智慧の言葉
 
By Understanding the Law of Karma One Can Distinguish Between Good & Bad - Part 1 March 2, 1990-Formosa (In Chinese)    Part 2
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マレーシアには沢山の 弟子がいますが 私は二年に一度しか 訪れられません 他にも行くべき所が 沢山あるので 度々は無理なのです

ついでに皆さんに 会いにきました どうしているか 知りたかったし  話したかったのです

ただ皆さんに 会いたかっただけです 友達として 皆さんに 満足してもらうように 語り合い 皆さんへの愛を 表したかったのです

しかし ここに たびたび来ることは 約束できません これから益々 忙しくなります 他の所の弟子が 多いからです 彼らが引っ張る力は 強力です ご存知のように 子供の頃 綱を引いて どっちが強いか 競争する遊びが ありましたね ここにいる人の方が 少ないので 彼らに 負けてしまいます そうでもないですか 自信がありますね 勝てるでしょうかね そこの 人達は皆菜食する 弟子達です

信者は多いです 私の本を読んで いますが 菜食を 続けられません したくても 意志が弱いのです 彼らは家族や 社会の影響を受けて 人と違った事が できません 笑いものになるのを 恐れています そういう人もいます 実に気の毒です やりたい事は やればいいのです やりたくなければ それでもかまいません なぜ 笑われるのを 恐れるのでしょうか

時には 夫が修行しようと しても 妻が反対して 菜食を作って くれません 夫は料理が できなので 気が変わります 時には妻が修行 しようとしても 夫が肉を食べるよう 強要します

プレッシャーで 彼女は 気が変わります もし 私が菜食と 戒律を求めなければ 皆が観音法門を 修行すると 思います

そこで私は 沢山修行したくない 人のために 方便法を 提供しています

彼らは少し徳を積み もっと楽に苦痛のない 生活をするために 少しだけ修行します

彼らは菜食に チャレンジします これを方便法と いいます 都合のよい時に 菜食するという 意味です 多くの人は この方法を好みます 彼らは毎日三十分 瞑想できます とても簡単です それでもご利益があり よい方に発展します 時々彼らは私が 現れるのを見ます その体験がある人は ここにいますか また 光を 見る人もいます

ある人がヒマラヤに 行って マスターに 会う夢をみたそうです そうですか 子供は純粋です 彼は休暇で豪州からインドネシアに 帰ってきました 彼は少し修行 しただけですが 体験があります

方便法を 習ってから 多くの人は ご利益があって そして信心を持ちます もっと 真剣になり始め 菜食に切り替えて 完全な法門を 修行したくなります 米国在住のある人は 寺院や教会に 一度も行った事が ありませんでした 霊修行とは何か

全く知りませんでした 何の信仰も なかったのです 奥さんがお寺に 行きなさいというと なぜ坊さんを見に 行かねばならないのか 一日中拝んだり 寺を建てて何になる と言って 行きたがりません しかし 皆が行くので ついていきました 当時 彼らはまだ 菜食していません 私が行かない場合は 三ヶ月 菜食をして やっと印心を 受けられます そこで 私達の出家者が 彼らに方便法を 教えました 彼もそこに座りました でも 出家者を じっと見つめていて 瞑想しませんでした

彼はずっと出家者を 見つめ タバコまで 吸い始めました 当時 彼はタバコを 吸っていたのです 彼は実業家で 裕福であったし 妻子もあり 霊修行の必要など 感じませんでした それに 神が自分に 何かを与えるとは 思っていません 自分で成功したので 神など必要ないのです たいへんな頑固者です それでただ座って 見ていたのです 時間になって 皆 瞑想を終えました 出家者は皆に 体験があったか どうか聞きました 人々は自分の 体験を 語り始めました 光を見た人もいれば 他のものを見た 人もいました 彼のお母さんは 私を 見たと言いました 私だとは言いません その時 彼女は まだ私のことを 知らなかったのです 彼女はこう言いました

「写真の中の人が 立って 私にお茶を ご馳走してくれました 変わった味でした」 彼はお母さんを とても尊敬して いたので 何も言えませんでした しかし 感心した わけでもありません お母さんが幻想を 見たと思ったのです 後で お兄さんも 何かを見たと 言いました その人はあえて何も 言いませんでした それはお母さんであり お兄さんだからです 妻が 体験があったと 言ったとき 彼女を見て言いました 「バカな事を言うな そこに 数分座っただけで 何かを体験できる なんて事あるか」と 彼は敢えて他の人は 叱りませんでしたが  妻は叱りました それから 車で家に帰りました 彼は私の本とビデオを 買って帰りました 勉強するためです 他の人々が それを 勉強していたからです 最初 彼は私の事を 信じていませんでした 誰も崇めませんでした

ある日 髭そりを していたら  妻がビデオを見ました 聞いていて思いました 「あれ これは奇妙だ どうして この尼僧は 有能なのか 人々が英語で 質問すれば  彼女は英語で答える 中国語で質問すれば 彼女は 中国語で答える オゥラック語 (ベトナム語)で質問 すれば オゥラック語 (ベトナム語)で答える 彼女は本当に有能だ」 称賛したのは私の 言語の才能だけでした

彼は言いました 「講義するのは難しい ことだ ましてや 三、四ヶ国語だ 人が何を尋ねても 彼女はすぐに答える それで彼は私を少し 敬服し始めました 彼はこの人物が誰で あるかを知る為だけに 勉強したのです 彼は以前 私について 聞いた事はあっても 気にとめませんでした その後どうなったのか 方便法をして 他の人 皆に なにかしらの 体験がありました

彼だけが瞑想せず 他の人を見ていました 時間がきて 彼は 皆と家に帰りました 帰る途中 彼は 母に尋ねました 「お母さん 正直に 言って下さい  本当に見たんですか その人がお茶に招いて くれたんですか?」 母親が言いました 「私がなぜ嘘をつくの まだこの喉に甘さが 感じられるわ」 母親は彼に言いました 「あなたになぜ嘘を? 私は彼女を知らない それに 彼女から 何も得ていないのに なぜ嘘をつくの?」 彼は母が非常に幸福に 見えたと言いました 母親が  喉にまだ甘味を 感じると言うのを 聞きました つまり本当に彼女は お茶を飲んだのです 外面的な事でなくでも まだ甘味を 感じていたのです それで私を 信じなかったその人は 動揺し始めました 母親が嘘を言う理由が なかったからです  彼は こんなに 多くの人々 十数人もが  そろって幻想を持ち 彼に嘘をつくことなど あるのだろうかと思い 動揺し始めました そして家に帰りました 帰るとすぐに 彼は シャワーを浴びて 服を着替えました 次に上の階にある 自室に入って鍵をかけ そこで瞑想しました それまでは誰かが彼に 瞑想する様に誘っても 拒否しましたが 彼は家に帰ると一人で 瞑想したのです 瞑想をしばらくすると 彼には 体験がありました

とても良い体験でした

彼は震撼させられ そして分りました

その日から 彼は 菜食を始めました 彼は子供達に彼と共に 菜食する様に 話しました  彼はこう言いました 「もし君達が 勉学や 商売をしたくなくても 私は心配しない でも霊修行は しなければならない 君達が修行を しないなら 私は悲しむだろう」 彼はそう言って 子供達についてくる様 泣きながら勧めました その後 家族みんなが 菜食になりました 彼は六歳の子供を 印心に連れて来ました

その六歳の子供が とても可愛いのです 一度 隣人がドアを ノックしたとき アメリカでですよ 隣人がノックした時 その子は飛び上がり 言いました「お父さん ドアを開けないで」 父親が尋ねました 「どうしてだい」 するとこう答えました 「彼は殺生してる 毎日ホットドッグを 食べてるよ」 よくホットドッグを 食べる人だったのです それでこの子は ホットドッグを 食べるのは殺生だと 非難したのです この子は わずか六歳ですが 彼の言ったことは とても可愛いですね だから一人が 修行をすれば 本当に多くの人に 影響するのです 子供でさえも 良い事を学びます 子供が成長すると 我が子でないかの様に 言う事を聞かない ことがあります 何故でしょう それは 時には 彼らが幼い時に 道徳を教えず また手本を 示さなかったためで それが習慣になって いないのでしょう 習慣にすぎません この六歳の子は  よく理解しましたし  菜食をするかも しれません 子供が ベジタリアンになれば 肉を与えると それを脇にやり  泣きながら逃げます 例えば ある子供がお弁当を 学校に持って来て 温めるために それを 他の弁当箱と一緒に 置いた場合 時々 誰かが間違って 菜食の弁当箱を取り その子に残されるのは 肉の入った弁当箱になるかもしれません その子は弁当箱を 脇にやって 泣いて 食べないでしょう

彼は家に帰って もっと食べられます 彼の徳が高くないなら 私達は彼のために何が 出来るでしょうか そうでしょう

彼が道徳に欠け 成長しても 善良な 人にならないなら 埋め合せに 彼の為に 何ができますか 彼が空腹なら 私達は食事やお金を 与えられます 彼の貧困が 心配なら 彼のために 商売を立上げます 彼に道徳がなければ 私達は何ができますか 私達にできるのは自ら 模範となる事だけです  幼年期から 善良な人になるように 手本を示すのです 子供が幼年期から ベジタリアンで 戒律を守るなら 成長して 揺らぐ ことはありません 私たちは苗木を植えて 毎日 良い水と 肥料をやります すると それはどんどん育ち その根はどんどん 強くなるでしょう 風に倒されることなど ありません 私たち大人も 習慣を長い間 持っています 例えば 肉食に慣れていました 他に何も 知らなかったからです 私たちは肉食と飲酒に 慣れていたとしても 道徳を学べば やはりこういった 全てをあきらめ すぐに改められます この男性の様にです 彼の人生の半分は 過ぎていましたね  もう若くないです

しかし・・ 私は五八歳です

五十年以上 彼はあらゆる食品を食べました しかし今 彼は修行を したがっています 彼は信念が堅く すぐ 変えました これによって死ぬ事は ないでしょう 栄養を欠いている ようにも思えません 私は既に 一年間 ベジタリアンです それでも 問題は 全くないでしょう?

菜食すると 栄養不足になると いう事はありません そんなことはないです 私達出家者は 皆 元気です 出家した後に 彼らは皆 少なくとも  約五キロ太りました

一番痩せていた人達も ここに来てから 太りました これは 菜食が 非常に栄養価が 高いことを示します 更にどんな悪いカルマ(報い)もくっついて 私達の体を蝕んだり 精神を破壊しないので あまり病気をしません 私たちは健康で 栄養は足りています

つまり  彼はかなり高齢で 社会的地位があり 事業に成功し 子供も 大勢もいるという ことです それでも 生き方を変えられます 一旦正しいことを 知れば それをします それまで 誰も彼に 言わなかったので  知らなかったのです 多忙だったので 考えませんでした 今 それに関して 知っている人を通じて これが正しいものだと 分ったので すぐに変わりました この様な人だけが 勇敢であると言えます 過ちを 犯すのは構いません しかし それに 気付いたら  すぐに 正すべきです それでこそ 勇敢です 生来の覚者はいません 誰も生れつき 悟ってはいませんね 誰も 救世主として 生れるのではないです

釈迦は  人々を救う為に 大菩薩として 兜率天から 降りたと 言われています でも生まれてから 三十年間 無明でした そうですね 毎日 彼は肉を食べ 酒を飲み 宮殿で 楽しみました 何も理解して いませんでした ある日 出かけた彼は  ひとりの僧に出会い 道や道徳の話を聞いて 目覚め 修行を 始めたのです  そうですね 彼は元々ブッダだと 言われますが やはり そんなふうでした 私達の出生時に 蓮の花が七本出現し 七歩を歩いたかどうか 分りません いや 七つの石が下にあった かもしれません ですから生来の聖人で なくとも成れるのです それが正しいもので 私達と社会の為になる なら 好きでなくても 犠牲にするべきです

修行者は一人でも 多くの人に影響する ことができます 本人が 変わるだけで 家族全員が 修行を始めます そして友達 親類や 仕事の顧客も みんな彼と共に 修行します それでこう言うのです 「まず 自分の身を修め それから家庭を よりよくととのえ それから 国をよく治め そして天下を 平らかにする」 ある日 人々から 徳と才能を信頼され 大統領に 選ばれるかも しれません  その時 準備万端です 人々から大統領や 覚者に選ばれるかも しれませんね それで私達は準備する 必要があるのです

つまり 年をとっても 私達はまだ 変われるのですから 道徳的環境で育つ人は 言うまでもありません そのような人は 動揺しません 成長してからの  自分の為に良いのです 彼が社会に良いか 否かを 心配する 必要はありません 遠い将来を論じる 必要はありません 彼が自分に良ければ 家族は安心です 我が子が悪い事を しないと知っていれば 安心です

彼が健康に育つので あれば結構なことです 実際 菜食する子供達は 非常に美しくて とても健康です 彼らは薬を多く飲む 必要はありません 多く食べる必要も ありません 多く食べて健康になる 訳ではありません 私達は 一日二食です 昼食でより多く 豊かに食べます 私達は 朝は 食べませんが お昼に沢山食べます そして 夕方に麺やスープ麺 又はお粥を食べます

彼らは皆さんより 多くは食べません もし 彼らが 一日三食でも皆さんと 同じだけです ね?

私達の出家者はみんな 体重が増え 顔には 赤みがさしています マスターが ヒマラヤにいれば  私達は会えません 彼が如何に偉大でも 私達には分りません 彼は活仏のように 毎日瞑想し 一方 私達 普通の人は 自分の仕事や家族 国事の面倒を見るのに 忙しくしています ですから 霊修行を 成し遂げられません

この俗世にいれば 私達は霊修行を 成し遂げられない かもしれません そう考えたりします もし 修行する人が やって来て 私達と交わり 歩き 食べ 飛行機で旅をし 時には疲れ 病気に なる事を示してくれる ならば 私達は心から 彼に非常に親しみを 感じます しかし 彼らが異なる ものを持っているで あろうと分ります 話し方 生き方が違うからです より自在で より穏やかで冷静です その様な 模範があれば  それを試しても よいと思います そうして 安心して 修行するのです 釈迦や イエス キリストは 悟っていて 何も 必要としませんでした 釈迦はもともと 王子で 物質的には 少しの不足も なかったのです 彼が悟ってからも 父親は宮殿 黄金 真珠を与えました 彼は望むものを 何でも持てたのです 何の不足もないのに 何故 毎日托鉢に 出かけたのでしょうか 彼は人々に 修行者と会わせ 接触する機会を 与えたかったのです

そうすれば 人々は 彼と話せて 修行について 質問できますから そうしてこそ 人々と話して 修行を勧める 機会が得られたのです そうですね イエス キリストは ひとり快適な場所で 修行できたはずですが あちこち旅しました より多くの 無明で 修行者に接近する 機会のない衆生に その機会を与え 代わりの道がある事を 知る機会を 与えるためです お金を稼ぎ 子を育て 家族や国家の面倒を みることのほかに 別の道があり それにより 物質面と霊性面の両方を 世話できるのです

生活にそれを加え より快適で より意義ある人生に できるのです 世界のシステムが どれ程良くても それは世界の皆に それほど役立ちません それで観音法門の 修行が必要なのです 観音法門を 修行すると 私達には ひとつの 言語しかなくなり 同じ理想と献身の 精神を持つので より容易にお互いが 交流できます そして不思議にも ちょっとした偏見や 様々な個々の思考が 急に それほど 重要ではなくなります それが良く修行して より高い域に達した 私の弟子の大部分に 争いがない 理由なのです

彼らは衆生の為に 共に働いています 私が出向いたり 講義をしに 行くところは何処でも 彼らが一緒です 口論も 言い過ぎもありません 皆 何をすべきか 知っているからです 弟子たちは 観音法門を 修行すると 私達のグループは 本当に違うと分ります 私達はみな一つであり 同意見を持つかのよう 滅多に摩擦は起きず 意見が食い違う時でも 提案できます 誰が正しく 誰が間違っているかと いう様な いかなる 闘争もありません

実際皆理解しています 彼らは内面で 悟っていて その智慧はますます 高まっているので 物事の正しい処し方を 知っているのです 特別な意見や 違う意見があっても 提案できるのです

世界の指導者達が 人々に耳を傾けて 欲しいなら 霊修行をして 人々が 自然にそうするように すべきです そうすれば軍隊など 全く必要でしょう

全指導者が観音法門を 修行して そういった 精神を宿せば 原爆など まったく 必要としないでしょう 原爆は多くの人命に 害を及ぼすだけです そうですね 古代から多くの 戦争があります 何故でしょうか 理由の全ては  多くの人々が霊修行を しないからです 彼らは物質面に頼って 国を治め 企業を運営し 世事を処理します 精神性や 内面の仏性は 信頼しません 彼らは神の意志に 依存しません 中国人はこう言います 「最初に自己修養を するべきだ  そうすれば家族を よりよく養える 次いで自らの国を よく治められる そうしてこそ 世界は平和になる」 古代から言われて いることです しかし 私達はそれを達成できていません

私は中国人を称えます 皆さんは霊修行を していますから 修行の願望を 持っています

時には状況が 圧力をかけ 修行が 出来ないかもしれない しかし 常に修行を 皆さんは望んでいます それで 何処へ行っても 寺院の建立を願い あちこちで礼拝し 出家者を訪ね 彼らや 寺院に供養を捧げる ことを望むのです ね アシュラムや教会を 建てる事を好みますね どの宗教も 盛んで 順調です 最も重要なのは それらが  人々の悪い心  否定的思考を適正に 制御することです つまりそういった事を 減少させるのです

ビジネスをしたり 家族を 養うことのほかに 悪い行いをしたいと 思わないのです 度々 礼拝に行きます 喜んで 修行をします

本当に自分に都合の よいどんな方法でも 修行するのが好きです 正しいかどうかに かかわらずです その土地の神を拝み 富の神を拝みます 他の神もです それが誰で 助けになるかどうか  分らなくても 崇拝し続けます 通ずるかどうかは 気にしません ただ 万一の時の安全の為に 礼拝するのです

何を恐れるのでしょう 私達より 大きなパワーを 恐れるのです それを恐れるがゆえに 敢えて悪いことを しないのです 神仏や あるいは 幽霊でさえ 常に 傍にいると知るのは よいことです 悪い事をしたい時 土地神様が 眠っているかどうかと 思うでしょう

お釈迦様の像が 眠っているか どうかと 思うでしょう こうして恐れるのです それで中国人は何処へ 行っても 道徳的な 精神があるのです 無意識に 皆さんは道徳に 少し影響されます それで何処へ行っても 天地に 愛されるので 成功するのです 家庭を守ることや 生計と 子供達の安らぎの為に 仕事でお金を 得る事のほかには 他人を傷つけようとは 思いません 天や神々 大地 仏を恐れるので 神に愛されるのです 中国人は至る所にいて 発展し 成功しています どこに行っても ビジネスに成功します 既に 道徳の精神を 持っているので 私は 更に修行し  道徳を更に発展させ より適切な法門を 修行する事を勧めます さらに良いですね 皆さんは既に 修行していて 心を尽して拝み 仏陀や土地神様を 供養するものを 買う為に 多くの お金を費やしています また同様の 時間を費やして どの方法が本当に 良いかを研究し 見出す事ができます 本物で正しいものなら そこに全エネルギーを 集中すれば さらに良いですね

やはり同様の 時間を費やすでしょう 皆さんに霊修行の 渇望があるので  神は皆さんを愛し 人間として 別の機会を与えます けれども よりよく 霊修行するなら  更に有益ですね

そのような利益を 得れば 他者にも 広げる事ができます

こうして私達は 世界に奉仕するのです 神が皆さんをある国に 遣したのはビジネスの ためではありません

神には目的があります 時々  人の道徳の精神や 修行の態度は 他の人々に影響します 皆さんは自分の責任を 知りさえしませんが ビジネスをするのに ベストを尽くします 問題があると ただ土地神様を拝んで 賄賂を贈ります 彼は 少しは助ける かもしれませんが 皆さんの生死の解脱は 手助けできません 彼はその土地の 神にすぎず 天の神ではないのです 例えば 最も偉大な パワーではないのです

インドでは お客様が 来ると どの家庭でも 神や仏のように 扱います インドの ヒンズー教徒の事です 他の宗教の信者も 同様に振舞いますが ヒンズー教徒は特に親切です 彼らはより他の人々を 信用して よく世話し よりお客様を 重視します 世界が平和でないのは なぜでしょうか 私達は善良であっても 全て上手くは 出来ないからです 時々 私達の考えが 良くなかったり 振舞いが良くないと それは次第に否定的 パワーに変わります 良い考えを持ったり 良い事をする時 それは肯定的な  パワーになります それで 一つはブッダ パワーと呼ばれ もう片方はマヤパワー と呼ばれます 悪いことをしたり 考えたり それに関して話すと マヤパワーが起ります ブッダパワーとは 私達の善良な心で  善行や良い考えにより 集められ 生じます それで よく 私達は世界の善悪に 責任があると 言われるのです 世界の戦難や トラブルを見る時  私達には関係ないとは 言えません 関係はあります それは 私達が霊修行を しっかりしておらず 日々の  行為 発言 考えを 完全に純粋に しておらず 本当に善行を しているかどうか  より良くできるかを 内省して いないからです 時には 災害は私達が  自ら起こしたものです 今生でなければ  前世かもしれません 私達には 人との 血縁や友人関係がある からかもしれません 彼らが悪い事をすると 私達に影響します 全ては相関的なのです

カルマとは何か 悪いカルマの蓄積を 防ぐ方法に関する 過去のマスターや 預言者の助言は? 五月五日 木曜日の 智慧の言葉で 解明しましょう

カルマとは何か 悪いカルマの蓄積を 防ぐ方法に関する 過去のマスターや 預言者の助言は? 本日の智慧の言葉で 解明しましょう
こんばんは 皆さま 観音法門の会議に はいる前に 果物と花の贈呈を いたします

皆さま 偉大なスプリーム マスターチンハイを お迎え致しましょう しばらく目を閉じて 神の愛と 私達への 恩恵を思い出す為に お祈り頂けます でしょうか 私達は神に感謝します 私達に与えて 下さった全てに 幸せも悲しみも 幸せは勇気を与え 悲しみは浄化します アーメン!ありがとうございます

親愛なる友よ  家に帰ったように感じます 帰って来ました この数日 皆さんが 示された愛の為です コスタリカに 到着して以来 通りの 見知らぬ人 学校の子供達 バスの乗客 レストランのお客さん 皆さんそうです 皆が私をご存知なので この国の皆と知り合い のように感じます この数日 神は私達を 愛していると感じます 見えない愛ある方法で 神が私達と一つに なったと感じます 珍しく 大変感傷的な 気持ちで一杯になり 自分でも驚く程です 涙がこぼれそうですが こらえています 一旦涙が出ると その感情が 弱まって しまいますから その言葉にできない 恩恵を 楽しみたいのです 皆さんも同様に感じて いらっしゃるでしょう そう願っています そうですか? では 感傷的なことは 終わりにして 良い話をしましょう そうでないと 私は 黙ったまま 二時間 泣き続けてしまいます

皆さんは家に帰って 思うでしょう「どんな マスターなのかしら 遥々やって来て泣いて 何も言わないとは」と 多分それは最良の方法 かもしれません でも 私達は普通に よりなじみのある 標準的方法で 対応すると思います つまり 聴衆の期待にこたえて お話しするという ことです 説明不可能な事を 最善を尽くして 説明してみましょう 私がお話ししようと するのは 人間の 言語で伝えるには 容易ではない事です それを 物語を通じ たとえを通じ 内面の認識を 通じて試みます 今日 素晴らしい ジャーナリストが 取材に来られました 彼は尋ねると同時に ある事を確認しました 彼は言いました 「大昔から 神は 多くの使者を 神の愛 メッセージ 真理 人類への 戒律を伝えるために 地球に遣わしましたが 理解し 従う人は 多くはありません」

彼の質問は私が如何に 仕事をするのかという たぐいの事でした そこでこう答えました 「人々が話を聞こうが 聞くまいが 彼らは この地上で神の役割を 果たしています」と 家に帰る準備ができて いない人もいます 彼らの仕事が未完なら 私の話に耳を傾けない かもしれません 彼らが悪いという 意味ではありません ここでの仕事が 未完なので 神の意志で この世の楽しみ 富 喜び 仕事 義務 あるいは愛情に  執着や愛や 束縛を 感じるのです  地球上での責務を 完結した人々は 家に帰る事を望み 焦がれます 彼らは神への回帰を 神の王国への道を 切望します そして私の伝言を 理解し それに 従うでしょう こういった人々は この世にうんざりして いるからです

ここではもう何もする 必要がないと感じます 望むのは 神の元へ 戻ること 万物の源へ 帰ることだけです そこでこの人々の為に 私は 目標を認識する 手助けをしています これが唯一の目的です たった一つの責務です 神の王国へ 人々を 連れ帰るためです 他の人々には彼らの 責務があります 私の唯一の責務は 準備のできた魂を 天の父の家へ 彼らの来た所に 戻す事です 他の人が続かずとも 私は気に留めません 不快に思いません 憤慨も不快感も 幻滅もありません  たとえ人々が 私の話に怒り 軽蔑し 信じなくともです その人々は 私にも 私の使命にも  何の関係も ありませんから 理解していないだけの事です 将来 多くの 人生を経た後 百年後 千年後に 理解するでしょう

それは 例えばですが 仏陀 キリストの 存命中 彼らの メッセージは常に皆に 歓迎されたとは 限りません 当時はそうでした でも現在の信者の 数をご覧なさい 数千年経った今では 如何に多くの 崇敬者が いることか ちょうど 子供が成長して  理解したことも 幼かった頃には 分らなかったのと 同じです 神へ戻る事については 既に多くの 方法があります 隣人を愛す 敵を愛す 慈善を施す 日曜日に 教会へ行く 毎朝 毎晩 お祈りをする 又は瞑想する イエスの名を唱える 聖人の名を唱える 数珠を爪繰る 唱えて 数珠を爪繰るなどあるいは断食 巡礼をするなどです ですからこう言います チンハイはいったい 何を話したいのか? 私達は既に何でも 知ってるのに」 ノー? イエス?

皆さんは既に全て ご存知ですよね イエスと言う人も ノーと言う人もいます 「はい 知っています」 「いえ 知りません」と 知っていますね 神の 存在をご存知ですから 神は存在するはずです 或いは 偉大な力が 人知を超えた 偉大な力がです 一つあると知ってます 「はい」という理由は 私達は時々試みるから 時には誠実に 時には 無意識に そのパワー 至高の全能の力に 触れようとするから そして「いいえ」は 殆どの私達の誠意は 仕事の忙しさと 日々のプレッシャーの 苛立ちの中で 失われるからです そのため 努力し 時間をかけて祈り 瞑想し 聖名や経典を 唱えても 神に届かないか ほんのたまにしか 届かないのです それで時には 努力が 徒労に終わるのです また 時には真の神を 知ることを切望します

神の真の姿は どんなふうで 神とはどんなものかと  そして知りたがります 「なぜ 『愛ある神』が私達に 多くの災いや困難を 送りつけるのか」と そうですね OK 私も皆さんに お答えはできませんが 神の見つけ方をお教えする方法は あります ですから 皆さんは 神の髭をつかんで ご自分で尋ねて下さい 神に尋ねられますよ 「なぜですか?」と 怒って地団駄を踏む 子供の様に 天の父に 「なぜですか  皆があなたの事を 愛だ 神は愛だ  慈悲深く 非常に 力強いと言いますが  なぜ地球は 苦難で 一杯なのですか」と そうしたいですか 神に直接 尋ねられます 自らの通訳を使えば 皆さんが信じても 信じなくてもです 私は神に尋ね 答えを得ました 

神は多くの秘密を教えてくれました 幾つかはご紹介 しますが 幾つかは それに該当する 言葉がありません というのは 理解できて 人知で把握でき 人の言語で表現できる ものもありますが 不可能なものも あるからです そういった意識レベル その様な経験や 内面の認識に見合う 人の言語がないのです ただひとつ お勧めできるのは 自ら探索する事です もし私が この表現 不可能な意識レベルや 認識について 話を 続けたら 真の意味を 強力な意味を台無しに してしまうかも しれないからです 現在では  多くの方法で 神に近づけます それを耳にしたり それに関する 本を読んだりします 現在では どれも ある程度 役立ちます また その方法を 使う事ができ 多くの様々な 意識レベルに 達する事ができ 異なるレベルの神に 近づけます けれども 観音法門 すなわち 神の光と神の言葉― 聖書にある  「言葉」と音―に 連絡する方法が 最善の方法だと なぜ言うのでしょう

それが私達を苦しみや 精神的苦労から すぐに解放して くれるからです それは私達をすぐに いわゆる罪の重荷 原罪の プレッシャーから 解放してくれるので 即座の解放を感じ 即座に 神のそばにいると 感じられます この方法はもっとも 強力だからです なぜ 観音法門は そのような 強力な  即座の開悟を もたらすのでしょうか それは これが 私達自身の力  生れながらの神の性質だからで これを 仏性とも言います 私達は先天的な性質 真の力 自身の力を 目覚めさせ 外部に 頼らないのです 仏陀が言っています 「自分に頼り 他の誰も頼るな」と この自分とは 仏性のことです この人間ではない 偉大なる自分 ええ 本当の自分です これがキリスト教の 言葉で言う 「内面にある 神の王国」すなわち 先天的に 私達の中にある 神の本質です 聖書にもこうあります 神は人間を ご自分の 似姿に造られた つまり 私達は神の 本質を持っていて 神と同等なのです

内面的に言えばです もちろん 私達が 神と同等ならば・・ または生まれつきなら 少なくとも 私達は神の子です もし あえて神と 同等と言えないなら 神の子だと 言っても良いでしょう なぜ神は輝かしく 超然として 愛に溢れ 美しく 皆から 崇拝されるのでしょう なぜ私達はこの世界に 這いつくばり 避けがたい痛みや 悲しみが あるのでしょうか それは私達が 外面で何かを 手にすること 何かをすること 何かを考えること 何かを計画することに 忙しすぎて  休み 委ねる事を忘れ 内面の神の本質 真の魂 真の人 真の自分を 自分の為に働かせ 助けさせることを忘れ 自分の最強の力の源 内面の力を使う事を 忘れたからです それこそが神の王国 神の本質 神の姿 仏性なのです 神は 私達の中に 宿っているからです

神は 私達を造った時 命を救う力を与える 事を忘れませんでした ただ私達はその存在を 忘れているのです 私達は外面の 自分だけを使い 真の 自分を使っていません 例えば 車が動かず 路肩に 止まっているとします 運転手は眠っているか 酔っ払っています さあ この人を 起こすか 目が覚める薬や 冷たい水を与え 彼の眠気を 払う必要があります そすれば 彼は車を 動かせるでしょう ところが 私達は 車を押すのです 車はドアも窓も閉まり 運転手は眠っていて エンジンは動きません 私達は 押して押して 押し続けます 不運にも その車は とても重いので 手に負えません ひどい車です 車のメーカーも ひどいし  ブランドもひどいので こんな車は 二度と買いません 私達は押し過ぎて 疲れているからです

では 皆が普通の 感覚の大人なら 誰か あるいは子供が こういうことを しているのを見れば 当然 この子供達は 賢くないし 理屈を 知らないと思います 私達は彼らに言います 「ねえ 子供たち」 又は 「貴方達 そんな事を しないで! 止めて 静かに  運転手を起こせば 彼は何でもします」と 同じことが聖人にも 起るのです 聖人 または 勤勉に 修行をしている人が 神の意識に 達した時  物事を とてもはっきり 論理的に理解します そして 物事を 正しく行う方法を 人々に伝えます 最短の時間 最低限の 努力で 最高の 結果を得るのです ただ 運転手を起こす 手伝いをすれば 私達は車を押す 必要はありません 車に乗って楽しむ事も  できます この世界で 不幸や 問題が色々起きるのは 私達が真の自分を 起こさないからです また ただ懸命に働き 沢山考え そして 様々な方法で この世界での仕事を 自分の限りある 能力で  体力で また知識で しているからです ですから たとえ 世界でも最高の 大学を卒業しても 私達は完全に 賢くは ないのです 智慧と知識は 智慧と知識は 別のものだからです

 
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