が欲しいのです でも実際  女性も男性のように 考えるべきです 私自身 そうしています 私はただ経典を読み 祈り 崇拝する だけでは満足しません 神を見たいのです 仏陀を見たいのです すると更に信じ  私は成功しました その後私は 誰かが神を見たいなら 見せることも できると思いました 男性も女性も同様に 神を見ることができ 誰もが 仏陀になれます 神は等しく すこしも 変わらない愛で 人間を創造しています それに皆さんと これを分かち合うのは 私の本意では ありません 私は誰かに 発見されたのです ある女神がある人に 私の事を教えたのです

観音菩薩という 女神です それで彼らが来て 私を連れ出したのです 私は三回発見され 三回目に出てきて 法を広め始めました 最初に 発見されたのは インドにいるときです まだ正式に 出家してないときです 私はガンジス河の ほとりを歩き 時々経典を求めたり ガンジス河にいる 聖人と会いました その中に私のことを 発見して 私について学ぼうと する人がいました

私はとても難しい 条件を作りました 例えば 朝四時に 私に会いにくること 河を渡ることなどです 四時には船がないので 来られないと知ってて でも一人来ました そこでガンジス河の 川岸で 彼に教えました

当時私は 自由が大好きでした マスターになんか なりたくは なかったのです  そんな考えは 毛頭ありませんでした 二回目に 発見されたのは アメリカにいる時です 私はある寺院に 住んでいました いわゆる弟子の所で 当時 私はもう 尼僧でした そこに一年住んでいて 誰にも分かりません

彼らは私が毎日 トイレを掃除し 床を磨き 仏像を拝み朝晩勤行し しっかり食事も作って いるのを見ていました 一年後突然 大勢の人が来ました 彼らは仏陀がここに くるよう教えたと言い 私が仏陀を見つけ 神を見つける秘密の 法門を教えると導いて くれたとのことでした 私は「皆さんが 仏陀を見て仏陀と 繋がっているとしたら ほかに何を 求めるのですか それで十分です 仏陀がここへ来させた のなら仏陀と繋がって いるという意味で 大丈夫」と言いました 彼らは言いました  「いいえ 仏陀を 見るより 更に高い 法門と境界がある」と その人は ある教会の 伝道師でした

彼らは同じ教会に 属していて 彼女は「大修道女」で 一種の「聖職者」でした

彼女は 仏陀も見たと言い 仏陀がここに来させた と言いました とても驚くことでした

仏陀はずっと 人を送り続けました 三回も 四回もです それで後に 彼らに 私が知っている 法門を教えました つまり即刻開悟の 法門です それはその種の修行で 仏陀を見たからと 仏陀になれるものでは ないという意味です そしてその後 二、三十人が 噂を聞いて来ました

私は彼らに言いました 「すでに法門を 伝授したので 帰って修行できます」「私に追随する必要は ない」と言って フォルモサ(台湾)に 行きました そこで私は 小さな寺院に住み 隠遁しました とても小さな寺院で 一番後ろにある 山の裏の 小さな部屋で 誰も分らない所です その部屋は寺院から 離れた所にあり 私は一度も外出せず 一度も寺院に 足を運んでいません しかしある夜 大勢の人が来て また 私を見つけたのです 彼らは言いました 観音菩薩が 仏教で 最も慈悲深い女神が ここに導き何かを 学ぶように教えたと そこで数週間後 私は彼らにも教え それから休みもなく 沈黙に別れを告げ 静かな生活も終り それで忙しい日々に なっています

インド アメリカ フォルモサ(台湾) アルゼンチンへと 大旅行でした

これが本日私が ここに来た理由です 皆に知れ渡った からです

アルゼンチンや ブラジルに在住の人も フォルモサ(台湾)に 戻ってきて 私について学ぼうとし 印心を受けています それで彼らは 私をブラジリアに 招いたわけです

ですから私がここに いる間  神に関する事なら 私の知っている範囲で 奉仕したいと思います ただ皆さんの許可を 得た上でできます お金で人々を買収する ことはできません 神通力で人々を説得 させる事もできません どんなパワーも使わず 論理を使います 義務もありません 仏法はとても自由で 愛に満ちています 神の道も自由な 生き方で自由意志です でないと神は力づくで 家に連れ戻すでしょう 彼は全能で 何でもできますが 神は強要しません

ただ今また 使者を送り 私達に 思い起こしてもらい 「真の家に戻りたい 人を私が連れて帰る 私には方法がある」と その法門は 開悟したマスターが 教えます 神の委託を受けて 伝授するのです でも教師がいないと この法門は 重要でなくなります そこでイエスは 私がこの世にいる限り 私は道であり 光であると言いました これはマスターが 在世の時 道を示せるという意味 在世のマスターが いないと道も無意味で 道も見つかりません ご清聴ありがとう ございました

さっき貴方はイエスと 仏陀に言及したとき 一人は神の王国を 見つけ一人は見つけて いないと言いました そうは言っていません 二人とも同じです 二人とも神の王国を 見つけています 一人はそれを神といい 一人は涅槃と言います これと同じで 英語ではローズといい 中国語でメイクイフア と言います

聖霊について 話しましたが 聖霊とは 神の形態ですか イエスが言った 三位一体のことですか はい そうです  聖霊とは神のパワーを 意味します 神と子と 聖霊とですね 神は全能で 想像できない 計りがたいもので 神から神の子が 生まれます 神の子は神の パワーを持っています 神のパワーが 即ち聖霊です 私達にも聖霊が あります だから聖書では こう言うのです 「汝が神の神殿であり 聖霊は汝の中に宿る」 イエスは自身の中の 神のパワーである 聖霊を見つけた人で それで その神の パワーを通して 神と繋がれます またこの聖霊つまり 神のパワーを使って 人々を救い 彼らを助けて 内面の神の力を 見つけられるのです

ありがとうございます 凡夫はどうやって 悟りを開くのですか 彼らは生計のために 仕事をしなければ なりません

これはとても いい質問です 皆が仕事をします イエスを含めてです 開悟した後でも 働かないといけません 私達は 仕事を通しても 開悟できます 一旦神と繋がると どんな仕事でも神の ためである事が分かり 人類に奉仕することは 神に奉仕することで 家族に奉仕することは 神の子に奉仕する事で 神の子を通して 神に奉仕することです しかし開悟しないと このように考える ことは難しいです そう考えたくても できません 殆どの家庭は不和です 彼らは皆が神であると 知らないからです

また皆が 神の子であることを 知らないからです 髪の毛一本抜けても 神の意思であることを 知らないからです 聖書には全ての人が 神の子だとあります しかし人は毎日 これを読みながら 意味を知らないのです これは悟りが開いて いないということです 本当の意味が分かって いないということです ですから 開悟が必要なのです  生活様式を変えるのではありません

私はいつも忙しく 様々な宗教の本を 研究せねばなりません それで異なる信仰を 持つ人々を理解し 対話できるのです 私は働いて 稼がねばなりません ですから旅をし 人々を助け 貧しい人を助け 人々に私の知識を 提供できるのです 出家者達を 教えねばなりません 在家の弟子達を 教えなければならず 霊性上の問題や 要求に 応えなければならず 手紙による質問に 返事せねばなりません また色々な国へ行って 経の講義もします ですから私は皆さんと 同様に忙しいのです

誰でも仕事を しなければなりません  この世界に対し 責任があるからです 両親や 国や 兄弟姉妹 友人 先生などの 恩に対し 報いるべきです 従ってこの世界で 働き続けるべきです でも十分の一の時間を 神と自分のために 残すことです この世界のためだけに この世界のためだけに 働くと 何も 得られないばかりか 疲れ果てます でも神のために 一、二、三時間働くと それこそ私達が家に 帰れるすべてです 問題は 私達は自分を 愛すべきです 例えば お腹が空いたら時間を 見つけて食べる事です

場所と時間を構わず 食べることです 病気になったら 薬をもらって 飲むことです 神を渇望し 本当に魂が 解脱を望むなら 時間を割いて満足 させねばなりません 瞑想とは神の教えを 聞くことであって 神秘的ではありません 神は人間の言葉で 教えるのでは ありません  神の言語 言葉 神の振動力で教えます それと光です それで一日のうち 必ず時間を作って 神と繋がり 天国の王国の秘密を 学ぶのに回すべきです そして毎日毎日 学ぶことによって 賢明になり 何でも 知るようになります 時間がないとは 言えません 誰でも時間があります それを願うのであれば 時間はあるのです

テレビを見て 新聞を読み 雑談し 電話する時間を削ると 実は沢山の時間が あるのです そうでないと あなたはテレビを見ず 劇場にも行かず コーヒーショップにも 行かないでしょう 大半の人はこうします 退屈だからです 時間があり過ぎて 暇つぶしするのです だから趣味を「時間を 潰す」というのです 最もよい時間潰しの 方法は神の存在の中で 最高の知識を 獲得し永遠の幸せを 得ることです いったん幸せになり 開悟すると全世界の 利益にもなります 以前この世界は今ほど 文明化していません モーセとイエスの時代 彼らは洞窟で 暮らしていました

しかし今は 私達にはテレビや ラジオなどあらゆる ものがあります この世界は大変 文明化されています これは皆多くの 修行者のお陰であり 世々代々において 高い意識レベルの魂の 加護による賜物です 彼らの慈悲と智慧と 光が世界を高揚させて 現在のような 世界に導いたのです 私達の加護も加わると もっと多くの人になり 多くの加護になり もっとよくなります 私達は感謝することを 忘れています そうです 最もよい感謝の方法は それら先人の後に 従うことです イエスや仏陀に追随し 神の王国を得る 修行をしてこの世界を もっと加護するのです

すると将来私達の 子孫はよりよい世界で 生活する事になります これは私達の責務です 同時に神やイエス 仏陀のような偉大な 魂に感謝する方式です なぜ貴方はこの法門を 学ぶためには菜食を しなければならないと 決めているのですか 誰がなぜ貴方を送って 教えさせたのですか

菜食は決める 問題ではありません 動物を殺して食べる ことは好きでないです 人が鶏や魚や 豚を殺すのを見て 心が痛みます 動物達の苦痛を見ると 心が痛むのです 肉を切り落とされる 苦痛を 知っているからです 私が決めるまでもなく 明白なことです 幼い頃から私はどんな 殺生も耐え難いのです 私は調和で愛に満ちた 生き方を好んでいます 牛が殺される時 もがき 鳴き叫び 涙を溢すのを見ると 彼らの身になって 思うだけで 耐えられません

菜食は実際 すべての衆生 すべての神の創造物に 対する愛の表れです

聖書で神は言いました 私達は 動物達の世話をし 管理すべきと  神は私達を信頼します

また神は動物は私達の 友達で私達を助けると 本当です 彼らは私達の友人です ええ馬は私達を 乗せて運んでくれるし ある馬と犬は 大変人懐こく 忠誠心があります 馬に関する物語も 沢山あります 彼らは飼い主のお墓に 行って何も食べずに 飼い主と一緒に 死ぬのです 犬もそうです 猫も同じです ドイツのある猫は 愛する飼い主が 家にいないと 何も食べません 飼い主を思うあまり 食べられないのです それにご存知のように 犬は私達を助けて 孤独をしのぎます ある人は 人生に愛が欠けて 誰も愛してくれない時 犬が彼らを愛します 鶏や どんな動物でさえ 飼い主を覚えています 飼い主を知っていて 飼い主になつきます ヨーロッパにいた時 イタリアとドイツにいた時 田舎に住んでいました 野生動物が やってくると私は 彼らに餌を与えました 彼らは毎日 正確に同じ時間に来て 餌を食べました

始めは用心しまたが 後にそんな様子もなく 私の手の平の餌を 食べるのでした 鳥や獣 色んな動物 猫もいました

ハリネズミもいます

私が時間通り来ないと 彼らは私のドアを コンコンと叩きます ドアをノックしました
彼女は聖書には 動物が解体され 祭壇に供養される 記述があると言います 聖書では 牛と羊が神のために 屠畜されたとあると 言っています

彼女は 特定の動物と 供物との関係に ついて話しています 分かりました 聖書の全部の内容が 神の言葉とは 限らないことを知るべきです それは色んな国 異なる時代の 歴史の記録なのです 戦争に関する 記録もあります

戦争は決して神の 言葉ではありません

ですから 多くの時代において 人々は動物を殺して 神を崇拝してきました どんな国にもあります インドでさえ 釈迦が存命の時 ある国王は五百頭の 子羊を殺して生け贄に しようとしました 国王は釈迦に これでいいかどうかと 訊ねました 釈迦は言いました 何の利益があるのか 衆生に利益を もたらすどころか 彼らを殺して しまうのである 陛下が国を 太平の世にし  祝福を願うのであれば 命を救うべきで 殺してはいけないと 釈迦は言いました 陛下が崇拝する神が 動物の生け贄を必要と するとしたら それは神ではないと 神はこれを必要とせず 単なる人々の曲解で 習慣に過ぎません 聖書の記録の時代でも 同じように 多くの国では動物を 生け贄にしました

ですから聖書で 神はこう言っています

主は言われた 誰が汝らに 雄牛とヤギを殺して 生贄にしろと求めたか 主は言われた ただちにやめなさい 罪のない衆生の 血を洗い流しなさい 汝の手は無辜の衆生の 血で染まっている 罪を懺悔しなさい 二度としないことだ でないと 私は汝の祈りを 決して聞かない

目をそむけるだろう  汝の手は罪のない血で 染まったからだと 神は人々の間違った 概念と態度を正した ですからそれらは 神の意思ではないです 例えばモーセが 存命の時 彼は人々に神を崇拝 するよう教えました 彼がシナイ山で 四十日間 隠遁している間 別の人が現れて 誤った状態に導き 人々に宝石や 金を集めて 金の子牛を作って それを崇拝するよう 教えたのです 覚えていますか それは神ではなくモーセの教えでも ありません 人々はいつも 聖人の意思を曲解して 神聖な教義を めちゃくちゃにします 従って聖書には多くを 記録しているのです よい事も悪い事も よい事を選び悪い事は 拒絶すべきです 両方から学びますが 神の方を選ぶことです

神からのものを選び 人間によるものは拒絶 すべきです人間からの 物は間違いだらけです 神は間違いません 聖書の中の 神の言葉とそうでない ものを人はどう 識別しますか 戒律に 一致していること つまり十戒であれば 神です 十戒に反していれば 人間の言葉です 例えば 「汝殺すなかれ」 殺生の意味は人間と 動物を含めてです さもないと 神は「殺人をするな」 というでしょう

「殺生するな」という 意味は 命あるものはすべて 殺すなということです

頭上の光とは 何ですか 内面の衆生は何ですか 内面の衆生ですか 内面の衆生は 聖霊であり 真我です

真我を見て 真我と通じた時 光を見ます その聖霊は 光に満ち 聖霊は 神から来ています 神を知り 神が心にあって 光栄な感じを発する としたらこれを瞑想の 中でどう具現しますか

具現するまでもなく 内面の眼ではっきり 神の光を 見ることができます 肉眼で 光を見るのと同じです 私があなたを見るのと 同じように神を見ます 想像する必要もなく お金がなければ 想像しても 何の役にも立ちません

神聖な音 高揚する音流と どう繋がれますか

印心を受けると すぐ見えます 私に開ける方法が あります 毎日見て 聴くことができます あなたは毎日神の中で 喜びを感じ  軽く 幸せになります ある人が 内面で安らぎを 感じ始めるというのは 開悟し始めた 兆候ですか はい そうです

肉体的な技法で 光と音流を 体験できますか いいえ できません 肉体の技法ではなく 神の恩寵を賜り 自由の門を開いて 私達に無形の真我を 知らせるのです 肉体の技法を使って 非物質界と霊性に 至ることはできません

あなたはアメリカ インディアンの大地 崇拝をどう考えますか アメリカとは北米の インディアンですか 分かりました 彼らが母なる大地を 崇拝するとしたら 天の母も 崇拝すべきです こうすると 完全な崇拝です もっと完全な崇拝です

悪魔は存在しますか 彼の仕事は何ですか 輪廻は存在しますか

輪廻も悪魔も存在し 彼の仕事は私達を ここに留めることです 仏教とヒンズー教は どう違いますか 大した違いはないです 輪廻は存在しますか 存在します これを理解するのは 難しくありません 地面に リンゴの種を植えると 再びリンゴの木に変り リンゴが実ります リンゴが地面に落ちて 種がまたリンゴの 木に変ります

これを輪廻と言います

幻想の世界の すべてのものは いずれも 輪廻の過程を経ます 天国にだけ 輪廻はありません

神の王国 涅槃にだけ 輪廻はありません ある人が無力で 泊まる所も 食べ物も 仕事もない場合 まず彼が必要なものを 与えることが 神を信じて 自身の問題を解決し 自分と人のために がんばる意欲を起こす 方法ではありませんか そうです その通りです 空腹だと神を愛する ことでできません 今多くのマスターが いますが 誰が神の化身で 聖霊の再来であるか 知りたいです

マスターが物質世界に いるとしたら 渇望する必要もなく 行って会うことです 教えてもらうことです 自分で見つけて下さい 私は どんな人に対しても 何とも言いません 先生と呼ばれる人は 真理の一部分を教え 真理のごく一部分です 中にはもっと多く 教える人もいます どんなマスターに 会うかはあなたの 修行背景によります 私は皆さんの 霊性の成長と選択を 損ないたくありません どのマスターがいいか 確定できなければ 神に真摯に 祈ってください すると内面から答えを 得る事ができます

一日、二日で 答えがなかったら 三日間祈り 一週間 二週間 三ヶ月 祈ってください いいですね 自由に選択した方が いいです 外観でいくつか真の マスターを識別する 方法があります 教えが十戒と 一致していて 人々に菜食するよう教えて 即座に 光と音流を 与えることができれば 少なくともその師の 教えは正しいのです 完璧なマスターもいて 完璧なマスターもいて そんなに完璧でない マスターもいます これらを保証できれば その人に習っても いいと思います 神に追随するのであり マスターではないです どんなマスターでも 神の道具であることを 知るべきです

私達は肉を食べるから 輪廻するのですか はい そうです だから沢山の宗教が あるにも関わらず 世界の人口はずっと 増え続けています 人口はますます 増えています 従って輪廻は真実で きっとあります ほとんどの人が肉食し 菜食者は ごく少数です 皆も見て分ります 肉を食べても 解脱できるとしたら なぜ世界の人口は 溢れるほどでしょうか 毎日ますます 多くなります 皆さんも見たでしょう

なぜ多くの子供が 生まれつき病気ですか それは 前世で 暴力的だったからです それらが人々を 病気にならしめました肉食したのも 原因の一つです 言っておきますが 信じるかどうかに 関係なく 私は真理を話します 肉を食べると今生でも 病気になります 多くの人がガンで 病院に行くのも 肉を食べたからです ある人は 肉体は死んでも 細胞情報は死んでない ために再び戻ってきて 子供でも病気をします そこで天才達は 例えばモーツァルトは 四歳の時に 音楽を知っています それは彼の 前世の情報が 細胞に記録された からです

従ってよくない情報 例えば 病気や暴力や憎しみも 私達が生れるときに 依然記録されたまま 持って生れます 良い情報だけを残して 良くない情報をなくす ことは不可能です そこで人生で 良い体験も 良くない体験も 同時に持つのです 両方ともあります 両方の情報があります

集中するいい方法は 何ですか 沢山の方法があります 常に神を思うことです どんな法門を習おうと 常に神に近づこうと するのが一番良いです すべての人類が 神の意思に従うなら 自由意志は 何の意味がありますか 神の意思もあり 自由意志もあります 神が一つ決めると 私達は別のことを 決めるから 過ちを犯すのです あなたと 仏陀と神の差異は 何ですか 差異があるとしたら どこが違いますか

私は神であり 私は仏陀です 神は私の内面に仏陀は 私の中にあります 仏陀が私の内面にあり 神が内面にある場合 神と仏陀以外の 何者でもありません 何の違いもありません あなたも 神であり仏陀です 私とあなたの違いは 私は自分が仏陀である ことを知っていますが あなたは知りません 私とあなたの違いは 私は自分が神である ことを知っていますが あなたはまだ知らない 私と仏陀と神の 違いではありません 何も違わないのです 「汝は神の神殿であり 聖霊が汝の中に宿る ことを知るべきだ」 ということです 貴方は開悟を教えます 開悟とは何ですか 人は良くない世界に 生きていて悪い事を どう避けますか 戒律を守り 印心を受けると 毎日神と繋がります 神があなたを守ります

自己防衛のために 暴力を使い 人を殺す ことについて または 戦争で自己防衛のため 人を殺すことについて どう考えますか 私はこれを信じません イエスは言いました 「汝の敵を愛せよ」 「右の頬を 打たれたら 左の頬を出しなさい」 仏陀も愛で憎しみに 報いなさいと言います 私はこの二人の マスター イエスと 仏陀の言葉だけを 信じます

二人の間で必ず誰かが 譲らねばならないと なったら一人が譲り 降参すべきです

例えばある女性が 私にかかってきた場合 私が立ち向かうと 彼女はもっと怒って もっと激しくなり その結果 私ももっと怒って 更に喧嘩になります これでどうなりますか 両方とも死んで倒れ 私なら逃げます (私もです) または許しを請います そして彼女が 欲しいものを与えると 二人は平和になります 他は役に立ちません 私達が原子爆弾を 持っていて相手も 持っているとします 両方が同時に 相手に投下したら 世界はおしまいです 誰も譲らないと 大変危険です

あなたは人に 印心を与えていますが 以下のことについて 知りたいです 一つは印心によって 何が分り あなたは どのようにやりますか

あなたが印心に来れば 自ずと分かります

私はただあなたを助け 内面の智慧を開き あなたの内面の 聖霊を自由にします するとあなたは 自分を知り 神を知り 神と対面でき 光と神の音を聞きます 神の象徴です

印心によってあなたに 縛られるとしたら 霊的にあなたから独立 して生きられますか まあ違います 私には縛られません 前に言ったように マスターに追随せず 神こそがマスターです 霊性の面で 私に縛られません 何のためですか あなたの霊性は 神に縛られます 印心後あなたは 自由になります 貴方は初めから自由で 真我は自由です 何一つ私のために する必要はないです 私もあなたに 何もしません ただ私にはあなたを 助ける義務があります

あなたが必要であれば 随時待機しています 必要としなければ 邪魔しません 何の条件もありません お金も要りません 帰依も崇拝も 何も必要ありません ただ友達のように あなたを助けます なぜならあなたより 長く修行し今のところ あなたより知ってます あなたが最高の境地に 達して 一人で 歩けるようになるまで 助けてから離れます

印心は過去の事を 消してくれますか それから瞑想の時 神とよりよく繋がる ようしてくれますか その通りです 印心の時神のパワーは 過去のすべての罪を 消してくれます あなたは自由になり 神を見ます 今皆はプレッシャーに 圧迫され 神を見ることができず 光も感じられません

罪がなくなると 自由になり 毎日 神を見ることができ 神を聞き 少なくとも 神を聞けます 少なくとも 神の声を聞き 神からの指導を 受けます 私は印心を 受けるために あなたが前提条件と している戒律を 守れるとは 思えません 私は一生 その戒律を守れるとは 思えません どれですか 五つの戒律 五つの必要条件です 印心申込書に書かれた 五つの戒律です

最も重要なのは 殺生しないで 菜食し 毎日瞑想することです 他はできるだけ することです 私はあなたが一夜で 仏陀になることは 期待していません

死んでからこの世界に 戻ってこない方法は ありませんか 印心を受けることです 二度と戻ってこない ことを私が約束します 神とあらゆる仏陀の 名のもとに約束します 現在のこの世界は 私達のための 神の計画の一部分 なのですか この世界は 神の計画なのですか これが元々の 神の計画ですか いいえ 一部の 堕天使の反逆で 神の世界を 掻き乱しのです それが悪魔です このような世界を創る 意味は何ですか

意味ですか 何の意味もないです ですからこの世界を 再びエデン園 天国に 変えねばなりません 野菜にも命がある のではありませんか 九割は水分です 感覚はとても少なく 意識が低く まだ目覚めていません 知っての通り バラを切り取っても バラの木全体が 死ぬ訳ではありません もっと枝が生え 花がもっと咲きます 豚の頭を切り取ると 頭が二つ生えるとか 二匹の豚になる わけではありません 私達は何かを 食べねばなりません というのは神の神殿 である体の面倒を 見なければなりません 私達は苦しみの 最も少ない 慈悲の方法を選択します

異星人と 内面の境界について どう思いますか これについて 少し話して頂けますか 異星人は 私達の活動を 観察に来る人達です 例えばUFOのように なぜなら今の私達は 宇宙にとって 危険な存在だからです 私達には あらゆる爆弾と殺し屋 人工衛星があります 私達は宇宙全体を 脅かしています 私達は阿修羅の衆生を 脅かしているので 彼らはやって来ては 監視し続けます

普通彼らは 目に見えない形ですか しかし 私達は全宇宙を 破壊する寸前の 状態にいるため 彼らは姿を見せて 私達によく考えさせ 私達が宇宙の唯一の 存在でないことを 親切に警告し 私達に速度を緩め 自分の行動を見直す よう警告しています 次は内面の 境界についてです

皆さんが瞑想するとき 違った意識次元に 引き上げられます 意識レベルによって 異なるものを見ます 以前見たことのない 無形のものです さっき子供のことに 言及しましたが 子供は成長してから 女の子を見るように なります 以前はこのことを 知りませんでした 女の子がいてもです 時々深く集中すると 認識のレベルと智慧が 引き上げられます すると宇宙を 違った方法と 新しい見方で見ます

私達は現在大虐殺の 中で生きていますか そうです 毎日です 私達が住んでいる 世界は大変危険です いつそれが発生するか 分かりません

神に避難することです 印心に来てください 神が加護します

すべての男性と女性は 神からきたのですか 悪魔から 生まれ変わった 男性や 女性はいますか います どう彼らを 識別しますか ある人が 人を傷つけ 暴力的で邪悪な事を するのを見たら それは悪魔です ある人がよい事をし 人々に神を思い出す ことを教え神と繋いで くれるとしたらそれは 神から来た人です

人と神を繋いで くれるとしたら 神から来た人です いいですか 神の祝福を祈ります

狂犬病 炭疽病 睡眠病 肉に含まれる ホルモンによって 増加する小児ガンと 成人の生殖系ガン うつ病

やめたい人への援助は こちらを参照下さい

 
全ての番組を検索
 
 
一番人気
 道士 柴 鄭 珍の物語 2/2 二〇〇八年九月九日
 指導者の本拠のための吉祥地、世界平和への恩恵 1/2 二〇一一年八月二四日
 私達の未来を守る指導者たち:気候変動の速度と優先事項1/7 英国 二〇一〇年十一月三日
 黄金時代への人類の跳躍 -ワシントンDC気候変動会議 第一部/10  二〇〇九年十一月八日米国
 「子供達の健康と持続可能な地球」済州島国際会議 第一部/8 二〇〇九年九月二一日 韓国 済州島(英語)
 在世の生けるメシア 1/4 米 、ハワイ 一九九四年九月三日
 美しい星への解決法 1/9 二〇〇九年八月十五日 タイ ノンタブリー
 地球の結束:共に生命を救う 第一部/8 二〇〇九年十月三日 香港
 魂の再会 1/3 二〇〇〇年四月二七日 ニュージーランド 、オークランド
 国際人権会議 1/5 一九九四年五月二五日フォルモサ(台湾)台北(中国語)