実はマスター 明日 あなたに会うために 彼を招いたのです 彼のマスターは オゥラック人です あなたのマスターは誰彼が先生ですか
ハプキドー? 観音法門と 相容れないかも しれないと心配でした ハプキドー? いえいえ 違います 私には沢山の・・・ ええ 時間があるなら ビデオなどで 私達のところに時々 集まる世界的な 武術の達人の強さを あなたに お見せできます
ある人は小さな石を このように取って
僧侶の一人です
彼は本当にすごいです
普通 レンガ割りなら わりに容易ですが これは一個の 堅い石です 小さくて丸いのです
どこにも角のような ところなど ありません このように平らに置き たたき割りました 私にそんな手があれば 野菜や果物用の ナイフは不要です
あんなにできますか できませんか もっとすごいかしら もう一人いますよ 中国人です
彼は違うやり方です 何もしませんが 彼に触れると あなたは倒れます
彼はテコンドーです ご希望なら 気功の師範がいますよ 様々な武術 柔道など なんでもあります 私の僧侶の多くは 現在 テコンドー 柔道や気功まで 習得しています
ですので それは 心配しないで下さい ええ あなたが 武術に興味があるなら あなたの心身に とても良いでしょう ほとんどの 武術の指導者が 見出した心の平静の ようですね(はい) 彼らが高い境地に 達する前です ええ その前です そして 私達の 修行仲間の一人は 気功および テコンドーの 達人でした
以前彼は武術の探究に 苦心しました 無我の境地 行わずして行うことが 結局 見つからず けれども 印心後 けれども 印心後 彼は思いました
「ああ これだこれだ」 それこそが 彼の達したかった 武術の境地でした 分かりますか
そして 印心の おかげで 早く達成しました 長い間 訓練する代わりに 非常に早く習得したと 彼も分かっています 時間があれば皆さんも 知り合いになれますよ 彼は武術の師範に 教えています 分かりますか 彼は普通の師範では ありません 彼は警官など 軍隊の人々を 指導しているのです 師範に教えています 彼は先生の 先生なのです フォルモサ(台湾)での 武術の最高の達人の 一人です 中国に於いてもです 昨今では 彼のような 人は多くありません ええ なぜなら 彼が何もしなくても 人々は倒れるのです あなたは彼を絶対に 押し動かせません 何人でかかっても 動きません 彼はそのままで 恐らく 十人は そこまで転がり みな飛ばされます 分かりますか 人々がやって来て 攻撃しても 彼は何もしません 彼はただ肩を すくめるだけです
このように それで皆 その隅まで飛びます ええ 本当に飛びます 多くの人は武術を 習得しているためです
でもある人は 武術の先生です
ですから自分の能力を 知っています 武術について 知っている人が 彼の強さを 認めるのです
彼がどれ程優れてるか と聞かれたなら 私は答えられませんが 他の武術の達人たちは 彼を心から 崇拝していると 言えるだけです ええそして彼は 私達の弟子の一人です 彼はかつて 私の護衛でした
実は彼には仕事があり 逆症療法の 専門医でもあり 家族がいて 彼の奥さんも 武術の師範です
フォルモサ(台湾)に 行ったら気をつけて センターに行って どうなるかご覧なさい しかし 彼らは 非常に穏やかです 彼らは ただ心身の鍛錬を しているのです
また ある否定的な エネルギーを表すのに 誰かを殴りたいと 感じた時は ただ木材を殴るのです このように ええ するろ自分以外は 誰も傷付きません 私達も武術が好きです 心配しないで下さい 私達は宗教や 武術を含む どんな芸術にも 拒否反感を示しません
神が含まれているので 私達は拒否しません 何に対しても 好き嫌いは 言えません ただ個々の選択に 任せるだけです しかし選択によっては やや高潔さが少なく 私達はこのような 選択を最小限に しようとします 例えばの話です だから血のない 夕食を選びますね つまり その場合 他の生き物の命を 犠牲にすることで 自分が楽しむ選択を 最小限に止めるからで それは そういった ことの一種ですが そうでなければ極端な ことはありません 分かりますか
先ほど話した 武術の達人に ついてですが
初めて彼に会うと カンフーの達人ですね にこりともせず 決して冗談も言わず 毎日十三時間 武道を修行しています 立ってても食べてても 座ってても 寝てても 友人と話してても 武道を修行しています それで極めたのです 彼は三十年 そうしていました 分かりますか しかし 私に会った後 私は彼を負かしました 分かりますか 彼は降参して 泣いたのです 私は何もしてません
彼はいまだに いつも泣きます 私を見るたび 彼は泣きますが なぜだか分かりません 私は彼に何もしないし 絶対叩いたりしません
そうして私は彼を 打ちのめしたのです もう一人私の僧侶に ついて話しましょう
その達人もやっつけて どうしたか分りますか 達人を死ぬほど 大笑いさせたのです 私達のセンターに その武道家が 初めて訪れた時 そうです 全ての 僧のレベルを試して みたがったのです 何人かは 何らかの武術の 経験者だったからです 一人一人にやらせて 彼らの技量を試し 既にあるものから 最初に何を削って 何を加えるか 見たかったのです それで 一人に やらせてみました
彼らの言う 「フラミンゴ拳」「狐拳」「虎拳」などを 見せびらかしました
そう 全種類をです
僧侶の一人は以前 フラミンゴ拳を 学んでいたのです
それで その達人は 彼がどれだけ沢山 知っているか 実演 するよう言ったのです そして彼は たった一度だけ 達人を倒したのです 分かりますか 達人は 死ぬほど大笑いして 床を転げまわりました 達人を床に 打ちのめしたのです
ですから私は彼に 泣いて降参させ 私の僧は彼を死ぬほど 笑わせたのです つまり二人で負かして そう 暴力は不要です 私達は彼を死ぬほど 泣かせ笑わせたのです
彼のマスターは 観音法門と 別の瞑想修行の 間に起こる 衝突に関する疑問を 持ったのでは と私は考えます 例えば 私は録音テープの中で 修行をゴチャ混ぜに しないよう あなたが 言ったのを聞きました おそらく その意味を具体的に ご説明頂けるかと 瞑想修行をする時 何かあるとすれば 呼吸制御に関してです それだけです それ以外は そんなにありません そして例えば 多くの種類の 瞑想がありますね それで瞑想と呼ばれる ものが幾つかあります 人々は何でも 瞑想と呼ぶので 私達は混乱するのです でも本当は 違った形式です 読経修行のたぐいです
「読経修行」と 呼ぶものです
彼らは何かを唱えます 人々はそれも 瞑想と呼ぶのです それで混乱します 人々は言います 呼吸に注意するように 息を吸い息を吐く それも瞑想と呼びます またある人達は 言います いつも丹田に 注意を払えと 腹部のここです それも 瞑想と呼びます 良いでしょう それも結構です でも私達は瞑想という 言葉を乱用し過ぎて 人々を混乱させてます そうでなければ 私は誰でもかれでも 何かしら瞑想している と言うでしょう
TVのインタビューで 今朝 言いました 「ええ 皆さんは 常に瞑想しています ある人々はお金に ある人々は 女性に瞑想し ある人々は薬物が 足りない時 それに 瞑想するのです」と ええ それが 彼らの瞑想です 何かにとても 莫大な度合いの 注意を払っている時 それは瞑想なのです 分かりますか 意味が分かりますか はい ですから言うのです 私の教えの 一点に 集中して下さい そうすれば 最高の結果を得ます 私の教えと同時に お金に瞑想したり 同時に読経に 瞑想すれば もちろんバラバラです とても論理的ですね
私は皆さんのために なる事を言うだけです
何をしたいにせよ この点にだけ 全注意を払って下さい 良いですね 瞑想しても 車を修理しても タクシーを運転しても あなたが運転に 注意しなければ トラブルに遭います ごく単純なことです
私が話すこと全てが 師としての義務で 良い忠告なのです 知ってることは何でも 話す必要があります でももちろん皆さんが 選び取るのです
皆さんには行動や 瞑想修行を 成就させることへの 責任があります 私は皆さんに 良い助言をする 責任があるのです
私が話すことは皆 この物質主義の 全ての罠から 脱出しようとする 修行者としての 老成し集約された 本質であり また 支配する力である 頭脳を超えた所へ 引き上げることで 機械である肉体や コンピューターである 頭脳よりも 偉大な何かが在ると 気がつくのです 分りますか それだけ これら全ては 一種の暗号であって 霊性の高速道路で あなたが速く 進むためのもので 命令するようなことは 何もありません 自分でしないのなら 私は何か言ったり 叱ったりしません 電話で それをしては ダメ とは言いません それに あなたを調査しません 全てあなたの選択です 自由の道は 責任の道でもあります 自己責任です 私は何も押し付けたり しません ただ示すだけです これが良い道だと 言うだけです それに従えば 確実に 報われるでしょう しなくても構いません 半分とか四分の三を 得るでしょう 意味が分かりますか
あなたは子供の頃から 菜食を していたのですか あるいは 多少大きく なってからですか
私は遅く始めました あなたほど幸運では なかったのです あなたはたった九歳で すでにこの道に いるのですから
つまり子供の頃から 修行しないといけない わけではありません いつ始めるべきという 決まりはありません でも早い方が もちろん良いです あなたは幸運です そうです あなたは 早い時期から 両親に加護され 正しい道に 導かれたのですから 私にはなかったですよ 自分のやり方で戦う ばかりで その後に 両親を導きました 間違った道です わかりますね
皆さん何でもご存じで ただあまりにも 怠けてて 考えられず 自分や己の偉大さを 否定しているだけです そういうことをします 例えば 今日の午後 この人に彼は聖人だと 納得させるために 四苦八苦します 今まで彼はずっと 信じていません 彼は聖人に免状が 必要だと考えています
でも聖人には そんなものありません
はい 彼の考える聖人とは 聖人の学校へ行き 人に見せるために 単位か何かを取り こう言うことです 「ほら 取ったぞ わたしは聖人だ」 公認されることですね しかし残念ながら そのようなものはなく エゴにも良くないです だれもが 神に尋ね続けます 彼にあなたは聖人だと 言っても信じません
ですから私は 彼に備わる聖人の 素晴らしい品性を ある程度は 伝えようとしています 彼が完璧な聖人だとは 言いません それは彼にとって 荷が重すぎます すぐ死んでしまいます けれど聖人の品性は あるのです ですから あれも これも出来たのです
なぜなら 私は彼に 上出来な商売人だと 言うからです 教養があり 金持ちで 美しい妻がいて 可愛らしい娘がいて 家もあるのですから この物質界のあらゆる 物を持っていますが 求めているのは神です それなら この人は 聖人に違いないですね
彼にあなたは聖人です と伝えるのは困難です
皆さんに あなたは 仏陀で私と同様で それ以上かそれ以下か 多少の誤差はあるがと 言うのも困難です 皆さんは 完全な聖人の地位に 到達したくないのです 何かの理由があります たぶん 人間としての感覚から 離れたくないのかも しれません もしかしたら まだ自分の偉大さに 気づいていないのかも たぶん まだ自分の 聖人としての品性を 認識する機会に 恵まれていないだけ かもしれません 智慧もそうで だから
自分はこのようだと 認識しないのでしょう
生まれつき聖人な 人はいません
この魔の世界に 幻想の世界に 生まれて来る時 私達は人としての あらゆる通過点を 通らねばなりません 例えば 再び 無知にならねばならず こういったすべての 幻想の欲望や 満たされぬ願望を 持つことの失望など 様々な出来事を通して 苦しまねばなりません ある日飽き飽きして こう言う その日まで 続くのです 「分った もういい あるものはある ないものはない」 その時こそ 完璧な解脱に 到達した時です 自分自身を 解放するのです 自分自身を 縛り付けることで 生じる問題 自分への偏見など あらゆるものからです 実際あなたが 何者かと辿って行けば そこに あなたはいません ところでクレイグ博士 とは誰ですか 生まれる前 彼は誰でしたか
例えば彼が生まれる前 誰もクレイグ博士が 何者かを知りません では彼は生まれ クレイグ家に 生まれてきたとします すると皆が 生まれに応じて彼を クレイグと呼びます クレイグの名で成長し 大学を卒業します そして個人として さらに色々と 身に着けていきます 自分はこのように 法律の単位を持つ 人物だと認識します 本に書いてあることを 沢山知っていて 本から学び これから学び あれからも 仕事からも学んだ それら全ての知識を クレイグと呼ぶのです 実際に 知識があなたなら あなたは単なる 知識のはずです あなたは実在せず 何も勉強しなければ あなたは決して 存在しません 話し方を学ばず 食べ方を学ばず 洋服の着方を学ばず 大学で勉強しなければ あなたは一体 何だというのでしょう つまりほとんどの人が 自分が持つ知識により 自分を認識するのです
それで私達はそれが 自分だと考えるのです ですから 私達は 例えば クレイグ氏 クレイグ夫人のように 違う個人です それぞれ学んだことは 違うからです 人生経験も違います 集めた本も違います 学んだ本も違います それは 学んだことで 判断基準も違ったと いうことです 彼は彼の判断をします
皆それぞれなのです でないと 別々でいる ことはないはずです 私達は知識の家です 体がなければ 私達は一緒です 体を認識したとたん あちこちから来る 更なる知識を 認識することになり 隣の人と自分との 違いを知り 自己認識をするのです それが 分別の始まりです 私たちが無明の罠に はまるのはこの時です
元の起源を忘れます そうですね 学べば学ぶほど 知識から 遠ざかるのです それで私はこの人に あなたは問題がなく 大丈夫だと納得させる ことに苦労するのです 自分では大丈夫だと 思っていないからです 大丈夫です 私から見たら 何の問題もないのです わかりますか 聖人として相応しく 利己的でもありません 人の為に何かしようと しているからです
それでも彼は マスターになるには 聖人として働くには まだ何かせねばと思い 私には彼の頭の中の 幻想がどんなものか 分かりません 彼は聖人として よく仕事をしています 例えばマスターになる ために弘法をする 必要はありません 今日 今しているのが マスターの仕事です 気づいていないのです
問題は私たちが 本性を知らないことに あるのです 間違った自己認識をし 間違った自己認識をし 間違って考えるのです 自分について 聖人のあり方について 聖人としての体験 聖人としての持ち物 などについてです 商売とは違います いつも神に頼んで ばかりではいけません 「体験を下さい 光を下さい 今すぐ音を下さい 天に上げて下さい」と やめなさい たとえ自分になくても 他の人に譲りなさい
いつも神に何かをして もらおうとしないこと テーブルを 回さなければとか 神のために何かを しなければならないと
つまり私たちの問題は 気付かず知らぬ内に 神を傷つけてる事です
私達は考えます 「よしこれは全部した 私はこれだけ欲しい 神は知らないから 与えてくれないのだ 神はこれもくれない 霊修行の満足感も 貰っていないぞ」と ええ まるで神を 呪っているようです 私達は神に怒ってます まるで神は聾唖者で 愚かで人の望みを 知らないかのように そうでしょう 実際 私達の過ちです あなたの過ちです 神への信心が 十分ではないのです どれほど自慢するかは 重要ではありません 行き着くところは その部分なのです
私は全て犠牲にします それはただ 一人の犠牲で 千人 数百万人を 幸せにでき 非常に有利な商売だと 私は考えるからです 商売人として 何をすべきか 分かっているはずです
仏陀に何を求めますか あなたはどんな仏陀を 望みますか 良い仏陀を望みます そうです だから私は 皆と座らねばならず 一緒に笑って 一緒に泣き それで 一緒に楽しみます 今朝 誰かに 聞かれました 私は薬を飲みました 少し具合が 悪かったからです 病気ですかと彼は聞き ちょうど 彼の見方なのでしょう 「あなたが仏陀なら 病気をしない はずですね」 私は言いました ええ 皆が病気なので 私も具合が悪いのです 何でも共有します ラグナビーチの 人々のようです
彼らの家は火事で 燃え落ちました 私の家ではないけど 私は寄付をします
彼らの家が燃えたのは 私の家が燃えたのと 同じだからです
例えば 私が彼らだとしたら 開悟もしてなく あの家に住んでいて 自分の家が燃えたら 本当に動揺していて 不幸なことでしょう 私自身を彼らの状況に 置換えてみます 意味が分かりますか
だから 何かをして ただ彼らを慰めます 彼らの苦しみは 私の苦しみだからです そういう方法で 私達は一緒にいて 結合しているのです 口にするだけでなく何とか表現すべきです 隣人を愛してる とか 私とあなたは一つだと こう言うのではなく その後彼らが苦しんで いる時言います 「ああ 大丈夫」 「私とは関係ない」と 意味が分かりますか はい あなたが病気の時 私も病気なのです 私はここにいるので あなたにあるものは 全部私にもあります さもなければ 喜びがあるだけです 仏陀になることは良く 誰でもなれます
今 皆さんには 常に マスターになる という幻想があり 弟子でいるより もっと沢山楽しめると 思い込んでいます 本当ではありません より神を慕うなら より神を切望し 神に近づけば 近づくほど マスターの域に 近くなります 近づくほど マスターの地位を 理解せねばなりません つまり犠牲です マスターであることは すなわち犠牲です
あなたには喜びがあり 非常に安定した喜びで 世界の混沌とした 状況に影響されません でもあなたは苦しみ 皆のために苦しみます そんな状況を 望まないなら 神を望むのを少なく しなければなりません この世界をもっと 楽しまねばなりません 神を忘れ マスターを 忘れねばなりませんよ
そうすれば発電所から 少し遠く より遠く離れます
すると それほど苦しまず より楽しめます そうですね 台所にいる 料理人のようです 私達の為に料理します 彼も私達のように 楽しみたいなら 台所を離れるべきで 誰かに料理させます それで誰かは 他の人が楽しめるよう 料理せねばなりません マスターも同じです あるいは 誰かがマスターを とても愛したら 私や他のマスターを 個人的に愛していると いう意味ではなく 真理を大変愛している としたら 他ならぬ神を願うなら マスターにとても 近づくことなのです マスターパワーや マスターの品性のです
そしてそれは 楽しまない時です 残念ながら 非常に逆説的ですが そういうものです だから 意図せずに これらすべての犠牲を 望まないなら 天国のような大邸宅や 天国の光や 色々な装飾的なものを より望んでいるわけで それなら それほど 渇望しません そういう訳で 禅ではこう言います 更に開悟を望めば 得るものは少なくなる なぜなら 自身の欲求で 自身を妨げているので それを論理的に話せば あまりに近いからです 意味が分かりますか あまりにも欲しがり とても近づいています
非常に望んでいるので それがあなたで あなたとなりました それに取りつかれ だからその品性を 引受けねばなりません 意味が分かりますか それほどまでに 神を望む方法とは すなわち それを望む 聖なる人なのです さて あなたが聖者なら あなたがマスターなら ある種のマスターの魂 なら 楽しめません 世界中が苦しんでいる からです あなたの中の魂は 他人の苦しみを 引受けねばなりません 無明の中にいる 絶望的な苦しみです
つまり 世界中の人々の 暗い経験の意味です だから今この方法で 私は楽しむ方法をせず あなたが楽しむのです 今 私は料理をします
私は常に 台所で 料理をしています 皆と一緒に きれいな洋服を着て このように奉仕して もらう人々と一緒には テーブルに座れません 私は料理をするのです
あなたに会いにさえ 行きません
マスターも同じです 従って 神を 渇望すればするほど 見なくなります こう言うのは残念です 他の誰かが それを 違う風に言うとしたら 半分渇望すれば 半分得ます あまり沢山渇望すると それ程分からなくなり 苦しみますね あまりにも 神に近いからです 神はすべてを理解し 神は人類の苦しみを 知っています この世は 喜びより 苦しみの方が多いです 分かりますか 故に多くのマスターは この世を楽しみません 楽しむために来た訳で ないので構いません 楽しみたいなら 再び戻って来なければ なりません 無知な人となって 再び楽しみ始めます すでに数学か英語の 教授でいながら 再び教室で座り 教えてもらい 再び先生から 奉仕を 愛を受けます おかしなことです それが 学生として 再び 同じ配慮を得られる 唯一の方法です ほとんどの人は学生の 経験がありますが 後になって学生時代を 楽しまなかったことを 悔やみます 私は楽しみましたよ
学生の頃は 最高の時間を 送れたはずなのに 決して分からない と皆が言います 感謝しないのです 今は教授になりたい または 昨日より良く なりたい そうですね 教授や先生になると 私達は思います 「生徒でいる方が よかった」そうですね のんきで 全てが気楽で 若い そうですね 責任がなくて ここでパーティー あちらでパーティー ここに女友達がいて そこに男友達がいます 全てまったく気楽です そうですね そうです しかし 二度と 学生には戻れません もう教授だからです
たとえ今 学位を捨てて 再び学生と一緒に 座っても 同じ経験はできず 不満を言います 「なぜだろう」 あなたは言います なぜ彼女のように 楽しめないのだろう 他の学生は楽しんでる のになぜ楽しめないの それはその楽しみに 目もくれなかったので 元には戻れないのです 時間は戻せません ですから自分を 認識すべきかどうかに 関係なく 他の皆より楽しんでる この道において 初心者であるかどうか または まだ修行の 最初の段階にさえ 達していなくても または楽しみの段階を 越えていても 悟りには 「言葉的に」言えば 三つの段階があります 一つ目は 無知の段階です 修行を始めようと 思ったこともなく 物質主義さえ 越えていません 二つ目は 悟った状態です 光を見て 神を見て 天国の大邸宅を見ます サマディの中で あらゆるものを見て その至福を楽しみます
三つ目は それを越えています 学校のようです 最初は 大学に 入学していません 名もないただの人です 高校を中退した 何でもない人です 何でもない人です さて二つ目は 入学しますね 入学するのが 二番目の段階で 大学で何かを 学び始めます 三つ目の段階は 卒業しました 分かりますか だから修行者には色々 レベルがあるのです 気楽にしていて下さい それが自分の段階です 一度に消化できるより 多くは 求めないことです ばかげたことを 求めないことです 例えば すでに 教授でいながら 学生生活を楽しみたい ことなどです
年齢が違うので 精神性が違うからです
私に求めたら マスターとして何でも できるでしょうか できますが何のために 何のために何としても 天国を望むのですか 天国に逃げるのでなく この世界を 天国にすべきです 座っていて 天国を自然に見るのは 良いですよ 結構です でも常にそれを 望むのも変です 意味が分かりますか 物乞いではないのです 神が与えないのなら 気にしないことです 多分そこまで気前が 良くないのでしょう それは彼の誤りです 創造主に 人を見落とすような 間違いが 許されるなら 彼を見る必要など なくなります
私には 注意して 天国の合図を見る時間 さえありません 皆さんに使えるために 時間を使うからです
私は与えるだけです 神からも 皆さんからも 何もいりません これはとても重要です だから私達は 無私で 奉仕すべきで すると 全てがやって来ます
神の王国は自分だけの ものではありません 私に神の王国があれば 誰でも入れるはずです さもなければ 私はそこに行かず 皆を待ちます
良いことなどないです 一人でそこに座って または皆と一緒か 弟子の二、三人と 神の王国を 楽しんでいても 全人類が地上で 苦しみなどから 這いずり回って いるのですよ
だから 神の王国は 他の悟った人に 訪れるのです 訪れるならばです 私は自分のためより 皆の幸せのために 働くつもりです ですから その道を 続けていけば どんなビジョンよりも 満足できます
だから そこから はぐれないで下さい はぐれないで あなたは大丈夫です ただして下さい 人々に奉仕するのです すると どんな ビジョンよりも 満足感を得られます どんな光や どんな仏陀の顕現 による満足よりもです 本当のことですよ いいですね だからお客ではなく 料理人になりましょう いつでも いいですね
ありがとうございます でもあなたは 満足しません お客はそれ以上に 違いないと思いました それは あなたが 常に料理していて 時々 レストランに行き お客はこれこれだと 想像するからです でもお客はただそこで ものを食べる それだけです お金を払って 家に帰ります 大したことありません 同様に 私達に 霊的ビジョンがあると 時には期待しすぎて ビジョンはああだ こうだと思うのです そうではありません 意味が分かりますか 全く普通のことです いつ来るとか去るとか 分かるような 感電のようなものとは 違います
とても穏やかです 物質主義から 精神的な領域への 移行は とても とても穏やかです 従ってそれは 自分が 体から出たのが分かる 幽体離脱のようなもの ではありません 本当の霊修行は そうではないからです 本当の霊修行は 自分をそっと動かして とても穏やかに 優しく 違う境界に 移すのです そこに自分がいた とさえ分からない位に それは そこにいる間はもう エゴがないためです でないと こうです 「今 私は一つ目だ 今は二つ目だ 今は三つ目にいる 私は聖人だ 第三段階だ 三年生だ」 それは良くありません なぜか言いましょう 私達はもともと 常にそこにいる為です いたい所にいるのです ですから どこにいて どの段階に達してるか 知ることなど 何の意味もないのです
例えば 法科大学を 主席で卒業したら 誇りに思いますね ええ たぶん皆に それを話して 沢山お祝いをします 法学博士として 卒業したことを 祝いたいのです でも数年後には 自分が弁護士である ことさえ忘れますよね たまに人に聞かれれば 思い出しますが 何の誇りも 得意な気持ちもなく うれしくもなく 何もありません 自分はただそうで何も 目新しくないからです 同じように 私達の中には 霊的高揚感に慣れて 呼吸のように簡単に なっている人もいます それは実際 そうあるべきなのです 私達はまだ隔てられて いるので 座れば必ず仏土が 見聞きできる わけではありません 仏土に いるのではなく 仏土を 見ているのです 私達と仏土が 別なのです マスターの状態に 近づく程 再び より無知になります これは人生における 逆説です だからこそ 道徳経の中で 老子は言ったのです
賢者は愚者の如し そう 無知です ええ また元に 戻されたようなのです
でも 以前のように 道を知らないという ことではありません 同じではないのです 以前は 本当に無知でした 以前は無知であり 今は真の無知です 真の意味の無知です 以前は無知なのに 自分では賢いと 思っていました 自らの智慧を欺き 何でも知っていると 思っていました でも今では自分が 実は無知だと知り その時こそ 賢くあるのです つまり 空っぽの時こそ 満ちているのです 宇宙が自分のものです
ですから 完全な菜食主義とは 血も骨もなく 肉もなしです 食べるのは 命の源だけ それだけです 夕食の時にそのために 誰かが苦しむのを 考えずに済むのは 良いことですね そうです それが菜食の 主な理由です でなければ釈迦は 人が何を食べようと 気にしません 神も何も言いません 人は 自分の 生き方を選びます だから 自分にも 他の衆生にも より良く 苦痛の 少ない方を選ぶのです そう 今朝 菜食の理由について 色々と質問されました 霊的な観点は 別にして 健康の観点からもです そうでしょう 科学者はみな 肉は体に良くないと 肯定していますよね それを認めるべきです
マスター まだ 誰も言っていないので
ヒューストンの全員を 代表して 申し上げたいです あなたがいらして 光栄で 皆とても喜んでいます
私もうれしく思います
皆さんの内の一人が 今朝 言ったのですが 彼は自分を 世界一の凡人だと 思っていました そして彼は私のことを 考えたか 皆が私を 最も神聖な人物だと 言うのを聞いたのです
それで彼は来て一番の 凡人と一番神聖な人が 一緒に座ると 自分がどう感じるか 知りたかったのですが 何も感じませんでした
彼は何か感じると 期待したのですが 何も感じませんでした それで彼に言いました 私も何も感じません まあ 残念です 悪い冗談みたいです でも本当です
彼は大きな獲物を 期待して来て 何も得ませんでした どう得るのでしょう 例えば この男性は武術が 分ります いいですね 少し武術を 知っていてこそ 何か実演した時に 彼の実力が 分かるのです さもないと それも分かりません 彼の手の上げ方が 他の人たちの やり方とは違うとか 例ですが 分りますね 彼の歩き方や 相手の見方や どこかで 彼がとるポーズが 必ずしも防御でも 防御でなくてもです でも 武術をしていなくて 少しも知識がなければ 決して気づきません
しかし 武術の名人は 決して見破れません
それこそ最高なのです 決して動きません 鶏の話をしましたよね してませんか
今聞きたいですか はい 闘鶏を知っていますね ですね 中国に王様がいました 彼は闘鶏が好きでした
二羽の鶏 雄鶏を 闘わせるのです そして賭けるのです
今でも行われています 王様がそれに熱中して 起きた話です 彼は闘鶏が好きでした
お抱えの闘鶏を育てる 名人に指示しました 最高の試合の為に一羽 与えて世話させました 次の試合で 王者 チャンピオンに するよう 調教させるのです そこで その人は 鶏を育てました 一カ月程して 王様が 通りかかり尋ねました 「もう仕上がったか あの雄鶏は闘えるか」 調教師は答えました 「いいえ まだです」 王様が訳を聞くと 彼は言いました 「まだまだです」 王様は聞きました 一体どうしたのじゃ 彼が答えました 「この鶏は他の鶏を 見回すと 離れてても 虚勢を張り 興奮するのです そして羽が 宙に広げられていて 闘争心がむき出しです 万事その調子です ひどい 最低です」
それで王が言いました 「分った引き続き 育てて訓練しなさい 数カ月ほどして 通りかかった王が 尋ねました 「もう仕上がったか」 「いえ まだまだです マシになりましたが でも まだ 他の鶏を見て
興奮するのです ですから まだです」 そして またしばらく 育てましたが その間に 王様は 待ちくたびれて もう 役立たずの雄鶏など 忘れてしまいました そんなある日 調教師が王様に 報告しました 「もうよろしいです」 王様が 「なぜ なぜじゃ なぜ仕上がったと 分るのか」と尋ねると 彼はこう言いました 「今や遠くから 他の雄鶏に見られても 動じませんし みな怖がります」
遠くから見るだけで 他の雄鶏が 怖がるのです 何もしなくとも ただ歩くだけで 他の雄鶏は 逃げ回るのです ですから もう仕上がったのです 彼はもはや 闘鶏の 雄鶏には見えません そのままでいても 皆が彼を怖れます そうです 全パワーを得たのです つまり全パワーが 完全になると 見えないのですね 滲み出ないので そうとは分かりません それで 多くの経典の中で 完全に悟りを得た時 全く普通の人となる と言われているのです 平常心が 悟りの心である そう書いてあるのです
しかし大抵の人は 師や崇拝する人を 枠にはめ そこに 閉じ込めたがります 彼らにそうあって ほしいのです 運悪く 自分のエゴに このように 崇拝させることも あります
そして自分を そういう枠に 当てはめてしまいます それでどんな分野でも 何者にも なれないのです
神しか受け入れない 狭い心の人の家に 神がやって来ることは ありません 神は友達が欲しい そういうものです それがユダヤ教の 本で読んだ話です (はい) あるラビの話ですよ 彼はいつも自分に 会いに来る人々に 嫌気がさしたので 隠遁を求めました そうでしたね リトリートに入り 誰にも会いません
天のアブラハムが たぶんユダヤ教の 過ぎ越しの祭りの度に 彼のもとに現れたり するのでしょう でも過ぎ越しの祭りに 彼は現れませんでした
ラビは混乱し 祈りに祈りを 重ねました するとやっと アブラハムが現れ こう言いました 誰にも会いたくないと 言うので私も 含まれてると思ったよ 誰も歓迎しない家に なぜ 私が行けるかね 分かりますか アブラハムは そう答えたのです それで彼は理解し その日以来 皆を歓迎しました
そしてアブラハムも いつも来るようになり 過ぎ越しの祭りの 後にも来ました アブラハムが望む やり方だからです 彼を歓迎するなら その子供も歓迎する そういうことです