智慧の言葉
 
悟りを得るために遅すぎることはない 1/3 タイ ハットヤイ(タイ語)   
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最初の踊りは テプ バン ソエンです 二番目は スリ ウィチャイ という踊りです これは 素晴らしい機会です 講義をしていただく マスターチンハイを 歓迎しましょう ようこそ マスターチンハイ

では修行仲間の 体験談を ご紹介したいと 思います

こんばんは 私はマスターの 弟子の一人です 印心を受け 観音法門を 二年間修行しています 最初の内面の体験は ちょうどこの四月中に 起きました ある日 いつも通り瞑想のため ベッドから起きました サマディに入った時 自分の内面で 大きな音を聞きました それは沢山の 音のはずれた楽器が 演奏される 大コンサートでした 同時に 私の智慧眼には 光が当っていました 大きなエネルギーに 満ちた振動が 私の魂を その光へと 速いスピードで 引き上げました 想像上の電車に乗って トンネルを 走り抜けるようでした 私の魂は 智慧眼を通って 外の別次元へと 走っていきました 素晴らしい大気と 澄んだ空でした 私は自分の姿を 振り返りましたが 体は見えませんでした ただ魂と頭脳だけが 空を漂っていました 私の魂はついに 楽園に流れ着きました その中へ入ると マスターと やはり弟子である 私の親友を 見つけました マスターはいくつかの ジュエリーから ダイヤモンド首飾りを 選び私達の首にかけ それからマスターは 二人に外で遊び回る ように言いました

この体験後 瞑想中は常に 似たような体験が 一カ月間続きました けれども 聞こえる音と 次元と雰囲気は 異なっていました たとえ私の得た その体験が極端に 素晴らしいもので なくても マスターチンハイが 悟りと解脱へと 確実に導いて くれていると 確信が持てます しかしそれには 誠実に 真剣に 解脱を探求すべきです マスターに 私達の全霊をこめて 感謝を申し上げたいと 思います

さあ まもなく 皆さんが待ちに待った 時間がやってきます どうぞお迎え下さい マスターチンハイ スプリーム マスターチンハイ

ご機嫌いかがですか

気分はいかがですか 大丈夫ですか タイの人は内気ですね 手伝ってもらえません 私はもっと内気です ですから 両方とも内気で 何もやらずに 座っているだけです これがこの世界の 問題です

皆がとても謙虚で 内気で 自分の感情を 表現しようせず そして自分が目指す 目標に向かって 精一杯努力しようと しません

私もとても 内気な人間です

今もそうですが 決して私の内気に 人生の目標達成を 阻害させません この内気と恐れは 時には私達を妨害し 毎日の日課に縛りつけ 動けなくなります 私達が人生の新しい 解決策や 新しい意義を見つける ことを妨害します これも 多くの人が 開悟を得られない 原因だと思います 釈迦牟尼仏陀が 私達に 誰でも仏陀になれると 約束しています 彼自身はすでに 仏陀になった人です 私達も将来 仏陀になります 全ての衆生は仏性が あると言っています 仏陀の教えと 他の全ての マスターの教えは おおよそ似通ってます いずれも 神の王国と仏国土は 私達の内面にあると 教えています けれどもなぜ それを見ることも 知ることもできず 仏性を理解することも できないのでしょう 釈迦牟尼仏陀は 私達は皆仏陀であり 仏性は内面にある と言っています つまり仏陀になる 可能性があり 少なくとも仏陀の種が あるということです ではなぜそれが見えず 見つけられませんか すでに見つけた人に とっては 簡単なことです まだ 見つけていない人に とっては それは 大変難しいです 釈迦牟尼仏が 自身の仏性を 見つけた時 とても驚きました 仏陀は言いました 「私と他の衆生とは 何も違わないのに どうして彼らは 知らないのか」と 悟りを開いた人は 誰でも皆 同じ疑問を抱きます みな 同じ感じなのです 自分がとても 平凡に思えます 以前とそれほど 違いませんが 智慧は開きました 内面で何かが 目覚めたのです それが 唯一の違いです 悟りを開いた人は 他の人たちに この宝を見つけるのは とても簡単だと 納得させることが 困難なのです というのは 私達の天性はほとんど とても内向的で 内気だからです 謙虚とも言えましょう とても謙虚なのです そして 仏陀になるとか開悟と いったことに対して 多くの幻想があり 難しいと思うのです 悟りを開くなど 今生では 無理だと思い込み この世俗に生きながら それを達成する事は 不可能だと考えます それが私がヒマラヤに 行った理由です

私は当時 神秘的で はるか遠い所や 人家がなく 汚染のない所でこそ 開悟できると 思いました そして私は多くの 苦難を経験しました 一日一食しか食べず 夜は寝ないで 夜通し瞑想するなど このようにすると 仏陀の域に到達すると 思ったのです 相当長い時間  飢えに耐え 相当長い時間 時には 寒さと 惨めな目にあってから こそだと思いました 暫くしてから それらのことは皆 必要ないと分りました 仏陀はとても 慈悲深いからです 彼は私達に辛い思いを させたくないのです そして 他の人と私の経験を 分かち始めてから 更に分かったことは 自分の家で瞑想し メルセデスを乗り回し きれいで モダンな一流の レストランで食事を しながらでも開悟 できるということです

一部の観音法門の 修行仲間は 悟りのレベルが とても高いですが 彼らはヒマラヤに 行った事はありません 一日一食を経験した こともありません また夜通し瞑想した こともありません 彼らはいずれもこれを 証明する事ができます ですから  唯一必要なのは 正しい修行法門と 友達または先生か ガイドのような人です  その人は修行方法を 知っていて体験を 分かち合うことが できる人です その後はどこででも 修行できます もちろん 私達は自分の 生活様式を変え 住む所を変えて 開悟を求める必要は ありません したければ そうできます そうすることが 修行にとってよく 心がもっと平和で 修行することに 助けになるのであれば 助けになるのであれば そうしても構いません 鮮黄色の僧衣に 着替えてもいいのです お寺へ行ってもよく 森へ行ってもいいです またはもっと 静かな仕事の環境を 選んで変えるとか などなど これが本当に 私達に幸福な安定した 感じをもたらし 修行に役立つとしたら やっても構いません しかし誰でもが 欲しいままに選択する 自由がある訳ではなく なぜなら多くの人は 責任があり 家族があり 両親や子供や妻や 夫がいて社会的責任も 果たさねばなりません 皆が 森に行ってしまったら 町は空っぽになります そういう提案は 私はしません

仏陀が 釈迦がこの世にいた時 彼には様々な 弟子がいました

それぞれ異なる職種 異なる背景や 異なる地位 異なる才能や 異なる宗教を持つ 信者たちでした

仏陀が 涅槃に入った後  後継者は ほとんど 出家者でした というのは 多くの出家者は 十分に悟りを開き 釈迦の高貴な教えを 伝承する事ができます そして 出家者は比較的自由で 義務などありません 彼らには 心配事もありません 家族と一緒にいる 必要もないのです 家族を 養う必要なども ありません 自由に どこにでも出かけて 誠心誠意 法を 求める人に出会ったら 修行方法を教えます

これは釈迦には 開悟した在家の弟子が いないという事では ありません 最も有名な弟子の 一人は 唯摩という名で 彼は在家の人でした とても裕福でした 出家もしていなければ 剃髪もしていません 僧侶にもなりません それでも 釈迦の弟子たちは皆 彼を恐れていました なぜなら彼は とても高いレベルまで 悟りを開き 仏陀に近いほどでした 出家者や唯摩を 訪れる人たちは 誰でもみな 彼をとても尊敬し 彼の修行のパワーを よく知っています 同じように 観音菩薩も 僧侶や尼僧の姿で 現れた事がありません 多くの仏教の 聖人たちもそうです 皆様ご存じと思います ですから これらの 古代の修行者たちに ついて読んだ後「僧侶や尼僧になって こそ仏陀になれる」 と私は思いましたが その後 それらは 必要ないと分りました

私達の大多数は もう大人で しかも中年に なっています そこで 時々 悟りを開くには もう遅いとか 世俗の 責任に縛られ過ぎて いると思いがちですが 決して遅くありません 難しくもないです 僧院の僧侶や 尼僧にも私達の 修行仲間がいます 異なった宗教の 背景を持っています 仏教に限らず カトリックの 修道女や 牧師もいて私達と 一緒に修行しています 大多数の修行仲間は 普通の在家者で 仕事をして 生計を立て 家族の面倒を見て 夜には瞑想をします 私達は 夜寝る前にまたは 家事を済ませてから 瞑想をします あるいは朝 一時間または三十分 早く起きて 瞑想する事もできます 皆がまだ寝てる時です というのは 私達には 瞑想する時間がほんの 僅かしかありません 家事で忙しいからです すると私達の心は更に 渇望するようになり それで修行において 追加の加護を得ます そういう訳で 私達のいわゆる 在家の修行仲間が あるレベルから 上のレベルへと 成長がとても速い事に 気がつきました とても早いです というのは 瞑想とは一つの目標 または事に集中する ことを意味します 必ず足を組んで座って いなければならない ということではなく 固定した姿勢で数時間 動かないという事でも ありません 修行の 重点は心であって 体ではありません 心を 抑制した後  体も抑制できます そこで すでにある法門を 修行している人が よく気づくことは 時々 心がとても乱れて 心がとても乱れて 困っているなら 座っていられません ですから私達は 決して 人に瞑想の姿勢を 強調したりしません 私達が強調する事は 余分な心を抑制するパワーを解除するのを 助ける事です それで瞑想を 始めたばかりの人は 心をすぐ 静めることができ 悟りを開いた結果を 体験するので 引き続き 修行できるように 励まされるのです

私達は皆さんが 仏性という最高の源  あるいは異なる宗教が 言っている 天国から来る 抑制の力を 開くのを助けます 同時進行でこの 世界と天国の事を 全て処理できる 一つの方法があります 秘訣は その方法を 知ることです いったん 秘訣が分かれば 何でも簡単にできます 秘訣を知らなければ たとえ どんなに努力しても どんなに誠意誠意でも 自分が求める結果には なりません これは他の事と同じで 論理的です 習いたいと思えば 容易に習えます

悟りを開くことは この世で 最も簡単なことです あなたが タイ国の大統領 または首相に なりたいとしたら 私は保証できません でも開悟したければ それは保証できます 簡単だからです 私達の修行仲間に 聞いてみて下さい 非常に簡単だと 保証してくれます それで私達は それを「即刻開悟」と 呼んでいます もちろん話してる時は 開悟を指導している 訳ではありません しかし指示をすれば それを得ます 今はただ 広告をしています ケーキが欲しいと 言うのなら すぐ与えられます 何の問題もありません 悟りを開くことは 私達の生活に 何の影響も与えません この土地に違和感を 感じるとか 家族から 離れていくとか 変なことなどを したりはしません 智慧が開いたこと 以外には 普通に暮らしています 智慧を使って 社会や 家族のために奉仕し 自分の執着心を解放し もっと熱心に人を助け もっと賢くなり 仕事は より効率よくなります
菜食は生活様式を 変えることではなく 正しい生活様式です 菩薩は私たちが何を 食べるか気にしません でも開悟した後 衆生は皆 平等であるという事が 分かり そして私達には 慈悲があるからです 私達は助ける事ができ 抑制できるなら 更なる苦難を 作りたくないのです 私達にはできます 涅槃経に 釈迦牟尼仏陀は 出家者の弟子に 外で托鉢する時 食べ物に 肉が入っていれば その肉のついた部分を その肉のついた部分を 洗ってから食べるよう 言いつけています これはインドでの事で 大多数のインド人は ベジタリアンなので それは より簡単です

私はある修行団体が 菜食していることを 知っています 彼らはいずれも 僧侶と尼僧です 彼らも外で托鉢します ただ人々に自分たちは 菜食していると 教えていると思います ですから人は菜食の 食べ物を与えます 私はこの団体を 知っていて 道場を 訪れたことがあります バンコクの近郊です なのでたぶん 問題ないでしょう

困難はありますが 不可能ではありません 私たちの 修行仲間にも以前 絶対に肉を 諦める事ができないと 思った人がいました あまりにも慣れていて 肉抜きだなんて 考えられないのです どうやって育つのかと しかしこれは可能です 問題ありません

必要であれば 何人かの強壮な弟子を 紹介します 彼らは母親の お腹の中にいる時から 菜食して 全然問題ありません 皆さんは 動物園に行って 象をみて 虎と 比較してみて下さい 象と虎です 心配は無用です これは皆さんに 私たちの教理と 仏陀になる方法を 紹介しているだけです 強制したり 気分を 害そうとはしてません 皆さんは自分の 生活様式を選択する 自由があります

でも皆さんに ここに 来てもらった以上は もちろん 私たちが ここに来た理由や 分かち合いたい事を 紹介する 責任があります

実は これは とても小さな事です 人によっては 菜食していなくても 開悟したケースも あります ない訳ではありません ただこれらの大多数は ある程度のレベルまで しか開悟できません 私は彼らが 非菜食で多くの肉を 食べながらどれほどの 高い意識レベルまで 到達できるか 分かりません

私が学ぶことや 知っている事によれば 大多数の偉大な マスターは みな菜食を 強調しています イエスもです 預言者ムハンマド さえもそうです 私たちがもっと仔細に クルアーンや経典を 研鑽すれば分かります よく強調している事は 肉を食べないことと 酒を飲まないことです もちろん 仏教でも 多くの経典において 菜食を強調しています 私がここで繰り返す 必要はないと思います 私たちには二つの修行 方法があり様々な人に 適用します 一つはとても厳しく 真剣に修行し これを最後まで やり通します これは必ず私達の 身 口 意をきれいに しなければなりません 肉食を禁じます 肉食のカルマ(報い)が ないことで 進歩が速くなり 障害もなく  病気も少なく 精神的葛藤も少なく 体も虚弱でなくなった と気づくでしょう 真面目に修行している 人にとっては 古代から 菜食は 必ず守らなければ ならないことです もう一つの方法は 気楽にできる方法で これは「方便法」の 修行者と呼びます 彼らは都合が いい時に菜食し  できるだけ やればいいのです 彼らの修行は 比較的簡単な 瞑想テクニックです

それでも ある程度 悟りを 開くことができます 一つ目の方がより 力強く自分にとっても 人にとっても 利益になります 彼らはより大きな パワーで人を加護し 亡くなった 五、六、七、十代上の 親類までもです 彼らの修行と開悟の 僅かな功徳により 超生できます これは真剣に修行する 人の場合です 彼らのパワーは 無限に大きく まだ仏陀になって いない時でもです というのはみな 仏性と繋がって いるからです 仏性のパワーは 無量無辺です 概念は 自分の好きな生き方を 選択するということで 解脱を求め 凡夫でいたくない ということです ですから 彼らは 全てを犠牲にして この功徳と パワーを得るのです だから得られます もちろん 得たいものは努力を 払った分得られます そうですね もう一つは これより下の程度です 半分真面目で または 真面目になりたい人で 半分の力を得られます 自分自身の解脱の他に 身近な親類や親友も 身近な親類や親友も 超生できます これも悪くありません 何回生まれ変わっても 苦難の輪廻の海に溺れ 自分を救うすべもなく 人を救う事もできない よりはましでしょう ここではっきりさせる 必要があるのは 食事を制限するとか 菜食をすることまたは 概念だけで解脱の力や 加護を得られる 訳ではありません そうでないと ただ 家で座って菜食すれば いい事になります または象や 水牛は とっくに この話をする前に 仏陀になったでしょう ですから私たちは 必ず 門はどこにあるか 仏陀の国に 通じる門は 無形の智慧の目は どこにあるかを知り どう開けるかを 知るべきです なぜなら私たちの魂 真の自我 仏性は中に 閉じ込められ ドアを ロックされたので 私たちは苦しむのです これが 物質的な 肉体に監禁され この世界の幻想に 拘束された状況です そうでなければ 造物もなければ 世界も苦難もないです しかし 造物も 世界もあります 面白いのです ちょうど映画を 見ているようにです

ただ悟りを開いた後 初めてこれは 映画だと分かります そうでないと 映画の深い悲しみの 内容に深く沈んで 抜け出せません これが問題なのです さっき言ったように 私たちの多くは シャイで 保守的で あまり 自信がないのです そこで悟りを 開くことができません そうでなければ 悟りはとっくにそこに あるものであって これは自分の宝庫で 私たちの本性なのです 開悟は遅すぎません 常に今すぐ 手に入れられます 今すぐに この講義の後 あなたは帰宅する前に 仏陀になれます ええ 少なくとも 十%の仏陀になり 毎日続けて発展します 十%はないより ましでしょう ですから 開悟には 多くのレベルがあって 皆さんには すぐに仏陀になれると 教える事はできません しかし開悟はできます もちろん すぐに 仏陀になれます ただ私たちの偏見が 受け入れられず 私たちは 無明の状況に執着して 信じられないのです なのでマスターは 時間をかけて解釈し あまりにも驚き あまりにも強力で 受け入れられないのを 避けるためです 心身がまだ  耐えられません そういうわけで 十%の仏陀 二十%五十%六十%の 仏陀と言います 実は 百分比などありません 印心したばかりの人で 第三界 第五界に 達した人もいます これは珍しくも できなくもありません

純真で 純粋な人ほど 信じる心が強く レベルも高いです 純粋な人がレベルが 高いという事ではなく 純粋な人は 頭の複雑な人より ハイレベルのものを 理解しやすい ということです なぜでしょうか なぜなら 私たちは もともと仏陀です 私たちは 神の子です すべての宗教は これを教えています 釈迦が嘘を言い イエスが嘘を言い ムハンマドが冗談で 言ったとしたら 私は 責任を持てませんが 私が一生懸命修行して 分かった事は それは 事実であることです 私たちは元々仏陀です 頭が 愚かな仏陀であるため 仏性を妨げています 必ず突破することです 知性をカットし 知性と思考の プロセスを断ち切り 直接 智慧の源を目指します 即ち私たちの仏性です それが 印心の課程です すなわち いわゆる 即刻開悟のことです 私たちはいつも 頭脳つまり 内面のコンピュータを 自分だと思い込みます 自分はタバコが 好きとか酒が好きとか 自分は短気だとか 優しいとか 私はこうだああだなど どれも脳頭の考えです ここで言う「自分」は 習慣に過ぎません 頭脳という コンピュータが この世界から 絶えず分析した 結果なのです 本当の自分ではなく 真の自我でもないです 私達が自分はこれらの 習慣であり頭脳だと 認めるからです 自分はこういう 人間で ああいう人 悪い人 よい人 思いやりのある人 短気な人だなどと 思います  真我ではありません  真我はこれより 遥かに上です それが仏性なのです このドアを開けて 頭脳を超えて 真我と繋がらないと 永遠に 自分という者は それらの習慣であり 隣の人や社会から 集めてきた考えであり この世界から学んだ 物事だと思い込みます 永遠に自分の偉大さと 真我と輝かしい自分と 仏性を知りません いつまでも 劣等感を持ちます 自分は仏陀に なれないと思い 仏陀になることは 数百万年に一度起こる ことだと思うのです

仏像を拝むのも 結構なことですが

一番良い方法ではなく 副作用が生じます  他の事と同じです 私たちは自分を 仏陀と遠ざけ 自分と 仏陀を区別するのです 釈迦は遠い昔に 言っています 私と衆生は 私と衆生は 平等で何一つ 違わないと しかし私達は 仏性を 自分から遠ざけ 観賞の対象にし 幻想だと思います 私たちは自分が 仏陀になれるなんて 想像もできないのです これが即ち 仏像を拝み過ぎた 副作用です 私たちは 仏陀が生まれた時から 私たちと違うと 聞いていますが その場にいなかったし 本当かどうか 知るすべがありません 例えば 仏陀が生まれた時 七歩歩き 親指で 上と下を指して 「天上天下唯我独尊」と 言ったとか 私たちはこの話に 執着しています

彼はとても特別で 生まれた時から 歩けたので 仏陀に なれたと思い込みます これは可能ですが 定かではありません

私は釈迦の生涯に ついて勉強しましたが 彼は私たちと同じです 食べて 寝て 勉強して 悟りを開くまで 瞑想するなど同じです 悟り開く前 彼は食べて 飲んで 結婚して 数百人の妻がいて 贅沢な暮らしでした みなさんと同じです 私の知る限りでは 彼は生まれた時から 豪華な暮らしをし 納税した事がなく 働いた事もありません 享受するばかりでした そして出家して仏陀に なったのですから 私達になぜできないか

釈迦には八万四千の 法門があって 弟子を教えます  私はそれを全部 運用する事ができます  衆生が 真の本性を知り 執着しないように 手助けできるものは 何れもいい法門であり いい方法だと思います 同じ勉強でも これの方がより面白く より人を 引き付けます 例えば 時々子供は 勉強したがりません

ABCを覚えることは 子供には難しいのです すると先生はこれを 歌にして教えます 歌にして教えます 私はABCDEFGと 少女が歌っているのを 聞いたことがあります とても面白そうに 一日中歌っていました それは歌であって 宿題ではないため すぐ覚えられます 私たちはそれぞれ 個性が違います すぐに諦めがつく 人もいれば それが 遅い人もいます これは構いません 急ぐことはありません この世界は 美しくする 必要があります できる限り この世界を 美しくすべきでしょう みんなが袈裟を着たら 見るからにあまり よくないでしょう

悲惨な状況の上に 色彩を塗って 自分たちの生活を なるべく楽になる ようにします 物質的な牢獄から 脱出できる日までの間 そうします  これは大変 困難なことですね

大多数の人はシャイで 過分に保守的で 楽しめません これを突破して 自然になるべきです それは難しいのです 私たちはすべての 開悟したと思われる 師を仏陀として扱い 彼らの中から 惨めな仏陀を 作り出します

これは私たちが仏陀に なることを阻害します 私たちは自分を限定し 自分と仏陀の間に 壁を立ててしまいます

これは正しくない 概念 法規 教条による 恐ろしい結果で 人は洗脳されます 人は洗脳されます 自分の生活も 魂も制限されて 何の役にも立たない 人にされてしまいます

自分が欲しいものの ために奮闘する事です 好きな女の子がいれば 彼女のために命がけで 決闘までするでしょう なぜ仏陀になるためや 開悟の為にできないか できないのは  これが妨げになって いるからです 他でもなく恐れです

これが私たちの くせです あまりにも多くの 間違った概念があり 例えば 仏陀はこうあるべきで 仏陀にはこう対応し 仏陀はこのように人と 話すべきだとか 足を組んで座るべきで 横になるのはおかしい 横になると仏陀では ないとでも思います  しかし私が バンコクの有名な寺へ 行った時 横になった 仏像がありました 人々はそこに来て 礼拝していました

では私達は一体 どうしたのでしょう 恐れと間違った概念が 自分を限定するのです 自由になりましょう 仏陀になりましょう いいえ なるのでなく 自分は仏陀である 事を思い出して下さい あなたがまだ 思い出していなければ  印心を通じ あなたを 手伝わせてください ありがとうございます

印心願書の内容ですが どうして 他の病気を 癒すために 霊的な力を使うことは 私達の霊性の進歩に 有害なのですか 私はレイキ修行者で 霊性の進歩に非常に 興味を持っています それは 私達自身の 力を漏らし保つことが できないからです 私達が仏陀になれば 治すことができます 治療せずにして 私達は手を人の体の 上に置く必要も ありません 人々があなたに 病気のことを 告げる必要もなく 人を癒した事さえ 知ることなく治せます

それは最高の治療です 仏陀になる前に自分の 力を浪費したければ 治療する事ができます でも仏陀になって 治さずにして 治すという境地に 達したいなら まずその力を保存し なければなりません 観音の修行者は 若干の時間の 修行を経て  彼と縁がある人々を 癒やすことができます 千マイル離れていても 互いに 知らなくてもです 手を彼らの体の上に 置くこと等は 不要です ですから 霊性の力で 人々を癒すことを 禁止するのではなく より素晴らしい療法を 皆様に見せたいのです

次の質問は タイ語によります 合計三つの質問が あります

第一の質問は  観音法門とは何ですか 第二は私達は死んだ後 どこへ行きますか 第三は 仏陀の 境地とは何でしょうか

観音法門は  あなた自身の仏陀の 智慧を開き あなた自身が仏陀だと 認識させる方法です あなたはこの世で この幻想の生命を 有する以前には  本来は仏陀でした 死後どこへ行くかは あなたの生前の行いに よって決まります 善事を行い 修行をして 開悟していれば 高いレベルの天国 あるいは仏国土に 行きます さもなければ  この世界か 他の時間と空間に 戻ってきて他のことを しなければなりません

彼らの質問で 誤った 性的行為とは何ですか (ああ 邪淫です) はい(いいでしょう) なぜ性的行為を完全に 抑制しないのですか (全て完全にですか)

完全にです それでは仏陀は再び この世界に生まれる 事ができなくなります

邪淫というのは すでに 妻や夫がある場合に 第三者と関係を持って あなたのパートナーを 傷付けないことです 必ずしも 性的行為を禁止する 必要はありません 霊修行に切迫した 必要でないからです この体の化学反応が 長い間このように 働いていますから 突然にそれを止めれば 問題になります 重大な副作用と 心理的な影響が 生じます それは霊性の静けさを 助けません 長い時間 霊修行をした後  その欲望は 自ら低減します それがより良いです

彼らが伺いたいのが あなたの見解では どちらが本当の夫と 妻かということですが 第一は 法律により登記した ものです 第二は 宗教的効力があり 親類からの 認容を受けたものです 第三は 互いに責任が ある場合です あるいは三人とも 持つべきですか ご見解では どちらが本当の夫や 妻ですか なぜそれ程複雑ですか (分かりません) 一人の妻を持って 同時に この三つの 条件に符合すれば 済むのではないですか 世界の伝統により 妻は 夫と結婚して 登記し 親類に認められ そして互いに責任が あるものです そうではないですか なぜ三人でなければ なりませんか 大部分の人は 宗教的な儀式に従い 結婚行事を行います カトリックなら教会で 挙式し一度で十分です 質問の人が イスラム教徒なら 更に説明できますが そうですか イスラム教徒ですか はい この国では 男性は何度も 結婚することが できます そうですか

今朝 私は  私の運転手と 一緒に出かけることが できなかったため タクシーに乗りました 付近を見物に出かけました タクシー運転手は 偶然 イスラム教徒で 彼は イスラム教の 一夫多妻制の伝統に ついて話しました それで今 ついでに このことを皆さんに 話します 彼は私に 一夫多妻制について 尋ねましたので 私は言いました ええ 本来 預言者ムハンマドは イスラム教の男性に 多くの妻を持つことを 許しました なぜなら 当時 切迫した 必要性があった為です その当時 イスラム宗教は 迫害されて  多くの教徒たちが 殺害されました そして 彼らは政府と戦争して 多くの教徒が 殺されました 男性が殺されました そしてもちろん全ての 未亡人と子供たちが 後に残りました だから 預言者は 彼の弟子達に  亡くなったブラザーの 妻子達の世話を する事を許したのです それは 正しい方法です そうすべきでした それをすべきです その当時 女性は 自分の世話をする事が できませんでした 仕事や出かけること等 許されないので 彼女達は全て男性に 依存していて 彼女の男性が死んだら 彼女はお終いです それで 後に残った 他のブラザーは子供の 有無を問わず未亡人の 世話をしなければ なりませんでした 肉体的な接触など 必要ではありません ただ彼女達を保護した だけかもしれません

そしてこれは愛と 慈悲   同胞の気遣いです 正しいことなのです 本当の結婚でも あるかもしれません  ただ 前妻の 同意のもとで 特に ムハンマドは 男性が全ての妻に  平等の世話と 関心を与えなければ ならないと 強調して それが原因でそういう 状況になりました 彼もまた最初の家庭を 考えなければならない もちろん  誰もがただ 他の全家庭や隣人を引き受けて 共に飢えるのでもない 偉大な伝統でしたね 同胞愛から くるものです でも現在 多くの人は 利己的な理由で 伝統を利用しています 目の前の家族に 苦しみをもたらします

ですから 悟りがなければ 宗教書や 過去の聖人達の 意志を勘違いする 恐れがあるのです だから宗教争いを たくさん見るのです 今日の世界でも まだ起きています 二十一世紀に近い今 世の中は非常に悪い 状態にあります

刃を持って 殺すまでは いかなくとも 言葉で 批評で殺します 悪評で殺し 新聞を 使って評判を落とし 殺すのです そしてどこででも

ですから 今の状態が 良くなって  同じ宗教内で 争いがなくなることを 祈りましょう

私達はみな詩や歌 感情を表すものが 好きです 例えば 私達が幼い頃 父母から愛され ペットや級友等から 愛されました そして大人になり 伴侶を愛します そうして 私達が年をとった時 神を恋しがりだします 神は私達の 最高の品性なのです 私達の誰もが ロマンチックな品性の 類を好みます どうしてでしょう

三月二十六日土曜日 スプリームマスター テレビジョンの 智慧の言葉で スプリームマスター チンハイの新刊 「幾世紀もの愛」の 中国語版発表会を お見逃しなく

本日のスプリーム マスターテレビの 智慧の言葉で スプリームマスター チンハイの新刊 「幾世紀もの愛」の 中国語版発表会を お見逃しなく

 
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