智慧の言葉
 
印心を授かって仏陀になる1/2 一九八八年一月一日 フォルモサ 新店(中国語)   
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何か質問があるなら 今聞いてもいいですよ それでもう少し説明が できます 話したい ことはすべて話した ように思います

あなたには今まで 尋ねなかった 個人的な問題か 長年尋ねたかった 質問が ありますか 今日質問できますよ

今日マスターに 会える機会があり とても嬉しいです 七日間禅会に来るため ここに来ました 一九六八年尼僧になり 私はこの世界に多くの 苦難があるのを見て 尼僧になりました 当時私の父の事業が 行き詰まりました 多くの債権者がお金を 求めて家に来ました 私達は皆一生懸命 働いていたので私は とても悲しく感じたが 得るものは痛みでした

私は仏教の教えを 学んだ後 尼僧に なることを決めました 出家する目的は 何でしょうか それは心配を取り除き 生死から解脱し そして悪いカルマ (報い)を 取り除くことです 私は尼僧になって 約二十年になります 私は先ほどマスターが 話したお話の 小鴨のようです

つっつき続けますが 殻の中から 出ることができません 殻の中のヒヨコですね はい私は殻の中にいる ヒヨコのように感じて 抜け出し方を見つける ことができません 幸運にも先月宜蘭で ある法師の家で一人の 仏教徒に会いまして 彼がオゥラックからの マスターについて 話してくれました 彼女はヒマラヤの マスターに近い弟子で 観音法門を 教えています この話を聞いた後 私はこのオゥラック人 (ベトナム)マスターを 探し始めました 私は彼女を探し続け 最後にこの山で彼女を 見つけ出しました 今日私は慈悲深い マスターから印心を 受けられ非常に幸運で 私は幸せです また七日間の禅会にも 参加でできます

皆さんは既に 仏陀です とても残念なのは 気づいてないことです 皆さんは 既に仏陀です ここにいる皆さんは 既に仏陀の境地に 到達しました 皆さんは仏陀であると 信じることができない 自信がありません 皆さんは自信が ありません そして 自分を信じていません 皆さんは全員 印心の間に 仏陀になっています 分かりますか それを認識する 必要があるだけです あなたは内面と外面の 経験で認識する 必要があります ゆっくり 多くの人と 対話した後に皆さんは 仏陀であることを 理解するでしょう

それがすべての衆生が 非常に重要である 理由です 衆生なくして 仏陀はいません ある日洞窟の中で突然 悟りが開きあなたが 仏陀であると分かると 仮定してください しかし異なった 状況によって テストされないなら 人々と対話することで 色々経験してください あなたの認識は長く 続かないでしょう あなたが悟ったとき あなたが 獲得した認識を 信じないでしょう それで衆生なくして 仏陀はいないのです いったん印心すると 既に皆さんは 仏陀です 霊修行を すればするほど もっと理解します

それは霊修行を 続けるべき 理由なのです 修行を 続けないと 印心の日仏陀だった だけです そして 皆さんは 後でそれを忘れます ある人が卒業の後 医師になるはずが 彼は少しも患者も診ず そして器具や 医学用語を使わないで まったく経験を 増やしてないとします 分かりますか 彼が少しも患者を 診なければ 彼は何十年後 学んだこと全てを 忘れてしまいます めったにその知識を 使わないので彼は 少ししか 覚えていないでしょう 同様に 例えば 彼女はとても美しい 音楽を演奏します

しかし彼女は長年 練習をしていません それで今彼女が 演奏すると その音は 滑らかではありません 人が英語を 勉強するのも同じです 英語をよく勉強した はずですが 彼は三〇年間 それを使わなかったら 今では流暢に 話すことができません 私でさえオゥラック (ベトナム)で生まれ オゥラック (ベトナム)語を 十年以上も話して いたのに今はそれほど 上手に話せません

私はオゥラック (ベトナム)語を たくさん忘れています これは最悪の 事態ではなく 私はまだ時々 オゥラック語を 使用しています 人が三十年以上 島に閉じ込められて オゥラック語を話す 機会が全くなかったら 彼はその言葉を 話せないかも しれません 違いますか 私達が学校で 英語を習うとき 英語が少し話せます しかし卒業後 英語を使わなければ もう話せません それで即座に悟り すぐに仏陀になれる のは本当です 仏陀の光を見るとき 仏陀と一体になり 既に菩提に 到達したのです

天国の音を聞くとき 既に仏陀と 一体になります 例えばマスターの足は 彼女の体の部分です それをつかむ時  マスターを掴みます マスターの手を掴む時 マスターを掴みます 彼女の手 頭など等は いずれも彼女の一部 同様に たとえ 低いレベルの音しか 聞こえなくても 依然天国の音です たとえ低いレベルの 光しか見えなくても 依然仏陀の光です 仏陀の足を掴むとき 仏陀になります 仏陀が見えるとき 仏陀を掴みます でも まだ彼の顔を  見ていないので それは十分に良くない です それで自信を 十分に感じません それは まるで象を 触っている四名の 盲人の物語のようです 一人は象の耳を触って 言いました「象は お皿のようです」 一人は鼻を触って 「象は柔らかい ホースのようです」と 言いました

一人は足を触って 「象は柱のようです」 と言いました 彼らみなが 象に触りましたが 象について 違う考えを 持っています 同様に皆さんは印心を 受けた時 既に 仏陀になりました しかし 自分の仏陀の品性 即ち無限の力と能力を 十分に認識しないので 自分が仏陀である ことを信じません それだけです ですから仏陀になる ことを待つ必要はあり ません 既に仏陀です ただ自信と経験が 欠如しているだけです その後 高いレベルに なれば 衆生を済度する力を 十分に持てます そのとき 自分がどんな仏陀で あるか 分ります

しかし 衆生を済度するため 弁才も必要とします 衆生を済度するには 内面の智慧と経験を 別として 外在の知識と経験も なければなりません ただ仏陀になるのは 大した役に立ちません そういうわけで 縁覚仏(独覚仏)は 他人を教えられません 彼には 先生がいなく 自分で悟りに 到達しました 例えば 彼は先生に 従って 観音法門を 習ったことがあるかも しれません その後 先生は亡くなったので ある日彼は自分で 悟りに到達しました 彼は印心のとき 悟ったのですが

その後指導して くれる先生がないので 彼には衆生を教える 体制がありません 彼は口頭の教理を与え たり他を彼の説法に 引き付けたり 他人の 注意と尊敬を得る事が できません それで たとえ深い 悟りを開いても 弁才がなければ 自分所有の智慧を 悟ってない人に与える ことができません それは 最も難しいことです 難しいのは 悟りを開く事ではなく 衆生を 救済することです そういう訳で 釈迦牟尼仏が 仏陀になった後 宇宙中の全ての 仏陀が彼を賛美し 彼がこの堕落した 世界に衆生を教える 能力を持つと言います

世間の言語で 仏陀の境界と 内面で到達した霊性の レベルを述べるのは 簡単ではありません それでそれらの事を 述べる能力は重要です 口頭の説明が なければ 賢い者を除き 衆生は私達を理解する ことができません 良い霊性の背景と 多くの功徳を 有している人以外 誰も私達を理解する ことができません そうではありませんか 従って 一方で  自分の内面の力を 深めなければならず 他方では 自分を 導く良い先生が いなければなりません 大部分の人は自分で 霊修行を行います

例えば仏陀の名を 唱え 経典を読み またはマントラを 唱えるかもしれません 彼らは特定の日に 内面の音を聞くかも 知れませんが いつも ではなくまたは数日間 この音を聞いてから 決して二度と聞かない かもしれません 例えばそのようです たとえ毎日この音が 聞こえても それも あまり役に立ちません  不思議ですそれはなぜ 彼らは どのような音が良いか  どのよう音が悪いか  どのような光景が良く どのような光景が 悪いか 分らないからです

彼らには 相談できる 人も誰もいないので 最後に 魔により 馬鹿にされます 容易ではありません だから多くの修行者は 道に迷ってしまって 誤った道を歩みました 印心を受けた時 即座に悟りを 開くことができます 智慧眼を開けば 私達の自性を 理解することができ すぐに仏陀になります 本当にそうなのです しかしながら 私達は 智慧と自信がないから 悟りを開いても どうすれば良いかが 分かりません そうでしょうか 私達は何をしたら 良いかが分かりません 全ての偉大なマスター 全ての衆生に仏性が あると言いました

けれどこれを分から なければ だめです 牛には仏性があります けれど彼はそれを認識 できないから無用です 宝物を持っていても 宝物はどこにあるかを 知らない人と 同じようです 彼はまだ貧乏です それゆえ 仏陀に なるかどうかは 私達の考え方と 自信によります 長く瞑想することが 仏陀になること ではありません あまりにも長く 座っていると 「坐仏」になります あまりにも長く 横たわると「寝仏」に なります

そういうことをして 仏陀にはなりません だからこそ 印心の時 あなたは既に 仏陀になったと 言ったのです しかし本当の自分を 認識するため 熱心に 修行して 心を 落ち着けるべきです そういうことです あなたが仏陀でないと いう訳ではなく あなたは既に仏陀です あなたは既に仏陀です 二百万年という 長い年月にわたって 仏陀になり ある国に生まれて ある衆生を救う というようなことを 定めるべき ではありません

長い年月がかかるし 誰が長生きできますか 一方で  何をすべきでしょうか 私達は多くの時間を 無駄にするでしょう 仏陀になるまでに 長い年月を待って 多くの生涯を通して 行かないと 私達は キリンになるでしょう

そうはいきません あなたは既に 仏陀です 約束します

誰でも仏陀になる ことができます 仏陀というのは 悟りを開いた人 偉大な智慧を持つ人 悟りを開いた偉大な マスターであります 全てのことを完全に 理解できるなら 私達は仏陀のレベル 偉大な マスターのレベル  解脱のレベルに 達しました そういうことです 他に何もありません 誰でもできます あなたは瞑想を通して 毎日少しずつ 分かります そうですね 毎日ますます悟りを 開くことができます 毎日天国へ行って 戻ってきます 時々 覚えていますが 時々覚えていません

死ぬのと同じです 仏陀を訪ねる時 私達は仏陀です 仏陀だけ仏陀の境界に 住むことができます 仏陀と一緒に いることは 仏陀の 品性があるべきです 仏陀の境界に 行けば 仏陀になります 仏陀の光を 見ると 仏陀になります 私達の内在する仏光が 輝く時 仏陀になります 私達の内面の仏音が 現れた時 私達は仏陀になります 仏陀とは そういうことです 仏陀には千手と 千の眼はありません それ以上があります 単に千手と千目でなく 無限の数の手と 目があります

しかし観音菩薩は 無限の数の手と目が あるというなら 人々は混乱します 彼らの想像力を 超えています だから千手と千の眼と 言うだけで十分です 彼らはそれを数える ことができるし 「わあ すごい」と 三つの頭と六本の腕を 持つ神のような人は 既に信じられないほど それで更に 千手と千眼と言うなら 人々は驚くでしょう 彼らは満足して 頷いて こう言います 「彼女の力は計り 知れないに違いない」 千手と千の眼は既に 沢山あります それで観音菩薩に 千手と千の眼があると 言うのです 

けれど 彼女にはただの千手と 千の眼ではありません 千手と千の眼では すべての衆生を 助けるには不十分です 仏陀になるのを 七時まで 待つ必要がありません あなたは七時までに 仏陀になると 約束しました 今あなたは本当に 仏陀になりました そもそもあなたは 仏陀なのです 印心を受けた後 仏陀の力との 繋がりができ  あなたの本来の源に 戻ることが 保証されます 私達は既に 振向きました それで十分です 仏陀になる日まで待つ 必要はありません しかし今はまだ仏陀の 力を使えません まだ勉強中です

ですから 暫くとって置きます 後からその使い方が 分かってきます 例えばある人が 仕事をし始めると すぐお金が 得られますね 社長は彼の給料を 取っておいて 月末に彼に払います 実際 仕事をし始めた時点で お金があり その工場の従業員に なっているのです 月末になってから 従業員になった 訳ではありません 仕事を始めた初日から 従業員なのです 同様に工場の 社長も初日から 社長なのです 二、三十年働いた後 社長になるわけでは ありません

しかし 社長になった初日から 社長としての自覚が あるわけではないです それはまだ 従業員のことや 仕事のことがよく 分っていないからです 工場はとても大きく すべてに詳しい 訳ではありません 彼は工場のことを 詳しく隅々まで 勉強する必要があり 時には従業員に どこにどんな機械が おいてあるか どこにどんな人が 配置されているかと 聞いたりして まるで 見習いのようです 自信満々の社長の 雰囲気はありません そうですね

でも彼は社長でない 訳ではありません 彼が署名した時点で すでに社長なのです しかし  まだ新米で学ばねば ならない事が多いです 工場のシステムや 状況について把握し なければなりません 徐々に自分は社長で あることを認識し ますます自信を 持つようになります そして社長としての 自覚を持ち社長の 振る舞いをします そうですね 同様に 印心を受けたら 仏陀なのです ただまだその パワーを使う機会が ないだけの話です 私がここにいるので 皆さんは使う必要が なく どこかに しまっておいて 後で必要な時に使うと 分かります

私は仏陀なんだと 分かりますか 他の何者でもないと 分かるのです その時は 全世界が あなたは仏陀でない と言っても それを信じません 高慢だから信じない のではありません 仏陀になることは 食べて寝るのと 同じぐらい自然で 大したことではなく 自慢することでも ありません

仏陀になるのは 卒業して 医者になることや 高校を卒業したのと 同じです 全ての科目を 習い終わったら 高校を卒業する わけです 何もおごることは ありません 例えば 彼女は長い間 音楽を習いましたので 楽器を演奏することが できるのです 彼女は毎日楽器を 楽します そういう ことで 彼女はこれを 鼻にかけません 世界には多くの人が 音楽の演奏が できます 誰でも習えば彼女の ようにできるものです 当然のことです そうですね 誰もこれを 鼻にかけたりしません

ただ全世界で この 簡単な真理が分る人が 少ないので 簡単な真理は極少数の 人が分かるために 誰かが自分は 仏陀だというと 人は 彼は 魔に取り付かれたとか  高慢だとか 頭が おかしいとか言います しかし仏陀になった 人にとっては これは 大した事ではないです ごく自然なことです 先日私は 私達 観音法門を修行して いる人にも同じ力が あることを話しました 彼が家にいると 彼の舅の病気は よくなります

彼は他の修行仲間と 病院で瞑想すると その修行仲間の息子の 病気がよくなりました また ある人は 私の教の講義を聴き 私の本を読んで 開悟したのです これらはいずれも 些細な事であり ごく普通の事です そういう人は 阿羅漢や 菩薩のレベルに達した 人です 分かりますか 私達は過去の某菩薩は その種のパワーを 持っているとか ある阿羅漢は自然に 病を治す力があるとか それら阿羅漢や菩薩と 一緒に住む人は祝福 されると聞いています

また私達の 観音法門の 修行仲間の 親族が亡くなった時 親族が亡くなった時 その親族は印心を 受けていなく修行して いなくても超昇した のです これは私達の 修行仲間が菩薩である ことを意味します 分かりますか 阿羅漢にだけ 彼に近づくと 超昇する力を 持っています 私達の観音修行仲間は 何も自慢に 思っていません 彼らにとってこれは ごく自然なので 自分が菩薩である ことも知りませんし 自分はすごい阿羅漢で あることも知りません そうですね

だから金剛教に 誰かが自分は 阿羅漢で菩薩で 仏陀であると主張する 人は実はそうでなく それは違うと あります 経典を拠り所にすると 私達の修行仲間は皆 仏陀なのですが 彼らは自分でも 仏菩薩の意味が 分かっていません 彼らは決して 鼻にかけません 私はきっと仏菩薩だと 自慢したり そんな 態度はとりません 偉ぶりませんが 知っていますが 同時に分かる訳では ありません 分かるのは 彼らは 道具になったからです 体はありますが エゴはありません 仏陀のパワーだけ あって 言われた事を するだけです

仏陀の言われたことを 聞くだけで 他に 何もできません ある人は私のことを 仏陀だと言いますが 仏陀とは何か 私は 述べられません 分かりますか しかし仏陀でないと 言うのも 正しくありません 私が 自分が仏陀だと 言うのも正しく ないです 分りますか 私が自分は 仏陀でないと 言うのは もっと正しくないです 経典を拠り所にすれば この人 とかあの人は 仏菩薩になったとか 仏菩薩のレベルに 達したと分かりますが 彼ら自身は解釈できず 説明するのは 簡単ではありません

同様に 釈迦は 自分が如来であり 如来になったと言い 父親に言います 「私はもう あなたの息子ではない 仏陀だ 伝統に基づいて 自分のことを 呼んで欲しい」 彼は父親が状況を 知らず 彼の手を 握ったり「息子よ」という風に 彼を呼んで仏陀の 風格を損なうのを 恐れたからです 釈迦は父親に 自分は仏陀の道を 成就し仏陀になったと はっきり 言ったのです そうでしたね

釈迦は仏陀に なってから父親に 会いに行きました

釈迦は父親に礼拝して もらいたいとか 何か して欲しいわけでは ありません 事実を 言っただけです 医者が自分はもう 卒業したというのと 同じです また彼女が 線香をあげては 私は尼僧になりました と言うのと 同じです こういうことです 出家する前と 同じです 彼女は前と同じように 演奏が好きです 何も特別なことは していません 仏陀になることも 同じです ただ事実を言った だけです 鼻にかけて いるのではありません ある人は自分は仏陀 だとは言わないものの 態度が傲慢です そうですね

自分に礼拝するよう 求めたり 寄付するよう 求めたりして それこそが傲慢です 私達が仏陀になって 人にこれを言うのは 何がいけないですか これは決して 傲慢ではなく ただの事実なのです 満腹になった時満腹 だと言うのと同じで 何が偉いですか 仏陀になったから そう言っただけです 自分の仏性を 知っていて 自分は仏陀であると 分かったのです 自分が仏陀であると 分かっただけでなく 全ての衆生も仏陀だと 分かっています これは鼻にかけること ではありません

自分は仏陀であると 分かっていますが 人はまだそれが分って いないだけのことです これが唯一の 違いです 仏陀になった人に とっては全ての衆生は 自分と平等なのです 鼻にかけたりしません 自分は他の人と 同じだと感じます 驕ることはありません 仏陀になることは ごく普通の事であって 印心を受けた時点で 仏陀になっています 私達は仏陀のパワーの 海と繋がっていて 私達はその海の一部で 一滴の水が 海に落ちると 海の一部になるのです 分かりますか いったん海と繋がると もう海なのです 海の一部になって いるのです その時には 私はいつ海辺に 行くのかと聞く必要も ありません あなたは すでに海の中です その一滴の水は次第に 姿を消して 海の一部になります
印心を受けた時点で 皆さんはすでに 仏陀になっています 私達は仏陀のパワーの 海と繋がっていて 私達はその海の一部で 一滴の水が 海に落ちると 海の一部になるのです 分かりますか いったん海と繋がると あなたはもう 海の一部に なっているのです その時には 私はいつ海辺に 行くのかと聞く必要も ありません あなたは すでに海の中です その一滴の水は 次第に姿を消して 海の一部になります 同様に 印心の時私達は 仏陀の海に入って 仏陀になったのです

そのパワーは莫大です ただし私達がまだ 使っていないだけです 時が来て 私達が そのパワーを使う時 私達はそれがどれだけ 大きいか知るでしょう 私達は今 無理強い することはできません あなたがこのパワーを 使いたくても使えず あなたが仏陀である のを知らないからです それだけです 時が来て 状況がそうなれば あなたは自然に パワーを使えます その時 あなたは そのパワーがいかに 強力か分かります しかし時が来なければ あなたはそれを 知ることはできません

早すぎます あなたはまだ使う 必要がないからです まだ学んでいて 使う必要がないのです 時々 あなたはその 一部を使ってますが あなたは知りません しかしパワーは やはり働いています あなたが瞑想する時 多くの衆生のために 利益となります 私達の振動は広がり 全国を照らし 全宇宙の潜在意識を 引き上げています 私達がそれを 知らないのは最良です 私達が知れば エゴが出て来ます それで沢山修行した後 やっと偉大な霊性の 師となれるのです 私達は私達のエゴと 個性の制御を訓練する 必要があります

私達はエゴを制御 しなければなりません エゴが消失した後 この天性のパワーを どんな危険も引起こす ことなく使えます 例えば 両親は沢山お金を 子供に与えますが 子供が十八歳になる迄 お金を銀行へ預けます それはなぜでしょうか お金は既に子供の物で 幼い頃から彼の物です しかし彼が十八歳に なるまで使えません 彼が乱用し 滅茶苦茶に買物し お金を無駄遣いしたり あるいは賭博をしたり 人に騙し取られるかも しれないからです それで両親は 彼に使わせませんが お金は既に彼の物です 彼が十八歳になった時 あるいは結婚する時 彼は預金を 下ろすことができます

そうですね その時 彼は もう それを使えます 彼はよく訓練されて お金の使い方を 知っています それを浪費しませんし 彼は騙されません 例えばそんな風です 今 皆さんは既に 私と同じです 私達の間には 何の違いもありません 唯一の相違点は あなたは自分が誰か どのように自分の力を 意識的に使うか 分らないとのことです あなたは自分の力を 知らない 分りますか だんだんと その時間になると あなたは衆生を助ける ことができ  自分は莫大な資産と 不思議な力を持ってる ことを理解します いったん自分が仏陀で あることを理解すると 平和を感じます

他の質問がありますか マスターの体は 透明で明るいので 人々は彼を称賛しよう として 彼にその名を 付け 彼の所に避難を 求めると言います 彼らは自分達の マスターを仏陀として 賛美しました 彼は多くの 良い品性を具えました 慈悲深く 光を放ち 水晶の体があり そして多くの 良い品性を具えました それで八十八仏とは 八十八の違う仏陀の 意味ではありません マスターには 多くの違う品性が あるからです 私達は彼の大慈悲 偉大な光 偉大な力と大きな 自由のため 彼を賛美 するかもしれません

「南無」というのは 「賛美」を意味します マスターの大慈悲を 賛美し マスターの無量の 功徳を賛美し 無量の光を 賛美します 梵語でマスターは 「仏陀」のことです それで彼らが「南無 大光仏」と言うとき 「強い光を持っている 私のマスターを賛美 する」という意味です それだけです それで 彼らは 多くの名前でもって ただ一人の仏陀 最高レベルに達した 毘盧遮那仏だけを 賛美します それらは多くの違う 仏陀を指しません そうでないかもしれ ません 

例えば 時々 私達は観世音菩薩を 「観世音」 又は「観自在」 又は「施無畏菩薩」と 称します ある人は彼女を 「南無施無畏菩薩」 「南無普陀山琉璃菩薩」 「南無観世音菩薩」 「南無千手千眼菩薩」「南無楊柳瓶水菩薩」 と称します これらの名前はすべて 観世音菩薩を 指します それで「八十八仏」は ただ一人の仏陀だけを 指します 多くの違う名前で 彼を賛美します それは 美しい女性を 賛美するようです 私達は彼女が美しいと 言うだけではなく 彼女を「青い目」 「ハニー」とか「蜂蜜 パイ」と呼びます

例えばアメリカ人が 自分達の愛する人を 呼びかけるとき ただ「愛する人」と 言うだけでなく 「ハニー」「蜂蜜 パイ」「果物パイ」 「甘いパイ」とか 「恋人」など多くの 他の名で呼びます それらはすべて 同一の美しい女性 彼の最愛のガール フレンドを指します 彼は多くの名前で 彼女を呼びかけます 例えば「美人」「最愛の 妻」「私の女王」と 呼びます 彼女は女王 でないが 自分の妻を 「女王」と呼びます 例えばそのようです 全て彼の妻を指します

同様に 昔の弟子は 多くの名前で 彼らのマスターを賛美 するかもしれません 例えば「大光仏」 「普明仏」 「無垢仏」 他に何かありますか 八十八の名前が ありますね それで 八十八仏の 名前は八十八名の 仏陀を指しません 一万の名前を 与えることができるが 全てはこの最も偉大な 仏陀を指します 彼は多くの違う品性と 素晴らしい力を 持っています 彼は全能です それで 各々の名前は 彼の能力の中の一つを 意味します だから それほど多くの名前が あります 

それは神と 同じです ある人は 彼を「アッラー」と称し ある人は「エホバ」 と呼び ある人は 「神」と呼称し ある人は「玉皇大帝」 と呼びかけます すべて神を意味します 人々は自分が好きな 名前で彼を呼びます 後で彼らはただ 自分の名前が他の名前 よりよく聞えるため 互いに戦います そういう訳で衆生は とても可愛いです そういう訳で  私は誰とも戦いません

八十八仏の名前は 八十八人の 仏陀ではなく 一人の仏陀の 違う品性を意味します 普明仏 普淨仏 多摩羅跋栴檀香仏が あります そうでしょう ええ  そのうえ 栴檀光仏 摩尼幢仏 歡喜藏摩尼寶積仏 一切世間樂見 上大精進仏 例えばこのようです 全ては同じです 観音菩薩は 三つや四つの名前を 持っていて 三十二の 外形があります ある人は 阿弥陀仏と呼び 「無限の光」ある人は 「無限の命」と呼び ある人は 「アミトフォ」または 「アミドフ」と呼び それらは全て同じ 仏陀なのです

しかし名前で 争うのです 最終的に 今の辞書が 出来 阿弥陀仏は 「アミドフ」で 台湾語では 「アミドフ」と呼ぶ 事を知るのです 「アミドフ」ですね ある人は彼を アヒダプァと呼びます 日本では 彼を 「阿弥陀仏」または 「阿弥陀」と呼びます 日本でどう呼ばれて いるか忘れました 「南無阿弥陀仏」 最初にフォルモサ (台湾)に来た時 七日間の禅会に 参加しました 「ナモアミトーフ」 としか聞いてません どんな豆腐について 彼らが話していて なぜ仏陀の名前でなく 豆腐を繰り返してるか 不思議に思いました

本当に豆腐と 聞こえませんか なぜ彼らは豆腐を 繰り返しているのか 不思議に思いました それは南無阿弥陀で タバは台湾語で 豆腐という 方言なのです こう繰り返します 違いますか ナモア ミ ド フ その時 私は少しの 中国語と 少々の台湾語しか 知りませんでした ベトナム語では豆腐を 「ダウフ」と言います だから「なぜダウフと 彼らはベトナム語で 繰り返しているのか」 と思いました ベトナム語でダウフは 豆腐の意味です それは中国語から 来ているのです

中国人はそれを豆腐 と言い ベトナム人は ダウフと呼びます ええ ダウフ 彼らがナモアミ豆腐と 唱えていて 私は思いました 「まだ昼じゃないのに なぜ彼らはお腹が 空いているのか」と だから人々は時に 名前で争うのです 例えばフォルモサ (台湾)語で水は 「シュイ」です 独語は「ヴァッサー」 フランス語は 「ロー ミネラル」 そしてイタリア語は 「アクア ミネラル」 昔は 辞書など ありませんでした だから言葉のために 争っていました 現在はもっと 良くなりました なので「神」と 「仏陀」は同じです

ある人は 私が 神について話すと 敏感になることが あります 彼らは私に「なぜ 神 神について 話し続けるのですか」 私は「話しますが 聞きたくないのなら 構いません」と 人々は愚かです 彼らはいつも名前で 争います 私がアメリカに いたときですが あるマスターを訪れ その二日後 それ以上 滞在したく ないと思いました 彼らは私に尋ねました 私の理解で 彼らに答えました そして彼らは すぐに敏感に なったのです 「なぜ神について 話すのですか」と 私が大きな罪を 犯したように言います

私は「まあ それなら話すのを 止めます」と 神を信じないのは あなた次第ですが 私は信じます 人々に理解して もらうのは難しいです とても愚かです 愚かな執着で 愚かな壁です 無くすべきです それらに執着すべき ではないのです それらを 倒すべきです しかし倒すのは 難しいです 想像できますか 簡単な事ですが それを理解できない 人も中にはいます 失望的です 説明できません 私達の視点からは とても簡単ですね とても明白ですが 彼らはそれらから 離れないのです 彼らはその考えから 離れられず それから 逃れないのです 知ってる事を彼らに どう話すべきですか 霊修行すれば するほど  もっと無駄に感じます 修行すればするほど 孤独感を感じます そういうことです 頭を振ることしか 私にはできません 禅は言葉いらずです

ええ これは個性の問題で 習慣です 彼に悪意があったと いう訳ではありません 私達は真理を理解 しないので彼に悪意が あったと思うのです 悪いカルマ(報い)と 関係しています 仏陀に到達した 後でさえも 私達は人々との 因果関係があります カルマ(報い)が まだあります それである人が仏陀を 殺そうとしたのです ある人は彼に 石を投げました 釈迦には 頭痛もありました 彼はある過去世で 死魚の頭を蹴った ためだと言いました そのような小さな事で 彼は三日間 頭痛がありました

釈迦も悪いカルマ 釈迦も悪いカルマ (報い)に悩みました 彼は托鉢に 行きましたが 三カ月間 何の施しも ありませんでした 人々は彼を異端者だと 誹謗しました しかし彼はそれが 自分の過去世からの 悪いカルマ(報い)の 結果だと言いました それは楞厳経に 述べられています また時には 彼は弟子達に 腹を立てました 彼はアーナンダと ラーフラを叱りました 仏陀に悪意があったり 或は凶悪だったから ではなくアーナンダと ラーフラが 愚か過ぎたからです

それは衆生の カルマ(報い)によって 引き起されたので 仏陀にとっては 誰も 悪意を持っておらず 誰も悪ではないのです しかしなぜ 誰も悪くないのかを 説明し難いので 衆生の理解に合せて 私達は「悪」という 言葉を使わなければ なりません 仏陀にとって 罪はなく 悪はなく 善はないのです 悪もなく 善もなく 罪もなく 仏陀は子供のようです 子供は罪が何であるか 悪が何であるか 知りません 無いです これは「赤子の心に 返る」という言葉が 意味するところです

仏陀に到達した後は 善も悪もありません それで六祖慧能も 言いました 「仏性は善もなさず 悪もなさず」 ですから仏陀は 何をしても決して罪を 犯すことはありません しかし彼は悪い事は 何もしません 彼は衆生を混乱 させたくないからです 彼は開悟していますが 衆生は開悟してません それで彼は不法な事は 何もしないのです 当然それはこの様です とても自然なことです 皆さん 分りますか どうですか ええ でも人々はこの 重点を理解しません 彼らは自分達を 行為者と思い被害者も 彼らを行為者だと 思います

それで双方は憎しみの 雰囲気を引き起します 被害者はチャンスを 求めて復讐に 戻って来ようとします それでカルマの輪は 絶え間なく回るのです 分りますか ですから 仏陀は何をしても 罪もカルマ(報い)も ありません 彼は既にすべてを 見通しているからです 彼はカルマ(報い)が はっきりと見えます 彼は自分を行為者と 見なしません 分りますか 彼は彼がしたのでは ないと知っています 彼は非常に明確です それで 彼の心に 記録できないのです 意味が分りますか 彼はそれを自分が してないと明確ですが

衆生はこの点について 明確でなく 彼らは自分を 行為者だと思います それで彼らにはカルマ (報い)があるのです ですから私達の 考えを清めるために 毎日音流を使う 必要があります あなたが今日罪を 犯したとしても自分が 犯さなかったことを 確かめられません ですから考えや やましい感覚を 清めるために 観音法門を修行します 他の方法はありません しばらくすると 清められるべきものが 多く残りません あなたが慣れるまで 浄化し続けます

後で 罪の意識を感じる前に 罪悪感を 清める音流のみが 残ります わかりますか その時あなたは 罪悪感を持ちません 音流のみが 残ります 罪の意識を感じる前に それが清められるから あなたには罪の意識が ありません 観音法門を十分 修行しないので 多くの罪悪感を 持ちます 音流がそこにあっても 清めるためには 若干の時間が かかります 多く修行した後は 音流の力が 罪悪感の力を 上回ることに なります 罪悪感がしたとたん すぐに 清められます 非常に空腹の人と 同じです 彼が少し食べても 食べなかったのと 同じです

分りますか 良かった 他に質問はありますか 分かりましたか 満足していますか 本当に分かりましたか いいですね これは 非常に単純なものです あなたは開悟しました

彼女はマスターを 100%信じます これは内面の体験が あることより良いです

霊性のレベルの高い 人のみがマスターを 信頼できることを 意味します 彼らの潜在意識は すべてを知っています そういう訳で彼らは 信頼できるのです 他の人は少しの 霊能力があるかも しれません  あるいは阿修羅界 第二界が見られます しかし彼らは よく理解しません 意味が分かりますか

智慧を持つ人のみが マスターを 信頼できます ですから人々を内なる 体験で判断できません それらは何でもない 阿修羅の境界で多くの ものが見られます 阿修羅界には一五〇 以上レベルがあります 各々のレベルは多くの 副レベルを含みます あなたが阿修羅界を 何百万永劫年 旅行しても 終らせることが できませんし 高いレベルの境界は 言うまでもありません そういうわけで 内なる体験ではなく 智慧が重要なのです

誰かがマスターを 信頼することは この人には私への 非常に強い縁が あることと 彼の過去世で 霊修行をして 智慧を高めたわけです そういう訳で 彼は私の教えを理解し 信頼できるのです ミラレパの 例を挙げます 彼の話を知ってますか 彼が僧団に入った時 彼に内なる体験が 全くありませんでした 彼のマスターが何も 教えなかったからです マスターは彼を叩いて 毎日彼を叱って 追い払おうとしました 彼のマスターは彼に あらゆる耐えられない 方法を使用しましたが

ミラレパはマスターに 誠実なままでした 彼は七年間 耐えられない状況に 耐えました 低レベルの智慧の 普通の人々は すぐに去るでしょう もしくは 三、四年後に 去りますが ミラレパはそこに 七年間いました 毎日彼は家を建てては 後でそれを破壊して 再び建設して また破壊しながら 時間を 費やしました 彼は叱られて叩かれて 追い払われました マスターには彼が した事は何でも間違い マスターは決して彼を 称賛しませんでした 称賛されるどころか 叱られなかったら 幸運でした

彼は全てに耐えました 内面の体験が 全然ありませんでした マスターは教えず 体験があるはずが ないでしょう 毎日激務を経験する だけでした 出血するまで働き 全身傷つきました 一言も発することは 許されずマスターにも 会えません マスターからの返事を 決して得ませんでした マスターはどんな 法門も教えません 彼がどんなにそれを 請うたとしても だから彼は後で偉大な マスターになりました 今でもまだ有名です ですから内面の体験が ある事は重要でないと 私達は知るべきです 内面の体験があっても 十分ではありません

偉大な智慧のある人は 内面で何でも理解して います だから私達は あまり内面の体験を 気にしないことです ある人たちは私と 仕事する為この世界に 根づかなければならず それで彼らは あまり多くの内面の 体験を享受できません でないと 彼らは仕事ができず 内面の体験に 熱中してしまいます たった今皆さんは既に 私が何を話しているか 分からないでしょう そんなに多くの 体験があったら 私は無力です 私は一人で仕事し 手伝う人がいません 誰もが天国の甘露に 酔ってしまうので 何もすることが できません

だから時々修行者には あまり多くの体験が あってはなりません 私達にはここでする 仕事があるからです 意味が分りますか 例えば人々のために 料理する必要があり 料理する時そこに 座ってごちそうを 楽しむことができず 忙しく人々に 奉仕するのですから 時々料理の味さえ 知りません 私達は急いで彼らに 仕える必要があります 外の誰もが美味しい と大声で言いますが 台所で働いている 私達は不思議に 思います

なぜ彼らにはそれほど 多くの体験があるかと意味が分かりますか こういうことです 享受したいなら 盛装してテーブルの そばに座り人々に 仕えさせるべきです そしたら料理できなぃ 料理するなら優雅に 座って仕えられるのを 享受できません 同様にこの頃皆さんが ここで食べてる間 台所チームは皆さんに 奉仕しています 皆さんは食物を楽しみ そして瞑想しに 戻って行きます しかしそれらの人々が 皆さんに仕えている時 彼らは食べられません

食物のおいしい味を 楽しめません 皆さんが楽しんでる時 彼らは皆さんの 楽しみがどんなのか 分りません 私達の本分は仕事で 享受ではありません しかし仕事の後 やはり楽しめます 皆が満腹の後 私達は座って一緒に 食べることができます しかし私達は 西方浄土に行った時 享受します 今は享受する時では ありません 私達がそうしたら 働く人がいません ある人は働くべきです

皆が享受するなら 誰が働くのですか 働く人はごくわずかで 菩薩の心を持つ人は ごくわずかです 衆生は皆 仏陀と菩薩に 頼ります 彼らは自身に頼らず 勇敢に働きもしません 仕事の最中は 享受できないからです これを理解 しなければなりません 仕事している時楽しむ 機会はほとんどなく 私を見てご覧なさい サマディーを享受する 機会がありますか サマディーに入った 途端 常に用事が現れ 私は出なければ なりません 時々 それは非常に危険です

それであまり深い サマディーに入る 勇気がありません 突然出るのは 非常に危険ですから それは私の体に よくありません とても痛いです それに寝たい時に 寝られませんね 禅七の間いくらか 休みを取るつもり でしたが休みましたか 皆さんを世話すべきで 外の入りたがる人々も 入れなければ なりません

夏の禅会のとき 訪問客も 毎週来ました 夏の禅会をすれば するほど私はさらに 疲れ果てます 常に働かなければ なりません 私には一日の休みも ありません 禅七の間もやはり 働ねばなりません さっき話したように 皆が眠ってる間やはり 働かねばなりません

 
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