天国は私達皆に あるからです 私達はそれを 知るべきです それが あらゆる 苦しみを終わらせる 唯一の方法です あらゆる無知に 別れを告げ 自らの偉大さを知り この瞬間より永遠に 天国の至福を享受する 唯一の方法なのです 戦争を起こす人 憎しみを抱いている人 他人に 苦しみを与える人は 神を知らないからです 天国からあまりにも 離れた所にいるから 自分の本源を完全に 忘れてしまっている せいなのです また 私達自身も 時には 私達の周囲や この世の環境などに 非常に苛立ちを 覚えることがあります 日々において 処理すべき 全ての事に対してです
私達もまた天国から 遠い所にいるからです 天国はすぐここに 私達と共にあるにも かかわらずです ほとんどの場合 神を知らなければ 宇宙パワーと 再び繋がらなければ 私達は自分の 頭脳だけを使って コンピュータのような 頭脳を使い行動します 上手く動くことも ありますし機能しない こともあります 従って私達は苦しみ 成功よりも 失敗の方が多くなり 愛よりも怒りの方が 多くなります だから 私達はこの生き方を 変えねばなりません 人生が天国になります
私達が偉大なる 宇宙パワーを使えば もちろん 私達は より強く賢くなります コンピュータ頭脳の 限定的な力だけを 使っていれば 当然 違いは 非常に大きくなります いったん天国における 自らの場所を認識し いったん宇宙パワーと 一体であることを 認識すると 神と一体と認識すると 私達のエゴは もはや存在しなくなり 万物と同一体になり 最高の知性と 一体となるのです 最高の愛全宇宙の力と 一体になるのです そうやって何でも 出来るようになり 私達は解脱します それで天なる父 わが主イエスが 私達に次のように 述べているのです 私がするが私ではない 私の天なる父がしてる 天の母と言い替えても いいでしょう すべての 霊性のマスターや 霊性の修行者が 主イエスのように 苦しむ必要ありません 彼は一度そうしました
と言うのは 当時 世俗の人々は 非常に無知であり この世の法も滅茶苦茶 だったからです 主が真理を広めたり 目覚めるようにと 人々に促すのが 非常に 困難だったのです また彼は マスターであったため すべての弟子の悪い カルマ(報い)に対して 責任があり それゆえ 彼は苦しみました しかし ほとんどの 一般修行者はこんなに 苦しんだりしません 私達は日々楽しみます
私達は天なる父の 加護を享受し 全ての古代のマスター 一同の加護を 享受するのです 私達はなお 宇宙に存在し サマディの幸福を 享受します 私達は自身の 肉体的存在の繁栄さえ より健康な肉体さえ 享受するのです より調和のとれた 家庭を享受します すべてにおいて 一般的なすべてが 修行者には至福です 神は慈悲深いので 私達は常に神と 一体だからです 私達の生き方には 二通りしかありません 一つは世俗で生活をし その存在だけを信じて いるものです もう一つの生き方は 神と一体であることを 自分で思い出すのです
神と一体であることを 見据えるのです そして その瞬間から 私達の人生は 完全に変わります そうであらねば いけません 今享受しているものや 私の上にもたらされた 全ては 私がまず神を 見出したからです まず神の王国を 見出しなさい そうすれば他の全ては 与えられるであろう これこそが 唯一無二の真理です 信じるべきです しかし 私達が再び繋がり 私達が神の王国の 一員であると 自分で思い出した後 神は 私達が 望むものほとんどを 授けてくれますが 私達の心は もはや これらの物質的所有に 囚われる事はなく それをこの世の慰めや それを必要とする 他の人に 役立てるために 使うかもしれません
でも私達の心はもはや そこに囚われません 私達の心は常に 神の 臨在の中に存在します 私達の心が主を 礼拝する祭壇なのです これより後ずっと 私達の肉体的存在での いかなる瞬間にもです 真の崇拝は主を 見た後で始まります 私達には唯一神だけ 私が単に主とか 神と言った時 私達が愛を込めて 最も偉大なる存在を 呼んできた名前すべて 含むことを理解下さい 私達が直に 神に対面しなくても 真の神を知らなくても もちろん 私達もまた 神を信じられます 神が存在することを 聞いていますし 神に祈りを捧げれば 神は応えてくれます
私達はそれが分ります 神が私達を助け 守護し 神が存在する ということで 幾らか 魂を慰められます しかし これは単に 感情的 心理的 霊的なものでは ないのです 真なる神の臨在を 本当に味わってません 直接的繋がりでもなく 直接的な知識でもない 例えば夫や恋人がいる と分かっていながら その人に一度も会った 事がないのと同じです 昔 古い風習では 結婚する前に 夫婦は会うことを 許されませんでしたが 彼らはある人と 結婚することは 分かっているのですが どのような 容姿の人かは 分かりません しかし 実際に結婚したら 結婚初夜から 全く違う話に なるのです 神を知ることは単に 神を信じることとは 違うのです 神を見ることが 本当に信じることです 神を知ることが本当に 崇拝することなのです 私達は 自分達が何を 崇拝し何を見ているか 分かるのです
どれほど長く話しても 関係ありません 神ではありません 皆さんが本当に 望んでるなら 真の体験を提供する 方が良いと思います そうですね
最初の質問です 伝達とは何でしょうか どう起こりますか それを受けた修行者に どんな利益が あるのでしょうか この世の言葉では 説明できるものが ありません だから 単に伝達と 呼ばねばならなく 一本の電線が 電気を もう一本に伝えるよう 一本の蝋燭の火が もう一本の蝋燭に 火を伝えるようにです 皆さんの内なる神が 誰か他の人の内にある もう一つの目覚めた 神を通して覚醒され それを 伝達と呼びます 単に説明のためでしか ありません それ以外 いわゆる印心中に 起こる物理的なことは ありません 皆さんの神は沈黙の うちに覚醒します 何かが存在しますが 目には見えません 神そのものが 皆さんの内なる神を 通して動き 神自身が神自身と 再び繋がるのです 実際に伝達される ものはありません
ただ この世の言葉に すべての霊的用語が 欠けているためです 質問は マスター 私が以前印心を 受けていたとして すでに習っている 呼吸法が 瞑想に差し障ることが ありますか もう一度印心を 受けるべきでしょうか 他の学校で 他のマスターから 同様の法門を 学んだことがあれば そこにいて下さい 再度 印心を受ける 必要はありません しかし 天界の光と旋律の 瞑想をしているので なければ 私達の法門を試して みてもいいでしょう ただ一度に 一つの法門だけです 混ぜてはいけません その時間はありません それに 二台の自転車に同時に 乗るのは危険でしょう マスター あなたは 神と直接の繋がりを 持つと信じていますか そうであれば この繋がりを弟子にも 伝えられますか ええ 信じています
この事は既に 無数に 証明されてきています 単に信じているのでは なくて 分かるのです マスター 質問が三つあります あなたは何に 瞑想しているのですか 痛み 不正 迫害の中で どう平安を 見出すのでしょうか どこでどのように 印心を受けられますか 一番目と三番目の 質問にはすでに お答えしていると 思います それで真ん中の 質問ですが 平安は常に私達の 本性の内にあるのです そして私達がそれを 忘れてしまったために 平安ではないと 感じるのです どれほど所有物が あろうと関係なく どんな状況に居ようと 関係ありません 私達はこの天性の 平安を思い出さねば 存在するのはそれだけ ですから イエスは 死と苦しみに 直面した時 困惑したり 逃げたり しなかったのです 彼は言いました
天なる父よ どれほど 私に栄光を与えて 下さっていることか 分かりますか それこそ思い出さねば ならない平安です この平安を思い出せば 私達には すべてが神の意志の 下に起こっていると 分かります このような事が起こる 理由と どんな利益が あるのかが分かります 見かけ通りではない 犠牲者は常に 犠牲者とは限りません 時に 私達人々が 私達の中の 最も偉大な存在が 自らの成長のために ある状況を創り出す ことがあります 真の犠牲者はいません 天国に上がり 宇宙で 機能する秩序を見たら 私達は神に対して 二度と不満を 言わないでしょう どんな状況に対しても 人生の一瞬たりとも 恩を感じずには いられないでしょう
聖典の中には 次のようにあります 「一本の抜け落ちる 髪の毛さえ神の意志で 起こるのだ」と 覚えていてください 黄金時代はいつ 始まるのでしょうか すぐここで 皆さんが 自分のために望んだ 瞬間から始まります でも 分かります あなたのおっしゃる ことが分かります 黄金時代には 二種類あります 一つはどんな時代の どんな時にもある 個々の黄金時代です もう一つは 全惑星の意識が変って より高い 意識レベルへと 移っていくことです その瞬間 全惑星が あるいはこの惑星の ほとんどの住人が 同じような至福の 意識を享受します それがこの惑星の 黄金時代と 呼ぶときです そうでなければ 私達一人一人は いつでも黄金時代を 手に入れられます 神と再度 繋がれば 神を認識するのにどう 禁欲は役立ちますか
すべての事が 神の認識に役立ちます 私達の目的や行動の 背後にある動機が 誠心誠意と 強い思いによって 作られる限り
初めのうちは 役立ちます あなたが 耐えられるならですが 耐えられないなら 時間とエネルギーの 無駄遣いで そのため 日々もがき苦しみます 神を思い出す代わりに 自分が避けようと するものを 思い出してしまいます どの道を歩むかの 選択は その人次第です 独身でいても 結婚をしても どちらでも構いません それはあなたの カルマ(報い)や運命 意志次第です またあなたが生まれる 前に この世界に 自分が歩むべく 印をつけた道なのです
降りてくる 選択をする前に みなさんは自分の 生き方を印して 来たのですから 違う風に歩きます 独身者が 神により近く 既婚者が神から より遠いという 意味ではありません それぞれが 自分の道を歩き それぞれが異なります なぜならそれぞれが 個別化した神だから その人は自分が何を しているか分かります たとえ今忘れることを 選んでいても 再スタートできます 分りましたか あなた次第なのです あなたがどう自分の 状況を処理できるか あなたがどのように 人生を印してきたか なぜ神は長時間かけ 人の祈りに 応えるのでしょうか それほどかかりません 私達の神からの 離別心が時間を かけているのです
この物理的境界の 時間という要素が 長く思わせるのです ご説明いたしましょう 私達が今体験している 肉体的存在を 体験するために 以前私達が神だった時 天国で神と一体で あった時 神として 私達はこの地球に この物理的存在に 時間と空間を創り それで神と離れる 体験ができるのです それで再び神と一つに なり その至福を 再び享受できるのです そのように 永遠に続きます 私達はずっと 新しい境界や体験を 創り出してきたので 神として 神の創造物として 再び思い出せるのです
それでこの境界に いる時には時間と 空間があり それで 物事を具現化物質化 するのに 時間と 空間が必要なのです 天国では すべてのものが同じ 時空に共存しています 離別などあり得ません 例えばここに 花があります 一つにまとめるのに 時間がかかりますか 全くかかりません 既に一つに なっているからです でも個々から一本 取り出し向うに置いた として この花々が 再び一つになりたいと 思ったら どれほどの 時間がかかりますか 一秒はかかるかも しれませんね 分りますか これが私達が 住んでる境界なのです すべてのものが時間と 空間により遮られます なぜなら 私達の 創造的頭脳が それを 望んでいるからです 今 私達はそれを すっかり忘れて しまっているのです 構いません 思い出せますから 観音法門の瞑想法を 修行すれば 皆さんはすべての事を 思い出します
なぜ皆さんに物事が 起こるのか 何を創り出したか なぜもたらされるのか なぜなら皆さんが それを創り出したから それで先程言いました 犠牲者は存在しない 私達に起こるすべては 私達の最高の 目的のために私達が 創り出したのです たとえそれが分らなく ても すっかり忘れて しまっていますから 忘れることを 選びました 我慢して下さい 死の瞬間 皆さんには これが分かるでしょう 観音法門を 修行していなくても 皆さんが望んだものは すぐもたらされる ということが分ります 常にそこにあるから 私達は常にすべての ものと共にあり すべてのものは常に 皆さんと共存してます
その時私達は既に 時空を超越します この世界から いわゆる天界へ 通過するその瞬間 私達は時間と空間を 超越します この体は時間と空間を 活性化させる 道具なのです それで私達が 望んだことはすぐには かなわないように 思えるのです 例えば 天国において どこかへ行きたいと 思えば ちょっと 考えるだけで 皆さんはすぐに そこに存在します 光速よりも速くです それで全ての 天界の衆生 亡くなった人々は 皆 考えることに 注意深いのです 良くない事は 考えるべきではないと 知っているのです
なぜなら 彼らが 考えたものすべては すぐに目の前で 具現化してしまうから ですが ここでは 例えば車が欲しくても 時間がかかります 車はここにはなく そこら辺にあります 私は先ずお金を作る 必要があり それから向うへ行って 値段を尋ね 書類に署名し 車を運転して帰ります 分かりますか 例えば そういったことです ですからここに座って 車が欲しいと思っても 神でさえすぐに 運んで来られません 時間が要るのですね それで神が私達の 祈りに応えてくれない と感じるのです いつでも応えています
ただ状況によって 後で来たり 今来たりするのです すべての宗教経典は 言葉 行い 考えを 常にきれいにして おくように 私達に 忠告しているのです なぜなら 何であれ 私達の考えや願いは 悪い事でも良い事でも いつかは 叶ってしまうからです でも この肉体が あるために すべての現実や すべての真理が 私達には 見えないのです 私達は何であれ することや 考えることを闇の中で 思ってしまうのです 誰も気がつきません 全てのものが 戻って来ます それゆえに キリスト教 仏教 ヒンズー教 イスラム教 ジャイナ教など 全宗教が 人々に 良い事をし 良い事を 思うように言ってます 皆さんがした事や 考えた事は何であれ 戻って来るからです 因果の法が どう働いているかが 分れば非常に怖いです 非常に怖いです 私達が本当に これらのものを 目の当たりにすれば もっと自分達の 考えや行動に 注意深くなるでしょう
時代を超えて 過去のマスターたち 預言者たちは 人類の 最大の力の一つである ゆるしについて 明らかにしてきました 十月七日木曜日の 智慧の言葉で さらに学んでください
時代を超えて 過去のマスターたち 預言者たちは 人類の 最大の力の一つである ゆるしについて 明らかにしてきました 本日の智慧の言葉で さらに学んでください
これらの規則は 私達を守り 状況を保護し 私達の平和を守ります 分りますか ですから この法律はよく社会を 守るためにあるのです 例えば 私達は盗みません 本当のことを言えば たとえ盗んでも 仏陀はあなたに 腹を立てたりしません どうして激怒しますか 仏陀は愛しか 知らないのです 怒りは知らないのです
スプリームマスター テレビジョン 十月十五日金曜日 スプリームマスター チンハイの講義 「戒律の真意」の 第一部は 智慧の言葉で ぜひご覧下さい
スプリームマスター テレビジョン 本日の番組 「戒律の真意」は 智慧の言葉で ぜひご覧下さい
誰でも仏陀に なることができます 仏陀とはなんですか 智慧のことです 例えば 科学は 私達が脳のたった 5%しか使ってない ことを証明しましたね 私達はまだ95%も 使ってないのです 使ってない95%を 発達させられたら 私達は仏陀になります そういうことです
スプリームマスター テレビジョン 十月十五日金曜日 スプリームマスター チンハイの講義 「戒律の意味」の 第二部は 智慧の言葉で ぜひご覧下さい
スプリームマスター テレビジョン 本日の番組 「戒律の意味」は 智慧の言葉で ぜひご覧下さい
私達がこの人生の 短い時間を使って 自身を霊的に高めれば 後になって 私達の生命は永遠に なります 悟りに おいて永遠になります
スプリームマスター テレビジョン 十月十五日金曜日 スプリームマスター チンハイの講義 「戒律の意味」の 第四部は 智慧の言葉で ぜひご覧下さい
スプリームマスター テレビジョン 本日の番組 「戒律の意味」は 智慧の言葉で ぜひご覧下さい
マスター地獄について 話されていませんが コメントして 頂けませんか
私達皆がその事を 分っていると思います なぜ地獄について 話さねばならないの 天国は私が提供したい 稀なる贈り物です 地獄はこの地球でも 既にどこででも 見ています 触れる必要はないです いつでも隣の人を 殴りたいと思えば それが地獄です 私達が様々な意味で 誰か他の人に苦しみを 与えてしまう時は それが地獄です 誰か他の人が 私達にそうする時は いつでも地獄です 私達が誰か他の人に 何か否定的な思いを 持つ時は それも地獄です 常に創り出しています 自分の考えに対して 注意深くなるべきです
質問ではありませんが とても素敵な内容です ヘレンという方から 「親愛なるマスター チンハイ どうか私を ぎゅうっと 抱き締めて下さい 本当に嬉しいです 南アフリカにようこそ 本当にありがとう ございます」 どなたですか ここにいらっしゃい アフリカへの象徴に 一人を抱きしめます いいですね 皆抱きしめられたいと 望まないで下さいね 時間がありませんから マスター 瞑想の成功の秘訣は 何でしょうか 誠心誠意の切望です 秘訣はありません 私達に準備が出来た時 ただそうするのです まるで 空腹時に食べるのと 同じです
秘訣はありません 古代の全ての教師達は 彼に従ったり 何かを学んだりする ように決して人々に 強制しなかったのです 人々に強制したり 訓練したりする 事ではないと 分かっていたからです お腹が空いているのと 同じようなものです ある人がこのように 鼻を塞いだら 何が 必要ですか 空気です それで神に飢えてたら 皆さんが欲するのは 神です それが自然現象です 何ら秘訣はありません しかし 役立つ方法はあります 集中方法を知れば 役立ちます それも皆さんには 簡単です 後には 習慣になります 少しも集中する 必要がなくなり 常に神を見ている ようになります 歌っていたり 運転をしていたり 他の人の事を考えてる 時でさえもです 友達が昨日お金か 何か無くしてしまった と考えてる時でさえ 神はそこに存在します
皆さんが何かに 集中するたびに 神はそこに存在します 今 私達が 集中したいと思うたび その方法が分からず 出来ません しかしその時になると 自然にそうなります
祈りと瞑想には 基本的な違いが ありますか それとも同じですか 瞑想は深い祈りで 最も真なるものです なぜなら 私達はすぐに直接 結果を得るからです 讃えたり話し掛ける時 要求するからです 「どうか神様こうして ああして これ下さい あれを下さい」と しかし瞑想中は 私達は何も 要求しません 神にお任せするのです 私達にはまた 神と直接繋がる方法が あるのです 私達は話し掛ける 代わりに 聞くのです なぜなら神は私達が 望むものを求める前に 知っているからです
神なのですから 私達は耳を傾けます それが瞑想です ただ座り私達のすべき 事を神に話して もらうのです それが 瞑想方法です 私達が神と繋がりを 持ったと感じられる 特定の瞬間が あるのでしょうか ある種の霊的な 振動力や オーラの 感覚というものが 人の周りや内側に あるものでしょうか ええ 神の臨在を感じ取る時 本当にそれを 感じますし それが判ります もちろん皆さんに 判るはずです 例えば 印心の最中ですが 皆さんは神の光を見て それで分かります それから 神の声を聞きます 神の旋律である 天界の教えです 皆さんは分かります
何ら間違いが起こる はずがありません ちょうど皆さんは 今 私の話を聞き 私の声を聞いてますが 私がここに居るか 居ないかを疑うような 過ちが起こり得ますか お分かりになりますか 私達には毎日 この神の臨在 神との繋がりが あるのです 印心後 私達は方法が 分かるのです とても簡単な事です それだけ 簡単です この修行をしている 古い修行仲間に 聞いてみて下さい 話してくれるでしょう 単に全ての瞬間です マスター 私は他のマスターに 印心を受けていますが 瞑想が困難です 何か示唆して 頂けますか 人が目を閉じて 集中したなら 何が起こるの でしょうか
そこにさえ 達していません 自分のマスターの所に 戻って印心を もう一度受けて下さい 彼に尋ね 彼と一緒に 居て下さいしばらく 彼と一緒に 瞑想して下さい それで 改善されます 手違いがあったかも 既に印心を 受けてると言ったのに 瞑想中に何が起こるか 分からないと 言うのですから あなたは神の光を見て 天界の音楽を 聞かねばなりません そういう事が起きます イエスや仏陀 ムハンマドや 全ての 古代のマスターに 会うべきなのです 自分のマスターに 内面で会い 新たな指示を教えて もらうのです
より良い生き方 天国への道について そういう事が 瞑想中に起こるのです まだ分からないのなら 印心を受けていないと いう意味です あるいは違う種類の 瞑想なのかも しれません あなたには上手く 機能してないから 別の方法を探すべき かもしれません それは起こる事の 一つの例にしか過ぎず 数えきれないほど もっとあります 一つの例に過ぎません 聖なる書物を読むのは どれくらい重要ですか その本に書かれている 真の体験について 更に知りたくなる為に 重要なだけです その後で真の体験を 知らねばなりません
読むのではなく 例えば メニューを 見たり あるいは 友達の手紙を 読んだ時に 「昨日私はこれと あれを食べてとても 美味しかった」と あっても そのレストランに 行って同じ物を 食べたいという気に させることこそが 重要です しかし そこに行って 食べなければ 単に 手紙は手紙でしかなく メニューはメニューで どうしたら 神の信奉者が 非信奉者に 神や無上の存在 究極の真理を 証明できますか 私は出来ます 後で ちょっと残って下さい あなたに証明します ここで見せられません 多面性の中にある 神は抽象的なもの だからです でも私は証明できます
内面で見せられます 神は現れます 神の存在を証明する 方法が二つあります 簡単な方法はこうです ご自身を見て下さい 誰があなたを創った? 自分が希薄な空気から 生じたと思ってますか 赤ちゃんがいるなら 母親と父親がいます この宇宙にはとても 沢山のものがあります どこかに創造主が 存在するのを 証明するのに それで 十分ではないですか いいでしょう 神は隠れているのかも しかし私は 神をお見せ出来ます 隠れている存在を しかし物質化された ものは私達です 神が物質的な形に 姿を変えると それが私達なのです
ここに座っている 神なのです こんな事を引起こした 神なのです いいですね でも 神は不可視の 愛であり 遍く行き渡っている 加護の力なのです 見るには不可視の 通路で内面に入って 行かねばなりません 物質の神を見たいなら ここに居ます どこにでもです 後ろにも 隣にも いいですね マスター チンハイ 南アフリカに来て 下さってありがとう それは神の意志でした あなたのメッセージが 自国の犯罪を止めて くれたらと思います 握手する栄誉を 得られたらと望みます どなたですか 今日の午後に 聞いた報告に寄ると 女性に対する暴力が 今週 ほとんど ゼロに近く 減ったそうです
最初の質問の答えです 二番目の質問ですが 私はいつも人々と 握手しますが 沢山の人がいる時は 皆と握手をすることが できません 例えば昨日ですが ヨハネスブルグに居て 皆さんと握手するため 講演の前に 出来る限り 歩き回りました 今日は大変美しく 見事なダンスを 披露して頂き 魅了されました
皆さんの愛に 感謝します 全てが神の意志なら なぜ印心や解脱を 求めるのですか それも神の意志 だからです 皆がそうすべき とは言いません 準備が出来ている人の 為に私はここに居ます 神の意思が命令して 準備が出来た人と なったのです いいですね 一人以上のマスターを 持つべきですか そうしても良いですか もちろん 望むだけ多くの マスターを持てますが 何のためにですか 高い境界へと導ける 一人の肉体を持った マスターで十分です そこで沢山の マスターとも学べます イエスや仏陀 好きな存在誰ともです 肉体のマスターは 内面にも存在します
ほとんどのマスターは 同じ事を教えます 一人のマスターが 観音法門を教え もう一人も 観音法門を 教えるとします 両方のマスターが 同じ事を教えるのなら 一人のマスターから もう一人に移る必要が ありません 一人のマスターへの 信仰心は霊修行に 非常に役立ちます マスターは結局 あなた自身がマスター であることを教えます それがマスターを 必要とする第一の 理由であり 収集品の ように沢山マスターを 探し求めないことです どうしたら 神との 霊的接触を絶やさず 続けられますか 印心したら 決して絶たれません 菜食者になるように どう助けて頂けますか いえ いえ 私は助けられません 私は日に一、二食しか 食べません 皆の分は食べられない すみませんね 神とは誰ですか なぜ 神は宇宙を このように 創ったのですか
内面の神に聞いて 最初に 既に 説明したように 私達自身が神であり 神と一つなのです 私達が あるいは 内なる神が あるいは 神が 別の個性へと 分かれるのを 選択したのです 沢山 神を体験し 多彩に創造物を 楽しむためです 分かりますか 常に神とこのような 一塊として 一つで あり続けると 何一つ 起こりませんね それで創造が 始まったのです 楽しむためにです 私だけがここにいて 皆さん存在しなければ ここで何もする事ない 何の交流や 体験もなく 互いに愛することも ないのです 私達が神だと 神の愛を知ることが 出来ません 私達が 神であることを 楽しむためには 神から離れねば ならなかった それが目的です 否定的な考えや 気持ちを追い出すのは なぜ難しいのですか 習慣だからです 次回 否定的な考えを 持ったら いつでも すぐ反対の考えに 置き換えて下さい いつでも この事を覚えていて 習慣になるまでです 全ては習慣です
繰り返し 行えるようになると 簡単になります 私の祈りが神に 聞こえますか 神が聞いていると どう判るでしょうか 最後に神を 見たことがありますか あるなら どんな体験でしたか あります 印心を受けたら どうですか それなら 自分で 体験できます 私が誰かに恋している 気持ちを また 相手が 私に抱く愛を どう説明できますか 分かりますね 自分自身の 神の体験を 得るべきです 神が人間の言語で 説明可能なら 神を探し出す必要が ありませんね 神が他の人によって 語られ得るものなら 神を知る必要が ありません 神の体験は あなたの人生で 起こり得る 最も素晴らしい ことであるため あなただけが 知るのです
神について 語れば語るほど 私は非常に もどかしく感じます もちろん私は神を見て ですから 教えられます 皆さんも 見られるようにです なぜ この世に 民族的多様性が 存在するのですか なぜ 沢山の 花々があるのです 違った種類の それが理由です 神は非常に芸術的で 全能であり 非常に美しく 色とりどりです それで神は私達を そう創ったのです 多くの花々が私達を 楽しませるようにです 多彩な人生のために 多様にしました それに関して 何か変ですか 一色だけで あるべきですか 神が黄色だけを 創り出すべきですか
皆が私そっくりである べきですか それで 面白いと思いますか どっちですか いいえ そうです 今 自分で答えましたね 神との接触は 修行すると 直ぐに起こる ことですか 印心直時に または 印心の後 家で いつでも起こります 私は皆さんに 集中の仕方と 心の静め方を教えます すると神を見られます 家でも行えます 最終的には 物質化や 創造する力を 得られますか ええ出来ます いつでも物事を 創り出せます いつでも物事を 創り出せます 何かを 考える度に何かを 創り出すでしょう そのような力はいずれ あなたの元に至ります
ですから 私達の考えることに 注意すべきです 良い事を考えれば 良い事が 私達に訪れます 悪い事を 考えれば 悪い事が訪れます 欲しい沢山の 良い物を考えている 瞬間 私達が 死んだとすると 私達が創り出し 望んだことすべてが 満足に 起こらなかったため それらを楽しむために 私達は再び生まれ 変わらねばなりません それで すべての マスターは物質的な 所有に集中せず 天国に財産を 所有すべきだと 忠告するのです つまり 私達は神の王国に 集中すべきであり 物質的な所有物には 余り気にすべきでない という意味です
そのため 超能力や 物質化することを学ぶ 必要がないのです 私達は人生において 常に創造力を 持っているからです 例えば 今この瞬間に あなたが死んだら 私が言ったことを 完全に理解します この制限された 牢獄から離れると 自由になります 同時にあなたの 魂はどこにでも 存在するになります 同じ瞬間に 多くの場所にです また どんなものでも 望んだものは 直ぐにあなたの元に もたらされます この肉体を 持つ為 私達は それが見えないのです それで私達は 考えることや 望むことに 不注意なのです 頭脳を上手く 制御していません 考えたすべてが もたらされると知れば 考える事に注意 深くなるでしょう 神があなたの全生涯を 決定されたのですか ご自身がマスターの 運命を選んだのですか すべては神によって 決定されました しかし繰り返しますが あなたは神です あなたが自身の運命の マスターでもあります いいでしょう 皆さんの愛と ご静聴に とても感謝します
主催者からマスターに 果物と献花を 捧げたいと思います それでは マスターについて少し ご紹介致しましょう 私達は今日この講演に 参加するためボストン から参りました 他に遠くから来た方は いらっしゃいますか どなたが遠くから 来られましたか どこから来ましたか ボストン 他にもいますか 誰が遠くから来ました ニューヨークですか ようこそ ボストンニューヨーク 他の都市からこの 講演会に参加する為に 本日来て下さった 方々がいますね
では私の体験を通した マスターを光栄にも ご紹介させて頂きます 一年以上前のことです ボストンのある友人 リエンヌ 歌手の ハタンの妹で 両者は マスターの弟子ですが 彼らが私に電話を してきて言いました 「フォルモサ (台湾)からの講演会を 行いたい人々がいて ヒマラヤで開悟し 在世の仏陀と 考えられている尼僧が 公開講演会をする 企画を組織したいと 考えているようです」 また彼らは霊に 憑かれたボストンのオゥラック (ベトナム)人が 祭壇のこの聖人の 尼僧の写真を見た だけでその霊は去って 行ったと言いました
おそらく過去に私の 専攻がコンピュータ 科学だったので 私の頭脳はまだ論理的 科学的な理由に影響を 受けていたので本当に 信じられませんでした 結局 私の友人は私に この公開講演会の 組織に加わってくれる ように要請したのです 私はこの組織を援助 するのは止めようと 決め 参加者とし訪れ オゥラック(ベトナム) 人の間で著名な その聖人の尼僧に ついて 誰が彼女のマスターで 祖国はどこで 両親は誰かなど こっそり探りました その後 私はその聖人の尼僧が ハーバード大学で 講演することを 知らされました
そして私がホールに 足を踏み入れた時 皆さんが見てるように 「スプリームマスター チンハイ」の語を見て 私は少し驚きました そして思いました 「なぜ無名な尼僧が 彼女自身のことを スプリームマスター チンハイと宣言する」 その日通訳者がいなく 友人は私に英語から オゥラック (ベトナム)語の通訳を 要請したのです 結果 気が進まないが 通訳者になりました そのために私はこの 聖人の尼僧の言葉を 注意深く聴く機会を 得ました また 彼女と観衆との間の 質疑応答も通訳する ことになりました
講演会場は ハーバード大学 法学部でしたので 法学部でしたので その観衆は 知的な面々であり 彼らは多くの仏教 キリスト教 神などについて 質問を投げかけました その聖人の尼僧は 明確で論理的に 返答をしました 私は彼女が質問に 答える度に蓮の花が 開くように感じました また観衆のメンバーの 多くが博士号取得者 つまり博士号を持ち ハーバード大の教授で 教鞭をとるような 人々でした 講演を聞いた後 その聖人の尼僧の 弟子になるために 印心の申し込みが ありました
最終的に私も彼女の 生徒になる申し込みを 行い彼女がどんな人か 気にしませんでした 誰の下で学んだか 出身国はどこか 彼女の背景なども それから無数の 彼女の新しい生徒達は 彼女について ニューヨークへ行き コロンビア大学の 講演会に参加しました 二日間 私がこの聖人の 尼僧に追従する間に 幾つか自分の頭脳に おいて論理的に説明 不可能な事が起きる ことに気が付きました 幾つか出来事が 他の場所で起きてたり まだ起きていない 事柄について この聖人の尼僧は 知っていて その詳細 ばかりか結果まで 先に知っていました
聖人の尼僧は非常に 簡素な生活でした 私達はニューヨークの 中華街にある倉庫の 一階と五階に 滞在しました 聖人の尼僧は床で眠り 更に簡単で非常に 薄い寝袋だけでした 私は心苦しく感じ 彼女は五階に何人かの フォルモサ(台湾)人の 弟子達と留まりました 私は出家者に対して 何か敬意が不足する 感じがしたものです でも私は後に彼女は フォルモサ(台湾)でも その様に簡素に暮らす ことを発見しました 彼女は寺院を建設する ことを推奨せず地面に 寝ていてテントで 生活をして全ての 彼女の弟子達もまた テント生活をしました
彼女の背景に関しては 外にある書籍に 記されています 私は少し参照したいと 思います 彼女はキリスト教 家庭に生まれ育ち 幼少時 彼女は父方の祖母と 寺院へ行きました 彼女は動物達に 深い愛情を持ち尼僧に なりたいと思いました でも彼女の家族は 許可しませんでした 十八歳の時 彼女は学業のため 英国へ渡り 後にドイツ人医師と 結婚しました 彼女は赤十字で オゥラック (ベトナム)の 避難民達の支援を行い 同様に他国の 避難民救災をも行う 仕事をしていました
彼女が働けば働くほど 無数の人々は助けを 必要とし増加して いくばかりです 彼女は仏陀の言葉を 思い出しました 「出家する事が最高の 功徳である」修道の 修行者が仏陀になり 全衆生を助けられると そのため彼女は夫と 離別する決心をして 尼僧になりました ヒマラヤのマスターに 与えられる 即刻開悟の その法門のことを 聞くと その聖人の尼僧は そのマスターから ダルマ(真理)を 学ぶためヒマラヤ行き バスに乗り込みました
手術を受けたばかりで 完全に回復してない にもかかわらず 開悟に到達した後 彼女はフォルモサ (台湾)へ行き 修行を続けました ある嵐の夜 一団のフォルモサ(台湾)人が 彼女を探しに来て 言いました 観音菩薩が彼らを この聖人の尼僧の元へ 行き観音法門を 学ぶように示したと いうことでした 後に 彼女は公に そのダルマ(真理)を 公開するに 至りました 体験に関していえば その聖人の尼僧からの 印心を受けて一カ月後 印心した 初めての日 恐らく私の頭脳は いまだに論理的でした
そして私は 他の瞑想の法門を 学んでいたせいかも しれません 何も 体験がなかったのです 私が光と音の 瞑想を行ったとき 他の者が 光を見ていても 他の境界の音を 聞いていてもです 最近になって 私は他の境界が聞こえ 白い光が見えるように なりました 仏陀もです 瞑想の後 私の体は 非常に快適に感じます 時々私は朝の二時とか 三時まで瞑想をします すると その朝 私は疲れることなく 仕事に行けます 法華経の 「ダルマの 教えの利益」の章でも この経典を唱える 人々が見たり聞こえる 多くの境界について 言及しています
私の精神面では 二週間後私にはもはや お金に関する貪欲さが なくなりました 人々がお金を稼ぐ話を している時 うんざりし聞きたく なくなりました しかし私の商売は 良くなり続け 以前より更に 良くなったほどでした 私の性欲は大幅に 軽減し十分の一か二に また癇癪も 数パーセントまで 軽減したほどです 霊性面で言えば 更に瞑想が好きになり 私の霊修行は 理論的部分より より実践的な修行に 傾きました
時々 私は自問します 「たった一カ月しか 経っていないけれども 私の霊修行は とても進歩した 聖人の尼僧に従う 弟子達で六、七年 経っている人々は どれくらいのレベルに いるのだろうか」と 会場の皆さん 私達の多くが 「彼女は仏陀か菩薩 または凡夫なのか」と 不思議に思うでしょう ある人々は私と同様に 尋ねるでしょう 「彼女のマスターは オゥラック (ベトナム)の誰 どこの出身故郷はどこ 両親は誰?」などです な
ぜスプリーム マスターの称号か」と しかし最も重要な 質問とは「彼女は 何を教えているか 彼女の教えは経典に 適合しているか 彼女に従い学ぶなら 私達はトントン拍子に 進歩するか 至福を得られるか 今生において 解脱に到達することが できるだろうか」です 私の個人の 過去数カ月の 体験によれば 答えは「はい はい ええ完全にはい」です 今日カリフォルニアが 聖人の尼僧の最後の 旅の停留所です 誠実な多くの弟子の 祈りによって 聖人の尼僧は ロサンゼルス サンノゼに立ち寄り 香港へと 旅立ちます 彼女は昨日到着した ばかりです
ブラジル コスタリカ などのアメリカから 彼女は元来ユーモアが ありドイツ人は彼女を 「面白い仏陀」と 呼びます 会場の皆さん 経典でも言うように 「真の仏陀の教理に 遭遇する事 開悟した マスターに会うことは 難しい」と 経典で言及している 優曇華の花は 二千年に一回しか 開花しないと されています 今日がその優曇華の 開花日です 私達はマスターに 敬意を払い 謹んで マスターチンハイを ご紹介致します 私は皆さん同胞と共に 暫しの間祈ることを お願いしたいと 思います
仏陀に菩薩に 私達のこの講演が 成功するよう加護し オゥラック (ベトナム)が全世界が 加護され私達がすぐに 真我に戻れますように 南無阿弥陀仏 ありがとうございます 私達は皆さんの ダルマ(真の教え)への 誠意と温かな歓迎に 感謝しています 私は昨日パナマから 戻ったばかりです 私はあまり眠っていず 不規則な食事によって 少し今日は疲れを 感じています 何か不足がある場合は どうぞお許し下さい 仏陀になった人の 意味は彼らの心が 仏陀になったことで 彼らの魂が仏陀に なったということです
彼らの智慧が源に 戻るということですが 彼らの体は まだ人間の体です 従ってしばしばそれは 疲れ まだイライラが 現れたりします 従って多くの人々が 時に私に尋ねます 「なぜ僧はそれほど 難しいのか」と 彼らが難しいという 訳ではありません 時に状況が特別であり 時に弟子が沢山の 質問をし過ぎるのです その質問は霊修行に 関連のない事だったり するので僧はイライラ させられるのです しかしこれらの僧が いなければ ダルマ(真の教理)は 恐らく消滅するの ではと私は恐れます 従って私達は 霊修行者を 尊重すべきです
それは私を尊敬すべき という意味ではなく 他の霊修行者も 尊重することです 私に対しては 既に尊敬などあえて 気にはしていません あえて何かを夢見る こともありません 私がただ恐れるのは 霊修行者として責務を 達成できないことです その理由で 私は講演をする前に 常に仏陀や天の加護に 祈るようにしています この講演が聴衆の 皆に恩恵を与えられ 貴重な時間を 無駄にしたり 誠実に真実を求め 努力する人々を 失望させないようにと 私はオゥラック (べトナム)語を長い間 話していませんから 錆ついています
講演の時には私は 英語と中国語だけ 話してきました オゥラック(ベトナム) 語を使うのは稀です 少し待って下さい 五分位で少し なじんできます 皆さんが来なかったり ダルマ(真理)を 聞きたくなかったなら オゥラック(ベトナム) 語を話す機会を私に 与えて下さらなければ 恐らく私は永遠に 忘れたかもしれません たぶん十年で私は 他のオゥラック (ベトナム)の言語を 話せなかったでしょう ダルマ(真理)には 多くの戒律が あります 凡人はそれらを 守ることが不可能だと 信じています
「厳格すぎる」と 昔 私が出家する前 私が剃髪をする前 出家者になる前 私は家で 修行をしていました 菜食を保持するのは 言うまでもないです これは簡単すぎます 簡単ですね 難しいですか 気にせず大丈夫です 私にとって生涯の 菜食は簡単です 皆さんの多くは少し 困難かもしれません 困難なのは食べたく ないからではなく 状況が強要したり あなたが菜食するのを 許さないことも あったり 口が強要したり食べる のを許さなかったり しばしば夫は 菜食が食べたくても 妻が料理しないとか 菜食料理のつくり方が 分からないからです 従って多くの複雑な シナリオがあります この世界に住むには 複雑でないことは 何もないのです
例えば 私は皆さんに 告白しますが 何が難しいかというと 家で霊修行を 行っていた時 ただ空に飛び出て行き 出家することは できなかったと 分かるでしょう 私は未だ戦い 自らの人間的な特徴と 習慣を克服するために 貫き通さねば なりませんでした ちょうど生まれた 時にはただ母乳を 飲むのと同じです 私達には他に飲食は 不必要です そして両親は私達に 肉 魚 米 何かを与え 始めました そして 私達が成長してそれに 慣れてしまいます そして私達は友人を 訪問したり 招待されたり いくらか飲酒し 飲酒に慣れてきます
またタバコがあり 「あなたが一服吸い」 「私が一服する」など 私達は喫煙に 慣れてしまうのです 一旦 習慣化すると 止めるのが困難です 生まれながら飲酒者 喫煙者ではないのです 従って 私達は知るべきです この世で私達がする 事は良くないことだと 単に状況が そうさせていると いうことをです 私達が悪習慣を 身につけたからで 私達が悪人ではなく 生まれながらにして そうではないことを 従ってこれらの理由や 判断で 私達には希望を 与えられます
自身を 再発見する希望を 無垢で純粋な部分を 私は自身を今 「コ」(尼僧の称号)と 見なすべきですか または「トイ」(私)と 「コ」(尼僧の称号) 「コ」なら 私が尼僧になって以来 私の立場からして それは果たされます 子供の頃から大人に なるまで私は稀に 「トイ」(私)を使い この「トイ」の言葉は (平素の私)です 私には難しく思えた 感じとして 分れ目があり距離が あるように感じます 愛情も伝えられない 感じがします よって私が子供だった 頃私は自分の名を表す 時には他者と話をする その時には 「コン」(娘) 「エム」(妹) 「チャウ」(姪孫) 「チ」(姉)を 使用しました
今私は仏教尼僧でただ 自らの仕事をします 自分自身を「コ」と 表し「比丘」の意です 私はあなたの叔母でも 伯母でもありません 皆さんは私達の両親で 兄弟で姉妹です 私達自身を「トイ」 (私)と表すなら 私達の両親と共に 更に場違いでしょう 私達自身を「トイ」 兄弟姉妹とするなら 距離がありすぎます それで私の立場を 状況に応じて適用し 活用するのです 分かりますか 私自身を「コ」と表す と考えないで「コ」 あなたの(叔母か師)で そうではないのです または自身をチンハイ と呼ぶべきですか
これもまた少し 不思議な気がします この期間の間私は この「仕事」を 請け負ってなく又は 霊性の師という仕事で 私は家で修行しました 菜食者であることは 言うまでもありません 通常私達がいわゆる 修行するとは 在家の仏教徒とは 私達は普通に修行する ことでしょうね 寺院へ行き 仏陀を崇拝します 供物を捧げ 僧たちへ 仏陀へ供養します 献花 果物 何でもです そして私達は菜食をし 家に帰ります しかしある日 私の初めての先生は 仏教徒の尼僧でしたが 私に五戒を守るように 強制しました
私は「なぜ 私は既に 菜食ですし 修行もしています 既に良いでしょう なぜ五戒を守らねば ならないの」と尋ね 彼女はこう答えました 「まだ不十分です 五戒を守ってこそ あなたは善良です」と その瞬間私達は戒律を 守るその時ですが 私達の恐れでも ありました 通常私達は自分は 大丈夫だと思います 毎日 私達は菜食をし 真の仏陀になり 仏陀を拝みに お寺に行きます 僧侶にお供え物を 捧げて あれこれ 布施をしますが なぜ戒律を受入れ なければなりませんか その尼僧は私に戒律を 強制的に与えました
長い間 戒律無しで 仏教徒でいるのは 正式ではないと 言われました そうですか それで私は言いました 「ええ戒律を受け入れ 私は冷静です」 それで私は戒律を 授かりました その儀式の間 僧侶は机をピシャッと 叩いて「ではあなたは 受け入られますか」 私は震え 後で私が 受け入れられないのを 恐れました こんな感じです 五つの戒律があります 私は本当に長い間 すでに菜食なので ただ続けます 最初の戒律は 殺生をしない これは簡単ですね
「私達は人を殺さない 動物を殺さない それでいいのだ でも他の人々は私達が 食べるために殺すのは 何も悪くない」 私達はそう考えますね 「私達は汚い仕事は していない 他の人にさせればいい それで構わないのだ」 だから第一の戒律は 非常に簡単です 私達は即「OK」です では二番目の戒律は 何ですか 盗みをしない 非常に非常に簡単です 簡単過ぎます 簡単すぎると思います では三番目の戒律は 邪淫をしない 邪淫をしない 非常に非常に簡単です 大丈夫 簡単ですよね ちょっと まあ簡単ですし 難しくもあります 構いません いいです 大丈夫です
目を閉じて 無視するだけ ええ 四番目の戒律は 何ですか 嘘をつかない 五番目の戒律は 酒を飲まない ですね(はい) そう 私は二つの戒律に 引っかかりました どこでひっかかったか 分りますか 私は主婦で髪を 巻いていました 私は直毛でしたので オゥラック(ベトナム) 女性は直毛なので 私は髪を巻いていた のです それで私は 嘘をついてる 人を 騙してると思いました 直毛だったので 可愛くするため 巻きに行きました 嘘つきだと思いました
それから私がまた 引っかかったのは 化粧です 顔色が悪かったので 化粧をしていました そうでしょう 黒や青色や 赤色を塗ってました 嘘だと思いました それでその僧侶が 三回目に尋ねたとき 私は黙ったままでした 僧侶は三回 尋ねたのです 一回目は 「できますか」 そしてこのように バンと叩きました 私はドキッとしました 再びバンと叩きました 誰もがそのように 三回答えました 分りますか そして戒律が正式に 与えられると みなします
つまり 決心を意味しています 僧侶が最初に尋ねた時 私は座って 考えていました 分りますね 二度目に まだ考えていました 三度目は 私は 黙ったままでした 私はすべての 要件を満たしていない 十分ではないと思って いたから戒律を授かる 勇気がなかったのです 幸いにも 高潔な尼僧が 私に話しました 去る前に尋ねました 「戒律を受けられない ならどうなるのですか 多くの戒律を受け入れられないのなら」と 高潔な尼僧はこう 答えました「自分が 受け入れられるどんな 戒律にもはいと言い 受け入れられないなら ただ黙るのです」 それで私は簡単と思い 中に入って静かにして いました 構いません その結果 私は二つに 沈黙し続けました 五つの戒律を授かる ことになった仏教徒が 二つの戒律の五つの内 二つに沈黙しました
では残りは幾つですか きっと他のも同様に 黙ったでしょうね なぜわざわざ厄介な ことに直面するのです なぜですか マスターは私にそう しろと強いったのです 尊い尼僧は 私がすでに菜食であり 法(真の教え)の仕事で 僧侶と尼僧を 大変助けたので 私が戒律を 受け入れなかったら 尼僧は面子を 失うからです 面子を失うと言われ たのです 分りますか 通常 私達オゥラック (ベトナム)人はそんな 特質ですよね 誰もがそうです オゥラック(ベトナム) 人に限らず 何でも 形式的なことが 好きです それで尼僧は尋ねます 「戒律は 受け入れたのですか 帰依しに行ったの」
そうですね 行く所は 何処もいつも尋ねます 「帰依しに行ったの どのマスターに 帰依を求めたの」 私達が帰依を しなかったと言えば どんなマスターも 得ていないことで 私達を 仏教徒ではないと 半分仏教徒 半端な 仏教徒と見ます それで「戒律を 授かりに行く」のです 私は沢山は 授かれないと すでに知っていました 私は冷静と言いました でもそう言っただけで 沢山授かれないと 知っていました まだ飲酒をしてました その頃 私は菜食でしたが お酒を飲んでもいいと 思っていたのです
菜食をして ワインを飲んで 殺生に係わってない そうですね飲んでも 酔うまで飲んだ訳では なく 私は当時まだ 結婚していたからです 夫は医師で 友人が沢山いました そして時々友人を 夕食に招いたり 私達が招かれたりで 私達がほんの少しも ビールなどを 飲まなかったら 私は お酒が好きではなく 飲むのは嫌いです でも彼らが 少し注ぐので 私達が飲まなかったら 彼らは・・・ 習慣はそんな感じ ですね
分りますか 西洋人や 霊修行者でない人は それが普通と思います 「少し飲んでもOKさ」 私は決して酔わず ほんの少し飲みました でも私が飲まないと 言ったら 私が家にいる時 何が起きますか 夫が私に飲ませるのを 恐れたり 乾杯が終わらないのを 恐れたり 飲むのを 止められないのを 恐れました その結果私は二つの 戒律に黙りました その時 私は 「戒律」の意味を 分っていませんでした 私は菜食は 良いと思っていました 私達が酒を 飲まなければ 良いと思っていました
または私達が 化粧をしない等のみが 真の修行者だと 思っていました 「私はまだ化粧を しているから 真の修行者じゃない」 ですが今思うと 少し違います 少し違うと思います 仏陀の最初の教え みたいに 何でしたか 殺生をしない そうですね でも私達が正確に サンスクリット語を 訳せばそれは 「非暴力」です 「非暴力」とは 暴力を 物理的な 力を使わないことです それで私達は非暴力は 誰かが私達を叩けば 私達はただ座り 受けるだけで みな血だらけになり 顔は強打されます ただ座るだけです
けれども法に 従っていません 法は人を守るためで 人が法を守るためでは ありません 例えば 暴力を 振るわないと言います でも誰かがやって来て わが子を叩いたり 所有物を奪ったり 妻や子を強要すれば 私達は黙って いられませんね 守るためにはあらゆる 力を使うべきです または溺れた人を 助ける時に 叩いて気絶させないと いけませんね 分りますか 叩いて気絶させないと その人は私達を 窒息させて死にます 溺れた人は 本当に生きたいので 誰かが来るのを見たら 私達にしがみつきます しがみついたら くっついてきて 私達は泳げません 泳げなくなって 両方が溺れます だから私達は後ろから ここを叩いて 気絶させるため 一打します その場合「暴力行使」 ではありません
最初の戒律はただ 憎しみや復讐の感情を 抱いてはならないと 知らせているのです それには私達は 異議はありません 私は少しだけ 理解しました 過去に 私は 戦わないなら 暴力を使わないなら 誰かが私達を叩くなら 座って撲殺されると 思っていました ですが まったく 暴力を振るわない 天の衆生や聖人が います 叩かれても ただ座り 仏陀 釈迦牟尼仏陀のように 死んでも構いません または観音菩薩が 何度も地球に 現れたとき 多くの 不正に苦しみましたが 抗議しませんでした
イエスキリストも 抗議しませんでした 私達が抗議しようが しまいが 悪いカルマ (報い)は残っています 私達がこの世に 生きていて いつも沢山善行をし 天や仏陀を 敬っても 苦しみがあり 転生 しなくてはいけません それで私達が 転生を避けたいのなら 私達は少し 高い方法をすべきで 仏陀と天と一体になる ということを すべきだと いうことです 仏陀と一体になるとは どういう意味でしょう 例えば 私達は仏陀や天と 繋がりますね どうやって 繋がるのでしょう 例えば 仏教経典ではこうです
「崇拝者と 崇拝される者は もともと 空であり静である 法(真の教え)と その応答は 想像し難い方法で 結びついている 宝庫の金剛座は インドラの真珠 十方の仏陀は その内に現れる 私の身体はすべての 仏陀の前に現れる その足元に礼をし 私は崇拝の中 わが人生に戻る」 仏陀と天と共に 私達がこの 「私の身体がすべての 仏陀の前に現れる」 境地のとき こう言えます その足元に礼をし 私は崇拝の中 わが人生に戻る つまり仏陀を明確に 見るということで その時に私達は 仏陀に敬意を払います
でもしばしば 私達は仏陀を明確に 見たことがないので 私達が 仏陀の功徳と 天を思い出すよう 木製の仏陀や 青銅の仏陀に 敬意を払います 仏陀が修行していた頃 教理の類や 仏陀の修行法を 思い出せば 私達は仏陀になれます それも構いません ダメではありません 時々 私は弟子に言います 私の弟子に教えました 木製の仏陀を 崇拝してはいけないと でも私は数人に 言っただけです すべての人に 適応していません 寺に行って仏陀を 拝みに行くのを反対 する訳ではありません 違います 違います
仏陀を崇拝するのは 寺によく行くのは 大変良いです でもある人たちには 頭脳がこの「仏像」に 非常に執着しています 分りますか だから私は言いました 「これらの仏陀を 拝むことにまったく 福徳はありません」 なぜならこの特定の人達の一団は 私が言わなかったら 自分達の先入観を 乗り越えることが できないからです 分りますか 彼らは仏陀とは 木像や銅像だと 思っています これは間違った 概念ですね 正常で知的な人には これを 受け入れられません
ですが 「それは仏陀だ」と 受け入れて 何でも持ってきて お供えしてその仏陀を 見つめる人々がいます 私達は仏陀の功徳を たたえ 自分自身に 霊修行を 思い出させるため 仏像にお辞儀をします そこに座っている 木製の仏陀に 執着してはいけません そうなら 各寺に 多くの仏陀があるので この世は 仏陀だらけです そして私達は 浄土を探しに行く 必要はありません 木製のを買って来たら それで十分です 私達が誰かが 菩薩や 仏陀 あるいは天の衆生に なったと聞けば その人達だけが 達せられると思ったり 釈迦牟尼仏だけ あるいは観音菩薩だけ しかいないと 考えます
そうではありません 法華経を思い出せば こう説いています 「どの時代も 多くの仏陀と菩薩が 真の法を守るために 現れる」 いわゆる 「トゥンディアズン スゥアット」 「地球から湧き出る 者」の観音菩薩は 真実が広く伝播されて 失われないように 守ります 地球から上がって来る その菩薩たちとは 誰でしょう 私達以外他にいません 私達の体は地球のもの そうですね 私達は地球から 生まれました 空から 落ちてきていません つまり 地上の境界に 生きることは そんなことです それが意義です
それで私達は 地球から出て来る 菩薩であると 明白に知ることが できるある種の方法を 見つけねばなりません あるいは少なくても 一緒に学べる 地球から出て来た 菩薩がいるかどうか 確かめねばなりません 仏陀はそれを明白に 言いました 私達は ただ木製の仏陀を 拝むことに時間を 費やせますか そうですね 仏陀があらゆる時代に 現れると約束した 生ける菩薩を探す 絶望をなぜ 抱かないのでしょう その菩薩たちは ガンジス川の 砂のようです 「ハンハサソ」とは ガンジス川の砂と 同じ量のようです
私がインドに行った時 ガンジス川が大きくて 非常に長いことに 気付きました ですからその砂の数を 全部数えれば どれほど長いかが 分ります 見に行かないなら どんなに無駄か それで仏陀はすでに 大変明白に言ってます ですが いったん それを見つければ 仏陀の言葉の 意味を理解します 仏陀の意味することは あらゆる時代に 常に菩薩になる 感覚ある衆生が いるということです あらゆる時代に 常に仏性があります 仏性は決して 消えません 私達には千分の1秒 必要なだけで 何か秘密の方法を開き 私達が即座に本当の 自分を知るのです