智慧の言葉
 
The Subtle Traps of Maya Part 1 April 26, 1989 - Formosa (In Chinese)    Part 1
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こんばんは 皆さん こんばんは 皆さん もう一度目を閉じて 神や仏陀がこの集会を 加護して下さいます ように 祈りましょう 講演会の後 皆さんが 神や 仏陀から最良の利益を 得られますように ありがとうございます マレーシアの弟子と この会のために 尽力して下さった 全ての方々に 心から感謝します 心から感謝します 全て円滑なのではなく 沢山障害がありました しかし私達は 物事が簡単に行くとは 期待していません 特に今回 初めて マレーシアに来たので

ですからこの会は 十方の仏陀の恩恵に 十方の仏陀の恩恵に よるものなのです よるものなのです ですから私は本当に 嬉しく 神や仏陀の 加護と恩恵に 感謝しています 少なくても二日間 皆さんの光輝く顔を 見られ 皆さんの愛を 感じるこの機会を 得られたのですから 昨夜 私達は 成功裏に会を終え 成功裏に会を終え 話し合いを終えました 今日もまた同様である ように希望してます では今日も 私が学んできた事 私が学んできた事 悟ってきた事から 話し始めましょう その後で 皆さんからの いろんな質問に お答えしましょう 昨夜の質問で まだ答え終わってない ものも含めてです そうすれば 私達皆が 共に良き話し合いをし 忘れ難い時を 過ごせるでしょう 神のご加護を 

今日は再び 昨夜の続きから 始めましょう 昨夜 多くの人が 同様の質問をしました 「正しい瞑想方法」に ついてです 昨夜 私は次のように 説明しました 皆さんが 瞑想方法と それを教えてくれる マスターを選び しばらくして その方法や マスターが 皆さんの慈悲心や智慧 皆さんの慈悲心や智慧 心の平穏さを成長する 手助けとなれば それは正しい瞑想だと いうことです また 多くの人が 私に尋ねました マスター無しの 正しい導き無しの 瞑想は何か問題を 起こしますか と 着魔するか と言う人がいました 霊に妨げられ精神的に 障害を受けることです 「あります 本当です」

私の仕事は私に助けを 求める人すべての 面倒を見ることです 警察官のようです 彼には 家族や友達や 子供の保護を求める 誰をも守る 義務があるのです 解りますね ですから どの国でも 様々な人々が 様々な仕事を 専門にしています 例えば医者は 病気でやって来る人 全ての面倒を 見なければなりません 警察官は保護が必要な 人は誰でも保護せねば ならないというように どんな人々でも守る 特別な人々がいます 特別な人々がいます 例えば 赤十字がそうです ご存じですね

二国間で 戦争が起こると 赤十字は こちらの国で 負傷兵が出たら世話し あちらの国で 負傷兵が出たら 負傷兵が出たら またその世話もします 誰が良いか悪いか 誰が良いか悪いか 誰が良いか悪いか 正しいか否かではなく 正しいか否かではなく 負傷し 困っている人全員の 世話をします 同様に ある衆生が存在します 人間 天使 仏陀 菩薩かもしれません 菩薩 彼らは 助けを求める万人の 面倒を見ます それが与えられた 仕事だからです 解りますか あなた自身もこの種の 仕事に志願できます

私一人が出来る訳では なく皆が出来るのです 観音法門を 修行する動機は こうした存在になり 必要とする誰をも 助けられる 存在になるためです いつでもどこでも 人種 国籍 宗教 信念を問わず 何の差別や条件もなく 助ける存在に なることなのです 幸運にもこの世界には こうした衆生が 沢山います 時々彼らのことを 耳にします しょっちゅうでは ありません 彼らを知るのは 非常に難しいです 過去世や今生で 非常に高徳な功徳を 積まねばなりません

例外として 毎日 誠心誠意に 神仏に加護や 導きを祈り求める 導きを祈り求める ことです 他の人を救うのを 専門としている 人や衆生を 知ることができます はっきりしましたね 何一つ神秘はないです お解りになりましたか 単に違う仕事なのです 単に違う仕事なのです 大抵の仕事は 報酬を伴いますが この仕事にはなく 沢山あるのですが 沢山あるのですが 迫害 叱責 障害 という形や多くの とても素敵なもので 支払われます

この種の仕事を する人のほとんどは 非常に重い報酬を受け 障害やカルマの重荷 障害やカルマの重荷 多くのひどい名声 だったりします しかし彼らは 行く先々で人々から 多くの愛も受けます 彼らと縁ある人は 彼らを 愛するのです 彼らを信じ 利益を得る人は 彼らを愛します その力を信じない人 その力を信じない人 この宇宙での その地位を 理解しない人々は 疑って面倒を起こし 例えばはりつけにさえ するかもしれません イエスのようにです 皆さんがこの仕事に 志願する前に よく 考えるよう忠告します そうすべきかどうか 深く智慧をもって 考えて下さい

私個人にとっては この仕事は最も高貴で 困ってる人々を助ける ためにこの仕事をする 人はもっと増えるべき 誰しもキリスト教徒や 仏教徒として生まれて 来る訳ではなく 誰もがあらゆる 宗教の下に生まれて 来る訳ではないから 彼らを生涯 支えていく信心の 基礎を持っている 訳ではありません ある人は信仰心を 持った生活を知らず 方向性がありません

人生に 方向性もなく 目的も 信念も慰めも ないからです 現在 通信システムが 非常に優れてるので 私達は多くの素晴しい 衆生に出会えます マレーシアでも 様々な国出身の偉大な マスターの話を聞いた ことがあると思います インドや 台湾(フォルモサ)や たぶん 他の国から来た マスターのようにです 皆さんがこういう 偉大なマスターを 知ってるなら嬉しいし 彼らの内の多くや 何人かと学んでいたら 幸せに思います

万一まだ一人の マスターも知らず どんな良い法門も 人生の目的も 見つけていないなら 私がお手伝いします 後でもっと良い マスターを見つけたら 飛んで行って下さい 私達には 何の義務もありません 何の束縛もありません また 私の弟子に なるために 宗教や生活様式を 変える必要はなく 不要です 私達はただ 皆さんの てんてこまいの人生を 鎮静化し 心に和平を 取り戻す道を提供し それで皆さんは より 快適に働け より良く 考え 多分より健康で 精神的欲求もさらに 満たされるでしょう

その点から言っても 皆さんはより効果的に 他人を愛し 助けられるように なります 私達自身 快適でなければ 他人を愛し助けるのは 困難だからです そうではないですか まず自分の面倒を 見るのです すると 他人の面倒も見れます だからイエスは 「まず神の王国を 見出しなさい そうすれば すべてが 与えられるだろう」と またそれ故に仏陀は 私達誰もが 仏陀になるべきだと 強調したのです 仏陀になることは 内在の神の 王国を見 出すことです

同じ事で 違った 言い回しをしただけで まず仏陀になれば 他の人を助けられます 自身が泳げなければ どうやって 溺れてる人を 助けられるでしょうか 論理的ではありません 他の人の命を 救いたいと思ったら まず泳ぎ方を学びます 私が 尼僧になって 出家する前 やはり多くの人を 助けていました その事に 非常に熱心でした 幼少の頃から人々の 手助けをしていました 助ければ助けるほど 無力さを感じ 決して十分助けられ ないように思えました

自分の努力が 砂漠に落ちる一滴の 水のように感じました 助ければ助けるほど 深く無力さを感じる ようになったのです その時 仏陀の言葉を 思い出し「汝自身が 仏陀になりなさい すると あなたの力は 何倍にも何倍にもなり 誰でも 助けられるだろう」と またイエスの言葉を 思い出しました 「まず神の王国を 見出しなさい」と 当時まだ 神の王国を見出して いませんでしたので それを見出す 決心をしたのです 内面に 仏性を見出す 決心をしたのです

私はこの法門で 通常よりも 他のどんな法門よりも 早く 仏性を見つけました ですから皆さんに 内面の神の王国を 探したいという 同じ熱意があるなら この法門を お勧めします 十分な熱意が ないのでしたら 私が提供している 方便法で 瞑想が出来ます 神仏や 信じてるものに対し 守り助けてくれるよう 祈るのを 忘れないで下さい 万一 緊急の場合は 私に助けを 求められます 忘れないで下さい 何の保護もなく 瞑想すると 面倒な事になる 可能性も 確かにあるからです

これは皆が知ってます 万一知らない場合にと 繰り返しているのです ですから必要時や 困難時に 私達の手を取り 助けてくれる この道でのマスターが この道でのマスターが 必要なのです 何故なら 私達の内在の天性には 二面あるからです 一面はあらゆる善 栄光 慈悲 哀れみであり 愛です もう一面は あらゆる悩み エゴ 破壊 悲観そして あらゆる否定的な 天性です 盲目的に内面の 口を開ければ 私達は 善悪二面のいずれかを 開けることになります 解りますか 良い法門 良いマスターなしには 間違った口を 開けてしまうかも しれません 

すると あらゆる悪い面が 出て来て 皆の生活は 滅茶苦茶になります 内在の否定的な面は 善の面と同等の力を 持ってるとしなければ 理解せえばなりません ほとんど同等の力で 非常に似た性質です ですから 私達は導引力を持ち とても慈悲深く 哀れみ深く 力強くもなれます 間違った方の 口を開けたら 非常に破壊的で 否定的で 慈悲深く なり得ないのです 慈悲や智慧 他人への 哀れみの心に 欠けている人々が います

彼らの性質が 否定的な方へ 傾いているためです 直したいと思えば 難しくはなく 難しくはなく もっと聖書や 仏教経典を 勉強しなければ なりません 私達が信じる 宗教どれでも もっと熱心に 修行すべきです 例えば 仏教経典で 仏陀は私達に 六度万行 六波羅蜜を 教えています 第一が布施です 布施とは皆さんが 何か豊富に持ってたら 他人を助けるべく 与えるということです 例えば お金が沢山あり それほど使わないなら 困っている人の 面倒を見るべきです あるいは誰であれ 生活必需品が 足りない人を 助けるべきです

貧しい人を助けるのが 布施の道です 私は マレーシアの とても素晴らしい話を 聞きました 本当かどうか 本当かどうか 判りませんが 私が話すことで 気分を害する人が いたら どうぞお許し下さい とても素晴しいと感じ 分ち合いたいと思って マレーシアでは 他の誰かや 銀行からお金を借りて 銀行からお金を借りて 仕事がうまくいかず 返済するお金が なかったら それで 構わないというのです そうですか本当ですか そうですね

違いますか とても良いことで 非常に素晴らしいです 非常に素晴らしいです それこそ神が 本当に 望んでいることです その人に 十分なお金がないなら それで構わないのです 裁判所に出頭させ 煩わせる 必要はないのです お金が無いなら 無いのです 持っていたとして 人並みに使うなら 何てことはありません とても素晴らしいです その話で 私は二日間幸せでした マレーシアに来てから その話で ずっと 幸せでいられます 他人への 非常に素晴らしい 処し方です スウェーデンで 同じ事を聞きました 車をがないのに 運転したいと思い 運転したいと思い 知らない人の車を 知らない人の車を 使ったとします 何マイルも運転し 何マイルも運転し 家や行きたい所に 行ったとします 切羽詰まってたかも しれません 持ち主や警察官が 突然あなたを捕まえて 言います

車はあなたのではない 彼に返しなさい その人は「分りました」 と言うだけです そして彼に返します 盗みへの罰金は 科せられず その人から借りて 元の場所からそこへ 移動した分の ガソリン代が 請求されるだけです 払わねばならないのは ガソリン代だけです それだけの事です 私はこの二つの話は 完璧だと思うのです 私をとても幸せにして ある人が他の人を 自分と同様に 扱っているからです 自分にパンを買う お金がなかったら 自分を叩いたり しますか もちろんしません

お金がないので お金がないので 自分を哀れみさえし 自分を哀れみさえし 何も不満に 思わないでしょう こういう方法で マレーシアの人々は 自分達と同様に 他の人を 処遇するのです 私はこれに大賛成です マレーシアで ペナンに やって来て聞いた 非常に良い事で その日とても 幸せに過ごしました これは仏教の布施に符合します

何であれ余分にあるものを 他の人に与えて下さい

万人がそうしたら 戦争も盗みも なくなるでしょう

そうやって 私達は国を平和に していくのです

仏教によると 布施には 別の方法があり それは自分の智慧を捧げること です

ある分野で賢くなったり 悟った なら その情報を他の人達と 分け合わねばなりません 皆さんと同様の悟りや解脱を 得させる機会を与えるために です

仏教では この種の布施が非常に 讃えられ 最高の布施です

次の布施は他の人を守護する ことで 菜食をしていたら それも一種の布施です

私達は他の衆生に命と和平や 安全感を与え 恐怖心を与えない でいるからです

中国語で 「施無畏」と言います

意味は 他に恐怖心を与えない です

これも一種の布施です

ですから 常に人々に強調します 「お金を与えられず 教えを> もたらせないなら『施無畏』的な 布施をして下さい」と

他に安全と命をもたらして 下さい これもまた一種の 布施です

次は戒律です

戒律とは キリスト教にある様に 殺生しない 嘘をつかない 盗みをしない 他を害してはならない 有害中毒物を 自身や心 他を害するものを 一切摂らないことです 自分自身の如く 敵を愛しなさい イエスも同じ事を言いました 「あなたを愛してる人だけを 愛せても それが何だと言うのか 特別なことではない」 私達仏教徒もまた 「忍辱」を 忍耐を強調しています

それはどんな侮辱や悪感情 ひどい処遇にも耐えることです

これが忍耐です キリスト教の 教えも同じです

イエスが言ってます 「右頬を 叩かれたなら 左頬を差し出し なさい」と

これが仏陀が私達に教える 他人への接し方なのです 自分と同様に 彼らを愛しなさい

イエスキリストもまた 同じ事を教えています

仏教では次は戒律です 私が既に 話した殺生や盗みをしない 他人を助ける等の五戒です

五戒についてもっと知りたい なら 外のインフォメーション カウンターで聞いて下さい

私はここで人々に 振舞い方に ついての説教をしたく ありません

ですから 短めにお話します 私は皆さんの選択の参考に 仏教とキリスト教の良い点を 紹介したいだけです

さて 次は忍耐です

既に話しました イエスが言っています 「右頬を叩かれたなら 左頬も 差し出しなさい」と

そして 次は精進です

何に 精進をするのでしょうか

それは修行や瞑想 をする決心をしたら 真面目に 毎日 行うということです

戒律を守る決心 嘘をつかず 殺生せず 菜食する決心をしたら 真面目に毎日やり続ける事です

神に助けを求めて祈りたいなら 神の力を受け取るべく 瞑想をして下さい 毎日そうして下さい

毎日食べるのを忘れないように 祈ることや瞑想を 忘れないで下さい

そうすれば 皆さんの精神も 何らかの糧を得られるのです

というのは 私達は単なる 体ではなく 霊魂であり 霊的衆生なのです

ですから私達は霊的な飢えを 癒さねばなりません

霊的な飢えが癒されなければ 私達の人生が 多くの困難や 問題に陥っても 当然です

そうなると 神を非難します 「何故 神は慈悲心がなく 私達の 面倒を見てくれないのか」と

神は 私達の世話をすべく あらゆる事をしてくれています

私達こそ自分の面倒を見てない のです 道に迷っているのは 私達なのです

昨日ある人が私に尋ねました 「何故 神は万能なのに こんな 不幸を創り出したのか」と

神が不幸を創ったのではなく これら全てを創ったのは 私達人間の手なのです

神は銃も造りません 決して 原爆も水爆も造りませんでした

それを自らの手で造ったのは 私達なのです ですからやめる のです もう不幸は起こりません

私達の富を貧しい隣人に 分けていないのは私達なのです

真理を熱心に広めていないのは 私達なのです

愛、布施、忍辱、忍耐、慈悲の メッセージを他の人々に聞いて もらうべく広めることです

私達が 教会や寺のような 定まった場所に立って 弘法しているだけなら 毎日それを聞けるのは ほんの一握りの人だけです

外部の人の方が もっと必要と しているのです

教会へ行く人々は 既に何かを 知っていて 既に神を信じています そうですね

私達もまた 彼らの神への信心を 強めるよう喚起する必要は あります

寺に行く人々は 既に仏教や 仏陀について知っていて 仏陀に礼拝し 尊敬しています

善人になろうとしていて 既に何かを知っているのです

もちろん私達も彼らに 毎週毎回 信心を強めるようにと喚起する 必要があります

しかし外部の人 教会や寺に 一度も行ったことのない人や 何も知らない人にも 私達は 注意を向ける必要があるのです

ですから私達 皆が 神のメッセージを 愛、忍耐、慈悲のメッセージを 他の人々にもたらす必要が あるのです

毎回 互いに喚起し合うのです

教会の中だけではありません 通りやレストラン、ホテルや 市場、どこででもです

私達は 常に覚えてなければなりません 私達自身を覚えていて そして 他の人も喚起していくのです

ですからこの世界が 非常に 悔やむべき状態に陥ってたなら それは皆 私達の過ちなのです

神の手によってではありません

神は美しか創りませんでした 神は私達が愛でるように花を 創り 私達を温め世界を照らす ように太陽を創りました

私達に収穫をもたらすように 雨を創ります

私達を喜ばせるために あらゆる 美しく輝いてるものを創ります

神は決して 破壊的なものは 創りません

それは単に私達自身がした事で 全ての災害をもたらすのは 私達の否定的な雰囲気なのです

次は禪定です

瞑想のことです 仏陀は六波羅蜜(完全成道への 六行)を教えています

五番目は瞑想です 彼はただ布施や戒律の遵守や 愛深くなることだけを教えたの ではありません

瞑想の必要性も 教えているのです

メディテー ションは非常に重要です

瞑想なしで 私達は智慧を得られないから です

その事は昨日 話しました 私達は祈りの中で 神仏に語りかけます

私達を助け救い出し 何らかの 導きを与えてくれるようにと 頼みます

しかし 話し掛けただけで座らず 去れば 指示を受け取れません

ですから 私達はどこにも 到達できず 神仏の加護の力を 余り得られないのです

それ故 瞑想は 非常に重要です

いつでも 祈ってから しばらくの間 座るべきです

そして 内在のメッセージを 受け取ろうと 受容しやすい 状態にしなければなりません

それは 話し掛ける声や歌として 耳で受け取るのではなく 直感的理解、明確な考え そして 心のとても平穏な感覚として 受け取るのです

その時 皆さんのメディテー ションが実を結ぶのです

さて 毎日瞑想を するところまできましたので

次は 仏陀の第六の完全成道 への行 それは智慧です

智慧は知識とは違います 知識のことではありません

智慧は本から学び取れませんし 借りたり 盗んだり 買ったりも 出来ません

智慧は静かな心から 日々の 静かな瞑想から 生じ 宇宙の高次の源から 指示を 受け取るのです

それを私達は 智慧と呼びます

この智慧は 説明するのも 到達するのも難しいのです

それを得るには 忍耐と日々の 修行、誠心誠意、身口意の清浄さ が必要となります

身口意が清浄でないと 私達が 手にした智慧は何であれ あらゆる世俗的な影響や指示で 曇ってしまい 完全に純粋では ありませ

ですから 日々の戒律遵守も 必要となり 智慧を得るための準備となる わけです そうですね

また 私達は器も用意しなければ なりません

ただ どんな泉からでも 水を汲んで飲むわけにはいきません

きれいな器が必要です

器が汚ければ 水は毒されて きれいではなくなり それを飲めば 害になることさえ あるのです

ですから古代では メディテー ションを教えてるマスターは非常に厳しかったのです

教えたりせず 何年も肉体労動をさせました

ミラレパの物語を読んだことがありますか 読んでなければ 家に帰って読んで下さい

ミラレパの物語は非常に有名でティロパの物語もそうです こういう人々は皆偉大なマスターになりました

しかし偉大なマスターになる前に何年も訓練を受けねばなりませんでした

あらゆる厳しい肉体労働をして マスターの様々な屈辱とテスト に耐えたのです


 
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