本日は遠いところを 国立交通大学まで お越し頂き 大変 光栄に思います それでも この滅多にない機会に スプリームマスター チンハイにお会いでき 講演を聞ける皆さんに 祝辞を申し上げます 皆さんの人生で これは一番重要な 時間かもしれません 私がこう言うのは なぜなら 私は新竹で働いている 建築家だからです 私の仕事は多忙です より良い生活を 送るよう多く 稼ぎたかったのです

この物質的な人生で 裕福を望みました しかし妻は よく私に聞きました 「お金を稼ぐ目的は 何でしょうか」 私はこう返しました 「稼ぐ以外に何か ありますか」と その後 ある日 妻と私は 清華大学の湖沿いを 清華大学の湖沿いを 散歩していました 突然  はっとしたことですが 私は名誉やお金を 偉大な自由のために 追求していたのです なぜでしょう お金があれば 欲しい物が 何でも買えます 私達が有名で 裕福になれば ある程度 意志を 自由に制御できます 従って  人生の苦労と努力は 一つの目的のためです 裕福と名声は 自由の追求です 私達は他人に 意志を制御されたいと 思いません 自分の意志で 物事を行いたいと 願います しかし不幸にも たとえ  私がさほど裕福で 有名でなくても 少なくとも私の家族は 富裕なのです そういった状況で 一般的には 妻や子がいて 家や車があれば ある程度 自由なはずです しかし友人が 夕食に招いたら 諦めるのは難しいです 自分の都合で 断るわけには いきません

誰かが失礼に話し 目的を達成するために 自分が富と名声が 欲しいからと 他人の意思に負けない のは難しいです そんな状況下で マスターチンハイに お会いする事ができ 人々を自由にする という仏陀の教えを 教えて下さいました いつ自由になるのか それと同時に 私達はお金と名声を 追いかけます 裕福と名声は それを持っているとの 忘れてしまうと理解し 他人に対する気遣いを 理解できるでしょう ですから 私達は 自由意志を最大限に 広げられます 本日は私が話す 必要はありません 私がこの マスターチンハイの 講義に出席したいのは とても重要に感じる からだと言えます 実際 私が 友人にこう伝える 勇気があるのは マスターの教理に 恩恵があるからです 私は五、六年間 菜食者で 昔は自分が 菜食者だと 友人に伝えようとは 思いませんでした なぜなら 「何でわざわざ菜食を しているのか」と 友人が言うからです 実際  菜食は私にとって かなり大変でした

私のことですが 菜食者になる過程で 私も時々思うのは 菜食を 食べていた当時は長いこと自分ひとりで 菜食の食事を 食べていると 肉が食べたくなります それで 皆で夕食に集まると 私も呼ばれました 私はかたくなに 「今日 私は 菜食の日なんです 月の初めだから」 と言ったものでした 本当はお肉が 食べたいなんて 言えませんでした しかしマスターから 学んでから 今では肉を見ると 吐き気をもよおします とても不思議です マスターに聞きました 「四、五年間 菜食するように 無理していたときは 菜食をしていたはずの その日々は なぜ肉が食べたかった のでしょうか」 マスターは言いました 古代インドの 悟ったマスターは 戒律を教える前に 修行法をまず 伝授していました 修行法の伝授とは 悟ったマスターが あなたの本来の力と 結合する一瞬です 結合する一瞬です それで生活の中で それを使えるのです

今ではこれが 理解できます もう肉を食べたいと 思わないからです  自分がベジタリアンで あることを覚えておく 必要はありません こういう状況下で 葛藤や困難もなく 菜食をしています 友人にも気楽に 自分が菜食者だと 言えます 不思議なことに 友人も自然に 受け入れてくれます とても不思議です マスターは言います これはつまり 「戒律を守っている と認識しないで 戒律を守ること」で 六波羅蜜に 書かれています 今では私は自分が 聖なる衆生を愛する ベジタリアンだとは 思っていません そのような力や 私個人の経験から 発見したのは 自分にとって戒律とは ただの用語ではなく 自らの体験として 「戒律を守ると 意識せずに 戒律を守る」 ということです これは真の 六波羅蜜です 理論ではありません 実際にこれは とても自然な反応で この自然現象は 富や名声への野望の 頂点にある 自由という 究極の目標です したがって 風雨にも関わらず 今夜の会合に 来席した皆様を 祝福いたします 皆様のご尽力は 意義のあるものです ではマスターのお話を お聞きしましょう ありがとうございます

新しいお話は ありません 皆さん高徳な人は本来 全て知っています しかし私達は 毎日忙し過ぎて 忘れています 何をでしょう 私達はただお金を稼ぐ ためにここに来ている のではありません さっきも修行仲間と 話しましたが 私達はここに 百年くらい 生きるために 来たのではありません 結婚し 子供を生み 懸命に働き  そして死んでいき 何も残しません 私達は自分の大きな 使命を忘れています 使命とは何でしょうか 自分が誰なのかを 知ることです ここに百年いる間 何をしたらいいのか 知らねばなりません 私達の殆どは普段は 忘れる事が多いですが 苦しい時や病気の時 私達は考えるのです 自分自身に尋ねます 何のために 私はここに来たのか 私は誰なのか 自分はどこから来たか 死後どこに行くかと この問題は 古今問わず多くの人が よくする質問です しかし答えられる人は ごくわずかです 違いますか そう (はい)そうです 私達は釈迦は この答えを見つけた と聞いており イエスもその答えを 見つけており 老子 孔子 菩提達磨または 古代の偉大なマスター 西洋のマスター 例えばソクラテスなど 彼らは答えを見つけた と聞いていますが 私達はまだその答えは 何か分りません

そして人々がこれらの 人について学ぶと 自分も答えが分かると 聞いています そこで 時々私達は自分でも 現在のマスターを 探してみようとします 探して見ることです 現在釈迦のような人は いるかどうか イエスのような人 ソクラテスのような 人はいるかどうか いましたか 見つかりましたか (はい はい)  イエスもノーもいます 見つかった人も 見つかってない人も おめでとうございます なぜなら今日講義を 聞いたら明日見つかる かもしれません ただそういう人は 容易に見つかりません たとえ見つかっても 私達には分りません ですから 大変厄介なことです 私達はよく人々が ある所に 大きなお寺を建てたり 聳えるような教会を 建てていることを 聞いたり 目にします そして毎日多くの人が 時間と金をかけて そこに行って 天や仏陀に 祈りを捧げるのです 私達には見えないので それらに助けを求め マスターを 見つけようとします 在世の仏陀や菩薩を 見つければそういった お寺は建てる 必要もなく 懸命に 祈る必要もありません 自分には何が備わって いるかが分かれば 在世の仏陀 または 悟りを開いた マスターを見つければ あれだけ多くのお寺は 必要ないのです お寺や教会を沢山 建てれば建てるほど まだ見つかっていない ことを意味します まだ見つからない人が そこへ祈りに行きます 決してお寺を建てる ことは良くないという 意味ではありません 教会はよくないという 意味でもありません

皆がそこに行き 善良なことを祈り 道徳的な話を聴く事は 大変良いことです 私が言いたいことは お寺を沢山建てる事は 人々がまだマスターを 見つけていない意味で 見つからないから 祈るのです 一旦見つかると 満足します だから釈迦が在世の時 彼は寺を 持ちませんでした 彼の弟子達も 寺を持っていません 彼の弟子達は毎日 釈迦と一緒に歩いて 托鉢したのです そして適当な所を 見つけては 休んで夜を過ごし 翌日また別の 場所に移動しては 法を広めたのです 弟子達が釈迦を 見つけた後 彼らは 決してお寺を建てて 祈ったりは しませんでした 釈迦に 会っていない人達が 寺を建てたのです ただ釈迦が 涅槃(最高の浄土)に 入った後 弟子達は彼の 舎利を保存して 塔を建て 記念にしたのです これは私達が 両親が亡くなった後 埋葬してお墓を作り 故人を偲ぶのと 同じです 仏陀が往生したら 塔を作って 彼らを偲びます 形が違うだけです

弟子達はもちろん 自分達のマスターが 往生したので 大変恋しく思います そこで 毎日 あるいは 年に一回 あるいは 月に一回 そこに行き 礼拝し 拝むなりして マスターに対する 思いを表したのです これは私達が 両親が亡くなった後 年に一回または良く お墓参りして敬意を 表すのと同じです

どれだけ恋しいか 表したいのです というのはその人に 触ることも見ることも できないため その人と関係のある 所に行き その人を 懐かしみ その人と 語ったりします  しかし 釈迦やイエスは 遠い昔に往生している にも関わらず 私達は未だに寺を建て 彼らを偲びます 私はこれらの人々に 感服するばかりです 彼らを見た人が 懐かしむならまだしも 一度も見ていない人も まったく知らない人を 懐かしがるなんて 彼は二千五百年前の 人ですよ 彼のことなど 全く知らないのです 私達は彼らに 何も教わっていません 私達と何の関係もなく なのに 彼を拝んでいます

これは私達がとても いい人であることを 物語ります なぜでしょうか 私達は誰がいい人だか 分かるからです 誰が私達の内面の 最高の志と道徳を 代表しているかを 分かっています それでその人を 崇拝するのです そこで現在でも 我々は釈迦 イエス 老子 孔子 ソクラテスを 崇拝するのです ただ 彼らを拝むとき 自身になぜ自分は 彼らを崇拝するのか 問うことです 彼らは本々私達と 同じような人で ただ 彼らは一所懸命修行し 精を出して 道を求め 大変精進したため 自分の偉大な力と 最高の境地に達する 事ができたのです 現在でも私達は 彼らを崇拝しています ただ崇拝する時 私達はもう一度自分に 私も彼らと同じように なれるかと問う事です 偉大になれますか 

(はい なれます 信念があれば) そうです 私達は信念があれば できるのです

自分で自分を 見下すようでは誰が 私達を尊重しますか 自分も仏陀になれると 信じなければ誰が 代わりに信じますか 自分で仏陀に ならないと誰が 代わりになりますか

しかし 私達には そういった自信に とても欠けています とても惜しいことです 今日から 皆さんそういった 自信を持ってください

私は皆さんが 全員仏陀になれると
私達の中で