マスター 高潔で賢い友人の皆様 ご機嫌いかがですか 九カ月前 私は あなたと同じで 「即刻開悟する」と 主張する マスターの話を 聞きたかったのです しかしマスターが 座ると 彼女の 聖人のような姿と 素早い機知に飛んだ 返答が私に彼女の 印心を考えさせる きっかけとなりました
印心後に マスターが下さった 修行日誌を開くと 私の頬に 涙が流れました 彼女が大智慧の持主で なかったとすれば 何の非難もなしで 多くの困難を経験した 一人の女性の 心の中に入った 深くて深い苦痛を 完全に表わすとは しなかったでしょう
毎日 私は内に秘めた マスターへの感情を 掘り起こし 懸命に瞑想をしました マスターの教えに 従って遠慮なく 修行をしました 私は大学一年の時から 今まで仏教を 十年間 学んで 来たときのことを 思い出し 仏陀はまだ遠い 西方浄土にいると 嘆いていました それはよく 仏教の経典でも 弟子によって 尋ねられています 禅マスターは 「内面の音を 聞いたら 阿羅漢に達していると いうこと」と答えます その時は 内面の音とは何か 心から知りたくて なぜ内面の音が 阿羅漢に達する 手助けになるか 知りたかったのです
内面の音とは 実際何ですか マスターと 九カ月修行した後 「弦のないリュートの 音を聞く」体験で はっきりと 気づきました その音は天国でしか 聞けないのだと それは宇宙の 調和であり 「蓮からの再生」の 意味は何か なぜ道教は太極図しか 書けないのか 全ての宗派の道教は なぜ不老不死の薬を 作り出し 不老不死の薬とは 結局何か そしてどの智慧で 古代の研究者はこんな 滑稽な言葉遣いで 話しているか 例えば 「海岸に沿って 臭いにおいを好む人が 居ます」 確実に 彼らは 観音法門を 修行しているでしょう
私達はいつも 賢者の本を読む目的を 自問します それは彼らの智慧の 真髄を理解したい 以上のことで 凡人から聖人になる こと以上のことです 私達 仏教徒はよく 「解体用の 包丁を下ろすことは 菩薩の域に達すること」 と言う標語を見ます 私達は皆 菜食主義は 仏教を 学ぶ上での基本だと 経典に書いてある事を 知っています ただ解体用の 包丁を下ろすだけで 仏性に達することが できます 肉を食べる人の中に 仏陀が 存在するとは 思えません
何人ものマスターに なぜ 仏像は常に 半眼なのかかと 聞きました ある人はこう言います
瞑想をしている時 その人の目は 鼻に集中し 鼻は口に集中し 口は 心に集中するからです
ある人は 仏陀は 半眼でこの世の人々を 慈悲深く見守っている と言います しかしなぜ心経では 目もなく 口もなく 舌もなく体もなく心も ないと言うのでしょう 五根で何が見えるかは
分かりませんし なぜ仏陀が 慈悲深く この世の人々を 半眼で見ているのか 分かりません このように 仏陀の遍在を間違って 解釈するような人が いかにマスターや 僧宝になれるのか 理解するのは もっと 難しいことです 釈迦牟尼仏は 出家経で 子供の純粋な 本性に戻る 出家の目的を はっきりと 説明しています さらに 真理を 広めるために 出家は この世の名声 利益 地位とは無関係で なければなりません
では なぜ彼らは 分け隔ての心で 宗教や教派を 区別するのですか 科学の精神が 懸念し続け 注意深く 証拠を求めるのなら 私の観音法門の 修行中 私は 落ち着いてみて 静かに聞いていて 農家のブラザーと 激しく口論し 霊的レベルへ 二人が相手より 上回ろうとする時に 私達は口論しました 百回試し 偶然に 何度も直面した後 私達は 他人に 良い事を与えず 悪い事も与えない 意味に気付きました この世の欲望 怒り そして熱望は 私達が気付かずに 消えて行くのです マスターが言うどの 言葉も私達によって 実証されています
釈迦牟尼仏と 文殊菩薩は 「金剛果論」の中で それは末法の時代に 無数の生き物が 経典に 執着していて 経典を読んで 仏陀の像に傲慢に お辞儀をしますが 開悟したマスターを 見つけれませんでした また彼らは 開悟したマスターに従い 開悟したマスターの マントラを得られれば 心から心へと 道理から道理に 伝わると言いました 性別問わず 十八歳から八十歳まで 皆 開悟することが 出来て この一生涯で 仏陀になれると 言うのです 「四十節の 仏陀の言葉」では 霊修行は開悟する 段階に達するべきと はっきりと 述べられています 開悟に達するとは 私達は 開悟した マスターの近くに いるべきで 彼の教えに従い 達するには何も無いと 自分たちで 気付くのです 開悟したマスターは 私達の目の前にいます
ある友人が尋ねました 「印心をすると 五世代が 超生するという マスターの言葉を あなたは信じますか」 私は「本当です」と なぜなら 生物学では 二つの不可解な 遺伝因子 DNAとRNAが ある事を知っています それを特定の 磁場で繋がっていると 考えれば 親族には 同じ磁場の性質を 持っているに 違いありません マスターは印心の時 全能のパワーを使い 私達を三界に 縛り付ける 厚い層になった網を 断ち切ります
マスターの無限の 磁場は私達を 引上げる事ができます では同等の磁場の 性質を有するものも 性質を有するものも 引上げられますか 文殊菩薩も はっきりと言いました 衆生は団体で 地獄へ行くか 又は 団体で上昇します それで 私達はそれを 九世代が天国へ行くと 解釈できますか マスターはただ とても謙虚に五代が 超生すると言います マスターが印心を 伝授する瞬間が どんなに素晴しいか 誰も知りません
それは天地を驚かせ 精霊と神々に 涙させるほどです それは私達の霊体が 真に再生する瞬間で そして真に私達の 孝行心を示す瞬間です
それは本当に老子の 言葉を立証します 「道を聞くとき 高いレベルの人は 勤勉に練習します 凡人は時折 それを考えます 低いレベルの人は 大笑いします 誰も笑わなければ それは道ではない」 そして仏教の回向では こう言っています
「全衆生が三界の 苦しみから解脱し 無上の道に 達することを願う」と マスターは私達を 三界の苦しみから 解脱に導くことを 約束します なぜ私達は心を開き この哲学を超越した 法門を受け入れ この天地万物の深遠な 道理への扉の鍵を 手に入れないのですか それでは私達の敬虔な 信心と誠意で 合掌しましょう
マスターをお迎えし 講義して頂きましょう ありがとうございます
霊修行では それが何なのか知る 体験をすべきです 内面の体験なしで それについて話すのは とても難しいです それは例えば 一人は クッキーを食べたけど もう一人はクッキーの 広告を読んだに すぎないのです なので二人が話すと 本当に異なります 私達の修行仲間で 自分の五世代の解脱を 体験した 人がいます 多くの人がこの体験を しています 私がそう 話しているだけでなく 時に 皆さんに 平伏したいのですが 皆さんは恐がり気絶 するかもしれません 自身を元気付けるなら 私は皆さんの前で 平伏できます
そうしたい(いいえ) なぜですか (私達は値しません) どういう意味ですか (あなたの崇拝に対し 価値がありません) 受けられないのですか 自分と 区別しないで下さい 分かりました 耐えられないのなら 押し付けません あなたの選択です なぜ私が皆さんを 崇拝したいのか 説明しましょう それは皆さんが 仏陀だからです 皆さんはただ異なる レベルや異なる 成長の段階にいるので まだ理解して いないのです 王子はたとえどんなに 若くても 将来には 王になります
ただ 彼は知らない だけなのです 彼自身は王子ですが 彼がどれだけ 偉大か 高潔なのか 知らないのです 彼は成長するにつれ 理解していきます このように単純です いいですね(はい) でも全ての高官は 彼が未来のボスだと 知っています 国民は 彼が最も偉大だと 知っています でも彼はまだ若過ぎて 自分が誰か知りません たとえ彼が王子でも 将来の王であっても 知らないのです 必要になったらすぐ 王になるでしょう 彼の父親が亡くなれば すぐに王になります どれほど若くてもです そうですね(はい) ええ
しかしたとえ 彼が王になっても 彼は王であることの 重要性は 分からないのです 意味が分かりますか (はい) 年を取って行くにつれ もっと理解します 彼が王の責任を 前提に学んでいけば より良く理解します 「ああ 王は国全体で 最も偉大なんだ」と たとえ まだ彼が それを知らなくても 彼はそれでも王です 毎日 高官や 王室の先生が 彼に王になる方法を 教えたり 国の統治方法や世界を 平和にする方法を学び その後 彼は何でも 出来るようになり 彼はやがて 本当の王になるのです
彼はとても有能になり 国をよく 統治出来るように なるのです 王になることを 教える王の師は 必ずしも王であるとは 限りません しかし 彼は知識を 持っているので王を 教えることができます 同様に私も必ずしも 仏陀である必要はなく 人々は「なぜあなたは 自分が仏陀だと言うのですか」と尋ね続けます 私はこう言いました 「私が国を統治する 方法を知っていて 王になることを教えて 助けることが できる限り 私が 仏陀であるかどうかは 重要ではありません」 そういうことです
幼い王子は 師を差別して こう考えます 「 なんでその人は 私を教えるのか 私は将来の王だ なぜ彼は私を教えねば ならないのか」と そうなら彼は決して 良い王にはなりません 分かりますか(はい) それで私達が悟った マスターから学ぶ時 彼の経験と能力を得ることが 重要なのです 彼が誰なのかと 疑問に思うべきでは ありません そのマスターも 自分が誰であるか 話したくありません 王の師は王より 賢いかもしれません 王の師がいなければ 半数以上の王は 国を統治する方法を 知らないことを 知っていますか そうでしょう(はい)
劉備は「三国志」の 登場人物の一人です ある日 彼は百官に こう言いました 「軍事戦略と 戦術において 私は孔明より下です 私の智慧は 誰々より下です 私の外交は 誰々より下です 私の力は張飛より 劣っています しかし 私は人々の 才能を活用する能力を 持っています 従って 王になったのです 彼の言う意味は 目的を果たすために 多くの有能な人が 必要だということです 同様に 幼い王子は 王の師からの指導を 受けないと 王にならないでしょう 王の師は 王ではありませんが 王にとって 非常に重要です 彼は前の王の 師でした そして 新しい王を 助けて 国を統治するのです しかし 名称だけなら 王は最も偉いのです そうですね(はい) ですからあなたは最も 偉大です 私ではなく 私はまさしく 王の師であり あなたは王なのです
私達が対等であり 少なくとも 同様であることを 理解してもらいたい 私が誰かより 優れているとか 偉いとは思いません 私は毎日 本日は 自分が十分良いか 適切であるかを 反省しています 毎日 このように 反省しています すべてを 精一杯 実現したなら 私は眠れます
多くのことで 皆さんは私より 優れています しかしあることは 私は皆さんより早く 学んだのです すなわち霊修行で 内在の自性にどう 耳を傾けるか どう全能の力を 見つけて それを 使用するかということ この力は皆さんや 他の人にとって 十分に使えます
今日 何人かの 修行仲間に 台南で一緒に竜眼を 食べた時のことを 話しました 二、三個しか食べて ないのに疲れてしまい 竜眼を食べるのは 非常に疲れます 皮を割って 中に虫がいるかどうか チェックしてから 噛みます そして長く噛んでから やっとほんの少しの 竜眼を食べることが できます 一、二個食べてから 私は「もういいです とても疲れた」と 言ったのです 仕事が多すぎて 成果が少なすぎます その時 彼らに 私は沢山のことが 苦手だと言いました それで 彼らは 誰もがそれほど偉く ないと分るでしょう この肉体は 非常に限られています
多くの幻想を 持たないでください 私から学ぶなら あなたは多くの幻想を 持たないでください なぜなら 私は全ての 短所を弟子に言います 分らないことは 何でも 彼らに言います 私が怒っている時 皆が分ります 私が泣く時も 皆が知っています 私が笑う時 皆が はっきりと見ています 隠すことがありません 人前で泣きます 怒っている時 皆が 私の怒りを知ってます なぜなら 肉体には 限りがあるからです どんな肉体でも全てを 習得するのは無理です 肉体はあることに対し 処理できますが あることはできません さもなければ 私達は忙しすぎます
幸い私達にはそんなに 多くの能力がないです
失望しないでください 私達がより単純で あればあるほど もっと神 道と仏陀に 愛されます なぜでしょう その頭の良くない 人々は非常に控え目で 彼らは 傲慢ではないからです 「ああ 私は世界の へそです」とは 彼らは言いません 意味が 分かりますか へそは 全身の中心です
世界の中心とは 最も重要なもの まさにその中心を 意味します 誰でも注意を 払わねばなりません 単純な人が 道に到達することは より簡単です 人々が知れば知るほど より多くの問題を 抱えます ちょっと比べて 見てみましょう 例えば マスター神秀は彼の マスターから三十年 以上学び 全経典を知ってました 六祖慧能は 字が読めません でした しかし 彼は僧に なるとマスターの職を 受け継ぎました 皆がとても驚いて なぜなのか疑問に 思っていました 釈迦牟尼仏は 非常に知的です 彼は文学と武道に 熟練していました 彼は全ての栄光と富を 持っていました
従って 彼は六年間 苦行せねばならず 仏陀に到達するのが 長い時かかるべきで あるということでは ありませんし 苦行でより早く 仏陀に到達するという ことでもありません 私達の心がどれくらい 純粋か そして 私達にはどれくらい 信仰があるか次第です そのため釈迦牟尼仏は 「信仰は全ての霊的な 功徳の源です」と言い 強い信仰がある限り 私達はすべてを 達成します それを知らなくても 誠実であるべきです 強い信仰があることを まだ知っているなら それは十分な信仰心が ないことを意味します
わかりましたか (はい)いいですね イエスキリストは 「神に何を求めても 神がそれを提供すると 誠実に信じるべき」と 言いました それで あなたはそれを得ます どのくらい得るかは 信仰がどれくらい 強いかによりますか なぜ私達がそのような 簡単な事をするのは それ程難しいのですか
それは私達には あまりに多くの 掃除すべきである 先入観があるからです 今日 この部分を 綺麗にしても 明日 新しいものがあります そして 昨日または 一昨日の概念さえ きれいに片付けて いませんでした ああ 概念でいっぱいです それらの先入観は それらの先入観は どこから来ますか 大部分は知識からです 私達は多くの無用な ことを学びました 私達は多くの無用な 本を読みました 私達は理解できない 多くの聖書をよく 読みます
しかし 私達は分ると思います ある部分は より簡単で明確です そして 私達はそれを 理解すると思います その後 私達は 実現を達成したと 思います 従って 私達は デバダッダ 釈迦牟尼仏を最も 中傷した人のことを 聞くのです 私達は彼が常に仏陀を 傷つける方法を探すと 聞いていました 今でも私達は彼に大変 怒りを感じます 私達は失礼な口調で 彼の名前を呼びます そうでしょう
私達は釈迦牟尼仏が 生きていた時 彼を 攻撃している六人の 異端の先生がいたとも 聞いていました
私達がこれを読んだ時 怒りを感じました そうではないですか 彼らを「それらの 異端の先生」と呼びます 彼らを「それら」と 言います 意味が分りますか 他方では 私達は釈迦牟尼仏を 「世尊」と 言います 「それらの異端な 宗派は私達の世尊を 中傷します」 突然あらゆる出来事が 仏陀に起こったのは 私達にとって重要で あるように思えます しかし それは 釈迦牟尼仏が 中傷されたことです それは私達とは 無関係です 釈迦牟尼仏でさえ当時 気にかけませんでした
しかし 私達は 釈迦牟尼仏が「私達の もの」でありそれらの 異端な人は「悪魔」で あると考えます 私達が釈迦牟尼仏の 味方をし始めました 私達は彼の内面の 体験について そして 彼の弟子がどのように 彼を尊敬したかを読み そして 私達は彼らの 例に倣います これは非常によいです しかし一つ忘れてます 釈迦牟尼仏が 亡くなったことです 敬意と称賛を受ける為 彼はここにいません 私達の親が他界した なら どんなに 親孝行の子に なっても 何か変わりがあるで しょうか(いいえ) たとえ彼らに多くの 食物を提供しても 彼らは食べられますか いいえ たとえ彼らに多くの 服を買っても 彼らは 着れますか (いいえ)着れません
同様に釈迦牟尼仏は どんなに有名でも どんなに有力でも 亡くなったらなら もう一つの境界に 行って他の種類の 衆生を教えます そこで彼の過去の 弟子を教えます 若干の弟子はまだ 非常に高いレベルに 達しませんでしたから 彼はそれらの弟子達を 教え続けます 彼はそれらの弟子達と 見えない世界にいます さて 私達は 彼らの内面の体験を 読んだとき それで 十分であると思います 私達は仏陀と彼の 弟子だけが内面の 体験を楽しむことが できると思います
私達は 経典の中で 迷っています 彼の本意 彼が本当に言いたい ことを忘れました 私達の在家弟子の 一人はこう言いました 「私達は悟った マスター 在世の仏を 見付けねばならない それで解脱できる」と 彼は 肉切り庖丁を 下ろせば すぐに仏陀になると 言いました つまり 肉屋がいったん その包丁を下ろし 罪を後悔すれば 彼はたちまち 仏陀になります そうですか(はい) そうしたら なぜ私達のような人は 一世で解脱したり すぐに悟ったり しないのですか 私は真実を言ってます 古代から 悟った マスターは皆私達に これを保証しました 彼らは唯一の目的の ためにここに降ります 人々が即座に悟って 一世で解脱することを 助けるためです それ以外の任務は ありません こが真のマスターです 真理に到達して この悟りを他の人に 伝えることが できる人が真の マスターと呼ばれます
私達 出家の誓いを した人は 人生で 唯一の任務しかなく それは 霊性の修養です 正しいですか(はい) 私達が 浄土マスターなら 「南無阿弥陀仏」を 唱えねばなりません そうですね(はい) 私達がチベットの マスターなら 「オム マニ ベメフン」 と唱え 毎日数百回 仏像に平伏しなければ なりません 私達が禅師なら 毎日瞑想し 禅公案を熟考します 私達はそのような 生き方をすべきです
マスターは マスターとなるのは 自分の修行を通じて 真理に達したからです 彼は悟りを他の人に 伝えられるので マスターになります
マスターの責任は 一つだけです それは 修行を遂行して 他の人が修行するよう 助けることです それ以外 他の任務はありません なぜなら私達は 既にこの世界を 十分に見たから ただ修行したいだけ そうでしょう (はい) この世では 誰にも 自分の義務があります 例えば 英語の先生は 英語を教えるべきで 医者は患者を 治療せねばなりません 霊性のマスターは 悟りを探して 彼らが 悟りを求めるなら それを他の人に 伝えねばなりません そうでしょう 霊性のマスターはこの 責任を成就すべきです
それだけです そうしなければ 真のマスターではなく 少なくとも 私達は修行しなければ なりません 私達は必ずしも教えに 行く必要はありません 誰かを教えるには 彼らとの縁が 必要です 私達に多くの人との 縁があれば 彼らを 助けることができます 縁がなければ必要ない そういう意味です でも私達は修行せねば ならず 世俗の問題に 介入すべきでは ありません 私達はいかなる理由や 口実でも 誰も 傷付けてはなりません 正しいですか(はい) いいでしょう 非常に明らかです
従って 古代から この世に降りた 真のマスターは皆 人々が即座に悟って 一世で解脱するのを 手伝うことを 約束しているのです すべての有名な マスターは誰もが そう言いました 今日まで私達が知る 真のマスターは皆 同じ事を言いました 「私に従う者は 光を持つだろう」と イエスは「私は世の光 私に従う者は 決して暗闇の中を 歩まない」 彼の言った意味が 分りますか 「私は世の光であり 私に従う者は 決して暗闇の中を 歩まない つまり即座に悟りを 得られるという 意味です
彼を信じる人は誰でも 天国へ行けると 彼は言いました また釈迦牟尼仏も 同じ事を言いました 仏陀に会える機会は 極めて稀だと 彼は言いました 仏陀に会うためには 沢山の功徳と 福報が要ります あなたが仏陀 または 開悟したマスターに 会えるなら 確実に解脱します これはキリストが 言った事と同じです