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智慧の言葉
マスターの唯一の務めは人々を解脱させること 1/3 一九八八年十二月二日 フォルモサ 屏東(中国語)


マスター 高潔で賢い友人の皆様 ご機嫌いかがですか 九カ月前 私は あなたと同じで 「即刻開悟する」と 主張する マスターの話を 聞きたかったのです しかしマスターが 座ると 彼女の 聖人のような姿と 素早い機知に飛んだ 返答が私に彼女の 印心を考えさせる きっかけとなりました

印心後に マスターが下さった 修行日誌を開くと 私の頬に 涙が流れました 彼女が大智慧の持主で なかったとすれば 何の非難もなしで 多くの困難を経験した 一人の女性の 心の中に入った 深くて深い苦痛を 完全に表わすとは しなかったでしょう

毎日 私は内に秘めた マスターへの感情を 掘り起こし  懸命に瞑想をしました マスターの教えに 従って遠慮なく 修行をしました 私は大学一年の時から 今まで仏教を 十年間 学んで 来たときのことを 思い出し 仏陀はまだ遠い 西方浄土にいると 嘆いていました それはよく 仏教の経典でも 弟子によって 尋ねられています 禅マスターは 「内面の音を 聞いたら 阿羅漢に達していると いうこと」と答えます その時は 内面の音とは何か 心から知りたくて なぜ内面の音が 阿羅漢に達する 手助けになるか 知りたかったのです

内面の音とは 実際何ですか マスターと 九カ月修行した後 「弦のないリュートの 音を聞く」体験で はっきりと 気づきました その音は天国でしか 聞けないのだと それは宇宙の 調和であり 「蓮からの再生」の 意味は何か なぜ道教は太極図しか 書けないのか 全ての宗派の道教は なぜ不老不死の薬を 作り出し 不老不死の薬とは 結局何か  そしてどの智慧で 古代の研究者はこんな 滑稽な言葉遣いで 話しているか 例えば 「海岸に沿って 臭いにおいを好む人が 居ます」 確実に 彼らは 観音法門を 修行しているでしょう

私達はいつも 賢者の本を読む目的を 自問します それは彼らの智慧の 真髄を理解したい 以上のことで 凡人から聖人になる こと以上のことです 私達 仏教徒はよく 「解体用の 包丁を下ろすことは 菩薩の域に達すること」 と言う標語を見ます 私達は皆 菜食主義は 仏教を 学ぶ上での基本だと 経典に書いてある事を 知っています ただ解体用の 包丁を下ろすだけで 仏性に達することが できます 肉を食べる人の中に 仏陀が 存在するとは 思えません

何人ものマスターに なぜ 仏像は常に 半眼なのかかと 聞きました ある人はこう言います

瞑想をしている時 その人の目は 鼻に集中し 鼻は口に集中し 口は 心に集中するからです

ある人は 仏陀は 半眼でこの世の人々を 慈悲深く見守っている と言います しかしなぜ心経では 目もなく 口もなく 舌もなく体もなく心も ないと言うのでしょう 五根で何が見えるかは

分かりませんし なぜ仏陀が 慈悲深く この世の人々を 半眼で見ているのか 分かりません このように 仏陀の遍在を間違って 解釈するような人が いかにマスターや 僧宝になれるのか 理解するのは もっと 難しいことです 釈迦牟尼仏は 出家経で 子供の純粋な 本性に戻る 出家の目的を はっきりと 説明しています さらに 真理を 広めるために 出家は  この世の名声 利益  地位とは無関係で なければなりません

では なぜ彼らは 分け隔ての心で 宗教や教派を 区別するのですか 科学の精神が 懸念し続け 注意深く 証拠を求めるのなら 私の観音法門の 修行中  私は 落ち着いてみて 静かに聞いていて 農家のブラザーと 激しく口論し 霊的レベルへ 二人が相手より 上回ろうとする時に  私達は口論しました 百回試し 偶然に 何度も直面した後 私達は 他人に 良い事を与えず 悪い事も与えない 意味に気付きました この世の欲望 怒り そして熱望は 私達が気付かずに 消えて行くのです マスターが言うどの 言葉も私達によって 実証されています

釈迦牟尼仏と 文殊菩薩は 「金剛果論」の中で それは末法の時代に 無数の生き物が 経典に 執着していて 経典を読んで 仏陀の像に傲慢に お辞儀をしますが 開悟したマスターを 見つけれませんでした また彼らは 開悟したマスターに従い  開悟したマスターの マントラを得られれば 心から心へと 道理から道理に 伝わると言いました 性別問わず 十八歳から八十歳まで 皆 開悟することが 出来て この一生涯で 仏陀になれると 言うのです 「四十節の 仏陀の言葉」では 霊修行は開悟する 段階に達するべきと はっきりと 述べられています 開悟に達するとは 私達は 開悟した マスターの近くに いるべきで  彼の教えに従い  達するには何も無いと 自分たちで 気付くのです   開悟したマスターは 私達の目の前にいます

ある友人が尋ねました 「印心をすると 五世代が 超生するという マスターの言葉を あなたは信じますか」 私は「本当です」と なぜなら 生物学では 二つの不可解な 遺伝因子 DNAとRNAが ある事を知っています それを特定の 磁場で繋がっていると 考えれば 親族には 同じ磁場の性質を 持っているに 違いありません マスターは印心の時 全能のパワーを使い 私達を三界に 縛り付ける 厚い層になった網を 断ち切ります

マスターの無限の 磁場は私達を 引上げる事ができます では同等の磁場の 性質を有するものも 性質を有するものも 引上げられますか 文殊菩薩も はっきりと言いました 衆生は団体で 地獄へ行くか 又は 団体で上昇します それで 私達はそれを 九世代が天国へ行くと 解釈できますか マスターはただ とても謙虚に五代が 超生すると言います マスターが印心を 伝授する瞬間が どんなに素晴しいか 誰も知りません

それは天地を驚かせ 精霊と神々に 涙させるほどです それは私達の霊体が 真に再生する瞬間で そして真に私達の 孝行心を示す瞬間です

それは本当に老子の 言葉を立証します 「道を聞くとき 高いレベルの人は 勤勉に練習します 凡人は時折 それを考えます 低いレベルの人は 大笑いします 誰も笑わなければ それは道ではない」 そして仏教の回向では こう言っています

「全衆生が三界の 苦しみから解脱し 無上の道に 達することを願う」と マスターは私達を 三界の苦しみから 解脱に導くことを 約束します なぜ私達は心を開き この哲学を超越した 法門を受け入れ この天地万物の深遠な 道理への扉の鍵を 手に入れないのですか それでは私達の敬虔な 信心と誠意で 合掌しましょう

マスターをお迎えし 講義して頂きましょう ありがとうございます

霊修行では それが何なのか知る 体験をすべきです 内面の体験なしで それについて話すのは とても難しいです それは例えば 一人は クッキーを食べたけど もう一人はクッキーの 広告を読んだに すぎないのです なので二人が話すと 本当に異なります 私達の修行仲間で 自分の五世代の解脱を 体験した 人がいます 多くの人がこの体験を しています 私がそう 話しているだけでなく 時に 皆さんに  平伏したいのですが 皆さんは恐がり気絶 するかもしれません 自身を元気付けるなら 私は皆さんの前で 平伏できます

そうしたい(いいえ) なぜですか (私達は値しません) どういう意味ですか (あなたの崇拝に対し 価値がありません) 受けられないのですか 自分と 区別しないで下さい 分かりました 耐えられないのなら 押し付けません あなたの選択です なぜ私が皆さんを 崇拝したいのか 説明しましょう それは皆さんが 仏陀だからです 皆さんはただ異なる レベルや異なる 成長の段階にいるので まだ理解して いないのです 王子はたとえどんなに 若くても 将来には 王になります

ただ 彼は知らない だけなのです 彼自身は王子ですが 彼がどれだけ 偉大か 高潔なのか 知らないのです 彼は成長するにつれ 理解していきます このように単純です いいですね(はい) でも全ての高官は 彼が未来のボスだと 知っています 国民は 彼が最も偉大だと 知っています でも彼はまだ若過ぎて 自分が誰か知りません たとえ彼が王子でも 将来の王であっても 知らないのです 必要になったらすぐ 王になるでしょう 彼の父親が亡くなれば すぐに王になります どれほど若くてもです そうですね(はい) ええ 

しかしたとえ 彼が王になっても 彼は王であることの 重要性は 分からないのです 意味が分かりますか (はい) 年を取って行くにつれ もっと理解します 彼が王の責任を 前提に学んでいけば より良く理解します 「ああ 王は国全体で 最も偉大なんだ」と たとえ まだ彼が それを知らなくても 彼はそれでも王です 毎日 高官や 王室の先生が 彼に王になる方法を 教えたり 国の統治方法や世界を 平和にする方法を学び その後 彼は何でも 出来るようになり 彼はやがて 本当の王になるのです

彼はとても有能になり 国をよく 統治出来るように なるのです 王になることを 教える王の師は 必ずしも王であるとは 限りません しかし 彼は知識を 持っているので王を 教えることができます 同様に私も必ずしも 仏陀である必要はなく 人々は「なぜあなたは 自分が仏陀だと言うのですか」と尋ね続けます 私はこう言いました 「私が国を統治する 方法を知っていて 王になることを教えて 助けることが できる限り 私が 仏陀であるかどうかは 重要ではありません」 そういうことです

幼い王子は 師を差別して こう考えます 「 なんでその人は 私を教えるのか 私は将来の王だ なぜ彼は私を教えねば ならないのか」と そうなら彼は決して 良い王にはなりません 分かりますか(はい) それで私達が悟った マスターから学ぶ時 彼の経験と能力を得ることが 重要なのです 彼が誰なのかと 疑問に思うべきでは ありません そのマスターも 自分が誰であるか 話したくありません 王の師は王より 賢いかもしれません 王の師がいなければ 半数以上の王は 国を統治する方法を 知らないことを 知っていますか そうでしょう(はい)

劉備は「三国志」の 登場人物の一人です ある日 彼は百官に こう言いました 「軍事戦略と 戦術において  私は孔明より下です 私の智慧は 誰々より下です 私の外交は 誰々より下です 私の力は張飛より 劣っています しかし 私は人々の 才能を活用する能力を 持っています 従って 王になったのです 彼の言う意味は 目的を果たすために 多くの有能な人が 必要だということです 同様に 幼い王子は 王の師からの指導を 受けないと 王にならないでしょう 王の師は 王ではありませんが 王にとって 非常に重要です 彼は前の王の 師でした そして 新しい王を 助けて 国を統治するのです しかし 名称だけなら 王は最も偉いのです そうですね(はい) ですからあなたは最も 偉大です 私ではなく 私はまさしく 王の師であり あなたは王なのです

私達が対等であり 少なくとも 同様であることを 理解してもらいたい 私が誰かより 優れているとか 偉いとは思いません 私は毎日 本日は 自分が十分良いか 適切であるかを 反省しています 毎日 このように 反省しています すべてを 精一杯 実現したなら 私は眠れます

多くのことで 皆さんは私より 優れています しかしあることは 私は皆さんより早く 学んだのです すなわち霊修行で 内在の自性にどう 耳を傾けるか どう全能の力を 見つけて それを 使用するかということ この力は皆さんや 他の人にとって 十分に使えます

今日 何人かの 修行仲間に 台南で一緒に竜眼を 食べた時のことを 話しました 二、三個しか食べて ないのに疲れてしまい 竜眼を食べるのは 非常に疲れます 皮を割って 中に虫がいるかどうか チェックしてから 噛みます そして長く噛んでから やっとほんの少しの 竜眼を食べることが できます 一、二個食べてから 私は「もういいです とても疲れた」と 言ったのです 仕事が多すぎて 成果が少なすぎます その時 彼らに 私は沢山のことが 苦手だと言いました それで 彼らは 誰もがそれほど偉く ないと分るでしょう この肉体は 非常に限られています

多くの幻想を 持たないでください 私から学ぶなら あなたは多くの幻想を 持たないでください なぜなら 私は全ての 短所を弟子に言います 分らないことは 何でも 彼らに言います 私が怒っている時 皆が分ります 私が泣く時も 皆が知っています 私が笑う時 皆が はっきりと見ています 隠すことがありません 人前で泣きます 怒っている時 皆が 私の怒りを知ってます なぜなら 肉体には 限りがあるからです どんな肉体でも全てを 習得するのは無理です 肉体はあることに対し 処理できますが あることはできません さもなければ 私達は忙しすぎます

幸い私達にはそんなに 多くの能力がないです

失望しないでください 私達がより単純で あればあるほど もっと神 道と仏陀に 愛されます なぜでしょう その頭の良くない 人々は非常に控え目で 彼らは 傲慢ではないからです 「ああ 私は世界の へそです」とは 彼らは言いません 意味が 分かりますか へそは 全身の中心です

世界の中心とは 最も重要なもの まさにその中心を 意味します 誰でも注意を 払わねばなりません 単純な人が 道に到達することは より簡単です 人々が知れば知るほど より多くの問題を 抱えます ちょっと比べて 見てみましょう 例えば マスター神秀は彼の マスターから三十年 以上学び 全経典を知ってました 六祖慧能は 字が読めません でした しかし 彼は僧に なるとマスターの職を 受け継ぎました 皆がとても驚いて なぜなのか疑問に 思っていました 釈迦牟尼仏は 非常に知的です 彼は文学と武道に 熟練していました 彼は全ての栄光と富を 持っていました 

従って 彼は六年間 苦行せねばならず 仏陀に到達するのが 長い時かかるべきで あるということでは ありませんし 苦行でより早く 仏陀に到達するという ことでもありません 私達の心がどれくらい 純粋か そして 私達にはどれくらい 信仰があるか次第です そのため釈迦牟尼仏は 「信仰は全ての霊的な 功徳の源です」と言い 強い信仰がある限り 私達はすべてを 達成します それを知らなくても 誠実であるべきです 強い信仰があることを まだ知っているなら それは十分な信仰心が ないことを意味します

わかりましたか (はい)いいですね イエスキリストは 「神に何を求めても 神がそれを提供すると 誠実に信じるべき」と 言いました それで あなたはそれを得ます どのくらい得るかは 信仰がどれくらい 強いかによりますか なぜ私達がそのような 簡単な事をするのは それ程難しいのですか

それは私達には あまりに多くの 掃除すべきである 先入観があるからです 今日 この部分を 綺麗にしても 明日 新しいものがあります そして 昨日または 一昨日の概念さえ きれいに片付けて いませんでした ああ 概念でいっぱいです それらの先入観は それらの先入観は どこから来ますか 大部分は知識からです 私達は多くの無用な ことを学びました 私達は多くの無用な 本を読みました 私達は理解できない 多くの聖書をよく 読みます 

しかし 私達は分ると思います ある部分は より簡単で明確です そして 私達はそれを 理解すると思います その後 私達は 実現を達成したと 思います 従って 私達は デバダッダ 釈迦牟尼仏を最も 中傷した人のことを 聞くのです 私達は彼が常に仏陀を 傷つける方法を探すと 聞いていました 今でも私達は彼に大変 怒りを感じます 私達は失礼な口調で 彼の名前を呼びます そうでしょう

私達は釈迦牟尼仏が 生きていた時 彼を 攻撃している六人の 異端の先生がいたとも 聞いていました

私達がこれを読んだ時 怒りを感じました そうではないですか 彼らを「それらの 異端の先生」と呼びます 彼らを「それら」と 言います 意味が分りますか 他方では 私達は釈迦牟尼仏を 「世尊」と 言います 「それらの異端な 宗派は私達の世尊を 中傷します」 突然あらゆる出来事が 仏陀に起こったのは 私達にとって重要で あるように思えます しかし それは 釈迦牟尼仏が 中傷されたことです それは私達とは 無関係です 釈迦牟尼仏でさえ当時 気にかけませんでした

しかし 私達は 釈迦牟尼仏が「私達の もの」でありそれらの 異端な人は「悪魔」で あると考えます 私達が釈迦牟尼仏の 味方をし始めました 私達は彼の内面の 体験について そして 彼の弟子がどのように 彼を尊敬したかを読み そして 私達は彼らの 例に倣います これは非常によいです しかし一つ忘れてます 釈迦牟尼仏が 亡くなったことです 敬意と称賛を受ける為 彼はここにいません 私達の親が他界した なら どんなに 親孝行の子に なっても 何か変わりがあるで しょうか(いいえ) たとえ彼らに多くの 食物を提供しても 彼らは食べられますか いいえ たとえ彼らに多くの 服を買っても 彼らは 着れますか (いいえ)着れません

同様に釈迦牟尼仏は どんなに有名でも どんなに有力でも 亡くなったらなら もう一つの境界に 行って他の種類の 衆生を教えます そこで彼の過去の 弟子を教えます 若干の弟子はまだ 非常に高いレベルに 達しませんでしたから 彼はそれらの弟子達を 教え続けます 彼はそれらの弟子達と 見えない世界にいます さて 私達は 彼らの内面の体験を 読んだとき それで 十分であると思います 私達は仏陀と彼の 弟子だけが内面の 体験を楽しむことが できると思います

私達は 経典の中で 迷っています 彼の本意 彼が本当に言いたい ことを忘れました 私達の在家弟子の 一人はこう言いました 「私達は悟った マスター 在世の仏を 見付けねばならない それで解脱できる」と 彼は 肉切り庖丁を 下ろせば すぐに仏陀になると 言いました つまり 肉屋がいったん その包丁を下ろし 罪を後悔すれば 彼はたちまち 仏陀になります そうですか(はい) そうしたら  なぜ私達のような人は 一世で解脱したり すぐに悟ったり しないのですか 私は真実を言ってます 古代から 悟った マスターは皆私達に これを保証しました 彼らは唯一の目的の ためにここに降ります 人々が即座に悟って 一世で解脱することを 助けるためです それ以外の任務は ありません  こが真のマスターです 真理に到達して この悟りを他の人に 伝えることが できる人が真の マスターと呼ばれます

私達 出家の誓いを した人は 人生で 唯一の任務しかなく それは 霊性の修養です 正しいですか(はい) 私達が 浄土マスターなら 「南無阿弥陀仏」を 唱えねばなりません そうですね(はい) 私達がチベットの マスターなら 「オム マニ ベメフン」 と唱え 毎日数百回 仏像に平伏しなければ なりません 私達が禅師なら 毎日瞑想し 禅公案を熟考します 私達はそのような 生き方をすべきです

マスターは マスターとなるのは 自分の修行を通じて 真理に達したからです 彼は悟りを他の人に 伝えられるので マスターになります

マスターの責任は 一つだけです それは 修行を遂行して 他の人が修行するよう 助けることです それ以外 他の任務はありません なぜなら私達は 既にこの世界を 十分に見たから ただ修行したいだけ そうでしょう (はい) この世では 誰にも 自分の義務があります 例えば 英語の先生は 英語を教えるべきで 医者は患者を 治療せねばなりません 霊性のマスターは 悟りを探して 彼らが 悟りを求めるなら それを他の人に  伝えねばなりません そうでしょう 霊性のマスターはこの 責任を成就すべきです

それだけです そうしなければ 真のマスターではなく 少なくとも 私達は修行しなければ なりません 私達は必ずしも教えに 行く必要はありません 誰かを教えるには 彼らとの縁が 必要です 私達に多くの人との 縁があれば 彼らを 助けることができます 縁がなければ必要ない そういう意味です でも私達は修行せねば ならず 世俗の問題に 介入すべきでは ありません 私達はいかなる理由や 口実でも 誰も 傷付けてはなりません 正しいですか(はい) いいでしょう 非常に明らかです

従って 古代から この世に降りた 真のマスターは皆 人々が即座に悟って 一世で解脱するのを 手伝うことを 約束しているのです すべての有名な マスターは誰もが そう言いました 今日まで私達が知る 真のマスターは皆 同じ事を言いました 「私に従う者は 光を持つだろう」と イエスは「私は世の光 私に従う者は 決して暗闇の中を 歩まない」 彼の言った意味が 分りますか 「私は世の光であり 私に従う者は 決して暗闇の中を 歩まない つまり即座に悟りを 得られるという 意味です

彼を信じる人は誰でも 天国へ行けると 彼は言いました また釈迦牟尼仏も 同じ事を言いました 仏陀に会える機会は 極めて稀だと 彼は言いました 仏陀に会うためには 沢山の功徳と 福報が要ります あなたが仏陀 または 開悟したマスターに 会えるなら 確実に解脱します これはキリストが 言った事と同じです
この世界には 多くのいわゆる 霊的な法門があります ある人々は山々を 崇拝したり 水を崇拝します また ある人は山々へ 巡礼しますね

彼らはそこへ行き 崇拝します 彼らはそれら霊的で 宗教的に有名な 場所を崇拝します 例えば ブッダガヤ エルサレム 預言者 ムハンマドの地 メッカなどです 彼らはこれもまた 霊修行と信じています 例えば 毎日 懺悔したり崇拝したり 仏陀や イエスキリストに祈り 経典を唱えたり 仏像を拝みます 彼らはそれらが皆 霊修行だと思います これらのいわゆる 霊的な法門は ある意味役立ちます それらは 解脱や輪廻転生からの 解放を切望する人には あまり役立ちません これらの修行は 単に福報をもたらす だけだからです

私達は山々を 水を 遺物を崇拝し 塔や寺院を建立したり 僧や尼僧に 供物を捧げたりします これらは全て 沢山の福報を得ます このような福報は 私達を天国へ 行かせることが出来 非常に長い間 至福の 境界を楽しめます ある人々は 数百年間 何千年 何万年と 天に昇れます これらの大きな福報の おかげです 彼らがこの世界に 生まれ変わった時 彼らはまだ非常に 美しく優雅で親切です これらの人々には 多くの福報があります また 彼らは非常に 裕福になるでしょう でもこのようなものは すべて私達を 三界内に束縛し 私達が永久に 自由になることを 妨害するのです 従って私達が 解脱したいなら これらの福報は 私達の役に立ちません

福報だけが 欲しいなら これらの行為は 非常に役立ちます 裕福になりたいなら もっと慈善活動に 寄付すべきです 美しくなりたいなら 人々をもっと 称賛するのです 更に寺院を建立し 仏像を立てて 更に僧や尼僧に供物を 提供したりすれば 私達は美しく 裕福で 高名で 強力とかに なれるでしょう 私達は世々代々 裕福になり 天国にいるその間 非常に幸せになります 地獄に落ちることも ない などなど でもあなたが 解脱したいなら それらの事は 二の次です 解脱したいなら 私達は他の道を 取るべきだからです

例えば 私達がここから高雄へ 行きたいとします 私達は車で行くか 電車に乗ります しかし米国へ 行きたいのなら 私達は飛行機か船に 乗らねばなりません 海岸線とか 海の中を運転しては 行けません 月に行きたいなら 宇宙船に 乗るべきですね 異なる目的地には 異なる輸送手段が 必要です それだけです 地獄へ行きたいなら もちろん 私達は皆そこへどう 行くか知っています 行き方が分かりますか (はい) 言う必要はないですね

それは簡単です それで聖書で言います 「破壊への道は 非常に大きく 広い とても多くの人々が そこを歩いて行く 自由への道は 非常にせまく そこに 入る者は大変少ない」 この意味は破壊に 導く道は私達を傷つけ それは大きく広いが 多くの人々が そこへ駆け込みます しかし私達を解脱へ 導く道は非常に狭く ほんの数人しか 歩いていません そういう訳で 多くのいわゆる 霊修行者は私が 教える法門が嫌いです なぜなら菜食を 要求されます 殺さない浮気をしない ただ夫または妻だけを 伴侶にして下さい 彼らにできましょうか

例えばそういう事です 更に 嘘は言えません どう仕事したらいいか 酒を飲まなければ 人々は男として 十分でないと思います 中国の人々は普通 男で飲酒しない者は 風のない旗のような ものだと思います そうですね だから非常に困難です 数人の人々は私に 安売りさせようとして 「私は全ての戒律に 従います 飲酒は除いて! それは止められない 顧客の接待をせねば なりませんから 仕事上とか 社交の目的において 私は人々と飲酒せねば なりません」と 私は言いました 「飲酒はだめです」 言い訳は一切なしです

誰もあなたに飲酒を 強要できません 皆 自由なのです それは私達自身の頭脳 がそう考えさせます 飲酒を強要するような そんな悪友が 本当にいるなら 彼らを排除すべきです そうでしょう そんな友人は 持つべきではないです 私も以前は普通の 社交生活を送って いました 私の元夫は 医者でしたから 私達の友人は皆 科学者や弁護士 技師 医者 教師 教授とかと いった人々でした よくパーティーを開き 私達は食事を持参し 彼らも持参してきて 彼らは幸せでした 彼らは私達の菜食を よく食べていました

ただ他者に従うべき ではないのは本当です 自分自身の独立した 権利があるのです 人々は私達を尊敬し 私達の道に従うのです 以前私も仕事をしてて 赤十字社で 働いていました そこには多くの 同僚がいました 事務所には私だけでは ありませんでした そこには多種の 人々がいました そこの全ての人は私が 菜食だと知っていて 特別な会合がある時は 私に菜食の食事を 用意してくれました 彼らがしなかったら 私も要求などしません いずれにせよ食事は 自参します 皆が知っていました 私は菜食の食べ物を 彼ら用に持って行き ちょっとした軽食など 分け合いました 皆が喜び 全く何の問題も ありませんでした 菜食になると社会的 地位に或いは仕事に 影響を及ぼすとは 言えません ええ 私は以前そうして いたからです こうは言えません

「私はよく旅行します 外食することが多く 菜食になるのは 不便ですから」と 私もまた旅をしていて 三〇カ国以上へ 行きましたが 一度も どの国でも肉を食べた ことはありません これは私が尼僧になる 前でさえもです 私がまだ若かった ころのことです 私は元夫と あるいは一人で 旅をしました 私には一切問題は ありませんでした 私はまだ生きています これはあなたもできる という意味でしょう 私の人生を話しました あなた一人ではないと 分かります 私も全て体験しました それが大きな問題では ないことを知ります 質問はどうして 適切な手配を 取るかです それで人々は菜食に 強要されていると 感じたり 私達はおかしいと 感じることです 私達は正常で 普通でシンプルで 平和的なはずです 菜食でいる事について 理にかなった 選択として下さい

この方法で人々は 私達の勇気を 信頼を 楽で自然な感覚を 感じるでしょう キマリが悪いと感じ 自分が菜食な事を 隠さないで下さい どうか嘘を言わないで 「いいえ私は今日 調子が良くないのです それで私は今日菜食に します」と言わないで もちろん 人々はこのようでは 不快に感じるでしょう 分かりますか 私達は自信を持って 自然で優雅でいる べきです 私達が食べる物の事等 他者には関係ないです

私達が仕事を 上手くこなす限り 正当な人である限り 私達の責務を 果たす限り誰も何も 言う事などできません 私達の事について 彼らがそうするなら ただ微笑んで言います 「自分の食事が あり私にもあります」 そうですよね(はい) 私達は一人か二人の 友人のために 私達の選択を言い訳の 妥協に使わないで あなたが死ぬ時 友人は誰も 助けに来ません その時 あなたの話を する人もいません 「ああ地獄の閻魔大王 どうか私の友人に お慈悲を」と 彼はワインを飲み 私のために肉を食べた 代わりに私を罰して 必要なら 私を地獄に 留めてください 彼を放してあげて」と 誰があなたの為にそう 言いますか(いいえ) 彼自身地獄に落ちて しまう事も可能です あなたもあなたの 友人も両者が一緒に 地獄に手に手を取って 落ちることです その時誰が助けて くれるのでしょうか 従って私達は言い訳を すべきではないです 精神修養のために 理由を見つけて下さい そうしない言い訳など 作らないで下さい

昨日とても良い質問を した人がいます でも明確に書かず それで抜かされました 彼は私に外で苦情を 言いそこで 私に再び尋ねました 彼はここにいますか (いいえ)いないですか

彼の質問は 私達が観音法門を 修行する時 私達自身に加え 他の人々をも眼に 見えない衆生も恩恵を 受けるのでしょうか 私は「はい」と言い 私達自身が恩恵を 受けるだけでなく 私達の両親 家族 五、六、九世代に渡り 恩恵を受けます そして彼はまた尋ね「無数の衆生がいます どうやって皆 彼らを 助けられますか」と 「まず自分を 親類を 救って下さい」と言い そこには多くの他の この世を去りたくない 他者がいます そうですねただ彼らを 放っておきましょう

多くの子供達を見ます 毎年生まれます そして私達は思います 「私はいつになったら 教師として全ての子ら に教え終えられるのか もう今止めたい」 それは合理的ですか (いいえ)いいえ 私達はちょうど 私達の世代の子供達を 教えます 次世代を教える 他の者たちが います 私達は私達の教師の 義務を放棄する事は できません なぜなら 無数の子供達が 次々に生まれ出て 来るからです それは論理的ですね 私達自身が自分の 霊修行に取り組み そして他者が恩恵を 受けるのです 皆が観音法門を 修行するなら皆が 解脱する事でしょう 多くの人々を救わねば というようなことは 私達は心配無用です そうですね でもあなたはここで 待っています そして 皆が他の人々が始める のを待っているので それで誰も修行しては いないのです

マスター 観音法門を修行する 弟子だけが 死後三界を超える所へ 行きます これは「貪欲しない」の 戒律に違反しますか なぜ違反するのです 違反ではないです 皆がこのように 「貪欲」なら仏陀は皆 喜ぶでしょう 何が貪欲なのですか この世界への執着と いう意味です 高名 金銭 地位というような それが貪欲です でも私達が手放すなら この世を去りたいなら どう貪欲になりますか ええ多分それもまた 貪欲なことでしょう でも高い境界です 世俗的な貪欲さより ずっと良いでしょう あなたが全く貪欲に なりたくないなら 三界を超越するよう 貪欲でいて下さい ささやかな世俗の 事柄にではなく この種の貪欲さは いいでしょう マスター より良く理解するため 観音法門の修行の 進歩のために 私は家族や仕事を あきらめてあなたと 共にいられますか

いいえできません すべきではないです あなたの夫 妻は どうしますか あなたが家を離れます でもあなたの子は 非常に落胆します あなたの両親も面倒を 見る人を必要とします あなたの両親が 他界しているなら あなたが独身で 子供がいないなら もちろんできます でもしなくていいです あなたに何も責任が なければ 両親が同意するなら 独身で多くの責任を 抱えてはいないなら あなたは私と 共にいられます でなければ あなたは 家で菩薩になれます 両親の面倒を見て 社会的な責務を 全うするのです 観音法門を 修行するのと 同時にです それは最近では カセット ビデオ 書籍等入手可能です

あなたは旅をして私に 会いにも来られます 余裕があれば 毎週末 彼らは苗栗に来て ここでキャンプして 一緒に瞑想します あなたにもできますよ 毎日私と共に過ごす 必要はありません

マスター私は菜食の 食事を食べたいですが 両親は私に肉を 食べるよう強要します 良い子として 彼らに従うべきですが 「殺さない」の 霊修行の戒律に 違反する事になります このジレンマを どうしたらよいですか それは問題ですね 今生で それが未解決なら 来世でも同じ問題が 起こることでしょう なぜなら各人生で 両親があなたを 誕生させるのですから 最良の方法は今生で 問題を解決する事です 両親に愛を持って 話をすることによって 彼らに説明するのです

科学的側面の観点から 菜食は健康に 有害ではない事を 時に両親は 菜食は栄養が 不十分なのではと 心配するからです 私達は 健康そうで強い ゾウの 馬の 僧侶の写真を 見せたらいいでしょう 菜食になるにあたって 何も問題がないことを 彼らに提示しましょう 時に両親は私達が 僧になる事を恐れます 菜食になるのは 僧になる訳ではない ことを教えるのです あなたがまだ結婚する ことを考えていると 知らせ 心配するのを やめさせます あなたは両親の愛を 理解すべきです

何であれする事は 自分にとって良く そこには何も悪い意図 等ないことをです 彼らは菜食では栄養が 不十分ではと心配し 私達はその事を知らず 又は僧 尼僧になり 家を離れるのではと 思うかもしれない事を 彼らの愛の為あなたを 止めさせようとします それで適切に彼らと 話をしてあげて下さい よく説明をするのです それで大丈夫でしょう マスター 私は 印心を受けてませんが 瞑想の時 内面の 白い光と赤い光と 黄色い光が見えます この光は どういう意味ですか 開示をお願いします これはいいことです

あなたは自分の本性を 少しみることが できたということです でもあなたはまだまだ 沢山のことが 分かっていません 従ってやはり 観音法門を修行する 必要があります すると一歩ずつ あなたの成長に合わせ 私が指導します この方が あなたにいいのです でないと マスターなしでは 体験があっても分らず 間違った道に入るか 魔に取りつかれ やすいです マスター 釈迦は分け隔たての 心がありませんか なぜ阿難を他の弟子 より可愛がるのですか 釈迦はもう 入滅しています 彼にどう確認しますか 阿難を特にひいき したのではありません

彼が阿難を選んだ のではありません 仏典を心を込めて 読んでいませんね 釈迦には他の 世話係がいました 世話係がいました 後から人は 阿難を推薦したのです 阿難は三回も 断りましたが 無駄で 彼は仏陀の 世話係の役を 引き受けたのです 人々は阿難には 釈迦の世話係としての 資質を持っていると 思ったからです それで阿難はそれを 受け入れたわけです 釈迦が彼を選んだ 訳ではありません マスター なぜ仏菩薩達は 高い境界から降りて 来た時 自分の仏性を 忘れるのですか 忘れている人もいれば 覚えている人もいます

インドに 一人の有名な女性 修行者がいました もう往生しましたが 彼女はインドで 国際的にも有名で インディラガンジー インドの元首相も 彼女の弟子でした 彼女は生まれる時の 事を完全に覚えていて 弟子達に自分の 生まれる時のことを 語りました 彼女は 生まれる時 肉体は 母体と繋がっておらず 現れたかのように 生まれたのです 私達も 釈迦が生まれた時 釈迦が生まれた時 七歩歩いたと 経典で読んでいます 釈迦は自分の栄光の 地位を忘れていません

大半の仏菩薩が 無明に見えるのは 私達に 平凡で無明な衆生でも 霊修行できると 分からせるためです 仏菩薩達が 自分の 地位を生まれながらに 見せてくれるとしたら 私達は首を横に振り この人達は 本々聖人で 偉大な存在なんだ 彼らが真理を得たのは 当然のことだ 私達は生まれた時 自分が誰だかまったく 分からなかった 私達には霊修行が できっこないと いうでしょう マスター 我が家は 皆クリスチャンです 四十年来 初めて マスターの 経の講義を 聞きました 私は解脱したいのです どうしたら専念でき あなたと同じ体験が 得られますか 助けて下さい 有難うございました

もちろんです 問題ありません クリスチャンでも 他の宗教を 信仰していても 皆解脱できます 全然問題ないです 印心を受ける瞬間 あなたの魂は解脱する ことが保証されます 霊修行を 続けさえすれば  必ず解脱すると 私が保証します 印心を受ければです あなたは 何もしなくても 何も変えなくても 必ず解脱します ご安心ください

マスター 私は九年前から 修行を始めたのですが いつでもどこでも 耳元で何とも 言えない話し声が 聞こえます 私は魔に取り付かれた のでしょうか この質問をした人は どこにいますか どんな音 どんな声を 聴きましたか この世界の言葉では ないわけですか もっと教えてもらうと 説明できるのです まあ いいでしょう

状況によりますが あなたがまだ正常で その声があなたに悪い 事をさせていなければ まだ大丈夫です それを聞かないのが 一番いいです なぜなら話し声は あまり高い境界からの ものでないからです いいですか マスター 私は七十歳近いです 私は毎月の 一日と十五日に 菜食しています あなたは私を愛して くれるでしょうか また昔 悪い事を 沢山しました 尚も愛してくれますか

私には愛さない人は 一人もいません 私には誰かを愛さない 権利がありません この世界で悪い事を してない人はいません

あなたの周りに 座っている人達は 皆同じです 印心を受けたいなら 親類に 印心した若い人がいて その人に助けてもらう 必要があって 一緒に修行すると より安全です あなたは年取った上 今まで完全菜食を していません 観音法門を修行する 場合 色んな事があり 年取った人には 理解しにくい ものがあります

ただ菜食をすべきです 完全菜食です すでに他のマスターに 帰依していますが それでもあなたに 印心を受けられますか 問題ありません 私に帰依するよう 求めたりしません 他のマスターに 帰依していいのです 私とは観音法門を 習えばいいのです あなたは引き続き その人について 彼の世話をしながら 観音法門を学び 家で静かに 観音法門を 修行すればいいのです これは別のマスターと 関係ありません マスター 印心後 いつも悪い夢をみたら どうしますか 一定期間 修行した後 いい夢をみます

これは悪いカルマ (報い)が 重過ぎるからです 時々私は彼らの夢の 中でそれを解決します 悪い夢を見るのは カルマが(報い)が 重いということです 私は皆さんが生活の 中でそれが起こって 欲しくないのです 例えば焼けどや怪我 するなど夢の中で 起こるようにします 分かりますか 夢の中で起こる ことによって 私達の体は 傷つきません 死ぬこともなく 災難にも遭いません 悪いカルマ(報い)を 夢の中で体験するのは 生活の中で それを経験するよりは いいのです

これは私達に 悪いカルマ(報い)があるということで 定まったカルマは 変えられないのです 例えば 今生で 人に傷つけられ 災難を経験する カルマである場合 これは変えられません そこで夢の中に おいて解消します 観音法門を暫く 修行した後 いい夢を見るように なります 後には 夢を 全く見なくなります マスター  仏教の弟子になるには 必ず観音法門を 学ばねばなりませんか 私は今地蔵法門を 修行しています 矛盾しませんか

地蔵王経は 読み上げるもので 観音法門は 修行するものです 地蔵王経に 何が書かれているか 皆さん分かりますか あらゆる地獄の 状況について あらゆる苦しみに ついて語っています どんな悪いカルマ (報い)を作ると どんな地獄に落ち どんな罰が 加えられるかなどです 読めば読むほど 恐ろしくなります これでは悪い夢を 見るのは当然です それを読みたければ 読んでいいですが 私は他の経典を お薦めします それはより楽観的で 私達に役に立ちます 例えば 普門品や 法華経 金剛経などは より楽観的です どうしてあんなに 悲しくて悲観的で 厭世的な経典を 読むのですか 地蔵王経は 地獄にいく人のための 経典です 彼らは地獄から 上がる事ができない ことを恐れて 地蔵王を 知っておく 必要があります 地蔵王はもっぱら 地獄の魂を救います 観音法門の修行者は 決して地獄に落ちる ことはありません

従って地蔵王経は 読むべきでないです いいですか 読みたければ それでいいでしょう マスター 霊修行をすれば  君子の相になれますか なれます ただあなたは君子の 相の意味が分かって いないと思います

あなたは女性で 男性になりたいと するのであれば 失望するでしょう というのは肉体を 変えるわけでは ないからです 霊体が変わるのです 分かりますか 君子の相とは男性の 容貌のことではなく とても美しく 威厳があって 立派で 尊敬されるに値する 容貌のことです これを得るには または見たければ やはり修行すべきです 普通の人には 君子の相を見ても 分かりません 従って たとえ私達が 仏陀になったとしても 内面の境界を 持っている人だけが 見て分るのです でないと 誰も分かりません 従って君子の相だの 女子の 容貌などは 大きな問題では ありません

マスター 印心後 時間がなくて 瞑想出来なかった場合 罰せられますか 罰などはありません ただ進歩しない だけです 印心で得た パワーを台無しに するだけです 例えば 英語を習うために 先生に申し込んで おいたとします 先生は第一課 第二課と教えていき あなたは それを書き下ろし 受講料も払いました しかし あなたは 家で練習しないと 役に立ちますか

霊修行の場合も 同じです マスター 霊修行を してから何事に 対しても淡々として 以前のような抱負も なくなってしまうと

これは社会にとって 利益になりますか

社会に役立ちます そういうことではなく 物事に対し 淡白であることは 空虚になるのではなく名声や富を追求せず それに執着しない ということです 例えばあなたは高い 地位にあるとします するとどんどん 昇進することを 望むわけです しかし私について 印心を受けた後 そんな強い願望は ありません 昇進してもしなくても 満ち足りているのです その地位を 捨てなさいとか 辞職し出家して 私に追随しなさい という意味では ありません それは容認しません

あなたはその地位に いながら もっと うまく仕事しますが 結果に執着しません 最善を尽くして 国に対する 義務を果たします しかし昇進や 名声 お金のために するのではないです そんな執着心は ありません 昇進しても 浮き浮きせず できなくても 気落ちしたり 逆上したりはしません 執着心を手放す という意味であって 仕事や責務を捨てる ことではありません この違いを区分する 必要があります

マスター 皆が仏陀だとすると なぜこの世界に きているのですか 誰もが仏性を 持っていて 誰もが仏陀から 来たのです 世界を加護するために ここに来ています でなければ この 世界は不毛の地に なったでしょう 石や樹や草と 石や樹や草と 動物だけで 人間は住んで いません 私達がこの世界に 来たのは加護する為で 加護し過ぎて パワーを 使い果たしたのです 今急いで 充電すべきです そして急いで 責務を果たした後 天国に戻る ことができます 今度は他の人が降りて 来る番になります マスター 最高の 境界は何ですか 最高の境界を どう表せばいいですか それを知りたければ 私について観音法門を 習えば分かります 必ず分ります 最高の境界は説明 しようがありません

最高の境地なんて ありません 学べば学ぶほど高く 微妙で 測り知れません 仏菩薩に上限が あるとしたら それは 仏菩薩ではありません いわゆる 最高の境地というのは それを知りたがる 人々のために この世界の言葉で 説明したものです でないと人は 永遠に切りがないと 思い がっかりして 挫折感を感じます しかし 修行を 積めば積むほど 最高の境界はない事が 分かります だから私は 仏陀は 阿耨多羅三藐三菩提 (最高の完璧さ)ではないというのです マスター チベット密教の 四腕観音法は 観音法門を 同じですか

いいえ 私達には 「腕」はありません 腕と関係ありません 目も 耳も 鼻も 舌も 体も 考えも ありません その法門は四つの 腕があるんですね 私はそれを切った方が いいと思います 仏陀は最高の境界には 体も感覚も考えも ないと言ったからです 私達はこの「無相」の 法門を修行しています 分りますか 私が教えているのは 釈迦の「正法眼蔵」と 同じです また六祖慧能の 無相の法門と 同じです 相もないのですから 腕は尚更ありません 何もありません しかし 何かを得ています 無相は空っぽという 意味ではありません そうではなくて 形や様態がない という意味です 物質的な形や 世俗的に想像できる 境界はありません
マスター 毎日念仏し 仏陀を拝むと 極楽浄土に 生まれ変わることが できますか 誰か念仏し 仏陀を 拝んで極楽浄土に 生まれ変わった人は いますか 私もいないと言います マスター  二つ目の質問です 人間の欲望は 切りがないのに どうやって 解脱しますか

切りのない 欲望があって 解脱できない ということですね 昨日話したように 無量無辺の パワーを使って 洗い流すことです 例えば とても汚い ものがあるとします ここに中も外側も ひどく汚れている バケツがあります 水道の水できれいに することはできません しかし仏陀のパワーは 無量無辺で限りがなく だから仏陀のパワーは 無限だと言います

私達の内面のパワーに 出来ないことは ありません  どんな悪いカルマ (報い)も消せます 私達観音法門を 修行する人は 印心の時無数の生涯で 作ってきた 悪いカルマ(報い)を 完全に消し去る ことができます 悪いカルマ(報い)が 消されたからこそ 仏陀の光が見え 開悟の体験があり 真我を聞き 内面の声を聞くことが できるのです 話し声ではなく とても美しい 内面の音楽です 聞いたことのない 不可思議な音楽です それを聞くと 体はリラックスし 悪いカルマ(報い)が なくなった感じで 本当の喜びを感じます

ある台北にいる 修行仲間は 印心を 受けたばかりの時 彼は太極拳を やっている人ですが 印心を受けた後 嬉しくて嬉しくて キックしながら 一人で 歩き回ったそうです 余り目立つ事をすると 変な人に見られるので 止めなさいと 私は彼に言いました 彼は嬉しかったのです マスター 死ぬ時 まだ三界以下に いる場合 マスターは引き続き 教えてくださいますか しかし 肉体を持って ここで修行するより 上では進歩がより遅い のではないですか そうです 私は 引き続き指導します ただ進歩が とても遅いです ここでの一日の 修行は上では三十日か 二、三カ月 かかります

二つ目の質問です 聞くところによると 瞑想の時 体が動くと もう二度と戻れないと いうことですが マスター 観音法門の瞑想中 体が動かされたり 傷つけられると 死にますか 死にません 私がついているので 大丈夫です 簡単には死にません 私達の肉体と 霊体を連結する 銀色の線があります その銀色の線が 切れると死にます 切れないと死にません 私はそれが簡単に 切れないように よく面倒をみます この線は 簡単には切れません 鋏かナイフで切ると 切れるような簡単な ものではありません 従って観音法門を 修行すると 一番安全です 私が二十四時間 化身でそばについて いるからです 肉体ではありません

マスター あなたが得たのは 真理の力で 神通力でないことを どう確認できますか

昨日 皆さんは私に 観音法門を修行すると 近視が治るのかと 質問しましたが 治らないと答えました 私は皆さんの 仏眼を治して 全ての境界を見られる ようにするだけで 肉眼は気にしない ようにと答えました ルルドの泉は 肉眼だけを 治しますが 霊性の目は治せません 私の法門は霊性の 目だけを治します 肉眼も治るかも しれません 治った人も いますが 私は それは保証しません 私は神通力で 病気を治したことが ありません 皆さんがどれだけ 利益を得たかは どれだけ誠心誠意 修行したかによります 肉体も大分 よくなります しかしこれは 神通力ではありません

神通力は違います すぐに分かります 神通力は 病気を治したり 過去 現在  未来を見たり 風を 吹かせ雨を降らせたり 肉体から離れて また戻ってきたり 人の心を読んだり テレパシーができる など等です これは 神通力です  私はしません 皆が知っています そうですね(はい) マスター 経典には 一心不乱に 「南無阿弥陀仏」を 念仏すると 死んでから 西方極楽浄土に 行くと言っていますが なぜ多くの 世々代々霊修行した 出家者達が いまだに 西方極楽浄土に 至らないのですか それは彼がまだ東方の 境界にいるからです 皆は経典を 誤解しています 私はこれについて 何回も話しました 私の本にもあります 阿弥陀経について 解釈しています 「即刻開悟の鍵」の 第一巻に 書いてありますね (第一巻にあります)

皆さんは 第一巻を買って 読んで下さい

それについての 解釈は「花が咲いて 仏陀を見るとは」の 章に載っていると 思います

マスター 地蔵菩薩も 仏陀ですが なぜ地蔵法門を 教えてくれる先生が いないのですか あなたは地蔵法門を 教えることが できますか できます 私の教えは 地蔵法門でもあります 人々を解脱させ 地獄に落ちないように する法門です 地蔵菩薩も 人々を 地獄から救い出し 地獄の苦しみから 救い出すために 地蔵法門を教えます 私も 地蔵菩薩法門を 教えています 皆さんが沢山修行を 積むと 私が誰で 誰のために仕事して いるか分かります 今それを言うのは 不都合です 言っても 信じないでしょう 自分で修行して 私が誰か見て下さい

マスター  私は警官です 同僚たちは賄賂を 受け取っています 私も受け取らざるを 得ません 私ではこの堕落した 風潮を変えられません あなたなら この場合 どうしますか 皆が裏金を貰っていて 彼も貰わねばならない ということですね

(そうです)これも 大変困った状況です 受け取りたくないと 言えないですか 私のことではなく 人のために聞きます 分かりました 私は警察になった事が ないですが 気の毒に思います 彼は警察ではないので 答えられないですね とにかく誰が 質問したであろうと 人に自分を知られたく ないのですね 気持ちはよく分ります 私は自分の立場で 話すしかありません

私は供養を頂きません

というのは 私は仏菩薩のために 仕事をしています ある組織のために 働いていません あなたも同じで 国や人民のために 働いているのであって 局長とか上官の ためではないのです 彼らに 「皆さんは裏金を 受け取っても結構で 私は何も言いません だが私は 受け取りません」と 話せばいいと思います

耐え難いのであれば 仕事を変えて別の 仕事を見つけて下さい

マスター どうか全ての衆生の ためにもう一度 「無私」とは何か 宇宙と一つになるとは どういう意味か ご説明お願いします

無私の状態は 例を挙げて 分かりやすく 説明すると こういうことです 人が自分の存在を 感じないことです 何をするにしても 自分がやったのでは なく仏陀がやったと 思うのです 褒められても 褒められた 感じがなく 人に中傷されても 中傷された感じが ないことで 動じない 状態にいることです 毎日ゆったりとし 内面は幸せです 外見では 人と接するとき 喜怒哀楽の反応を 示しますが 内面は 静寂な状態にあります 一人の人間なのに 二人のような 感じです 分かりますか 食べていますが 食べません 寝ていますが 全然寝ていません 誰かと関係を 持ちますが しかし関係があるのは あなたではありません

これは一番簡単な 例えです さらに詳しく 説明するのは困難です

観音法門を 修行すると この境地に達する ことができます 他の人があなたに 質問すると私と同様に答えるでしょう マスター 仏陀曰く 私には 真の正法眼蔵と 涅槃妙心 (最高の楽園) 相のなき真の実相 妙法をもっていて これは言葉や文字に よるものではない 経典外に特別に 伝授する法で これを摩訶迦葉に 託したとありますが マスター 仏陀が言う 正法の眼蔵とあなたの 観音法門とはどんな 違いがありますか 開示をお願いします 何も違わないです

正法眼蔵とは 私達に特別な 目があってそれは 秘蔵の宝物だという 意味で その目をいったん 開けると真理を得て 全宇宙の法が 分かります この目を開けると 宇宙のいろんな 境界が分かり いつも自問したり 人に質問しても説明 できないいろんな事が 分かるようになります この目は沢山の事を 知っています ですから「眼」と という言葉は正確な 表現ではありません しかし「眼」と 言わないとそれも 正しくありません というのはそれで 沢山見えるからです

ここにカーテンがあり 窓のカーテンと 同じで カーテンを 開けると 他の境界に 非常に明確な境界に 入ることができます 私達がここで お互いを見ているのと 同じくはっきりして 自然です しかし傍にいる人には 見えません 私達はその境界を 行き来もできます 高い境界もあれば 低いのもあります 今日は 比較的低い境界へいき 明日はより 高い境界へ 明後日はもっと 高い境界へ 明々後日は更に高い 境界へ行きます ますます高くなって 仏土に到達します 究極の解脱の所 最高の境界です

従って正法眼蔵と いいますが 実際は眼ではないです それを 智慧の宝庫とも ダイヤモンドの宝庫 又は究極の 宝庫とも言えます 何と呼ぼうと実に 眼と同じです 肉眼を閉じれば その眼で見えます もっとはっきり 見えます 肉眼で見るのと 同じです ただ別の美しい所を 見ます そして世俗の 知識と違った 不可思議な 智慧を得ます 不可思議とは 表現できないことです だから昔から 多くの修行者が いましたが 私達は彼らが何を 得たか分かりません 彼らに聞くと 彼らは頭を 横に振るでしょう 華厳の境界と 阿弥陀仏の世界は まだ表現できる ほうですが 他の境界は表現 しようがありません

これが真の 正法眼蔵です これを修行すると それらの境界が 得られます つまり他の世界に 移住するとう意味です 私達がいったん その世界に住むと ここには二度と 戻る必要はありません これは智慧で 理解するものです

印心後 自分の家族が 観音法門を理解せず 私の修行を 反対したら 私は冷淡にしていて いいのでしょうか その苦痛を やり過ごすように また彼らの受難を 避けるために私は 待つべきでしょうか 彼らが理解するまで 観音法門の印心を 受けるということを 彼らがこの法門を 全く解らないと どうなるでしょうか どれぐらい長い間 あなたは待ちますか これはあなた次第です あなたがそれを 重要であると 考えるかどうか 生死の転生から 解放されることを それはあなたにとって 永遠の解放がどれだけ 重要かによります

あなたにとって非常に 重要であるなら 方法を見出すでしょう 内なる仏陀と菩薩に 助けを祈るでしょう 家族の理解を 得るために 雄弁を与えて欲しいと そして多くの忍耐力を 与えて下さいと 簡単ではありません 私達には時々あまりに 多くの障害があり テストが多過ぎますが それに打ち勝つよう 努力すべきです でなければ他の誰も 私達のためにそれを してはくれません 次の転生に戻ると 私達は再び両親 配偶者 友人を 持ちます 私達を縛る 私達はこの生でそれを 明確に説明すべきです

しかし私はなぜ 家族が不快に思うのか よく解りません 観音法門は誰かを 傷つけるのですか いいえ違います あなたは以前の仕事を まだ保持しています まだ両親の 世話をしています 配偶者と子供の世話を 前と変らず行う  なぜ人々が不快なのか 良く解りません あなたが外に盗みや 賭博や飲酒に行ったり 奥さんや子供を 殴ったりしたら 家族は恥じ入り 傷つくと思いますが あなたは理にかなった 霊修行者です 盗みも 嘘もつかず 姦通や殺人もしません 家族は理解し 援助すべきでしょう そうですね(はい) これは家族の することとは思えない 本当の家族は こんな風ではないです

子供が二人います 二歳と 三歳の子供です 彼らがマスターの 弟子の僧となることを 私達は切望しています しかし 機が熟すその前に どのように子供達を 教育すべきでしょうか

後にとっておきなさい 子供はまだ幼いです マスター彼には 書き留められない 他の思いがあるのです 教育を受けるべきか どうかを尋ねたいの だと思うのです 世俗の教育は 彼らの霊修行に あまり役に立ちません

後にマスターの 出家僧に加わった時 彼らはその先入観を徐々に洗い流さねば なりません 分かりました それで彼はどの位で 子供たちがマスターの 僧団に加わるとよいか 尋ねているのです マスターに問題を 起こさずにです ありがとう 私はとてもとても 感動しました このような事を 考える人は稀です 私達のほとんどは 子供達を手放せません また彼らの将来を あまり心配しません 非常に感動しました しかし私達は この国に生きています ここの法律を 尊重すべきですね

子供たちが 学齢に達したら 学校に行くべきです 私達は子供を学校に 行かせるべきです また家で教える時間を より多くして下さい 彼らに私の教えを 多く聞かせてください 私達は毎週 集まれますし 私の講義に連れて行く こともできます 子供はこの世の知識を 学ぶために学校へ 行ってよいのです その間に道徳的な 面を同時に学ぶ そういうのはよいです よいことです まだ均衡がとれてます 私達の国には 別のシステムが ないからです

マスター 印心の前 彼は法廷で公証された 金融契約に 入っていました 今は 時間が経ちました 彼は相手から 支払いを求めます しかしその相手は 払いません

どうすべきか思ってて 彼を放っておくべき でしょうか 相手を 訴えるべきでしょうか 訴えたらそれは悪い カルマ(報い)になるか 彼は土地の全てを所有 しているわけではなく 別の誰かと 提携しています 今その相手は資産の 取戻しを求めています 分かりました これもまた私達は 法に従うべきです お金の全てがあなたの ものではないので 相手の要求によります あなたは彼の決定に 従うとよいでしょう 相手が気にしないとか お金が戻らなくても いいなら 忘れて下さい 彼が訴えたいのなら 彼に訴えさせます あなたには他に 選択肢がないからです

また私達は詐欺師に 悪いカルマを作らせる べきではありません 相棒の要求を確実に 見分けるのですよ あなたは彼に従い  彼にリードさせて 全財産が彼の物という わけではないからで それは共同資産です 裕福なら 自身の半額を訴える ことは計画できません それは問題ありません しかしあなたの相手が 訴えたいなら 協力すべきですね

マスター 私達が 家で修行するなら 解脱は可能でしょうか 間違いありません 単に「可能」だけでなく 私達の多くの 在家の弟子が既に 解脱していますね (そうです) 彼はまたこうも 尋ねています 解脱するために 肉体と霊性の両方の 修行が必要でしょうか どうやって進歩し 霊修行をしますか 肉体的に 健康でない場合ですが 肉体的に不健康ですか どんな病気を 持っていますか 問題ないと思います 横たわっても まだ瞑想できます 必ずしも足を組む 必要はありません 椅子にも座れますし 毎日二時間半 座るだけです 大丈夫 できます

これは肉体とは 関係ありません 霊修行であって 肉体修行ではないです

マスター 観音法門 修行者は 死後 どこへ行くのですか 西方浄土へ 行けるのですか 転生の六道を 超えられますか どうか教えて下さい 彼らは輪廻の 六道を超えると 信じています しかし あなたが どの天国に行くかは あなたがどの天国に 行きたいか この人生でどれ程 修行したかによります この人生で あなたが既に 西方浄土に達したなら もちろん  あなたが亡くなるとき 西方浄土に 行くことができます それに達してないなら あなたが到達した 霊性のレベルに従って 私はあなたを 他の世界に 置きます それで私はあなたを 教育し続けて 遅かれ早かれ  あなたに同伴して 西方浄土に行きます マスター 私は以前 所有していたことを 諦めたいが 本当に 手放せないなら 何をすべきですか

それなら放さないで なぜですか あったら 利用して 彼は物質的財産を 言っているのですか (特に書いてません) 分かりました あなたに既に何か あったら ただそれを 使います 分りますか 全てを捨てるべきだと いうのではなく ただ それに 執着しないことです お金があったら それを使えます 良い服があったら それらを着続ける ことができます それらを捨てるのも 残念なことです ただそれに執着しない 私の言う意味はある日 それらが盗まれても あなたは沢山泣く 必要がないということ あるなら 着るのです 着ないならそのままに 尊敬し 親愛なる マスター 私は既に結婚して 子供がいます

私はまだ尼僧になれ 霊修行できますか どう修行すべきですか あなたは尼僧に なるべきではないです 阿弥陀仏 あなたが尼僧になると 子供達は泣くでしょう 私達は家でも 修行できます 修行仲間の多くは 結婚しています 彼らには子供達 夫か 妻がいます 彼らはこのように 生活を送り続け それは 瞑想のために 毎日二、三時間を 確保することです 朝は少し早く起き そして 夜は少し 遅くに寝る このようにすれば すでに二時間作れます 子供が寝ている時 あるいは あなたが 仕事を終える時 再び座れます それであなたには そのように あと一時間半ができ 私達は状況を 変える必要がなく 中から変化することが 必要です

尼僧とは 家族の義務を持って いない人々です 彼らの運命が 尼僧になることです 皆が全て尼僧になる 訳ではありません 分かりますか 尼僧になる必要がなく 誰かがつい先私に 尋ねたのですが 皆が尼僧になると 家族のために 子供を生む人が いなくなります

だから 尼僧になる べきではいと言います あなたが あなたは家族の血筋を 継承し続けるべきです 秘訣は二時間半 観音法門を 修行することです あなたが尼僧になる なら 誰があなたの 子供の世話をしますか 釈迦牟尼仏は 違いました 彼は王子でした 彼の出家後 多くの人々が彼の 子供の世話をしました

私達の多くが 出家するなら 誰も子供の世話を することは出来ません 自分の子供の 世話ができないなら 尼僧になった時  誰を世話できますか

逃げないでください 残って 修行を 続けてください

印心者は供物を受け 取らないようにと マスターが言われて

それは彼らの両親 子供や兄弟も含まれて  いるか彼は尋ねてます

いいえ それはあなたの 家族の問題でしょう それは構いません あなた達は既に 一緒に結ばれたので なぜ 今になって 区別しますか

しかし私は 個人的な使用のために 供物を受けるべきでは ありません

マスターとして人々を 教えるので 彼らから  取ることは出来ません 分かりますか 取るのではなく与える そういうことです

つまり他の人々の 財産を欲しがるべき でないという意味です 何かを与えるよう人に 仄めかすべきではなく それは欲張りです 止めるべきです

他の人々の財産を 欲しがってはいけない それが私が皆さんに 教えていることです

私達が人々の供物を 受け入れても 彼らと何もせず 彼らのために 何もしていないなら それは正しくないです そういう意味です しかし私達はいつも 自分の親戚との間で  あげたり貰ったりして それは供物とは 見なしませんね  (はい)

親愛なるマスター なぜある人は金剛経を 読んでる時めまいを すると感じるのですか それは悪いカルマ(報い)のせいですか いいえ あまりに速く あまりに激しく 読むからです 金剛経を理解するのは 簡単ではありません 何を読んでるか 理解できないのに 頭をしぼりつづける からです それでめまいを感じる ようになるのです 観音法門を私から 学べば簡単に 金剛経を理解できます もうフラフラしません いいですか 簡単です マスター 慮勝彦上師によって 設立された新しい宗派 霊仙真仏宗についての あなたのご意見は どのようでしょう

名前の意味は なんですか 霊は霊魂で 仙は仙人で 真仏宗は彼の宗派は 最も真実な仏教の宗派 だと言う意味です そうですか 霊と仙の両方があり そのうえ仏陀 彼はすべてがあります なら私は彼を祝福し このようにとても 楽しくしているなら 彼を祝福します 私の意見は 人は何でもしたい事を することができます 彼らが幸せな限り 何も悪い事を教えて いないと思います そうでしょう やはり良い事をする のを教えてるでしょう 彼と学んで利益を得る と感じる限り 慈悲 力 智慧と 自由が発展される限り 彼から学ぶことが できます 彼を批評しないで 彼があなたの趣味に 合わないと感じるなら 彼から学ばないで 何も言う必要はなく 誰でもしたい事は 何でもする自由がある ある人はカンフーを 学びたく ある人は太極拳を 学びたく 他の人はゴルフをする それは彼の自由意志

僧侶は皆の 悪いカルマ(報い)を消せますか

いいえ

どの僧侶も他人の 悪いカルマ(報い)を 消せるわけではない 彼らは先ず 修行すべきです 多くの種類の 僧侶がいます 釈迦牟尼仏は経典で それに言及しました 聞きたいですか (はい) 数種類の 僧侶がいます そのうちの二種類は 凡夫僧と菩薩僧です 凡夫僧は頭を剃り 僧衣を着て 授戒します 彼は毎日香で 仏陀の像を拝み 仏陀の像を拭くか 床を掃きます 菩薩僧は 悟りを開いた僧侶です 悟りを開いた僧侶は 人々のために 悪いカルマ(報い)を 消すことができます しかし それも場合によります 彼は人々の悪いカルマ (報い)を消せます 彼らが望む場合だけ 例えばあなたは 悟りを開いた僧侶と 学びます 彼はあなたに印心し その時あなた方二人は 協力する 分りますか 一人は悪いカルマ (報い)を受け取り もう一人は悪いカルマ (報い)を与える意志があります 両方とも協力しないと 成功しません

敬愛なるマスター あなたは常に聖書の 句を引用します 聖書をお読みですね キリスト教と 仏教に関するあなたの ご意見は何ですか

同じです ただ悟りを 開いてない人には 違って見えます 悟りを開いた後 私が言ったことが 正しいと分ります 本当にそれを 理解したいなら 彼らもまた 私と観音法門を 学ぶべきです そしたら理解します 双方とも 同じことを話し 同じ法門を修め 大体同じレべルに 達します

敬愛なるマスター 両親と友人の反対にも 関わらずどうしても マスターについて 出家するのは 正しいですか

まず両親と友人と 交流を図る べきです

両親とよく 交流を図るほうが 良いです あまり彼らの感情を 傷つけないでください 私があなたのために 決定できる事ではなく 自身の状況に基づいて 決めるべきです

だめなら家でも 修行できます 問題を起こさないよう してください 尊敬すべきマスター 願力とは何ですか 加護の力とは何ですか

これらは 経典の用語です あなたはとても多くの 経典を読むので当然 混乱しやすいのです

願力は仏陀と菩薩が 言われた言葉です 例えばある修行者が 開悟したマスター あるいは最高レベルに 達する前に 彼は願をかけます 仏陀になったら これこれの人々を救う と彼は言います

彼はこのように 考え続けます 毎日修行して この願を放しません たとえば先ず両親 それから妻 それから 子供たちを救うと 誓います 次に村全部を救うと そこには多くの 養鶏場があります 例えばそのようにね 彼は常にそれに ついて考え この願は一種の力に なります

彼が悟りを開いた後 それは実現します 彼の絶え間のない願が 建設的な力に なったからです 塔を建設するように 彼は毎日少しづつ 造ります これを「願力」 と 呼びます 彼はそうすると決心し そればかり 考えているので 彼の願望は力に変わり 彼が望むものを 達成することが できます これを「願力」 と 呼びます 加護の力とは 無限の功徳がある 悟りを開いた修行者が 誰かを見た時 その人は無限の 加護を得ます 彼が触れる人は誰でも 解脱が保証されます 彼によって印心された 人は誰でも確実に 悟りを開きます 意味が分りますか (はい) 彼に触れられるものは 何でも彼の磁場がある それが私たちの言う 「加護の力」です それは既にともされた ろうそくのようです 何でもそれに触れたら 火を点けられます それがもう一つの ろうそくに触れたら すぐに火が点きます すべてに火が点きます 分りますか(はい) 良かった 皆さんの愛を ありがとうございます


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