私が既に お話したように 教師は隣人であるかも 知れませんし 時には 子供かも しれません 私達には たくさんの子供 阿羅漢がいます その霊的レベルは 当時の仏陀の弟子と 同じくらい高いです 彼らはあなたが 子供が答えられるとは 決して予想しなかった あなたの 質問に答えられます 私も 時々 彼らと話をしては ショックを受けました 彼らが天国を 知っているからです 私は彼らに尋ねます 「どの天国 どんな名前 誰が そこに住んでいるの」 彼らはすべて答えます 誰も彼らに教える ことさえできません
両親を含めて 両親はまだそのことを 知らないからです それで 時々私は ほんの少しの調整を しなければなりません それで彼らは平凡な 生活ができます さもなければ 有名になり過ぎて 彼らの成長 この世界での普通の 生活を妨げるでしょう そういうことで 私達修行者も 公的に自身のレベルに ついて話すように 勧められていません 特別の場合 マスターの前や 他の衆生の 利益のために 絶対的に必要な時は 例外です
子供として修行する時 清い心を堅持する事と 克服すべき障害がより 少なくてすむという より多くの利点があり 非常に純粋で 単純な環境で住む 人々にも同じことが 適用されます 心が非常に単純で 考えが非常に純粋な 例えばこの町の 人々のようにです また 自分の欲望を ある程度抑えてきた 年配の人々も同じです それで人々は時々 深く後悔もするのです こう言いながら 「ああ まだ若過ぎる 年を取るまで待って それから修行しよう」 この利点のせいです この利点のせいです
でも私はそうは助言 しません なぜなら あなたが年寄りに なるか 明日死ぬか 決して分らないからで 人生はとても短く はかないので今日ある ものは何でも取ります 私は悟ることと人生の 目的を知りたいと 強く願っている人を 知っていますが 彼女は言います「ああ 私はとても若く息子は まだ結婚していない 息子が結婚するまで 待って それから私は 義務から解放されます それで私は修行に行き 菜食も食べられます 息子が結婚するとき 私はワインと酒を飲み それに豚肉も食べねばなりません」 ご存知の通り伝統です
それで彼の結婚後まで 待ってあなたについて 来るつもりです」 何年か後に彼女の 息子は結婚しました その後 他の人達が尋ねました 「それではあなたは今 マスターに従っていて 瞑想して 仏陀になりたいですか」 彼女は言います「ああ まだ孫ができません 私たちの家系を 続けるために私の娘に 孫息子ができるのを 待つべきです その後マスターに従う それから たまたま 最初の孫が 女の子だったので 彼女は二番目を 待たねばなりません そして彼女に決して 孫息子ができないなら 彼女がどうするか 私は分かりません
常に言い訳は ありますが 正しく 公正な方法で することのは何でも 延期するための どんな言い訳も決して すべきではありません なんであれ それが悪いことで 不道徳なことで 人を傷つけることなら 何百何千の理由を 見付けて それを 止めさせなければ なりません 例えば 私にこう 言った人がいます 菜食になるのは 恥ずかしいと 人々に笑われるのでは ないかと心配するから と言うのです 私は聞きました「なぜ 「何かをして 人を傷つけたり 人を殺したり 人を苦しめたりしたら それなら恥ずかしく 思うべきです
でも 菜食になれば この世界の 衆生の苦痛を 最小限に抑え 自分の体と精神を 強めることになります なぜ正しいことのため 恥ずかしく思う必要が あるのですか」 だから 正しいことと 正しくないと感じる 違いを見極めなければ なりません そうでなければ 他人の意見を 気にするだけでは 終わりはありません 同じことが ある人々にも言えます 妻が 菜食になることを 許してくれないから 夫が菜食になることを 許してくれないから 霊修行は出来ないと 言い続けています しかし彼らが この世で霊修行を しなかったら 来世も この世界に戻れば 妻 夫 または親しい 人がいて 彼らの 霊修行を妨げます
釈迦牟尼仏が 「いつ なぜ」などと 考えていたら 彼は僧侶には なれなかったでしょう それで今日の世界には 仏教は存在しません 釈迦は私たちより もっと重要な人で より重い責任があり 両親からもっと恩を 受けています 彼には宮殿に留まる 口実が沢山ありました 彼はこう言います 「両親は私に 至りつくせりです 両親は私に春夏秋冬の 宮殿を建ててくれ 私に多くの妃を与えて くれ また彼女たち 全員を養ってくれます それで彼女たちは 皆美しく優雅で 毎日私のために 踊ってくれます 私に美しい妻と 生まれたばかりの 息子がいてその世話を しなければなりません
息子に父親がいないと どうなりますか 王国のこともあります 父には私の他に 王子はいません 私は百万の臣民への 責任があります」と 彼には私達より何千も 何百万も多くの口実が ありました でも 彼はこれら すべての口実を超える 良き理由は一つしか ないと考えました それは愛です すべての衆生に対する 愛です 家族に対する愛 自分に対する愛です この偉大な愛のため 彼は全ての快適さを 犠牲にし 豪華な生活を捨て 家族と離れるすべての 苦痛に耐えようと 決めたのです
でも恐らく彼の家族は あまりにも厳しく 宮殿で菜食することを 許してくれず すべての妃を捨て 毎日二時間半 瞑想することを 許してくれず ヒマラヤのマスターに 印心を受けることを 許してくれなかった かもしれない たぶん だから彼は家出せねば ならなかったのです でも 私達に 家で霊修行すると 同時に 両親に対する責任を 果たし 妻 夫 子供 との愛情関係を 実現させられる機会が あったら それなら 家で修行しても 聖人になれます そもそも 私達の 親 妻 子供たちも 仏陀だからです
私達は自分で修行し そしてまた 私達の家族にも影響し 彼らにも自分たちの 仏性を思い出させたら 私達の家は 寺院になります お寺の中に多くの 「尼僧」と「僧」がいます 真の尼僧と僧です ただ家を離れ 僧衣を身にまとい 一日一食しかせず セックスを捨てるだけ では僧侶になれません 多くの物乞いもこの ように生きています 醜く 結婚出来ない 多くの人も このような生活を 送っています 悟りを 開かない限り 私達の仏性を 認識しなければ 私達の智慧を 使わなければ まだ真の僧と尼僧では ありません 普通の人とは 何の区別もない からです 私達がずっと このような生活を続け 自分から 開悟の機会を奪い 自分の仏性を知る 機会を奪えば 一番悔やむべきなのは 私達自身です
聖人になるのは簡単で 普通のことです 私達は皆聖人なので 誰も私達に敬意を払う 必要はありません
この世界に来る前 聖人の品性は 私達の本性だった からです それによって すべての衆生が聖人で すべての衆生が仏陀で あるので 誰が誰に 敬意を表すべきですか 釈迦牟尼仏の時代には 彼が仏陀になり 彼の弟子達も また彼から直接教わり 彼から直接印心を 受けたから 聖人になりました 彼らが僧だったから ではありません なぜなら唯摩は 彼は在家の人でしたが すべての僧が彼に 敬意を払いました 彼はとても賢明で 霊的な到達では 非常に高いレベル だったからです
ですから私達の存在の 価値は内面の智慧から 来るもので またどれほど高く 私達が真の仏性の 知識に到達してるかに よるもので 外観や 私達の生き方から 来るのではありません ですから今 皆さんは 家で仏陀になれます 少なくとも阿羅漢には 阿羅漢の意味は なんですか どうやってその人が 阿羅漢だと分りますか 仏教徒によると 聖人または阿羅漢は どんな感覚のある 生き物に害を与えず また彼自身の 本性を知ることができ 時には彼の過去現在と 未来が分る人です
そして決してこの世に 生まれ変わりません 自らすべての 感覚ある衆生の 利益のためにそうする ことを選ぶ時を除いて その場合私達の全ての 弟子の大部分が阿羅漢 私達修行仲間がです そうです 非常に普通の 阿羅漢で あなたの家の 隣に住んで 郵便局で働いていたり 上院議員に立候補し または銀行で ビジネスの交渉をし または秘書の仕事か それともバスの運転か タクシーの運転をして たぶんその人は村の 教師をしたり等々 またこれらの阿羅漢は 彼らの家族や 国の義務を 見捨てません
しかし彼らは現在 長い瞑想修行から 得ている悟りと 自分の賢明な知識を 現世で使うことに 貢献しています これが一番良い方法と 私は思います もちろん 私達の人生で 何をしたいか 自分で選択できます しかし私達の大部分が 社会や家族に 借りがあるので 彼らの愛ある手助けで 私達は育ちました 彼らは私達を愛すから 彼らが私達を 世話するので 私達が 借りていたものを 返済するのは当然です このように全てが 整理されていて 激変があるわけでは ありません
例えば すべての阿羅漢が 寺またはジャングルに 駆け込み 誰もが家を 離れてしまいます そしてこのように 私達はある人を 独占的に保有しない 非常に普通の生き方で 悟りと菩薩を 作りだします そしてこのように 私達は社会で 他の人々と交わる 機会がありまた彼らが 仏陀であることを 彼らに思い出させる 機会があります 彼らが知りたければ 知ることができます このように 全ての家が寺院です そして本当に仏陀 阿羅漢 菩薩はその寺の中に 住んでいます ありがとう
ご清聴 ありがとうございます 皆さん非常に集中して お聞きになるので 蚊がこの部屋の中で 飛んでいるのが 聞こえると思います 私は非常に感動し また少し驚いています なぜならタイの人々は 舞踊のように 非常に活発であるので長い間動かずに どうしたら静かに 座ることができるのか それは彼らの心にある このように集中 し続ける誠実さに 違いありません それはタイが 絶えず速くより速く 向上していて 今タイの人々の 生活水準が二十年 前より高いことの 理由です この国の 大部分の人々の 純粋さと誠意さ ゆえです 霊的な僧や尼僧への 人々の敬意の ためです 彼らの日々の修行で 仏陀の教えを 保ち続けようとする 誠実さゆえです
たとえ大いなる 悟りはなくても 彼らは物質的な繁栄と 心の平和で 祝福されるでしょう 彼らが過去の マスターの教えを 誠実に信じるなら それは私がいつも タイにいてで気持ちが 良い理由です 以前私はここタイで 生まれたか 以前タイ 国民だった気がします しかしこれは私達の 信心 信仰が誠実で 純粋な時の加護の レベルの一つです しかしこれは より物質的な加護で より物質的な種の より物質的な加護の 種類です なぜなら 人は寺に供養したり 僧や尼僧に 供養したり 貧しい人を助けるのが 好きだからです
したがって 彼らは物質的な利益の 福報を得られます 霊的な加護と霊的な 覚醒を 手に入れるためには 霊性の道を修行 しなければなりません すべての物事には 原因と結果があります 原因があって必ず 結果があります カルマ(報い)の法則は そのようなものです 寺院と僧侶に供養する ことについてあなたを がっかりさせる わけではありません それは良いことです それもすべきです ただ不十分なのです 私達は非物質的な ことを期待するなら 非物質的なことを実践 しなくてはいけません 一つ例を挙げましょう それで私が言うことを あなたは信じます
釈迦牟尼仏は 存命中 人々が過去の仏陀に 物を供養することに ついて沢山の 物語を語りました 例えば 二人の物乞いは 一枚の汚れた ぼろぼろの布を 当時生きていた仏陀に 提供しました その後 彼らは何度も 多くの生涯にわたって 常に物質的な豊かさを 得られましたが 悟りは開いていません 生きている仏陀にさえ 供養したのに 悟りを開いていません 彼らは物質的な 福報しか求めず 物質的ものしか 供養せず 霊修行を 求めませんでした 魂の解脱を 求めませんでした 違いが分かりますね 仏陀に物を 供養することで 仏陀になるわけでは ないのです
仏陀の方法で修行 しなくてはいけません これはすべての仏典に 記載されてる物語です もっと沢山の物語を 読むことができます 舎利佛という 仏陀の十大弟子の 一人でさえ何度も多く 生涯を転生せねば なりませんでした 九十九世だと思います それは数千年かも しれません 仏陀に物質的な物を 供養したためです しかし それでも 悟りを開いていません 九十九世は あまりに多い生涯です 一世を百年だとすれば 一世をちょうど 百年だとすれば ほとんど一万年です
最後に釈迦牟尼仏に 出会い やっと悟りを 開きました 九十九世生まれ変わり 仏陀に供えた物質的な 恩恵を楽しまなければなりませんでした 物質的な生活は どれほど愉快か 裕福かにも関わらず 無明で転生すれば それはひどい苦痛です 物質的な恩恵は良い ことではありません 生 老 病 死の 輪廻に苦しむのは 楽しくありません 沢山のテープで詳しく 仏教の物語に関して 説明しましたので 好きなら 持ち帰って 聞いてください
九十九世 それは何千年にも なるに違いありません
時には転生の間 一休みします すぐに生まれ変わる のではなく どこかで休憩するか とても静かで 何も知らない状態で いるかもしれません あるいは 何百年も 天国での生活を 楽しみます あるいは 何百年も 地獄にいるかも あるいは 何百年も 動物王国に 転生するかもしれず それから もう一度 人間に生まれ変わり もう一度 天国に 戻ります または再び 動物に生まれ変わり 低いレベルに戻ります それは大変長い長い 時間がかかります
それは非常に苦しく 大変な苦痛です いったん仏陀と学ぶ 機会を逃すと いつ再び チャンスがあるか 分かりません
しかし私たちが 尊敬するタイの 尼僧から学んだように 良い法門もなく 方法も知らないなら 私達が何を着るか 何をするか またはどれ程誠実で あるかに関係なく 私達の仏性を悟る 目標にたどり着く事は できません ですから 最も重要なのは 方法 法門 そして
一度 仏陀から 学習する機会を逃すと いつ再び チャンスがあるか 分かりません なぜならその仏陀は 私達を導くために すぐこの世に戻らない かもしれないからです 他の仏陀が降りて 来ますが 私達と縁が ないかもしれません ですから縁のある 仏陀がこの世界に 戻るまで 私達は 待ちに待たなければ なりません それに 私達はその 仏陀に出会うためには その仏陀と同時代に いなければなりません それは何百万の生涯に 一回のチャンスです 常に可能である わけではありません
縁ある仏陀と同時代に 生まれることは常に それほど簡単である わけではありません 高い意識レベルから 初めてこの惑星に 生まれた人々は 自分達の任務を 完全に達成できるなら 元々所属していた所か より高いレベルに 戻ります 全く問題ありません 仏陀はこれら人を心配 する必要がありません でも一回目に 成功できなかった場合 二回目 三回目 四回目 あるいは 何百千万回も この世界に戻り 過去の失敗を重ねて 多くの重荷を担う 人々にとって 魂の解脱は極めて 困難です それで 仏陀はこれらの人々を 助けねばなりません
それが仏陀がこの世に 生れて来る理由です なぜなら 私達は この世界に戻るたびに その理由や使命が なければなりません 私達が失敗したら 次はもう一つ任務が あります つまり トラブルが二倍です そして私達が 前世での経験で 積み重ねた 多くの悪習は 多くの困難と 障害を作り 私たちに奮闘させ 自分達が どこから来たのか 思い出させ この世の すべての罠から 解脱させます こういった人々のため 友人や霊性の導き手が いなければなりません その人は彼らに 道を思い出させ 失ったつながりを 再び取り戻させます
このチャンスを 逃せば 別の機会を 見付けることは困難で そして次回に来る時は より多くの問題 より多くの重荷 より多くの障害が あるでしょう でも問題ないです本当 永遠の時間があります 私たちが この苦しい世界に あと何千年も残って 遊び回りたければ 仏陀と一緒にいて 全く大丈夫です ある日私たちはきっと 疲れて きっと家に 帰りたくなります それで皆さんの誰でも 今日既に疲れていると 感じれば助けることが でき 今生で家に帰る 方法を教えましょう 無料で 条件もありません その前も後もその間も 一切ありません 仏陀の贈り物は 常に無料だからです
でも私達は努力せねばなりません 衆生の肉を 放棄せねばなりません なぜなら それが生死 輪廻の 種だからです 私たちが殺すなら 間接的であっても 私達も将来いつか 間接的に殺されます 私達は 自分が蒔いた原因で 将来いつか 死の負債を 支払わなければ ならないとしたら 解脱できません それに私達が 仏陀の 聖人の 神の道に従いたければ 宇宙の全衆生に対する 愛情がなければ なりません 衆生も苦しみを 知っているからです 彼らも死を恐れます それで私達は彼らに 恐怖のない贈り物を 与えねばなりません
私たちが 菩薩になりたければ 菩薩の道を 歩かねばなりません 観音菩薩はもう一つ 名前があります それは 「恐怖を与えない菩薩」 私達はこの贈り物を 衆生に与えなければ なりません 彼らは死を恐れ 動けて 感覚がある存在です 仏陀は言いました たとえ菜食しても 我々は非常に悲しく 感じなければならない ただ私達は 菜食を強要されるので 回避不能です 衆生の肉を食べれば どれほど よりひどいでしょうか 私達のほとんどは 自分で鶏や豚を 殺さねばならないなら 決して食べられません 私達は苦しみを楽しむ 心はありません
ただ人々が既にこれを 殺して 素敵に並べて 出来合いのものにして 一切れのチョコレート ケーキやチーズの ように見せるので人々は考えないで それらを買います 子供たちの大部分は 私たちが彼らに食べる ことを強制するので 肉を吐き出します 彼らは肉が嫌いです 多くの子供が 成長するまで 全く肉食を拒否します それは私たちの本性が 生まれながらの肉食で ないことを示してます
いいでしょう 実際 ゆっくり菜食に 慣れるようとする こともできます それも問題ありません ある人はより勇敢で それに彼らの 家庭状況が より便利な人は 「今日は もう 肉を食べない」と 決心できます しかしある人々は 自分の家族や 社会的交友関係が 彼らが長期間の 菜食主義者になる事に 便利かどうかを 考慮に入れなければ なりません それで便利な場合 彼らは菜食を試します 「方便の菜食主義者」 と呼びます 彼らに聖人の生活を 教えるために 彼らに若干の悟りの 方法を教えることが できます ですから どの方法で あなたに仕え 助けられるか知らせて 条件はありません なぜなら 私達の愛は無条件です はい有難うございます それに私達に属する ものは何もないので 私達はただ仏陀から それをとって あなたに渡します そして将来あなたは 他の誰かにそれを 渡すかもしれないし それはこの世界の中で 再利用されます
天国にはどんな衆生が いますか 彼らは どのように暮しますか
あなたがそこに行けば 分ります すぐ 間もなくです どんな人が天国で 暮しているか
知りたければ 仏陀の経典とか聖書を 読んでもいいです 大部分の宗教は 天国の生活の一部を 解説しています また多くの種類の本も 一時的に死んで 天国へ行って 帰ってきた人について 記載しています そして彼らは鮮明な 詳細で非常に真実の ように解説します そのような本を 買って読めます 天国には多くの レベルがあり 数えきれないほど多く 皆に解説するなら 家へ帰れないでしょう 私は時々いくつかの カセットテープで 天国の一部を解説して そのテープを買って 聞いてください あるいは皆さんも 印心して それで 毎日 あるいは偶に 一回くらいは 天国へ行けます
それでそれがどうか 分ります いいですね 私が約束できます 直接何かを見ることは 誰かから聞くより いいことです 天国へ行くことは 問題ありません 彼らは瞑想の方法と いかに心を穏やかに するか聞いています 本当に簡単な 方法がありますか はい とても簡単です 子供でもできます 名前を残してpけば 後であなたに 電話をします そして きちんと教えましょう 悟りを開くことは とても早いですが 前もって過程を 知らねばなりません 座る方法 幻想と 本当の仏土を 区別する方法 など など 少し時間がかかります 数分で話すことは できません はい
詳細に 話さねばならないのと 毎日の瞑想の時の 自分を守る方法を 教えます それで 魔王 悪魔は皆さんを 傷つけられません とても多くのことです 学ぶのに時間が 必要です いいですね およそ一、二時間 または三〇分かけて どんな方法を 学びたいかによります 講義の後 あなたにお話しします 一つは 完全な菜食で真面目に 修行する人の 印心です そして もう一つは 方便の菜食者用に それは菜食ができる時 には菜食を食べること 都合がいい場合は いつでも そして まず悟りについて 学ぼうとしてみたくて それから決めます
しかし両方ともすぐ 結果があります 修行することは 多くの苦痛があり 意図を阻害します そしてこの世界の すべてのものは 簡単に得られません それに簡単に 得られるものは 価値がないと言います あら 本当ですか 時々私達が 悟りを得るために 苦しまなければ ならないなら この悟りは 本当に貴重です 彼はあなたの 慈悲によって 障害と戦う方法を 示して欲しいと思い 修行の道に入りたいと 思っています それはカルマ(報い)によります 誰でも悟りのために 苦しむ訳ではないです たとえば仏陀は しばらく 苦行をしましたが 効果ありませんでした
それでその後 彼は 正常な飲食に戻って 体が丈夫になってから 瞑想を始めました 現在や 古代で ヒマラヤにいる ある人々は とてもとても苦しい 修行を行います 彼らは釘の床に座り 片方の足を 木に掛けるか 一日中一本足で 立っていたり 週に一度しか食べない あるいは全く食べない 鉄のベルトを身体に 巻きつけたり 決して女性を見ない そのようなことなど ありとあらゆる 苦行をします または時々彼らは 夏の正午に 太陽の下で座ります そしてその周りで 火を燃やします しかし彼らは 仏陀が達したレベルに 達していません
そして現代の 私の弟子の何人かは 仏陀の法門を 修行しています 彼らは少しの厳しさも ありません 非常に 普通の生活をしてます 余った時間に瞑想して それだけです それで レベルはとても高く 仏陀が生きていた時の 弟子と 同じくらい高いのです なぜなら今生ではもう 十分苦しんでいるから あなたがこの人生を 生きるなら 私は あなたが十分な厳しい 修行したと思います 自分自身を特別に 罰する必要がなく 人生があまりにも 贅沢なら すべての点で 節度を持つように きちんと忠告すれば それは大丈夫です それが皆さんに 菜食を勧める理由です ある人達は もう十分 苦しんでいます 他に何か必要ですか どんな苦しみを 望みますか それほど好きなら ある方法を教えます そうでなければ あなたのために 選ぶなら 私は毎日 幸福 加護 至福 悦楽をあげます ただ二時間半の瞑想で その他はないです 私は皆さんがそれを 選ぶように勧めます
誰でも即座の開悟が 得られるかどうか 分からないと思います なぜなら皆が 異なる背景を持ち はそれぞれ異なる 時間があるはずだと 思うからです
もちろんです 皆が異なりますから 開悟の仕方も 異なります 即刻開悟は 可能ですが 異なるレベルです しかし皆が 即刻開悟を得られます つまりあなたが私達と 共に勉強すれば 問題ないでしょう 皆より 開悟していたり 開悟していなかったり その背景にも よりますし 誠実さと信心にも よります もちろん でも皆が得るべきです そうでなければ なぜ 私達と勉強しますか 家にいて何かを自身で 試せばよいでしょう あなたが英語の 教師の所へ来て 初日にあなたに ABCすら読むことを 教えられないなら 何のために彼の所へ 来るのでしょう
英語の教師は即座に 英語を教えるのでは ないでしょうか そして帰宅後 初日にあなたは いくらかもう言葉を 話します「お元気」など もちろん 勉強する 皆の知識や能力は それぞれ異なります 従って ある人々は より確実な英語が話せ 他の人々はあまり 正確には話せません また幾らかを 暗記できる人もいれば 他の人々はゆっくり 数行だけを学びますが 皆が既にその英語の 味を最初の日に 味わうことができます 彼が英語の先生だと いうのであれば そうではないですか これまでに知る中で 最も遅い生徒はたぶん 千分の一です そして開悟を得るため 彼には三日~一週間 かかりますが 殆んどの人々が即座の 結果を得られます
彼はあなたが仏像を 崇拝しお辞儀するか どうか尋ねています 時々はします それが非常に美しく 芸術的な仏像なら 崇拝します 私は美しいものが 好きですから しかし私は内面で 仏陀に頭を下げます 私は仏土の 仏陀を崇拝します 私は皆さんの全ての 内面の仏陀を崇拝し 単なる木の芸術作品の 仏陀は崇拝しません 芸術的な面や 古さの価値を除いては 私は生きている仏陀に お辞儀します 私の面前のここにいる 私は木の仏像にも お辞儀しますが それは天国の仏陀に敬意を表します 仏陀の象徴としてです
でも仏陀ではないです ちょうど 私の父の 写真のようなものです 写真を尊重しますが それは父ではないです お気に障ったなら お許しください でも私が真実を話すと 期待していますので ありがとうございます キリストと仏陀の 二人のうちどちらが 「偉大」ですか なぜ二人は異なる事を 教えているのですか なぜキリスト教徒は 輪廻転生はないと 言うのに 仏教徒はそれがあると 言うのでしょうか 二人のうちどちらが 「偉大」なのか 私は分かりません
彼らの問題です おそらくいつか彼らは 互いに競争を行います 美人コンテストか 何かのような それで 分かるかもしれません どちらが「偉大」か それらすべての仏陀 他の聖人ら 過去の あらゆる方角からの マスターが同じ列に 並んで競技か何かに 出たいと思いますか 誰が審判になりますか 誰が十分偉大かどうか 判断するのですか もう一つの質問ですが 彼らは異なる事を 教えていません ただ後世の人々に よって彼らの教えが 違って聞こえるのです それが理由で私達には 時々宗教戦争が 起こるのです
非常に悲しい事です 皆が開悟していれば イエス 仏陀 他の マスターが皆同じ事を 教えていることを 見るでしょう ただ異なるのは イエスは非常に 短い生涯であり 彼が教えられる機会は たった約三年半 だったことです 彼の教理もすべて 検閲を受けました そして区別され 隠されました それで 私達は必ずしも全てを 知る訳ではないのです 彼が在世の時 人々は彼と弟子を はりつけにしました 教理を広めることは 非常に難しく 本当の記録を残すのも 困難だったのです しかしあなたが 例えば 十戒や 五戒あるいは 仏教における十戒や それら全てを比べても 同様であることが 分かるでしょう
聖書ではまた言います 殺すべからず 嘘を言うべからず 邪淫すべからず 飲酒すべからず 人々は肉とワインを 共に食してはならない 聖書も同じことを 言及しています 仏教徒と同様です それが 「汝は菜食になり 飲酒すべからず」など そこには同様の 例があります あなたが受け取った 小冊子の中に なぜ菜食なのかという 部分を読むと そこには私が用意した 幾つかの同様の 事柄があります もちろん涅槃経に対し 全ての聖書を 載せるのは不可能です 皆さんの仕事です それらを自身ですべて 読んでみて下さい
そして仏教でも カルマを強調し 因果についてですが 聖書でもまた「蒔いた 種は刈り取らねば ならぬ」と言及します 十分同じ事だと 思いませんか 仏陀には沢山の経典が あります 彼は八十歳 まで生きられました イエスは三〇そこら しか生きられず いかに彼がすべてを 話せと期待できますか たった三年半の間に こんな敵対視された じょうきょうかでです
涅槃(最高の天国)に 辿り着くために どう修行すべきですか 観音法門です
子供がある 一定の年齢に達し 菜食になったと したなら
彼らは子供が 完全に通常に きちんと育つかどうか 聞きたいそうです 子供達ですか (はい) ええ もちろんです 私達が知る事と言えば 全てのベジタリアンの その母親が妊娠中から 既に菜食だった 者でさえ 健康体で生まれ 強く非常にピンク色で 健康的な質感の 肌を持ち美しく 病院の中で 他の肉食の子供達より 美しいと 言えるでしょう 私達は常に比較し 優れた結果があり その子は非常に大きく 強く育つといいます
三年前だと思いますが 面白い競技があり 全ての美しい子供達が 来てこの競技において 殆どの菜食の子供達が 優勝したと思います なぜなら彼らは 強く健康で美しい 容姿だったからです 私達は外を走り回って 彼らを追いかけ 捕まえたら 最も美しいのは きっと菜食の者です まだお疑いなら あなたは私達の 連絡係に連絡を取って 話が聞けますよ それらの家族で母親の お腹にいる時から 菜食の子供達について 尋ねたならきっと 満足と確信の答えが 得られるはずです もちろん信じるまで 全てを正しいか 調べてみるべきだと 思います
インドバンガロールの ティッパゴンダ ナハーリー貯水池
英国のマージー川 ホウォーフ川上流 セヴァーン川は 国の1/3を占めるが 夏季に完全に干上がる 危険に晒されている
豪州のボラク湖
オーストラリアの カカドゥ国立公園 淡水湿地帯