マスターチンハイ ネパールからナマステ (ナマステ) マスターが弟子を 探すのであって弟子が マスターを探すのでは ないと聞きました 私にも起きました どうぞ 答えて下さい ありがとうございます 最高の敬意を込めて そうです 両方ともです マスターが探そうが あなたが探そうが 同じことです 元々 マスターも弟子も 存在しないのです 皆がマスターなのです ただ忘れているのです
でも ある者が既に 思い出し言うだけです ポケットにありますよ 忘れていますけれど 多忙ですからね と ですから その事を示す人は マスターではなく 単なる友達なのです ただ私達の伝統で 人々が非常に謙虚で 皆さんに何か 教えてくれる人を 先生と呼ぶのです それも構いません 構いません しかし元々 私達には先生も 弟子もないのです ぴったりの時間に 互いを見出せるのです
仏陀が教えた 完全解脱の道 完全開悟の観法を どう思いますか 観法は瞑想方法の 一つです 仏陀は沢山の方法を 教えました 観法を望むなら ここに来る必要は ありません あなたに教えられる 先生が沢山います 私は直接仏性を見る 専門家なのです いいですね 皆が 何かに長けています 仏陀は 皆さんを 悟らせる沢山の方法が あると言いましたが 観音は 皆さん自身の 仏性を聞くことであり 最速の方法です
いいですねそれこそが 私たちが提供する 皆さん自身の本性を 直接見る方法なのです 一時的なものに頼る 必要はありません 呼吸や肉体や衝動とか 必要ありません ただ直接行って 本性を見るのです どうしたら私達は 霊的な観念を素早く 発展させられますか はい はい 外へ出てあなたが誰か 私に教えて下さい 後で戻って来て お会いし すぐに教えましょう 魂とは何でしょうか 神とは何でしょうか 天国とは何でしょうか それを教えられますが 言葉でではありません
私はあなたと一緒に 黙って座ります 答えが解ります こうした事は説明する ものではありません 人間の言語では完全に 説明できません 皆さん自身の本性 皆さん自身の智慧 仏性によってのみ 説明されるのです 敬愛なるマスター 私には何ら困難も 問題もないのですが 充足感も平穏さも ないのはなぜですか そうです そうです 自分自身を知らないと 皆そうです ですから 私達は 悟らねばなりません 幸福になり 満足すべく 自身の 真の偉大なる本性を 知る必要があるのです
ナマステ マスターチンハイ ナマステ なぜ人は人生に悲しみ 落胆するのですか 彼らは自身の仏性を 知らないからです すでに述べました 私は開悟した人に なりたいのです どうすべきでしょうか どうすべきかですか 印心を受けて下さい 完全開悟する前に 自分の過ちに対して 苦しみますか いえいえ 誰も苦しむ 必要はありません 悟っていないから 苦しむだけなのです 私達が開悟すれば なおも困難や苦しみが あるかのように 見えても もはや大した事では なくなるのです
また 苦しみ全てを 克服する方法を 見出します 私達の多くにとって 貧困は 大きな苦しみですが 仏陀にとっては 全てを捨てました 彼は何も持っておらず いつも仏陀だった 彼は常に幸福で 彼の幸福や愛を 人々に与えていました どうか教えて下さい この世界とは何ですか 私は誰でしょうか 地球で何をしなければ ならないのでしょうか 死とは何でしょうか 死後どこに飛んで行く また消えてしまうのか こうした事すべてを 本当に知りたいのです 答えは あなたの中にあります
こうした抽象的な 質問はすべて 抽象的な意味でしか 答えられません それは あなたが悟った時 第三の目が開き 手の平を見るように すべてが非常に はっきりと分るのです ところがあなたに単に 論理的答えを与えても 決して 本当には 満足しないでしょう 貧しい人があなたから 何か貰いたいと 思っていたとします あなたは彼らに 何と言いたいですか 何か貰いたいと 思ってる貧しい人達に あなたはどんな情報を あげたいですか それは 彼らが 望むものによります 彼らが霊的なものを 望んでいれば 私は喜んで彼らに 霊的に奉仕します 物質的な助けを 必要としてる人には 出来る事は何でもして 彼らを助けます いつもそうしています そうです
人々は 様々な言葉で 神について 述べています 英語やヒンズー語 ネパール語オゥラック (ベトナム)語などです 神はどの言葉で 話すのですか あなたの論理的な 答えを頂けますか ええ 神は本当に話し 本当に話します 神の言葉で 話し掛けるのです 言語のようではなく 旋律のように 聞こえます お望みなら 私は神の言葉の 聞き方を教えられます この言語ではない 旋律の声を 聞けば聞くほど 悟りを開けば開くほど 仏陀に近くなります そのために 私はここにいるのです しかし内面に入ると 時々 神が姿を現し 物理的に 私達自身の言葉でも 話しかけることもあり それも可能なのです
私は三年間 菜食をしています どうやったら 心を瞑想に 集中できるでしょうか 分りました お教えしましょう 後でお教えしましょう いいですね マスター ヨガと観音法門の 相互関係について 説明して頂けませんか ヨガは単に あらゆる種類の 再結合に対する名前に 過ぎません ヨガとは 再結合を意味します ですから皆さんの本性 神との再結合を もたらすものは すべてヨガなのです ですから ある意味 私達の法門もヨガの 一形態と言えます しかし ヨガは真の 再結合を意味します ヨガと呼ばれるには 皆さんを再結合 させねばなりません 何でも構いません
観音法門と 霊気には 何らかの 類似点がありますか いいえ いいえ 観音は 霊気を含んでいます 霊気は 超能力の一部であり すでに私達が内面に 持っているものです 観音は内在する全てを 超能力も含めて 覚醒させてくれます どうやって 先生を 見分けたらいいですか 沢山の 何千人もの 先生がいますが 無上の先生となると 誰が 無上の先生ですか 無上の先生を どう 見分けたらいいですか 簡単ではありません
しかしその先生が 光を見せられると言い 出来れば 少なくても 信頼できます ですから 皆が 先生の下へ学びに来て 彼がすぐに光を 見せてくれれば 彼は開悟した人 なのです 彼に光がなければ どうして皆さんに光を あげられるでしょうか 悟りの意味は 光で 光の中に入るという事 ですから 少なくても 皆さんが誰かと学び 先生が何も要求せず お金も取らず 皆の家について行く こともせず 二十四時間毎に 電話をする事もなく 迷惑をかける事もなく ただ自由にしておき 来たければ来て 去りたければ 去るというのであれば 失うものはありません
少なくても 何も損を しないのなら試せます でなければ悟った人を 見分けるには 少し 悟らねばなりません 一人を知るには 一人が必要です 試してみて下さい そうすれば 分ります またすべての先生が 私達の尊敬と崇拝 感謝に値します ただ何を学びたいかに よるのですね 英語を学びたいなら 英語の先生の所に 行きます 英語の先生だと言えば 少なくても彼は英語を 話せねばなりません 初日にABCを 教えられなくては なりません
そうすれば英語の 先生です 違いますか ですから皆さんが 悟りたいのなら そして先生が 「あなたが悟るのを 助けられます 自分の悟りを思い出し あなたに思い出させて あげられます」と言い それを示せるなら その人も 悟っているのです 非常に簡単ですね スプリームマスター 空腹な人でも 仏陀の 悟りを得られますか ええ 出来ます まず最初にほんの少し お腹を一杯にして おきます いいですね そうしないと 腹ぺこ仏陀になります あなたは天国と 地獄の存在を 信じますか もちろんです それら 全部見た事があります マスター 神を定義 できますかどうしたら 神を見られますか 見られます大丈夫です でも 定義できません 神を見られます 私が皆さんに 神の見方を教えます
悟りを開くには貴方が ヒマラヤでされたよう 仏陀が家を捨てたよう 平穏な場所を捜索して そこで瞑想しなければ ならないのでしょうか そうともそうでない とも言えます 仏陀は開悟する前 もちろん家を捨てねば なりませんでした 彼は困難な状況に あったからです 彼には五百人の妻と五千人の召使いと いつも世話を焼く 両親がいました 彼をどこにもやらず どんな霊的な事も させませんでした 家を捨てはしないかと 心配したからです 彼は逃げねば なりませんでした 王宮に住んでいたなら 彼が仏陀であると 思い出させてくれる マスターには 会えなかったでしょう 外に出て探さねば ならなかったのです しかし悟るために 私たちは家を捨てる 必要はありません
皆さんは依然 夫や妻や親と一緒に いられるです 皆さんのする事をし 仕事をし 生計を立てて下さい ただ自分の家で瞑想し 在宅仏陀に なってください 皆さんのマスターが ヒマラヤにいて 降りて来なければ そこに行って 探さねばなりません 降りて来て家や町で 教えてくれるなら どこにも 行く必要はありません ヒマラヤに行くのは 危険です 私はそこに行き 家に持ち帰りました ですから皆さんは 行く必要がありません
なぜ 人は生まれ 人は死ぬのでしょうか また今年二〇〇〇年に 全世界が消滅すると 言う人がいます はい その事を話して下さい 私はすでにロンドンで 言いました 何も起こりません なおも側にいますよと なおも側にいます それは言った通りです 五月だったと思います 二〇〇〇年について 同じ質問をした人が いて 私は言いました 何の問題もありません 騒がないでください 何の問題もありません そして何の問題もなく なおもここにいます ありがとう 神様 単に 数百年前の ある予言のせいに すぎません
人々はこうした 予言を読み 世界の終末を 心配したのです もちろん終わっていた かもしれません しかし沢山の人々が 霊修行をしているので とても沢山の団体 沢山の祈り手がです そして 私達もまた 霊的なメッセージを 世界の隅々まで 広めてきましたので この霊的エネルギーが 世界の否定的雰囲気を ある程度中和する 助けになるのです 私達は大丈夫です そのために将来世界を 更により良い天国に するために 加わって下さいと 呼びかけているのです ありがとうございます
スプリームマスター 瞑想に適正な時間は いつでしょうか 適正時間はありません いつでも出来ます しかし 最高なのは朝です 夜 静かに 休んだ後で 朝は より穏やかですから でもそれ以外 慣れればいつでも 瞑想します バスや飛行機の中でも 畑や公園でも 問題ありません いつでもです マスター 観音法門は 新しいものではなく 太古からネパール人や ヒンズー人によって 修行されてきたと ええ そうです それは正しいです 何も新しいものは 教えていません 人生は何でもなく ただ悲しみと苦しみの 海にすぎない だから続行するよりも むしろ人生を 終わりにした方がいい 何を言うのですか
しかし 肉体的に死んで 問題から逃げるよりも 開悟した方がいいです 私達が悟れば 少なくても 死んだ時 私達は開悟した 幽霊になれます はい こんにちは ナマステ あなたの愛はキリスト の愛と同じですか ええ 唯一の愛だけが あるとしたなら それは神から来た 唯一の愛です 誰であれ 神を代表するものは 同じ愛を代表します 私達皆が内面に この愛を持っています ただ それをもっと 活性化させたいか あるいはしたくないか そうですね 知識と智慧には どんな違いが ありますか 大海と波にはどんな 違いがありますか
知識と智慧の 違いですが 知識は私達が学んで 得るものです 智慧は元々のものです 学ばねばならぬ物でも 決して失う物でもなく ただ忘れているのです 再び思い出せて 誰も 教える必要ありません これが 印心時の 共に瞑想する時の 沈黙の伝授なのです それが 皆さんが 家で瞑想して 得る智慧です 皆さんが仏陀である ことを思い出すのです それが智慧です 知識は 例えば今 私が 皆さんに話をしていて 皆さんが私に質問をし 私が答えます
皆さんは道について 少し理解を得ます それが知識ですが これは究極のものでも 本物でもありません 本物は皆さんの 内面にあるものです どの神に従ったら いいか教えて下さい 仏陀に従っている人も シヴァに従っている 人もいます サイババに 従っている人もいます しかし神は唯一無二で あると言われています それは何でしょう 神は唯一無二です それらは神の使者です 彼らもまた神なのです 彼らは 神と同一体だからです 仏陀が 神と同一体なら 彼も神です しかし神の一部です でも彼はすでに仕事を し終えましたね
ですから自分の本性を 思い出したいなら すでに思い出している 人から学びたいなら より縁がありより信頼 できると感じられる マスターを選んで 下さい この人こそ 私の求めてた人だと 感じられる人をです 一人いれば十分ですが 在世の人を実在の人を 見つけて下さい そうです ありがとう 今の在世のマスターを 探して下さい そうすれば過去の マスターも持てます では兄弟姉妹お父さん お母さん仏陀の皆さん おやすみなさい
ようこそ 神に祈りましょう 今宵がうまく行き 私達がこの人間の体 この道具を通じて 神からの多くの 恩恵を受けますように アーメン 神に祈りましょう 全能の神 最高の仏陀が 私達の世界を祝福し 毎日がもっと平和で ありますように 平和は私達から始めて ありがとうございます
皆さん来てくれて 嬉しいです こんなに 来てくれるなんて ここに来る車の中から 燦々とした太陽と 買物に忙しい多くの人々があちこち ドライブしているのを 見ました 本当に素敵な日でした たぶん誰も来ないか 二、三人しか来ないと 思いました 私を含めてです ある計画をたてました 私が中に入ったら その二、三人を誘って その二、三人を誘って コーヒーショップに 行ってお祝いしようと 今日仕事がないことを 祝おうと思いました けれどもこんなにも 来てくれて ええ やはり 心の中で祝います 私達の多くはまだ神を 求めていることをです いいでしょう
では一緒に仕事を 一緒に仕事しましょう 神を求めることは 個人の仕事ではない 仏陀になることも そうです 神を求めることが意味するのは 仏陀になること キリストになることで 仏陀やキリストの ようになるには 多くの条件が 要求されます 例えば その個人が 神または 成仏を探し求めるには 非常に切望していて 非常に誠実でなければ なりません 仏教では 「成仏」は 最も高い境界に到達し 神と一体に なることです 仏教では神を 阿耨多羅三藐三菩提 と呼びます 阿耨多羅三藐三菩提 とは 最高の神を意味します
キリスト教では 「全能の神」と言います 名称は異なりますが 意味は同じです ある個人が 神または 阿耨多羅三藐三菩提を とても切望していれば 最高の神に到達できる 方法を知るべきです 私達はたいてい 礼拝または崇拝の形で しています 仏教では お寺に行って 仏像を拝みます そして数珠を このように教えます 仏陀の名を 唱え続けながらです 唱えられる仏陀は 沢山あります 一年経っても 仏陀達の名を 唱えきれません キリスト教に沢山の 聖人がいるように 聖フランシスコ 聖マリア 聖ホセなど そうですね
同様に仏教では 同様に仏教では 沢山の仏陀があります しかし 仏教とキリスト教での 聖者と仏陀に関する 定義は 少し異なります 仏教では 誰かが仏陀になったら 彼は全能の神と一体に なった事を意味します キリスト教では 聖人はたぶんまだ神と 一体になっていません そうではないですか 聖人は聖人で 神は神です でもそれはただの 誤解かもしれません 聖人にも色々な レベルがあります イエスキリストの様な 聖者は神と一体です 彼は言いました「私と 私の父は一体である」 「私を通さない限り 誰も天の父には 到達できない」と ある意味で 彼は仏陀に似ています 最高の神と 一体になっています 仏陀も言いました 「仏陀を 見つけない限り 解脱できない」 聖パウロも同様です
彼は「私は生きるが 私ではなくキリストが 私の中に宿る」 なぜなら「宿るのは キリストで私でない」 イエスも同様で彼は言いました 「私ではなく 天の父がしています」 キリストとは天なる 父からのパワーです 仏陀のパワーは キリストのパワーと同様で すべて 同じ源から来ていて 体という道具を通じて 世界に利益をもたらすために 使われます まるで 二本とか三、四本の 電線のように 外見から見ると色が異なりますが
中には 電気があります 同様に 同じ源から来ています 仏陀やキリストになり キリスト意識 または 仏陀に到達するには 先ず神への真摯な 切望が必須です 神は私達に内在します 皆知っていますが 神を見つけることは とても難しいです 非常に矛盾しています 神がここにいるなら なぜ見つからないのか 実際あまり難しくなく 私達は神が 内面のどこにあるか 知らないだけです 私達が家にお金を 置いていることとか 親がお金か金を 家のどこかに隠すのを 知っていても その場所が 分らなければ 見つかりません
誰か 父親が金を隠した 場所を知っていたら もちろん 私達はすぐに 見つけられるでしょう キリスト 仏陀は 宝を発見した人達です 彼らが発見した後 彼らが発見した後 他の人にもその情報を 他の人にもその情報を 共有しました そして 彼らの恩寵により 例えば仏陀とキリスト 聖パウロ 聖ペトロ 聖シモンなども 神の国を見つける ことが出来ました 仏陀の加護が あってこそ 彼の弟子 阿難 摩訶迦葉等も 神の王国を見つけ 仏陀になったのです イエスは言いました 「私達は皆神の子です」 仏陀も 彼は知覚ある衆生と 同等だと言いました しかし私達と 仏陀とキリストとの 違いとは 彼らは彼らのパワー 彼らの神 彼らの 天国を見つけましたが 私達はまだだからです
神の国は いつでも 見つかるかもしれず その場所さえ分れば 神を見つける方法は 一つあります 多くの事に やり方があるように 神は決して私達が 神の国に戻るのを 禁じていません 神は既に様々な 「道具」を私達の中に 植え付け 欲しい時 いつでも神に連絡が 取れるようにします しかし 時々 その道具は 使われません ですから 私達には神が見えず 見つからず あるいは 連絡出来ないのです 私達の家に ラジオがあるように 開けなかったり どう開けるか 分からなかったら ラジオ局からの 番組を受信することが できません
誰かその使い方を 一度教えてくれれば 毎日使えるでしょう 時には 私達は幼な過ぎるので それが使えません 使い方が分りません 他の誰かに教わったら 使えるようになります あるいは私達は以前 使ったことがなくて まだ新品だからか 以前ラジオを持って いなかったから その 使い方が分りません 私達は多くのことを 忘れています この世に 滞在している間に なぜならこの世には やる事が 沢山ありすぎて 生きるために 乗り越える奮闘も 沢山ありすぎるから 私達のラジオ 私達の楽器を使う 時間さえありません
しかし実際 私達はずっとそれを 使わねばなりません 少しでも十分です 今 私たちがただ ラジオの隣に立って つまみを開かないなら 何も受信することが できないでしょう 私たちがそこに立って 叫ぶか 悲鳴を上げて 「なぜ放送局は働いて いないか」と言うなら それは無駄です それは放送局の せいでなくて 私達が 開かなかったのです それで 私たちが神に 祈っては 神が答え ないと思うならそれは 神のせいでありません それは私たちが自分の 受信機を開かなかった だけで それで 神と一つになることが できません この世界に「電話」が あるように 私達は 神に電話できます ただその電話は 電線がないだけです
目に見えない電話です 時々 人々が海中に 潜水する時 彼らは ボートに連絡するため ある種の接続装置を 持っているかも しれません 彼らは上から情報を そして ここ下から 情報を聞くために 時折 それを 使わねばなりません 海の中に深くもぐって 連絡がない場合 時には危険なことも あるでしょう さて聖書には キリストが私達に 公開した多くの 秘密のものがあります そして仏教の経典でも 同様です 例えば 聖書に 神の声は 雷のようで 雷の音のようで 多くの水の音のよう だと書かれています
神は大きな炎のように 輝き立っている 神は大きな炎か 火のようである モーセが神を見たとき 一種の大きな光の中 大きな火の中に見て 聖書では また他の 誰かが大きな炎の中で 神を見たことについて 同じ事を示しています それは どの時に 私たちが神を見るか 神と接触しているかは 重要でないことを 意味します 体験はどんな時期でも 同様です 仏教 または仏教の経典には 蓮華経と呼ばれる 一つの経典があります それにもまた 雷の音 多くの水の音 海潮音のような 仏土の音を聞くことが できると示しています
ちょうど聖書で言う トランペット等の 音を聞けます また仏陀は大きな光を 持っていると言います 「仏陀」は「光を持って いる」という意味です それで神が光を持ち 仏陀も光を持つなら 両方は同じもので あるに違いありません そう思いませんか どちらも光があります 同様に見えるなら バラに違いありません オランダから来たか 英国か アルゼンチンから 来たか関係ありません 人々がバラを 自分の国か違う国で 育てても 同じものが 生産されるでしょう 私はイギリスで 同じ花を見ました オゥラック (ベトナム)で 同じ花を見ました
同じ植物を育てれば 同じ花を得るでしょう ですから仏教徒が 修行して光が見えて 雷の音トランペットの 音が聞け 多くの水の 音が聞けるなら クリスチャンの聖人も 炎と光を見る事ができ そして 雷のような音 多くの水の音を 聞くことができます 彼らは同じことをし 同じ地位に 到達するに 違いありません つまり同じ成功です そうでしょう また 聖書には 別の秘密があります それには 「始めに言があった」 と書かれています
「言葉」の意味は 振動 音です すべての振動は 音を生みます 「言葉は神と ともにあった 言葉は神だった」 ですから言葉を 聞いたら 神を聞いたことです 二種類の音 つまり振動が あります 聖書が言う言葉は この世界を 超越した世界の音を 意味し 普通の耳で聞こえる 音ではありません 私達が毎日話す 言語ではありません そうでなければ聖書に 「初めに 人々は人間の言葉で 話していた」と 書かれたでしょう 違います この言葉は振動です 仏教の経典でも 同じことを 言っています それは 「仏陀は音流に頼って この世界に 降りてくる」と 言っています
「凡夫はこの音流 この振動の流れに 頼って家に帰り 神の王国に帰る」と 言っています これで古代の マスターが明かした 秘密が少し 分かりましたね つまり 私達は家に帰るため 神に繋がるため この言葉 つまりこの音流に 接触しなければ ならないのです 家にラジオがあり ラジオの電源を 入れれば ラジオ局に 繋がるのと同じです ラジオ局に行く必要 さえなく ラジオの 電波はどこにでもあり 遠くまで届きます 神も遍在し どこにも神がいます
ですから 唯一の問題は いかにこの言葉 つまりこの音流と 接触できるかです 方法が分りますか (いえ)分りませんか
(祈り)祈りですか 献身的に 誠心誠意で祈り 極めて深い 意識レベルに入れば その音流が聞こえる 時があります そうすると 神の音が聞こえ 光が見えるでしょう 仏教の経典に 阿弥陀仏経というのが ありますが そこには 真摯で献身的に集中し 一日 二日 一週間 二週間 あるいは 何週間も 阿弥陀仏の名前を 繰り返して念仏すれば 阿弥陀仏が見えると 書かれています ですから 非常に真摯に 集中して祈れば 時には 音が聞こえ 光が見えることも あるかもしれません 毎日真摯に祈れば 毎日光が見え 音が聞こえるかもしれません
でも耳で聞くのでは なく 内面の存在が 聞くのです 一種の深いサマディー 深い禅定に 入るのです それは無意識という 意味ではありません 深い禅定は 無意識ではありません 意識朦朧 恍惚状態 ではありません はっきりした意識の 中で聞くのです そのとき 深く祈りの中で あまり外の世界を 余り外の世界を 意識しません でも神に繋がるため 祈りよりもっと良い 方法があります 実際すでに神と接触し 神がどこにいるかを 知っている人が 私達の中にいれば その人に教われば いいのです そうすると 私達は 毎日神を聞き 神を 見ることが出来ます
これがイエス キリストが彼の弟子と その時代の人々に 教えたものです 仏陀も ムハンマドも 老子もソクラテスも 同じです 今 私達の時代にも このような人がいます 彼らについて しばらく学び 勤勉に修行すれば 私達も キリストのように 仏陀のようになれます 神と接触し神と一体に なり宇宙と一体になり どこにでも存在する ようになります キリストがキリストに なれたのも 仏陀が 仏陀になれたのも こうしてなれたのです ですからイエスは 「私は天の父と一体だ」 仏陀は「私の中に 仏性があるのと同様に すべての衆生には 仏性がある」と 言ったのです 老子は道徳経の中で 「万物は一体である」 と言いました 全宇宙は一体です
それぞれ異なる信仰の 貴重な経典の中から 多くの秘密と 多くの類似した見方を 発見できるわけです だから 彼らは皆同じ ことを教えていると 知ることができます 今 この時代に 神の光が見え 神の音が聞こえるよう 私達を助けてくれる 人がいれば 私達は正しい道を 歩んでいると 知ることができます この人は仏陀あるいは キリストと同じ教理を 教えていると分ります その人は仏陀あるいは キリストの弟子 あるいはその後継者 だと知るべきです 歴史上 いつもこのような 人々がいます 私達はこの人たちを 神のしもべ 神の息子と呼びますが
彼らは人類のしもべ 人類の息子でも あります 「息子」と言う時 必ずしも男性のことを 意味するわけではなく 神の王国では 性別がなく 性別の 違いはありません 男も女もありません 全てが美しく純粋です この世界のすべてが 神の半分の品質です 私達の内面に神がいる けど 外面は違います それは神の品性と 魔の品性が 混合しているからです 魔とは幻想のことです 聖書には 堕天使の物語があり 堕天使の物語があり 仏典には 幻想の王国 闇の王国という 魔に関する 物語があります 私達は真実と幻想の 混合体です 内面は純粋な魂で 外面はこの世界からの 物を借りて今のように なっています またこの世界から 沢山の概念を借ります それらの概念は神の 概念ではありません
神は自分の似姿に 全てを創造しています それは全てが輝かしく 美しくて純粋です 私達には想像しにくい ことですなぜなら 私達は物質世界にいて また神の世界にも いるからです 「物質世界にいる」 ということは 私達は肉眼で見て 低いレベルの意識でこの世界を 理解している意味です いったん 智慧眼が開くと 違うように見ます 真の世界と 影の世界を見分ける ことができます 子供の時 または 赤ちゃんの時のように 沢山の美しいものが あるけれど 私達は よく認識できません 美味しい物や 美しい物があっても 分かりません
両親が家にきれいな 女の子を連れて来ても 赤ちゃんの男の子は 無視するでしょう 彼女と 結婚することなど 考えもしません 十年か二十年 経ってから きれいな女の子を見て 考えは違ってきます 彼は鋭い鑑賞力を 示すでしょう ですからこの世界には 常に美女がいますが その赤ちゃんの考えが 変わっただけです 彼が幼い時にも きれいな女の子がいて 彼が大人になっても きれいな子がいます 物事の見方が 変わっただけです
実際 その男の子に 教える必要はなく 本能的に分かります 悟りを開くのも同じで 本能的に神が 分かります なぜなら 内面に それを認識する能力が あるからです 成長したらその能力が 目覚めます 従って 人が 開悟を求めるなら 彼らは既に 成長しています 神を彼らの 目の前に置けば 彼らは認識できます 少年と同じで 成長してから きれいな女の子を 連れて来れば すぐに分かります 好きになるでしょう ジョークがあります ある修行者がいて ある山で瞑想と道徳を 修行していました また彼は一人の 男の子を育ててました
その子供は孤児で 小さい頃から 育てられました 二十年間彼らは 山に住んで一度も 山から下りて人を 見たことがありませ 多くの修行者は そのようにしています ある人はヒマラヤから 一度も降りて来ません この世には何も彼らを 引き付ける物がないと 彼らは感じるのです 彼らは悲観的である わけではありません ただこの世に 執着してないのです 彼らの生活は とても簡素です 何があっても それで生活します
それで二十年間後 ある日 いわゆるマスターは その男の子を連れて 町に行きました 誰かを訪ねて そこで何かを しなければなりません とても重要なので マスターは山から 降りねばなりません とても重要なので 降りて来ました それで 下りてから彼らは 沢山のものを見ました その男の子は人生で 一度も見たことのない ものを沢山見ました 山では 猿や果物 木 滝や花などしか 見ませんでした
突然 美しい女性が 通りを横切りました それでその男の子は マスターに「あれは 何ですか」と聞くと マスターは 「いや あれは見るな 虎だ とても怖いぞ 見るな 見るな 見るな」と言いました マスターは少年を 連れて去りましたが 少年はずっと見て いましたマスターは 早く少年を別の通りに 連れて行きました 少年がずっと見つめて いたからです 彼らは用を済ませて 山に戻りました 家に帰ってお茶を飲み ケーキを食べました マスターは 何気なく 男の子に聞きました 「今日街で 色々見たが 何が一番好きか 話してみなさい」と 男の子は 「虎です」と答えました ですから分かりますね
私達も同じです まだ神を見たことが ないので 神の栄光に魅了され 陶酔することが できません 誰かが見せてくれれば 私達は とても自然に すぐ突然 本能的に知ります するともう 牧師やお坊さんや 尼僧さんや仏陀が 敢えて私達に 「神を愛せよ とか 仏陀になるべきだ 仏陀や神を崇拝しせよ と言うまでもなく 私達はそうします
聖書にこうあります 「悲しきは汝ら 法学者たちよ
汝は神を見ていない どころか人が神を見る ことをも妨げる」と これの意味することは イエスの時代でも 高地位の司祭は神を 知らないという事です 彼らはただお金を集め 大きな教会を建てて 多くの信者を持つ事を 偉大に感じるのです イエスを抑えつけ 傷つけようとして イエスの真理を 聞けなくします 人が自分達に 従わせるためです 民衆を操るのです 外的な儀式や 世俗的なやり方 崇拝の仕方などで 民衆を誤った道に導きほとんど 商売するのと同じです
釈迦牟尼仏は 悟りを開いた後 説法をしたく ありませんでした 誰も彼の話を聞かない と思ったからです 釈迦は言いました 「私が悟った真理は 奥深く 時間の浪費に なるだろう 凡夫に説いたとしたら 彼らは世俗の活動や 達成感に 深く没頭して いるからだ」と でも神 降りて来た ブラフマンが 釈迦にお願いしました 「どうか外へ出て 説法してください まだ完全に 盲目でない人も いるのです」と また当時は 多くの僧侶と司祭が 沢山の 形式的な儀式を作り 宗教を曲解したのです
そこでブラフマン 神がお願いしたのです どうか説法して下さい それで釈迦は出かけて 説法をしたのです このように真理を 説くのは大変です 本当に難しいです ですから イエスは たった三年半で 人々に殺されました 釈迦も四十九年間 苦心して説法しても 全インドの人が彼に 従ったわけではなく 仏典を読むと 釈迦が説法したとき 多くの天神や 神々や天使 仏陀 様々な衆生無形の衆生が来て 説法を聞いたと ありますが 人間は それほどいません もちろん 釈迦には沢山の弟子が いましたが インドの人口と 世界の人口に 比べたら大した 数ではありません
大半の人は 神と繋がっていません もしかしたら あるクリスチャンの 団体は瞑想をし 純潔で禁欲の生活を 送ったので 神を見て 神の声を 聞いたかもしれません また一部の 仏教宗派も 瞑想し とても純粋で道徳的な 生活を送ったため 仏陀を見たでしょう しかしごく少数です
なぜなら聖書にも 「見ずに信じる人は 幸いである」とあり 男性や 知的な人 非常に科学的な思考を 持つ人にとっては どうでしょう 彼らは毎週同じ 説教の内容を 聞くことに 満足しません 彼らはもっと多くの 証拠が欲しいのです でも実際 女性も男性のように 考えるべきです 私自身 そうしています 私はただ経典を読み 祈り 崇拝する だけでは満足しません 神を見たいのです 仏陀を見たいのです すると更に信じ 私は成功しました その後私は 誰かが神を見たいなら 見せることも できると思いました 男性も女性も同様に 神を見ることができ 誰もが 仏陀になれます 神は等しく すこしも 変わらない愛で 人間を創造しています それに皆さんと これを分かち合うのは 私の本意では ありません 私は誰かに 発見されたのです ある女神がある人に 私の事を教えたのです
観音菩薩という 女神です それで彼らが来て 私を連れ出したのです 私は三回発見され 三回目に出てきて 法を広め始めました 最初に 発見されたのは インドにいるときです まだ正式に 出家してないときです 私はガンジス河の ほとりを歩き 時々経典を求めたり ガンジス河にいる 聖人と会いました その中に私のことを 発見して 私について学ぼうと する人がいました
私はとても難しい 条件を作りました 例えば 朝四時に 私に会いにくること 河を渡ることなどです 四時には船がないので 来られないと知ってて でも一人来ました そこでガンジス河の 川岸で 彼に教えました
当時私は 自由が大好きでした マスターになんか なりたくは なかったのです そんな考えは 毛頭ありませんでした 二回目に 発見されたのは アメリカにいる時です 私はある寺院に 住んでいました いわゆる弟子の所で 当時 私はもう 尼僧でした そこに一年住んでいて 誰にも分かりません
彼らは私が毎日 トイレを掃除し 床を磨き 仏像を拝み朝晩勤行し しっかり食事も作って いるのを見ていました 一年後突然 大勢の人が来ました 彼らは仏陀がここに くるよう教えたと言い 私が仏陀を見つけ 神を見つける秘密の 法門を教えると導いて くれたとのことでした 私は「皆さんが 仏陀を見て仏陀と 繋がっているとしたら ほかに何を 求めるのですか それで十分です 仏陀がここへ来させた のなら仏陀と繋がって いるという意味で 大丈夫」と言いました 彼らは言いました 「いいえ 仏陀を 見るより 更に高い 法門と境界がある」と その人は ある教会の 伝道師でした
彼らは同じ教会に 属していて 彼女は「大修道女」で 一種の「聖職者」でした
彼女は 仏陀も見たと言い 仏陀がここに来させた と言いました とても驚くことでした
仏陀はずっと 人を送り続けました 三回も 四回もです それで後に 彼らに 私が知っている 法門を教えました つまり即刻開悟の 法門です それはその種の修行で 仏陀を見たからと 仏陀になれるものでは ないという意味です そしてその後 二、三十人が 噂を聞いて来ました
私は彼らに言いました 「すでに法門を 伝授したので 帰って修行できます」「私に追随する必要は ない」と言って フォルモサ(台湾)に 行きました そこで私は 小さな寺院に住み 隠遁しました とても小さな寺院で 一番後ろにある 山の裏の 小さな部屋で 誰も分らない所です その部屋は寺院から 離れた所にあり 私は一度も外出せず 一度も寺院に 足を運んでいません しかしある夜 大勢の人が来て また 私を見つけたのです 彼らは言いました 観音菩薩が 仏教で 最も慈悲深い女神が ここに導き何かを 学ぶように教えたと そこで数週間後 私は彼らにも教え それから休みもなく 沈黙に別れを告げ 静かな生活も終り それで忙しい日々に なっています
インド アメリカ フォルモサ(台湾) アルゼンチンへと 大旅行でした
これが本日私が ここに来た理由です 皆に知れ渡った からです
アルゼンチンや ブラジルに在住の人も フォルモサ(台湾)に 戻ってきて 私について学ぼうとし 印心を受けています それで彼らは 私をブラジリアに 招いたわけです
ですから私がここに いる間 神に関する事なら 私の知っている範囲で 奉仕したいと思います ただ皆さんの許可を 得た上でできます お金で人々を買収する ことはできません 神通力で人々を説得 させる事もできません どんなパワーも使わず 論理を使います 義務もありません 仏法はとても自由で 愛に満ちています 神の道も自由な 生き方で自由意志です でないと神は力づくで 家に連れ戻すでしょう 彼は全能で 何でもできますが 神は強要しません
ただ今また 使者を送り 私達に 思い起こしてもらい 「真の家に戻りたい 人を私が連れて帰る 私には方法がある」と その法門は 開悟したマスターが 教えます 神の委託を受けて 伝授するのです でも教師がいないと この法門は 重要でなくなります そこでイエスは 私がこの世にいる限り 私は道であり 光であると言いました これはマスターが 在世の時 道を示せるという意味 在世のマスターが いないと道も無意味で 道も見つかりません ご清聴ありがとう ございました
さっき貴方はイエスと 仏陀に言及したとき 一人は神の王国を 見つけ一人は見つけて いないと言いました そうは言っていません 二人とも同じです 二人とも神の王国を 見つけています 一人はそれを神といい 一人は涅槃と言います これと同じで 英語ではローズといい 中国語でメイクイフア と言います
聖霊について 話しましたが 聖霊とは 神の形態ですか イエスが言った 三位一体のことですか はい そうです 聖霊とは神のパワーを 意味します 神と子と 聖霊とですね 神は全能で 想像できない 計りがたいもので 神から神の子が 生まれます 神の子は神の パワーを持っています 神のパワーが 即ち聖霊です 私達にも聖霊が あります だから聖書では こう言うのです 「汝が神の神殿であり 聖霊は汝の中に宿る」 イエスは自身の中の 神のパワーである 聖霊を見つけた人で それで その神の パワーを通して 神と繋がれます またこの聖霊つまり 神のパワーを使って 人々を救い 彼らを助けて 内面の神の力を 見つけられるのです
ありがとうございます 凡夫はどうやって 悟りを開くのですか 彼らは生計のために 仕事をしなければ なりません
これはとても いい質問です 皆が仕事をします イエスを含めてです 開悟した後でも 働かないといけません 私達は 仕事を通しても 開悟できます 一旦神と繋がると どんな仕事でも神の ためである事が分かり 人類に奉仕することは 神に奉仕することで 家族に奉仕することは 神の子に奉仕する事で 神の子を通して 神に奉仕することです しかし開悟しないと このように考える ことは難しいです そう考えたくても できません 殆どの家庭は不和です 彼らは皆が神であると 知らないからです
また皆が 神の子であることを 知らないからです 髪の毛一本抜けても 神の意思であることを 知らないからです 聖書には全ての人が 神の子だとあります しかし人は毎日 これを読みながら 意味を知らないのです これは悟りが開いて いないということです 本当の意味が分かって いないということです ですから 開悟が必要なのです 生活様式を変えるのではありません
私はいつも忙しく 様々な宗教の本を 研究せねばなりません それで異なる信仰を 持つ人々を理解し 対話できるのです 私は働いて 稼がねばなりません ですから旅をし 人々を助け 貧しい人を助け 人々に私の知識を 提供できるのです 出家者達を 教えねばなりません 在家の弟子達を 教えなければならず 霊性上の問題や 要求に 応えなければならず 手紙による質問に 返事せねばなりません また色々な国へ行って 経の講義もします ですから私は皆さんと 同様に忙しいのです
誰でも仕事を しなければなりません この世界に対し 責任があるからです 両親や 国や 兄弟姉妹 友人 先生などの 恩に対し 報いるべきです 従ってこの世界で 働き続けるべきです でも十分の一の時間を 神と自分のために 残すことです この世界のためだけに この世界のためだけに 働くと 何も 得られないばかりか 疲れ果てます でも神のために 一、二、三時間働くと それこそ私達が家に 帰れるすべてです 問題は 私達は自分を 愛すべきです 例えば お腹が空いたら時間を 見つけて食べる事です
場所と時間を構わず 食べることです 病気になったら 薬をもらって 飲むことです 神を渇望し 本当に魂が 解脱を望むなら 時間を割いて満足 させねばなりません 瞑想とは神の教えを 聞くことであって 神秘的ではありません 神は人間の言葉で 教えるのでは ありません 神の言語 言葉 神の振動力で教えます それと光です それで一日のうち 必ず時間を作って 神と繋がり 天国の王国の秘密を 学ぶのに回すべきです そして毎日毎日 学ぶことによって 賢明になり 何でも 知るようになります 時間がないとは 言えません 誰でも時間があります それを願うのであれば 時間はあるのです
テレビを見て 新聞を読み 雑談し 電話する時間を削ると 実は沢山の時間が あるのです そうでないと あなたはテレビを見ず 劇場にも行かず コーヒーショップにも 行かないでしょう 大半の人はこうします 退屈だからです 時間があり過ぎて 暇つぶしするのです だから趣味を「時間を 潰す」というのです 最もよい時間潰しの 方法は神の存在の中で 最高の知識を 獲得し永遠の幸せを 得ることです いったん幸せになり 開悟すると全世界の 利益にもなります 以前この世界は今ほど 文明化していません モーセとイエスの時代 彼らは洞窟で 暮らしていました
しかし今は 私達にはテレビや ラジオなどあらゆる ものがあります この世界は大変 文明化されています これは皆多くの 修行者のお陰であり 世々代々において 高い意識レベルの魂の 加護による賜物です 彼らの慈悲と智慧と 光が世界を高揚させて 現在のような 世界に導いたのです 私達の加護も加わると もっと多くの人になり 多くの加護になり もっとよくなります 私達は感謝することを 忘れています そうです 最もよい感謝の方法は それら先人の後に 従うことです イエスや仏陀に追随し 神の王国を得る 修行をしてこの世界を もっと加護するのです
すると将来私達の 子孫はよりよい世界で 生活する事になります これは私達の責務です 同時に神やイエス 仏陀のような偉大な 魂に感謝する方式です なぜ貴方はこの法門を 学ぶためには菜食を しなければならないと 決めているのですか 誰がなぜ貴方を送って 教えさせたのですか
菜食は決める 問題ではありません 動物を殺して食べる ことは好きでないです 人が鶏や魚や 豚を殺すのを見て 心が痛みます 動物達の苦痛を見ると 心が痛むのです 肉を切り落とされる 苦痛を 知っているからです 私が決めるまでもなく 明白なことです 幼い頃から私はどんな 殺生も耐え難いのです 私は調和で愛に満ちた 生き方を好んでいます 牛が殺される時 もがき 鳴き叫び 涙を溢すのを見ると 彼らの身になって 思うだけで 耐えられません
菜食は実際 すべての衆生 すべての神の創造物に 対する愛の表れです
聖書で神は言いました 私達は 動物達の世話をし 管理すべきと 神は私達を信頼します
また神は動物は私達の 友達で私達を助けると 本当です 彼らは私達の友人です ええ馬は私達を 乗せて運んでくれるし ある馬と犬は 大変人懐こく 忠誠心があります 馬に関する物語も 沢山あります 彼らは飼い主のお墓に 行って何も食べずに 飼い主と一緒に 死ぬのです 犬もそうです 猫も同じです ドイツのある猫は 愛する飼い主が 家にいないと 何も食べません 飼い主を思うあまり 食べられないのです それにご存知のように 犬は私達を助けて 孤独をしのぎます ある人は 人生に愛が欠けて 誰も愛してくれない時 犬が彼らを愛します 鶏や どんな動物でさえ 飼い主を覚えています 飼い主を知っていて 飼い主になつきます ヨーロッパにいた時 イタリアとドイツにいた時 田舎に住んでいました 野生動物が やってくると私は 彼らに餌を与えました 彼らは毎日 正確に同じ時間に来て 餌を食べました
始めは用心しまたが 後にそんな様子もなく 私の手の平の餌を 食べるのでした 鳥や獣 色んな動物 猫もいました
ハリネズミもいます
私が時間通り来ないと 彼らは私のドアを コンコンと叩きます ドアをノックしました