ありがとうございます 主のもとにいる 兄弟姉妹の皆様 再びお会いできて 嬉しく思います この貴重な数時間で 皆様と過去の 偉大なマスター達の 貴重な教義を 探求することで 私達の心と霊性が 高められますことを 期待します また苦しむ人類が 救われる事を祈ります もちろん 私一人の能力は 限りがあります しかし私たち皆が 力を合わせれば 大きな力になります
この世界では完璧な 事は見つかりません 一通の古代の 手紙があります それはイエスが はりつけになってから 数カ月後に書かれた ものとされています それはごく最近 アレクサンドリア町の 廃棄された旧図書館で 見つかったもので この手紙の 信憑性を信じるとしたら 偉大なマスター イエスの 最期の状況を 知ることができます この手紙を読んだ人も きっといると思います これはある エッセネ派の高弟に よって書かれたもので イエスはこの派に 属したと見られ 少なくとも彼の人生の 最期にこの派と 関わったと思われます
イエスに関する 多くの情報があり 一部は信憑性が高い ことが分かりました すべての事実を考証 すると信憑性が大変 高いことが分かります 今晩の目的はこれを 研究することではなく この手紙のことに 触れておき予備情報に したいと思います エッセネ派の 伝統によると入会者は誰も 内部の秘密の教義を 外に洩らしては いけないことに なっています イエスはエッセネ派で 多くの秘密の教義を 学びました 彼らはあらゆる 自然科学に 精通しています 例えば薬草で 病気を治すとか 体の多くの中心部で 人体を調えるなどです 私が読んだ エッセネ派の資料では これはイエスの生涯と 大変密接な 関わりがあります 彼が起こした奇跡も その派の功と 言えます 私達が 人体の機能と 植物の特性を知っていれば 時には普通の医者が 治せない病気を 治療できます
そこで時には 人々の口伝えで それを誇張したため 奇跡とする こともあります イエスは確かに 他の人より病気を癒す 能力を持ってることを 知らねばなりません エッセネ派の同胞より だいぶ優ってたのです これは事実です ただ一部は 若干誇張されたものも あります 私がなぜこれを 話すかというと イエスの教義について もっと調べて ほしいからです イエスが起こした 奇跡に引かれるのでは なくです なぜなら イエスの教義と 偉大なマスターの教え こそ私達を解脱させて くれるのであって 奇跡ではありません ある病気を治しても 今度は別の病気に かかるかもしれません
しかし 智慧を知り 神の最高の知性の 理念を知れば そして時間をかけて それを学び それを理解し それに従えば 永遠の命を得ます しかも私達も マスターになれます 後はマスターに 頼る必要もありません さらに私達は 智慧と才能で 困っている人達を 助けることができます 私はこれこそが イエスの教えの 目的だと信じています これはまた仏陀や 他の偉大な マスター達の目的でもあります いかなる尊敬に値する マスター達も いつも私達を 無明から解脱させよう とするのです ですからイエスは 存命の時 いつも最善を尽くして 人々を高い意識に 導いたのです 彼はまたいつも 迷信的で偽善的な 聖職者に対し 人々の心を虜にし 民衆の霊性の成長を 妨げると非難しました
彼は言いました 「聖職者らは難儀する 自分が神の王国に 入れないばかりか 人をも妨げている」 だから聖職者達は イエスを嫌いました そこで高貴で純粋で 偉大なイエスを 殺そうと 色々と企みました イエスは公に 伝道する前に 危険が待っている事を すでに分かっています 霊界の聖なる人が 彼に予告しています 聖書にはないですが 実際はそうです 皆さんは信じなくても いいですが 少なくともイエスは 将来起こる事を知る 十分な知性を 持っていました 少なくてもイエスは 高い智慧をもって 未来の事態を予知した と信じるべきです 皆さんが他の高いレベルの世界の衆生を 信じなくてもです エッセネ派の規則では 内部の高等な教義を 流布してはいけない ことになっています さっき話した 手紙によると イエスはエッセネ派の 同胞に対し これら立派な教義は 世間の人々のために なると話したそうです
そこで彼は命を危険に 曝されながら 福音を広めたのです 手紙には美しい記述が ありました ただイエスの死に 関する痛ましい事です 皆さんに悲惨で悲しい ことを振り返って もらいたいのではなく ただ皆さんに真理を 覚えてほしいのと 真理のために 犠牲になった人を 覚えててほしいのです 手紙では彼は十字架で 死んだのではないです 関連の文献を 読んだ人も いると思います 私も別の文献を 読みました その手紙にはイエスは 磔の六カ月後に 死んだとあります なぜなら エッセネ派同胞団は 医学と植物薬材に 精通していて 精通していて 十字架で気絶した イエスを蘇らせました はりつけされる前 兵士達はある 飲み物を用意しました
通常はりつけの刑に 処される犯罪者に 飲ませるもので 感覚を麻痺させ この飲み物は感覚を麻痺させ 痛みを感じさせない ものです イエスは味をみて それが分かったのです 彼は植物薬材に 精通しているからです そこでイエスは飲むのを拒否しました 酔いたくなかったです 彼は明晰な意識で 道徳と真理のために 死にたかったです このような勇敢で 高貴な人はめったに いません 私はこの話を 読むたびに 涙がこぼれます 私達はだいぶ文明化し この種の野蛮なことは 人間界から 消えています 神に感謝します
私達はあんな恐ろしい 光景を見なくても 済むようになりました 彼は十字架に はりつけられてから 生き返り 六カ月後に その手紙によると 彼は傷の痛みに 堪えながら 復活後 方々を 旅したため 体は弱かったのです 彼は弟子に復活 してから彼らの前に 現れると約束したので 彼は約束を守りました 徹底的に 守ったのです 彼の言葉には 虚偽的 偽善的 無慈悲の態度は かけらも見られません キリスト教が世界で 栄えたことは 良いことだと思います よって私達が 高貴な手本を覚える ことができるのです しかし私達に 思い出させるべき事は ただ彼を崇拝の対象に しないことです
イエスは何のヒントを 与えたのでしょう 彼は私達にこの世界で 崇高で高貴で 慈悲心 智慧を 求めるよう 指摘したのです 彼が公けに 民衆に対して 伝道してから 例の手紙によると 彼はエッセネ派の他の 仲間にもそうするよう 勧めたとのことです 彼はこう言いました 「私達がそうしないと 苦しんでいる人達を どう助けるのか」と もう一度聖書を 読み返すと たぶんレビ記です 生け贄と贖罪祭の 記載があります 当時神を供養する 儀式は実に野蛮な事が わかります 知性のある人は 受け入れられません
彼らは動物の頭部を 切り落とし 血を流れ出させ そして祭壇の上と 祭壇の下にも 血を撒き 祭壇はいつまでも 血塗れています なぜ無辜の動物が 人間の罪を背負わねば ならないのでしょうか 私はなぜこの教義が よくないか話します この面で私はイエスに 賛同します イエスは言わなかった でも彼は同じ事を 言うと思います 彼はレビ記については 言及していませんが 似た事を言っています この教義は人々が 罪を犯すのを奨励し 懺悔することを 奨励するのではないと 人々は自分に罪がある と思うとそれが主に 反した罪であっても 子羊や雄羊や羊を 連れてきては 頭を切り落として その血を祭壇の 上と下にかけると 罪が洗い流された事に なっているからです
通常これは聖職者に よって行われます 彼らはいつも 捧げ物の 最も「聖なる」 良い部分をもらいます 動物は殺される時や 傷つく時人間と同じ ように苦しみを感じる 事は知っての通りです 宇宙の主たるものが 苦しんでいる動物を 見て平気だとしたら 私は彼を「拝みます」 彼の「忍耐力」と 「同情心」を羨ましく 思うぐらいです 分かりますか 普通の人でさえ その苦しみを見るに 忍びません だからイエスは彼らを 非難したのです 迷信的で心を虜にする と非難しました だから聖職者達は 彼を磔にしたのです イエスが 彼らの商売を乱し 聖職者達の本質を 人に分らせたからです もちろん 真理を話すことは 危険です しかし彼が真理を 言わなかったら 恐らく世界は 今のような文明には 至らなかったと 思います
開悟した人が 多ければ多いほど 世界は文明化 するからです 暗闇と無明に陥る人が 多ければ多いほど 社会は非文明的です 従って聖書にある これらの事を通して 教訓を学び取るのです たとえイエスが この地球に いないとしても 私達の考え方は彼と 同じであるべきです 私達は彼の論理を 参考にして智慧を発展 させねばなりません 人が言ったことを 軽信してはいけません 自分の智慧と 論理で持って 物事の真相を 追求せねばなりません 私達が罪を犯した時 それを自白し 生け贄を捧げると 罪を洗い 流せるとしたら それは良過ぎます そうなると 「蒔いた種を刈る」 という法則は 冒涜され 真理でなくなります 従って 罪を洗い流す 論理的な方法は イエスが 指摘したように 懺悔と真の洗礼を もってすることです 真の洗礼をしてこそ 神と連結でき それで 光を見ることができ 神の声を聴けて 神の愛と加護を感じる ことができます さもないと外面に 頼っては 私達が苦しむ本当の原因が 分かりません
もう一度聖書を 読み返すと たぶんレビ記ですが 生け贄と贖罪祭の 記載があります 当時神を供養する 儀式は実に野蛮な事が わかります 知性のある人は 受け入れられません
私達が罪を犯した時 それを自白し 生け贄を捧げると 罪を洗い 流せるとしたら それは良過ぎます そうなると 「蒔いた種を刈る」 という法則は 冒涜され 真理でなくなります 従って 罪を洗い流す 論理的な方法は イエスが 指摘したように 懺悔と真の洗礼を もってすることです 真の洗礼をしてこそ 神と連結でき それで 光を見ることができ 神の声を聴けて 神の愛と加護を感じる ことができます さもないと外面に 頼っては 私達が苦しむ 本当の原因が 分かりません
これは神の定めた 法に 反すると思います 「殺してはいけない」 盗んではいけない 人の財産と妻を 熱望してはいけない」 などです だから神はどうやって 説明しますか 生け贄や 贖罪祭について これは神が定めた 規則ではありません 人々の無知によって 神を冒涜し 神に泥を塗りつけて 神を怪物のように したのです これは恐ろしい罪です 他の罪よりも重いです 彼らの行為と 言論は神の名に 泥を塗ったのです そしてこれを 「宗教」と呼び 「美徳」と呼びます あり得るでしょうか
彼らは ローストビーフや豚 家畜など色々な物で 神の機嫌がとれると 思い込んでいます ほとんどの いわゆる非論理的な 迷信は当時の聖職者らが 発明したものです 民衆の純真さと 無知を利用して 彼らを統制し 利益を得たわけです それは誰に取っても よくないのです 私達を暗闇の中に 閉じ込めるからです
イエスは常に人々に 偉大な神 唯一の神 愛に満ちた神 大智慧である神を 信じるよう忠告し 決して人々の前に その種の血を好む神 人をゆする神で 現れてはいません またイエスは人々に 真理を識別する方法も 教えています それで 自分自身に頼れます 道徳を修行することで 神に近づき 自身の内面の神を 知ることができます そして真の洗礼の システムを通して 彼に追随する人々を 神と繋ぎます もちろん訪ねてきた人 全員に洗礼を施した わけではありませんが かなり多いです
洗礼を受けるために 来たのではない人も 彼の偉大な教理と 模範的な振る舞いの 影響で大きく開悟し 智慧も 啓蒙されました そして少なくとも 今日まで続いています ある人々は 迷信から 遠ざかっています 一部の人々です 私達がただ イエスと仏陀の 外面的な教義だけ 分かっていても 内面の体験がなく 内面で万能の神の 力と繋がっていないと 余り役立ちません 役立つとしても 大きくはありません なぜなら内面に 真理と道徳を 固く守るための 支えてくれる強い パワーがないからです そうでないとなぜ 洗練者ヨハネがいて イエスが洗礼を受ける 必要があったでしょう
彼らが演壇に上がって 一言や二言 話をするだけで 十分なはずです 実際それで 十分なのです なぜなら神の選んだ マスターには無限の パワーがあるからです 彼のパワーは 宇宙を包むこともでき そのマスターの名を 真摯に唱えるだけで 解脱できます そのマスターが 存命であればです なぜなら 彼の磁場が 私達の回りにあるので 守ってくれるからです だから私達には イエスの名や 仏陀の名を唱える 伝統がある わけです これはマスターが 存命の時に 古代から伝わった 伝統です なぜならマスターが 存命の時は彼の名を 唱えるだけで 解脱でき 加護を受け 身 口 意の 病気を癒す ことができます
でも 断っておきたいのは 誰もが治るのではなく 信じる心次第です 「汝の信心が 治した」のです それである女性が イエスの服に触れた時 彼女の病気は すぐ治りました イエスは「汝の信心が 治した」と言いました イエスに会いに行く 人は誰もが信心深い わけではありません ですから聖書に 「汝の天なる父に祈り きっと与えられ 叶えられると信じよ」 とあります なぜイエスは洗礼を 施したのでしょうか 彼が存命の時 彼の磁場と 彼の人格と 彼の道徳で十分人々を 浄化できるはずです
彼は人々が やみくもに彼を信じて 欲しくなかったのです マスター達は皆同じで 仏陀も私が言ったこと でも確かめてから 信じよと言いました 偉大なマスター達は 皆に自身でマスターに なって欲しいのです しかも今生で 神と繋がって ほしいのです 死ぬ時まで待って 神を見るのでは ないのです イエスも仏陀も 人々に自身が マスターになって 多くの教えを広めて 智慧を伝承して 欲しいのです この世代だけが 彼の加護を頂き 解脱するのでなく 後世の人々もそう なって欲しいのです
というのは 洗礼を受ける時点で 神との連結が 確保され あなたは マスターの道 仏陀の道キリストの 道を歩んでいて 自身がマスターに なります いつかはキリストや 仏陀のような 智慧を持ちます ただ真の洗礼で なければなりません 真の洗礼のことです 真の洗礼を受ける時 神の光を見て 神の声を聴き 神を見ることを 保証され 智慧に満ちた マスターの地位が 確保されます よってあなたは 霊修行団体の 核心部に加わり その智慧とパワーは 地球上で 最も賢い人にも勝り キリストや仏陀の 輪の一員になります だからイエスは懺悔と 真の洗礼を強調した わけです
水での洗礼ではなく 聖霊によって 光と精霊で行います それは神の光を見て 神の聖霊と繋がる ことを意味します 分かりますか その他のいかなる 洗礼は皆 真の洗礼の 真似に過ぎず 私達を神と繋いでは くれません お金をかけても 繋がりません なのにお金をとります 真の洗礼は お金をとりません お金だけでなく 一輪のお花や 一本の線香や 一切れのパン 一羽の鶏さえも 何も必要としません 真の洗礼はどこででも できます 教会に限りません それは「神の教会」で 行います 「神の教会」とは この肉体のことです この肉体は 神聖な寺院で 神は永遠にその中に 宿っています
十分な智慧があって 開悟していれば 神を知る事ができます 私達もキリストの ようになります でないと内面の神を 知ることができません 全ての衆生の内面には 神が宿っています 罪人にも聖人にも 貧しき人 富める人 高い地位の人 下層階級の人にも 宿っています イエスと釈迦は開悟後 これを知ったのです 彼らは自分と 他の衆生は平等である ことがはっきり 分かっています そこで慈悲から 人々に大事な宝は 自身の中にあることを 伝えたいのです 自分の身分がどんなに 高貴であるか知らせ 人々を苦しみや 無明から 解脱させたいのです
私達が王子や 王女だとすると 自分の身分を 取り戻すべきです 一生虜や奴隷扱い されるべきでは ありません すべての経典で 言っているように 私達が神の子 だとしたら イエスキリストと平等なはずです 彼は自分は 神の子だと言いました イエスを見てください 栄光に輝き智慧に満ち 慈悲深く 愛に満ちています 私達はどうでしょう 実際私達はまず イエスのようになる ことを渇望してこそ 自分は神の子だと 主張できるのです 実際に私達がすでに 神の子だとしても ただ若すぎるのと 無知であるため 分からないのです 従って私達はイエスの ようになることです
これが今回 私が訪れた目的です またご存知のように 弟子達の要請も あって来たわけです このような機会を得て 神からの任務を 果たすことができ 嬉しく光栄に存じます 皆さんに宇宙における 自分の地位を思い 起こして欲しいのです 残りの人生を 罪意識を持って生きる べきではありません 立ち上がるべきです 高貴で賢くあるべきで イエスがしたのと同じようにです それがイエスの慈悲に 報いることであり 彼が私達のために 堪え忍んだ苦難に 対する補償にもなり これこそが 彼が世界に文明を もたらすために自分を 犠牲にした事に対する 感謝の表れです
イエスだけでなく 私達は借りがあります 歴代の聖人や預言者達にも 恩恵を賜っています 私はイエス一人を 例にあげましたが あなたが信仰する 聖者に触れなかったら お許し下さい 全部の預言者のことを 話すと他の事を 話す時間が なくなります そうすると 聖者の名を唱える会に なってしまいます 仏教でこのような 修行法があります 皆集まって一緒に あらゆる仏陀の名を 唱えます これを中国語で 「念仏」と言います 時には三日間もかけて 唱えます というのは数千もの 仏陀がいるからです これに付き合うための 休暇が取れますか 真の洗礼は私達に 神の声を聴かせ 神の光を見せて くれます それは聖書で こう言っています 神の声は 雷の如く 水の音の如く ラッパの音のようだと 神の声と 繋がらないと 真の洗礼による 利益を確かめることが できません 懺悔による効果も
確かめられません 真の洗礼は 真似でやる洗礼とは 違います イエスが存命の時でも 多くの人が彼を 真似したのです 偽りと不純な 動機を持ってです 彼らは名利が 欲しいのです これが真のマスターと 偽者のマスターの 違うところです ほとんどの人は 名利だけを求めます イエスと仏陀は決して ですから 崇高で 崇拝に値し 数世紀に渡って ずっと人々に 偲ばれています 彼らは内心を見つめ 純粋さを見つけ 聖なる道に 専念したのです ですからが 私達瞑想するとき 戒律を守らなければ ならないのです
必ず 戒律の真義を知って 自身を純粋で気高く 保つべきです でないと私達は 内面の最高の智慧を 開くことができません また神の最高の秘密を 永遠に知ることも できません ごく一部は知ることが できるかもしれません ですから ほとんどの修行者や 秘密の修行団体は 多くの誓約と 戒律があります 弟子達に確かに 分かってもらうことは 光の担い手としての 責務です また道義上果たすべき 責務です 彼らは弟子達を 心配しています 彼らが名利のために 教義を公にすることを ですからエッセネ派 同胞団が教義を 公にすることを 許しません
同胞団の仲間の エゴが膨らむのを 防ぐだけでなく 世俗の名利に誘惑され 堕落することを 防止するためです 一般の人々が この崇高な教義を 知るだけでなく 教義を知ってから 私利私欲のために 彼らを裏切り 神聖な教義を誹謗し 最高の智慧をゆがめて 個人のために利用し 世俗的な欲求を満たす ことを防ぐためです ですからイエスが 真理を説いてから 実際に多くの人が 彼と彼の名を 利用したのです 防ぐことは難しいです この種の虚偽的な 主張は実に多いです 多くの教派が自分は イエスの伝承者で 人に洗礼を施し 神聖な福音を説く 権利を主張します
これは避けられません 仏教も同じ 状況です
これが この世界の問題です ご清聴 ありがとう ございました
ありがとうございます