スプリームマスター チンハイは 小さな集まりで 言語の異なる各国の 私達の団体メンバーと 語り合うことが あります 一九九二年 マスターチンハイは 中国人のメンバーと インドネシア スラバヤで話しました
では菜食について お話ししましょう 私は色んな所を 旅行したり 数日間 出張する こともありました
私の元夫は医者でした 仕事せねばなりません 時々 病院に泊って 家に帰れなかったり 会議に出席する 期間が長い こともありました しかし 彼はそれでも 菜食を続けました 私達が本当に求めれば 仏陀は 手配してくれます
中にはどんな 菜食なら食べられるか 分らない人もいます
中国人にはいつも 対応策があります 彼らは饅頭とか パン 又は乾燥した 食べ物を持ち歩きます 中国にはそのような 食べ物が多いのです
時には数日も外に いることがあります すると缶詰を食べます それもいい食べ物です また自分で作った 物を持っていって 外で温めて食べます 一日や二日ぐらい 冷たい物を食べても かまいません
食べたければ いくらでもあります 時には 出かけて 中華料理を 注文できます 菜食料理を 作ってほしいと 言えばいいのです 様々な料理が あるのです 例えば 肉の代りに 豆腐をいれて欲しい そう言えばいいのです 焼きそばに豆腐を 入れるとか スープを注文する時 肉の代りに豆腐 またはグルテンと 醤油 塩 砂糖を 入れてと 注文するのです
いくらでも 美味しい 料理が食べられます そういうこと! ご飯と野菜だけで 十分です
それに豆腐ですね ここにはありますか? 豆腐を買って 外出の時 少し 持ち歩いてもいいです 菜食のものが 見つからない時に ご飯を買って豆腐に 醤油かマギーソースを 交ぜればいいですね 食後は 果物を少し食べれば 陰と陽 熱いのも 冷たいのも揃います
そしてサプリメントや 朝鮮人参のスープを 飲めば充分です 簡単です 毎回贅沢に食べる 必要はありません 食習慣は 変えられます 菜食するのは とても簡単な事です
それに中国人は どこででも豆腐が 買えるし 安いです
肉の代りに豆腐を 買って醤油を少し かければいいのです 白い豆腐や豆腐花 絹豆腐に醤油を かけても おいしいし 栄養価も高いですね 生野菜が 足りなければ 果物を 買えばいいですね 色んな果物で 野菜の代りに すればいいのです そして家に帰って もっと美味しい食事で 補えばいいのです 外出の時は簡単に すればいいのです
菜食の惣菜を 買うのもいいですよ 二、三日の場合は 缶詰を食べるのも いいでしょう 私が以前ドイツで 生活していた時は もっと大変でした ドイツには 中国人があまり いなかったのです
そこのレストランは 全部非菜食の レストランでした 豆腐やグルテンを 売る店は一軒あった けれど 豆腐は中々 手に入りませんでした 毎日あるとは 限りません たまに豆腐を 並べておき 売れ切れてもすぐには 補充しないのです 時には数週間 待っても 豆腐が おいてあるかどうか 分りません それに私は 遠くに住んでいて 三、四時間かけて 一丁の豆腐を買いに 行くので 毎日は 行かれません グルテンがないので 自分で作りました 作り方を 知っていますか 知らない? パンを作る小麦粉で 作ります 知っていますか 塩を少し入れます 塩を入れます (卵) 卵は入れません 塩を入れてから 水を入れて 軟らかく捏ねます 暫くおいてから 澱粉を洗い流します すると蛋白質だけが 残ります かす状のものが グルテンです それから丸や棒状など 色んな形にします これがグルテンです
自分でグルテンを 作ったのは 蛋白質が 豊富だったからです
豆腐に グルテンを混ぜても いいです それに 野菜 例えば人参や 大根 キャベツ カリフラワーなど 一緒に入れて さっと炒めます 良質の油を使います
そこに塩 砂糖 醤油と水を入れます 蓋をして 二十分ほど 加熱します ご飯と一緒に 頂くと 栄養たっぷりです それでも 栄養の事が気になる 場合は 豆乳を一杯 飲んで下さい それで十分です または果物やお菓子に または果物やお菓子に お茶一杯飲みます
なんて 快適な生活でしょう
私達が本当に自分を 改善したいと望み 仏陀の 慈悲博愛の 精神を学び 動物を か弱い子供と同様に 愛するとしたら その死体など食べたく ないでしょう 例えば 死んで 二、三日経った 人間を見た場合 それを食べますか 虎でさえ食べません 虎は 死んだ動物を食べません
聞いた事ありますか 本当です 分りますね 私達は虎より劣ります 私達は死んで 何日も経つ動物を 食べているのです 肉が腐っても それを食べては 美味しいと思うのです 自分で自分を騙して 醤油など沢山の 調味料を使って 何とか食べるのです もし 誰かに 腐ったビフテキを 出され すぐ食べろと 言われれば きっと吐き気が するでしょう
私の元夫は医者でした 会議で外出した 時などは 本当に 不便でした
それでも彼は 菜食をしたのです 背が高く 体が壮健な ドイツ人でも 菜食できました
私の弟子には大勢 皆さんのような ビジネスマンがいます 彼らも とても忙しい 時があります マレーシアに 華僑の弟子が います 彼はずっと ホテル暮らしです 色んな所を回らねば ならないためです この夫婦は 各地を回るのですが それでも毎日 菜食しています ホテルで菜食する ことは難しいですよ 知っていますか 大きなホテルでも 菜食料理がない 場合もあります
彼はサラダやレタス ご飯とパンを 注文して食べます 菜食料理は 何でも 食べます 誰でも菜食をしよう とすればできる ものだと彼は言います 彼には家がありません 過去五年間 彼は ホテルからホテルへ この国から別の国へと 転々としていました そうせざるを得ない ビジネスだったのです そういった生活を している人もいます 彼は過去五年間 ホテル暮らしでしたが ずっと菜食を続けて いると話しています 彼は 痩せも しませんでした ハンサムで背も高い 中国人です 背が高く 体が大きい 若い四十代の人です 従って菜食できない ことなどありません 違いますとも 卵は食べられますか
卵? いけません 健康に よくありません それに卵は否定的な エネルギーを引き寄せ 純粋になれません 霊修行をしていない 人には分らないと 思いますが している人には 分ります 祈祷師の中には 卵を使って悪霊を 引き出す人もいますね 知っていますか 彼らは卵を使って 否定的なエネルギーや 悪霊を引きつけます ですから卵を食べると 体に悪霊を入れるのと 同じです 私達 霊修行者は 純粋であるほど よいのです お金のために道を 捨てて構わないのか? よくありません 経典には善行だけを するよう 書いてありますね しかし お金を 稼がなかったら どう布施しますか 十分なお金がなくて どうやって戒律を 守れますか お腹が空いているのに 盗まずにいられますか どうやって 戒律を守りますか 論理的ではありません 釈迦が存命の時 彼の弟子は殆どが 在家の人でした
今も同じです 皆さんが お経を唱えるのは 仏陀の教えと 仏陀が教える 道徳的な事を 知るためです どこででも 唱えられます 仏陀は 家で唱えては いけないとは 言っていません 家で唱えられ なかったら どこでできますか 公園に行って やりますか 在家の人が どうやって毎日 時間を割いてお寺に 行き お経を 読むのでしょうか それに遠くに住んで いる人もいるし 読経に長時間 かかることもあります 出家者にならない限り 毎日 寺院に行って お経を 読む事は無理なのです だから家でするのです 静かに座って 唱えればいいのです 仏陀の教えを 読み上げたら 仏陀が教えた事を 実践することです それが お経を読む利点です
どこででもできます そうすると財運が 私達の所に来なく なると言っています そんなことありません 私は今以前よりずっと お金を持っています 私は金剛経 だけでなく 色々なお経を読みます 弟子達に 説明するためです 研究が必要です 分りますか 私は前よりずっと 経典の勉強をして 前よりもずっとお金を 持つようになりました 使い切れません それで人々を助け 経の講義をし 道徳についての 本を印刷します 私は助けを 必要とする人を助け 絶えずもっと多くの お金を稼ぎます 問題ありません
私達が唱える 経典を理解すると 徳性が現れてきますね 本当に経典を 理解すれば 修行したくなります 仏陀に 接近したくなり 智慧が高まります これこそが お経を唱える利点です すると もっとお金を 得る方法と お金の 使い道が分ります 以前 私達は道徳を知らず お金を稼げば ギャンブルや 不要な物に使って いたかも知れません 今は道徳を知り お金があれば 正しく使えます それで各地の 被災者救済に使い また 同胞や 困った人を助けます お金は役に立たないと 誰も言っていません 誰もお金を稼げない とは言っていません ご存知の通り お寺の人たちも お経を唱えています そうですね
私達は仏陀の 経典と教えを 理解するために 唱えるべきです それこそ お経を読む 真の意味です
私達は何かを 信じる前に それが 正しいかどうかを 判断し 分析せねば なりません ですね? そして証明し どこがいいかを 探さねばなりません 人の話を全部信じる わけにはいきません いつも人の話を聞いて 自分の主張がないと 思考が人に コントロールされ 智慧は徐々に しぼんでしまいます そして 自分が持っている 知性に対し 益々 分らなくなります こうなると 迷信的になって 人の話をうのみにして 何でも 人の 言いなりになります すると多くの 問題が生じます
前にこのような話を した事があります ドイツかどこかの 国の市街地では 時速四十キロ制限 という交通標識が あります しかし 皆が時速 五十から六十キロで 走ります これでいいのです もし 誰かが本当に 四十キロで走ると 警察が来て調べます その人に問題があるか 車に問題が あると思うのです 分りますか 実際は誰もその規則を 厳守していません もし 誰かが本当に 四十キロで走ると 警察が来て その人を調べるのです そばの車も クラクションを鳴らし 頭がおかしいのかと 皆が 好奇の目で見ます
精神に問題があると 思うわけです ですから 私は時々 仏陀の真の 教えを話しますが 皆さんは長い間 これを 聞いていないか 違ったものを聞き 経典をあまり 研究していません 忙しいからです そこで人が話している ことを聞くだけで それを考える時間が ありません 私が本当の話をすると 皆さんは信じがたく 違和感が あるのです
女性が生理の間に お経を唱えても かまいませんか 大丈夫です
寺に入っていいですか かまいません 親族が死んだ時も かまいませんか 心が純粋であれば どこも純粋です つまり 心が善良で 純粋であれば どこも仏陀の 仏土になるのです
中国の諺です これは 自分が純粋であれば 周りも純粋だという 意味です 分りますか 体も純粋になります 人間の血液は汚く ありません ご飯や 野菜や栄養ある 食べ物は血液になる のだから汚くないです 血液が汚いとすると 私達が食べた物も 汚いと言えます 女性の体は 違うのです 子供を生むため 体内に卵子があります 卵子は使われないと 体内で分解します すると 妊娠しなくなります 卵子が分解すると 月経になります
卵子が分解すると 血液は体外に出ます その血液は元々 体内にあるものです 体内にあっても外に 出ても血液なのです では一体 いつ清潔で いつ汚いのですか 何も違いはないのです 分りますか 有難うございました 仏陀は狭量な人では ありませんでした 自身も女性から 生まれたことを 彼は知っていました
考えてみて下さい 血液はご飯や野菜から きていませんか これらの食べ物は 栄養なのです だから 血液が汚い わけがありません もしも 血液が 外に出なければ 体内にあるわけです 血液が汚いとすると 体内にあっても 汚いといえます 男性の血も女性の 血も同じです だとすると 男性も女性も血液は 汚いはずで 月経中 だけ汚いと言えません 論理的ではありません
ある友人からの 質問です 菜食もせず 修行もせずに 智慧を高める 方法はありますか あります 本当ですか 本当です 私が彼の代りに 菜食し 修行する ことです すると私の智慧は 高まります それは極めて困難です 彼も修行できます まずは簡単な方法で 例えば 方便法の修行です ただ できるだけ 菜食を することです というのは肉を 沢山食べると 重いカルマの障害で 智慧の発展を困難に するからです 例えば 汚れた グラスに ものを入れると 味が 変わるか有害になる 可能性があります だから修行や 瞑想をする人の中には 魔に取り付かれたり 精神的に不安定に なる人が多いのです 方法が 間違っているからです もし 方便法をする場合 あまり長くしては いけません 二十分から 三十分で十分です もっと長くすると 問題が生じて 智慧もあまり発展 しないかもしれません
私達が 誠心誠意だとしても やはり自分の 行為や言葉 考えなど 清らかであるべきです でないと 誠意も台無しです 毎日熱心に瞑想しても 肉を食べると 功徳は 悪いカルマにより 差し引かれます 商売して お金を稼いでも 使い過ぎたり 多くの借金が あるのと同じです 沢山稼ぎますが 差し引かれます 何も残りません だとすると修行する 必要もありません
もう一つの質問です 説法が 好きな人がいます 善意からですが 分ります しかし経典を よく理解していない ために間違った事を 説法した場合 悪いカルマ(報い)を招きますか 彼は経典について よく分って いないのですか 深くは分っていません しかし確かに善意です 分りました 悪い意図は ありません
ただ経典にある話を 広めるのです 分ります しかし説明が 間違っています
彼はこれによって 悪いカルマ(報い)を 招きますか
はい 招きます 聞く人は彼が正しいと 思っているからです 間違った説法は 彼だけでなく 聴衆に間違った概念を 植えつけるのです 従って 彼は来世に戻って来て 何をするかに かかわらず その人たちが 全員開悟して 解脱するまでは 解脱できません 彼が何をするかは 関係ありません それが彼の 悪いカルマ(報い)です 盲目で 道も 知らない人が 自分と 同じ盲目の人を 案内するとしたら 両方とも むやみに 歩き回るわけです 目的地がどこだか 分るでしょうか どこにでも転げ落ちる 可能性があります 両方とも盲目で 道が見えないからです 自分は目が見えず 道が分らないと 自覚していれば 道を知っていて 見える人に 聞いた方がいいのです でなかったら 座って いた方がいいのです 自分が害を 受けるならまだましで 他の人に害を 与えれば悪いカルマ (報い)を招きます だから仏陀は こう言いました 「仏陀を信じていても 仏陀を知らない人は 仏陀を誹謗している」 まず自身の 内面の智慧を知り 直に体験することです それで初めて 私達の 話が人のためになり 悪いカルマ(報い)も 招かないのです
彼は なぜ夢に貴方が 現れたかと聞いてます それは 彼を別の所に 連れて行って学ばせる ためで 私は言葉で 教える他にもパワーが ある事を証明する為と 答えました それは夢ではないです 内面の 体験です はっきり 覚えているからです 普通の夢では ありません また聞かれました 「つまり 貴方について 行くべきか」と その必要はなく ただ 私の教えに従いなさい と言いました 私をマスターとして 認める必要はないです 私は皆さん自身が マスターになる道を 教えます 皆さんに 生き方を教え 自身の力を知る方法 自らのマスターになる 道を教えます 自分をコントロールし 自分に勝つ事が もっと大事です これは極めて困難です 誰かの弟子や マスターになる事は 重要ではありません だから 決して 私に 従うよう強いません 私の 教えに従うべきだ という意味です 私の教えがいいと 思えば それに 従えばいいのです
マスター この子は長い間 菜食していますが 何故時々肉が 食べたく なるのかと 聞いています 分ります とても肉が 食べたくなります 分ります すると突然 内面から 食べるなという 声がします 彼の内面には一種の 力があるようです その声はどこから 来るのかと 聞いています 肉を食べるな という声ですか いいえ 肉を食べないよう 教えることですか 彼は肉が食べたくて 我慢できず 肉を買おうとした ほどです
彼の心が教えたのです もう少しで食べる ところでしたが その声が 止めさせたのです 分ります ある種の力が食べるな と言ったのです
それが止めたのです その声が なぜ肉を 食べようとするたび 彼を支配できたのか 知りたがっています それは 守るパワーです 時々ある人が 霊修行することに なっている場合 その人のマスターは 出生時から守ります 分りますか マスターのパワーが 子供の時から 守るのです 時には本人も 知らないうちに 保護して その困難を 和らげます そして霊修行を する時が来たら 色々な方法で 気づかせます これは誠意のある 人に起こることで 彼らの過去世の 修行の功徳に よるものです なぜ肉を食べたく なるのでしょう
それは 習慣からです 彼は小さい時から 肉を食べたので それに慣れています 例えば 中国人は子供の 時から中華料理を 食べています 彼らにパンと フライドポテトを 食べさせると 一日や 二日はよくても 長くは続きません 同様に 西洋人もそうです 洋食に慣れています 彼らに中華料理を 毎日食べさせると 厭きてしまいます 分りますか しかし 時間が 経てば慣れます ただの習慣です そのうち彼は 菜食に慣れて 肉はもう食べたく なくなります 単なる習慣です これからは空腹時に 外出しないことです 食べ物を見ると 食べたくなりますから
時々 外出する時 子供が お腹が空いたら パンか饅頭を食べ させたらいいです バッグに入れて 持ち歩くのです 饅頭は冷めても大丈夫 お腹が空いたら 食べさせます りんごやなしなどの 果物でもいいでしょう これで満腹になると 他のものは 欲しがりません お腹が空くと何でも 食べたくなります お腹一杯だと最高の 食べ物もいりません お伺いしたいのは 人は皆 三つの世が あるのでしょうか 過去世 現世・・・ 因果についての 話ですね 三つの人も 二つの人もいます
どう分るのですか 大半の人は三つの 世を持ちます 前世の生き方の 報いとして 今生があるのです また現在の 生き方は新たな 悪いカルマ(報い)を 作ります それで未来の 人生が決まります 債務の返済がまだなら それを返済しに 再び戻ってきます 望みが満たされ なかった場合 達成するために 戻ってきます しかし 観音法門を 修行したため 二つの世しか ない人もいます 過去の悪いカルマは マスターによって 洗浄されています 彼らのマスターが ボタンを押すと 彼らの悪いカルマは 完全に洗浄されます コンピュータと 同じです
私達の内面は それと似ていて マスターはボタンが どこにあるか分ります 目に見えない 方法でやります 物理的にやりません マスターには 充分な力があって 今生の報いだけを 残し 他の因果は 全部なくせます 今生の報いは 過去世の原因に よるものです 今生でマスターは 彼らにどんな悪い事も しないよう教えて いるので 過去の 債務を清算できます 過去の債務を清算 できた時 倉庫に 格納された債務は 焼かれます
例えば 農家の種が全部 焼かれたら 野菜は栽培できません 分りますか 格納庫にある悪い カルマ(報い)は こんな感じで印心の時 私が焼き払います 今生のカルマ (報い)だけを 残します それは 過去世での産物です 彼らは悪いカルマ (報い)を償うと 同時に新たな悪い カルマ(報い)は 作りません 新たに悪いカルマ (報い)を作らざるを得なかった時は 瞑想を通して洗います 従って その種は 将来成長しません すると再び戻ってくる 理由がなくなります 過去と現在の 二つの因果しか ないからです 死んだ後は どうなりますか 来世はありません だから 一世で 解脱というわけで 観音法門を 修行してこそ 達成できます 開悟や解脱した後 他にやることは ありますか はい あります
釈迦牟尼仏のように 悟った後 彼は働きました 仏の仕事です 大人は 大人の 仕事をすべきです 悟れば仏陀の仕事が できるはずです 悟った人も 修行すべきですか 悟りを得ても なお修行する必要は あるのですか いいえ 必要ないです ですが 日々 衆生と関わりがあって 時々 彼らや弟子の 悪いカルマ(報い)を担う必要があるため 悪いカルマ(報い)を 除去せねばなりません 例えば あなたの ゴミを私の車に置けば 外へ移動し それを 捨てねばなりません 毎日車内に残しては おけません あなたのゴミを 引き受けてあげれば 私の車内はゴミで 溢れます 分りますか それで 出かけて 捨てる必要がありますそういう訳です 元々 彼の車には ごみがなく 悪いカルマ(報い)は ないのです 時々 修行するのは 衆生や弟子に 手本を示すためです ですが どこかの 境界で停止できず 退屈になるからです 真理は無限です
例えば悟った人は 学校を出た医者の ようなものです 彼は学び続ける べきだとは言えません けれども 彼は学び 続けねばなりません ただし 彼が今 研究しているのは 学生時代のものとは 違います 卒業して すでに 医者になったためです 彼が医者であると皆が知っています それでも学ぶべきです そうでしょう 医学は学んでも 学び切れませんから しかし 医学も一つの 分野にすぎません 悟ることなど もっての外です 宇宙は広大なのです 学ぶべきでないという わけではありません 学ぶべきです 意味が分りますか 有限のものはなく 全てが無限です 学びたいなら学び 学びたくなくても 構いません そこで止まっても 良いですし もっと 勉強を続けても 構いません 学習ではなく 研究と言えます ですが 彼の 研究方法は 医学生の それとは違います
修行しなければ また輪廻のレベルに 落ちることは ありますか その人が達した レベルによります 例えば 輪廻の領域に いれば そうですが それを超えれば そうなりません 皆が仏(悟った)の レベルに興味が あるのは知っています ですが どう話せば 良いのですか ここの床に 座っているだけで 天国を語ろうとします 話しても良いですが 固定観念をあまり 与えたくありません 皆が瞑想の時に 天国の様子をずっと 考えてしまうからです 考えてしまうからです それでは 自身を妨げます だから少しだけ話して 沢山は言いません 体験があれば 自分で分りますが 境界が見えるだけが 天国ではありません 時々 内面に 善良で純粋な心が 高じた時 貪欲さ 怒り 愚かさが 突然消えたり 欲望が消えたり 智慧が現れたりします それが天国です 昔 真理を 求める人がいました
ある師の所へ行き 言いました「今すぐ 天国と地獄の存在を 証明しないなら あなたを信じません」 師が言いました 「できない 説明の 方法が分らない 君に証明する 方法が分らない 自分で探すべきだ それで分るだろう」 例えば 私達は今 ここにいるのに 「早く台北を見せて」と あなたが言うとします できますか 自らは 行きたくない 霊修行もしない それでは無理です そうですね 霊修行をすれば 内面で見えるため 比較的 確信できます 他人が言っても 意味がありますか 例えば 釈迦牟尼仏が 阿弥陀経を説いた時 阿弥陀仏の世界には 瑠璃の家に 黄金の地 宝石の木々が あると言いました 聞いたことがあり 毎日 それを 唱える人もいますが 見たことはありますか ないですね
彼が見たものは あなたとどんな関係がありませんね 例えば あなたが食事をしても 私には その味が分らず 満腹にはなりません だから その師は 彼に言いました 「霊修行をしてこそ それが分る 君に証明できない」 その人は剣を出して 言いました 「もし言わなければ あなたを殺す」 そして武器を 師の喉に向けて 脅しながら 言いました 「もし言わなければ すぐに切る」 師は笑って言いました 「ああ 地獄が 今出現した これが地獄だ」 それを聞くと 彼はすぐに悟り 理解して 師に謝りました 跪いて 剣を折り 師の許しを請いました
彼は言いました 「すみません ひどいことをしました やっと分りました」 師は笑って言いました 「ああ 今 天国がまた開いた 天国はここにある」 分りますか 全ては心から 創られます もし 自分自身の 行動 言葉 考えを 正さないなら 仏土のことを尋ねても 意味がありますか 何の意味がありますか 私達はここにいる間 よく修行して 環境をきちんと整え 責任を果たすべきです すると 智慧を持ち 全てをうまく 処理できて 行動 言葉 考えを 清く保てます 殺生せず 盗まず 嘘をつきません 自分の 行動 言葉 考えを きちんと世話します
修行をするほど より智慧が現れ 大衆に奉仕できます すると天国に行く 必要などなくなります 何のためでしょう? 仏のレベルが どれ位大きいか 知る必要はありません その時 私達はただ 心地よく感じ 悟ったかどうか 気にしなくなります もしこの世界が良くて 互いに支え合い 皆が平和であれば 天国に行きたく なくなりますね どこにいても 同じでしょう 安らかで 幸せで 智慧があって 皆が平和であれば 天国に行く必要がなく 仏のレベルも 気にする必要は ないでしょう 仏土も同じく安らかで 幸せだからです 土地が 黄金か土か それも気にしませんね もし幸せなら 小さな家に住んでても 幸せです
でなければ お金を 沢山持っていても たいへん苦悩します 金銭のことで 自殺したり 争いや面倒にあう 人々がいます お金を持つ良さは どこにありますか だから私は 自身を磨くことが 最も大切だと言います すると 智慧を持ち 全ての状況が 明白に見えます どんな状況にも 耐えられて どんな仕事でも 簡潔に 明白に 賢く 迅速にこなせて 私達の愛が広がり 他人を理解でき 共感できます 他人に侮辱されても 我慢できて 彼らに良く接し 彼らを愛せます 彼を加護するよう 仏や菩薩に祈ります それが一番大切です その生き方が良いです 悟る事を渇望したり 彼らの仕事を 知りたいのではなく
彼は瞑想を始めると 即座に落ち着けると 言っています
誰が彼に教えました? ここの僧です
彼らは呼吸法を 修めています 呼吸法 分りました それで?
彼はすぐに落ち着くと 言いました でも 雑音を聞くと 乱されるそうです 分ります 乱されると 再び 落ち着くのは 難しいそうです 彼が尋ねているのは なぜ一度目は 容易に落ち着き 二回目は困難なのかと いうことです
自分の師に尋ねて 修めている 法門によりますから 分りますか ある宗派の 修行をするならば その宗派の先生に 尋ねるべきでしょう 私が言う事と その先生の言う事が 違うといけませんから そうなったら更に 混乱するでしょう あなたが歩く方向が あるなら その道を 行くべきでしょう 急いでやたらに こちらに来ると 道に迷いますよ 観音法門を 修行したいなら 他の法門と 混ぜこぜにしては いけません 足を片方ずつ 違う船にかければ 海に落ちます 暫くすれば 落ち着くでしょう
ベジタリアンになって 印心を受ければ 落ち着けるでしょう 穏やかになる方法を お教えします 私達の法門のパワーは 違います 呼吸法は 呼吸によるものです それはまだ物質的で 永遠ではないものです 私達は死ぬと 息をしません 又は気を失えば 息をしません つまり そのパワーは 強力ではないのです でも私達のものは 永遠の内在のパワー 仏性 仏陀のパワーに よるもので 永遠で強力です 瞑想をする時 ビジョンを見ます それは心が創り出す ものですか イエスでありノーです 頭脳は極楽浄土の ビジョンなど 創り出せません できますか 釈迦牟尼仏は 「一切は心が創る」と 言いました その意味は 心地良く生きているか どうかは 善良かどうか 或いは 過去に善行を為したか どうかによるのです 残念ながら頭脳では その様な極楽の世界を 創り出すのは 自らの仏性を 見つけない限り 困難なのです
すると どんな 世界も創造できます
瞑想すると 非常に穏やかになり 良い境界がはっきりと 現れます 分りますか 私達がこの境界を 創るのではなく 既に 存在しているのです 再発見するだけです こういった 境界を通って上昇して 仏性を見出すのです これは単に 途中の風景です
釈迦が言う様に 天国や地獄が 頭脳で創られるなら それは 観音法門の 修行者と同じものを 見るのでしょうか そうかもしれません 私達が地獄と関係が あるとか そこへ 親類や友人を救う為に 行かねばならないと したならばですが 観音法門の修行者で それを体験した人も います ええ 地獄へ親類や 友人を救う為 或いは 私について 彼らを救う為に 行った事があります 時には 天国も見ます 彼らがそのレベルに 到達したからです
私達が そういう 境界と関係があっても かまいません
観音法門を 修行すると 中には そういう 天のレベルを凌いで 高次の境界へ行く 人々もいますから より心穏やかなら 高次の所へ上がります 天国や地獄は 自らが 創りだすと言う事は 正しいです そして また自分で創るわけで ないというのもです 例えば 地獄は 否定的な考え方の人が 創り出し 自ら罰すので 彼らにとり 地獄はあります でも善良な人々には 地獄は存在しません 存在しないなら 地獄にいる人を どう救い出せますか 地蔵菩薩は 衆生を どう地獄から 助け出せると いうのでしょうか ね つまり 存在はします でも天国も地獄も 心が創り出すのも 真実なのです 例えば 地蔵菩薩は地獄に いても 心は地獄の 状態ではありません
彼は仏土にいる様に 感じています 地獄の衆生は苦しみを 感じても彼は違います 心が善良なら もちろん 天国は 近いと感じ 天国へ 行くのは容易です つまり 天国も地獄も 自分で創れるのです 誤った心が 創り出すのであって 真の心ではない という事ですね 偉大な心から物事は 創造されます それは智慧とは 異なります それが私達の智慧です 小さな頭脳ではなく はい それは「心」の 定義によります 「心」が頭脳だと 思っているなら 誤りです もしも「心」は 偉大な 仏性である 本性であると思うなら 正しいと言えます インドには多くの 修行者がいますが なぜインドは 貧しいのでしょうか
お金がない事を 意味するなら 貧困と いう事になりますね でも お金や 物質的な基準で 計らないなら 貧しくありません インド人は非常に 幸福で 苛立っている 人は珍しいです 生活は貧しくとも 幸福です 彼らは微笑み 仏名を 毎日 唱えています 私が真理を求めて そこへ旅した時 時々 小さな村や 森を通りかかり 現地の人と 親しくなりました 例えば 彼らと 食事をした場合 彼らに お金を渡します でも彼らはお金を 受け取りません インドの家庭を 訪ねると 客人を 神の様に待遇します 神が時に貧しい者に 姿を変えたり 通りかかり テストを すると考えています 彼らはその人に よくしないと問題が 起きると考えます その人に よい待遇をすれば 福報が得られると なぜこの様な話や 伝統があるのでしょう
実は こういう話は 道理に適っています インドには多くの 修行者がいます そして誰が聖人か 真理に到達した人かは 分りません 釈迦牟尼仏が 在世の時 普通の僧衣を 着ていました インドのバラモン僧が 着る修道士の 衣服をです 釈迦牟尼仏が 現れる前には いわゆる仏教はなく あったのは バラモン教で これは今もあります 釈迦牟尼仏が毎日 托鉢に出かけた時 誰が彼を悟っていると 気づいたでしょう 彼が戸口に来ても あなたは彼にお金を 渡すのを拒否した かもしれません 食事を布施するのを 拒否し 追い払った かもしれません ただの物乞いだと 思ってです インドでは物乞いは 僧と似た衣服を 身に着けています
僧が着る僧衣は 卑しい物乞いの 衣服と似ています インドの修行者は こういった服は 修行に耐えさせ 謙虚にさせ 簡素な生活にさせて 修行を助けるものと 考えています 自分を他者より 劣る様に見せて 贅沢な生活を放棄し 真理を 探求するためです ですから彼らが貧困か どうか分りません 肉体の死後 私達の心に道 (タオ)があるなら より良い肉体になって 戻れるでしょう 私達はかまいません どこに生まれても 関係なく はかないのです 今日はインドに生まれ 明日は 米国に生まれるかも しれないのです
この人生で貧しくても 来世では 裕福かもしれません 因果によります ただ来て 去ります 深刻な事は 何もありません インドを愛す人は こう言います 「どんなに金銭を要し 条件があったとしても インドに生まれたい マスターを見つけ 霊的雰囲気に近づく 機会を持てるように」 こういう人がいます 代価を払う 必要はありますよ 「代価を払って」 交換するために 支払わねばなりません 望むものを得る為には 状況に 耐えねばなりません
例えば 釈迦牟尼仏は 王子でしたね 真理を求める為に 豪華な服を脱ぎ 美しい髪を 剃りました 馬も 美しい服も捨てて 歩きました お金も持たずにです 長年 物乞いの様な 辛い生活を送りました 真理を求めて 勤勉に修行しました
真理を求めて 苦行し 多くの法門を 修行しました 貧しく生まれた わけではありません 修行中 彼は自分が貧しいとは 思っていなかった でしょう 悟りに 達した後も 毎日食物を托鉢しに 出かけましたが 貧しいとは感じて いませんでした 貧しい憐れな生活だと 考えていたら 息子に 僧になる様 求めなかったでしょう そうでしょう 実際 九歳の息子に 僧になるよう 彼は求めました つまり 僧の生活が 良い事を 知っていたのです それで 将来王になるであろう 一人息子に そう求めたのです 考え方が他者とは 異なる事を意味します 豊かで輝かしい 生活と考えたのです それでそうしたのです 人はそれぞれ 考え方が違うので 分りませんね 国によって 風俗習慣が異なり 人によって 考え方が異なるのです 例えばあなたが大きな 家に住んでいるとして 又は大きな家は良いと 思っているとします
私達は自然な環境と 新鮮な空気を 好みます
これはただ 考え方の違いです 簡素な食事と テントに住み 例えばですが それも快適です でも大邸宅に住み 更に大きな家を 望む人もいます 車があるのに 更に 車を欲しがるのです 幾らかお金を持てば 更に欲しくなり 満足を感じないのです 仕事に縛られ 資産に縛られています だから自由でも 幸せでもありません
つまり自由で 満足しているのが 富むということですね そのとおり! 足るを知り 満足に 感じるべきです 私達は自らに 満足すべきですね
自分自身に満足を 感じるべきなのです 自分に満足すれば 富者となるのですね そうです この事から 貧困は必ずしも悪い カルマ(報い)では ないと分ります そうとは限りません 裕福も必ずしも 悪い カルマ(報い)では ありません それは 自らの 富と人生の 見方によるのです 裕福である事も 悪くないでしょう
お金持ちでも良いです 修行者が貧乏である 必要はありません でも貧しければ そのように生きて 裕福ならそのように 生きるだけの事です
神が望むように するのです 仏陀の手配によって 生きる事です もし裕福なら そのお金を書籍や 経典の印刷や 助けが必要な貧困者の ために使えます お金がないなら 自分を救う事です 自らの面倒を見て 自分の徳を 訓練する事です つまり仏陀は 人が 外に出て苦しむ事を 望んではいないのです 自分の面倒を よく見ればいいのです もし裕福ならば 多くの責任が かかります 神は私達に与え他者に 分配させるのです 私達が分配しないなら 他者に分かち合わない ならば 問題を 抱える事になります 一円でも 人々に 分け与えるべきという 意味ではありません でも与える機会が あれば ためらわない ことです
例えば もう自分の家を 建ててある人は 慌てて建てる必要は ありませんね ゆっくりで かまいません しかし私がここに 来たので彼らは即座に 仲間の利益の為に ぐずぐずしては いられません 彼らは高価な絨毯さえ ここに敷く為に 購入したりします 人々がそれを嫌えば 取り払います 怒ったり 面倒がったりしません ここに人が大勢来ても 厭う事は ありません これこそ 奉仕の精神です 裕福な事も 貧しい事も 悪い事ではありません 対処の仕方に よるのです 気にしないことです お金を嫌う事もないし 貧困は悪い事だと 思うことも ないのです 自分次第です 古代の中国に 在家の 修行者でパンという 名の者がいました
彼は裕福でした
また 仏教徒でした ある日 仏陀が 言うのを聞きました 「富は毒だ」ね 彼は即座に全財産を 船に積み込み 海に出ました 全て海に投げ捨てる つもりでした 彼は財産が人々を 束縛し 彼らのためにも 霊修行のためにも 良くないと聞いたため 財産を船に乗せ 投げ捨ててしまう事に したのです 海に出ると 五百人もの海賊が 財産を奪おうと しました 彼は言いました「おい 私はこの毒から縁を 切ろうとしているのだ なぜ欲しがるのだ? 欲しいなら 持って行くがいい どうせ捨てる ものだから」 彼の言葉に 海賊は ハッとしました 彼らはこう思いました 「彼は大金持ちなのに これをいらないのだ 奪うのは 俺達にとり 良くないに違いない」 後にパンはそのお金で この五百人を養い 彼らは出家して 阿羅漢に なったそうです いい話でしょう お金が捨てられたら 役に立たなかった でしょう それを人々の修行の 支援に使う方が ずっといいのです 財産があるなら それも良いことです 捨ててはなりません
多くの貧しい人 寡婦や孤児には それが必要です 捨てないで下さい しかし 貧しい人への 寄付が唯一の 方法ではありません 別の方法は 今 私達がしているように 多くの人に道徳の話を 聞かせるため 場所を提供すること お寺のようにです この行為の功徳は 絶大です 良い方法はお金の寄付 だけではありません 彼らに今 食べさせられても その後は やはり 食べられません でも人々に場所を 提供し 道徳の話を 聞かせれば その話を長い間 覚えています 彼らは生涯 また 来世も その利益を 受けられます 彼らの子供も社会も 利益を受けます
帰って 彼らもまた 多くの貧しい人 無明な人を助けます
その利益は大きく 事業のようにどんどん 大きくなります だから 釈迦牟尼仏は 寺を建て人々の修行を 助けるのは 無限の 功徳を得られると 言ったのです 人々に経典を聞かせ 人々に経典を聞かせ 修行を助けるため お寺を建ててこそ 無限の功徳を 得られるのです 見せびらかしにお寺を 建てても 梁武帝が 菩提達磨に沢山お寺を 建てた自分に 功徳があるかどうかと 聞いた時と同じ答えを 得るでしょう 達磨は「何の功徳も ない」と言いました 修行をせず 悟りを開かなければ お寺を建てても 霊修行の面では あまり功徳を 得られません 少し福報は得られる かもしれませんが
一つ質問があります 医者がマスターから 印心を受けたい場合 やはり五つの戒律を 守るべきですか なぜ守らないのですか 私が聞きたいのは 医者の場合 如何にして四番目の 「嘘をつかない」 戒律を 守れるかです 例えば 患者が不治の病で ある場合でも 患者に正直に言うべき でしょうか はい 患者は遅かれ 早かれ亡くなります なぜ秘密に するのですか 教えなくても 彼には分ります 自分の状況を一番 良く知っています 彼の魂も知っています 彼を騙したら 彼の 魂と仏性を騙した ことになります だから役に立ちません できれば命を救います でも嘘はつきません こう言うべきです 「貴方を救うことに 最善を尽くしますが 貴方の命は 薬や私の 能力ではなく 仏陀の 手に任されています」
中には 肉体的には ひどく病んでいなくて 医者も良くやって くれても 亡くなる患者もいます また 重病で 絶望的で 医者も藪医者で 十分に面倒を 見なくても 回復する 患者もいます だから 嘘をつく 必要はありません 彼が生きられるか どうかは分りません 最後の一分で 仏陀が助けて 生きながらえる かもしれません だからこう言うのです 「私はベストを 尽くして治療します でも あなたの運命は 仏陀の手配と あなたの 因果によります」 これが正しい方法です そうでしょう 彼は生きられるかも 明日死ぬかも 嘘を つく必要はありません 言葉を換えても 同じことです 嘘をつく必要は ありません 多くの場合 嘘をつくのはよく訓練 されていないからです 実際 嘘はいけません どんな場合でも 嘘はいけません ビジネスをする人も 含みますか
同じです なぜ嘘をつくのですか 商売で利益を得るのは 結構なことです 例えば 1ドルで 物を買った場合 法律ではその4倍で 売ることが 許されています 税を納め 商売を維持し 残りが利益です 法律ではこれは 許されています 誰が損を出すため 商売をしますか 買った額で売るなら 何でわざわざそんな ことをしますか 商売が低調な時に 備えて 少し蓄える 必要がありますし 時には運賃を払う 必要がある かもしれません 万が一 商品が 半分だめになっても 責任を持って ガソリンや運賃を含む 費用を負担しなければ なりません 商品には1ドルの 価値しかなくても 別の場所に輸送する 必要があります だから 車が必要です 車にはメンテナンス ガソリン 税金が 必要です 車はお金がかかります 2ドルで商品を売れば 1ドルを儲けますが 運賃は誰が払いますか 単なる例ですが 嘘はついていません お客さんに 価格を示すだけです その商品を買えば それもよし 買ってくれなくても 強制しません 誰も騙していません
合理的にして いるだけです 誰もだましません 例えば 商品が腐っていると 知りながら 良い物と言い 買わせ 食べさせようと したとします これだと お金を もらったが 商品は その値段の価値が ないことになります 良くない商品と 知っていますから 嘘をついています 商品が良いと 知っているなら 良いと言い 値段はこうこうで 「よろしければ どうぞ」と言います 買ってくれなくても 構いません 嘘はいけません なぜ 人に嘘を つくのですか もちろん 商売繁盛には 巧みな 話術が必要です 人とおしゃべりをし この食品には 栄養があると伝えます
どんな食品にも 栄養はあります その人の 状況によります 時には 強壮剤を与えても 死ぬかもしれません 各人の功徳によります 人とおしゃべりをして 製品を宣伝するのは 嘘ではなく 弁才が あるだけの話です その才能があってこそ 商売がうまくいきます 商売をするには 商売の 才能が必要です 何をするにも その分野での 才能が必要です でも 嘘はいけません 悪いものなら 良いと言っては いけません こう言うべきです 「品質はこうこうで 値段はこうこうです どう思いますか」 人の信用を得れば 更に買ってもらえます 生地を売る あるインド人の 商人がいました
皆は 値段を高く 設定する習慣が あるので百ドルの 価値の物なら 四百ドルと言います
そして 値引かれる ことを待ちます それを面白いと思い 両方でだまし合うのが 楽しいと思っています 商人は 客をだまし 客は値引きの 交渉を続けます
客が百ドルと言うと 売り手は こう言います「だめ 二百ドルならいかが」
「ノー ノー ノー その値段じゃ 赤字ですよ」 すると 客は去るかも しれません するとこう言うかも 「分った!分った! 今日運が悪いな この値段で いいですよ」 そして どちらも 喜ぶのです 売り手は 客をだまします 価格は百ドルでした つまり 彼は 百ドル稼いだので うれしいのです 客も喜びます 安い値段で 買ったからです 四百ドルのものに たった二百ドル 払っただけだと 思うからです それでどちらも 値段の交渉で 相手に 勝ったと思うので 喜ぶのです インドでは 人々は 交渉して楽しむのです ある人が 布を売っていました
彼もインド人です 彼は従来の方法では 提示価格があまりに 高いと思ったので 正確に価格を 計算しました 彼は もともとの価格に 想定外の損失と 輸送費を考慮しました そして言いました例えば 一割の利ざやなら 全費用をまかない もうけもある それで一割上乗せして すべての 布を売っていました 客が店に来ると 彼は定価を 提示するだけで どんな交渉も 拒絶しました 皆うんざりして 言いました 「この人は貪欲だ 沢山もうけようとする あまりにも がめつい 誰も彼とは違う 他では値引きするのに なぜこの人は定価に こだわるんだ」
面白くないから 皆 他の店に行きました 初めのうち 彼の商売は 最悪でした 誰も交渉を楽しんだり 彼から商品を 買いませんでした よその商品の方が 安いと 思ったからです 「もとの値段は 四百ドル さて! あなたは 親切そうだから 二百ドルで売ります」 そして 客は 喜ぶのです しかし この人は 定価で提供するだけ 彼は人々に 値引きさせないので 皆 彼の正直さを 疑ったのです ある日 一人の女性が 店で布を買いましたが 足りませんでした そこでさらに買おうと あちこち探しましたが 同じ布はありません 彼女が布を買った店は 品切れでした 同じ布を買うには 嫌いな彼の店に 行くしかありません 彼の店は 偶然 同じ布の 在庫がありました
それを買って とても安いことに 気がつきました 同じ品質の 同じ布でしたが 3分の1の 値段だったのです そこで彼に尋ねました 答えはこうでした 「私は利益が一割で 十分だと計算したので それに応じて 値段を決めたんです」 その時 やっと 女性は分りました 彼女は別の店で 同じ布を 買っていましたが 非常に高価でした それで理解したのです 評判が広まるにつれ 彼の商売は 徐々に 順調になりました 人として 私達は みな 本来の善良な性質を 維持すべきです 自分の魂 尊厳 道徳をお金のために 売ってはいけません そうしてこそ 真の自尊心を持てるし 人の目を 正視できるのです
真直ぐ見られて このように歩めば 私達があらゆる点で よいと分ります 貧しいかもしれません でも 正直で真直ぐで 幸せで 罪の意識など ありません 誰もがこのように 振舞っていたら世界は 浄化され とっくに 平和になったでしょう
マスター 大変重病の 老人がいました 彼が亡くなる前 医者は彼を だまし続けました 「大丈夫 手術を しましょう」などと 彼の親族も同様に 彼をだましました 娘は 彼が死ぬ前に 仏名を唱えることを 望みました そこで ある日 率直に話しました 「お父さん お医者は もう長くないって もうだめと言ってるの ここにいても 快方に向かいません 薬を飲んでも 良くならないわ 私はお父さんに 仏の 名を念じて欲しいの」 そしてこの娘は 阿弥陀仏や 南無観世音菩薩の 名を唱えることを 教えました
これは効果的でしょう 皆が彼をだませば 彼はまだ 生きられると思って 霊修行を したがらないでしょう でもこの父は できないと言いました 娘の善意にも かかわらず この父はショックを 受けて やがて 意識不明になりました そうして 彼は数日後に 娘が側で仏名を 唱えるなかを 亡くなりました 娘は彼の臨終の床で 仏名を 唱え続けました 彼女は棺のそばでも 仏名を 唱えました 今でも彼女が 感じているのは・・・ 罪の意識? はい
この娘は悪いカルマを 招いたでしょうか 彼女は 真実を話し 何か方法を・・・ 次の生涯がより良く なる事を 望みました でも・・ 分ります しかし 彼女の父は おびえていました ショックを受けた 父にショックを与え 彼は・・ 数日間 意識を失い そして亡くなった 間もなくでした
なぜ悪いカルマを 招くのですか? 真実を言うならば 悪いカルマ(報い)は招きません しかし 彼女は じょうずに 話すべきでした 彼の生死について 話す必要は ありませんでした 彼が死ぬことは明確 ではなかったのです 医者の間違いかも さっき言いましたね 人がいつ死ぬかを 予測すべきではないと どうして分りますか? そうでしょう? 医者でも 時には間違えます 私の弟子が病気で 手術を受けるために 入院したことが あります 医者は すぐに 手術しないと 命があぶないと 言いました しかし 彼は起きて 包帯をとり言いました 「家に帰りたい 私は病気ではない」 彼は私に祈願した後 家に帰れました 彼は手術を受ける 予定でした そして 手術のための器材は 準備されていました こういうことは よくありました だから医者は必ずしも 正しくはないのです
奇跡は時々 起こります だから人に「あなたは すぐに死にます」と 言うことはありません
マスター 娘はそれは 言いませんでした 彼女はただ お父さん 医者と薬では あなたを救えない あなたは仏陀に祈り その名を唱えないと そう言ったのです そうですね それもよかったです しかし 父親は 仏名を唱えた事も 教会に行った事もなく それで できないと 言ったのです もしできないのなら 放っておくのです 恐らく彼は悪い 知らせを聞いて すぐに落ち込み その晩は 意識を失ったのです
恐らく 彼の時間が 来たので逝ったのです 彼女が 自分を責める 必要はありません 誰にも分りませんよ 彼の時間が偶然 来たのかもしれません たまたま 念仏の 話をして 父に仏陀の 事を考えさせましたが でなかったら更に悪く なったかもしれません その時が来たら 彼は自然に 意識を 失い そして徐々に 亡くなっていくのです 彼の娘がそばに いなくても 彼は 亡くなってたでしょう それはただの 偶然なのです 医者は 彼は間もなく死ぬと 既に言ってました 彼に言うのです 「あなたの為に 仏名を唱えます 私に続くか 心の中でただ 考えて下さい あなたの年なら いつ 去るかもしれません 医者が救ってくれる でしょうが 心の準備は必要です 万が一去る時は 楽しく行ってください 仏名を唱えるのは 良い事です 私も一緒にします」 たとえば 彼と一緒に仏名を 唱えてもいいのです 彼はしないのではなく やり方を 知らなかったのです
彼の為に唱えるとも 言えたでしょう 或いは 仏陀の物語や 高いレベルの話を 伝えてもよかった すると臨終のとき 彼は良い思いが持てた かもしれません
彼の役に立った かもしれません 彼女はそうしました それなら良いです 気にしないで下さい それ以上話さないよう 彼女に伝えて下さい 生死は大した事では ありません 数えきれない 生と死が毎日 起きているのです 話し過ぎても 何の役にも立ちません 生は本当の生ではなく 死も本当ではないです それは「服」を着替える 過程に過ぎません 次回着るために どの「服」を 準備したかに よるのです 今 準備しておけば もしお金を沢山 稼いでいたら 美しい 服を準備できて次回は 美しく見えるでしょう
準備してなかったら 服はみずぼらしく 雑巾のようです 当然 良い「服」を得られず 同じ古い「服」を 次回着る事になります そうですね よい「服」を準備して 霊修行をしっかり していれば 「服」を変える時に なっても 痛みを感じず 美しくいられます 死は恐ろしくないです 殆どの人は死後 天国に行きます 善良な人は 明るい境界に行き 美しい世界を楽しみ そこで休むのです この世界で 一生懸命働いて 良い行いをしたので 天国でしばし 休むのです 休暇に 行くようなもので 何も悪い事など ありません
しばらくしたら 戻って再び 人間になるのです それを望まないなら 観音法門を修行すれば 戻りません そうすれば 面倒な生死の循環を 繰り返さずに すみます その女性は 理解していません 理解するには 若過ぎます 彼女のせいではないと 伝えて下さい 遅かれ早かれ 父親は 亡くなったのです 彼女は悪くありません 彼女は 最高の娘でした 彼女は正しい事をし 父親の役に立ちました 自分を責めては いけません 亡くなる人は行かせて 命ある人には 生き 続けてもらいましょう あまり自分を 責めると 彼女は 精神的に傷つき 何も上手く いきません 彼女のために 良くありません ね 父親の仕事を 世話して 輝かしい 人生を送るべきです 父親もそれを見て 喜ぶでしょう それが最善の事です いいですね
皆さんの生活が 良いようで嬉しいです 物質面も良いし 事業も順調でしょう 自分の母国で なくても 信念が 道(タオ)にあります 東洋の道心は まだ堅固です これは とても良い現象です 中国人がどこでも 成功するのも うなずけます 少なくとも 良い報いがあります
それは 心が 道から離れなかった からでしょう 常に天地を敬い レベルの高い聖人や 仏菩薩を 尊敬しているからです それで自然に 良い報いがあるのです そうですね?結構です
とても希望が持てます 中国の伝統 中国の血統に とても良いことです これを続けて 子供に同じ事を 教えて下さいね お休み ありがとう! 皆さんの愛情と 忍耐心に感謝します
殆どの人は 何かの概念に 影響されています 霊的修行を するのは難しいと 思っています 実際には 菜食に 切り替えた以外 私達はそれほど 変わっていませんね 五戒は 全ての人間が 守るべきものです 誰が生き物を 殺したいでしょう
誰が盗みたいでしょう 誰が浮気を したいでしょう こういうことは 状況が そうさせて いるのです また してはならぬと 誰も気づかせて くれないからです 人々は同じ様な 事をして 同じ段階にいて 同じ事を話し 同じ事をします 誰も立ちあがって 「良くない」と言わず 考え直すべきです 人々は気づく 必要がありますが 誰も指摘しません 私達はみな 卒業して 仕事し 稼ぎ家を建てるよう 言うだけです そういった事は いろいろ言いますが 道徳的な事は 殆ど指摘しません 幼い頃からなので 習慣になっています 子供が成長し 私達も気づかせる事を 忘れているのです 学校も道徳の重要性を 子供達に 教えてくれません 道徳経や孔子 荘子に ついては教えますが そういう古い言葉は 奥深いものです どうやって子供に 理解できるでしょうか 彼らは卒業の為に 懸命に覚えますが 意味については それほど考えませんね 真に理解した人が その真の意味を 教えなければ 彼らは成長して その程度になって しまうのです 世界を変えたければ まず自分から 変えるべきです
私が丁度アジアに 滞在していた時 一人か二人ですが 誠心誠意だったので 見てあげるように なりました 彼らに道徳や 永遠の財産を 思い出させられるなら 私はベストを尽します これは私達 修行者の責任ですね 皆さんが商売人なら 商売が上手くいくよう 真面目に 働くべきです 親であるなら 良い人になるよう 子供を育てるべきです 修行者として 私はこの仕事を しているので 義務を果たします 私の仕事では 皆さんの様にお金を 儲ける事はないですが 他のものを得ます 世界平和と 弟子達の愛を得ます 彼らの愛は発展し 他の人々へ広がり その人々は より多くの人々に 愛を広げます すると私達の社会は 影響されます 高徳な人が より多くなれば 社会も より良くなります さもなければ 全世界は 堕落したように なるでしょう ひどい堕落です 私達が自分への喚起や どこから始めるかを 忘れるからです 私達が変わり始めると 良い結果があるか どうかと疑います 分らないからです それで 皆が 堕落しているのを見て 「私だけがしても何か 違いがあるだろうか」 と思います その時 私達は勇気も 動機付けもありません 互いに 鼓舞する事なく ただ古い生き方を 続けます
実際 私達は変りたい そうですね 時に 社会があまり 良くないと感じて 理想的社会を 創りたいと思いますね しかし 私達は 一人では 十分な力が ないと思います でも そうとは限りません 私も以前 一人でした そうです 仏菩薩が私に仕事を 割当てた時 私は 勇敢にやり抜きました 一人でした その上 私は外国人で しかも女性です 人々は女性を 見下しましたが 私達は道(タオ)を 信じました 仏菩薩の擁護があれば 何も怖くないし 私達は確実に そう出来ます 仏陀に言われた事を とにかくするのです それでいいのです 私がもし「私は一人で 女性だし 小さく弱い しかも外国人だし 何ができるだろうか」 と思ったら 私も他の人と一緒に 亀の様に雲隠れすれば 社会には誰も喚起する 人がなく 互いに 励ます事もありません 私達の親戚や友人には こういう事を 私達と話す機会が 滅多にありません その上 人々は多忙でレベルも ほぼ同じです 私達は深く研究して いないので 理解できません ね 私達には 誰か 学んだ人が必要です 忘れた事を 言ってくれる人が 必要なのです それもいいですね
今海外にいる 同胞達は経済の低迷を 心配しています ここは悪くありません そこでは 道徳を高める時が きています でないといつまでも 経済や技術ばかり 発展させて 神仏を忘れて しまいます 自身の仏性と 道徳を忘れては いけません それで神や仏陀または 造物主は時々 災難を与えます すると彼らは 考え始めます その時 初めて 物質は決して永遠な ものでないと分ります 釈迦は偉大で 裕福な王子でしたが 真理のために全てを 手放しました 私達はそんな極端に ならなくていいです 彼とは違うからです 仏陀になると願を かけることもないです 菩薩になるのも いいです そうですね 生死から 解脱するのも いいです または再び 人間になって 社会に奉仕し 正直で道徳的な 人間になるのも それで十分満足 そうではありませんか それでもやはり 私達を諭し 何を どうしたらいいか 教える人が必要です でないと方々で答えを 探す事になります
それに私達は 忙しくて探す時間が ありますか 私は独身の時 皆のように商売で 忙しい事はなかった のですが やはり長い 時間がかかりました 長い間 多くの国を訪れ 長い間修行して やっと分ったのです 皆さんのような 多忙で沢山の責任が ある人は尚更です 皆さんは全てを 放り出し ヒマラヤに 行ってマスターを 探すことはできません 厳しすぎます そうですね 従って誰でもできる わけではありません 誰かがすでに 見つけたのなら それを皆と 分かち 合えばいいのです 例えば皆さんに 子供が沢山いたり 大家族の場合も 一人か二人が 働くだけで十分 家族を養えます 稼いだお金で 子供を学校に 行かせたり お母さんの薬や 家族の服を 買うことできます 家族全員が 外で働かなくても いいのです 同様に私一人が 真理を探し当てた だけで十分です 私は皆と共有する 義務があります 学ぶか学ばないかは 各自の自由です
人々は同じ仕事をし 同じ道徳的な事を教え 悪事を働かないよう 教えていながらも 相手の教えに 対する理解が 欠けているため 互いに誤解する ことがあります 彼らは異なる宗教 として差別します でも 人にいい事を 教える宗教は よい宗教です 外側の服装は 何でもありません 皆さんは毎日服を 換えますが やはり黄さんであり 劉夫人なのです 昨日 高潔で 教養ある人だったら 今日ジーンズを 履いていてもやはり 高潔で教養ある人です ジーンズを履いたから カウボーイになる わけではありません 私は外出する時 時々支障が 生じます 何事も常に 順調とは限りません しかし何事も始める時 それが予想されます 中国語に 万事始めが 難しいという 諺があります
私は耐えるだけです 気楽でなくても 私は外出します 簡単ではありません 時には 沢山のお金と時間を 使わねばなりません 私は決して外で お金を集めません お金がある時は 法を広めるのに 使います 人々が道徳的な事を 耳にするのは よいことです 私は貧しい人と 富める人を 区別しません 人々は私を見るのに お金を使う必要は ありません 神仏が私に お金を与えて 説教 させているのです とても簡単です 道を信じていれば 何でも必要なものは 手配されます 私は困難や どんな状況でも ただ耐えます 何故なら 釈迦は 四十九年間 それほど多くもない 衆生を救うために 毎日歩いた事を 覚えているからです 弟子は そういませんでした 沢山の人が彼の経の 講義を聴きましたが 皆が弟子になった わけではありません 彼の弟子は ほんの何人かの 出家者だけでした 彼の苦労を 思ったとき 私の これぐらいの困難は 何でもなくなります 私は飛行機で旅する こともできます 歩く事もありますが
実際 釈迦は 出家者や修行者は 必ずしもインド人と 同じ服を着る必要は ないと話しています その国に 合った服を着て いいが 一般人と同じような 服を着るのではなく 少し違って見える べきだと話しました 私は外に出ても 旅行バッグを持って 気ままに見て回り あちこち食べ歩く 普通の旅行者のように 楽しくはありません 外に出れば 沢山の問題があります それでも社会で 一部の人が変わって 社会がより繁栄し よくなるよう 影響を与えられれば 苦労も報われます そうでしょう? 皆さんも 外で仕事をするのは 簡単ではありません 人との競争で懸命に 働かねばならないし あまり誠実だと 人は私達を凌ぎ 商売をだめにし 怒らせます でしょう? そして 商売を取りあげます しかし皆さんが 彼らのようにすると 良心が 咎めます そうですね 沢山の法規もあって とても難しいです
皆さんが自分や 家族を養うために あんなに働いて いるのを見ると 私の苦労は何でも ないように思えます 私の苦労で多くの 人々が利益を得るので 損する事はありません 皆さんが家族のために 全世界と勇敢に 闘っているのを見ると 修行者である私も 人々のために 頑張ることは 何でもありません 私はこのように 自分を慰めます すると 弘法の仕事を 続けられるのです 私もひとりの人間で 肉体を持っています 内面には心が ありますが外側は 肉体なのです 時々 肉体は 内面の心の言うことを 聞きません ただ寝て いたがるのです 皆さんが運転する時と 同じです 皆さんが一流の ドライバーでも あまり長く 運転してると うんざりして ストライキします いけない所に 横たわって どうしようもないです 皆さんが聡明でも 何もできません 車は止まったままです 同様に 私の肉体にも 支障が多いのです
マレーシアで私に なぜ最高の観音法門を 在家の人に 教えるのかと質問する 人たちがいました 私は在家の修行者の 何が悪いのかと 聞き返しました 私は在家の修行者に 感心しています 皆さんは 家族の面倒を見て 社会のために働き 仕事で競争もあります それでも道を 求めてもいるのです 皆さんは 泥沼に咲く蓮の花の ような存在です しかし 泥に 汚染されていません 尊敬するに値します もし皆が出家していたら 私たちはとっくに 消えていました 地球はとても 美しいです 私達は それを維持しよりよい 所にせねばなりません 涅槃(最高の楽園)に 涅槃(最高の楽園)に入りたくなくても 構いません ここにいて 徳のある 智慧に 満ちた修行者になり 周りの人々に手本を 見せるのもいいです そうですね
例えば五十人の中に 一人の修行者が いるとすると 大分違ってきます 計り知れない 影響があります 人々は悪い事を 敢えてしなくなります たとえ彼らが その人のように 厳格に修行しなくても 道徳的で正直な その人を見て 反省します それについて 考え始めるのです たとえその人ほど 善良でなくても 自省して 間違った 行為を減らすのです いつか 時間が来たら そのうちの一人が 彼に影響され 修行 するかもしれません すると希望の灯りと よい手本が増えて 周りの人や 彼を知っている 人達が 彼の影響を 人達が 彼の影響を 受けるのです こうして私達は世界に 恩返しするのです そうして世界平和を もたらすのです 私達は剣や弓矢や 銃で天下を鎮静する のではありません 戦争や暴力で 人々を抑制しても 鎮静は決して 長く続きません 誰でも知っています 中国史にも例は枚挙に いとまがありません 尭 舜 周王朝 漢武帝の時代を 除いてです
これらの時代の 皇帝は賢明でした 悟っていたのかも しれません ですから 天下泰平でした 人々は自然に 皇帝を敬い 従って 皆が協力し合って 国を平和に しました 私たちの修行仲間は 霊修行をし 菜食をしています 殺生は望みません 五つの戒律を守ります 仏教徒は 五戒を守り カトリックは 十戒を守ります 大体似ています 十戒は五戒を 少し発展させた ものです 実際 五戒は とても重要です 皆が五戒を守り 世の中の殆んどの 人が五戒を 守れば 仏土に行く 必要はありません ここにいてもいいです だから釈迦は 仏陀は心にいると 言っているのです 心が純粋だと 自然に仏土が 出現します 想像してみて下さい 誰も盗みを働かず 人の物を横取りせず 人がくれない物を 持ち去らず 強奪せず 配偶者に忠実で 愛し合い 子供の 面倒をよく見ると 子供の成長における よき手本になります 一緒に菜食し 一緒に菜食し 盗まず 殺生せず 邪淫せず嘘を言わない こうしていけば 親の代から 代々受けついで いかれます
そうですね 祖先から受け継ぐとは こういうことです 私達が非道徳的で よい手本にならないと 子供は私達から 学んで もっと 酷く成長します こんな子孫は何の 役に立ちますか 私たちは後世に 悪名を残す だけです 何かいいものを 残すでしょうか 歴史に名声を 残しません 古代は 国王が 徳が高く 純潔な人を 表彰しました 表彰状は 代々大事に 伝えられます 人々は 彼らに敬服し 彼らに学びたいと 思います 皆が尊敬するからです どんな悪い人でも 善人を尊敬します おかしいでしょう 悪人は善人を 最も尊敬しています 悪人はとても 悪くて分っていない 人間だと思わないで ください 違います 内心で全て分ってます 状況が彼らを 悪くしたのです 状況はヒーローも 悪人も作りあげます 私たちは内面の 霊的力を使うことです 仏陀の名号を 唱えるだけならば 外部の力に 依存しているのです 内面は安定しません 内外とも安定せねば なりません
念仏すると 同時に内面を 省みて 戒律を 守らねばなりません また 菜食をし 徳を養うべきです 内外どちらも 修行することで 陰と陽のバランスが 取れます こうしてこそ 周りの環境に 影響されないほどの 力が持てるのです 社会が悪くても 私たちは影響を 受けません 内面に 力 すなわち 仏性を 見つけたからです そうして初めて 心が安定します でないと 私たちが どんなに物知りでも どんなによくしようと 頑張っても 内面の パワーがなければ とても難しいのです これは家を 建てるのと同じです 基礎が強固で しっかりしてこそ その上に何でも 建てられるのです 大きい家にするか 小さい家にするかは デザインの問題です 同様に私たちは 同じく修行し お経をあげる 人たちをみかけます
時には彼らは大変 熱心に念仏します 高潔な人になりたいと 渇望します それでも悪い事を することがあります 内面の力が見つかって いないからです 念仏するのも お経をあげるのも お経をあげるのも いいことです お寺を建てるのも いいでしょう 沢山 お寺を建てて 僧侶や尼僧を 支援するのもいいです 私は各宗教が 早く健全に発展して 様々な縁を 持つ人々を 教える べきだと思います 皆が仏教を信じるよう 強要はできません 彼らが信じなかったら どうしますか 無理強いはできません 他の宗教を信じても よい事を教えるのなら いいのです 本当にその宗教の 教えを実践すれば それでもいいのです どんな宗教も 本当に良いものです 問題は人々が自分の 宗教の道徳規範を 実践できないことです
どんな宗教も これが問題です 彼らが自身の宗教の 本質を理解しない限り 互いに誤解する ことが多いのです 自分が ちゃんとしていて 本当に高潔だと 他の人の 内面の 良さが分ってきます 他の宗教とその 宗教の信者たちも 良い人だと分ります 彼らは皆同じである ことが分ります 全く同じです 例えば 中国人は よく中華料理店に 食べにいきます しかし西側の人達は 洋食を好みます 彼らが中華料理を 食べたいとすれば 大歓迎です そうでなくとも好みの ものを満足に食べて 健康ならけっこうです 世界に奉仕できる 元気な体があれば 彼らの食事を気に かけることはないです 私は中華料理を食べて とても健康です 一日八時間から 十時間働きます 彼らはポテトなどの 洋食を食べて やはり元気なのです
同じく一日八時間か 十時間働き 世界に奉仕します どちらもいいのです そうですね 宗教も同じです よく考えると分ります どの宗教も 人を殺すよう教えて いません どんな宗教も盗みを 勧めていません 多少誤解は あるものの どんな宗教も本当に 同じ事を教えます 皆が社会を混乱から 守ろうとしています 信仰する宗教や 修行レベルに かかわらず 皆が 暫くはこの世界に 留まります まだ離れていません 世の中が戦争や 強盗や暴力で 混乱していて 修行できますか 当然できません 従って全ての宗教は 論理的に人々に 教えるべきです これは第一に 宗教を守るためです たとえ 私たちが 相手が好意で 善行を勧めていると 思わなくても 論理的に考えると 少なくとも彼らは 自分を守りたいのです 社会が混乱していたら どう 発展できるでしょう そんな状況で瞑想 していたら 真二つに 切られたりします 奥さんが誘拐される かもしれません その何がいいですか 子供は学校にも 通えず 苛められて 何がいいのですか どの宗教もいいのです 問題は私たちが なにかの宗教に 属していながら 信徒としての義務を 果たしていない事です だから世界は こうなのです それで 私は寺院を 建てたり 出家者を 支援するのは 良い事だと思うのです 私の団体ではないです
私達は 自立しています 手工芸品を作ったり 私も絵を描いて 稼いでいます 皆さんに供養を 示唆しているのは ではありません 他の宗教と 他の出家者団体の ことです 彼らにお金が必要なら 供養しても いいのです 重要なのは 彼らは 自身の義務を必ず 果たすことです まずは自身の 修養を積み すると 家族を管理でき 最後に国を治める ことができます 最も大事なのは 自身の修養を積む事で これができないと 人を指導する ことができません 中国語ができずに どうやって子供に 中国語を教えますか そうですね 少なくとも中国語が 少し分って 初めて子供に 教えられます 自身の修養を 積む事は最も大事です 修養を積む事を 通して体験を得ます 沢山の他の人が 忙しくて認識できない 事が分ってきて それを人と 分かち合えます 私達の交流はその時 初めて本当の意味で 有益なものになります
知っているものを 全部話します 大事なのは 私達は よき手本を見せて 人々に良い事をし 社会を守るよう 勧めることです たとえ 仏陀にならなくても 人間としての義務を 果たせれば これも良い事です そうではありませんか 私は宗教の 指導者たちが 外に出て人々に 説教することを 支持すべきだと 思います 社会の基盤を守り 混乱を防ぐためにも そうすべきと思います もちろん 私たちが 修行する方法は もっと奥深いです お経をあげる だけでなく それが 分らないといけません もし私が経典を 理解していなければ 仏教の事をどうやって 沢山分りますか それは 私は経典を 研究したという ことです そうですね しかしこれは 表面的な事です 内省せねばなりません 内面の仏性と 繋がるまで 修行せねばなりません
内面の力を見つける ために繋ぐのです すると 人と話す時 説得力があります そうですね 料理法を知っていても お腹を満たさねば なりません 一日中 料理ばかりして 最後に台所で倒れたら 一体何がいいですか メニューを読んで 人に料理を 紹介するだけでは よくありません 料理を食べてみて 美味しいと分って 初めて 話に 説得力があるのです そしてこう言えます 「食べた事があります とても美味しいです 間違いないです」と 聞いた人は 私達が 誠実だと分ります 食べたことの ない人だと どんなに美味しいと 言っても 説得力がありません
誠実さと 内面からの力が 欠けているからです ですから修養を 積む事は大事なのです 皆が知っていますが 実践しません 私達はよく 身を修めてこそ 家を治められ それから 国を治められ そうして 天下を太平に できると耳にします また「己の 欲せざるところ 人に施すなかれ」 などといいます しかし 言うは易く 行うは難しです では明日また お会いしましょう マレーシアでは二つの 言語が使われます 殆どの人は中国語を 話し 少数の人は 英語を使います
彼らはとても誠実で 私の教えをよく 分っています 菜食の話以外は そうです 多くの人が私に 印心には大変 興味がありますが 菜食者にはなれない と言います とても可愛いのです 私はそれはできますか 美味いパンや菓子を 欲しがりながら お金を払いたくない のです と言いました そんなことできますか 皆が着ている服は 暫くの間だけ 体を覆えるのです 無常の物ですが やはり沢山のお金を 払っています 何日も数週間も 働いてやっと スーツを買うお金の 余裕ができるのです 今 皆さんは永遠の 命を求め 輪廻を避けて 西方の極楽の世界に 行きたいとしながら わずかばかりの 「航空券」代を払い たがらず 菜食を したがらないのです 私は「いいでしょう 菜食者にならなくて いいです」と言います
すると今度は 二時間半の瞑想は 長すぎると言います 私は「いいでしょう 菜食者に ならなくてもいいし 瞑想しなくても 修行しなくても 戒律を守らなくても いいですよ 私が代りに 菜食し 瞑想し 戒律を守り そして あなたに代わって 仏陀になります」 と言いました それでOK? 大多数の人は修行を 望み したくない わけではありません ただ 意志が弱くて 影響されやすいのです 彼らは一人で 決められません 小さい時から 人の影響に慣れて いるのです 自分の意見を持って いる人は少ないです 大多数の人は お母さんや 学校でそのように 教えていて 経典や本で そう習っています しかし私たちは 理解しないまま その通りやって いるだけです すると私たちは 自身の権限を失います だから生死の 輪廻の苦しみを 受けるのです 皆さんの大半は 海外の華僑で ここで商売をし 生活は 安定しています しかし世界は本当に 苦しんでいます 大変悲しんでいます いつか時間があったら 貧困地帯 難民地区 あるいは 屠畜場に 行ってみるといいです 帰ってきたら 眠れず 食べられなく なるでしょう とても辛くて こういった事に 責任を感じるでしょう
実際 私達が買う 仏像は 幾分 理にかなっています 例えば 釈迦牟尼仏 観音菩薩 阿弥陀仏の像を 見ると 皆この様に 座っています そうですね? この意味は何でしょう 何をしていますか 瞑想しているのです 座禅しています ですから私達が一日中 経典を唱えるだけでは 見合わないですね そうです 経典を唱えるのは いいのですが 釈迦牟尼仏がこうして 座っているのを見た時 彼が私達に何を望んで いるか分りますか 瞑想してほしいのです そうですね 経典は 教理ですが 瞑想は 修行です そうですね 私達には両方必要ですそうでしょう 商売をするのも 同様です 例えば ご両親が 商売のやり方を教えて くれるとしたら それを聞くべきです 一方で やはり 外に出て 経験を積み その言葉を実践 しなければなりません そうしてこそ 理解できるのです 言葉を書きとめて 唱えるだけじゃ だめです ね 記憶するだけでは だめです 完璧でも完全でもないそうでしょう 経典を唱えたり 勉強したりするのは いいですが 仏陀が した事 経典が 主張する事を理解 しなければなりません 例えば 金剛経の中では 人は 布施 持戒 忍辱 精進 禅定をし 智慧を得るべきと 述べています この六つの徳目を 満たせますか 出来なければ まだ 仏教徒ではありません
私が言ってきたことは 釈迦牟尼仏が言った ことと同じです 皆さんはよく忘れるか 学んでいないか 深く勉強していない あるいは 修行して いないに過ぎません どんな仏教徒でも 六つの徳目 布施 持戒などを すれば・・・ 持戒とは 菜食を取ることも 意味します 菜食でない食品を取る ことは一種の殺生です 直接には殺しませんが 私達が食べたがれば 他の人が殺します 私達は 布施 持戒 忍辱を すべきです 忍辱とは 互いに攻撃せず 殺さず 破壊しない ことを意味します
勤勉になって 毎日すべきことを するのです 毎日瞑想し 追いつか なくてはなりません 瞑想ですが 瞑想する 人いますか いません 人々は皆 金剛経を 唱えますが 中に 述べた内容を実践する 人はほんのわずかです やる人もいますが 少数しかないです
私達は六つの徳目を 修行します 私達はお金を寄付し ダルマ(真理)を 広めます それらは全部 布施です 私達は皆さんにそう 教えるだけでなく 模範にもなるのです 例えば 私のお金は 私に使うわけでもなく 大邸宅を建てる ためにも使われません 私はお金を使って 中国大陸 フィリピン オゥラック (ベトナム)の難民や 洪水被災者を助けます 例えば 洪水被害が あったら 彼らに お金を寄付します またダルマ(真理)も 広めます
私は懸命に働き よく旅します 説得できる人なら だれでも 説得するのです 私と縁のある だれにでも ベストを 尽くして教えます それは私にとって ひとつの布施の 形でもあります 持戒についてですが 厳格に戒律を 守らねばなりません 忍辱は どうでしょう それもやります
次は 精進ですね 私達は毎日瞑想します 精進とは 進歩を遂げることで 己を反省し 日々 責務を果たす ことを意味します 修行をする場合の 私達の責任は 瞑想し 人々を良い 行いをするよう説得し 最善を尽くして 義務を果たし 精進することです 瞑想については もちろん 瞑想して サマディに入ります 智慧とは何か ご存じですね 智慧があるのです 沢山はなくても 少くなくとも多少は あります でしょう さもなければ どう 話せるのでしょう ね 内面に智慧がなければ 人々は私達の話に 耳を傾けないでしょう 実は私達は六つの徳目 全て理解できても 簡単には 語れないのです 人々が六つの徳目を 守ろうと努めれば 彼らには 金剛経だけで 十分です 他の仏教の経典を読む 必要などありません しかし 多くの人は 経典だけを読んで 実践に 移さないのです
仏教はとても 素晴らしく貴重です 内面の本質があって 美しい外観もあれば 完璧になります 私もベストを尽くして 仏教を讃え 促進し 整えて より完璧に隆盛する ことをめざします 私は仏陀の名をもっと 栄光あるようにしたいのです 彼の教えを 更に広め 出家者の名誉を高め より敬意されるように したいのです 私は十分に 正しい事をして来た そう思っています 異端宗教の教徒は 人に有害で悪い行いや 社会 家族や人々の 道徳価値を破壊する 事を教えています そうであれば間違いと 言えますが 私達の 道はとても高潔です
マレーシアには沢山の 弟子がいますが 私は二年に一度しか 訪れられません 他にも行くべき所が 沢山あるので 度々は無理なのです
ついでに皆さんに 会いにきました どうしているか 知りたかったし 話したかったのです
ただ皆さんに 会いたかっただけです 友達として 皆さんに 満足してもらうように 語り合い 皆さんへの愛を 表したかったのです
しかし ここに たびたび来ることは 約束できません これから益々 忙しくなります 他の所の弟子が 多いからです 彼らが引っ張る力は 強力です ご存知のように 子供の頃 綱を引いて どっちが強いか 競争する遊びが ありましたね ここにいる人の方が 少ないので 彼らに 負けてしまいます そうでもないですか 自信がありますね 勝てるでしょうかね そこの 人達は皆菜食する 弟子達です
信者は多いです 私の本を読んで いますが 菜食を 続けられません したくても 意志が弱いのです 彼らは家族や 社会の影響を受けて 人と違った事が できません 笑いものになるのを 恐れています そういう人もいます 実に気の毒です やりたい事は やればいいのです やりたくなければ それでもかまいません なぜ 笑われるのを 恐れるのでしょうか
時には 夫が修行しようと しても 妻が反対して 菜食を作って くれません 夫は料理が できなので 気が変わります 時には妻が修行 しようとしても 夫が肉を食べるよう 強要します
プレッシャーで 彼女は 気が変わります もし 私が菜食と 戒律を求めなければ 皆が観音法門を 修行すると 思います
そこで私は 沢山修行したくない 人のために 方便法を 提供しています
彼らは少し徳を積み もっと楽に苦痛のない 生活をするために 少しだけ修行します
彼らは菜食に チャレンジします これを方便法と いいます 都合のよい時に 菜食するという 意味です 多くの人は この方法を好みます 彼らは毎日三十分 瞑想できます とても簡単です それでもご利益があり よい方に発展します 時々彼らは私が 現れるのを見ます その体験がある人は ここにいますか また 光を 見る人もいます
ある人がヒマラヤに 行って マスターに 会う夢をみたそうです そうですか 子供は純粋です 彼は休暇で豪州からインドネシアに 帰ってきました 彼は少し修行 しただけですが 体験があります
方便法を 習ってから 多くの人は ご利益があって そして信心を持ちます もっと 真剣になり始め 菜食に切り替えて 完全な法門を 修行したくなります 米国在住のある人は 寺院や教会に 一度も行った事が ありませんでした 霊修行とは何か
全く知りませんでした 何の信仰も なかったのです 奥さんがお寺に 行きなさいというと なぜ坊さんを見に 行かねばならないのか 一日中拝んだり 寺を建てて何になる と言って 行きたがりません しかし 皆が行くので ついていきました 当時 彼らはまだ 菜食していません 私が行かない場合は 三ヶ月 菜食をして やっと印心を 受けられます そこで 私達の出家者が 彼らに方便法を 教えました 彼もそこに座りました でも 出家者を じっと見つめていて 瞑想しませんでした
彼はずっと出家者を 見つめ タバコまで 吸い始めました 当時 彼はタバコを 吸っていたのです 彼は実業家で 裕福であったし 妻子もあり 霊修行の必要など 感じませんでした それに 神が自分に 何かを与えるとは 思っていません 自分で成功したので 神など必要ないのです たいへんな頑固者です それでただ座って 見ていたのです 時間になって 皆 瞑想を終えました 出家者は皆に 体験があったか どうか聞きました 人々は自分の 体験を 語り始めました 光を見た人もいれば 他のものを見た 人もいました 彼のお母さんは 私を 見たと言いました 私だとは言いません その時 彼女は まだ私のことを 知らなかったのです 彼女はこう言いました
「写真の中の人が 立って 私にお茶を ご馳走してくれました 変わった味でした」 彼はお母さんを とても尊敬して いたので 何も言えませんでした しかし 感心した わけでもありません お母さんが幻想を 見たと思ったのです 後で お兄さんも 何かを見たと 言いました その人はあえて何も 言いませんでした それはお母さんであり お兄さんだからです 妻が 体験があったと 言ったとき 彼女を見て言いました 「バカな事を言うな そこに 数分座っただけで 何かを体験できる なんて事あるか」と 彼は敢えて他の人は 叱りませんでしたが 妻は叱りました それから 車で家に帰りました 彼は私の本とビデオを 買って帰りました 勉強するためです 他の人々が それを 勉強していたからです 最初 彼は私の事を 信じていませんでした 誰も崇めませんでした
ある日 髭そりを していたら 妻がビデオを見ました 聞いていて思いました 「あれ これは奇妙だ どうして この尼僧は 有能なのか 人々が英語で 質問すれば 彼女は英語で答える 中国語で質問すれば 彼女は 中国語で答える オゥラック語 (ベトナム語)で質問 すれば オゥラック語 (ベトナム語)で答える 彼女は本当に有能だ」 称賛したのは私の 言語の才能だけでした
彼は言いました 「講義するのは難しい ことだ ましてや 三、四ヶ国語だ 人が何を尋ねても 彼女はすぐに答える それで彼は私を少し 敬服し始めました 彼はこの人物が誰で あるかを知る為だけに 勉強したのです 彼は以前 私について 聞いた事はあっても 気にとめませんでした その後どうなったのか 方便法をして 他の人 皆に なにかしらの 体験がありました
彼だけが瞑想せず 他の人を見ていました 時間がきて 彼は 皆と家に帰りました 帰る途中 彼は 母に尋ねました 「お母さん 正直に 言って下さい 本当に見たんですか その人がお茶に招いて くれたんですか?」 母親が言いました 「私がなぜ嘘をつくの まだこの喉に甘さが 感じられるわ」 母親は彼に言いました 「あなたになぜ嘘を? 私は彼女を知らない それに 彼女から 何も得ていないのに なぜ嘘をつくの?」 彼は母が非常に幸福に 見えたと言いました 母親が 喉にまだ甘味を 感じると言うのを 聞きました つまり本当に彼女は お茶を飲んだのです 外面的な事でなくでも まだ甘味を 感じていたのです それで私を 信じなかったその人は 動揺し始めました 母親が嘘を言う理由が なかったからです 彼は こんなに 多くの人々 十数人もが そろって幻想を持ち 彼に嘘をつくことなど あるのだろうかと思い 動揺し始めました そして家に帰りました 帰るとすぐに 彼は シャワーを浴びて 服を着替えました 次に上の階にある 自室に入って鍵をかけ そこで瞑想しました それまでは誰かが彼に 瞑想する様に誘っても 拒否しましたが 彼は家に帰ると一人で 瞑想したのです 瞑想をしばらくすると 彼には 体験がありました
とても良い体験でした
彼は震撼させられ そして分りました
その日から 彼は 菜食を始めました 彼は子供達に彼と共に 菜食する様に 話しました 彼はこう言いました 「もし君達が 勉学や 商売をしたくなくても 私は心配しない でも霊修行は しなければならない 君達が修行を しないなら 私は悲しむだろう」 彼はそう言って 子供達についてくる様 泣きながら勧めました その後 家族みんなが 菜食になりました 彼は六歳の子供を 印心に連れて来ました
その六歳の子供が とても可愛いのです 一度 隣人がドアを ノックしたとき アメリカでですよ 隣人がノックした時 その子は飛び上がり 言いました「お父さん ドアを開けないで」 父親が尋ねました 「どうしてだい」 するとこう答えました 「彼は殺生してる 毎日ホットドッグを 食べてるよ」 よくホットドッグを 食べる人だったのです それでこの子は ホットドッグを 食べるのは殺生だと 非難したのです この子は わずか六歳ですが 彼の言ったことは とても可愛いですね だから一人が 修行をすれば 本当に多くの人に 影響するのです 子供でさえも 良い事を学びます 子供が成長すると 我が子でないかの様に 言う事を聞かない ことがあります 何故でしょう それは 時には 彼らが幼い時に 道徳を教えず また手本を 示さなかったためで それが習慣になって いないのでしょう 習慣にすぎません この六歳の子は よく理解しましたし 菜食をするかも しれません 子供が ベジタリアンになれば 肉を与えると それを脇にやり 泣きながら逃げます 例えば ある子供がお弁当を 学校に持って来て 温めるために それを 他の弁当箱と一緒に 置いた場合 時々 誰かが間違って 菜食の弁当箱を取り その子に残されるのは 肉の入った弁当箱になるかもしれません その子は弁当箱を 脇にやって 泣いて 食べないでしょう
彼は家に帰って もっと食べられます 彼の徳が高くないなら 私達は彼のために何が 出来るでしょうか そうでしょう
彼が道徳に欠け 成長しても 善良な 人にならないなら 埋め合せに 彼の為に 何ができますか 彼が空腹なら 私達は食事やお金を 与えられます 彼の貧困が 心配なら 彼のために 商売を立上げます 彼に道徳がなければ 私達は何ができますか 私達にできるのは自ら 模範となる事だけです 幼年期から 善良な人になるように 手本を示すのです 子供が幼年期から ベジタリアンで 戒律を守るなら 成長して 揺らぐ ことはありません 私たちは苗木を植えて 毎日 良い水と 肥料をやります すると それはどんどん育ち その根はどんどん 強くなるでしょう 風に倒されることなど ありません 私たち大人も 習慣を長い間 持っています 例えば 肉食に慣れていました 他に何も 知らなかったからです 私たちは肉食と飲酒に 慣れていたとしても 道徳を学べば やはりこういった 全てをあきらめ すぐに改められます この男性の様にです 彼の人生の半分は 過ぎていましたね もう若くないです
しかし・・ 私は五八歳です
五十年以上 彼はあらゆる食品を食べました しかし今 彼は修行を したがっています 彼は信念が堅く すぐ 変えました これによって死ぬ事は ないでしょう 栄養を欠いている ようにも思えません 私は既に 一年間 ベジタリアンです それでも 問題は 全くないでしょう?
菜食すると 栄養不足になると いう事はありません そんなことはないです 私達出家者は 皆 元気です 出家した後に 彼らは皆 少なくとも 約五キロ太りました
一番痩せていた人達も ここに来てから 太りました これは 菜食が 非常に栄養価が 高いことを示します 更にどんな悪いカルマ(報い)もくっついて 私達の体を蝕んだり 精神を破壊しないので あまり病気をしません 私たちは健康で 栄養は足りています
つまり 彼はかなり高齢で 社会的地位があり 事業に成功し 子供も 大勢もいるという ことです それでも 生き方を変えられます 一旦正しいことを 知れば それをします それまで 誰も彼に 言わなかったので 知らなかったのです 多忙だったので 考えませんでした 今 それに関して 知っている人を通じて これが正しいものだと 分ったので すぐに変わりました この様な人だけが 勇敢であると言えます 過ちを 犯すのは構いません しかし それに 気付いたら すぐに 正すべきです それでこそ 勇敢です 生来の覚者はいません 誰も生れつき 悟ってはいませんね 誰も 救世主として 生れるのではないです
釈迦は 人々を救う為に 大菩薩として 兜率天から 降りたと 言われています でも生まれてから 三十年間 無明でした そうですね 毎日 彼は肉を食べ 酒を飲み 宮殿で 楽しみました 何も理解して いませんでした ある日 出かけた彼は ひとりの僧に出会い 道や道徳の話を聞いて 目覚め 修行を 始めたのです そうですね 彼は元々ブッダだと 言われますが やはり そんなふうでした 私達の出生時に 蓮の花が七本出現し 七歩を歩いたかどうか 分りません いや 七つの石が下にあった かもしれません ですから生来の聖人で なくとも成れるのです それが正しいもので 私達と社会の為になる なら 好きでなくても 犠牲にするべきです
修行者は一人でも 多くの人に影響する ことができます 本人が 変わるだけで 家族全員が 修行を始めます そして友達 親類や 仕事の顧客も みんな彼と共に 修行します それでこう言うのです 「まず 自分の身を修め それから家庭を よりよくととのえ それから 国をよく治め そして天下を 平らかにする」 ある日 人々から 徳と才能を信頼され 大統領に 選ばれるかも しれません その時 準備万端です 人々から大統領や 覚者に選ばれるかも しれませんね それで私達は準備する 必要があるのです
つまり 年をとっても 私達はまだ 変われるのですから 道徳的環境で育つ人は 言うまでもありません そのような人は 動揺しません 成長してからの 自分の為に良いのです 彼が社会に良いか 否かを 心配する 必要はありません 遠い将来を論じる 必要はありません 彼が自分に良ければ 家族は安心です 我が子が悪い事を しないと知っていれば 安心です
彼が健康に育つので あれば結構なことです 実際 菜食する子供達は 非常に美しくて とても健康です 彼らは薬を多く飲む 必要はありません 多く食べる必要も ありません 多く食べて健康になる 訳ではありません 私達は 一日二食です 昼食でより多く 豊かに食べます 私達は 朝は 食べませんが お昼に沢山食べます そして 夕方に麺やスープ麺 又はお粥を食べます
彼らは皆さんより 多くは食べません もし 彼らが 一日三食でも皆さんと 同じだけです ね?
私達の出家者はみんな 体重が増え 顔には 赤みがさしています マスターが ヒマラヤにいれば 私達は会えません 彼が如何に偉大でも 私達には分りません 彼は活仏のように 毎日瞑想し 一方 私達 普通の人は 自分の仕事や家族 国事の面倒を見るのに 忙しくしています ですから 霊修行を 成し遂げられません
この俗世にいれば 私達は霊修行を 成し遂げられない かもしれません そう考えたりします もし 修行する人が やって来て 私達と交わり 歩き 食べ 飛行機で旅をし 時には疲れ 病気に なる事を示してくれる ならば 私達は心から 彼に非常に親しみを 感じます しかし 彼らが異なる ものを持っているで あろうと分ります 話し方 生き方が違うからです より自在で より穏やかで冷静です その様な 模範があれば それを試しても よいと思います そうして 安心して 修行するのです 釈迦や イエス キリストは 悟っていて 何も 必要としませんでした 釈迦はもともと 王子で 物質的には 少しの不足も なかったのです 彼が悟ってからも 父親は宮殿 黄金 真珠を与えました 彼は望むものを 何でも持てたのです 何の不足もないのに 何故 毎日托鉢に 出かけたのでしょうか 彼は人々に 修行者と会わせ 接触する機会を 与えたかったのです
そうすれば 人々は 彼と話せて 修行について 質問できますから そうしてこそ 人々と話して 修行を勧める 機会が得られたのです そうですね イエス キリストは ひとり快適な場所で 修行できたはずですが あちこち旅しました より多くの 無明で 修行者に接近する 機会のない衆生に その機会を与え 代わりの道がある事を 知る機会を 与えるためです お金を稼ぎ 子を育て 家族や国家の面倒を みることのほかに 別の道があり それにより 物質面と霊性面の両方を 世話できるのです
生活にそれを加え より快適で より意義ある人生に できるのです 世界のシステムが どれ程良くても それは世界の皆に それほど役立ちません それで観音法門の 修行が必要なのです 観音法門を 修行すると 私達には ひとつの 言語しかなくなり 同じ理想と献身の 精神を持つので より容易にお互いが 交流できます そして不思議にも ちょっとした偏見や 様々な個々の思考が 急に それほど 重要ではなくなります それが良く修行して より高い域に達した 私の弟子の大部分に 争いがない 理由なのです
彼らは衆生の為に 共に働いています 私が出向いたり 講義をしに 行くところは何処でも 彼らが一緒です 口論も 言い過ぎもありません 皆 何をすべきか 知っているからです 弟子たちは 観音法門を 修行すると 私達のグループは 本当に違うと分ります 私達はみな一つであり 同意見を持つかのよう 滅多に摩擦は起きず 意見が食い違う時でも 提案できます 誰が正しく 誰が間違っているかと いう様な いかなる 闘争もありません
実際皆理解しています 彼らは内面で 悟っていて その智慧はますます 高まっているので 物事の正しい処し方を 知っているのです 特別な意見や 違う意見があっても 提案できるのです
世界の指導者達が 人々に耳を傾けて 欲しいなら 霊修行をして 人々が 自然にそうするように すべきです そうすれば軍隊など 全く必要でしょう
全指導者が観音法門を 修行して そういった 精神を宿せば 原爆など まったく 必要としないでしょう 原爆は多くの人命に 害を及ぼすだけです そうですね 古代から多くの 戦争があります 何故でしょうか 理由の全ては 多くの人々が霊修行を しないからです 彼らは物質面に頼って 国を治め 企業を運営し 世事を処理します 精神性や 内面の仏性は 信頼しません 彼らは神の意志に 依存しません 中国人はこう言います 「最初に自己修養を するべきだ そうすれば家族を よりよく養える 次いで自らの国を よく治められる そうしてこそ 世界は平和になる」 古代から言われて いることです しかし 私達はそれを達成できていません
私は中国人を称えます 皆さんは霊修行を していますから 修行の願望を 持っています
時には状況が 圧力をかけ 修行が 出来ないかもしれない しかし 常に修行を 皆さんは望んでいます それで 何処へ行っても 寺院の建立を願い あちこちで礼拝し 出家者を訪ね 彼らや 寺院に供養を捧げる ことを望むのです ね アシュラムや教会を 建てる事を好みますね どの宗教も 盛んで 順調です 最も重要なのは それらが 人々の悪い心 否定的思考を適正に 制御することです つまりそういった事を 減少させるのです
ビジネスをしたり 家族を 養うことのほかに 悪い行いをしたいと 思わないのです 度々 礼拝に行きます 喜んで 修行をします
本当に自分に都合の よいどんな方法でも 修行するのが好きです 正しいかどうかに かかわらずです その土地の神を拝み 富の神を拝みます 他の神もです それが誰で 助けになるかどうか 分らなくても 崇拝し続けます 通ずるかどうかは 気にしません ただ 万一の時の安全の為に 礼拝するのです
何を恐れるのでしょう 私達より 大きなパワーを 恐れるのです それを恐れるがゆえに 敢えて悪いことを しないのです 神仏や あるいは 幽霊でさえ 常に 傍にいると知るのは よいことです 悪い事をしたい時 土地神様が 眠っているかどうかと 思うでしょう
お釈迦様の像が 眠っているか どうかと 思うでしょう こうして恐れるのです それで中国人は何処へ 行っても 道徳的な 精神があるのです 無意識に 皆さんは道徳に 少し影響されます それで何処へ行っても 天地に 愛されるので 成功するのです 家庭を守ることや 生計と 子供達の安らぎの為に 仕事でお金を 得る事のほかには 他人を傷つけようとは 思いません 天や神々 大地 仏を恐れるので 神に愛されるのです 中国人は至る所にいて 発展し 成功しています どこに行っても ビジネスに成功します 既に 道徳の精神を 持っているので 私は 更に修行し 道徳を更に発展させ より適切な法門を 修行する事を勧めます さらに良いですね 皆さんは既に 修行していて 心を尽して拝み 仏陀や土地神様を 供養するものを 買う為に 多くの お金を費やしています また同様の 時間を費やして どの方法が本当に 良いかを研究し 見出す事ができます 本物で正しいものなら そこに全エネルギーを 集中すれば さらに良いですね
やはり同様の 時間を費やすでしょう 皆さんに霊修行の 渇望があるので 神は皆さんを愛し 人間として 別の機会を与えます けれども よりよく 霊修行するなら 更に有益ですね
そのような利益を 得れば 他者にも 広げる事ができます
こうして私達は 世界に奉仕するのです 神が皆さんをある国に 遣したのはビジネスの ためではありません
神には目的があります 時々 人の道徳の精神や 修行の態度は 他の人々に影響します 皆さんは自分の責任を 知りさえしませんが ビジネスをするのに ベストを尽くします 問題があると ただ土地神様を拝んで 賄賂を贈ります 彼は 少しは助ける かもしれませんが 皆さんの生死の解脱は 手助けできません 彼はその土地の 神にすぎず 天の神ではないのです 例えば 最も偉大な パワーではないのです
インドでは お客様が 来ると どの家庭でも 神や仏のように 扱います インドの ヒンズー教徒の事です 他の宗教の信者も 同様に振舞いますが ヒンズー教徒は特に親切です 彼らはより他の人々を 信用して よく世話し よりお客様を 重視します 世界が平和でないのは なぜでしょうか 私達は善良であっても 全て上手くは 出来ないからです 時々 私達の考えが 良くなかったり 振舞いが良くないと それは次第に否定的 パワーに変わります 良い考えを持ったり 良い事をする時 それは肯定的な パワーになります それで 一つはブッダ パワーと呼ばれ もう片方はマヤパワー と呼ばれます 悪いことをしたり 考えたり それに関して話すと マヤパワーが起ります ブッダパワーとは 私達の善良な心で 善行や良い考えにより 集められ 生じます それで よく 私達は世界の善悪に 責任があると 言われるのです 世界の戦難や トラブルを見る時 私達には関係ないとは 言えません 関係はあります それは 私達が霊修行を しっかりしておらず 日々の 行為 発言 考えを 完全に純粋に しておらず 本当に善行を しているかどうか より良くできるかを 内省して いないからです 時には 災害は私達が 自ら起こしたものです 今生でなければ 前世かもしれません 私達には 人との 血縁や友人関係がある からかもしれません 彼らが悪い事をすると 私達に影響します 全ては相関的なのです
カルマとは何か 悪いカルマの蓄積を 防ぐ方法に関する 過去のマスターや 預言者の助言は? 五月五日 木曜日の 智慧の言葉で 解明しましょう
カルマとは何か 悪いカルマの蓄積を 防ぐ方法に関する 過去のマスターや 預言者の助言は? 本日の智慧の言葉で 解明しましょう
家族の対立や AさんとBさんの間の 対立についてお尋ねします
対立が深刻で その結果が憎しみで あると仮定して Aさんが後に 霊修行を始め 菩薩の レベルに達した場合 Bさんは悪いカルマ (報い)を作っている わけですがその悪いカルマ(報い)は どう働くのでしょう 彼が菩提に達したら 彼への憎しみを 持つ人は 彼から 祝福の報酬を得て それ以上憎しみを 持たないでしょう ありがとう マスター
私は弁当を売ってます
(はい) 現在 私は ベジタリアンに なったので 職業を 変えるつもりです 菜食弁当の 販売ができますよ
そうしたいのです またはパン屋を いいですね 結構です 私はベジタリアンです でも家族や 子供がベジタリアンで ないと・・・ それは問題ありません
非菜食の弁当を 作ることは 良くないですね 職業を 変えるべきですね 変えた方が良いです そうしないと 多くの 悪いカルマを招き 修行の功徳が 差し引かれます それでは惜しいです
無駄になりますから 例えば 水を飲むとき 胃に穴があったら 水が入っても 出てしまいます すると体は 吸収できません 私が厳しいからでなく より自分を愛す べきだからです ありがとうございます 説得できるなら 試してみるべきです 出来なければ忘れて 彼らに学ぶ時間を 与えて下さい
釈迦は 肉を食べる者は決して ブッダにならず ただマヤ王になると言いました あるいはマヤ王の 助手になります 彼は 肉を食べると 災難の雰囲気を 招くと言いました 世界に多くの 災害や戦争が 起こるのは 人々が肉を食べ 集合的な 悪いカルマ(報い)を作っているからです ええ 聖書で神が言ってます 私達が命を奪えば それが人間や動物に 関係なく 神は 私達の命を奪うと
これは聖書の 最初の数ページに 書いてあります 私達が世々代々 輪廻する理由は 殺生のカルマ(報い)を 私達の肉体で 返すからです 五つの見えない 要素である五行 金 木 水 火 土についてですが 印心すると そういうものは 気にかけません それで 風水の方角によって 家を探したり 瓢箪を置くなどは やはり必要でしょうか 私は必要とは 思いません したければして下さい 必要なければ 従う事はないのですね そうです 印心すれば そのレベルを超えます 私が講演に行く度に 風水を見なければ ならないとしたら 皆さんは いったいいつ講演を 聞けるでしょう
この世界では 土地はかなり高価で 十分な家が ありません 住む家があるだけで ありがたいことです
質問があります ここにいるブラザーは 中国が話せません OK 彼はこう尋ねています 人の出生の目的は 何ですか
人生の意味は 何ですか なぜ私達は 人間になるのですか 私達は世界を楽しんで 良いのでしょうか 人になる目的は 霊修行を続け ブッダになる事です 人間である目的は 神と通じあう事です
人生を楽しんでも 良いですが他の存在を 害さないで下さい そうするならば代価を 払わねばなりません
彼は前のマスターの 加護を受けています
彼の前のマスターと スプリームマスター チンハイが彼には 両方とも見えます どうすべきですか どうもしません 過去は過去で 現在は現在です 問題ありません
あなたのお考えでは 普通の人が問題を 解決したかったら どんな観音経を 唱えるべきですか どれが一番いいですか いろいろ観音経を 読みましたが どちらが一番効果的か よく分りません あなたはどれが 一番だと思いますか 多くを唱えた以上 どれが一番か 分るはずです 通常 私は 一番簡単なもの 一番短い 白衣観音菩薩の 真言を唱えます 密教を 修行しているのですか 紅と白の 観音がありますよね はい そうです 分りました では 一番いいと 思うのを選んで 唱えてください それを続ければ いいのです 私は代りに選べません
どれと縁があるのかは あなたにしか 分りませんから
では 自分の 体験に基づいて 選べばいいのですね はい そのとおりです 他に何かありますか まだあったらあなたの マスターに聞いてね 有難うございました 手紙を書いたら彼から 返事がもらえますか 普通は誰にも聞かず 自分に問います それは正しいですね 答えが得られるなら 貴方のマスターに聞く 必要はありません まだ明白でないなら 尋ねた方がいいです 私の意見は あなたの マスターの意見と 違うかもしれません もし私の答えが彼のと 違えば あなたは 混乱するでしょう しかし論理的に言えば 自分に最も効果が 感じられるものを 唱えればいいのです そうでしょう(はい) 私が教える観音法門は 皆さんの 観音を 唱えるのとは違います 唱えるのとは違います 私達の観音とは 内在のブッダの音を 聞くことで 皆さんの 観音とは 密教に属し 観音を唱えたり 崇拝 したりすることです 密教には たくさんの 観音があります
マスター この内在の ブッダの音は心拍に より生じるのですか
いいえ
心臓の鼓動の音は 観音法門の修行者も 時々 聞こえますが ただレベルはそれほど 高くはないです ここから聞くのでなく 智慧から聞くのです 心拍に似た音も ありますが その境界は 高くないのです
私達は自分の仏性を 理解するために この世に来たのです 仏性とは 天国 神の王国のことです もし自分の仏性を 理解しなかったら また人間として戻り 学ばなければ なりません 普通 私達は 善人である限り 十分だと言われます では なぜ修行が 必要なのでしょう 実は修行するのと しないのとは違います
善人には沢山の 種類があります よき妻や よき夫 よき父親や よき母親などです しかし それは単に 家族や 国に対して よいのです 死んだ後 また戻り その人たちと一緒に いなければなりません もし前世に彼らと いい関係を つくらなかったら 更に悪い状況になり この世に戻って来て 敵になり互いに攻撃 しなければならない 事もしばしばです 参考までに 修行の事を 少しご紹介します 基本的問題は 殆どの方が 菜食できないことです 多くの人は 私について 修行したいと思います それは分ります ただ 菜食主義者に なれないのです なぜなら 男性なら料理の仕方が 分らない 或いは 料理した事がないから できないと言うのです
中国人は 料理が上手ですね
植物性食品は何でも 肉より栄養があります 私の本でも よく説明してあります
面倒くさがり屋ならば 毎日「羅漢菜」を 作ってもいいです 「羅漢菜」とは 何でも 鍋に入れて ただ炒めるだけです 大きな鍋に油を少し 入れ 熱くしてから 豆腐とグルテンを 加えます
小さく 小さく 刻んでください それから 小豆 緑豆 或いは 黄色の豆(大豆)を 水に一晩浸しておいて 柔らかくします そして 油で一緒に炒めます ニンジンを入れても いいですよ 白ニンジン(大根) 緑ニンジン 黒ニンジンなども 赤 白 緑 黒 全部入れます また 他の野菜 例えば キャベツ ブロッコリーも 切って入れます そして コリアンダー 塩少々 砂糖と「マギー」を 少し加えればいいです
マギーは醤油より いっそう香りますよ 白いご飯に垂らせば いい香りですよ ご飯に合います 時々 出前をとって 料理の味が いまひとつという場合 マギーを入れると おいしくなります
唐辛子もいいでしょう
だから「羅漢菜」は お腹を満たせて 栄養があって おいしいのです パンやご飯とも 合います これは最も簡単な方法 私は以前 こうしてましたまだ生きてますよ 当時は簡単に料理し 沢山食べました 今 彼らは色々凝った 料理をしますが 私は あまり食べられません
弥勒菩薩をご覧なさい 彼もべジです 象も牛もべジです 皆太っています
人間として生きる事は 多く食べるためでは ありません ヒマラヤに暮して 修行している 人たちもいます 食物は 多くはありません ほとんど食べません 以前 私に弟子がなく 隠遁していた時は 玄米 すりゴマとマギーを 常食としていました 三ヶ月 こうして 暮した事もあります ヒマラヤにいた時 食物がなくて 生の野菜だけ 食べていました 時々 山菜を 捜しました 加熱せず食べるのです 私は小柄なので あまり多くの物を 携帯できませんでした そこはとても寒いので ご飯を炊くことは できませんでしたなぜなら 水が沸騰しないのです グツグツいうだけで 沸騰しません ヒマラヤはとても高く 長いこと歩かねば なりませんでした 私には 寝袋だけでも とても重かったです 私は寝袋と二組の 綿入れの服を 持っていました
二組の 簡単な服です 運動靴も これらは私には とても重かったです 歩いているとき 道に水や雪があったり 雨が降ったりすると 靴はずぶぬれで 足が本当に 冷たくなりました そしてはれ上がり 重くて動きたがらない という感じでした いくらか荷物が ありましたが 本当に 手に負えませんでした
時々 人様の小屋を 捜しては 食べものを得ました でなければ 山菜や生の野菜を 食べるのです 得られるものを食べて 死にませんでしたよ
人間として 生きて行かれたら もう十分です 十分な食物がないと 心配することは ありませんね 玄米 すりゴマ マギーと果物で 十分です 毎日こうして食べて 十分なエネルギーが あります 問題ありません ある日本の宗派は この様に食べれば 非常に健康で 病気にならないと 勧めています 私の知り合いの フォルモサ(台湾)に いる オゥラック人 (ベ卜ナム人)の マスターは 何十年も 白米でなく玄米を 食べていました 玄米は 栄養豊富で安いです 彼は すりゴマも食べます 何十年も 毎日この様に食べて 恰幅がよく 血色もいいですよ 気功の先生ですが 仕事もよくしています 彼はヌードルの様に 鉄の棒を曲げられます また 私は数十年間 何も食べない フォルモサ人 (台湾人)の尼僧を 知っています ドイツのカトリック 教徒にもいました テレーゼ ノイマン 彼女も何も 食べませんでした
何も食べない 在家者も知っています 彼は非常に知的で 武芸にすぐれています 人がどれだけ 修行が 進んでるか分る人です こういう話は たくさんあります 私達は食べる為ここに 来たのではありません ですから 心配することなど ないのです 釈迦には多くの富 妻と女官たちが ありましたが すべてを放棄しました 彼はひとり 至る所で 真理を捜し求めました 修行の方法を 知らなかったので 苦行して 骸骨のように なりましたが あまり 気にしませんでした イエス キリス卜は 食物を持たずに 砂漠に行き そこで瞑想しました 時々 イスラム教徒は 三ヶ月間 断食します 夜に少し 食べるだけです 彼らは 毎年三ヶ月断食します また密教では ミラレパという大師が ヒマラヤにいました 冬にはだれも 行かれないので 食物も 野菜もありませんでした だから何も食べ物が ありませんでした
私は こんなに辛い 苦行をしなさいとは 言いません 極端も良くありません 極端も良くありません しかし暫く 修行をしていくと 自然に少食になります 釈迦は一日一食だけを 必要としました 彼が食べたのは 衆生と縁を結ぶためで 空腹だったからでは ありません 私達はたっぷり 飲食しても良いですが 同時に 修行もしなけれぱ なりません