智慧の言葉
 
放下の真の意味    Part 2
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霊修行者は 明確に理解し 正しい概念を 持つべきです 最も高い境界に 到達するためです さもなければ たとえ何十年 修行していても 損するばかりで 全く役に立ちません 精霊 亡霊 または仏陀への信仰は 全部迷信です 最大の迷信は 自分自身を 信じない時です 本性を知らないことが 一番大きな罪です 私はいわゆる聖典を 沢山読んできました 東洋のから西洋のまで すべてが観音法門は 最良だと言います 観音法門は実際 法門ではありません ただ私達が振り向いて 私達自身を見ることに 過ぎません それだけです 

私達が 誰なのかを見るのです 私達がこの体では ないことを見ます 私達は 私達の行動 習慣や先入観では ないことを見ます 私達は他の何かですが これはまだ過程です 後に高い境界に行けば 何も言う事ありません

私には 誰も何も言う べきではありません 皆演じているだけです ドラマを演じていて 私達は偽りの場面が 現実に変わるのを 見ているだけです それで 私達は魅了され 自分自身を騙します

それでこのように 演じ続けるだけです しばらくすると 目覚めて 「家」に帰りたい事に 気づくでしょう でも「家」に帰りたく なくても大丈夫です 私たちの本我は ずっと「家」にいます

地球に降りて来たのは 遊び回っている 影にすぎません 元々何もないのは 真実です

皆が仏陀だと分ります どうして皆さんは 分らないのでしょう それで自分が 苦しんでいると 愚痴をこぼし続け いつ仏陀になれるか 聞き続けます いつ? 何曜日? 皆大声で不満を言い 私は「それはおかしい 皆さんは既に仏陀で 他の何になりたい ですか」と聞きます 他の何ものにも なれません 皆さんは仏陀です 幻覚の中にいるだけで 戯言ばかり言います 誰も本当に苦しんで いません 真我は 苦しまないからです それは私達の幻想 誤解にすぎません そうです 本当に誰も 苦しんでいません 私にはそのようです

こんにちは マスター

仏教の本では こう言います 以前 頭のまわりに ほの暗い光のある人は 釈迦牟尼仏陀を見たり 彼の説法を聞いたり した後 光がより 明るくなり始めます 明るくなり始めます なぜなら彼らの心が 仏陀の金色の光で 開かれたからです ある人はすぐ阿羅漢の レベルに到達します つまりスロタアパナの (流れに入った人)のレベルです これはマスターが 講義と印心を行う時 起こったことと 同様でしょうか 全ての仏陀はこんな 人を悟らせる偉大な 力を持っていますか ええ 

彼らが仏陀と 呼ばれる所以です そのような力が なければその人は 仏陀ではありません 必ずしも講義の際に 常に「心」が開かれる わけではありません ある人の心は 私の講義の最中に 開かれ ある人は私の本を 読む時に悟り ある人は印心の時 悟りを開きます それぞれ違います ある人は成就するのが 早く 他の人は遅く 例えば 印心する時などです ある人は 私の講義を聞いて 悟ります ある人は家で私の本を 読んで開悟します 今までに私を見たり 会ったりしていません

ですから皆異なる 速度がありますが 結局は皆 開悟します マスター 私はこう 聞いています 印心後 弟子が戒律を破り 意図的に肉を食べる ようになったら 非印心者よりもっと 重い応報で 苦しむ事になると これは本当ですか そうです なぜでしょう それは皆さんは今生で 解脱したいからです 私は皆さんに 今生で解脱すると 約束したので 皆さんはこれ以上の 悪いカルマ(報い)に耐えられないのです それを清算する更なる 人生がないからです

今生ですべて 清算しなければ なりませんので 悪いカルマ(報い)が多ければ多いほど 多く払わなければ なりません 一回で全部清算 としようしたらもっと 苦しむ 分かりますか ですからもっと 報いで苦しむでしょう それは仏陀の心が 冷たいわけではなく 彼は実はとても 慈悲深いのです 全部清算させて くれるからですが

それを受け入れられる かどうかによります それが非常に苦痛に なる理由です マスターは印心の時 私達の前世からの 悪いカルマ(報い)を 背負って下さいますが 私達は今生で定まった 悪いカルマ(報い)を清算しなければ なりません 仮にある人は 三十年間肉を食べて タバコを吸って 酒を飲んで 嘘をついたとしたら 今 彼は懺悔し 印心の日に これらの戒律に 従い始めようとしたら 今生で過去三十年間の 悪いカルマ(報い)を 全部清算することが 出来ますか 全部払い戻す前に 彼が死んでします 可能性はありませんか 私は全部清算します

何でもありません マスター こんにちは 経典にはこう言います 仏陀と菩薩は より高い境界を 明確に説明できます 彼らは既に 悟りを開いたので 従って彼ら自身の 体験を私達に教える ことが出来ます マスターも同じ方法で 悟りを開いたのですか それゆえに 法(真の教え)を ご自身の体験から 教えて下さいますか

同じだと思いますか (はい) マスター 彼は寝る時 明かに意識を感じるが 体が麻痺していて 動かせません これは彼の魂が既に 他の境界に行った事を 示していますか これはサマディーに いるのと同じですか 場合によって違います あなたがどんな体験を したかによります ただ麻痺を感じる だけでは不十分です あなたにはいくつかの 体験が必要です 時には 心臓発作でも 麻痺を感じますので 何でもありません あるいは 病気で 酸欠になっても 麻痺を感じられます ですので それは 全く意味ありません

場合によります あなたに意識があって 景色や光が見えて 智慧を得るなら サマディーにいます 偉大なスプリーム マスター 私は天道に属していて 修行仲間の話によると 天道は一九四五年に ここに入ってきた そうです ある法要の時 ある仙人が 現れて人々に 二十世紀末に 観音菩薩が 南海からこの世界に 戻ってきて 戻ってきて 人々の霊性の高揚に 対する渇望を満たし 天道のメンバーを 救って家に連れて帰る と告げたそうです 今がまさに 二十世紀末で スプリームマスター チンハイが その慈悲深い 南海から来た観音菩薩 なのです 数え切れない生涯に わたってこの世界に 降りてきました

この世界を蓮華の 王国に変えるまで 涅槃(最高の楽園)に 戻らないと 願を懸けたからです 今また戻って来ました 私達天道のメンバーが この解脱できる 機会をよく利用して 頂きたいと思います 例の先輩の 修行仲間と 彼の家族は皆 印心を受けています マスター 釈迦牟尼仏や 観音菩薩が存命の時 彼らも弟子達の 前世の悪いカルマ(報い)を 持ち去ったのですか 仏陀は皆これを しますか はい そうでないと 悪いカルマ(報い)は どこに行きますか 釈迦牟尼仏は 一人の人の悪いカルマ(報い)に 形があるとしたら 全宇宙を以ってしても 余るほど多いと 言いましたね

それはどこに行ったか それは突然 消えたのでしょうか 違います それを処理 しなければなりません ごみと同じで 独りでに消えることは ありません 誰かがそれをどこかへ 持って行き燃やします 彼らが燃やすのです 私達の世界では 原因があると 結果が出てきます 聖書でも言います 汝が蒔いた種は 刈らねばならないと あなたは蒔いたものの 結果を得ます 釈迦牟尼仏の弟子で 九九人を殺した 人がいました 他の人はよく 知りませんが  彼は九九人殺しました 彼は仏陀さえ 殺そうとしたのです それでも 釈迦牟尼仏は 彼を救い 阿羅漢にしたのです

仏陀がカルマ(報い)を 持ち去ったのですか はい そうです それで 釈迦牟尼仏は 誰かに 足を刺されたのです 多くの人の 過去の悪いカルマ (報い)を 彼が払ったからです 彼は弟子達が 印心を受ける前から徐々に 彼らの悪いカルマ (報い)を払い始めます 印心してからでは ありません 印心を求める以前に マスターはすでに 彼らの悪いカルマ (報い)を洗い始めます 分かりますか それ以外に洗い落とす 方法はありません

仏陀はこんなにも 慈悲深いのです しかし人々は 他人の悪いカルマ (報い)を持ち去る事が できないばかりか 衆生を傷つけ 戒律をも破っても 恥かしく感じませんね 私達が真剣に 仏陀に学ぶと いつか仏陀のように なりますか なぜなりませんか 仏陀のようになります マスター 開悟するには必ず 在世の仏陀に印心を 受けるべきですか だとすると なぜ人は印心を 受けていないのに 開悟の体験が あるのですか 例えば 他人の前世を 見るとか 経典に記載されている 内面の境界を 見るなどです ある人が 独りで開悟し 在世の仏陀の 加護と教えがないと 危険で 魔に取りつかれますか 開悟したマスター なしに開悟したなら それは おめでとうございます ただほとんどの人は できません とても稀です

全世界で たった一人か  その半分か 三分の一ぐらいです 自分で模索する場合 ほとんどの人は 魔に取り付かれます ある人が 開悟したマスター なしに開悟した場合 多くの原因があります その原因の一つに たぶんその人は 偶然開悟した マスターに 出会ったのですが 自分は知りません 一瞥しただけで 開悟します またはそのマスターの 本を読んだのでしょう そのマスターに会う 必要さえありません

または偶然その マスターの弟子に会い その弟子と一緒に 瞑想した時弟子が マスターに彼を助ける よう祈ったからです このような形で 開悟するのです その人はマスターの 弟子が彼のため祈った ことを知りません 時には 弟子が祈る必要さえ ありません マスターがその人の 因縁を見て その弟子を通して 助けるのです 沢山の様々な 原因があります またその人が前世で 修行して あるレベルにまで 至って そしてその段階で ストップし死んだの かもしれません 開悟したマスターに 会えないと たとえ少し 開悟したとしても 再び今生でこの世界に 戻って人間になり 以前の悟りを 取り戻さなければ なりません 悟りは永遠に忘れる ことがないからです 以前開悟したとすると 今もそうです 以前賢かったとすると 今もそうです

英語の勉強と同じです たとえ数年間英語を 使わなくても しばらくもう一度 練習するとまた 話せるようになります 一度も英語を 習ったことがないと 何もできません これと同じです ですからある人が

マスターなしに 開悟した原因は 色々あります しかしその場合 ある程度までしか 開悟できません これが問題です 最高の境界を 知らなければ 見つけられません 三界を超えることは とても難しいのです 第一界で 立ちはだかられます 向こうには 多くの神通力や 幻想と私達を混乱 させる場面があって 涅槃(最高の天国)を 得たと思わせるのです 誰かが 私達に「そこで 止まらないでまだ先が 長いのだ」と言って くれないとそこで止り 迷子になります ごく少数の人しか 第一界の落とし穴を 逃れられません

三界を超えることなど 論じる余地もないです 殆んどの人は第一界で 留まってしまいます 彼らは千重の蓮華の 境界に留まっています そういうことです 「蓮華国」とも言います 皆がそこに集まります 全員です そうです 最も道徳的で 最も信心深い人 自分で捜し求めた人 間違った法門を 修行した人や 悪いマスターについて 学んだ人達は皆 そこに集まります 皆さんがそこを通る時 そこが満員で身動きも とれないのを見ます 皆そこにいるからです

ですからやはり 教師がいると安全です 教師は多くの所と 高い所に 行ったことがあり それらの場所を 全部知っていて 私達が落とし穴に 落ちないようにします

マスターお元気ですか 「死と再生」 という本で あるマスターは 言いました 前世では動物で 今生で人間に生まれ 変わって間もない人は 祈りを捧げず 瞑想もしないと 今生は 動物よりややましな だけだと言っています また人は 開悟する前に 二人の人が互いに 長く目を見詰め合うと 危険だとしています 無意識に前世の 動物の意識を 呼び起こし その動物性を他人に 移すからです 仏陀の本にも似た話が あります ある日 バラモンの指導者が 釈迦に対し 甘い言葉で自分の 弟子を盗んだと 叱責しました 釈迦は慈悲深い目で 彼を見つめ 何も 言い争いませんでした

後に釈迦は 弟子に ある人が 動物のように怒る時は 論争せず彼の目を 見ないよう教えました マスター この二つの話は 同じことですか 人の目を見ないことですか そうです 私も弟子に 人の目を見ないように 教えています 偶然の一致です これは読んでいません 印刷して人々に見せて あげてください そうです  人の目を見ると 良し悪しに関係なく 影響されます 良い人であれば 良い影響を与え よくない人だと 悪い影響を与えます ですから時々 ある人の目を見た時 とてもいい感じがして でも ある人の 目を見ると 恐ろしく 冷たく 吐き気がし 嫌悪感を覚えます いずれも その人の影響です

彼は言っています ある人の目を じっと見つめると その人が前世 動物だった場合 その人の動物のエネルギーが 別の人に移ると そうです

恐ろしいです 人の目を覗き込んでは いけません

マスター ある人が 前世では動物で 今生で人間になって 運良く慈悲深い 在世の仏陀の 印心を受け 心から懺悔し 修行に精進すれば 彼は今生で 解脱できますか はい 問題ありません それは皆が仏性を 持っているからです すべての衆生が 仏性を持っています それに 開悟したマスターは 不可思議な力を備え 何でもきれいに 洗い流せます 彼らは 大海の如く大河の如く 何でも中に入れると きれいに完全に 洗い落とします

その人は 無数の生涯で 人間だった人に比べて または天から降りて 来たばかりの人と比べ または 前世で 修行した人に比べて その人は 霊修行の面で難しく 障害が多いのでは ありませんか そうですただ本当に 真摯で謙虚であれば 大きな 問題はありません そういった天から 降りて来た人も 必ずしも優れていて 良い品性を備えて いるとは限りません ではなぜ天国に 行ったのでしょうか それは 前世でその人が 何かの功徳を積んで 天国と因縁を 持ったからです

天国に行くことは 簡単です 何か福報の あることをするとか 天の加護を受ける ような事をするとか 布施を施すとか 人の命を救ったり すると 天国に行けます 天国でその福報を 楽しんでから 動物として または 人間の身に戻ります それは今生で 経験すべき カルマ(報い)に よります 分りますか 長い生涯において 時にはここで 良い行いをし 時には ここで悪い事をします 良い事も 悪い事もして 悪い事に遭遇すれば 落ちていき 暫くしてから また良いことに  遭遇すると 上がってきて しばらく享受します 後にまた悪い事をして 再び落ちていきます

そしてまた 良い事に遭遇します 分かりますか 私達は 善悪から自由になる 以外ありません ですから天国から 落ちてきて 人間になったとしても 大した事はなく 他の人よりましとは 限りません その人が遭遇した よい事と悪い事により そうなったのであって 前世のカルマ(報い)に よるものです 誰にでも チャンスがあります 仏陀になった人 すべてが前世で 良い事だけをした わけではありませんし 天国から降りてきた 人が皆 前世で よい事ばかりした わけではありません

そのような見方を してはいけません 敬愛するマスター 話によると マスターの経の講義が 終わった後ポスターを 家に持っていくと 写真に大きな 加持力があり 光を発するそうです なぜですか 私も分かりません そうでもいいでしょう マスター 悪党が力で 善良な人を 苛めたり 強奪したり 殺しては もっともらしく 曰くこれは 仏教で教えている 因果応報だと言います それらの 強奪され 苛められた人は 前世でその人に 借りがあるからです だとするとそのように していいのですか これらすべては 定まった因果ですか そうです ただ後に その人は彼の 借りを取り戻すために 戻って来ます

次にまた彼が 再び戻ってきてそれを 取り戻すというふうに 繰り返すのです 分かりますか 誰も相手を許さず 誰も許してほしいと 思っていないのです

私も人の良し悪しが わかりません 互いに強奪を 繰り返します ですから寛大な態度を 取るのが一番です 分かりますか ただし その人が言ったことは 正しくありません ただの口実です

仏教を侮辱しています 彼が本当に 仏教を信じていれば そうはしません 仏教では人に寛大で ある事を教えています

人を許しなさい 自分が正しいか否かに 関わらずです それからその人は 前世の因果を 見ていないのです 強奪された人が自分に 借りがあるかどうかも 分かっていないのです ですからそれは 意味のない話です そうはいえません その人はとても 悪いカルマ(報い)を創ります

仏教を侮辱し 嘘を言い 強奪して 重いカルマ(報い)を たくさん 作っています ですからそれ以上 悪事はしないことです そう言ってあげなさい たとえ人が前世で 自分に借りがあっても

許すべきだと 実際は借りがあるか どうかも分からず とんでもない事を言い 人を騙しています

それは大嘘です マスター 私は 全ての悩みと苦しみは 外部の物事に対する 心の反応から来るもの だとつくづく思います いかにこの騒ぐ心を 征服しますか 観音法門を 修行することです マスターこんにちは 私の質問は 智慧眼で 仏陀の名を唱えて 境界を見た場合 これは観音法門と 同じですか 同じではありません それはただ 瞑想で光を観ることで 瞑想で音流を 聴くことと異なります 仏教と心霊術の違いは 何ですか それは異なるものです いわゆる仏教は ただ毎日経典を 読み上げることです これは本当の 仏教ではありません

これはただ古代の 人々のことや 仏陀の名を読む事です これは仏陀に学ぶ ことではありません 仏陀について学ぶとは 私達内面の 仏陀に学び 私達自身の仏性に 学ぶことあり自分の 仏性を観ることです これが 真の仏教です 心霊術は 神霊とか幽霊とか いわゆる菩薩に 頼ることです その菩薩が本物か否か 誰にも分かりません どちらも他力本願です 分かりますか 両方とも真の本性を 知るための修行とは 大分違います

マスター 夫婦の因縁は 前世のカルマの (報い)結果ですか すべてが前世の カルマ(報い)に よるものです 夫婦関係だけではなく 両親や動物 ペットの犬と猫 いずれも前世のカルマ (報い)による結果です 人は自分の悪い カルマ(報い)を 自分の功徳をもって 洗うしかないのですか はい ただ真の功徳の ある所を見つけること 唯一自分の仏性を 見つけて 天国の甘露水でもって 洗えるのですす すると自分できれいに 洗うことができます

でないと余りにも カルマ(報い)が多く 無数の生において 沢山の過ちを犯して 今生の少しばかりの 功徳だけではカルマ (報い)を洗い落とす ことはとても無理です 百年経っても 無数の生涯にわたる 過ちを償うことが できません マスターこんにちは 「死と再生」 という本で マスターが言いました 普通の人は 修行しないと 因果応報から脱出する ことができないが 真摯に修行すると 因果応報を消すことが できると なぜなら 智慧深くパワーに 満ちた高貴で神聖な 人に加護され その慈悲深いパワーが 沢山の 悪いカルマの報いを消してくれるからです しかし 真摯に懺悔し 二度と同じ過ちを 犯さないと 約束せねばなりません その精霊の偉大な パワーが私達に同じ 過ちを犯さないように 助けてくれるとします マスター世の中に 本当にそのような 良い事がありますか あります 彼が言った通りです そのような偉大な 修行者を見つけると 彼らは沢山 助けてくれます

完全に悟りを開いた 仏陀だけにそのような 慈悲深いパワーを 備えて人々の カルマ(報い)を消してくれるのですか そうです ではなぜ定まった カルマ(報い)は 変えられないと いうのですか 真剣に修行すれば 定まった悪いカルマ (報い)も変えますか 少しは変えられます 全部は変えられません 今生の因果応報は 避けられません 例えば 前世で 人を殺したとすると 今生で 殺されねばなりません

しかし私達が 観音法門を修行すると 夢の中で 殺されます 分かりますか 実際に殺される わけではありません ですから 避けられないし 変えられないと言うが 夢で起こります それは悟りを開いた マスターに不可思議な 力があるからです 彼らは魔術のように 何でもできます マスター  あなたの話を聞いて 私は魅了されました 素晴らしいです 私は天国にいますか マスター 観音法門は 私達の内面の仏陀を 見つけることです それなら 般若心経でいう 観自在も 観音法門ですか いいえ それは観音 法門ではありません 観音法門は語れ得る ものではありません 般若心経でいう 観自在は 観自在菩薩が 観音法門を修行する時 自分が 空になり 五つの 元素が全部無である ことを悟ったことです この話は私の本の 第一巻で述べたと 思います そうですね

「即刻開悟の鍵」 第一巻でその境界を 説明しています それを読んで下さい

マスター私の 無知をお許し下さい どうしたら 心を穏やかにして 本性を養い 心を超越できますか どうしたらできますか (観音法門を 修行することです) そう印心を受けなさい 人が仏陀になって 諸仏は平等だとすると なぜ経典には 今生での功徳によって 異なるレベルの 成果を得ると いうのですか

レベルは違いますが 仏陀になることは 同じです

仏陀になった後は 同じようになります ただレベルが 違います 例えば人が私から 印心を受けてから ある人は修行に精進し 毎日に二時間から 六時間瞑想します 別の人は三十分瞑想し 三十分は眠ります もちろん二人の レベルは異なります 成果は常の こういうものです どれだけ 瞑想したかによって 違った成果を得て 違った境界に 行きます 例えば今 あなたは沢山瞑想して 自分をますます知る ようになり 自分を認識するほど 高いレベルに達して 仏陀のレベルに 達します そして死ぬとき 仏陀の境界に いきます

ただ 三十分瞑想し 三十分は寝るとなると 自分をそれぐらいしか 知らないということで 死ぬ時その程度の 境界にしか行けません 分かりますか もちろん 二人は違います こんにちはマスター 私は 「生死の感得」という 本を読みました 本の中に 釈迦が存命の時 竹林精舎には 一六〇〇人の人が 座ることができますが バラモン寺院とも 違って そこには 祭壇もなく 神仏への お供えもなく 何も神秘的な雰囲気も なかったそうです 見るからに 霊修行者が集まる 場所のようです 竹林の中は 静かで平和で 霊修行するのに 適しています

これは今日の寺院とも 大部違います 経典を読み上げ 祭祀の儀式を重んじる ことと違います マスター 私達が 釈迦がした事をして 悟りを開いて 在世仏になり 修行に精進し 自分の内面の 仏性を見つける方が 釈迦の伝統に より近いのでは ありませんか そうです あなたは 自分で答えています 私達もそれと同じ形で 修行しています 寺院もありません 私はさっき 屏東の川辺から ここにきました そこで私達は 数週間留まりました 簡素な生活です 各自テントで暮らし 石で 手工芸品を作り 売って稼ぎます

ヤムイモを焼いて もらってそれを食べ 毎日瞑想します 寺院は必要ありません 大変気楽な生活を 送っています 寺院があると それに縛られます 寺院は人々を 仏陀にすることは できません 修行に精進し自分の 仏性を見つけてこそ 仏陀になれます 物が沢山あると 時間をかけて 管理せねばなりません すると時間が なくなります 時間がないと 内面の自性を知る 機会がなくなります 従って障害も 多いのです

釈迦が存命の時は 寺院はなかったのです 釈迦が往生してから 人は寺院を建てて 彼を崇拝しました 彼は人に寺院を建てる よう言っていません 彼はいつも歩き回り たまに静修しました 弟子と一緒に 静修したわけです 寺院は建てていません 親愛なるマスター

三月二日に あなたが台北で 経の講義をする時 私は手紙を書き始めて あなたの写真を見た時 光を放っていた事を 報告しました その後 前のマスターと 他の修行仲間の 影響を受けて 光を見ることが できなくなりました 今再び取り戻しました 三月四日の朝 苗栗センターで あなたの全ての写真が 目から多彩な光を 放っているのを見て 失っていた純粋さが 戻って嬉しかったです 午後印心を受けてから 私は生まれ変わった ような感じでした 嬉しさでいっぱいです 私に沢山の経典に 記載されている 超世界の体験を下さり ありがとうございます

以前一緒に 瞑想した 女性の修行仲間から あなたの講義を聞くな と忠告を受けました 私は論争しません 彼女が口でカルマ (報い)を作らないよう 在世の仏陀を 中傷すると重い カルマ(報い)を作るからです 私は私の 子供二人を連れて 出家してあなたに 追随したいのですが 可能でしょうか 家でも修行できます なぜ出家したいですか 出家生活は大変です 川辺に住み テント暮らしで サツマイモを食べ 手工作をやります 在家者と同じです でも望むのであれば 歓迎します 家族の反対もなく 子供もそれを望み あなたもよければ いいでしょう 私は誰でも 出家したい人は 止めません

ノーベル賞の食事 「私の能力である 知性は牛からの 栄養では得られない」 Gバーナードショー 一九二五年 ノーベル文学賞受賞 菜食者

多くの才知溢れる ノーベル賞受賞者は 倫理的な菜食者でした 彼らの知性の ひたむきな探究は よく発達した理念 動物の感性を認めた 強い個人の価値観と 社会としての 持続可能な選択をする 重要性に 基づいていました 。

菜食の生活様式は より効率的で エネルギー効率に 優れています 個人的に 生まれて 此の方 菜食者で それを変えるどんな 理由も分かりません ヴェンカトラマン ラマクリシュナン 二〇〇九年 ノーベル化学賞受賞 菜食者 人々が 無垢な生き物の 血を流す限り 人々の間に平和 自由と調和が 存在するはずがない 虐殺と正義が共に 存在するはずがない アイザックBシンガー 一九七八年 ノーベル文学賞受賞 菜食者 「あらゆる生物に 自分の思いやりの輪を 広げるまでは 人は自身の平和を 見出せないだろう」

Aシュヴァイツァー 一九五二年 ノーベル 平和賞受賞 菜食者 肉の消費を 減らす方向に 移行することは 人類のためになり また確実に 地球の利益の ためになるでしょう ですから皆さんに よく考慮するように 訴えたいのです しかも皆さんは そのような行動を 起こすとき より健康で 気分が良いと感じます だから地球も同じです Rパチャウリ 二〇〇七年 ノーベル  平和賞受賞 菜食者 「菜食料理は 我々の本質に 深い印象を残します 全世界が 菜食主義を選択すれば 人類の運命は 変えられます」 Aアインシュタイン 一九二一年 ノーベル 物理学賞受賞 菜食者 ベジになりエコを実践 地球を救おう ニジェールデルタ地域 かつて居住のあった島
印心後 私達は洞察力を得て理解力が強まります そしてもっと 理解できるので より平和になります いつも頭で決めるとは 限りません 誰にでもある より大きな知性を 使います 私達は周りの人々に 対して

より理解でき より親切で  そして尊敬します 私達は より敏感に 肯定的になります 世界中の人々は皆 他人を助けたいのだと 私は思うからです なぜなら私達の天性は 元々善であり 原罪は ないからです

ようこそ マスターチンハイ

ベルリンの 瞑想グループを 代表して マスターチンハイを 歓迎致します マスターが到着した時 花と果物を 捧げるのは マスターの祖国と アジアの 美しい慣習です 皆さんそうしたいなら どうぞ前に出て マスターに花を捧げて

まあ 沢山のお花 これ全部どうしたら いいでしょうか 尊敬すべき マスター そして皆さま

過去に戻って 自分の体験を 報告することを お許し下さい マスターの教えと 関連のあることです

私が子供の頃 そしてその後 二十歳のとき 非常に不幸せだった 時期がありました 私は両親の問題を 抱えていました 彼らの離婚などで 同じ経験をした方も いるかもしれません 当時 私は誠心誠意で 神を捜しましたが 残念なことに 状況が 異なっていて 成功しませんでしたが 私は探求を続けるのを 中止しました それでも その期間 私はだいたい 自分でその状況から 自分を解放できました しかしその時 私はすでにはっきり 分っていました 神の探求 「死後何が起こるか」 という疑問は 断念されたのではなく 延期されただけだと 当時 私はすでに 予期していました

ある日私はこの疑問に 時間を費やすと 皆は 笑うかもしれませんが 私が結婚した後にです そうしたらこの問題が 議題になると 信じないかもしれない けど私は結婚しました そして全く 何もしないで 私は再びこの教えと 接触しました それは次の通りです 家内はオゥラック (ベトナム)人です 結婚二年後 妻の両親は マスターチンハイの うわさを耳にしました 最初 彼らは ビデオと本を見ました そして今私は ここに立っています 私達の結婚後 私達の結婚後 あるいは結婚前 この種の活動は ありませんでした それで私の質問は 偶然起きたのだろうか これは偶然だろうか 私は信じません 偶然だったとは それは偶然には 起こり得ません 私は正しい道にいると 分っています 表面上私を 知っている人々は 私が少し落ち着いたと 気付くかもしれません

印心にはこんな 影響もあります

家族は より睦まじくなります 例えば 私たち夫婦は いずれにせよ 睦まじいです 他の家族との関係は 常に良かったですが もっともっと よくなっています マスターの教えを経て 私は理解しました 人生に この地球での 存在後にもっと 重要なことがあると マスターについて もっと話しましょう 皆さんは気づくか すでに気づいたかも マスターはユーモア センスのある人です 彼女は堅苦しい 人物ではありません 中世期時代の 厳しくあちこちを 凝視するような 意味が分かりますね 正反対なのです 私もユーモラスな マスターが 女性の マスターがおられる 事実に慣れなければ なりません たぶん私は 少し保守的 だったのでしょう しかしそれでも 彼女が話すのは 真理であるという 事実には疑いの 余地がありません

今日話す機会を 頂けたことを マスターに 感謝致します

私には「内面の言語」 つまり天国の言語は 他のどの言語よりも 流暢です 同様に私達の多くは 世間の会話と仕事に 熟練していますが 天国の表現の方法を 忘れています 私達がこの世の仕事に 専念すればするほど 私達はこの世の分野で より熟達します 私達が世俗の知識の トップに達しても 天国の知識を磨くのを 忘れていたら 私達の真の源から 遠く離れてしまいます 多くの人々は私に 聞きました「なぜ 私達はこの天国の光と 音の法門について 聞いた事がないのか」 私は言いました 私達が聞いたことの ないことや 知らない ことはいくらでも あります 

興味さえ なかったからかも しれません ですからベルリンで 得られるとしても 誰もがそれを知りたい とは限りません 百年後でさえ 近所の男性は 何が天国の光と音か やはり知らないかも しれません 私達は一日二十四時間 この世界にいて あまり天国を考えたり 覚えていたりしません 私達は本当にそこから 来ました そして そこはこの世で非常に 欠乏し 捜している すべての真実の 幸せの出所です 私達がこの天国と 連絡できれば 私達が捜す全てが 自然と現れます 以前私達は見つけ られませんでした

なぜなら 出生の前に 創造のパワーが私達に 授けられたからです 私達は外の世界を通し 満足感と幸せを 捜しますが そこでは あまり見つかりません 見付けたとしても 長続きしないし 時にはもっと多くの 悲しみと失望を 伴います それは ものの影であって 本物でないからです 本当の美 知識と 美徳は内面でしか 見つけられません 人間の標準による 外面的な美 知識と美徳は 本来の品性の 反映にすぎません ですから私達は 決して外界に完全に 満足しないのです 常に何かが 欠けています これは結果的に貪欲 執着 怒りと憎悪を 生みます

真理 美と美徳に 対する渇望を 癒すため 私達はより多くの富 より高い地位などを 積み上げなければ ならないと思いますが 私達はこれらの多くに 失望し  より努力して働きます これら物質的な財産を 通してある日完全な 幸せを成し遂げると 信じながら しかし開悟した人は 知っています 全ての 本当の美 智慧と 美徳は既に私達の内に あると 時間をかけて この事実を 発見さえすれば 印心は転換期であり 私達が内面に向かって 外で探した すべてのものを 見つけた時です 天国の光は 真理 美しさ及び 私達の美徳のすべてを 明らかかにし  輝くでしょう

そして内面の音楽が 最発見の道の最後まで 私達の魂に 伴うでしょう 生まれる前と同様の 高貴な衆生の地位での 真の愛を選ぶでしょう そして私達は天国の 音楽の力によって 運ばれる栄光の光に 乗るのです 異なる宗教の 聖典で話された 天国の音楽は 例えば キリスト教の 「言葉」 ヒンドゥー教の 「シャブド」道教の 「天国の音楽」 仏教でいう 「音流」などですが 直接 神の王国からの 唯一の  真の教えでした また 宇宙の愛と 最高の知性の言語も 同様です すべての教えはこの 沈黙の世界から来ます すべての言語は 宇宙の言語から来ます

それでこの道程の 高水準の印心者は 魂の球体の中で 全ての言語を話します 例えば マスターは 彼を信じる人のことを 理解します 彼ら自身の言葉で 彼に近づいても それがマスターの レベルで 彼は 神の王国の言語に 熟達しています 私達は皆このレベルに 達することができます 私達は皆この知識を 備えていますが  それを忘れたのです この幻想の世界を 超えたところで 万物を理解する 遍在していていて 宇宙の中で 最も正確に機能する 智慧なのです

再び私達が本当に 何であるか思い出す ことを望みさえすれば マスターは彼らの 元々の能力を覚えて 愛の心から それを探す人々と この知識を共有し 彼らの仕事には全く お金を取らず 彼らのすべての時間 財力やエネルギーを この世界に提供します マスターのレベルに 達する時 私達は 自分の起源を知るだけ ではなく 他の人々が 彼らの本当の価値を 知るのも助けます マスターの指示に 従う人々はすぐに 新世界にいると 気づきます そこは真の知識  真の美しさや 真の美徳で一杯です この世のすべての 美しさ 真理と 美徳は私達に内在する 真の世界を 思い出せるためです

どんなに美しくても その影は 本当の物自体ほど 決してよくないのです 本物だけが私達の魂を 満たすことができ この家のマスターです 魂がこの物質的な 乗り物を置いて行くと すぐにこの体の全ての 機能が止まるでしょう ちょっと考えて下さい 私達は大部分の時間を 費やしてこのはかない 体に集中しますが 大切な永遠の真我を 考える時間がなく それが 私達が人間と その影を区別する 必要がある理由です 印心後 内面からの 光は神の王国を私達に 見せ 私達の本当の 家に導くために 先を照らすでしょう

そして 私達は この世では決して 知らなかったほどの 幸せの真の境界を 見つけるでしょう 私達は以前一生懸命 養なおうとしても 決して完全に達せない 美しさと美徳に あふれるでしょう 天国の教えは内面の 言語を通して  私達が今まで所有して いながら使えなかった 全ての智慧を 蘇らせるでしょう それで世界中の何も 私達により満足感を 与えられないのです しかし私達に本当の 体験がないなら ただの空しい言葉です ですから 印心と日々の 修行の後ではじめて 彼らの言う意味を 本当に理解できます そして本当に喜びの 王国の高い境界の 無限の楽しみを 享受できるのです

私達は日陰に留まり 人生の困難な 運命について 嘆く代わりに  私達には 人生の栄光面に入る 選択と機会があります 天国を見つけるために 生活から逃げる べきではないですが 私達の生活に天国を もたらすべきです これが開悟の 真の目的です これはこの物理的な 世界に留まってる間の 本当の解放です いったん真面目に 印心の時教えられる 練習を修行するなら 私達は天国と地球との 間に均衡を得ると 同時に地球での責任を 執り行なうことができ 同時に天国を 認識できます

私達には果たすべき 様々な地球での義務が あるのでできるだけ  効率的に終えるべき でも 私達の一番の義務は 地球を祝福すること そうすることで 地球が天国になり  すべての生きものが 段階的に高い意識を 発達させながら 快適な生活を 送れるようになります 言い換えれば 私達は自身の中の 神の力を目覚めさせ 使うことで宇宙の 進化を援助するのです そういうことで 私達は印心を受け 即刻開悟する必要が あるのです それで直接この力を 使ってよりよく 世界に奉仕できます というのは 単に体と 物質的な力だけの 貢献では 足りないからです

ですから私達の世界は 依然相変わらずです たとえ全人類が たとえ全人類が 世界をより高度に発展 させ より良い世界を 望んでもできません 今はまさに私達の 内面の偉大な力を できるだけ早く 見つけ出す時期です それで私達の生活を よりよくし 後世がよりよい環境で 成長するように なります 私達は現在の世界の 悲惨なありさまを 見た時 即刻開悟が 絶対に必要である ことが分かります 私達だけでなく 後世にも必要です これは子孫に残す 最もよい遺産です これが真の愛の行動 印心を通して神と 直接繋がれますか そうです 即座にです どうやって内面の 神聖な品性を知覚し 生活に生かしますか 印心を受けた後 自分の偉大な力を知り 徐々に自分を認識する ようになります これがあなたの質問に 対する答えです 罪悪感とは何ですか 罪を許すとは 何ですか

私達が神の法や 自身の高次の 意識に違反した場合 罪を感じます ですから 法律を守り 十戒を守る ことが一番です するともはや罪悪感を 覚えません 罪の許しとは なんですか 実際私達には 罪などありません 神が私達をこのような 環境に置いたのです この環境は あまりにも残酷で 耐え難いものです そこで私は天国に行く 方法を持ってきました あなたはそこへ行って 直接神になぜそうした のかと聞いて下さい 真理とは何ですか それは言葉で 表現できる ものでしょうか いえ できないですね 皆さんどう思いますか (できません)そうです いいでしょう ありがとうございます

しかし体験できます 真理はこの世の言葉で 表現できませんが 自分で体験し 感じることが できます 開悟には幾つの レベルがありますか 今のところ五段階です 第五のレベルに 達すると マスターになります その後も 沢山のレベルが 私達を待っていますが それからは独りで 体験し 経験します そのときはマスターを 必要としません 第五のレベルからは 独りで歩けます イエスは言いました 私は天なる父と一つだ 私を見ることは 神を見ることだと イエスは神なのですか はい そうであり違います 彼は神と一つですが 神から生まれたので そうとも違うとも 言えるのです

彼がこの世界で 生きていた時 彼は神と一体でした ですがまた神と 分離せねばなりません この世界での 責務を果たすためです 責務を果たすために 彼は神と少し 分離して はじめて俗世間の 悲しみや感情を 理解できるのです そこでイエスは 神と一体であると 同時に一体ではないと 言えるのです 彼は世俗の面と神の 品性を持っているので この二つの世界を 繋ぐことができます あなたは開悟してます 真の音楽とは何ですか どう識別しますか あなたは内面の 天国の音楽を 指しているのですか 印心を受けた後 識別できます 天国の門が開き 私達は天国からの すべての教えを 聞くことができます 法悦とは何ですか

「酔った」状態です 神と一つになった時の 神と一つになった時の 喜びの状態のことです その時はこの世界の 苦難は何も見えず 天国とも何の隔たりを 感じません

 
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