ご機嫌いかがですか 新年明けまして おめでとうございます 皆さんの願いが成就し 事業が成功し健康で あることを祈ります 他に何かありますか ご多幸を祈りますか 私は香港から 来たばかりです マレーシアに着いた時 ここはとても 良い所だと思いました ここには 沢山の木々があります どこでも緑があります 目に良いです 香港では 木々の代わりに 家を植えています 家はとても高く 育っています ここでは木を植えます とても高く成長します 道路沿いの木々は とても居心地良く 感じさせてくれて 生まれ変わったかの ように感じます
私達は高い建物に 泊まっていたので 周りには 木々がありません 中に木々がありますが ビニール製です 三一階に泊まりました とても高くて その上にも十階以上 あり その下には 数十階以上あるのです 私が言いたいのは 何千もの人々が 頭の上に 泊まっていて 何千もの人々が 私の足の下に 泊まっているのです そして何千人 あるいは何百人が 左右に 泊まっているのです よく最高のホテルに 泊まるのは高級で 居心地が良いと 言いますが 私はどちらかというと 自然を好みます とはいえ 香港には 良いものがあります
マレーシアにも 良い点があります どの場所にも 良い点があります またここの 地方自治体にも 感謝しています マレーシア政府は 宗教の自由があり 私は誰に会いに来ても 良いのです 他の場所で このような会議を 主催するのはもっと 難しいですね ですからマレーシア 政府に感謝しています 全ての国が 人々に信教の自由を 与えたら 世界の半分がすでに 平和になります 全ての宗教はお互いに 関連しているのです
それは関連して いないと思いますが それらは実際 互いに関連しています 一つの宗教が 崩壊したら他の宗教 にも影響するでしょう なぜなら全ての宗教は 人々に善行をする ように教えています 善行をすれば 良い結果が訪れ 悪行をすれば 悪い結果が訪れると 人々に教えています ですから人々は 因果の重要さを 理解した時 より高徳になり 何が 正しく何が間違ってる かを理解するのです ですから私達は全ての 宗教を支援し歓迎し 守る必要があり たとえどの宗教でも その人の好みに 合わなくてもです 分かりますか
ですからどの宗教にも 人々の道徳的精神を 守るための 責任と義務があります どの宗教も一部を 助けているのです 例えば 私達の全世界にたった 一つの宗教しかなくて 皆さんはあまり大事に しないとします この場所には この宗教が発展し 他の国は 他の宗教が 発展します これは良いですし 害がありません たとえ私達の世界に 沢山の宗教があっても 他の場所にもあるか 最も基本的な 道徳基準がはっきり 分ってない人がいたり 人々の好みや 選択に合う十分な 宗教がないのは 言うまでもありません
ですから私はどこに 行っても 弟子には 他の宗教の邪魔を するのではなく 彼らも同じ仕事を しているから支援する ようにと助言してます 彼らには 異なる能力があり 異なる度合いの雄弁さ 或いは異なるタイプの 組織があります しかし彼らは皆私達に 善行を行い道徳規準を 維持するよう忠告し 盗み 殺し他者を 傷つけるよう要請する 宗教はないですね 宗教は私達にとって 非常によいものです これは私達の世界の 宗教と道徳に 関することです
でも私が本日皆さんと 共有したいのは宗教に ついてではありません 私は世界が変わる べきだと考えます どこであれ私達が 変えられるなら 変えるべきです 他に多くの惑星があり 他の世界があるから 彼らにとって私達の 世界は未発達なのです UFOについて時々 聞くかと思いますが これらは 「未確認飛行物体」で 他の惑星から私達の 場所へやって来ます それを信じませんが 聞くだけでなく それを写真に撮る人や それを写真に撮る人や それを出版した人 多くの面で証拠を得る 人もいて 信じないと いう訳にはいきません
他の多くの惑星は地球 より文明化しています それらの惑星と何か 交換とか商売を したいと思うなら 私達は変わるべきです 私達は生活をレベルを 変える必要があります 彼らと大体同じ位の 高さになるべきです 彼らには既にUFOが あり多くの文明化した 機械があります 彼らの魂 精神 智慧は全て 非常に高レベルです 私達が彼らと商売を するか 彼らに何か 売りたくても彼らと 交流できなければ 決して共同作業する ことはできません 私達が他の惑星を 訪ねられれば 私達の 世界がいかに未発達か 分かるでしょう
実際 釈迦牟尼仏は 菩薩の眼には私達の 世界は苦しみに溢れ 非文明的に映るだろう と言っています だから彼らはよく この物質社会に降りて 私達に真の人間になる 方法を教えるのです 菩薩の聖人のレベルに 到達する方法や 智慧を増加させる 方法もです しかし過去未来の 全ての仏陀と同様に 釈迦牟尼仏も 少数の衆生しか 救えませんでした 殆どがインドのです そして後代は 二千年後に彼の 教理だけを聞きます 私達はそれらを 仏教の教えまたは 仏教と呼び 仏陀が 与えた教えを受け取る という意味です
たとえ私達が その教理を聴いても 彼はインドのそれほど 慈悲深く有名で 開悟した仏陀です しかし私達はいまだに その教理については 知りません これまでのところ 私達はほんのいくつか 「阿弥陀経」 「法華経の普門品」を 知るだけです または 「南無阿弥陀仏」 「大悲咒」または 「観音菩薩」を唱えます そんな感じです 私が何か 特にこの経典について 話すなら その本を読んでいない 人はこう言うでしょう 「ああ これは異端だ 聞いたことがない」と 実際彼自身ただ 学んだりそれを読んで こなかったりとその 部分を勉強してません 私達が仏教経典を すっかり勉強して きたのなら これが経典の記述だと わかるでしょう 私の教理は仏陀から 教えられたものです 例えば 法華経普門品は 観音法門について 話をしています 法華経の二~三の 章ではそのことに ついて語っています 法華経の普門品だけで はありません
法華経の法師功徳品 でもその事について 語っています また楞厳経でもそれを 言及しています 釈迦牟尼仏は 彼が仏陀になったのは 観音法門を修行した後 のみだと言いました 観音菩薩は 観音法門を 修行した後でのみ 開悟に到達しました 文殊菩薩は 観音法門を 修行しました 十方からの菩薩は皆 観音法門を 修行していました 聖書も内在の音に ついて言及しています
法華経普門品は 「梵音と 海潮音は世俗の音より 優れている」などと 記述しています 聖書は言っています 始めに振動があった これが言(ことば)です 「言は神と共にあった 言は神であった 万物は言によって なった」 聖書ではこの事を 多く語っています 全てを読めませんが 普通のカトリック教徒 あまり学んでない カトリック教徒に 聞けば聞いた事ないと 言うでしょう あるいは仏教徒に 梵音と 海潮音の意味を 知っているかどうか 聞くことも できるでしょう 彼らは毎日 唱えているけれど 意味を知りません
彼らは一度も内面の 音を聞いたことがなく 梵音の 意味を知らないのです 例えば海潮音ですが 恐らくその音は 海の音のようです でも梵音とは 梵音の意味は 何でしょう なぜ観音菩薩は 沢山の霊的化身を 持つと 言うのでしょうか そして突然続いて 「梵音と海潮音は世俗の音より 優れている」と 言うのでしょうか 論理的でないよう ですが誰も尋ねません 私達は 新しい事を学ぶために 心を開くべきでです 自身を開放しておく 必要があります それが良くなければ 私達は捨てられます 大した事ではないです
でもまず聞いてみます それで良いかどうか 見てみることです 殆どが誤解や もがき苦しんでいます 勉強不足なためです 私達は真の意味を 知りません 私達には批判や 偏見があり 深く誤解している ためです よく修行しないなら 宗教戦争に なるでしょう 流血が起き 人々は生命を失うかも しれません 古代より宗教戦争が 起こっています ええ そうです 起こりました 今では私達の世界は より文明化しました より組織だって より法律も制定され 宗教を信じることが 容易になりました 昔のようではないです
イエスキリストが 在世の時のように 彼は傷つけられました 人々は彼を磔にし 殺してしまいました 同様に釈迦牟尼仏が 在世の時もそうです たとえ彼がインドに 霊修行の国にいても 世々代々多くの 修行者のいる聖地でも 80%の人々が 菜食者の国であっても 人々はそれでも彼を 傷つけようとしました それは彼らの 誤解によるものであり 彼が話している事を 彼が説明する新しい 事柄を理解しようと しないためです 実際 経典の中で彼は 「四つのヴェーダ」に ついて話していますが 同じ事です
その当時 多くの人々が 「四つのヴェーダ」を 理解出来ませんでした それで彼らは 釈迦牟尼仏の教理は 新しいもので彼自身が 作ったもので 真のバラモンの経典 ではないと言いました 釈迦牟尼仏より前に 仏教経典は ありませんでした 申し訳ありません バラモンの経典が あっただけです それがいわゆる 「四つのヴェーダ」で 彼はこれらの経典を 全て読み完全にそれを 理解していたのです そして彼は外に出て 講話を行いました しかしその当時は 書籍を印刷するには 都合よくありません
現代のようにすぐ 数千冊の書籍を印刷 できる訳ではないです その当時は 木版に 刻印していました 例えば今 法華経があります 普門品の章だけでも すでにこれくらい 分厚いです それで経典を 置く場所がある人は ほんの数人です 数人しかそれを 保持できません 当時普通の人々は 持てませんでした 皇族だけが 「四つのヴェーダ」を 読むことが出来ました 一般の人々には その機会がありません その名を聞くことさえ 滅多にないです 現代は 多くの経典があります 私達はより文明化され それらを書籍として 印刷できるからです
昔は容易では ありませんでした 釈迦牟尼仏が 「四つのヴェーダ」と 同じ事を話しても 当時の人々は皆 彼を批判しました 全員ではないですが 多くの人々です 異端だと言いました 彼らは研究をせず 開悟もしていなかった ためです 彼らは釈迦牟尼仏が 到達した内面の 悟りのレベルを 知りませんでした 彼ら自身が その悟りのレベルに 到達することが できなかったからです 私達が善行をするか よい話をするか 明確に戒律を守るか はっきりと 規則に従うなら 人々は変に思います マレーシアは どうかわかりません
ドイツでは 都市や住宅地で 車速度の交通規則 時速制限は 40キロです しかし本当に 時速40キロで 運転するなら 警察はプレッシャーを かけて来ます 彼らはあなたが 怪しいと思います 車に問題があるかも しれないと思われたり あなたが「脳障害」か 脳の問題があるかも しれないと思います 誰も時速40キロで 運転しないからです 法律が40キロでも 少なくても皆45キロ 50か60キロです 誰も正確に時速 40キロで 運転しないのです ここはどうですか 同じですか 同じです
規則に従って 40キロで運転すれば 警察はあなたの車の 隣に来て 問題が あるかどうか尋ねます それは同じことです 本当に仏教を理解する あるいは本当に カトリックを 理解するなら どんな宗教の真理でも 理解するなら 私達は同じでと 思います それを考えて下さい 私達の団体では 例えば 誰でも完全な 菜食をを 摂らねばなりません 卵さえ摂りません 一滴のワインも飲まず きちんと 五戒を守り 一人の夫か妻を持ち 盗まず 動物を含めて 殺生せず 酒を飲まない モルヒネを使用しない ギャンブルしないなど 仏陀が在世の時 彼は弟子にこれらを 要求したのでは ないでしょうか
それに釈迦牟尼仏が 在世のとき 瞑想しましたか (はい)そう でないと 誰が菩提樹の下で 四九日間座った後に 悟りを開いたのですか 私達の団体も 同じ修行方法に従って 瞑想します たとえどんな種類の 瞑想を修行しても 仏陀が在世の時に 見たように 内面の星が見えるなら それは正しいです そうですね 従って私達は本当の 仏教徒団体です でもそれは重要でなく 本当のキリスト教団体 でもあります 他の宗教の本当の 団体でもあります 実際 私達は悟った後 非常に明らかに非常に 単純に物事を見ます もう口論せず もう 多くの議論いらない 今日 ある宗教団体が 訪ねて来ました
ずっと前からこのハリ クリシュナ団体を 知っていました 彼らは時々そこでの 講演のために 私を招きます 私は時々ここに来る ように彼らを誘います 私達はすべての宗教を 歓迎し支持します 彼らは私に聞きました 「なぜ 即座の悟りと 言いますか どうやって即時に 悟れますか」 私は言いました「私は 本当に即時に悟りを 開いたのです」 すると彼が聞きました 「どれくらい速く」 私は「このように」と ありがとうありがとう 本当にこのようです
例えば私達は釈迦が 菩提樹の下に座って 瞑想したということを 学んできました 彼が瞑想した時決して 起きませんでした 彼は蓮華座に 座りました そこで足を組みました このように座って 彼は歩く必要はなく 歩けませんでした このように座りました つまり 彼はそこで 四九日瞑想すると 決心したのですが 四九日とは言いません 彼は悟るまで起きない と言いました その当時彼はかなりの 決意をしました サマディーに入るまで そこで瞑想しました 入定した後 彼は聖書に記述された 星を見ました 星を見た後に 悟りを開きました
このような体験は 私達の大部分の弟子も これがあると言えます 私達はきちんと 戒律を守り 非常に完全な 菜食に従います 私達は他の宗教にも 奉仕します 地域社会にも 奉仕します 私達は 社会奉仕もします 慈善活動もします つまり本当に仏陀に 従うことを意味します ある人々が私達を 誤解して私達が仏教徒 でないと言うなら いいです 私達自身が 知っている限り それは構いません しかしながら 私達は 「仏教」が何であるか
理解せねばなりません 釈迦牟尼仏が生まれる 前の時代に 悟った人は一人も いませんでしたか
いったい誰が 済度されましたか 釈迦牟尼仏の 数千年前に 生まれた人々は皆 地獄に行きましたか 仏陀を信じない人は皆 地獄に落ちるのですか いいえ ここで仏教のことを 話しているだけですが これは他の宗教にも これは他の宗教にも 適応しています 仏陀とは悟りを開いた 人という意味です 既に 菩提のレベルに達し 内面の智慧を 開いた人は皆 仏陀と言います 同様に イエスキリストの中の キリストも 仏陀の意味の名です 悟ったマスターとは マスターの意味です 訳がないので 直接その言葉を 使っているわけです
例えば ブッダは 仏陀に 由来しています 私達はマスター 釈迦牟尼仏 マスター イエスと言わずイエス キリストと言います 訳さず 元の言語から 直接言葉を借りると もちろん誤解を 招きやすいです イエスキリストは 仏陀ではなく 仏陀は キリストではないと 思いがちですが 実は異なる国で二つの 名前は同じ意味です 例えば現代の今でも 「グル」と言いますね グルはマスターの 意味です それはインドの言語に 由来しています
釈迦牟尼仏が在世の時 四九日間の 瞑想を経悟りをて 開きました 彼は内面で星を見て 悟りを開きました 今 私達修行仲間は 同じことができます 四九日間さえ 必要ありません 印心を受ける時 すぐ星が見える人が います 彼は悟りを開いて いないとは言えません 星は 内面の星のことです その星を見た時 気持は変わります 智慧も変わり 感覚も変わります まるで 真新しい人に 生まれ変わったような 感じです 外面の星を見た わけではありません そうだったら 皆開悟しています 毎日星を見るからです
「普門品」でも 梵音 海潮音に 触れています 梵音とは何であるか 知らないと しましょう 海潮音に関しては 「海に行って波の音を 聞きましょう そうすると 悟りを開きます」と 言う人がいます これは本当でしたら 漁師は皆仏陀ですね または海辺のホテルに 泊まる旅行者は 海の音が聞こえるから 皆悟りを開くことに なります あるいは 島に住む 人たちは皆 開悟して いることになります 違います 印心の時悟りを開き それで内面で 波の音が聞こえます 印心後も 毎日 その音が聞こえます
これより 高いレベルの音が 沢山あります 梵音とは 何でしょうか それは内面の音で 梵語 (サンスクリット語) でいう梵天の音に 非常に似ています 梵語は 梵天の音から 造られました 霊修行をする多くの インド人 例えば ヨガ修行者達は 内面から 梵天の音が聞こえます その音は お経を唱える時の声に 似ています 瞑想する時 あまり高くないけれど 一定のレベルに 到達する時があります この音は 第二界 (第二のレベル)に 過ぎません もっと高いレベルの 音が沢山あります 内面の海潮音が 聞こえたら それは 外面の海の波の音に 似ています
梵音が聞こえたら それは お経を唱える音に 似ています 例えば オーム オムマニぺメフム あるいはオムアーフム こんな感じです それは 梵音のことです これらの音は 内面の音に とても似ています 古代の人が書いた 体験を読んだ後 例えば 「オムアー」「オム アーフム」が聞こえた と書いた人がいると 後世の人達は 外面で その体験を唱え 梵音を唱え続けます これが私達が あまり体験を得られず あまり悟りを開けない 理由です 外面で唱えるのでは なく 内面から 得るべきだからです
レストランで メニューを 読むだけでも 気持ちよくなれます いくらレストランが 美味しく 高級な 料理を作って くれるにしても 食べなければ どれだけ 美味しいのかは 分りません 料理がとても美味しい と少し想像はできます 料理の材料を見ると とても良い材料 だからです でも 実際 食べてはじめて 本当に美味しいと知り 体のためになり お腹いっぱいに なれるのです 同様に私達は 古代の人々が 観音菩薩を観たり 阿弥陀如来の境界や 瑠璃光如来の境界を 見たことを 学びますが
私達自身に経験がなく その種の世界を 観たことも 内在の音を 聴いたこともなければ 私達がお経をどれだけ 沢山唱えてもただの 詠唱にすぎません それでもほんの少しは 得るところがあります 心は安らぐでしょう でも仏国土を 見ることはありません 観音修行者にとっては 観音菩薩を見ることは 非常に ありふれたことです 観音修行者にとって 阿弥陀如来の境界や 他の更に高い世界に 行くことも簡単です 涅槃の境地は時折 非常に誤解されます 天国の幾つかの段階は 非常に涅槃に 似ていますが
それは まだ神の国ではなく ただ他の惑星です しかしある人が 霊修行や 瞑想をしたり ヨガの技法を使うと その人の 肉体ではなく霊体が 他の世界を旅します 彼は自分が肉体を 使わずに霊的パワーで その場所に達したので そこが天国だと 思うでしょう 私達も同様に考えます また聖書もそれらの 音に触れています 聖書には霊修行者が 神の声を聴いたと 書かれています 神の声は雷のようで 大水の音のようだと 記載されています これは 普門品の章に 記述された音に 非常に似ています 昔の修行者の体験を 繰り返し唱えても 何の役にも立ちません
他の人が既に満腹に なったメニューを 読んで何になりますか 釈迦牟尼仏が 在世の頃 目連という名の 弟子がいました 目連は多くの超能力を 持っていました 天国と地獄にすごい 速さで行き来でき このように 彼はまた風や雨を 召喚できました 彼の超能力には 天耳 透視 テレパシーや 過去や未来を 見通す力などが ありました つまり彼は 過去現在未来の全てを 見る事ができたのです これは「三明通」と いわれます 「天耳」は非常に 遠くからも聞くことが できるという意味です 普通の人々はここから そこあたりの音だけを 聞くことができます
マイク無しでは 聞こえません 天耳を持つ人々は 非常に遠く 数百キロでも 数千キロ離れた 所からでも 聞くことができます 透視能力を持つ人は ここからアメリカを 見ることもできます 彼は超能力のような 力を持っていたのです またテレパシーとは この瞬間 人が考えている事が わかる人のことです あなたが何を考えても 彼にはすぐ分かります 彼が集中すると たちどころに 分かるのです はい これがいわゆる 超能力の一種です 一般人は通常の方法で 修行することにより 六つの超能力を 手に入れられます 観音修行者は 六つの超能力も 手に入れられますが
六百 六千 六万の 全てを含む 超能力を 身に付けられます それらの力を頻繁に 使わないだけです なぜなら超能力は 他人に見せたり劇場で 見世物にするために 乱用できるものでは ないからです 目連は六つの超能力を 持ち あちこち霊的な 旅をするのが好きで あるとき目連は 地獄界に行き 自分の母親が 苦しんでいるのを見て 母を助けて下さいと 仏陀に頼みました その後釈迦牟尼仏は 多くの弟子達に 助けのための 祈祷を頼み 目連の母は地獄から 引き上げられました 私達は皆知っています 後に ある日目連は 退屈でする事が なかったのか超能力で 遊んでいました
彼は違う惑星に 旅しました その星の人々は 非常に巨大でした 目連がそこに行った時 彼は飛び上がり 星の人々が 飲み食いに使う お椀に止まりました するとそこにいた人は 蠅が来たと思い 言いました「奇妙だ この蠅は私達人間に なぜそっくりなんだ ただ小さいだけだ」 これはその星の人々が 非常に大きく 背が高くてこのように 強いという意味です 私達人類はそこでは 蠅みたいに見えます ええ それは惑星の ほんの一つです それらについて話す 良い機会ですので 皆さんはほんの少し 違うだけで地球に よく似た惑星が あると知っていますね
これについて話すのは 私だけではありません 釈迦牟尼仏陀が 在世の頃 目連もまたそこに 訪ねて行ったのです 涅槃(最高の天国)に 非常によく似た 他の種類の惑星に ついて話しましょう 彼方の人々は非常に リラックスしていて それほど働きません 地球の人々はたいへん 一生懸命働きます 毎日八時間か 十時間働いています また家では家族の 世話をせねばならず むこうでは 彼らは全く 働く必要はありません 一日中お茶を飲み おしゃべりをします 彼らはその様に髪を とかし化粧をします きれいな 洋服を着ます むこうでは 誰であれ 最も美しい人が 王になります
彼らは道徳とか 賢さに基づいて 王を選ぶのではなく 美しさで選びます その国では その惑星では 人々は このように生活します 働く必要はありません 皆は自分のニーズに 応じて十分持ちます 彼らの世界は より文明的で非常に 文明的だからです 彼らには超能力があり 非常にすぐに商品を 生産できる多くの とても良い機械が あります だから彼らは非常に リラックスしていて この種の品性を 持つのです 私たちが超能力とか 修行による 功徳を使って 時折または故意に その所を旅行するなら そこが涅槃の世界だと 思うでしょう‐ そこの人々は皆 非常に美しいからです
彼らはちょっと金色で 非常に美しく 非常に きれいに見えます 最上級の人々は 金色の着物を着ます 他の人々は 異なった色で 異なった衣服を着ます 私たちは向こうが 涅槃だと思うでしょう 何もする事なく ただ リラックスするから しかしながら 本当の 涅槃は異種の世界です 涅槃とは一日中そこに 座って 何もしないで 食物を食べ 着物を着るのでは ありません それは ただ一種の 物質世界で 私たちの 世界より ほんの少し 文明的であるだけです それは実際にまだ 霊界ではありません
こんな物質的な衣服を 見つけることが できません 物質的な物の必要性が なく 何も食べる 必要もありません 彼らの本性は このようで 何も 必要としないでしょう 涅槃は一種の 内面の状態です たとえば この世で 時々 入定しているとき 私たちは涅槃の状態を 体験できます それは非常に快適で 非常に高揚を感じます それを表現する方法を 全く知りません 既にこの世界で 瞑想して私達が その涅槃のレベルに 達した後 この世を 去る時 即ち死後 私達はある惑星に ある世界に行けます それは私たちが 涅槃で達したレベル 私たちが達した 到達度に合致します
それは永遠の涅槃です 私たちがこの世で 修行するとき 例えば 観音法門をするとき 入場しているときも 私たちは 涅槃を体験できます 涅槃とは この世には本当に 何もないことを知り 少しの願望さえなく 平和で満足な状態です けれども私達が一旦 三昧から出て 世界を 見ると まだする事が あるのがわかるので 私達はそれらの世話を しなければなりません 彼にとって 何も する事はありませんが 多くの他の人々には する事がまだあります
それで 一人で 涅槃を楽しむのに 耐えられないので 出かけて涅槃に達する 方法 知っている事を 人と共有します それで 彼らもまた 楽しめます この世のすべての人が 霊修行をし お互いに愛して お互いに助け合って お互いに信じると 涅槃に行く必要は 全くありません ここに留まって この世界を発展させ 地球を美化できます それで人々はここで唯 楽しむかもしれません それで十分です 涅槃の世界に行く 必要は全くありません しかしながら 私達の 世界は古代から一度も 変化していないので それに耐えられないか 好まない人もいます
彼らは涅槃に行きたい 釈迦牟尼仏が 在世のとき 成仏した後でさえ まだ言いました 「この世には余りにも 無明な人々が多い 無明な人々が多い 彼らを教えることが できないので 私が 涅槃に行く方が良い」 霊修行の後 悟りの境地を 得た後 多くの人々は このような考えです しかしながら 因縁のため 慈悲のため 彼はまだ世俗的な 世界と交流し 世界を旅行して回って 彼が得た体験を 私達の兄弟姉妹と 共有します それゆえに 苦労にもかかわらず 釈迦牟尼仏は四九年に 渡ってインド全域を 旅行して 当時の 人々に教えました
ですから 衆生を救うために とても苦しんだ イエスがいたのです ですから私達には 孔子と老子がいます 両方とも悟りを開いた マスターでした 大学と中庸を読むとき 彼らが修行を 話したことを知ります 彼らは他の悟った マスターとまさに同じ 事について話しました ある人は大学と中庸は とても深遠すぎて 理解できないと 思っています 彼らは大学を 高校で読んでいません なぜなら彼らには それを理解できない からです 実際 それほど理解は 難しくはないです 私達の観音修行者は それらを非常に明確に 理解することが できます
彼が話す事は私が 弟子に話した事と 同じだからです でも観音法門を 修行していないなら 彼が話している事は 理解できないでしょう 彼は自分の弟子達に 話しているだけです 例えば 医学について 勉強していなければ あなたが医学部へ行き 公聴しても 先生が話している その事は 理解できないでしょう しかし彼の学生達が 彼のことをよく 理解しているなら 他の医学部の学生で あってもその教師が 話す講義を聞けば 彼が話している事が 良く理解できます そうですね でも一般的人が 彼の所へ行っても 理解は難しいです
どんな時代であっても 関係なく 医師が 何を話しているか 何を記述しているか 理解できません 全くです 同様に 類は友を呼びます そのシステムが 私達の研究と 同じ記述なら 私達は理解できます また深遠かどうか あるいは 私達が専門家なら 私は全てを知っている とか 偉大な開悟に 到達したとか そのようなことは 言えませんが 私は大学と 中庸を読んで 非常に明確に 理解できます 彼らが何を話して いるかが分かります たった一文読んだ後 私は既に何について 話してるか分かります もはや続けて読む 必要がありません
私は目を閉じたままで 暫く読めます 私が理解している事を 話しているからです 著者が理解している 全く同様の事を 私が理解して いるからです 著者が言いたい事は 全く私の言いたい 事だからです 自分の魂を使い 他の場所へ行けるなら 地球は未だ不十分で 文明化されてなく他の 惑星と合わないと 分かるでしょう ある惑星は地球の ようで 物質的界にも 属しています ある惑星はより高次の 霊的な境界にあり 物質界に 属していません
例えば 私達がそこへ 昇って行くなら 自らの肉眼では それは見えないけれど 智慧眼で 見ることができます ある惑星は 自分の肉体で行けます UFOを使ってです 私達はこの種の惑星へ 行くロケットを持って います そうですね 私達は肉眼を持つ 肉体で見えます 彼らは私達と 非常に似ています 彼らの体は全く同じと いう訳ではないですが ある惑星の人々は目が 二つではなく 一つだけで ここに一つです 彼らの体は私達のと 異なります 彼らを初めて見た時 私達は思うでしょう 「わあお化けみたい」
でも彼らも人間です 他の惑星の彼らも 人間です ただ彼らの 惑星は私達のより 少し遠いだけです 私達と彼らの体は 同じではありませんが 考えは私達と 似ています 殆どの惑星は私達より 文明化されています 私達にはまだUFO さえありません 私達は他の惑星へ旅し 行きそこの人々を 見ることも出来ません 実際 彼らは彼ら自身 隠れているか 彼らの体は 異なる振動力を持ち 私達は全く彼らを 見る事ができません
私達は「ああここには 人類は存在しない」と いいえ 存在します
なぜ人間がいないのか そこにいなかったなら 釈迦牟尼仏は私達に 瑠璃光如来の 世界についてなど 教えなかったでしょう また彼は阿弥陀如来の 極楽浄土についても 教えなかったでしょう そして華厳経の世界に ついても教えることは なかったでしょう 釈迦牟尼仏も多くの 他の境界について 話をしました それである人々が私に 「釈迦牟尼仏は言った 音で私を聞くな 姿で私を見るなと」 なぜあなたは人々に 光を見て音を聞くよう 教えているのですか」 と尋ねます この光 この音は 物質的な光でも 音でもありません
また釈迦牟尼仏は 言いましたこれより前 他の項でです しかし 私達は忘れています 誰かが彼に聞きました 「あなたは三十二相の 良い化身を用いて 仏陀を判断しますか」 その人が基本的に 仏陀かどうか 三十二相の良い化身で 判断するの意味です それで彼は言いました 「その人が仏陀か 知るために三十二相の 化身は使用しません 輪廻聖王もまた 三十二相の良い姿を 持つから」釈迦は 引き続き説明しました 「私達は仏陀を 音や姿によって識別 することはできない」 彼は言及しています
外側 物質的な 良い姿ではなく 内面の世界からだと でなければなぜ彼は 私達に仏陀を知るよう 奨励したのでしょう なぜ彼は私達に 観音法門の修行を 奨励したのでしょう 何もないなら どんな法門も 不必要でしょう 法門が何であれ 私達は修行する必要は ないでしょう そこから何も得られ ないなら なぜ修行の 必要がありますか ではどこに 阿弥陀如来の世界は 属するのでしょうか 観音菩薩の化身は どこに 属するのでしょう どこに瑠璃世界は あるのでしょう
それで時に人々は 逆説的な質問を するのです その人は十分に 深く勉強してなく 彼はただ金剛経を 読んだだけで 阿弥陀経を理解しては いないという意味です 金剛経は非常に良く 私は良くないとは 言いません それは人々に音や姿に 執着しないように 忠告しています 外側の音と姿にです 内面の自らの仏性を 探すよう言っています またより実践的な 事を教えています 私達に慈善を行うよう 戒律を守るよう 謙虚に耐えるよう 修行に精進するよう 瞑想し智慧を得るよう 教えています 私達に役立ちます 金剛経に従って ただ唱和し 修行するだけでなく 慈善をすべきです 私達がお金を持つなら お金をあげるべきです 人々が苦しむなら 支援を提供すべきです 緊急に必要とする人に 誰にでも助けの手を 差し伸べるべきです 私達が 本当の法門を知るなら 良い教理 良い道徳基準を 持つなら他の人々に 広めるべきです
これが他者へ 「法門を与える」ことで 釈迦牟尼仏は法門を 他者へ与えることは 金を与えるよりも 重要で崇高なことだと 言っています 私達は このようにすべきです 私達はまた戒律を 守るべきです ただ五戒があるだけで 非常に明確に 守るべきです 盗まない 殺さない 飲酒しないなど これは皆が知る事です 慈善を与えないなら 戒律を守らない事です 謙虚に耐えない事です その代わりに 私達は人々と争い 人々の悪口を 一日中話し 多くの誤解や 争いを作り出します
そうであるなら私達は 仏陀ではありません 他の人々の悪口を 言う事は彼らの 善し悪しに関係がなく 汚染されることに なるのです 真の仏陀になるには 私達は戒律を 守るべきです 金剛経は私達が それらを修行すべきで 自分の人生を適応させ ただそれらを言葉上で 唱えるだけでて 後へ先へと議論し 誰が正しく間違って いるかをです いかにして彼らの 善悪が分かるでしょう 仏陀の言うことが 分かりますか 非常に理解するのは 難しいです 私達自身 仏陀になってなく 霊修行していないなら 仏陀の言う事を 理解するのは困難です
ただ唾液を無駄にする だけです 修行に精進するという ことはどういう意味か 法門を既に知って いるなら私達は 毎日瞑想すべきです 唱えるだけでなく 修行すべきです 知るだけでは不十分で これがいわゆる 「修行に精進する」こと 瞑想とは何でしょう 非常に明確です ね 私達は瞑想すべきだと いう意味です
「禅」はサンスクリット 語で「ディヤーナ」 意味は瞑想です 内面を見ることを 「ディヤーナ」と呼び 私達は「禅」と訳す 「サマディ」とは何か 瞑想した時 私達は サマディに入ります 私達が入定した時 非常に高い智慧の レベルに達し 多くの世界を知ります 以前は知らなかった 私達は多くの事を 夢にも思わなかった 事を理解できる 存在となるのです これらはすべて サマディーに含みます この後私達には 智慧があると言えます どれくらいかは 分かりませんが 幾らか智慧があります 智慧を持ち始めます
それは金剛経を とても理解している という意味になります 私達は修行をする ことでそれを理解し 特に私達は サマディーおよび 智慧が何であるかを 完全に理解するために 瞑想するべきです 私達の世界を 他の惑星のように それほど高い レベルではないが とても良く かなり文明化し 快適に変えたければ 自身の内側から 変わらねばなりません 私達は多くの計画を 兵器か軍事力を 使用することにより お金を使うかまたは 戦争によって 世界を変えることは できません 私達の地球には 世々代々戦争があり いつでも ある国と他国の間に 戦争があり またある国では 内戦があります しかし私達の世界は 今まで変わってません 地球の人々の大部分が 良い人間になる 修行をしていないので 一部を変えるのに 私達は別の部分を 破壊します 仏陀になることに 関してではなく まだ 良い人間に なることに関して 話しているだけです
更に 米国ロデール研究所も 確証しています 世界中の耕作可能な 土地で有機農業を 行うなら 大気中の CO2の40%は 自然と土壌に 吸収されるといいます またドイツの研究では 有機ビーガン食が 最終的に食事の 温室効果ガス排出を 最高94%まで削減 できると発見しました わあ考えてみて下さい
親愛なるマスター 衆生の肉を食べる ということは 前世での私達の 両親の肉を食べるのと 同じかどうか 説明して頂けますか
釈迦牟尼仏は そう言いました すべての衆生の中で 世々代々少なくとも 一世で 彼らのうちの 一人は親類か友人で あったに違いないと 言いました どんな方法で私達の 内面の魔を取り除く ことができますか 霊修行が必要です 観音法門が 一番早いです 他にもっと早い方法を 知っているのなら 早く修行してください 私達の内面のいわゆる 誤解した考えを洗う 内面の仏陀のパワーを 使わないと その魔を 退散させることが できません
魔は幻想です 魔は正しくない 間違った考えです 全ての宗教が一つなら 仏陀はどうして人々に ベジタリアンを 要求しましたか 仏陀によると 人は殺さない場合だけ 仏陀に なることができます けれどもなぜ他の宗教 キリスト教イスラム教 または道教では 人々が菜食になる 必要がないのですか それは現在 私達にはあまりにも 多くの誤解が あるからです 聖書にたくさんあり こう言っています 肉を食べてはいけない 酒を飲んではいけない 聖書には あなたは肉を食べたり 酒を飲む人と交じる べきではないとさえ 書かれています サンプル小冊子で なぜ菜食であるべきか 説明しています 聖書はいかに人々に 菜食になるように 助言するか話ました 帰ったら注意して 読んでください
肉食をする人にとって たぶん彼は 良い人間であれば 十分だと信じています 他の人が既に 動物を殺したので 彼は肉を食べます 彼は自分で 動物を殺しません 彼はどんな戒律も 破っていない 彼はそう思っています
あなたが 五戒を守るなら 殺生しない 盗まない 邪淫をしない 嘘をつかない 賭け事 麻薬を摂らないなど そして社会で 悪いことや 法律を破らない それならあなたは 人間に 良い人間に 普通の良い人間に 戻ることができます 殺したなら 結果は より深刻です
聖人になりたければ 悟りたければ 仏陀に なりたいと思うなら 菜食者にならねば なありません 慈悲を 持つべきだからです 例えば全ての人は イエスではありません イエスは悟りを開いた 素晴らしい人です わかりますか 彼の レベルは非常に高く 彼は神と一つになり 「私と天の父は一つ」と 彼は言いました しかし彼の信者が皆 イエスと同じものを 食べなかったので イエスのように 神と一つであるとは 言えません イエスも人は菜食者に なるべきと教えてます
聖書で神は「全ての 青草と木々 果物が 汝の食べ物である」と 肉は汝の食べ物だとは 言っていません 動物を殺し食べるべき とは言っていません 彼は果物と木々が 汝の食べ物だと言い 第一章は菜食者に なるよう すでに話しています 多くの種のカトリック 教徒がいます 私の信仰者にも 多くの種類の人がいて 印心をした者も いれば 方便法を修めている 人もいます 方便法さえも 修めていない 人もいます 彼らはただ 私の写真を持って帰り 崇拝して お金を祈願します
彼らも私の信者で あると自称し 私をゆがめて伝えます でも彼らも信心があり それも結構です それは気にしません 私は区別しません でも私が彼らを教える という意味ではない 分りますか私が彼らに 世間の利益のために 写真を崇拝することを 教えるとは言えません 私はそれを教えません 彼ら自身がそう信じ 彼らはそれが好きです 彼らを止めることが できず 誰が何をして いるか知りません 彼らの人数があまりに 多いので 私は彼らを 止められません しかし彼らもやはり 私の信者を自称します 私の本当の信者は しっかりと 五戒を守る者です
彼らは少しの肉や卵も 食べることができず 一滴の酒も 飲むことができず 賭博できず 薬物を使えず タバコさえ吸いません 彼らは一日に 少なくても二時間半 瞑想すべきです 善行をし 慈善を行い 人々を愛し 互いに保護し合い 他の宗教を保護し 動物を含むすべての 衆生を愛する 必要があります 必要でなければ 彼らは草または木さえ 傷つけません 彼らは盗みません こういった人が 私の本当の信者です しかし多くの人も 私の信者を自称します 彼らはやりたいことは 何でもやります 私に何が言えますか 同様に多くの種類の カトリック教徒と 仏教徒がいます 彼らの何人かは 剃髪して 僧侶になり 仏陀を模範として 修行して 禁欲的生活を送ります 他の人は自宅で修行 しますが 菜食者です 彼らはしばしば