主催者からマスターに 果物と献花を 捧げたいと思います それでは マスターについて少し ご紹介致しましょう 私達は今日この講演に 参加するためボストン から参りました 他に遠くから来た方は いらっしゃいますか どなたが遠くから 来られましたか どこから来ましたか ボストン 他にもいますか 誰が遠くから来ました ニューヨークですか ようこそ ボストンニューヨーク 他の都市からこの 講演会に参加する為に 本日来て下さった 方々がいますね
では私の体験を通した マスターを光栄にも ご紹介させて頂きます 一年以上前のことです ボストンのある友人 リエンヌ 歌手の ハタンの妹で 両者は マスターの弟子ですが 彼らが私に電話を してきて言いました 「フォルモサ (台湾)からの講演会を 行いたい人々がいて ヒマラヤで開悟し 在世の仏陀と 考えられている尼僧が 公開講演会をする 企画を組織したいと 考えているようです」 また彼らは霊に 憑かれたボストンのオゥラック (ベトナム)人が 祭壇のこの聖人の 尼僧の写真を見た だけでその霊は去って 行ったと言いました
おそらく過去に私の 専攻がコンピュータ 科学だったので 私の頭脳はまだ論理的 科学的な理由に影響を 受けていたので本当に 信じられませんでした 結局 私の友人は私に この公開講演会の 組織に加わってくれる ように要請したのです 私はこの組織を援助 するのは止めようと 決め 参加者とし訪れ オゥラック(ベトナム) 人の間で著名な その聖人の尼僧に ついて 誰が彼女のマスターで 祖国はどこで 両親は誰かなど こっそり探りました その後 私はその聖人の尼僧が ハーバード大学で 講演することを 知らされました
そして私がホールに 足を踏み入れた時 皆さんが見てるように 「スプリームマスター チンハイ」の語を見て 私は少し驚きました そして思いました 「なぜ無名な尼僧が 彼女自身のことを スプリームマスター チンハイと宣言する」 その日通訳者がいなく 友人は私に英語から オゥラック (ベトナム)語の通訳を 要請したのです 結果 気が進まないが 通訳者になりました そのために私はこの 聖人の尼僧の言葉を 注意深く聴く機会を 得ました また 彼女と観衆との間の 質疑応答も通訳する ことになりました
講演会場は ハーバード大学 法学部でしたので 法学部でしたので その観衆は 知的な面々であり 彼らは多くの仏教 キリスト教 神などについて 質問を投げかけました その聖人の尼僧は 明確で論理的に 返答をしました 私は彼女が質問に 答える度に蓮の花が 開くように感じました また観衆のメンバーの 多くが博士号取得者 つまり博士号を持ち ハーバード大の教授で 教鞭をとるような 人々でした 講演を聞いた後 その聖人の尼僧の 弟子になるために 印心の申し込みが ありました
最終的に私も彼女の 生徒になる申し込みを 行い彼女がどんな人か 気にしませんでした 誰の下で学んだか 出身国はどこか 彼女の背景なども それから無数の 彼女の新しい生徒達は 彼女について ニューヨークへ行き コロンビア大学の 講演会に参加しました 二日間 私がこの聖人の 尼僧に追従する間に 幾つか自分の頭脳に おいて論理的に説明 不可能な事が起きる ことに気が付きました 幾つか出来事が 他の場所で起きてたり まだ起きていない 事柄について この聖人の尼僧は 知っていて その詳細 ばかりか結果まで 先に知っていました
聖人の尼僧は非常に 簡素な生活でした 私達はニューヨークの 中華街にある倉庫の 一階と五階に 滞在しました 聖人の尼僧は床で眠り 更に簡単で非常に 薄い寝袋だけでした 私は心苦しく感じ 彼女は五階に何人かの フォルモサ(台湾)人の 弟子達と留まりました 私は出家者に対して 何か敬意が不足する 感じがしたものです でも私は後に彼女は フォルモサ(台湾)でも その様に簡素に暮らす ことを発見しました 彼女は寺院を建設する ことを推奨せず地面に 寝ていてテントで 生活をして全ての 彼女の弟子達もまた テント生活をしました
彼女の背景に関しては 外にある書籍に 記されています 私は少し参照したいと 思います 彼女はキリスト教 家庭に生まれ育ち 幼少時 彼女は父方の祖母と 寺院へ行きました 彼女は動物達に 深い愛情を持ち尼僧に なりたいと思いました でも彼女の家族は 許可しませんでした 十八歳の時 彼女は学業のため 英国へ渡り 後にドイツ人医師と 結婚しました 彼女は赤十字で オゥラック (ベトナム)の 避難民達の支援を行い 同様に他国の 避難民救災をも行う 仕事をしていました
彼女が働けば働くほど 無数の人々は助けを 必要とし増加して いくばかりです 彼女は仏陀の言葉を 思い出しました 「出家する事が最高の 功徳である」修道の 修行者が仏陀になり 全衆生を助けられると そのため彼女は夫と 離別する決心をして 尼僧になりました ヒマラヤのマスターに 与えられる 即刻開悟の その法門のことを 聞くと その聖人の尼僧は そのマスターから ダルマ(真理)を 学ぶためヒマラヤ行き バスに乗り込みました
手術を受けたばかりで 完全に回復してない にもかかわらず 開悟に到達した後 彼女はフォルモサ (台湾)へ行き 修行を続けました ある嵐の夜 一団のフォルモサ(台湾)人が 彼女を探しに来て 言いました 観音菩薩が彼らを この聖人の尼僧の元へ 行き観音法門を 学ぶように示したと いうことでした 後に 彼女は公に そのダルマ(真理)を 公開するに 至りました 体験に関していえば その聖人の尼僧からの 印心を受けて一カ月後 印心した 初めての日 恐らく私の頭脳は いまだに論理的でした
そして私は 他の瞑想の法門を 学んでいたせいかも しれません 何も 体験がなかったのです 私が光と音の 瞑想を行ったとき 他の者が 光を見ていても 他の境界の音を 聞いていてもです 最近になって 私は他の境界が聞こえ 白い光が見えるように なりました 仏陀もです 瞑想の後 私の体は 非常に快適に感じます 時々私は朝の二時とか 三時まで瞑想をします すると その朝 私は疲れることなく 仕事に行けます 法華経の 「ダルマの 教えの利益」の章でも この経典を唱える 人々が見たり聞こえる 多くの境界について 言及しています
私の精神面では 二週間後私にはもはや お金に関する貪欲さが なくなりました 人々がお金を稼ぐ話を している時 うんざりし聞きたく なくなりました しかし私の商売は 良くなり続け 以前より更に 良くなったほどでした 私の性欲は大幅に 軽減し十分の一か二に また癇癪も 数パーセントまで 軽減したほどです 霊性面で言えば 更に瞑想が好きになり 私の霊修行は 理論的部分より より実践的な修行に 傾きました
時々 私は自問します 「たった一カ月しか 経っていないけれども 私の霊修行は とても進歩した 聖人の尼僧に従う 弟子達で六、七年 経っている人々は どれくらいのレベルに いるのだろうか」と 会場の皆さん 私達の多くが 「彼女は仏陀か菩薩 または凡夫なのか」と 不思議に思うでしょう ある人々は私と同様に 尋ねるでしょう 「彼女のマスターは オゥラック (ベトナム)の誰 どこの出身故郷はどこ 両親は誰?」などです な
ぜスプリーム マスターの称号か」と しかし最も重要な 質問とは「彼女は 何を教えているか 彼女の教えは経典に 適合しているか 彼女に従い学ぶなら 私達はトントン拍子に 進歩するか 至福を得られるか 今生において 解脱に到達することが できるだろうか」です 私の個人の 過去数カ月の 体験によれば 答えは「はい はい ええ完全にはい」です 今日カリフォルニアが 聖人の尼僧の最後の 旅の停留所です 誠実な多くの弟子の 祈りによって 聖人の尼僧は ロサンゼルス サンノゼに立ち寄り 香港へと 旅立ちます 彼女は昨日到着した ばかりです
ブラジル コスタリカ などのアメリカから 彼女は元来ユーモアが ありドイツ人は彼女を 「面白い仏陀」と 呼びます 会場の皆さん 経典でも言うように 「真の仏陀の教理に 遭遇する事 開悟した マスターに会うことは 難しい」と 経典で言及している 優曇華の花は 二千年に一回しか 開花しないと されています 今日がその優曇華の 開花日です 私達はマスターに 敬意を払い 謹んで マスターチンハイを ご紹介致します 私は皆さん同胞と共に 暫しの間祈ることを お願いしたいと 思います
仏陀に菩薩に 私達のこの講演が 成功するよう加護し オゥラック (ベトナム)が全世界が 加護され私達がすぐに 真我に戻れますように 南無阿弥陀仏 ありがとうございます 私達は皆さんの ダルマ(真の教え)への 誠意と温かな歓迎に 感謝しています 私は昨日パナマから 戻ったばかりです 私はあまり眠っていず 不規則な食事によって 少し今日は疲れを 感じています 何か不足がある場合は どうぞお許し下さい 仏陀になった人の 意味は彼らの心が 仏陀になったことで 彼らの魂が仏陀に なったということです
彼らの智慧が源に 戻るということですが 彼らの体は まだ人間の体です 従ってしばしばそれは 疲れ まだイライラが 現れたりします 従って多くの人々が 時に私に尋ねます 「なぜ僧はそれほど 難しいのか」と 彼らが難しいという 訳ではありません 時に状況が特別であり 時に弟子が沢山の 質問をし過ぎるのです その質問は霊修行に 関連のない事だったり するので僧はイライラ させられるのです しかしこれらの僧が いなければ ダルマ(真の教理)は 恐らく消滅するの ではと私は恐れます 従って私達は 霊修行者を 尊重すべきです
それは私を尊敬すべき という意味ではなく 他の霊修行者も 尊重することです 私に対しては 既に尊敬などあえて 気にはしていません あえて何かを夢見る こともありません 私がただ恐れるのは 霊修行者として責務を 達成できないことです その理由で 私は講演をする前に 常に仏陀や天の加護に 祈るようにしています この講演が聴衆の 皆に恩恵を与えられ 貴重な時間を 無駄にしたり 誠実に真実を求め 努力する人々を 失望させないようにと 私はオゥラック (べトナム)語を長い間 話していませんから 錆ついています
講演の時には私は 英語と中国語だけ 話してきました オゥラック(ベトナム) 語を使うのは稀です 少し待って下さい 五分位で少し なじんできます 皆さんが来なかったり ダルマ(真理)を 聞きたくなかったなら オゥラック(ベトナム) 語を話す機会を私に 与えて下さらなければ 恐らく私は永遠に 忘れたかもしれません たぶん十年で私は 他のオゥラック (ベトナム)の言語を 話せなかったでしょう ダルマ(真理)には 多くの戒律が あります 凡人はそれらを 守ることが不可能だと 信じています
「厳格すぎる」と 昔 私が出家する前 私が剃髪をする前 出家者になる前 私は家で 修行をしていました 菜食を保持するのは 言うまでもないです これは簡単すぎます 簡単ですね 難しいですか 気にせず大丈夫です 私にとって生涯の 菜食は簡単です 皆さんの多くは少し 困難かもしれません 困難なのは食べたく ないからではなく 状況が強要したり あなたが菜食するのを 許さないことも あったり 口が強要したり食べる のを許さなかったり しばしば夫は 菜食が食べたくても 妻が料理しないとか 菜食料理のつくり方が 分からないからです 従って多くの複雑な シナリオがあります この世界に住むには 複雑でないことは 何もないのです
例えば 私は皆さんに 告白しますが 何が難しいかというと 家で霊修行を 行っていた時 ただ空に飛び出て行き 出家することは できなかったと 分かるでしょう 私は未だ戦い 自らの人間的な特徴と 習慣を克服するために 貫き通さねば なりませんでした ちょうど生まれた 時にはただ母乳を 飲むのと同じです 私達には他に飲食は 不必要です そして両親は私達に 肉 魚 米 何かを与え 始めました そして 私達が成長してそれに 慣れてしまいます そして私達は友人を 訪問したり 招待されたり いくらか飲酒し 飲酒に慣れてきます
またタバコがあり 「あなたが一服吸い」 「私が一服する」など 私達は喫煙に 慣れてしまうのです 一旦 習慣化すると 止めるのが困難です 生まれながら飲酒者 喫煙者ではないのです 従って 私達は知るべきです この世で私達がする 事は良くないことだと 単に状況が そうさせていると いうことをです 私達が悪習慣を 身につけたからで 私達が悪人ではなく 生まれながらにして そうではないことを 従ってこれらの理由や 判断で 私達には希望を 与えられます
自身を 再発見する希望を 無垢で純粋な部分を 私は自身を今 「コ」(尼僧の称号)と 見なすべきですか または「トイ」(私)と 「コ」(尼僧の称号) 「コ」なら 私が尼僧になって以来 私の立場からして それは果たされます 子供の頃から大人に なるまで私は稀に 「トイ」(私)を使い この「トイ」の言葉は (平素の私)です 私には難しく思えた 感じとして 分れ目があり距離が あるように感じます 愛情も伝えられない 感じがします よって私が子供だった 頃私は自分の名を表す 時には他者と話をする その時には 「コン」(娘) 「エム」(妹) 「チャウ」(姪孫) 「チ」(姉)を 使用しました
今私は仏教尼僧でただ 自らの仕事をします 自分自身を「コ」と 表し「比丘」の意です 私はあなたの叔母でも 伯母でもありません 皆さんは私達の両親で 兄弟で姉妹です 私達自身を「トイ」 (私)と表すなら 私達の両親と共に 更に場違いでしょう 私達自身を「トイ」 兄弟姉妹とするなら 距離がありすぎます それで私の立場を 状況に応じて適用し 活用するのです 分かりますか 私自身を「コ」と表す と考えないで「コ」 あなたの(叔母か師)で そうではないのです または自身をチンハイ と呼ぶべきですか
これもまた少し 不思議な気がします この期間の間私は この「仕事」を 請け負ってなく又は 霊性の師という仕事で 私は家で修行しました 菜食者であることは 言うまでもありません 通常私達がいわゆる 修行するとは 在家の仏教徒とは 私達は普通に修行する ことでしょうね 寺院へ行き 仏陀を崇拝します 供物を捧げ 僧たちへ 仏陀へ供養します 献花 果物 何でもです そして私達は菜食をし 家に帰ります しかしある日 私の初めての先生は 仏教徒の尼僧でしたが 私に五戒を守るように 強制しました
私は「なぜ 私は既に 菜食ですし 修行もしています 既に良いでしょう なぜ五戒を守らねば ならないの」と尋ね 彼女はこう答えました 「まだ不十分です 五戒を守ってこそ あなたは善良です」と その瞬間私達は戒律を 守るその時ですが 私達の恐れでも ありました 通常私達は自分は 大丈夫だと思います 毎日 私達は菜食をし 真の仏陀になり 仏陀を拝みに お寺に行きます 僧侶にお供え物を 捧げて あれこれ 布施をしますが なぜ戒律を受入れ なければなりませんか その尼僧は私に戒律を 強制的に与えました
長い間 戒律無しで 仏教徒でいるのは 正式ではないと 言われました そうですか それで私は言いました 「ええ戒律を受け入れ 私は冷静です」 それで私は戒律を 授かりました その儀式の間 僧侶は机をピシャッと 叩いて「ではあなたは 受け入られますか」 私は震え 後で私が 受け入れられないのを 恐れました こんな感じです 五つの戒律があります 私は本当に長い間 すでに菜食なので ただ続けます 最初の戒律は 殺生をしない これは簡単ですね
「私達は人を殺さない 動物を殺さない それでいいのだ でも他の人々は私達が 食べるために殺すのは 何も悪くない」 私達はそう考えますね 「私達は汚い仕事は していない 他の人にさせればいい それで構わないのだ」 だから第一の戒律は 非常に簡単です 私達は即「OK」です では二番目の戒律は 何ですか 盗みをしない 非常に非常に簡単です 簡単過ぎます 簡単すぎると思います では三番目の戒律は 邪淫をしない 邪淫をしない 非常に非常に簡単です 大丈夫 簡単ですよね ちょっと まあ簡単ですし 難しくもあります 構いません いいです 大丈夫です
目を閉じて 無視するだけ ええ 四番目の戒律は 何ですか 嘘をつかない 五番目の戒律は 酒を飲まない ですね(はい) そう 私は二つの戒律に 引っかかりました どこでひっかかったか 分りますか 私は主婦で髪を 巻いていました 私は直毛でしたので オゥラック(ベトナム) 女性は直毛なので 私は髪を巻いていた のです それで私は 嘘をついてる 人を 騙してると思いました 直毛だったので 可愛くするため 巻きに行きました 嘘つきだと思いました
それから私がまた 引っかかったのは 化粧です 顔色が悪かったので 化粧をしていました そうでしょう 黒や青色や 赤色を塗ってました 嘘だと思いました それでその僧侶が 三回目に尋ねたとき 私は黙ったままでした 僧侶は三回 尋ねたのです 一回目は 「できますか」 そしてこのように バンと叩きました 私はドキッとしました 再びバンと叩きました 誰もがそのように 三回答えました 分りますか そして戒律が正式に 与えられると みなします
つまり 決心を意味しています 僧侶が最初に尋ねた時 私は座って 考えていました 分りますね 二度目に まだ考えていました 三度目は 私は 黙ったままでした 私はすべての 要件を満たしていない 十分ではないと思って いたから戒律を授かる 勇気がなかったのです 幸いにも 高潔な尼僧が 私に話しました 去る前に尋ねました 「戒律を受けられない ならどうなるのですか 多くの戒律を受け入れられないのなら」と 高潔な尼僧はこう 答えました「自分が 受け入れられるどんな 戒律にもはいと言い 受け入れられないなら ただ黙るのです」 それで私は簡単と思い 中に入って静かにして いました 構いません その結果 私は二つに 沈黙し続けました 五つの戒律を授かる ことになった仏教徒が 二つの戒律の五つの内 二つに沈黙しました
では残りは幾つですか きっと他のも同様に 黙ったでしょうね なぜわざわざ厄介な ことに直面するのです なぜですか マスターは私にそう しろと強いったのです 尊い尼僧は 私がすでに菜食であり 法(真の教え)の仕事で 僧侶と尼僧を 大変助けたので 私が戒律を 受け入れなかったら 尼僧は面子を 失うからです 面子を失うと言われ たのです 分りますか 通常 私達オゥラック (ベトナム)人はそんな 特質ですよね 誰もがそうです オゥラック(ベトナム) 人に限らず 何でも 形式的なことが 好きです それで尼僧は尋ねます 「戒律は 受け入れたのですか 帰依しに行ったの」
そうですね 行く所は 何処もいつも尋ねます 「帰依しに行ったの どのマスターに 帰依を求めたの」 私達が帰依を しなかったと言えば どんなマスターも 得ていないことで 私達を 仏教徒ではないと 半分仏教徒 半端な 仏教徒と見ます それで「戒律を 授かりに行く」のです 私は沢山は 授かれないと すでに知っていました 私は冷静と言いました でもそう言っただけで 沢山授かれないと 知っていました まだ飲酒をしてました その頃 私は菜食でしたが お酒を飲んでもいいと 思っていたのです
菜食をして ワインを飲んで 殺生に係わってない そうですね飲んでも 酔うまで飲んだ訳では なく 私は当時まだ 結婚していたからです 夫は医師で 友人が沢山いました そして時々友人を 夕食に招いたり 私達が招かれたりで 私達がほんの少しも ビールなどを 飲まなかったら 私は お酒が好きではなく 飲むのは嫌いです でも彼らが 少し注ぐので 私達が飲まなかったら 彼らは・・・ 習慣はそんな感じ ですね
分りますか 西洋人や 霊修行者でない人は それが普通と思います 「少し飲んでもOKさ」 私は決して酔わず ほんの少し飲みました でも私が飲まないと 言ったら 私が家にいる時 何が起きますか 夫が私に飲ませるのを 恐れたり 乾杯が終わらないのを 恐れたり 飲むのを 止められないのを 恐れました その結果私は二つの 戒律に黙りました その時 私は 「戒律」の意味を 分っていませんでした 私は菜食は 良いと思っていました 私達が酒を 飲まなければ 良いと思っていました
または私達が 化粧をしない等のみが 真の修行者だと 思っていました 「私はまだ化粧を しているから 真の修行者じゃない」 ですが今思うと 少し違います 少し違うと思います 仏陀の最初の教え みたいに 何でしたか 殺生をしない そうですね でも私達が正確に サンスクリット語を 訳せばそれは 「非暴力」です 「非暴力」とは 暴力を 物理的な 力を使わないことです それで私達は非暴力は 誰かが私達を叩けば 私達はただ座り 受けるだけで みな血だらけになり 顔は強打されます ただ座るだけです
けれども法に 従っていません 法は人を守るためで 人が法を守るためでは ありません 例えば 暴力を 振るわないと言います でも誰かがやって来て わが子を叩いたり 所有物を奪ったり 妻や子を強要すれば 私達は黙って いられませんね 守るためにはあらゆる 力を使うべきです または溺れた人を 助ける時に 叩いて気絶させないと いけませんね 分りますか 叩いて気絶させないと その人は私達を 窒息させて死にます 溺れた人は 本当に生きたいので 誰かが来るのを見たら 私達にしがみつきます しがみついたら くっついてきて 私達は泳げません 泳げなくなって 両方が溺れます だから私達は後ろから ここを叩いて 気絶させるため 一打します その場合「暴力行使」 ではありません
最初の戒律はただ 憎しみや復讐の感情を 抱いてはならないと 知らせているのです それには私達は 異議はありません 私は少しだけ 理解しました 過去に 私は 戦わないなら 暴力を使わないなら 誰かが私達を叩くなら 座って撲殺されると 思っていました ですが まったく 暴力を振るわない 天の衆生や聖人が います 叩かれても ただ座り 仏陀 釈迦牟尼仏陀のように 死んでも構いません または観音菩薩が 何度も地球に 現れたとき 多くの 不正に苦しみましたが 抗議しませんでした
イエスキリストも 抗議しませんでした 私達が抗議しようが しまいが 悪いカルマ (報い)は残っています 私達がこの世に 生きていて いつも沢山善行をし 天や仏陀を 敬っても 苦しみがあり 転生 しなくてはいけません それで私達が 転生を避けたいのなら 私達は少し 高い方法をすべきで 仏陀と天と一体になる ということを すべきだと いうことです 仏陀と一体になるとは どういう意味でしょう 例えば 私達は仏陀や天と 繋がりますね どうやって 繋がるのでしょう 例えば 仏教経典ではこうです
「崇拝者と 崇拝される者は もともと 空であり静である 法(真の教え)と その応答は 想像し難い方法で 結びついている 宝庫の金剛座は インドラの真珠 十方の仏陀は その内に現れる 私の身体はすべての 仏陀の前に現れる その足元に礼をし 私は崇拝の中 わが人生に戻る」 仏陀と天と共に 私達がこの 「私の身体がすべての 仏陀の前に現れる」 境地のとき こう言えます その足元に礼をし 私は崇拝の中 わが人生に戻る つまり仏陀を明確に 見るということで その時に私達は 仏陀に敬意を払います
でもしばしば 私達は仏陀を明確に 見たことがないので 私達が 仏陀の功徳と 天を思い出すよう 木製の仏陀や 青銅の仏陀に 敬意を払います 仏陀が修行していた頃 教理の類や 仏陀の修行法を 思い出せば 私達は仏陀になれます それも構いません ダメではありません 時々 私は弟子に言います 私の弟子に教えました 木製の仏陀を 崇拝してはいけないと でも私は数人に 言っただけです すべての人に 適応していません 寺に行って仏陀を 拝みに行くのを反対 する訳ではありません 違います 違います
仏陀を崇拝するのは 寺によく行くのは 大変良いです でもある人たちには 頭脳がこの「仏像」に 非常に執着しています 分りますか だから私は言いました 「これらの仏陀を 拝むことにまったく 福徳はありません」 なぜならこの特定の人達の一団は 私が言わなかったら 自分達の先入観を 乗り越えることが できないからです 分りますか 彼らは仏陀とは 木像や銅像だと 思っています これは間違った 概念ですね 正常で知的な人には これを 受け入れられません
ですが 「それは仏陀だ」と 受け入れて 何でも持ってきて お供えしてその仏陀を 見つめる人々がいます 私達は仏陀の功徳を たたえ 自分自身に 霊修行を 思い出させるため 仏像にお辞儀をします そこに座っている 木製の仏陀に 執着してはいけません そうなら 各寺に 多くの仏陀があるので この世は 仏陀だらけです そして私達は 浄土を探しに行く 必要はありません 木製のを買って来たら それで十分です 私達が誰かが 菩薩や 仏陀 あるいは天の衆生に なったと聞けば その人達だけが 達せられると思ったり 釈迦牟尼仏だけ あるいは観音菩薩だけ しかいないと 考えます
そうではありません 法華経を思い出せば こう説いています 「どの時代も 多くの仏陀と菩薩が 真の法を守るために 現れる」 いわゆる 「トゥンディアズン スゥアット」 「地球から湧き出る 者」の観音菩薩は 真実が広く伝播されて 失われないように 守ります 地球から上がって来る その菩薩たちとは 誰でしょう 私達以外他にいません 私達の体は地球のもの そうですね 私達は地球から 生まれました 空から 落ちてきていません つまり 地上の境界に 生きることは そんなことです それが意義です
それで私達は 地球から出て来る 菩薩であると 明白に知ることが できるある種の方法を 見つけねばなりません あるいは少なくても 一緒に学べる 地球から出て来た 菩薩がいるかどうか 確かめねばなりません 仏陀はそれを明白に 言いました 私達は ただ木製の仏陀を 拝むことに時間を 費やせますか そうですね 仏陀があらゆる時代に 現れると約束した 生ける菩薩を探す 絶望をなぜ 抱かないのでしょう その菩薩たちは ガンジス川の 砂のようです 「ハンハサソ」とは ガンジス川の砂と 同じ量のようです
私がインドに行った時 ガンジス川が大きくて 非常に長いことに 気付きました ですからその砂の数を 全部数えれば どれほど長いかが 分ります 見に行かないなら どんなに無駄か それで仏陀はすでに 大変明白に言ってます ですが いったん それを見つければ 仏陀の言葉の 意味を理解します 仏陀の意味することは あらゆる時代に 常に菩薩になる 感覚ある衆生が いるということです あらゆる時代に 常に仏性があります 仏性は決して 消えません 私達には千分の1秒 必要なだけで 何か秘密の方法を開き 私達が即座に本当の 自分を知るのです
あらゆる時代に 常に仏性があります 仏性は決して 消えません 私達には千分の1秒 必要なだけで 何か秘密の方法を開き 私達が即座に本当の 自分を知るのです ですから仏陀は こう言ったのです 「感覚ある全ての 衆生には仏性がある 全ての感覚ある衆生は 私と同じであり 違いはない」と ですから ある人は 思います「なんと 彼女は仏陀になったと どうして言えるんだ」 「なぜこの人は自分は 仏陀になったと言う」 仏陀になることに 何ら不思議なことは ありません
仏性はすでに私達の 内面にあります なぜ ただ私達が 忘れているだけで 思い出せなかったり 発見しなかったり 劣等感が強すぎるから なのです 私達は その人だけが 自分より偉大で 自分より素晴らしくて 私達には絶対に できないと思ってます 講義の最初に 講義の最初に 私がひっかかった 二つの戒律について お話しましたね 私には化粧をする 時間があったからです 私達の社会が求めて いたからです 仕事が私達に化粧を させ 自分がきれいに 見えたいと思うのでは ないです 分りますか
従って 外面の生活は 私達の魂にあまり 影響を与えません でも当時私は行き詰り 私の先入観のせいで ひっかかっていました 仏陀が私を気にした 訳ではありません 嘘をつかないと言えば たぶん守れたでしょう でも私はまだ顔を ピンクや赤色や青色に 塗っていたので 戒律は守れないと 思ったのです 嘘をついてることだと 思ったのです でも私達が戒律に あまりに極端なら いつ 霊修行ができますか 考え続けるでしょう 「まだ修行できない まだ」 いいえできます できない人はいません
時々私達は 自分のレベルが 分からないことがあり 時には劣等感を持ち 自分自身を 低めているのです しかし これは悪い 特性ではありません 悪い習慣ではないです なぜ私達にこのような 劣等感があるのか おそらく 洗脳され 過ぎているのです 例えば 「あなたのした事は 悪い事です 良くない あなたの行為は悪い」 私達は「悪い事だ」 「良くない事だ」と 考え続けるのです しかし はっきり 解析するなら 何が良くないのですか 良くないのは動機で その行動ではないです 分りますか 動機です 例えば 自分を とても美しく させたいなら 他の人の家族を 台無しにします 分かりますか それで私達を見る すべての人は世界の 美人コンテストの 優勝者だと見ます それは良くない事です しかし 他の人も 使っているので お化粧をするなら 私達もお化粧して 皆と同じように見え 仕事に行く時 人がそれを見ると 少し可愛いく見えて 安心します
雰囲気が少し よくなります 世界は既に 醜くなっていますね 世界には 良いものがもうない ように見え 自身を もっと魅力的でない ようにします 真理 美徳 美しさでは ありませんね ですから 少しの お化粧が問題ないです しかしその当時私は まだ分りませんでした それでも仕事に行き まだ結婚していました 例えば 結婚して お化粧をしなくなり ご主人があなたから 離れたら あなたのせいです 分かりますか ですからお化粧だけは してもいいです 結婚生活を守るべき そうですね 外では誰もが お化粧をします
お化粧をしないと 魅力的ではなく ご主人が浮気したら どうしますか これがこの世界の 人間の美点なのです まだこの世界で 生きているなら 自分をこの世界用に 美しくするのです この世界を放棄 するなら もちろん しなくて良いです お化粧をすることで 誰が守ってくれますか 分かりますか 今 私達は 出家の修行者です お化粧はしません なぜでしょう 自身を守るために お化粧するのではなく 私達がまだ 在家の修行者なら お化粧をして 自分を守り 地位 仕事 家族を幸せに 保ちます しかし いったん 出家の修行者に なったら 違った防備があります 化粧をしないのです 化粧をしたら とても美しくなり 人があなたの所に来て 結婚したがります あなたはどうしますか
そういう事が 厄介なのです ですから 在家者には 独自のルールがあり 出家修行者にも独自の ルールがあります これらのルールは 自分自身を守り 状況を守り 平穏を 守るためにあります 分かりますか ですから大抵の場合 法律は社会を 守るためにあります 例えば 私達は盗みをしません 本当のところ 盗んだとしても 仏陀はあなたを 責めたりしません 怒る必要がありますか 仏陀は愛しか 知らないのです 怒りは知りません しかし 盗んだら 逮捕されます 分かりますか 逮捕され 手錠をかけられ 刑務所に入れられ 罰せられます
あなたは苦しみます 仏陀が私達を禁じてる 訳ではありません 因果の法が私達を 禁じているのです ですからこの法律に 関して 大抵の場合 状況に合わせて 検討すべきなのです 例えば とても 貧しい人の場合 彼は最善を尽くして 仕事を探していますが 一つも見つかりません 分かりますか まだ仕事がありません しばしば彼の子供と 妻は空腹になり 家族のために 彼は食料を盗みました 私達は彼を罰する ことはできませんね ですから守るべき 法律があるのですが 時には 誰かを罰したい時 もう少しはっきりと 見る必要があります
例えば 仏陀が在世の時 ヤクシャ(悪魔)と 呼ばれる者がいました なぜヤクシャと いうのでしょうか 彼女はとても醜くて 容姿が醜かった せいです ヤクシャには 息子がいて 息子を とても愛していました 悪魔は子供の 愛し方を知らないと 私達は思うでしょう 人間だけが子供への 愛し方を知っていると 私達は思いますが 悪魔も子供の愛し方 知っているのですを トラも幼獣の愛し方を 知っているのです ですから すべての 生き物には心があり 良い点もあることを 知るべきです 例えば トラも 幼獣の愛し方や 守り方を知っています ですから 完全に 悪いものも良いものも 何もありません 私達の善良さを守り 品性をもっともっと 毎日成長させてくれる 唯一の方法があります
私達が成長するに連れ 私達は高いレベルに 進歩しています それを仏陀の域に 達するというのです 分かりますか 自身の知性 智慧を 最高のレベルまで 育てるのです それを仏陀になると いうのです
自身の慈悲を 最高のレベルまで 育てることを 仏陀になるといいます
そうでなければ 一人しか到達できず 誰もできないという いわゆる神秘はない 仏陀は言いました 「私は仏陀になった あなたも仏陀に なれる」と イエスキリストも 「私が今日した事は あなたは将来 もっと うまくできます」 分かりますか 仏陀が在世の時 ヤクシャ(悪魔)は よく 他の人の 子供を捕まえては 食べていました 彼女は既に沢山の 子供を食べていました それで 子供達を 捕らえられた人々は 仏陀に援助を 求めて言いました 「どうにかこの悪魔を 捕えて下さい 彼女を 殺すか何かをして 彼女をやっつけて でないと彼女は全ての 子供を食べてしまう」 一旦仏陀になったら 人は殺せません たとえ悪魔であっても それで仏陀は言います 「悪魔の息子を捕まえ ここに連れてきて 彼を隠しなさい」 捕らえて隠すのです 彼女の息子がいなく なると悪魔は 彼らの後を追いました 彼らの後を追い続け 彼女が追いつくと 彼らは姿を消しました
彼女は仏陀に尋ねた 「主よ 息子がどこに 行ったか見ましたか」 仏陀は聞きました 「なぜ彼を探すのだ 彼が去るならば 彼は去った なぜ彼を 見つけねばならないか 去ったなら去ったのだ でないならそうでない どうして 彼を見つけ なければならないか」 悪魔は叫びました 「ああ なんという 私はとても苦しんでる 彼は私の息子です なぜ私に彼を探すかと 理由を聞くのですか 私は苦しんでいます 彼がいないと 私は 苦しみ 耐えられない もう生きていけない 息子はどこか知って ますか 教えて下さい あなたは慈悲深く 情け深いお方です あなたは・・・ あれこれ言いました 仏陀は言いました 「息子を失いそうで 大変苦しんでますね」
彼女は答えました 「とても哀れです あまりに苦しんでいて 耐えられません」 すると仏陀が尋ねた 「では あなたは毎日 人の子供を捕らえては 食べているが 彼らは 苦しんでいますか」 その時 悪魔は 悟りました 彼女は「その通りです
息子を失って 私も こんなに苦しむのだ 子供達を失った 他の人も 苦しんでるに違いない 今日 私は懺悔します 今後 私はもう 他の人の子供達を 捕えません 息子がどこにいるか
分るなら教えて下さい 今後もう人の子供達を 捕らえて食べないと 約束します」それで 仏陀は彼女の息子を 連れて来て返しました 仏陀はこんな方法を 使って人々を救います 彼は誰も 非難しませんでした 仏陀がは人々が 罪を犯すことを 知っていたからです どんなに深刻でも それは道徳への 無知と理解不足の ためなのです いったん理解すれば だれでも悟って 仏陀になることが できます その時以来 そのヤクシャは 護法になりました
そうですね 悟っていないとそれは 「守る」と言います それで「私は凡人で 仏陀ではない」と 思わないで下さい 毎日ただ仏陀を 崇拝しに行くだけで 私達が仏陀になれる ことを忘れています 仏陀を崇拝することは 非常に良いことです 仏陀を崇拝することに よって 私達は 仏陀の功徳 良い品性 教理を思い出す ことができます 彼の霊修行を 思いだすことによって 私達は修行を 貫くことができます それは非常に良い事で 悪くはないですが
「衆生が仏陀の 智慧を理解するのを 助けるために 仏陀は 地球に下りた」ことを 思い出すべきです 私達はいかに仏陀の 智慧を理解するのか 仏陀は言いました 「仏陀だけが 仏陀を理解できる」と あるいは 最高の菩薩だけが 仏陀を理解できると ですから私達が仏陀の 智慧を理解したいなら 「ファトトリキエン」 とは私達ははっきりと 仏陀の智慧を理解 したいという意味です ならそれを理解する ために私達は仏陀か 少なくとも菩薩に ならねばなりませんね
仏陀は言いました「仏陀がこの世に 来るのは 衆生に 仏陀の智慧を 理解させたかった からである」と 仏陀の言う意味は 「私がこの世に 来たのは 衆生に仏陀になって ほしいからだ」 分かりますか 仏陀がこの世に 来たのは崇拝され 供養されるためでなく つまり衆生からの 供養に貪欲だったから ではありません でも彼はこの世に来て 衆生に自らの仏性を 理解してもらいたいと 思ったのです 彼らも同様に仏陀に なれることを知って もらいたかったのです ですから後に 釈迦牟尼仏が 涅槃(極楽浄土)に入り 摩河迦葉は成功し それは仏陀になったと いう意味です
それはこのように 理解すべきです 釈迦だけが仏陀に なったのではないと ですから釈迦牟尼仏が まだ涅槃(極楽浄土)に 入定していなかった時 彼は既に 摩河迦葉を招き 彼を横に座らせ 弟子達に 宣言していました 「私が到達した所に 彼も私と同様到達した 彼は私と同じであり そこに違いはない」と この意味は誰であれ 仏陀になれることを 知らせることです 仏陀は唯一の人では ないのです しかし仏陀を信じる ほとんど多くの人々は これを忘れています
彼らは忘れてしまい 仏陀になったと 言う人を見ると 彼らは呆然とします 「何とおかしなことを 言う とても傲慢だ」 ですから釈迦が 仏陀になった時 彼らは信じられず 多くの人々は 信じませんでした 同様にイエスも 「私は神の息子である」 「神の息子」の意味は 「仏陀と私は一つで 私達は平等だ」です そういう意味です 大抵 国は皆 異なり 彼らの話し方も 異なります それは私達には 馴染みがないです 「神」の意は「阿耨 多羅三藐三菩提」で 最高の仏陀の意味です 分かりますか 最高の仏陀は 全ての他の仏陀を 上昇させます
いわゆる古代の仏陀で 最高の仏陀は よく知られる 「阿耨多羅三藐三菩提」 その意味は 「最高の均衡が取れた 真理の正しい状態」で 意味は唯一のものです つまり「真の開悟」 ということです 分かりますか 「阿耨多羅」の意味は それ以上高いものは ないのでこう呼びます 「最高の完璧さ」 「三菩提」の意味は 真理の完全な理解 ということです このような存在だけが 最も開悟していて 最高を知っていて いわゆる古代の 仏陀と言われます
つまり「阿耨多羅三藐 三菩提」のことです 「神」と呼ぶ 他の人々もいます それだけ 分りますか 言語の使用法は 若干異なります ですから釈迦が 仏陀になった時 彼は言いました 「私は仏陀になった」 多くは彼を信じません 「どうして仏陀に なったというのか 私の同じ人間なのに どのようにして仏陀に なるというのか」 でも彼を信じる人々も いました
イエスキリストは 「私は神の息子です 私は完璧なものと なった」誰も彼を 信じませんでした 誰も彼を信じない のではありません 信じた人もいました でも多くの人々は 信じませんでした だから彼を十字架に 磔にしました なぜ それは 私達は仏陀が 私達の内にいることを 忘れてしまったからで 私達は聖書が言及する ことを忘れます 何を 「神の王国は内面に ある」そうですね 仏陀だけがそれを 言ったのではないです 私達は仏陀が衆生を 欺いたのではと 思いました
聖書も言っています 全く同じ事をです 「神の王国は私達の 内にある」分りますか 「神は私達の内にいる」 聖書は言います 「私達の身体は 神の神殿である」 「神は私達の内に宿る」 そうではないですか そして仏陀も 同じ事を言います 仏陀は言いました 「仏陀は内面にある」 「この身体は寺院だ」 私達は忘れています ただ忘れているのです 自分達が菩薩である ことを忘れています 自分が阿羅漢である ことを知りません 私達は非常に崇高です ですからどんな仏陀も 常にこの世界に来て この事を衆生に 思い出させるのです
「あなたは仏陀です 忘れないで忘れないで 忘れないで」と でも私達が再び 思い出したいなら どうすべきでしょう 思い出すのは 非常に簡単です ただ開悟が必要で それで思い出せます ただ夢を見ている ようです 私達は 多くの悪夢を見ますが 誰かが私達を起せば その夢は消えます 本当に簡単です それではなぜ私と共に 修行する人々は 日々進歩して いくのでしょうか ちょうど 先程の紳士のように 私が彼をそこへ行かせ 賞賛しあなたを誘惑し 学ばせようと しているなどとは 考えないでください この事は私は 初めて聞いたのです
何であれあなたが 聞いた事は私も同じで 昨日から今まで私は 彼に会った事はなく 私はパナマから 到着したばかりで眠り 今日彼に会いました 彼もボストンから 到着したばかりです 私が全て手配したと 思わないで下さい いいえ 違います ですから 先程 話をした紳士は たった一カ月 修行しただけですが 多いに進歩して 彼の性格も変わり 性欲は軽減し 食欲も睡眠欲も お金に対する欲望も 軽減したのです なぜでしょう 開悟の扉が 開かれたからです 彼はお金よりずっと 輝かしいものを 知ったからです
この世俗の世界より 優る事を 睡眠 食事 より世俗的な快楽より 優るものです 分りますか 彼は知り 徐々に自分が誰なのか 知ります 彼自身が 崇高であることを ですから性格 習慣 誤解などは 消滅していきます ちょうど太陽が昇ると 暗闇は消滅せねば ならないのと同じです それだけです 私に幾らかパワーが あるとか 彼を仏陀に 変える奇跡を起こす 魔法が使えるのでは ありません いいえ彼自身が 仏陀に変わるのです 分かりますか ですから あなたが修行する時 智慧はあなたのもので 仏性はあなたのものだ ということを 理解すべきです
ある教師がそれを 与えるのではないです そういう理由で私は 受け入れないのです 誰かが供物を捧げると 私は恥かしくなります あなたの誠意を表わし 私を歓迎するために 献花 果物を捧げてれ 下さいます それで私は幸せになり 少しここのオゥラック (ベトナム)の人々が 温かく本当に私を 愛して下さっています こうは思いません 「私は今 仏陀なので 皆が私に供物を 捧げている」とは そうではありません 非常に恥かしがり屋で 誰でも私に尊敬を表し 沢山称賛する人に対し 私は本当に恥かしく なってしまいます
大した事はしていない と思うからです 仏陀になるのは 或いは菩薩になるのは 非常に自然です 皆自然なことです 私達が訓練できる ことは何であれ 私達がなれるものです ですから何も誇りに 思うことではなく 例えばあなたが医者に なる勉強をするなら 十年勉強したとしたら あなたは 医師になります 数年 法律の勉強を したなら あなたは 弁護士になります 仏陀になる勉強を したなら私達は仏陀に なるでしょう あるいは時に誰かが 言います「マスターが とても偉大だから そのため彼の生徒も 偉大です
きっとマスターが 彼らを加護するか 何か与えているから」 いえ 違います 自身で与えるのです 修行すればするほど パワーを得るのです 修行すればするほど 私達は更に知識を 得られるのです その知識は・・・ 一旦私達がその知性を 活用すればいわゆる 私達の人生は手配 されます 分りますか 私達に必要なことの 面倒を見てくれます 私達がその中で 見出だす状況は 手配され 私達の人生は 日々良くなり それで 私達の生活は日々 より明確になります 私達にはどんな疑いも 明確になります
一旦知性を活用すれば 私達の智慧が 開くからです 仏陀や神が私達に 与えるのでは ありません 本当にそんな感じです もちろん 道を開く どんな先生や仏陀にも 私達は感謝します それは正しいですが そうではありません 彼らは私達には 与えません 私達は自ら学んで 卒業するのです 例えば 薬剤について学ぶ時 それを教える 専門家がいます それで感謝しないと いう訳ではありません それは先生の仕事で 私達が医師になる 方法を教えることで 薬剤の使い方を 見せることに努力し 苦労するからです
しかし私達も自身で 学ばねばならず 努力をします 勉強し 研究し 大変熱心になって 毎日徹夜で 勉強しますね 沢山実践をこなして そして医師になります 医師がそこに立って 「アブラカタブラ」と 呪文を唱えたら 私達が医師に 変身するという 訳ではありません ですから私達が 医師になるときは 私達を教育する 熟練医師を崇拝する 必要はありません 勉強してそうなるのは 自身の知性なのだと 知るべきです 同様にです まさにそんな感じです
私達は教師になるため 教師に学びます 相手の奴隷になるため 学ぶのではありません 私達は 奴隷になるためでなく まさしく仏陀のように なりたいために 仏陀に学びます 私達が仏陀に ならなかったら仏陀は 大変悲しむでしょう 何度お辞儀をしたか 関係ありません まだ泣いています 例えば 私達は 医師や専門家に教わりますね
そして長い間勉強して 医師になれません その医師は うれしいですか また毎日私達が お菓子や 果物 お花を 贈ってこう言います 「あなたは最高です 最高で素晴らしいです よく教えて下さいます あなたはこの世で 唯一の医師です」 そしてペコペコして ほめ称え続けます そうやって毎日 ペコペコします 相手は好みますか まったく違いますね 私達に自分のような 医師になって欲しい 他の人を助けるために 後継者になって欲しい あるいは他の人に 衛生や体のケア方法を 教えたり 病人を 助けて欲しいのです それで幸せです そうですね
私達がお金を あげなくても とても幸せでしょう 医師は生命を 救いたいからです 誰かが医師になって 他を助けるのを見れば その医師は 大変幸せです でないと ただ絶えず ペコペコするなら 何も良い事をしません 私はどこに行っても 同じことを言います こうも言います 「仏陀になるのを 忘れないで」と 仏陀になりたいなら 大変効果的な 方法があります 例えば 私達が 仏陀になりたいなら 仏陀の修行方法を 学ぶべきです 医師になりたいなら 医師になる方法を 習うべきですそれだけ それに関してなにも 変なことはありません
仏陀になるのを学ぶ 上で 方法があります この人がその道を 知らないなら 別の人を探します その人が知らないなら 別の人を探して 尋ねます 「どちらが仏陀になる 方法か 知って いますか」と尋ねます 「いいえ」と言えば その人は知らないので どこか他へ尋ねに行き ちょうどある大学を 探していた おじさんのように 「この大学は 医学校ですか」 「いえ違います」それで 別の学校を探しに行き その学校が違うなら また別の学校を 探しに行きます 誰かが医師になれる なら 私達もなれます 単になりたくないから ではありません
なりたいとなれるかも それで何度も 仏陀になるよう学んで 仏陀になる方法を 知っている先生を 探して教わります それだけです いったん習い始めたら 自分自身で 仏陀になることを 知らねばなりません どんなマスターも 仏陀に変身させません 法華経はこう説きます 「どの時代にも 法(真の教え)を 守るために現れる 無数の菩薩がいる」と なぜ菩薩たちを 探しに行かないのです どうして私達の 頭脳に一つの疑問も ないのでしょう 仏陀がそう言うなら その菩薩たちは どこにいますか
毎日私達は 仏陀を菩薩を 見たいと願いますね だから私達は仏陀を 拝みに行くのですね 本当に仏陀に 会いたいのです 私は大変熱心な人を 大勢知っています 仏陀を拝みに行っては 本当に仏陀に 会いたいと願います 「少なくとも夢で 少し見せて下さい」 そうですね それは 仏陀や菩薩の 話を読んで とても 感動したからです 仏陀の話は 並外れているからです 彼らに関する話は 大変感動的で彼らに 大変愛を感じるからで 「わあ ほんの少しで いいから 仏陀を見てみたい」 「一瞬でいいから 会ってみたい」 そうですね 皆がどうか分りません
でも私は仏陀の 物語を読むたび いつもそう思います 私は言います「仏陀と 一緒に住んだ人々は 沢山の功徳がある どうしてその人たちは そんなに幸運なの 毎日仏陀のそばにいて 話を聞いて 見ることができる 私はどうなの 私は生まれた後に 誰にも会えないの」 それで私達の心は 本当に切望します 熱望するなら 経典を読むべきです 経典を読めば分ります 「どの時代にも 無数の仏陀と 菩薩がいる」 ではなぜ私達は 探さないのでしょう でも遠くに探しに行く 必要はなく 私達が 仏陀 菩薩なのです
少なくとも 私達は 菩薩であり阿羅漢です 自分が誰なのか 知りたいなら 開悟すれば分かります そうでないなら 神秘的なものは 全くありません 仏陀になることは 大変自然に起こります 菩薩になることは 大変自然に 起こります 時々 私達は 智慧や善や 功徳をこの世に与えに より高い境界から この世に転生します 分かりますか たとえ 私達が真理を説く 必要がなくても 智慧で動物や 無明な人々が少し 上がれるようにです 大勢の仏陀や 菩薩が説教をする 必要はありません 私達が霊修行をすれば 自然と光を得ます
その見えない光は 私達の身体中 四肢まで広がります 修行すればするほど より大きく 長い光で 宇宙をさらに取り囲む 取り囲みます 誰でも私達の光の中で 歩く者はまたは 私達に出会えば この光によって 自然に変わります 彼らの幾らかの無明を 浄化します 徐々に 彼らはそのように 自動的になります 彼らが沢山の 仏陀や菩薩に会った時 彼らの智慧は日々 成長していて いつか彼らは 仏陀になるでしょう 彼らが仏陀だと 気づくのです
または 彼らが 最後の先生に会い 秘密を教えてもらい 仏性に気づくのです 彼らはすぐに 仏陀になれます または 数年後に 彼らは仏陀に なれるのです 釈迦牟尼仏は 六年修行をしました そうですね 六年で 仏陀になりました たとえ 遅くても 最長で六〇年です
私達にできないですか 彼の秘密の方法は 何であれ 見つけるべきです 見つけねばなりません 過去に 秘密の方法は 存在しないと 思っていましたが あることを知りました とても簡単です それは「仏陀は私達の 内面にある」ので 他に見つけられる 所はありません 「仏陀は内面にある」 と思っているから ただ 文字通り 理解しますが 本当だと思いません 「仏陀は内にある」 ですから仏陀が 内在するのは本当です 仏陀がどこにいるか 分かるのですか 仏陀が何か 知っているのですか
開悟と共に すぐに分かるでしょう ですから何度も 他の人を教える時 仏陀は内面にあると 彼らに教えると 誤解や考えがあります 「そんなことが ありえるのか」とか 「なぜ嘘をつくのか」 「この女性は人を 欺いている」と 私は騙していますか 仏陀は既にこう 言いました「仏陀は 私達の内にある」と 秘密を知ったら 見つけられるでしょう それだけ そうですね ですから私達が いわゆる無明の時 その表現が理解できず 他の人は 仏陀になれないと 思ってしまいます 一度理解したら 私達は仏陀になれると 思うのです 誰でも 仏陀になれます
仏陀とはなんですか 智慧のことです 例えば 科学は私達が 脳のたった5%しか 使ってないと証明して 私達はまだ95%も 使ってないのです 使ってない95%を 発達させられたら 私達は仏陀になります 今 脳の5%を 使うだけで 沢山の事を理解します 沢山の言語を 学べます テレパシーも使えます 時に5%を使うことで 沢山の奇跡的な 能力を得られたり 飛行機 電話を 発明します 電話はいわゆる 「天耳」です 今では「天耳」と 呼ばれています 昔は 人々は見えない電話を 使っていました
今では線がある電話を 使っているだけです それも「天耳」の 一種です その「天耳」は 私達だけでなく 私達自身も使えますが 誰でも使えます 電話は 霊修行者の 「天耳」より いくらかいいです なぜか分かりますか 見えない「天耳」は 一人しか 使えないからです でもこの「天耳は」 誰でも使えます そのような物として 現在の「神通力」は とても良くて 昔よりずっといいです ただ 私たちの脳の 能力の5%だけですが 私達は既に多くの 「神通力」を持ちます 現代では 一つの世界 から次の世界へ この 惑星から他の惑星まで 飛ぶことさえできます
私達が100%全てを 使うなら ほかに どんな事ができますか 多くの事ができます 天国を作り 地獄を 破壊できます 私達を信じる人は 誰でも救い出し 天国まで連れてきます 阿弥陀仏経で 仏陀が言ったことを 覚えていますか 阿弥陀仏がまだ 仏陀になる前に 彼が私達のようにまだ 凡人であった時 彼は誓いをたてました 「私が仏陀になる時 私の世界はこの上なく 美しくて完璧です 誰でもただ一言で ただ一つの祈りで 私を信じる人は 誰でも救って 上へ連れ戻せる」 予想通り 彼が仏陀に なった時 彼の世界は そのようでした
なぜですか 彼は浄土を作るために 彼の知的な脳を 100%使いました それは浄土が自然に あるという意味でなく それが自然にすでに そこにあるなら 阿弥陀仏がそこに 行ったとき そこは 混んでいませんか 既に そこで生きている 人々がいたからです そこにはすでに 仏陀がいました 彼らの世界は すでに居住者を持つ ものでした そこにはすでに 神がいたでしょう 阿弥陀仏はいかに そこに行きその世界の 主になれたのですか
彼はその世界の主です 彼がその世界を作り 彼の信奉者をそこまで 連れて来ました
ですから一旦 私達が 霊修行をすれば 私達に持てないものは 何もありません 欲しい物は何でも 持つことができます それで浄土の居住者は 彼らが望む物は何でも 持つことができます そうでしょう 働く必要はありません 行きたい所はどこでも 飛んで行けます 食べたいものは何でも 得られます 望むものは何でも 持つことができるし 非常に美しいです 苦しみを知りません
苦しみは言うまでも なく「苦しみ」という 言葉さえ存在しません それで一旦仏陀になる なら 皆の創造力は とても強力です 神秘的な物は何もない そうでしょう 私がそれを説明した今 あなたは神秘的な 何かを見ますか 例えば 私達は自分の 脳の5%を使って カメラを発明して 永遠に保てる 人間の写真を撮ります 昔は私達はどんな 写真も撮ることが できませんでした 最良は絵を描く 筆を使用したという ことくらいでした 現在 私達はカメラで 写真を撮って 後代に残すために 永遠に保てます
現在私達は電話を 使えます 私達は電話で 五大陸に 連絡ができます 時にはまた 他の惑星と惑星間の 通信に それを使用できます 私達は月から 地球の人々と 通信ができました 奇跡の力はとても 計り知れません それで私達が仏陀に なった今それは更に 強力になるでしょう したがって 私達が阿弥陀仏陀の ようになった時 人々は一度だけ祈る 必要があり それで 確実に私達が彼らを 連れ上げられます それはただ普通で 何も不思議ではなく それは私達が電話を 持っているからです
一切衆生と 連絡を取る 目に見えない電話です または私達は 観音菩薩になります あなたは観音菩薩を 覚えていますか 彼女に助けを祈る 誰でも どこからでも それを聞けました 私達はそれを特別な ことだと思いました それに関しては 珍しくなく 特別な ことは何もありません 彼らの磁場は 途方もないほど発展し 日々大きく 育っています 日々彼らの智慧は 多くの範囲を含みます たくさんの場所が あるからです 私達が修行するにつれ 私達の磁場は 計り知れなくなります
こうして私達は 磁場の中の誰でも 明確に彼らの言う 何事も理解するのです それは私達人間の脳を 使用するわけではなく 内面の繋がりを 使います 繋がりは テレパシーより 高いです いいですか この世界で テレパシーでは少人数 聞けるだけです しかし仏陀の繋がりは 全世界に 張り巡らされています ゆえに観音菩薩が 助けを求める誰でも 聞くことができると 聞くのです
私達が菩薩または 仏陀になるとき それは同じです それはまさしく同じ それで私達は仏陀には 無数の化身が あるといいます ですから助けを 求める時私達がどこに いても彼はそこに現れ 私達を助けるでしょう しかしながら仏陀は そこに行く必要はなく 彼の磁場が本当に 広大であるので彼は いつもそこにいます まさしく一言の祈りで その磁場は身体に 化身します 分かりますか それは一瞬にして 自然に私達を助けます でなければ彼が私達の 声を聞くのを待って 姿を現すのに魔法を 使うには時間がかかり いったん現れ さらに彼はそこに 行かねばなりません それでは死にます それで彼は「如来」と 呼ばれるのです 如来とは来ることも 行くこともしないと いう意味ですが 彼は至る所にいます それを如来といいます
彼女はどこからでも 聞くことができます したがって観音菩薩と 呼ばれます
観音法門の修行は 単に「観音」を 唱えることでは ありません 「観音」を唱えることは 低いレベル 即ち初歩的なレベルの 修行です 「観音菩薩」を 唱えることは 彼女に 助けを求め祈ることで 高いレベルの 観音菩薩とは 私達自身が観音菩薩に なることです 私達は観音菩薩と 協力して 彼女と 一体になるのです 全衆生は一つです 私達が仏陀になったと 言えるのはその時です 私達が聞くことができ 理解出来ることを 言う人は誰であれ 救います 彼らの祈りにではなく 状況に応じて 彼らを救います
例えば 子供たちが四六時中 飴を欲しがり 欲しがった時 いつでも彼らに 飴を与えるとします そうはしませんね 子供たちの状況をみて 成長するためにご飯を 食べねばなりません 時には彼らに 飴を与えません 何か他の食べ物を 与えます ですから 時々 仏陀や天に祈りますが 効果がなかったと 思うことがあるのです とんでもありません 多くの場合 人間の頭脳は確かな 物を欲しがりますが 仏陀は それが私達に 良くないと考え私達に 何か別の物を与えます ですから仏陀はそれを 与えてくれなかったと 私達は思うのです それを与えられたら 私達は死ぬでしょう 毎日子供たちに 飴を食べさせたら 彼らの歯は虫歯になり 成長できません それで米や野菜果物等 食べさせるべきです また 私達は 小さな子供達に学校に 行くように言いますが 彼らは厭がって 楽しいことが好きです
彼らは公園に 連れて行ってもらい 滑り台やブランコで 遊びたいのです こういう事が好きです でも私達は彼らに毎日 こんな事をさせたら 彼らは何も学べないと 考えます そうですね ですから私達は彼らを 学校に行かせます このように 時々 仏陀や菩薩は 私達が欲しない状況 自分の為にならないと 考える状況に 私達を置きます でもそれは違うのです 仏陀と菩薩の智慧は 私達の智慧より 遥かに大きく 私達のためになる事を 彼らは知っており 心を込めて私達を 世話します
仏陀と菩薩の秘密 即ち 何を使って 彼らが衆生を済度し 私達を そのような 状況に置き 全宇宙とテレパシーで 繫がるかを 知りたいなら 私達に 道は 一つしかありません 仏陀になることです 事実 仏陀になるのは またもやそうではなく 私達は元々 すでに仏陀なのです そういうことです もっと正確に言うなら 私達は仏性を発見する それだけなのです ここに降りてくる前 私達は仏陀でした 分かりますか 私達は菩薩でした 私達は何か使命が あってここに来ました 忘れてしまいました
忘れたのです さて もう一度 思い出したいなら 簡単です 座って 思い出すのです 分かるまで 思い出すのです 私達の記憶を 取り戻し 私達の生命の起源を 思い出したいなら 唯一の道は 仏陀の法門です 仏陀の法門は 私は既に修行して とても簡単だと 知っています 学びたい人がいれば 全力で教えましょう これは 私が世界を 旅する目的ですし 今日の討議の目的でも あります ご清聴ありがとう
マニ教 選民のための五戒 選民のための五戒 (僧と尼僧) 一 誠実さ 罪から清らかになる 二 非暴力 行動の清らかさ 三 貞操 身体の清らかさ 四 口の清らかさ 食事の清らかさ (純粋なビーガン食) 五 幸いなる貧困 物質主義から清らかに
リスナーのための十戒 (マニ教徒 在家者) 一 偶像を崇拝しない 二 うそをつかない 三 欲張らない 四 殺生しない 五 邪淫しない 六 盗みをしない 七 偽らない 八 魔術を使わない 九 偽善をしない 十 怠けない
最初の質問です 修行したり瞑想すると 次第に 私達の頭脳は 働くこと つまり この世の仕事を することに もはや熱心でなくなり もはや明晰な頭脳を 持たないと 主張する者がいます これは本当ですか 本当ですか (違います) 霊修行のせいで どうして私達の頭脳が もはや明晰では なくなるのでしょう 仏陀は愚かだと いうことですか 修行するほど 頭脳は 更に鋭敏になります 私と修行する者達は 誰も剃髪しませんし ヒマラヤに 隠遁しません 彼らは医者や技術者や 教授らで 普通に働いています
熱中しないというのは 働かないことではなく 世界に縛られない この世界に執着しない ということです 働かねばならないから 働くのです 名声や 富の為ではありません 私達は働きます 私達が働かないなら では誰が働くのですか 私の全生徒が隠遁した 修行者ではありません 頭を剃りたい者は そうします この世界と 断絶したい者は そう出来ます 家庭を持ちたければ 家庭に留まります 「仏陀は私達の中に います」頭の中では なく 分かりますか この世に生きていると 全ての事は出来ません
どうすれば 彼岸の世界の心配が 出来るのですか 現実的ではありません 明確にして下さい その通りです 私達はこの世界に 対処出来ません ですから 修行して精神を 明晰にする必要が あります そうすれば 全てに対処できます 対処できないのは 私達が無知だからです 智慧がないのです 智慧を開けば 残りの95%が 開かれて この世界に 対処できるでしょう 出来ない筈ないですね 霊修行したら この世界を放棄するのではありません そうではありません 世界を放棄するなら 私はこのように働いて 敢えて大変な苦労は しません
私は一日中遊んでいて あなたに食べさせて もらってはいません あなたの供養を 受け取りません 私は働いています 独立して働いています 「ツアー」が出来る お金を稼ぐために 働かねばなりません 弟子達に招かれた時は 行く為に彼らのお金を 受け取りません 食べ物を手に入れ 航空券を買うために 働かねばなりません 最低限でも 何か象徴的な事をし 生活の面倒が見られる 様にせねばなりません 毎日座って目を閉じて 瞑想するだけでは ありません なんと 皆さん以上に 働いています
本や経典を読み 調べねばなりません 人々に話ができ 理解して貰えるように お金を稼ぐためにも 働かねばなりません 少なくとも この体を養えるように 隠遁した弟子達に 教えねばなりませんし 在家の弟子達も 教えねばなりません 皆さんより ずっと働いています 修行したら 座って 食べるだけだと 思わないで下さい とても間違った 考えです 修行すればするほど もっと働き もっと熱心に仕事を するようになります 他の人々のために 働きます 名声や利益 金銭欲のためではなく 金持ちになるためでは ありません
働き方には二通り あります 献身的で無私な働き方 いいですか 一つは世界のやり方で 狭い心で働く 仕事があります ただ子供達や家族を 養うためにだけ お金を稼ぎたいのです 瞑想中に 様々な音の振動を 聞きました 全空間に 溢れているようでした 観音法門のような 音流ですか そうです 尊敬するマスター 仏教徒として 私達は 三戒 五戒 菩薩の誓いを 受け入れています 今日 縁あって あなたに会いしました 印心が受けられますか ええ むしろ良いです 戒律を受け入れている のは あなたの学習に むしろもっと良い事で 問題なく もう一度 受ける必要はないです
尊敬するマスター 観音法門は神のもとに 帰る最良の道だと あなたは通常 教えています 「神」とか「天国」と 聞くと キリスト教徒である ように感じます マスターどうぞ もっと分かるように 説明して下さいますか 私達の理解では 神 涅槃 仏性 完全開悟者 真の本性は一つです そうですか はい ええ そうです ですから神のもとでは なく涅槃(最高の 天国)に帰って下さい 神という言葉が 聞き慣れないなら 涅槃(最高の天国)に 帰って下さい 何の問題もありません あなたが帰れないこと だけを心配します
イエス キリストが ヒマラヤで修行したと どうやって知りますか 文書があるのです 文書が とても古い文書が 発見され 彼が世の中に出て 真理を伝える以前の 彼の霊修行に 言及しているのです この文書の発見は アレクサンドリアで とても古いものです ですから 皆が知るために 公開されました それ以来 キリストが ヒマラヤで霊修行を 行ったことが 知られているのです カトリック教徒は 印心を受けられますか ええ もちろんです 戒律をしっかり守り 菜食をして下さい 宗教を変える必要は ありません 仏陀の遺品はどこに 納められていますか 供物を捧げに 行けますか
仏陀の遺品はここです 毎日供養をすべきです 尊敬するマスター 三年間菜食を 続けています 家で仏陀の名を唱える 法門を 修行しています でも何か気にいらない ことが起きると いつでも 優柔不断になり 悩みがちです こういった感情から どうしたら自由に なれるか教えて下さい よろしくお願いします まだ全てを理解せず 十分な智慧がないので 私達は 優柔不断なのです ですから 私達は 解決できないことが まだ沢山あります 完全に智慧を 開いた時のみ 手のひらを見るように 全てが明白となり 優柔不断になることは もはやありません 三年間の修行では 十分ではありません 多分まだ足りないです もっと修行して下さい 優柔不断で なくなるまで 修行して下さい
観音法門を修行すれば もう少し早いでしょう あなたに従いたい人が いますが 彼らの仕事が 飛行機や武器を 作るような 軍事や国家防衛に 関係しています これは非殺生の戒律に 触れますか 彼らも学べますが 武器を作ることが 防衛のためであり 他の人々を殺したい という殺人欲求のため ではないと分かって いなければなりません 既に申し上げたように 例えば 私達は国や 弱い人々を守ります それは戦争を 挑発することではなく 血に飢えてもいません 分かりますね 尊敬し崇拝する尼僧 だれもが仏陀になると この世界の人口は 増えますか 現実的ではないですね
どうやって そんなに多くの人が 仏陀になりますか 誰も修行しなくて どう仏陀になりますか ごく少数が修行します 誰もが修行すれば この世界は仏陀の国と なる それだけです 私達は全く同じように 生活します 皆仏陀であり人間では ないことを除いては 強欲 怒り 熱中 盗み 殺し合いは 一切ありません 仏陀が 仏陀と出会い 彼らは尊敬を込めて 挨拶を交わします もっと良いですね 法華経の 授記品の章にある 死を前にした 仏陀の弟子に対する 願いは 彼が至福の境界に 戻ることで そこには 女性はいないのです
「女性がいない」とは どういう意味ですか 女性がいない場所に 行くことを 恐れているのですか 「女性がいない」とは こういう意味です 私達は男女間の愛を 持たず 普通の人間の持つ 性的衝動を 持たないのです 全ての衆生は平等で とても美しく とても気高く とても賢く高潔です 世間の人は皆 普通の 人間の性的衝動は 最も高潔ではないと 知っています しかし この世界は 苦しみの境界と呼ばれ 生と死がなくては ならず 男と女が いなくてはなりません 性的衝動は 人類を 存続させるために 神が与えています
仏陀の国は 人類を存続させるため この方法を使う必要が ありません ですから 女性と男性の形は 全く必要なく 子供を持つように 私達をつき動かす 性的衝動は 全く必要ありません 天上の人々は 子供を設けたいなら 子供達は蓮から あるいは想いから生れ 彼らは出産する 必要がありません このように 仏陀はさらに多くの 子供達を作らなくて よいのです 死すべき人間が 無数にいるからです 私達は仏陀になると 上に行きます 大変込み合うでしょう 子供を持つ必要はなく ここ下では出産します 出生後仏陀になるため 上に登ります
仏陀に 育てて貰いましょう 出産はもはや 必要ありません ですから男と女は 必要ないのです こういう意味です 「男も女もいない」 とは 仏性の現れを 意味します もはや死すべき「衣」 即ち 肉体や衣服で 包まれる必要は ありません ですから 全ての人の 仏性は同一で 女性の仏性も 男性の仏性も 全く同一です どうして「男と女」が 上にいましょうか 仏性があるのみです 仏性があるのみです 「女がいない」理由は これです いいですね でも心配いりません 女性がいた方が よいのなら 境界は 少し下になります
ええ 観音法門について 教えて下さいますか いかに修行しますか ええ はい これは 印心の際に 私が説明致します 今は時間が不十分です 私が話したくても 全てを話すのに 数時間かかりますから 誤ることを避け明確に 示さねばなりません そうでなければ 数分で どうして十分 説明できるでしょう あなたが家に帰り 間違って修行し何かに 憑かれたりしたら 私を責めるでしょう 私は少し観音法門の 意味を言及します 仏陀の音を使用する ことを意味します 仏陀が話した言葉を 更に私達は学ぶことが できるのです
毎日仏陀と共に 勉強できます 仏陀は仏陀の言語を 用いて私達を教えます 私達が世俗の言葉を 使用するように この世界で話す言葉で 私達は子供達 私達の 生徒達を教えますね 仏陀は仏陀の音を 使用して菩薩を 未来の仏陀を 教えます 彼は異なる言葉を 音を使用します これらの音は私達の 世界の音楽に似ていて ずっと軽く 流れるようなものです 私達が聞けば聞くほど ますます私達の智慧が 開きます 更に人間らしくなり 慈悲深く思いやり深く よりなります これが観音法門の 目的です 私達は音の流れと 仏陀の音と融合します
ちょうど私達が大学に 到達し私達が教授の 言葉が聞こえるように なるようなことです それで「観音」の意は マスターが仏陀の 大学にあなたを連れ 私達は毎日 仏陀の教えの言葉を 聞けるように なることです 分かりますか 神と仏陀の違いは 何でしょうか 私達が考える神が 生物の出生も死も ないなら神は仏陀と 異なります 仏陀は 生まれ死ぬ 存在ですから しかし私達が神は 永遠だと考えるなら 仏性は宇宙のものだと 考えるなら 仏陀と神は互いに 違いがありません 仏陀は神から来て 神に戻るのです 分かりますか
しかし私達が古代の 仏陀が神だと考える なら誰がすべての仏を 上昇させますか古代の 仏陀と呼ぶ人ですね 古代の仏陀を 表すなら その意味は神を 表すことです 彼らは同じですから 解脱とは何ですか いかにして解脱したか どうかを知ることが できますか 死の瞬間あなたは 解脱を知るでしょう 私達が自由であり 逃げられることを 理解すべきです 毎日私達は 貪欲 怒り 心酔に 縛られています 私達は拘束されていて 恨みと復讐を私達の 欲望に支配されている ことによってです 私達はとてもきつく 自由も自律性も ない状態に縛られ 不愉快に感じています
私達が開悟した時 私達はまるで 山のように感じ 何か自らの肩から 重荷が落ちたように または以前からそこに あった重い石が 降り転がっていった 感じがするでしょう 毎日徐々にそれは 降りて離れて行きます とても軽く感じます 私達の貪欲 怒り 心酔は減り 欲望も軽減します ちょうど先程の紳士が 報告されたように これがいわゆる 「解脱」です 日々私達は少しずつ 解脱します 私達は 解脱できるのです 私達は自らの執着から 自由になれます 私達は他の何をも 自由にさせえます 私達は自身の 無知な習慣からも 解脱できます
毎日 私達は更に 明確に見ることにより 私達は更に理解し より自律的に感じます それが「解脱」です 私達が死んだ時 私達は完全に身体から 自由になり 私達が常に解脱する 境界へと戻ります 私達はもはや 貪欲 怒り 心酔等 私達を苦しめる事から 縛られなくなります いわゆる「解脱」です 「永遠の解脱」 この世界を去る時 私達は菩薩の地位を 離れることになります その意味は 私達は 非常に悟った智慧と 共に 高い境界へ去ることで 私達が上昇する 境界とは私達の智慧と 高い境界の心に 互換性があります
それがいわゆる 「永遠の解脱」です 観音法門によって 私達は毎日 修行します 私達は少しずつ 少しずつ解脱します どうか因果の法と 輪廻転生の理論を 証明下さい 証明は不必要です バラの苗を植えれば バラの花を咲かせます 何を証明しますか そうでしょう 輪廻転生とは そのバラが死に 中の種が地面に 落ちて再びバラになる それだけです 私達も同じです 死後 後に知識の収集 私達が蓄積してきた 先入観や保存してきた そのものが他の人と なってその人が戻って 来る それだけです
それらの知識が 他の一式の衣服と なって着用され 彼らが引き続き この世に戻り生き 私達の望みを満足させ 欲望や偏見を満たす それだけのことです それがいわゆる 「輪廻転生」です 戻って来てその私達の 欲望が満たされずに 終わるならあなたは 満足できません 私達は再び戻り その事を続けます 生きて続けます それがいわゆる 「輪廻転生」です あなたの修行の法門は 何ですか 理解できるように 説明頂けますか 既にお話しました 観音法門です 私達は日々の修行を 通して 仏陀の教えを 聞くことができます
仏陀の教えの言葉は とても優しく 調和的です 世俗の音楽のように とても旋律的ですが 世俗の音楽より 十億倍以上の 強烈的な効果が 得られます 私達は修行して 戒律を守ります この世に 縛られないように 戒律を守ります そして 仏陀の教えに 耳を傾けながら 仏陀になるまで 私達の智慧は 日々ますます 現れてきます 例えば医者や教授の 言うことを聞くように 私達は毎日知識を 広めることができます そして 医者になります 「キエンタン」の意味は 「キエンタン」とは 開悟のことです 印心の時 あなたは 「仏性に目覚め」ます つまり本当の自分に 目覚めるということ あなたは少し開悟して そして 毎日更に 悟りを開き続けます つまりあなたは 毎日益々悟りを開いて そして 仏陀になる ことを意味します
聖書にこのように 記載されています 「従えば下へ降ります 逆らうと上がります」 その通りです 正しいですよ 「従えば 下へ降ります」とは どういう意味ですか この現世と 調和しているなら 私達は人々の する通りに従います 盗むなら 私達も盗む 酒を飲むなら 私達も 酒を飲む 殺すなら 私達もそのようにする 肉を食べるなら 私達は肉を食べる それゆえ 私たちは この世に従います
従えば従うほど より低く降りて行き 「逆らうなら 上へ行く」というのは 時流に逆らうと 私たちが 上がるという意味です ですから仏陀 天国は この世に 対立しています 仏陀と天界は上で この世は下です 従えば従うほど より低く 降りて行くでしょう
逆らえば逆らうほど より高く上がります そのようなことです ありがとうございます 妊娠している場合 印心を受けられますか はい受けられます ただし 印心の時 疲れや不快を感じず より長く座ることが できるように 快適な椅子に 座るように 注意すべきです 聖書では 人間は 神から来て 神に よって創造されたと 記載されています 科学は人間が 猿のような動物から 進化してきたと それで 仏陀はいかに それを証明しますか 両方とも正しいです 仏陀も神から来ました なぜなら彼は人間に 生まれたのです 彼は霊修行をしてから 仏陀となったのです 全ての衆生は 神から来ました 神とは何ですか 神とは この世界のすべてを 創造して養う 宇宙最高の パワーです 私達もその創造物の 一部です 私達もその創造力を 持っています 従って 子供を生むことが できます 分りますか
私達は多くの道具を 発明できます それも創造力の 小さな一部です 私達の創造力を 最高のレベルまで 広げると 神と一つになります ですから仏陀になると 天国と地獄を 創造できると 言うのです 覚えていますか 先ほど阿弥陀について 言いましたが 彼は弟子のために 浄土を作りました 彼は神のパワーより 優れていますか まったく神のようです そのようです 神は正にそのようです 「神」というのは望む もの全てを創造できる ことを意味します 私たちも神のように 阿弥陀仏のように なれます 私達自分のために そしてここに住む ことを望む子供 家族 愛するもののために 美しい王国を創造して あげ 彼ら全てを 上へ連れて行きます それが「神になる」こと ほかに何かありますか
科学者は 人類が 動物から生じたことを 証明しました 人類は類人猿から? これも正しいです どう正しいですか 時々私達は類人猿から 進化した事もあります それは前世が動物で 今生で人間になる 人のようです それだけです 猿は最も聡明な動物で 人間と最も 類似しています
彼らの顔 鼻 手は 全く同じです それで科学は人間が 猿から進化したと 主張するとき それも誤っていません 研究データに基づき 私達は猿が人間と 非常に類似するのを 見ます それで猿から 人間に進化することは 非常に速いです しかし科学が 知らないのは 時に 犬も人間に進化する ことがあるのです 水牛 豚も 人間に進化します そういうわけで 時々 豚ととても類似して いるように見える 誰かに会います
ええ または彼らの行動 彼らの特徴も犬と とても類似しています あるいは「なぜ 彼らはトラと類似して ますか」多くの時 昆虫について話します そのため 私達 オゥラック(ベトナム) 人は新聞を読むとき 彼らは昆虫を用いて 他人を中傷します 「人間になった昆虫」 と言います これらの人の行為は 昆虫と類似して いるからです たぶんそんな感じです オゥラック(ベトナム) 人は非常に聡明で 科学より更に聡明です 彼らは昆虫が人間に 進化できることを 知っていますね 誰でもオゥラック (ベトナム)人は聡明 ではないと言えません
私達は観音法門で 耳に快い 波のような音が 聞こえるとき 良いですか悪いですか いいです 良いです 私達は聞けば聞くほど より浄化されます 聞けば聞くほど より賢くなります 薬用アルコールは リウマチを治療する ことに用いられるが 毎晩寝る前に大さじで 飲んでもいいですか 答えはこのようです 「はい いいです」 だめではありません でも 知らなければ ならないのは アルコール摂取量が あなたの脳を 麻痺させることです それは私達に有害です 仏陀が禁止すると いう訳ではないです
あなたは賢く なりたければ 自分の 脳を麻痺させる何も 欲すべきではなく 私達の知能は麻痺して 暗くなるでしょう ですから アルコールを避けます 必要なら 飲むことができます でもそのように飲んで あなた自身に いくらか害があります そして飲んで あなたのリウマチに 良いけれど身体に 有害でないものを 探すべきです そのほうが良いです 分かりますか それは私が二、三滴の アルコールに厳し 過ぎるのではないです しかし多くの アルコールも・・・ 少し飲んでも あなたの脳を麻痺させ あなたの知能を 悪化させます ですから 生まれた時 既に愚かな人が 多く見られます 知っていますか
彼らは前世で沢山の アルコールを飲んで 自分の脳を麻痺させ 今世でさえ 回復することが できません そういうわけで アルコールを飲むのは 私達の脳が 多くの生涯で麻痺する 原因になります それで この事は 避けねばなりません
法華経に こんな言葉があります 「たとえ その罪が 山より高くても 妙法の数行にすると 重要ではありません」 どうか教えて下さい そのように書かれて いるなら 罪だけで 彼らは法華経を 唱えれば(もうない) 罪はもうないのですか 分かりました そうではありません 妙法とは何ですか 素晴らしくて 神秘的なのが 「妙法」です そうでなければ この世界の言語で 皆読めてしまいます 何が素晴らしいかを 「妙」とは 理解したり達するのが 難しいです だから「妙」 「妙法」なのです
これは 仏陀になった人だけが 正しく話せるのです ありがとうございます 「妙法」は例えば 私が印心を授けたとき それを「妙法」と 呼びます 言葉数が少なくても すぐに 開悟できます その瞬間を 「即刻開悟」と 呼びます それこそが 妙法の数行」です 尊敬すべき尼僧 あなたの弟子に なりたいなら 菜食になるべきですか でも私は 小乗仏教の伝統に従い 肉を食べ スリランカの尊敬する 僧から学んでいます ちょうど正午に 食べても良いですか 私は大乗仏教に 従っています
「小」は「大」より 良くないですね あなたは既に「小」は 「大」より良くないと 知っています なら「大」に従うのです ただ従った方がよく なぜ低くなるのに 謙虚になるべきですか いつ優れた人になるの ですか そうでしょう 偉大な紳士のように なる方が良いです ただそうした方が良い 「殺生を控え」ますが 時にアリが家中に 這っていて暑かったり 寒い気候でもいます 彼らは地下から 来ているのです 彼らを殺したら 罪ですか 彼らを優しく 外に追い払う ことができます 外に払うのです
「殺生しない」は ただ座って 彼らに 家の中に入られたり 噛まれたりという 意味ではありません 蛇を見たら 追いますが 彼らを殺さずに 出す方法を 見つけるべきです 私達が毒蛇を死なせる 原因となったら 殺したいのでは なくても それでも殺生の罪を犯したのと同じです 罪があっても 私達の慈悲深い性質は 減少するという訳では ありません しかしそれらの動物を 食べるために殺すのは 力があるという ことではありません
私達は豆 果物 野菜を食べて生きて いけると知っていて 肉がなくてもすぐに 死ぬ訳ではありません 分かりますか ですから菜食する 場合は毒蛇を 殺すこととは 異なっています 私達は順応性を 持つべきです 私達は戒律を保つのに 順応であるべきです しかし殺生を 避けるのが最良です どんなことでも殺せば それが有害でも 無害でも私達は それの代価を払います でもそれは 払う代価が軽いか 重いかの問題です 代価が軽いか 重いかです
それが私達が肉食 できない理由なのです
殺生を完全に避ける ことはできません 私達が歩き 手や足を 洗い 全てのバイ菌を 殺しているからです 私達がうがいや 歯磨きをするとき バイ菌を殺しています 医者は毎日消毒を しなければなりません 見たことありますね また呼吸をするとき 微生物が死にます それを少なくするのは 不可能です 「殺生しない」戒律は 私達の慈悲の心を 育てる意味で それで 殺したくないのです 分かりますか 怒りによって 無差別に殺すように させないことです それを完全に避けるか または減らすのは 不可能ではありません 減らせば減らすほど 私達のためになります 尊敬するマスター 妊娠中菜食をするのは 害がありますか いいえ害はありません 妊娠している牛も 菜食です 害はありません
否定的な場所 ニューヨークに 住みながら マスターが存在して いないときに修行する 最良の方法は何ですか
いいですかマスターは いつも存在しています マスターは体ではなく マスターは神の パワーと同様の 遍在するパワーです キリストのパワーです あなたが物理的に マスターと共にいるか 否かに関係なく 違いは全くありません また否定的な場所など 全くありません なぜなら 「知らないのか 汝は神の神殿であり 聖霊が汝の中に 宿ることを」 それはどこに行っても 神聖である意味ですね 私達は環境の 外ではなく 神の中で生きるのです
私は印心の時に 私があなたのそばに いない時の日常生活 毎日の修行でする 指示を出します そしてどんな質問も いつでも手紙か電話か 迅速にファックスを 使用できます マスターの肉体に しがみつく必要はない マスターは答えました マスターはそれでも 私達と一緒にいます 物理的ではなく 霊的にいつも 私達と共にいると しかしながら どんな 場所も悪くありません 全て私達の頭脳が 作り出したものです 私達は外側の 環境とではなく私達の 仏性と生きています
それもつけ加えました 私は印心のとき 毎日霊修行する方法を あなたに教えます そうすれば 毎日同じように 修行ができます 仏陀は私達の内にいて ニューヨークや美しい 場所にはいません 仏陀は私達の内にいる それは「私達の心が 平和な時 世界は 平和です」そうでしょ それだけそれだけです ですから 仏陀の 境界でないどんな 境界もありません それが最初のことです また 悟りを開いた マスター つまり彼も良く 彼は正しいと言います
彼はいつも絶えず 私達のそばにいます なぜなら彼は 肉体でなくパワーです いいですか 観音菩薩と同じです 彼女がどこにいようが 私達が電話をすれば 彼女はいつも私達の 声を聞けるのです 何か質問があれば 私に手紙かファックス または電話を使って 至る所にマスターに ついて行く努力を 費やす必要はないです 私達はマスターの後を 追わず 会社で働いて 生計を立てて 国と世界を 助けねばなりません
私達はあなたが住む 世界への義務を実現 させねばなりません いつもマスターに執着 できません 何のため また私達は 働かねばなりません ですからどこにいても 問題がなく 自分達の中にいる 神の存在を修行でき どこに行っても神の 存在だけを感じます 問題ありませんね
親愛なる尼僧 お聞きします なぜ人々の中には 霊修行について 法華経を読むのが 最良の方法だと言う 人がいるのですか それは正しいですか それで 観音法門と 法華経法門では どちらが 最高の法門ですか 法華経は仏陀が 観音法門について 話した経典です 普門品では 仏陀が観音法門の 修行を話しました そうですね 観音を唱えるという 意味は・・・ 「南無観世音菩薩」を 唱えるのではないかと 思われます
観世音菩薩を 唱えることによって 私達は炎に入っても 焼けません 海に落ちても 溺れないでしょう 多くのオウラック (ベトナム)難民が 海に落ちて皆 溺れました 観世音菩薩を唱えても それを阻止できません でした なぜでしょう 観世音を唱えるのは カルマ(報い)を いわゆる粗いものだけ 取除くかもしれません かすかなカルマ (報い)はまだ排除 できません ですから
溺れねばならないなら やはり溺れるでしょう 火事で焼けるなら 彼らはすぐに 死にます そうですね そんな事は不可能です 従って「観音を唱えるのは観音法門を 修行すること」と 知らねばなりません 分かりますか
観音法門を修行する時 水に溺れず 火で焼けないのは 本当です でもそれは状況に よります 避けられ ない状況においてだけ 溺れるかどうかを 確かめるためだけに 突然飛び込むという 意味ではありません 私達はすぐ溺れます でもあなたも溺れない 一人の弟子がいて 彼女は水に落ちても 溺れませんでした 数人が落ちましたが 溺れませんでした それに彼らは全く 泳げませんでした 更にひどいのは彼らは 泳ぎ方を知らなかった 彼らは泳ぎ方を 知らなくて 底に沈みました 彼らは沈みながら 水がまるで空気の ように感じました 下にいても 彼らは問題なく 呼吸できました しばらくして 彼らは 引き上げられました
大丈夫 死ななかった 何もなかったのです そしてダルマ (真の教え)を広めに よく私と一緒に行った 多くの弟子がいます 大抵はとても疲れて 四、五、六日連続的に 寝ることもなく あまり食べずに 働きました 私は気にしませんが 弟子は長い間 それほど修行して いなかったので そのような困難に 耐えられませんでした 水泳に連れて行って 泳ぎ方を教えました 彼らが泳ぎ方を 知らないなら ある日 溺れたらどうしますか 観音を唱えるだけ では十分ではなく それで泳ぎに行き 彼らは楽しみました
私は彼らに言いました 「あそこに行かないで」 彼らは水が非常に 強く渦巻いた場所に 行って それで 押し流されました 押し流された後 まるで誰かが彼らを 上げているかのように 彼らを持ち上げ 水に浮かびました 彼らは水の上を飛んで 浅瀬の方へ ゆっくりと移動し そして岸に 押し上げられました 沈まないのではなく 影響されない 訳ではありませんが 救われました 分りますか ですから
観音を修行することは 観音法門を 修行するという意味で ただ観音を唱える だけではありません それで 私達が 普門品を読んだ時 まるで始りや終りが ないように見えます そうですね はっきり覚えてますか 普門品には 観音菩薩には 数千の化身があると 書かれています バラモンに 縁があるなら 彼女はバラモンとして 現れます 異教徒に 縁があれば 異教徒として現れます 将軍に縁が あるなら 彼女は 将軍として現れます 妻 青年 若い女性・・・ しばらくこうして話し 続けられます その後 梵天の 音について話します 世界に 比べようもない音 観音菩薩の 不思議な音です
そうですね 始めも 終わりもないようです 突然梵天の 観音菩薩の 音に関して話します 梵天の音 海潮音 なぜ そのようにそれほど奇妙なのか どうして観音菩薩が 海潮音に 梵天の音に 世界無比の音に 世界無比の音に なったのでしょうか 冒頭から 観音菩薩の美徳や 何やかやに関して 詳細に話します 突然 下りて 観音菩薩 梵天の音 海潮音について 話します
誰も知りません 観音菩薩の美徳に ついて話した 前の部分は いつ悟りを開いたか そして どんな 功徳を持っていたか 後の部分は 音について話します 私達は観音法門を 修行する時 私達が観音の修行を している時 海潮音や 梵天の音を 聞くことができ この世を超えた音を 聞くことができます それでそれらの二つの 面が一つに併せるのが 不可能なのは この理由のためです なぜそうなのでしょう よりはっきりと 説明致します 観音法門には 二つの面があります
一つ目は 私達は仏陀や菩薩 あるいはその光と 繋がりが持て 観音菩薩についてと 彼女がどんな姿か どんなに美しいか 仏陀が観音菩薩を 引き合わせるかを 見られます 第二の面は 私達は仏音を 聞くことができます それで普門品を 書いた人は 自身の体験について 記しています 上部に その著者は 観音菩薩を見たと その下は法門を 聞いていました 一つは法門を見ること もう一つは法門を 聞くことに関してです ですから 冒頭では 「見る」体験を 下部は「聞く体験」です
その結果それを読む時 私達は理解できません なぜ突然 梵天の音や 海潮音に 関するものなのか 一度皆さんが 観音法門を修行すれば そして普門品を読めば 大変はっきりと 分ります 私は昨日ロスに 着いたばかりです ある弟子がいて 彼は私が初めて ここロスに来た時に 修行を始めました まだ非常に若くて おそらく十代か 二〇才でした これ位の大変長い 紙を持ってきて 私にくれました それは自分の霊性の 体験だと言いました 昨日大勢の人が それを見ましたね
少なくとも一人は ここに座ってましたね その若者は 私が 読むようにくれました 私は彼にあげる物を 用意してませんでした 到着したばかりで 彼は自分の霊性の 体験を私に見せて よいか尋ねました 霊性の体験には 二つの面がありました 上部に多くの絵を 仏陀の国の光の絵や 彼が見た仏陀を 描いていました どんなに美しいか 光がどんなに大きいか その光の色 すべて記していました 「観音菩薩は とても大きく とても巨大」彼女は 観音菩薩の絵を描いて 彼はこんなに大きくとても小さく座ってて 言いました「大きい どうして観音菩薩は こんなにでかいんだ」 観音を大変称えました
私に言いました「わあ 観音菩薩はとても きれいで巨大です」 それから それから 底で聞いたことを 描写し 異なる音を 説明していました 観音法門を 修行しないで この絵を見たなら 「なぜとても変なのか なぜ彼はあれこれの 音を聞くんだ それで冒頭で彼は 観音菩薩を見たのか 一体どうして これらに繋がりが ないんだろう」 分りますかそんな感じ
私達が在家者として 修行しても 仏陀になれますか はい あなたは在家仏陀に なれます いわゆる「在家」という 場所はありません 分りますか どこれあれ仏陀の 境界は 仏国土です 法華経が説いている ことを覚えていますか 経典はこう説きます 「大日如来は 遍在である」と 大日如来は 古代の仏陀です 分りますか 「ヴァイローチャナ」は サンスクリット名で 無上の仏陀の意味です こう言いました 「経典は 大日如来は 遍在であると説く」 仏陀の境界は 永遠の悟りと 呼ばれています
ですから 私達は すべての法は 仏陀の法と知るべきで 私達はこれを知らずに 無明でい続けます 従って 「内面の完全な智慧 純粋さを感じず 解脱において まだ執着する」状態 分りますか いわゆる「在家」という 場所はありません すべての場所が 仏陀の境界で 私達は それを知らないだけ 分りますか 出家者とは 自身の身口意を 犠牲にし 大衆に役立つよう 人生を捧げる人で それで経典を学ぶ 時間をさらに得て 学ぶ時間のない 在家者に 説明します
ですから 在家者は 僧侶が勉強し 経典を読む時間を得て 更に修行できるよう 時々在家者が 暇なときに僧侶に 質問しに行けるよう お金を布施します 出家者に教える 良いマスター 在世のマスターが いれば その出家者の智慧は 開き とても早く 発展するので在家者は 尋ねるからです 出家者はマスターに 毎日従い多く学びます それで出家者の知識は 多忙な在家者よりも 多いのです そう言う訳で 在家者は 出家者に布施をする 伝統があるのです 出家者が自由に学び 生活費を稼ぐのに 忙しく働く 必要はありません
それで私達多忙な人は 時々 時間があるときに 尋ねに行きますし 在家者が私達に説明 するのはより早いです だから私達は 「家を出た者」と 呼ぶのです 出家者は仏陀になれ ないとか 在家者は 仏陀になれないと いう訳ではないのです それは私達の心次第で 私達の霊修行と 純粋さ次第です しばしば出家者には 良い先生がいません 名誉と利益のために 在家者ほど純粋では ないかもしれません 分りますか 敬愛する聖なる尼僧様 法(真の教え)を 伝える時に なぜ より大規模の 大きな寺を 選ばないのですか
なぜこのような場所を 選ぶのですか 大きな寺は ありますか すべての場所が寺です 私は何度も寺のない 場所に行っていますが 私に何ができますか 例えば パナマには 寺がありません では感覚ある衆生は 済度されないという ことでしょうか 方法を探さねばならず 助けねばなりません 寺に行く必要は ありません 寺はここです 私は完全に仏陀と 菩薩に仕えるよう 専心しています 全く他のものは いりません ですから 釈迦牟尼仏が 生きていた頃 寺を建てませんでした ただ毎日歩いて 食べ物を乞いました
感覚ある衆生のために なりたかったのです でも一日一食だけです 品位を持っていました 分りますか 品位とまっすぐさの 明示と呼ばれています 私達はその方法で 無条件で他者に 奉仕します オゥラック (ベトナム)に戻って 法(真の教え)を広め 法(真の教え)を広め オゥラック (ベトナム)の苦しむ 人々を救おうという 意志をお持ちですか 現在 私は海外の オゥラック(ベトナム) 人に説明するのに 最善を尽くしています 将来考えます 海外のオゥラック (ベトナム)人も沢山 苦しんでます なぜ オゥラック(ベトナム) にいる人々を区別 せなばなりませんか 海外のオゥラック (ベトナム)人は 国内の人より 多く苦しんでいます
なぜ?自国に 住んでいるからです まだ私達の国ですね 私達には大勢の 身内や友人がいます 外国に行くと 苦しみの思い出が 私達を悩ませます 私達が他の国に 出国するとき しばしば人々は私達を 高く評価しません 言語も 私達は勉強しますが 把握できません 勉強し続けますが 飲み込めないのです 土地や食事は私達の ものと大変異なります
気候さえ異なります それは心理的に 影響します 沢山苦しみがあります 海外のオゥラック (ベトナム)人には 沢山苦悩があります ご存じないでしょうが 収容所に監禁された オゥラック(ベトナム) 人を訪ねて行きました そこに行った時 私は法(真の教え)に ついて一言も 言えませんでした 私はそんな悲劇の中の 人々を目にして ただ大泣きしました
瞑想中 私は頭が上がっていく 感覚を体験します どうすれば良いですか その感覚を 全身に広げるべき でしょうか それとも一定の点に 集中すべきでしょうか その一点とは体の どこにありますか 放っておきなさい ただここに集中する だけで構わないのです どうすれば観音法門を 修行できますか 後で登録して下さい 戒律を守れるのなら 生涯菜食になるならそれで良いですよ 他のすべての戒律は 基本的に 五つの戒律です 最も重要なのは 菜食になること 生涯菜食をすること 殺生をしないことです 他の戒律は守るように 最善を尽くして下さい 毎日 私達が 完璧になる時点まで 自分を少しずつ 変えるのです 嘘をつくなどの それらの習慣は 急に変えるのは 難しいからで しばしば私達は口を 開くときに忘れます 本当に嘘をつきたい わけではありません ですから徐々にですよ 飲酒を控え 肉食をやめるのです それだけです 他の戒律は 比較的軽めです
何故人々は苦しむ 時だけ霊修行を するのでしょうか 裕福で幸せな人たちは めったに 霊修行を口にしません そういう人もいますが 多くはありません なぜそうなのでしょう それは彼らには 沢山お金があるからで 彼らの人生は物質的に ほんの少し快適です 単に快適さだけでは ありません また時には過度に 耽溺する機会も あります 例えばお金があるので 妻を三、四人 求めます 或いはお金があるので 大変高級な ワインを飲み もっとおいしい 食事をします
高級なワインを 飲めば飲むほど 高価な食べ物を食べ 自分の身体が弱くなり 脳が衰えるまで 食べます それらに良いことは ありません そして当然ながら 衰えれば 脳は一層大きく 衰弱するので 霊修行への切望が より少ないのです それだけですよ 彼らは知らずに 毒を摂っています この世は本当に さかさまです 有害であればあるほど 高価なのです ウイスキーウォッカは 最も高価です そうですね 最も有害で 最も高価です そしてタバコは より有害で より高価で またはそんな感じです
麻薬は 最も有害です 最も有害で 最も高価です この世はそのように さかさまです 私達が働きに行き 最も有害なものを 飲んだり食べたり できるように お金を稼ぐことに 命を懸けます そうして私達が 飲食をすればするほど 害を得ます 身体は悪くなります 悪くなると 私達は病院に行き 更にもっとお金を 支払わねばなりません 病院に行き 身体を回復させ 家に帰ってまた 毒を飲み食いします 再び病気になり医者に 診て貰わねばならず その後身体を保つのに 更にお金を 稼がねばなりません そのように続きます
悪循環です それで 裕福な人々は 多くの功徳を得る 必要がありません 仏陀と 法(真の教え)は どこから来たのか 教えて下さい 仏陀は私達の 頭脳からで 法(真の教え)は 仏陀から来ます すべては頭脳によって 作られます それを証明する 必要はありません 例えば 今 あなたは仏陀になると 決心したとしますね そうして私と 修行します ある日 あなたは仏陀になり 仏陀は頭脳で作られる のではありませんか なぜなら私達の頭脳が そう望むからです それで「仏陀は私達に 内在する」と言います
敬愛する聖なる尼僧 私は経典を読み その意味を理解すると いつでも 突然泣き始めます 再び泣くのを 止める方法は ありますか 泣くのを止めるの もっと泣かせる 方法はあります あなたが泣く時 カルマ(報い)が 少なくなるので 悪い事ではありません 涙もろい 失恋 いわゆる失望や お金がない時 人にだまされて 泣くのなら 良くありません 私達が経典を読み 開悟して 泣ける時は とても良いのです 理由は分りませんが 今日 講演を聞いている間 聞いた後しばらく 頭が軽く感じ 目を 閉じたいと感じました
それでも まだ正面に あなたが見えるのです それでその時 あなたと私の意識に おいて私達の間に 何が起きたのでしょう 理由を教えて 下さいますか きっと繋がりが あったのです 繋がりです 私が講演を している間 加護のパワーがあり 仏陀と菩薩からの 加護です それで 心が純粋な人々は この加護を受けます 誰もが受けられる 訳ではありませんが 感度の違いによります 例えば 私達が少し 更に純粋なら より はっきりと見られます わずかに それほど軽くなくても 受けられます でも私達のカルマ (報い)は大変粗いので そのため 純粋で軽い人々と 同じくらい速く 受け取れないのです
あなたの場合は 純粋で軽い人の 事例です ただ目を閉じて 座って聞くのです あなたが幸せなら 良いです 構いません 菩薩の順位における 観音菩薩のレベルを 教えて頂けますか 高いレベルにいます 古代の仏陀であり 菩薩ではありません しばしば私達は 菩薩と仏陀が 何であるか分りません 仏陀もまた菩薩です 大抵の場合 仏陀は 菩薩として現れます 大抵の場合 仏陀は 菩薩として現れます 観音菩薩は 大変高いレベルにいて 古代の仏陀です ずいぶん大昔に 仏陀になりました しばしば 多くの仏陀がこの世に 現れ 観音菩薩は 菩薩として現れ そばにいます
そうでないなら 二人の仏陀がいたら 大変厄介です 一人の仏陀で十分で 他の仏陀は 文殊菩薩のように 菩薩として現れます 文殊菩薩は 過去 現在 未来 すべての仏陀の マスターです ですが 釈迦牟尼仏が仏陀 として現れ 感覚ある 衆生を済度する時 その時は 釈迦牟尼仏のために 予約されています それで文殊師利は 菩薩になるのです 観世音も 菩薩になります ですがしばしば 観音菩薩は 仏陀として現れます それは時代によります 敬愛するマスター 私は観音法門を 修行したいのですが 健康状態により 生涯菜食するのは できないと思います
それで 私は開悟を 得られますか 一生菜食者で なければなりません 菜食が健康に 良くないと 思わないで下さい 病院は 肉食の人で 溢れています 見たことありませんか 肉を食べればたべる程 更に病気になります 病院に行く 菜食者はめったに 見かけませんね 病院には肉食者が 沢山横たわっています 肉を食べれば食べる程 多くの悪いカルマ (報い)を持ち 悪いカルマ(報い)を 持てば持つほど 多くの病気になります そのようなサイクルに まさに入ろうとして どう解脱できますか あなたを解脱させない というのではなく 解脱を得るのは 可能です 解脱だけなら 観音菩薩を 求めなくても 観音法門を修行する 必要はありません 解脱を望むのと 仏陀になるのを 望むのは違います
観音法門を修行する 必要はありません 菜食を食べるよう努め 多いほど良いです それが小乗です (小乗仏教) 自身だけ救われます でも 私と観音法門を 修行すれば 五、六、七、八 十世代 百世代が あなたと共に解脱し あなたは仏陀に 菩薩になります 分りますか 解脱だけでありません 従って 阿弥陀経の中に 蓮の階位が九つ あると言われます
上位と下位があります 下位のレベルは 生きていた時一、二度 阿弥陀仏の名を 祈った人々のことを 言います 彼らが死んだ時 そこへ連れて行き より高く上がれるよう 徐々に修行します それが「解脱」と 呼ばれます でも仏陀には なれません 私と修行する人は 私と修行する人は 仏陀になれます 分りますか 又菩薩か 阿羅漢になります 私の名を 祈るだけの人々も 解脱します はい 二つの選択肢で 小乗(小乗仏教)と 大乗(大乗仏教)が あります 「大」がそうで 「小」がそうです 分りますか 「大」は 他人も 助けられることです 菩薩となって 五、六、七、八 九世代が解脱します 菩薩になった時に話す すべての言葉は 他人に利益を もたらします
どこに行こうとも 人々が加護を受けます それが 大乗と 呼ばれます 小乗は一人が 一人を助けます 私達が 在世の 仏陀や菩薩に祈れば 助けてくれますよ
尊いマスター あなたが法 (真の教え)を説く間 あなたの頭の回りに 煙の薄い層が見え 講義を聞いている間 私は泣きました
私の魂は深く 仏陀を想っています 何を意味しますか 仏陀を想うのは 良いことで 何も悪くありません 私が正法(真の教え)を 説く時あなたが仏陀を 想い泣くのであれば 悪いカルマ(報い)が 浄化されます 仏陀を想うのは 魔を想うよりは 良いですね 尊敬すべき尼僧様 あなたは(三宝に) 帰依する儀式を 行いますか 何のためですか 帰依するのは良いけど 心の中で帰依できます 儀式にする必要は ありません 帰依したい人は いますか したいならしましょう なくても気にしないで 帰依はこのようです 五つの戒律を 守ろうと努めたり その先生に力があると 信じることです
死んだ時 彼は 生死の輪廻から 私達を助けられます レベルが低くても 私達の蓮がいわゆる 低い品性にいて 低レベルに生まれても それで帰依するのです 私に帰依したいなら 複雑にする 必要はありません ただ帰依して 家で帰依すれば いいです 分りますね 行く先々で 帰依の儀式を行えば 多すぎて 皆さんを 覚えられないからです 正式に帰依したいなら それも構いません やりましょう ですが必要はなく 必要ないと思います 心の中で その人を 信じていれば十分で それが帰依です
ダーラニー法について 教えて下さい ダーラニーは呪文です サンスクリット語で ダーラニーは呪文です 呪文を知っていれば 智慧が開くのを 手伝います つまり 呪文を唱えるのは 私達に有益です それがダーラニー 霊修行です 尊敬すべき尼僧様 どのように 「内なる仏陀」を 育むべきですか どの法門で 最初にすべき 最も重要なことは 何ですか 発展させるには 二つの方法があります まず 前世で 霊修行を沢山したため 今生で度々 マスターに会うだけで 通り過ぎただけで 彼の力が自動的に 智慧を開いてくれます
私達が家に戻ると 開悟します 沢山の人々がそうです ですが 自身で 開悟できないと 思うなら 開悟したかどうかが 分からなかったり 力が十分でないなら マスターに 頼らねばなりません 彼はすでに開悟した為 開悟を手伝って くれます 印心と呼ばれます 印心の間に あなたは開悟します ですが 失われることから 保護するために 戒律を守らねばならず また霊的レベルも 日々 より高く 上げねばなりません 尊敬すべき尼僧様 両手を合わせ 観音菩薩を唱える時 手のひらをゆっくり 引き離す力を感じます
この現象は何か 教えて下さい 仏陀の名を唱えながら 何らかの動きが 現れたり 境界が現れたり その後 軽快に 快適に感じたら それは良いことです その後 体が重く 憂うつで 居心地悪く イライラすれば 偽りの境界か幻影です いいですか 病気か 妊娠している人で 薬を飲む必要があって それが植物由来か 動物由来か 不確かでも 罪を犯しましたか 罪ではありません 動物性成分が 体を重くさせるだけで 体を重くさせるだけで 罪ではありません 「罪」とは 重く感じさせることで それが罪です
私達を 進歩させないことを 罪と呼びます 知らないなら それを避けられない でしょう もっと瞑想して下さい その日 分っていたら もっと瞑想すれば より軽くなります
開悟に達するために クンダリニーを 高めるのに必要ですか 人が解脱する時 肉体は どんな 変化を体験しますか いいえ 開悟のために クンダリニーを高める 必要はありません クンダリニーは 開悟に必要ありません 観音法門を修行すれば 開悟します クンダリニーは 肉体に 影響するだけで 魂にではありません 体には 二種類の 動きがあります 一つは 体の規則を 世話しています 一つは 解脱して 智慧を発展させます 二番目のに 私達は 重要性を置きます
一番目のでなく クンダリニーは一種の 非常に低い物質の力で 見えないにも拘らず クンダリニーを 高めれば 時々 非常に痛みがあります ミラレパの物語で 彼のクンダリニーが 目覚めた時 彼はとても痛い 経験をしました 私には ドイツにいる オゥラック(ベトナム) 友人がいて 彼もクンダリニーを 手荒く扱った後 毎日痛みを感じました クンダリニーの過程は 安全ではありません 痛みも 危険もない 例えば 観音法門を 修行した方が良いです
なぜこの社会で 人々が善行をしながら 時々恨みを買い 正直な人が時々 災難に遭遇しても 悪人は時々 より長く 寛いだ人生を 送っていますか 誰が悪いか等私達には まだ分かりません 大抵の場合 私達には 今生の原因と報いを 明確に見る事はできず 前世においてもです 誰が悪い訳ではなく ほとんどの場合ですが 裕福な人々がいたとし それは前世からの 彼らの功徳なのです 今生の彼らの悪行の 形を成していません 今生での彼らの不実な 行為は来世で 或いは今生の後の方で 支払われたりします
彼らが受け継いだ 豊かな生活は前世ので 誰も自らが犯した罪に ついて懲罰から 逃げられません ただ 遅かれ早かれ 時間の問題です しばしば私達が善行を 行えば報われると 考えますが それは 必ずしも真実ではなく 好意で成した場合です 多分 私達の過去世で その人に何か借りが あったのかもしれず これらの事や行為は それに報いるだけ かもしれません 布施をしていると 思わないで下さい 私達はただ恩返しを していると考えれば 私達はがっかりせずに すむでしょう
善行を行います それは人間としての 責務であり他者を良く 待遇することですから 何か自分が善行を していると考えないと なぜその人は感謝 しないのかとがっかり しないでしょう 善行をしているとさえ 思いません この世に生きることは 互いに助け合う責務を 皆が負うことだったり 貧しいか 裕福か 裕福になりたいために するのではありません 裕福になりたいなら 私達は布施をすべきで 沢山与えるのです 人々を尊重し 霊的な開悟に到達し そうすれば 来世で私達は裕福に なれます いいですか
敬愛する聖人の尼僧様 この世でよく聞きます 四、五人の妻か 愛人を持つ男 または 四、五人の夫か 愛人を持つ女は 彼らは前世で互いに 債務を負っていたと それで彼らは再び 今生で再会しますか それは自身の欲望を チェックしていなく いかなる債務でも ないでしょう 敬愛する聖人の尼僧様 印心を受けた後 私が戒律を守り続け られなければ何が 起こるのでしょうか 因果の法則にによって あなたは影響を 受けることになります 多くの場合 以前より事態は深刻に なることを恐れます 既に知っていて それでもその戒律に 反しているからです 最初私達は知りません でしたと言いました でも今回 私達は 既に知っています
戒律を守ると約束して それを破るのです あなたが違反しても そんな状況で 守れないなら 正すように努力します 分かりますか 今すぐ修正するのです 神は全ての生物に命が あると言いました ですから野菜 豆 果物 木々も 命があります 私達がそれらを食べる ことは殺生ですか では 食べずにいて 飢え死にしますか なぜあなたの慈悲心は それほど度量が 狭いのでしょうか 私は肉食を止めるよう 頼みました それさえ できずに 果物を 食べることも止めると いうのですか
ええ生物には皆 命が あります 正しいです でも生命が非常に 強い時もあります 内面に深く深浸する そういう時も あるでしょう 植物はそれほど叫び ませんが 動物は 私達が彼らを殺す時 生命を愛し死を恐れる ことを私達は知ります 動物は反抗し叫びます それはこれら(花々)と 同じではないです よく私達は バジルの芽を摘みます 一つの芽を摘んでも 四つの芽や五つの枝が でてきますね それは有益で 傷害ではありません
でも豚の頭を切りとり 後から四つ、五つの 頭が出て来ますか 論理的だと分りますね 肉を食べるのは自分の 味覚を満たすためです 野菜 豆を食べるのは 私達の生命を 維持するのに必要です 仕方なく食べます 死んでしまうので 生存のために他に 方法がないので野菜や 豆を食べるべきです それは私達は既に 自らの慈悲心を育む 最善を尽くす意味です でも自身に対しても 慈悲心を 持つべきです 仏陀が内在しています どうして彼を飢え させておけますか
敬愛する聖人の尼僧様 私は菜食を続けられる と分かります 私は一か月以上 既に菜食ですから まだとても健康的です
私自身 私は娘で 妻であり 母の務めがあります いまだに家族のために 肉料理を作ります 尊敬する聖人の尼僧様 そこから私は何か罪を 受けますか いいえ 何の罪もないですが あなたの進歩において 幾らか影響します 何の副作用もないとは いえません いわゆる「集合カルマ (報い)」です 知っていますか でも特別な場合です あなたの家族が共に 菜食を食べないなら 彼らを自由にさせる ことです 彼らに私達に従うよう 強要できません
ですからあなたは 何の罪も引き起こさず でも集合カルマ (報い)を共有する事は 免れられません いいです 構いません ある人が死ぬ時彼らは 自らの罪や福報を残し 地獄へ または天国の いずれかに 昇天します でも今生において その亡くなった人が 何も悪事を行わず 霊修行を行い 菜食をしていた場合 なぜその人は 彼の親類の夢に現れ 彼らに起こるであろう このことについて 教えないのでしょう この死んだその人は まだ解脱していない という意味ですか
ええまだですその人は まだ解脱していません 高い境界へと 解脱していません 彼はまだ低い境界です でも彼もまた解脱して いるという意味です 「解脱」の意味は 低い境界に生まれない ことです 苦しみの 世界 例えば地獄や 畜生道のような 従って 彼はまだ夢の中に戻り 予言するかもしれない その意味は 彼は 天国にいますが 低い レベルの天国です 神の王国 あるいは 涅槃(極楽浄土)では ないのです でも菜食になることは 仏陀になることを 意味する訳ではなく 永遠の解脱を意味する 訳ではありません
そうなら牛 馬 象は 解脱できている はずでしょう 既に仏陀になっている ことでしょう 菜食者になる他に 私達は修行し 私達の仏性を培う 必要があります 仏性を知る その必要があるのです 毎日 私達は瞑想し 仏陀の教えを 聞かねばなりません そうして仏陀になり 菜食になるから 仏陀になるのでは ありません 菜食をすることで 殺生のカルマ(報い)を 避けます 殺生を避け 元来の私達の慈悲を 育くまなければ 仏陀にはなれません
六十歳以上の人々は 印心を受けることは できませんか 特別な場合によります 例えば彼らが強く健康 なら六十五歳まで 大丈夫でしょう 又は 彼らが菜食になれたり ずっと長い間 菜食であった場合は 大丈夫でしょう でもあなたが健康では ないと感じ 既に年を 取り過ぎていると思う なら あなたは菜食に 切りかえるとすぐに あなたの体は幾らか 反応を起しそれは 良くないと思います または長い間瞑想する ことができません またはあなたの頭脳は もはや鋭敏ではなく 私が教える教理を 理解するのが不可能 かもしれません
そういう事いいですか あなたが理解し 菜食になれるなら 問題はありません 尊敬する聖人の尼僧様 私には分かりません 六つの感覚器官と 六感とはなんですか どうかそれを明らかに して頂きたいのですが 六つの感覚器官と 六感とは 何ですか 誰か知っている人 知っていますか 六感とは何ですか すぐ回答できるなら ご褒美を渡しましょう 眼 耳 鼻 舌 身体 頭脳です そうですね わあ 素晴らしいです これを彼女に 眼 耳 鼻 舌 身体 頭脳です 六つの感覚器官です そして六つの感覚の 対象はこの世界に よるものです
眼 耳 鼻 舌 身体 頭脳 分かりますか 例えば私達の眼は 美しい物を見て 私達はそれらに 魅了されます 魅了されているなら 私達は自分の注意力に 集中し続け見続けて 欲しがり続けます 内面の反映を 忘れさせます 私達は自分の仏性を 忘れ ただ外面を 見続け内面を 見ないでいるのです 私達の耳は甘い声を 聞き人々は私達を 惑わせます 私達を称賛し 私達にあれこれだと おべっかを言います 私達は元来の本性を 忘れてしまいます その意味は私達が 欲するいかなる欲望も 蓄積していきます 私達は思います
「これは素晴らしい これは美しい」と 私達はそれらを 望み続けそれら欲望を 持ち続けます 六つの感覚器官は この世のそういう 情報を集めます六つの 道具を通じていわゆる 六感覚器官のことです 「官」の意は道具です 何でも集めた事を通じ ます だから六つの 感覚器官なのです 「六つの感覚機能」と それらを呼びます 「六」の意は六です 四九年間伝道した 仏陀は これまでの四九年間で 一言も話してないと 言いました これについて詳しく 教えていただけますか それはこのようです ある人は仏陀にこの ように尋ねたからです
「四九年間あなたは 何を説きましたか どのような方法を 教えましたか」と 法(真の教え)は 言語で教えることが できず 法は 言葉で伝えることが できないと 私達は皆 よく分かっています 従って 彼は 「四九年間何も 説きませんでした」と このようなことです 従って 仏陀は 「法(真の教え)を 説きませんでした」 「四九年間 法(真の教え)を 説きませんでした 真理を伝えません でした」と そういう意味です 私が印心を伝える時 真理を伝授する時と 同じです このように話しません 完全な沈黙の中で あなたは悟りを 開くことができます
あなたの自性を知る ようになり 仏陀 仏性や仏陀の境界を 見たり 音を 聞くことができます 少なくとも 仏陀の音を 聞くことができます 尊敬する尼僧様 菜食をしながらも 頭脳は無明のままだと 菜食はどのような 利益がありますか 霊修行は ある程度の知的な 知識が必要ですか 霊修行には 知的な知識は 必要ありません 六祖慧能は 学校にさえ 行きませんでした 菜食はどうして 無明にさせますか 菜食を守ることは 私達の慈悲を養い 全ての衆生は平等で 私達の子供 家族のように 思いたいからです
それで どうして 無明なのでしょうか 「菜食を守る」はただ 菜食だけを食べる わけではありません 菜食の食事を 守ってから あなたは仏陀の音を 聞いたりすることが できるようになり 毎日ますます 悟りを開くことができ より賢明になる 方法を教えます 智慧はこの世の 知性より優れています この世の知性は ただ他人の知識の 蓄積の結果に 過ぎません 私達の本来の智慧 私達の本来の仏性 ではありません 誰にも教えられません この世の知識は 他人から蓄積して きたものです
大抵他人の考えは 必ず正しいという わけではありません ご存知の通り 何回も 真実である ことを証明されたのに その後 そうでない ことを証明されてます 本日は「この人の 話が正しい」 明日になれば「その 人の話が正しい」と ですから この世の 知識は必要がないと いうわけです 将来の仕事のために 学校へ行って ある程度の知識を 身に付ける 必要があります でもこの世の知識は いりません この現世は非常に 短いものです
人々を人生から 解脱させる霊修行は 実用的では ありません これが本当なら 何も悪いことをせずに 今の人生をそのまま 送れば良いのですか これで十分ですか はい 人生は非常に 短いです しかし 生命力は永遠です ですから この身体が壊れたら 別の身体を 得るでしょう この身体を捨てたら 永遠にいなくなったと 思わないでください 永遠にいなく なったら なぜ 仏陀になれた人が いるのですか どうして涅槃 (極楽浄土)を 得ることができますか 永遠にいなくなったら 死者は夢の中に 戻って予言することが できるのですか
何も永遠に失われて いません 私達は 外観を変えただけです 服を変えただけです 例えば 今日は 私が黄色い服 明日は 白い服を着るように 中の本人は 変わりがありません 従って この世を去ってから 永遠に去るとは 思わないでください 何も失われていません 例えば 水は 蒸発して雲になります 雲から雨に なります そして 再度水になります このようにずっと 再循環しています 何も失われていません
今はこの人生が非常に 短いと言って 霊修行をしないと 霊修行をしないと 生まれ変わったら また短い人生です そうでしょう いつまでたっても 短いままです 人生における この短い時間を 霊修行に使えば その後 私たちの人生は 永遠になります 悟りにおいて永遠です しかし霊修行を しないと 行ったり 来たりするだけで そのつど また短い人生で また このように無明です また挫折して混乱して それを解決する方法も 見つかりません
あなたが言ったように 永遠の生命を 信じなくても大丈夫 私達はやはり 霊修行をすべきです この人生しかないと 信じても 霊修行をすべきです ではなぜ霊修行が 必要ですか 残り 95%の脳を活用して 人生に奉仕するため 分かりますか この社会をより良く 発展させます 来世を考える 必要がありません 私達は人生の面倒 だけでも精一杯です なので より良く 生きていくために 私達自身を養って 鍛えるべきです 尊敬すべき尼僧様 これを説明して下さい 「与えずして与えるが 真の与えである」
私が先程 述べたようにです 他人のために何かを した時 見返りを 期待しないことです ほとんどの時 私達は 前世で彼らに 借りがあることを 知らないのです だから今生で彼らに 良いことをしてると 考えてはいけません 良い行いをするのは 自分達の務めだから 誰かを救うのです すべての生き物は 私達の親戚 兄弟 両親なのです 私達は 親戚 兄弟 そして両親が貧乏に 暮らすのを見て 助ける それだけです それを「与えずして 与える」といいます それが与える本当の 意味なのです 私は既に帰依している マスターがいますが あなたから学んだら 裏切りになりますか 昔は 先生と 幼稚園で学び そして小学校で 先生と 学んでいました 将来は 先生と 高校で学び その後は 教授と大学で学びます
それではそれは 小学校の先生を 裏切る事になりますか 学校に行くので 結婚をする訳ではなく ですから 他の人に変えても 裏切っていません 学生はどの先生も 所有していません 学生は 誰か より智慧がある人から 学び 自身を 成長させるのを 求めるべきです 先生が彼らに何かを 与えて 彼らを縛る 訳ではありません 学生を縛る 先生は無知な 先生です
有名な英雄 韓国軍の二大 将軍霊性のマスターに どのような質問を するでしょうか 更に解明するには スプリームマスター テレビジョン 十月二十日水曜日の 番組をご覧下さい 「体験こそ 最良の学習方法」は 智慧の言葉にて 有名な英雄 韓国軍の二大将軍は 霊性のマスターに どのような質問を するでしょうか スプリームマスター テレビジョン 本日の番組を ぜひご覧下さい 「体験こそ 最良の学習方法」は 智慧の言葉にて 未来は今現在に かかっています ただ自分の仕事を 正しく 良心的に行い 自身の知識や良心に 最善を尽くせば そうすれば 全てがうまくいきます
スプリームマスター テレビジョン 十月二十日水曜日 スプリームマスター チンハイの智慧溢れる 講義をご覧下さい 題して 「体験こそ 最良の学習方法」は 智慧の言葉にて
スプリームマスター テレビジョン 本日の 番組をご覧下さい 「体験こそ 最良の学習方法」は 智慧の言葉にて
尊敬すべき尼僧様 伝統によると 年配者が亡くなると 葬式の際 通常紙幣や紙の金を 燃やします それは正しいですか それを持って行くと 得だということですか はい そうです 印刷した紙の金や 紙幣を沢山持ってると 得をします 尊敬すべきマスター 観音法門は マントラ蜜法 なのですか この法門はどの 教派でもありません この法門は元々の 真の教義です 人々は何度もこれを 「密法」と言いますが 何の理由がありますか 伝達された人は 他の人は 理解できないので それを「密法」と呼び その伝達を受けた 人は知っているのです
なぜなら その領域は その人に属し 彼の隣に座っている 人は見えないのです だからそう呼ばれます だからこれは マントラ蜜法と 呼ばれるわけではなく チベット仏教の 教派や他の法門と 同じなのです いわゆる秘密の マントラはそのため 秘密ではありません 尊敬すべき尼僧様 私達が「オムマニ ペメフム」と 唱える時 身振りは どうすれば良いですか 身振りは不要です 唱えるのも不要です 身振りや 唱えることは何も 影響がありません 「オムマニ ペメフム」の音を 内面で聞けるので その時に 効果があるのです
観音法門を 修行するとき 時々その音を 聞く事があるでしょう それを梵天の音と 呼ぶのです 従って 普門品では 梵天の音で 海潮音になるのです 海洋波の音の意味は 多くの場合 海の潮の音が 聞こえるのですが 外面的な海潮音では ないのです しかし梵天の音は 仏陀の音は 海潮音のようなのです または時に 仏陀の音は梵天の音に 梵語マントラの 音に似ているのです 梵語マントラは オムマニペメフム これを梵天の音と 呼ぶのです 他にも沢山の 梵天の音があります 霊修行をする時 内面ではっきりと それが聞こえるのです
それを「マントラを 唱える」「陀羅尼を唱える」といいます その時だけを 陀羅尼と呼びます 真の陀羅尼を修行 するとそうなります 多くの人が それを修行していて 内面で彼らは その音を聞いていて その後彼らは その体験を書きます 先ほど 私が若い男性について 述べたように 私と修行していて 彼は私に彼の 体験を見せたのです そこには 彼が聞いた 音が書いてあり 彼が見た仏陀を 描いてありました そして 時に 彼の兄弟や親戚が それを見つけ 「おお観音仏陀だ これを唱える良い」 と言います 「オムマニペメフム」を 唱えると 彼らには聞こえるので 彼らも唱えてますが
私達は聞こえません なぜ唱えますか 人々はご飯を食べて 満腹になります ただ立って「ご飯 ご飯」と唱えたら 満腹になれますか 尊敬すべき尼僧様 誰かを助けて そして ある日 その人が 私達を傷つけるなら 彼は私達の悪いカルマ (報い)の一部を 受け入れますか はい でも彼に私達の ためにそれを受け入れ させてはいけません まず 自身を保護し 他者が私達を傷付け ないようにすべきです 私達に慈悲があります
しかし それは私達が そこに座って誰かが 私達の頭を殴るのを 待つか 蛇が来て 私達を噛んで 蛇が 私達の悪業(報い)の 一部を取るのを待つ ことを意味しません それは何も取りません 私達は愚か者です 私達は耐えるべきです 第二に 他の人に 私達の悪業(報い)の 一部を取らせるなら あまりにも可哀相です そうでしょ自身を守り その人を 保護せなばなりません 私達が他人を助ける時 彼らが私達に返しを するようにと どんな利得についても 考えてはいけません 誰かが私達を傷付ける 時 自身を保護し 彼らが間違わないよう その人を守る方法を 見付けるべきです 彼らが悪事を 働くなら 負債と悪業(報い)を 負う事になるでしょう
さらに 私達に智慧が あり 彼らがこの悪業 (報い)を避けるのを 手伝わないなら 私達も悪業(報い)を 負う事になるでしょう 誰も私達の為に私達の 悪業(報い)を受け入れ ません
彼らが悪行を行うなら 彼らは悪業(報い)を 負います 彼らが 私達の悪業(報い)を 負うのではありません 尊敬すべき尊き尼僧様 私の父が生きていた時 彼は決して菜食を しませんでした しかし 彼が往生して 以来ずっと私達は常に 菜食を供養しています このようにして 父は 速く解脱しますか その人が速く解脱 するのは私達が菜食を 供養するということで ありません あなたの誠実さです あなたが子孫の関係で あれば幾らか死者を 助けることができます 菜食の供養をするのは 常に良いことです
あなたが死者のために 菜食の供養をするなら それは生きている 人々にも良いです そして 死者はより 多くの悪業(報い)を 負う必要はありません 分りますか 死者のために 生き物を殺して 肉の供養をすれば たとえ 死者は どんな悪業(報い)も 作らなかったとしても 彼らは突然 私達の 悪業(報い)によって 影響を受けます それは私たちが 罪を犯したせいです 分りますか ですから 菜食の供養は 常によいことです
尊敬する尊き尼僧様 仏経には書かれて います 衆生には 仏性があり そして誰でも 霊修行するなら すべてが仏陀になると それではどうして この世の人々は皆が 仏教に従わず 多くの異なる宗教を 持っていて そして 教義も異なるのですか それが本当なら 仏陀の智慧を見る時 どのように 悟りを 得ることができますか すべての人間が仏性を 持っていることは 正しいです しかし しばしば 他の国々で 人々は 「全ての存在は神聖が ある」と言うでしょう また 神の王国は 私達の内面にあると 仏教徒は仏性は私達の 内面にあると言います キリスト教徒は 神の 王国は内在し神は内面 にあると主張します それはほぼ同じです ただ名前だけが わずかに異なります
すべての衆生が悟り 誰でも本当に真理を 理解すると言う訳では ありません それで ある人は 「仏陀」と言い 他のは「神」と言います そして 両者とも 二つが異なると思い それが論争と戦いと いう結果になります しばしば 言語が 異なる事は言うまでも なく 仏教と言う同じ 宗教の人々も競争し ます そうでしょう 分りますか それは 各々の人々が 彼ら自身の個性と 理解の異なるレベルが あるからです そして 異なる宗教を 確立しました それで それは仏教が キリスト教と異なり あるいはキリスト教が 道教と異なると言う 事でありません すべては同じ源 同じ言語 同じ目的から来ました すべては同じ真理に 言及しますが 私達は 違って理解しました それから 皆は異なる ものを発明し 塩と 香辛料を加えて それらは皆異なり ました 分りますか
人は菜食者向けに 魚や鶏や肉みたいに 動物そっくりの 食べ物を製造します それによって 私達は罪を犯しますか いいえ それは 罪を犯していません 構いません 第一に 多くの人々が 菜食の食品を製造して 販売しているからで 肉を食べる人達を だましたいのです 第二に芸術的に 製造したいのです 分りますか手工芸です 人をだますのに 動物そっくりに 製造するのは悪い 意図ではないからです 手工芸品を作って いるのです しばしば 主婦はあれこれと より楽しみを 作り出したいのです
あるいは家族を ビーガンにしたいけど 家族が反対するのを 恐れています 食事がつまらなく 見えようが 目を楽しませないので 「魚」や「鶏」か 「鳥」を作るべきです 同時に食べて楽しむ ことができます 人々を幸せにするのは 問題なく 幸せは良いことです 同時に食べて 楽しめるので良いです 罪ではないです 敬愛する高貴な尼僧様 霊修行に瞑想は 不可欠ですか なぜ瞑想を学ぶのに 開悟したマスターが 必要なのでしょうか 瞑想は とても不可欠です 金剛経では 仏陀は六波羅蜜を 説いていますね ええ
六波羅蜜とは 「布施 持戒 忍辱 精進 禅定と智慧」です 重要でなければ なぜ仏陀はそれを 語ったのでしょう 仏陀は瞑想から 教えましたし感覚ある 衆生が聞くための すべての非常に 高いレベルの経を 説いたのです 毎日仏陀は 感覚ある衆生に 教えるために 自身の智慧を開くため 瞑想する必要があって 仏陀さえ瞑想するのに なぜ私達がしないのか 覚えていますか いつも 私達は話題の前に まず経典を読みます こう説きます 「釈迦牟尼仏は 瞑想から出てきて 教えた」そして あれこれ経を 話しましたね
つまり毎日瞑想を していたのです 仏陀さえ瞑想するのに なぜ私達はしないの 私達は少し早く そして少し多く 瞑想するべきです 私達は開悟した マスターが必要です 開悟したマスターは 低いレベルから 高いレベルまで 修行しているからで どこが危ないか 妨害があるかを 知っています また私達は修行中 どこかで ひっかかれば 尋ねられ それの抜け出し方や 避け方 私達が自分で 解決する方法を 知っています 開悟したマスター なしで修行すれば 自分によって盲目的に 進んで つまづき 落ち 穴や溝に 転がり落ちるなど あらゆることをします
私達は魔にとりつかれ 魔に誘惑されます いわゆる 「精神的混乱」です 分りますか 敬愛する高貴な尼僧様 なぜこの世に人々が そして私がいるべきか お話し下さい そのように より楽しいからです この世に一人だけで 生きたい人は いますか いませんね 私達がそう望むので そうなっているのです 私達が欲しいものを 私達は得る 他に何を 求められますか 尊敬する高貴な尼僧様 私は瞑想中 体が地面から飛んで 行く感じがしました どういうことですか 良いことです 大丈夫 あなたは少し 進歩したのです 進歩しました
尊敬する高貴な尼僧様 地獄はありますか あります 世界を一周して下さい 地獄が見ませんか 他の世はさておき この世には多くの 地獄があります ええ あります 地獄はここのようです 私達は心配し恐れ 私達の乱暴で邪な 考えは雰囲気を生み その雰囲気は 磁場は私達に くっつき悩ませます そのため私達が何か 悪すぎることをすれば 磁場はいわゆる 圧力を私達にかけ 私達は苦しみます それは 私達の悪行に関する 罪悪感と呼ばれます 地獄が私達を待って いるのではないのです 一人ひとりが自分に 地獄を作ります
敬愛する高貴な尼僧様 仏陀は二ヶ月間 水を飲むだけで 不食をして 恐れのない方法を 教えました これには私達の 霊性の養成に 何か利益はありますか こんな感じです 中道を修行するのが 最高です 分りますか お腹いっぱい食べ物を 食べて 二ヶ月間断食をして 二ヵ月後に 以前よりもっと 食べるのではないです ではどう食べ物を 控えるのでしょう 私を信じないなら 試して下さい 一、二日食事を 止めれば後でもっと 食べるでしょう そうではありません 私達は中道を 修行します
そして 毎日一、二、三食食べ それで構いませんが 軽く食べるべきです 食べ過ぎないことです 例えば 腹八部から九部 食べれば十分です 満タンまで食べません 分りますか 「食べ物を控える」は そんな感じで良いです 仏陀は一日一食しか 食べませんでした でも私達は仏陀では ないので 私達は 一日三、四回食べます でも軽めの食事です 怠惰になり 智慧ははっきりせず 鋭くならないので 食べ過ぎないで下さい
例えば 病気を 軽減するために 断食の方法を教える 先生がいるなら それは構いません 私達が自分でするなら 時々間違って行い 身体に害を引き起こす 恐れがあります 私達の健康に危険を 及ぼします分りますか 私は 観音法門が 百や千の病気を癒すと 思います 癒せない病気は ありません
一度観音法門を 修行すれば ますます毎日 そんなに沢山 食べたくないと思い 自然に 少なくなります
敬愛する高貴な尼僧様 私はキリスト教徒です イエスキリストを 棄てませんが 寺に行ったり 法の講演をしている 場所にもすぐに聞きに 行くのが好きです 私は菜食者でもあり イエスと仏陀の 両方に従います 私は死後 どこに行きますか 天国か涅槃(極楽浄土) に行きますか 神に従うことは 仏陀に従うことです 仏陀に従うことは 神に従うことです 天国に行くのは 涅槃に達することです 私達が法の講義を 聞くとき 真理の教えや 道徳の教えを聞くとき それは神に反する ことではありませんね
神は更にあなたを 愛します いいですか でも経典を聞くだけ では十分ではないです 霊性を培わねば いけません 経典を聞くことで 沢山の加護を 得るでしょう マスターが 経典を述べるとき 完全な開悟に 達した人は その加護の力は莫大で 私達が死ぬ時 彼は私達を救えます たとえ霊性の育成が なくても 私達はまだ 解脱できますが 仏陀にはなれません この世に生きている時 他の人々を 救うことはできません 印心するために 彼に従うのなら 私達は自ら習い 自ら仏陀になります まだ地球上で 生きている間 他の人々を救える様に 自分の先祖五、六、 七代を救うことが できます 少し高いレベルと 言われていますね
私達が他界する時 確実に神の王国に 行きます 確実にあなたは 神の王国や 涅槃(極楽浄土)に 行きます 神の王国と涅槃には 名前がありません もともと 名前がないのです それでも 世界の言語のため 命名するべきです すべてに名前があり ちょうど人間にも 名前があるようにです 名無しの人には なれません そのため この法門はまた 観音法門と呼ばれたり 生死からの解脱の 法門とも 仏陀の法門 神の法門 とも呼ばれます ですから涅槃に名前が あるのではなく 命名 すべきだったのです
名前はありません 私達がそこに昇り 解脱したとき それは解脱の境界で 浄土です 天国や涅槃(極楽浄土) と呼ぶ必要は ありません 例えば 私はこの花を見て 大変美しいと分ります そしてとても楽しく 幸せに感じます それで十分でしょう その花を名前で呼ぶ など必要ありませんね 花は私達の目を 和ませるためにあり 私達の魂は軽く 軽快になります このように 花は 使命を全うします 「ホアホン」や「ローズ」 と呼ぶのはまさに 同じことです 言語が違うだけです
英語では「ローズ」と呼び オゥラック(ベトナム) 語では「ホアホン」です それだけです そして「ホアホン」が 美しいか「ローズ」が 美しいかかかわらず ただ立って論じます 尊敬する高貴な尼僧様 霊修行をして一世で 解脱するのは 可能でしょうか はい 大変多くの人が すでに解脱しています 既にお話ししましたが 解脱とは 私達の欲 怒り 心酔 偏見や無明から 開放されることです またこの生涯で 解脱できます 私達は解脱したと はっきり分ります 私達が死ぬ時 自分の理解と 智慧のレベルに 釣り合う境界で 生きます
ではもう少し 説明いたします 解脱はこんな感じです 例えば 学校に行き勉強します つまり私達は 文盲から解放される 分りますか 勉強をすればするほど 自分のレベルの差が 大きくなります 私達が働く時 仕事は ますます良くなり 私達の家もまた 教育レベルに 合っています 私達の仕事や友人は 自分の教育レベルに ふさわしいのです ですから同じ事です 私達が仏陀になるのを 学べば自身の智慧は ますます高くなり その結果自身の 愚かさから 無知から 開放されて 私達が死ぬ時や 日々霊性のレベルが 自分の理解に ますます適するように なります いいですか
例えば 医者の家は ごみ収集人の家とは 異なりますね それは各自のレベルに 似ているからです 相関関係では一度 仏陀になるのを学べば レベルがより似てきて 境界はますます 異なるようになります 私達が死ぬ時 後に 自分の慈悲と智慧と 同様の境界で 私達は生きます 敬愛する高貴な尼僧様 神が神の状態に 達するのが可能な 霊性の育成から 得られる神の 霊的な功徳について お話下さい 神は霊修行しません 元々そんな感じです 多くのものが元から そんな感じです 分りますか
神は大変自然な 現象なのです ただ自然に起こります そのため私達は 「神」と呼ぶのですよ 無上 最も高いのです でないと神が修行する 必要がまだあるなら あれこれすべきなら 私達は神と呼ぶ 必要はありませんね 自然とそうなのです 説明し難いです 例えば 空気は 自然とそうなのです 元から良いのです 私達にとって 吸えば 良いのです 毒ガスや それらを 混濁したら 空気は有毒になります 有毒ガスは 吸い出されたら 空気はまさに以前の 空気になります
敬愛する高貴な尼僧様 准胝観音 仏母は 菩薩ですか 准胝観音は仏陀です 仏母は こんな感じです 大勢が私に言います 「女は仏陀になれない なぜあなたの生徒は あなたを仏陀と言う」それは私の生徒が そう言ったからで 生徒は拘っていません 私が言ったのではなく 生徒が私は仏陀に なったと言いました そしてこう言いました 「女は仏陀に なれない」 ではなぜ 仏母や観音菩薩が いるのでしょうか なぜ「仏母」 なのでしょうか それは宇宙の陰陽を 表します 分りますか 宇宙には陰陽があり それで私達には 古代の仏陀や仏母が いるのです
つまり 天と地球に 陰陽があるのです 「母」であるとか 彼女はなにがしだとか 女性であるということ ではありません そんな風ではないです 仏母は仏陀です 古い仏陀です 敬愛する高貴な尼僧様 私達の親が亡くなると 大抵何かを 供えます ですが死後 私達の 愛する者は転生し その人たちは 私達からのお供えを 楽しめません また十年後 二〇年後 まだお供えをします それで何回目で私達は 死んだ親へのお供えを 止められますか 私達は親に対し 先祖に対し 彼らが 私達の感謝と愛を 示すために お供えをします 彼らが食べるために 食べられるために お供えをするのでは ありません 一部の者は すでに天国に 行っているからです 私達の世俗的で不潔な 食べ物はいりません 大勢が既に 解脱しています もう飲食は 必要ありません それで地獄に行った 多くの人が大勢いて 彼らは食べられません また人間に転生した 人が大勢います
それで彼らも また食べられません 一部の人は 動物に転生します なので食べ物を 飲み込めますか 更に彼らの世界は 私達の世界と違い 食べ物も 私達のは違います 私達がお供えをする時 彼らは食べられません ですから彼らの 福報と美徳と称えて お供えをします 私達がお供えを したいのなら 菜食を供えるのが 良いですそれだけです 「語りうる道は 道そのものではない」 について 説明して頂けますか 道すなわち 仏性は 言語では言い表せ られないという事です
だから「語りうる道は 道そのものではない」 なのです 一切が言語で 説明されるなら 道ではありません 同様に 釈迦牟尼仏は 四九才の時言いました 自分は道を詳しく 道を説明なかったと まさにそんな感じです 仏陀が道を 説明する時 それは 彼が黙っている時です 私が印心を授ける 時のように それは 道を伝える時です 私は何も言いませんが 皆さんは開悟します 私は沢山話しても 皆さんは開悟したのが 確実ではありません 開悟したなら 真理を伝えることでの 私の見えない力に よるものです 私の口からそのような 事を発せられて開悟 するのではありません ですから 「語りうる道は 道そのものではない」 そういうことです
マスター 現在 「気功」は 非常に人気があります それは仏教徒や 道家の瞑想の修行と 同じですか もし私達が五つの 戒律を守って 同時に気功を 修行すれば 私達は 仏陀に達しますか 気功の修行は 仏陀に達することに 役立ちません 気功を修行しないなら 私と一緒に 瞑想を 観音法門を 修行するのです 仏陀に達すると 保証されます でも気功には 二種類あります 一つは体操の ようなもので 武術の一種です いいですか 私は以前この種の 気功を修行しました これは何の問題も ありません
この種の気功を 修行して 一定の レベルに達したら 他の人々は 物理的に傷つけられず 又はナイフを使っても その修行者の体を バラバラにできません この種の気功は 体操です 修行者が 内面のエネルギーを 放出する時 外側の力に対して 体を無感覚にできます これが一つの種類の 気功です 他の種類の気功は 霊性の力を修行し 人々は癒しにそれを 使います 私はこの種の気功は 私達の霊修行により 害があると思います 無作為に自分の エネルギーを使うので 浪費し そして 私達は自身の偉大な 智慧をあけるのに 利用できません
それで後者の種類の 気功を修行しないのが 最善です 観音法門を 修行すれば 仏陀に達するには 十分です 最初の種類の 気功と観音法門を 同時に 修行できます どうしてですか 身体的に 健康なら 様々な意味で結構です 健康のため体を 動かすべきです 太極拳や他の運動 ハタヨガなどを 観音法門と 一緒に同時に 修行できます でも霊性の力を使う 種類の気功は 避けるべきです マスター この数年間 常に沢山の 乱雑な考えがあります 乱雑な考えを 取り除く方法を 教えて下さい
乱雑な考えがあるのは 私達が毎日 世界と 情報交換をして 無駄な情報を色々 集めているためで 脳は全ての情報を 記録する記録装置の ようで そして つけた時に 後から再生します そういう訳で 多くの乱雑な 情報を受け取ると 静まろうとする時に それが出てきます そういう訳で 多くの霊修行者は 乱雑な考えの 収集を避けるため 静かな場所に隠れます それから 彼らが瞑想する間 あまり葛藤せず 乱雑な考えが より少ないからです しかしながら 普通の人々は 永遠に 隠れたりできません
たまには リトリートに行けて それも役に立ちます しばしば 乱雑な 考えがあるなら 放って置きましょう 瞑想する間 修行する法門に 注意を払って 乱雑な考えを 放って置きましょう それはちょうど 運転している間 エンジンやモーターの 音が避けられない様で それを無視して 運転をし続けねば なりません 乱雑な考えを 持っている間 なおも天国の音楽が 聞こえます 隣に座っている 友人と会話をする間 モーターの音が 聞こえるように それは避けられない ものですね
こんな感じです 最初の質問で 中国人が聞きました 気功と観音法門を 同時に修行すれば 仏陀になれますか 現代では 気功は 大変人気があります 二種類の 気功があります 一つは 運動により 体を丈夫にさせます 体のエネルギーを 使って 体を少し より逞しくさせます だから これらの 気功を修行する時 人々がナイフで 私達を突き刺しても 刺せません 多くの場合 体には 首のような 柔らかくて弱い 部分があって 人々は鉄の棒で 首を突き刺したくても 突き刺せません 全くケガしません
また時々 トゲや 釘や 割れたガラスの 上に横たわっても 耐えてケガしません それが 体を鍛える 気功の方法です 前に この方法を 修行しました それが一つです もう一つもまた 気功と呼ばれますが 霊的能力を使います 多くの場合 霊能力を使って 病気を治療したり 体のエネルギーを そのようにして 前後に巡らせます 私の学生の一人も この種の気功を 修行しました 前に 自身の技巧は 非常に高いと 考えていました
多くの場合 彼女はここに立って あそこにいる人を 一撃できて そのエネルギーは 前後に走ります または 時々 跳躍さえできます でも今は 私に従って習い もう自身の技巧は レベルが高いと 思わなくなりました 今彼女は 非常に謙虚学生です 私がどの国に行っても 追いかけてきます 今ここにいます 少し前 中国語で 話した時 これを 言いませんでした ではオゥラック語で
オゥラック(ベトナム) 語で少し追加すれば 皆が有利ですね
最初の気功の法門を 修行できると 言いました その法門を行うのは 体に有益です 体を強くします 問題ありません 気功と観音法門の 両方を修行できます 時間があれば 時間がなければ 気功か ハタヨガを 習わなくて良いです 毎日 床を掃除し ドアを掃除し 服などを洗って 前後に走っていれば それで十分です 二番目の 気功法に関して 病気を癒やすために 霊的能力を使うため 霊的な進歩に 有害であるため 使ってはいけません エネルギーを 誤用すれば 全てを あげてしまうからです
一緒に集中させて いないため ある日 爆発します 大きな開悟に 変わります 分りますか 大きな開悟 すなわち成仏です そういうことです 乱雑な考えを どう止めるか 私はこう説明しました 乱雑な考えがあるのは 毎日外側から 情報を集めている からです 見る目で 聞く耳で 匂う鼻で 常に外側から 集め続けます 記録した何であれ 放つ時が来れば そのように放ちます 私達の脳は コンピュータのようで 記憶したものは何でも 同じく伝えます 多くの場合 少し冷静な時 より明白に見えます
冷静でない時よりも 座って瞑想する時に 乱雑な考えが現れる ということでは ありません 乱雑な考えを 避けたいなら 時々 瞑想するために 平静な場所を 探さねばなりません 私達が 見ず 聞かず 知らず 匂わなければ 記録しません テープレコーダーと 同様で 記録した全てを 後につければ 記憶したものを 正確に再生します ですが「再生」の時 静かに座っていれば より明白にさえ 聞こえます さもなければ 時々活動している時 何を再生しようが 明白に聞こえません 多くの場合 注意を払わなければ 再生していると 分りません ね
それは正に こんな感じです ですが 普通の脳を 持っている人々や 普通の人々にとって 世界と相互に作用し 働かねばなりません これらの情報を 集めないことは あり得ません だから 瞑想の時 より乱雑な考えを 持つことになります ですが 来たら 来させましょう 私達はただ 瞑想を続けます 車を運転するように 騒々しい 車のエンジンを 止めるのは不可能です モーターが止まれば 車は走りません
従って運転していたら 運転し続けます 友人と談話していたら 話し続けます テープを聞いていたら 聞き続けます ラジオを聞いていたら 聞き続けます モーターの音と共に 車の音と共に 聞きます ただ聞かねばならず それだけです 聞くために モーターに停止せよと 強制できません モーターが停止すれば ラジオも停止します 分りますか 電力がなければ 従って ただそれに 耐えるべきです 瞑想していたら 瞑想をし続けること 考えを放っておきます 私達は 仏を唱え 脳は 乱雑な考えを 唱えます 唱えさせて 大丈夫 そんな感じです
避けるのは不可能で サマディにいる以外は 自動的に 魂は 乱雑な考えを 乱雑な考えの振動力を 乱雑な考えの振動力を 越えます 普通の脳を越えたら 乱雑な考えは もはやありません ですが こうなれるよう 常に修行すべきです 座れば乱雑な考えが 直ちに止まる 訳ではありません そうであれば すぐに 成仏したでしょう 霊的な耕作は 不要です 分りますか 乱雑な考えがなければ 修行する必要は ありません 尊敬すべき尊い尼僧様 尊い僧侶が歩いていて 突如溺れている女性を 見かけたとして 飛び込んで彼女を 助けるべきですか
または「男女は接近し 交わりを避ける」と 言われているため 彼女を無視し 歩き続けるべきですか 飛び込んで助けます なぜ無視できますか 彼女は 溺れようと している仏陀です 仏陀は 他の仏陀を 助けるべきです もはや男女に 関係ありませんね すでに話しました 規則は人間を 守るもので 人間が規則を 守るのではありません どんな尊い僧侶でも 溺れかけている 女性を助けなければ 地獄に行きます 彼らは全く 霊修行をしていません 分かりますか 修行していれば なぜ人を助けませんか
「男女は接近したり 交わりを避ける」とは 欲望への刺激を避ける ためです 分りますか 従って 美しい女性を見ず 彼女の手を取らず 肩をさすりません 欲望を減らすために それで私達は 平穏に修行できて 智慧が持てます あまり修行を してない人々や 修行しない人々の 問題を解決するための それで 私達は 彼らを助けられます どの状況も同じでは ありませんね 尊敬する聖人の尼僧様 私の法名はデユニュム あなたの回りに 後光を見ました 私の魂は私が前世で あなたのそばにいたと 私に話します ダルマ(真の教え)を 広げるためにあなたに 従ってもいいですか
それは大丈夫ですか そうしてもいいです 誰でも歓迎です 誰でも私に従うのは 大丈夫です あなたが家族に対する 義務を果たしたなら そして誰も反対しない なら大丈夫です 誰にでもダルマ (真の教え)を広げる 義務があります 私だけではありません 尊敬する聖人の尼僧様 私は無為方法で 修行を行います それはよいですか 第三の目を開く方法が ありますか あなたの第三の目が 開いていないなら それは無為瞑想が よくない意味です 他に尋ねる事は? 観音法門を修行すると 開きます 無為には沢山方法が ありますが あなたは どちらをですか
第三の目 そして 聴覚器官を開く ことができる 無為瞑想の多くの 方法があります それは正しい 「無為」瞑想です それは観音法門と 類似しています どんな方法でも 「非動作」(無為) 「動作」に関らず 智慧眼又は智慧耳を 開けないなら それは誤った 無為方法です 尊敬するマスター これで私達の 質疑応答の部を 終わります おばさんがいます 名前はドゥーホアで 彼女は考えを 表したいと思います ありがとう マスター 南無釈迦牟尼仏 尊敬するマスター ここダルマ講堂で 出席している全ての 修行仲間を代表します
僧 尼僧及び功徳高い 年配の方がいるので 私はここで皆の 代表をする 勇気がありません 従って 私はこれらの 方々を代表する 勇気がありません 私が誰も差別すると いう事ではありません 理解して頂きたいです 私達は誠実と崇敬する 心をもって謹んで マスターを紹介します 受け取ってください 尊敬するマスター 悲劇でいっぱいの 現世の人生で 罪の暗い森で 不幸の海で 不幸でいっぱい 今 私達は悪夢から 目がさめました あなたが伝えられた 貴重な金色の 教えのため 彼らが非常に高貴で 十分に称賛する 方法を知りません
これは2回目です 私たちはアメリカ サンタアナ市で貴方の 功徳に感謝します あなたは現世の岸から 出るために 経路を 私達に示しました あなたは幻想の森から 私達を連れ出しました 私たちを縛る 五感の鎖を ばらばらに切るために 智慧の剣を私たちに 下さいました 私たちの心の中で再び 灯明を灯すために あなたは慈悲の光に 火をつけました 今まで 無限の生まれ 変わり以来 無明の ベールが私たちを 覆っている世間の 汚れを自浄することが できるように あなたは 素晴らしい聖水を 私達に持ってきました
尊敬するマスター あなたの素晴しい 慈悲深い心 私達は どのように 称賛したり恩返し できるか分かりません 私達は最善を尽くして この教えに従うことを 誓います 例えば 菜食になり五戒を守り 三昧に入り瞑想します 私達は仏陀の恩恵を 無駄にさせないため 仏陀にならなければ なりません 尊敬するマスター もう一度私達は謹んで 三宝を尊敬する 私達の誠心を あなたに献呈します そしてあなたの教えに 従うことを誓い あなたの高貴な任務と 永遠の素晴らしい 最高悟り境地を すぐに達成するように 祈ります 南無 釈迦牟尼仏 個人的には 私はマスターの努力を 返す方法を知りません
私の限られた知能と 才能にもかかわらず 私は詩を書きました 承諾を頂きたいです 説法の会場で 私達の心を静め 花のランタンと いい匂いの水を作り 神に捧げ 仏法が永遠に 続くように祈り 誰も平和に 喜んで 経典を勉強し 謹んで 三世十方の諸仏に お辞儀致し 私の心の線香で 謹んで 阿弥陀仏にささげ あなたの深い慈悲で 偉い智慧を浄化し 世界を救うため マスターは観音法門を 伝え 混じり気のない エメラルドのように 清く(チン) 海(ハイ)の灯台は 遠くて広く光を放ち 存在と 無存在(ウー)は 永遠にこの無常な 世界に残り 無上(シャン)の レベルで 智慧を見守り 阿弥陀仏に 開けられ 用いられ マスター(シ)は 如来の法を伝え 全世界に普及させ 世俗の意識を 目覚めさせ 妙法が 遠くて広く流布し 道を開き 良い種を拾い 愛の松明の光で 人を哀れみ 妙音が悪いカルマ (報い)を洗浄し 世間の塵を減らし 明確に真理を理解し 咲いている花を取得し 衆生が 意味深い仏法 (本当の教理)を悟り 仏土に生まれ 蓮の王座に座る ありがとうございます デェウホアさん 穏やかで(デェウ) 調和してます(ホア) あなたの無限の 平和と満足 すぐに悟りに到達し 仏性を見つけますよう 祈ります 阿弥陀仏 お幸せに
皆さんの幸せと 菩提の早期達成を 祈ります 阿弥陀仏