智慧の言葉
 
内面の力を解き放つ 1/3 一九八九年六月八日コスタリカ(スペイン語)   
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こんばんは 皆さま 観音法門の会議に はいる前に 果物と花の贈呈を いたします

皆さま 偉大なスプリーム マスターチンハイを お迎え致しましょう しばらく目を閉じて 神の愛と 私達への 恩恵を思い出す為に お祈り頂けます でしょうか 私達は神に感謝します 私達に与えて 下さった全てに 幸せも悲しみも 幸せは勇気を与え 悲しみは浄化します アーメン!ありがとうございます

親愛なる友よ  家に帰ったように感じます 帰って来ました この数日 皆さんが 示された愛の為です コスタリカに 到着して以来 通りの 見知らぬ人 学校の子供達 バスの乗客 レストランのお客さん 皆さんそうです 皆が私をご存知なので この国の皆と知り合い のように感じます この数日 神は私達を 愛していると感じます 見えない愛ある方法で 神が私達と一つに なったと感じます 珍しく 大変感傷的な 気持ちで一杯になり 自分でも驚く程です 涙がこぼれそうですが こらえています 一旦涙が出ると その感情が 弱まって しまいますから その言葉にできない 恩恵を 楽しみたいのです 皆さんも同様に感じて いらっしゃるでしょう そう願っています そうですか? では 感傷的なことは 終わりにして 良い話をしましょう そうでないと 私は 黙ったまま 二時間 泣き続けてしまいます

皆さんは家に帰って 思うでしょう「どんな マスターなのかしら 遥々やって来て泣いて 何も言わないとは」と 多分それは最良の方法 かもしれません でも 私達は普通に よりなじみのある 標準的方法で 対応すると思います つまり 聴衆の期待にこたえて お話しするという ことです 説明不可能な事を 最善を尽くして 説明してみましょう 私がお話ししようと するのは 人間の 言語で伝えるには 容易ではない事です それを 物語を通じ たとえを通じ 内面の認識を 通じて試みます 今日 素晴らしい ジャーナリストが 取材に来られました 彼は尋ねると同時に ある事を確認しました 彼は言いました 「大昔から 神は 多くの使者を 神の愛 メッセージ 真理 人類への 戒律を伝えるために 地球に遣わしましたが 理解し 従う人は 多くはありません」

彼の質問は私が如何に 仕事をするのかという たぐいの事でした そこでこう答えました 「人々が話を聞こうが 聞くまいが 彼らは この地上で神の役割を 果たしています」と 家に帰る準備ができて いない人もいます 彼らの仕事が未完なら 私の話に耳を傾けない かもしれません 彼らが悪いという 意味ではありません ここでの仕事が 未完なので 神の意志で この世の楽しみ 富 喜び 仕事 義務 あるいは愛情に  執着や愛や 束縛を 感じるのです  地球上での責務を 完結した人々は 家に帰る事を望み 焦がれます 彼らは神への回帰を 神の王国への道を 切望します そして私の伝言を 理解し それに 従うでしょう こういった人々は この世にうんざりして いるからです

ここではもう何もする 必要がないと感じます 望むのは 神の元へ 戻ること 万物の源へ 帰ることだけです そこでこの人々の為に 私は 目標を認識する 手助けをしています これが唯一の目的です たった一つの責務です 神の王国へ 人々を 連れ帰るためです 他の人々には彼らの 責務があります 私の唯一の責務は 準備のできた魂を 天の父の家へ 彼らの来た所に 戻す事です 他の人が続かずとも 私は気に留めません 不快に思いません 憤慨も不快感も 幻滅もありません  たとえ人々が 私の話に怒り 軽蔑し 信じなくともです その人々は 私にも 私の使命にも  何の関係も ありませんから 理解していないだけの事です 将来 多くの 人生を経た後 百年後 千年後に 理解するでしょう

それは 例えばですが 仏陀 キリストの 存命中 彼らの メッセージは常に皆に 歓迎されたとは 限りません 当時はそうでした でも現在の信者の 数をご覧なさい 数千年経った今では 如何に多くの 崇敬者が いることか ちょうど 子供が成長して  理解したことも 幼かった頃には 分らなかったのと 同じです 神へ戻る事については 既に多くの 方法があります 隣人を愛す 敵を愛す 慈善を施す 日曜日に 教会へ行く 毎朝 毎晩 お祈りをする 又は瞑想する イエスの名を唱える 聖人の名を唱える 数珠を爪繰る 唱えて 数珠を爪繰るなどあるいは断食 巡礼をするなどです ですからこう言います チンハイはいったい 何を話したいのか? 私達は既に何でも 知ってるのに」 ノー? イエス?

皆さんは既に全て ご存知ですよね イエスと言う人も ノーと言う人もいます 「はい 知っています」 「いえ 知りません」と 知っていますね 神の 存在をご存知ですから 神は存在するはずです 或いは 偉大な力が 人知を超えた 偉大な力がです 一つあると知ってます 「はい」という理由は 私達は時々試みるから 時には誠実に 時には 無意識に そのパワー 至高の全能の力に 触れようとするから そして「いいえ」は 殆どの私達の誠意は 仕事の忙しさと 日々のプレッシャーの 苛立ちの中で 失われるからです そのため 努力し 時間をかけて祈り 瞑想し 聖名や経典を 唱えても 神に届かないか ほんのたまにしか 届かないのです それで時には 努力が 徒労に終わるのです また 時には真の神を 知ることを切望します

神の真の姿は どんなふうで 神とはどんなものかと  そして知りたがります 「なぜ 『愛ある神』が私達に 多くの災いや困難を 送りつけるのか」と そうですね OK 私も皆さんに お答えはできませんが 神の見つけ方をお教えする方法は あります ですから 皆さんは 神の髭をつかんで ご自分で尋ねて下さい 神に尋ねられますよ 「なぜですか?」と 怒って地団駄を踏む 子供の様に 天の父に 「なぜですか  皆があなたの事を 愛だ 神は愛だ  慈悲深く 非常に 力強いと言いますが  なぜ地球は 苦難で 一杯なのですか」と そうしたいですか 神に直接 尋ねられます 自らの通訳を使えば 皆さんが信じても 信じなくてもです 私は神に尋ね 答えを得ました 

神は多くの秘密を教えてくれました 幾つかはご紹介 しますが 幾つかは それに該当する 言葉がありません というのは 理解できて 人知で把握でき 人の言語で表現できる ものもありますが 不可能なものも あるからです そういった意識レベル その様な経験や 内面の認識に見合う 人の言語がないのです ただひとつ お勧めできるのは 自ら探索する事です もし私が この表現 不可能な意識レベルや 認識について 話を 続けたら 真の意味を 強力な意味を台無しに してしまうかも しれないからです 現在では  多くの方法で 神に近づけます それを耳にしたり それに関する 本を読んだりします 現在では どれも ある程度 役立ちます また その方法を 使う事ができ 多くの様々な 意識レベルに 達する事ができ 異なるレベルの神に 近づけます けれども 観音法門 すなわち 神の光と神の言葉― 聖書にある  「言葉」と音―に 連絡する方法が 最善の方法だと なぜ言うのでしょう

それが私達を苦しみや 精神的苦労から すぐに解放して くれるからです それは私達をすぐに いわゆる罪の重荷 原罪の プレッシャーから 解放してくれるので 即座の解放を感じ 即座に 神のそばにいると 感じられます この方法はもっとも 強力だからです なぜ 観音法門は そのような 強力な  即座の開悟を もたらすのでしょうか それは これが 私達自身の力  生れながらの神の性質だからで これを 仏性とも言います 私達は先天的な性質 真の力 自身の力を 目覚めさせ 外部に 頼らないのです 仏陀が言っています 「自分に頼り 他の誰も頼るな」と この自分とは 仏性のことです この人間ではない 偉大なる自分 ええ 本当の自分です これがキリスト教の 言葉で言う 「内面にある 神の王国」すなわち 先天的に 私達の中にある 神の本質です 聖書にもこうあります 神は人間を ご自分の 似姿に造られた つまり 私達は神の 本質を持っていて 神と同等なのです

内面的に言えばです もちろん 私達が 神と同等ならば・・ または生まれつきなら 少なくとも 私達は神の子です もし あえて神と 同等と言えないなら 神の子だと 言っても良いでしょう なぜ神は輝かしく 超然として 愛に溢れ 美しく 皆から 崇拝されるのでしょう なぜ私達はこの世界に 這いつくばり 避けがたい痛みや 悲しみが あるのでしょうか それは私達が 外面で何かを 手にすること 何かをすること 何かを考えること 何かを計画することに 忙しすぎて  休み 委ねる事を忘れ 内面の神の本質 真の魂 真の人 真の自分を 自分の為に働かせ 助けさせることを忘れ 自分の最強の力の源 内面の力を使う事を 忘れたからです それこそが神の王国 神の本質 神の姿 仏性なのです 神は 私達の中に 宿っているからです

神は 私達を造った時 命を救う力を与える 事を忘れませんでした ただ私達はその存在を 忘れているのです 私達は外面の 自分だけを使い 真の 自分を使っていません 例えば 車が動かず 路肩に 止まっているとします 運転手は眠っているか 酔っ払っています さあ この人を 起こすか 目が覚める薬や 冷たい水を与え 彼の眠気を 払う必要があります そすれば 彼は車を 動かせるでしょう ところが 私達は 車を押すのです 車はドアも窓も閉まり 運転手は眠っていて エンジンは動きません 私達は 押して押して 押し続けます 不運にも その車は とても重いので 手に負えません ひどい車です 車のメーカーも ひどいし  ブランドもひどいので こんな車は 二度と買いません 私達は押し過ぎて 疲れているからです

では 皆が普通の 感覚の大人なら 誰か あるいは子供が こういうことを しているのを見れば 当然 この子供達は 賢くないし 理屈を 知らないと思います 私達は彼らに言います 「ねえ 子供たち」 又は 「貴方達 そんな事を しないで! 止めて 静かに  運転手を起こせば 彼は何でもします」と 同じことが聖人にも 起るのです 聖人 または 勤勉に 修行をしている人が 神の意識に 達した時  物事を とてもはっきり 論理的に理解します そして 物事を 正しく行う方法を 人々に伝えます 最短の時間 最低限の 努力で 最高の 結果を得るのです ただ 運転手を起こす 手伝いをすれば 私達は車を押す 必要はありません 車に乗って楽しむ事も  できます この世界で 不幸や 問題が色々起きるのは 私達が真の自分を 起こさないからです また ただ懸命に働き 沢山考え そして 様々な方法で この世界での仕事を 自分の限りある 能力で  体力で また知識で しているからです ですから たとえ 世界でも最高の 大学を卒業しても 私達は完全に 賢くは ないのです 智慧と知識は 智慧と知識は 別のものだからです
聖人 または 勤勉に 修行をしている人が 神の意識に 達した時  物事をとてもはっきり 論理的に理解します そして 物事を 正しく行う方法を 人々に伝えます 最短の時間 最低限の 努力で 最高の 結果を得るのです ただ 運転手を起こす 手伝いをすれば 私達は車を押す 必要はありません 車に乗って楽しむ事も  できます この世界で 不幸や 問題が色々起きるのは 私達が真の自分を 起こさないからです また ただ懸命に働き 沢山考え そして さまざまな方法で この世界での仕事を 自分の限りある 能力 体力で また 知識で しているからです ですから たとえ 世界でも最高の 大学を卒業しても 私達は完全に 賢くは ないのです 智慧と知識は 別のものだからです

知識的な格闘と 同じことです 何時間も何日も 神について議論しても 分らないでしょう それが知識的なのです 話し方は知っています 文章を並べて 議論をする方法は 知っていても  話している事の 本質は分っていません 智慧なら 話さないと 私達は知っています 話す必要もありません 伝えるのは人類全体の利益のため 一部を伝える 使命がある時だけです 使命がある時だけです しかし言語だけで 終わる訳ではないです 言語を使っても 内面で認識した 真理の二割か三割しか 伝えられません けれども 目も使えますし 無形の愛を 使ったり 癒しのエネルギーを 使って 聴衆の心に触れて リラックスさせ 再び神への信心を 持たせる事もできます 社会の 重圧によって苦しむ 不幸を癒やし 神の存在への 疑いを解消し 自らに関する疑いや 自らの内なる王国に 存在する本当の力に 関する疑いを 解消します

ただ 私達を見たり 話を聞いたり 私達の 愛のエネルギーにより 肉体的な 癒しを得る人もいます これは神の認識から 得られる利益の ほんの一部です 自分自身だけでなく 私達に近づく誰もが 利益を得られます ですから 私達の 悲しみはそう多くなく 宇宙のあらゆる 神秘を知ります なぜこれこれのことが 起こるのか  なぜ誰々は貧しく 誰々は裕福で 誰々は幸せで 誰々は不幸なのかなど そして それによって 彼らを癒します 内なる神の力によって 沈黙の中で  私達は彼らに答えます 私達は神と一体に なるからです 「私は父と一体です」と イエスが言ったように 神と一体になる時 できない事など 何もありません 分らないことなど 何もありません 達成できないことなど ありません 全てが分り 遍在します

また 何も知らず どこにもいません 内面では 言わなくても これらの事が分ります 私がそう言うと 皆 思います 「知る事と知らない事 いる事といない事って いったい何だろう」と イエスも同じことを 言いました 「私は働く」 そして言いました 「私ではなく 神が私を通して働く」 聖パウロも言いました 「私は生きている いや 生きてるのは私でなく 私の中のキリストだ」 これらの人々 聖人は エゴがなく「私」という 感覚がないからです まさに神そのものに なったのです イエスが「私と父は ひとつ」と言っても 彼が尊大だった わけではありません 彼が「私は神の子」と 宣告した時  高慢だったのではなく 真実を言っただけです 医大を卒業して 医者になり 「私は医者です」と 言うのと同じことです

でも みな驚きます 時々 この世界で 自分の兄弟や 姉妹の反応に 驚かされます 誰かが卒業して 医者になった場合 彼がそう言っても 誰も非難しません 又は 誰かが誰かと 結婚して 「今 私は夫です」と 言っても 誰もそれについて 何も言いません 皆がこう言うでしょう 「おめでとう!」と 違いますか? しかし イエスや 仏陀のような人が 自分は神と一体に なった 神と結婚した 神と一つになった 「私と私の 父は一体です」と 宣告したら 人々は彼らに石を 投げつけます 驚きですよね? この世には  多くの学問があると 知らねばなりません ある人は医学を学び ある人は工学を ある人は建築  農業を勉強します 大学によりますね 卒業した後 例えば その大学を出て エンジニアになるので 言います「OK  私はエンジニアです これこれの機械を 修理できて  これこれを 作れます」と しかし 私達が 知るべき 非物質的な 研究もあります

大いなる自己や 内なる神の見えない パワーを知る方法や 航空機を使わず 惑星間を旅する 方法などが分ります これも 一種の科学です そして 世のはじめから この科学を人々に 教えるために 常に 学校があります こういったものは 非物質的な ものなので 博士号も 医師免許もなく 卒業証書もありません 従って 誰が卒業して 誰がしていないか 分りにくいのです しかし 私たちは 彼らの話のパワーや 彼らから放たれる 愛の波動  力強いエネルギーで 知ることができます 彼らの生き方の チェックや 彼らの誠意から 或いは私達に示すよう 神に祈る事でも 分ります 「それは あなたから送られた 本物ですか?」と 純粋な心で 誠心誠意 尋ねれば 神は答えるでしょう そして 誰が 真の神の使者で あるかを確信します

イエスや仏陀の 時代の人々が  時間をかけ 根気強く そうしていれば 仏陀やキリストの 使命である事に異議を 唱えなかったでしょう しかし 無知で 乱暴で非道徳的な 生き方に慣れていた 彼らは 神人 つまり 神を理解した人を 確かめるのに必要な 時間を取らず 忍耐も ありませんでした 現代では そのための 時間は いっそう 少ないかもしれません ですから最高の方法は 神に祈り その人が 神の存在を  証拠できるかどうか 尋ねることです しかも すぐに 長年の試練や 弟子になること なしにです なぜなら 昔は マスター いわゆる マスターや神の使者を 得る事は困難で 見つけるのも難しく 彼らから 何かを得るのも 難しかったからです それでよく聞くのは 人々が マスターや 聖者のもとで 長年仕えて やっと  内なる秘密を明かして もらうという話です

しかし現代人はそんな  時間はありません 私たちはマスターを 見つけるために 丘を越え 川を渡り 山や寺に行って 何年もそこに滞在して 叱られたり打たれたり 酷使されたりして 多少の悟りを得ると いうことはできません 負担が多すぎます! 子供や妻の世話を する人もいません 昔は 子供や妻が 残されても 裕福な家で働くか 街で物乞いをするか 農場で働くか 又は単純な仕事 手工芸などで 生きていかれた かもしれません しかし 今の時代 妻子を残して行ったら 彼らは死んでしまうと 私は思います 家を借りなければ なりません 昔の様に 何処ででも暮す訳には いきませんから 昔は 家がなくても 町でも 野原でも どこででも キャンプできました 誰にも煩わされません しかし 今は至る所が 人に所有されています あちこち歩き回り 好きな所でキャンプし 単純な生活を 送る事などできません

現代は 誰でも家で 使用人を雇う余裕が あるとは限りません 職探しは難しいのです 今の時代は 非常に文明化していて 私達はものを多く持ち 生活を快適にする物も 多く持ちます ただ その為に懸命に 働かねばなりません これらの 快適さを得るには 古代より懸命に 働かねばなりません より快適であるほど より働かなければ ならないのです 時には 地位のために 日産ではだめで ベンツを持たねば なりません 農村ではなく 高級な地域に 住まねばなりません 社会的名声により これらの高級なものを 示さねばなりません 名声があれば 高価な車の為に おそらく毎月 支払わなければ なりません 地価のうんと高い 地域で家を借りて 沢山の費用も掛ります それらの費用により 地位を手放せず 高級品を買う為にその地位に しがみ付かなければ なりません 仕事を失うのが怖くて 自分の地位の 奴隷になります

もし こういった 贅沢なものがなければ この地位もないのです 私達が稼いだお金は 殆ど 地位と贅沢を 保つために支払い 消えてしまいます 「ダブルロック」です こうして 現在 私達は 重荷や プレッシャーから 解放されるのが 難しい状況にあります もしも とても小さいけれど 美しい家に住んで 安い車を持てば それほど働かなくても いいかもしれません 10年か20年後に 退職したら 余暇の時間と趣味を 楽しむのです ところが  私達は 仕事や名声を同様に することを望み その体裁を保つため それと共に走り続け 長年働かなくては ならないのです その渦中に いるので 逃げ出せません 虎の背に乗っている為 首にしがみつき 一緒に走らなくては ならないようです 時には 恐ろしいことと知って やめようと思っても やめられません それは いかに文明が 私達に提供する 快適さで私達をきつく 縛るかということです さて 「そんなことは もう分ってる なぜ彼女は話すのか」

私は解決方法を 提供したいので お話しするのです このゲームには 別の出口―出る方法が あるはずです 私達は地位や 贅沢を放棄する必要は ありません しかも 私達の首をつかまえ 窮屈で  居心地悪くする 重圧を捨て去ることが できるのです それは 私達が 神に伴われ 自由を見出す事です

私達は既に神の 存在の中にいます ただ 私達がそれを 認識していない だけです それでこの世の 重圧とともに 切り離され 孤独だと 重荷に感じるのです 私の目的は 私達は 神の存在を  一目 若しくは 何回か垣間見られ 神の助け 愛と助言を  再確認できると 伝えることです 従って 皆さんは 再び神と直接交信する この方法を 提供されるのです そして 人生の 毎日 毎分 再び 神の存在から 離れる事はありません その認識 その悟り そして 神の力と 直接連絡した後は 皆さんの人生を ずっと維持し 宇宙で最も パワフルで 持続する力を決して 忘れないでしょう そうして  この圧倒的に 強烈な愛により 私達が現在感じる 重圧は 一切なくなるでしょう 私達は 自分の 地位や 贅沢を 重荷なしに 享受できるでしょう

すると 神は 真の愛であり 本当に 安らぎのみを与える事が分ります この時 神が私達に 悲しみを少し 与えるとしたら それは人のはかなさや 神の王国の 安全なとりでに 戻らねばならない事を 思い出させるためです 私達が神を 忘れれば いつでも 思い出させてくれます 神は まず優しく 思い出させます その後 私達がこの優しい 助言を聞かなければ やや強く そして かなり強くなるまで 私達を押すでしょう ですから 神に強く 押されていないなら 強く押されるまで 待たないで下さい すでに強く押して いるなら どうぞ 直ちに神の王国に戻り 神が提供する  内面の安らぎを 享受して下さい 皆さんが 既に 方法をご存知なら 喜ばしいことです ご存知なければ どうか お手伝い させてください すべては 無料で 無条件です 仕事 地位 信条 宗教 妻子も そのままで よろしいのです

では今から皆さんの 質問にお答えする 時間を設けましょう どうか遠慮なく 何でも聞いて下さい

皆さんの心温かい ご清聴に感謝します 皆さんと再会できて 楽しかったです
最初の質問です この会議の後 普通の生活に 戻る時の助言は どんなことでしょう 最初にやるべき事は 何でしょうか ああ・・・ それは 外の受け付けで 自分の名前を書いて 印心を受けて 悟りを開きたい と 言うことです それが まず すべき事です 二番目は そのための 必要条件を読むこと 三番目は 悟りを開くこと とても簡単です どうやって個人的に お会いできますか ここに滞在され 短期間か長期間 教えられますか  すぐに行かれますか ブラジルと アルゼンチンへ行く為 十一日に発ちます 世界ツアー中ですので でも本当に 緊急な事があるなら 私に会えます でなければ この後 いつか聞いて下さい 講演の後 個人的に 私に尋ねてもいいです 本当に緊急で個人的に 私に話す必要が あるなら 歓迎します

どうやって苦しみを 止められますか 幸せになることです 幸せの大いなる源は 神からの慰めで 悟りを開いた後 毎日繰り返して 悟り続ければ 幸せを与えられ 苦しみが減ります 医者が薬を与えると 痛みが 日々 減っていって ますます強くなる ようなものです 厳密に言うと 印心とは何でしょうか 印心とは 見えない プロセスです 言葉では 表現できません でも 私は何時間も 話しますが 皆さんが 伝授される時 何も話しません 私は どのように座るか どう集中するか 神の加持をどう 受けるか 毎日どう やって神聖になるか 落し穴をどう避けるか どのように信心を強め 毎日 よりよく より神に近付くか 日々の生活の中で どのように修行し 日々の生活に 神の加持をもたらすか それを話します

しかし この方法は 完全に沈黙です 全く無言の中で 伝授して 皆さんが 悟りを開くのです それがなければ 何も得られません 沈黙の中で 悟りを開くのです 私は沈黙の中で 伝授します 皆さんは 即座に 悟りを開き 神と連絡を取り 幾つかの体験 皆さんの信仰と 日々の信心を刺激する 何かを見る以外 何も多く 語る事はありません 神を 垣間見ることをせず その素晴らしい声を 聞かなければ 神を 知る事はできず 神が本当に存在するか 確信しないでしょう ですから皆さんは神を 垣間見るべきなのです  すると毎日 神の恵みを得ます 神は本当に存在するし  神は本当に愛され 祝福されることが 確実に分ります

この法門が 話される わけではありません 私は 集中についてや 座り方 祝福を得る方法 そして 日々いかに 瞑想するかについて お話しします ただ 法門は 沈黙の中にあり 皆さんも沈黙の中で 悟ります 皆さんは 悟りを得るでしょう これは神への 近道です 時間の節約です 次の質問です 愛とは何でしょうか 愛とは何かですって こういうことです 誰かに強く親しみを 感じ  好意があって 共にいたいとき ―それが愛です 自分のあらゆる 短所 失敗  エゴにもかかわらず  誰かが それでも 守り 導き 愛し 助け 祝福して くれると感じるとき それが愛です すなわち 誠実な友人の愛 妻や夫の愛  子から親への 親から子への愛 それは神の宇宙的な 愛のわずかな部分です

しかし 神の愛は この人間の愛の  数千 数百万倍 無限倍以上です 私は神の愛を伝える ことができませんが 神の愛に導きます 皆さんが自ら経験して そこに浸り 楽しみ そして 甘やかされるために そして この世には それに 匹敵するものが ないとわかるでしょう この人生で最も 幸福な瞬間でさえ 神の愛の中に 深く浸っている ときの恍惚感とは 比べものに なりません 願望がコントロール できないほど強いなら  それから  どう解放されますか これは とても良い質問ですね 私たちは欲望を 抑えません 私たちにはできません 神だけができます 私たちが印心の後 神の存在の中にいるか 神と接触しているとき この世のどんな 欲望も 徐々に少なく なるのを感じます 楽しみますが 望みません

内面の存在を 充足させます 何も必要を感じず それでもすべてが あるでしょう 私は一瞬一瞬 幸せを感じます 生活の瞬間瞬間に 充実と満足を感じます 神が 私に必要な 全てにより 内面の 存在を満たすからです 私が大きく美しい 寺に住んでいるので 幸福だと思うかも しれませんがNOです 私は森で テントに住んでいます 弟子も皆  テント暮らしです 皆 私が布施を多く 貰うので幸福だと思う かもしれません いいえ 私は布施を受けません 人々が来て地べたで ひれ伏すので 私は非常に自慢に 思って幸福であると 考えるかもしれません いいえ 私は誰にも 平伏させません こう言います「内なる 神に平伏して下さい 仏陀は中にいます 神は中にいます それを発達させ 自らを崇拝して下さい 皆 偉大なのだから」 自分が偉大であるのを 知ることと 自慢に 思うのは別のことです

自分がいかに 偉大かを知れば 非常に謙虚になります この世の中で どんな形でも誇るのは 一種の劣等感です 他の形での 劣等感です 自分の偉大さを 知らないので  たったそれ程だけ 偉大だと思うのです 自分は医師だと  思って  誇りに思います 教授だと 思って 誇りに思います いいえ 神なのです 自分が教授である ことを誇りに思うなら 自分を見下すと いうことです 神の宇宙の中での 自分の地位を 過少評価しています それで私は 無意識の  別の種類の劣等感だと 言うのです 悟りを知り  それを感じれば 神に向かう道を 終えたと 確信するのですか いったん悟ったと  しても まだ終わっていません ほんの始まりです 故郷に行く道を歩き始めただけです

毎日 歩くべきです 悟りとは これが 故郷に帰る 道だと知ることで  日々 道に迷ったり 道を誤ったりせず 歩き続けることを 意味します ですから 日々 神との この接触を 強化すべきであり 私もその方法を  お伝えするのです 印心は ほんの始まりです その後に マスターは新印心者 求道者の過程の 世話をする必要があり その人が 完全に成長すると マスターの仕事は 終わります 大学に入れば  博士号を手にするまで 教授は教えるべきで あるのと同じです その後 本人も教授に なるかもしれません 教授と同じレベルです 今日私たちにその道を 示されるのですか はい 時間が許して ご興味があれば だめでしたら ほかの 時間をアレンジします

この大学にどのくらい いられるか 分りませんから 時には時間が 限られますので待てないですか 待てません? 渇望しているのですね お気持ちは分ります よく分ります 空腹の時や 喉が渇いている時より 必死ですね 出来るだけご希望が 叶うようにしましょう ここにいられるのは 十時までです 印心を受けたい方が いらっしゃれば この後でも できますが 夜中を過ぎて 朝の二時三時まで かかるかもしれません それでもよろしい でしょうか  私のほうは大丈夫です だめでしたら   もっと時間がある時に 一日ゆっくりの 設定でもいいですね 明日の昼間などにでも 霊修行をしたいと 思います 独身で 子供と暮らしています あなたとお話し したいと思います はい イエスは  彼を通すのが  唯一の道と言いました どういう意味ですか 「私を通して以外は 誰も父の前に 行かれません」です イエスの言葉の意味と この言葉に対する ご見解は?

まったく同感です イエスの言葉の意味は  彼がこの世界にいた時 「彼は道で 世界の 光だ」という事です 実は こう言いました 「私が この世界にいる限り 私は世界の光です」 彼は「私が世界にいる 限り」と言ったのです その意味は 在世の マスターがいる場合は マスターの 光に従い家に帰るべき ということです そのマスターが 亡くなったら  伝承者である ほかの マスターに従うのです イエスが神の国に 戻った時 彼は その鍵をペトロに 渡しましたね 違いますか ペトロの鍵はここです 私が持っています このコスタリカで 如何にマスターの 教えに従うべきですか 違いはありません 私とイエスの教えには 違いはありません 皆既に その教えの 一部に従っています つまり十戒です 私が加えたのは 開悟です イエス 神との つながりで すると 直接 イエス  神と交流が出来ます 直接 尋ねられます 瞑想中や 印心の時 イエスを 見ることもあります 印心の時  座ってすぐに 見ることもあります

信心が十分に強ければですが 一部の弟子は 既に見ました 彼らは印心を受けて 何日も経っていませんよろしいですか 十戒はご存知ですね 十戒の一つが 「汝殺すなかれ」です 多くの人は人間だけを 殺してはならないと 理解しています しかし 神の言う 意味は違います 全ての生き物を 殺してはならない ということです 私達の弟や妹である 動物も含まれています 不殺生の もっと 深い意味を理解して いただきたいのです つまり 慈愛のある 生活を送り 聖書に こう書かれている通り 食べてはいけません 「食べる事で あなた方の兄弟を 躓かせ 落とすものは 食べてはならない」 覚えておいでですか また 肉を食べる人 酒を飲む人と 交わるなかれ これは不殺生の 真の意味です 動物も殺さず 食べないことです

私達が肉を食べれば  他の人が 殺すことになるので 間接殺生になります 私が唯一 皆さんに 注意を喚起したいのは 十戒の深い意味に 対する理解です ほかに何の新しい 教えもありません 内面の自分を 呼び起こすだけで 新しいことは 何も教えていません よろしいですか 聖書では 菜食する ように教えていない と言うかもしれません 聖書の多くの節や 言葉では 肉を食べず 酒を飲まないように 教えていると気づいて いただきたいのです 「腹のための肉も 肉のための腹も 神は両方とも滅ぼす その肉も腹も」 「肉食者と酒飲みとは 交わるなかれ」 どういう意味でしょう 聖書には 神は一回 怒ったことが 書かれています 神に肉を求めた 人がいました 

神は形質変換の マジックパワーを使い 彼らに 雨のように 肉を降らしました その後 神は彼らを 皆殺しにしました そうですね 聖書のほかの節では こう書かれています 「牛や羊を 私に捧げるために 殺すな」 私とは神を指します 「あなた方の罪が 許されるよう 無垢な 者の血を洗いなさい 罪を懺悔しなさい でなければあなた方の 祈りを聞きません  あなた方の手は無垢な 者の血に濡れている」 神が動物を殺して 自分に捧げることを 禁じるなら 私達に 自分のために 動物を殺すことを 許すでしょうか 人は神より偉大ですか ありがとう

人が神に近づくには 内面のエネルギーを 創造し それを 保つべきですか いいえ あなたがこの学校を 信じるなら 彼らに 従うでしょう 私達の方法では 何も 創造しないのです 内面の人間  内面のパワーを 呼び起こすだけです 生まれつきのものです 既にそこにあります 人間が作ったものは 全て人工的なもので 既に存在している 自然のものは全て 神が創った ものだからです

 
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