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開悟したマスターの一瞥で解脱する 1/2 一九九〇年一月十二日 屏東、 フォルモサ(台湾)       
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ごきげんようマスター 出家された皆様 会場の 菩薩の皆様 こんにちは 少々お時間を拝借して マスターのご紹介と 私の体験を お話しさせて 頂きます 私は印心して 二年足らずですが 私の 潜在意識の中では 長い間マスターを よく知っているように 感じています 私は一九八八年 五月十四日 高雄で 印心を受けました 印心の一カ月前 私はマスターの 小冊子を読みました そこには即刻開悟と 一世解脱への 道について 書かれていました 当時は 少し疑っていました 古代には 即刻開悟や 一世解脱というものが ありました

たとえば釈迦牟尼仏や 古代の禅師がいた 時代です でも最近では誰の話も 聞かなかったからです それでもマスターの 名が私の心から  消えていくことは ありませんでした かつて私は 熱心な 一貫道の修行者でした しかし 十数年 そこで修行しても 開悟の体験を 得ることや 経典に記述された 即刻開悟の 経験がなかったので 一貫道の ある修行仲間と 密教について 探求を始めました その時は 一貫道の修行も 続けていました 修行をするには 高いレベルの 修行者の指導が 必要です 密教であれば なおさらです

それで その一貫道修行者が 私に台南の蔡さんを 紹介してくれました 彼は高い 霊的レベルに到達し 信じられない程の 神通力を持つ者と されていました 人の過去世が はっきり分ったのです 誰かと電話で 話をしていると その人が 台北でも屏東でも 関係なく 彼は台南に居ながらにして 相手が何をしているか 分りました また 誰かと おしゃべりする間 米国まで旅ができて 幽体離脱をして 彼のマスターと 話ができました ほんの数秒で行って 戻って 来られました

目の前に彼がいても 相手は 出て行った事に 気がつきません ある日 私は林さんと 蔡さんに会いに 台南へ行く 約束をしました しかし偶然 その日の昼 同僚から マスターチンハイが 高雄にいて  三日間講演したと 聞きました その日は 彼女が 印心を授けるので 彼は申し込むと いう事でした それを聞いて 私は言いました 「おかしいな マスターチンハイは 北にいたのでは? なぜ南に来た事を 私は知らないで いたのだろうか?」

彼は こう言いました 「高雄で講演が 三日間あったけれど 君は一貫道の 修行に励み 毎日 寺院へ行っているし 密教に熱心なのを 見ていたので 敢えて言わなかった」 私は言いました「今日 印心を与えるのか! 場所はどこ?」 場所はどこ?」 彼が「午後二時に 澄清湖の入り口に 集合する事に なってる」と言うので 私は この機会を逃しては ならないと思いました 台南の 蔡さんに会う約束は 取りやめました その代わり 印心の 申込みをしました その後 蔡さんには 会っていません 彼は神通力を持ち 天眼も開いています 印心の後 林さんの家へ 行くと すぐ聞かれました 「あなたの マスターチンハイは 文殊菩薩の 化身なの? 蔡さんによれば 彼女はそうらしいよ 彼は彼女をそう見た」 それを聞いて 私は大喜びしました

マスターが現れると その目は本当に輝き 強力でした 彼女の話には 言い難いほど 大きなパワーがあり  偉大な修行者に 違いないと感じました 孟子は 人を知るには その目を見れば 十分だと言いました 正直な人は 正直な 両の目を持ちます 俗物的な人は 俗物的な目を持ち 高慢な人は 常に天井を 見ています 劣等感のある人は 常に床を 見ています 泥棒は 泥棒の目をしているし 嘘つきはずるい目です 彼が口を開く その前に 彼の目が既に 嘘を つくと教えています 従って 偉大な修行者の目は きらきら輝き 強力なはずです ですから孟子は 眼を専門に 占いをしていたに 違いないです 私はその方法で マスターについて よく分りました 更には 印心のとき マスターは 三界について明確に 説明したばかりか それを超越したもの また 開悟のレベルについて 説明されました 印心後には こう質問しました 「内在の仏光 或いは真我が 見えた人 手を挙げて」

おお!実に大勢の人が 手を挙げました 内在のビジョンを 即座に見たのです 私は一貫道に 私は一貫道に 十年以上いました 毎年 そこの マスターが何千もの 人々に印心を与える 所を見てきました 過去十数年です その間に何万もの 人々を見て来ましたが 即座に真我を見て 開悟した者など 一度だって 見た事はありません でもこのマスターが 座るや否や 彼女のパワーは 何百名もの参加者に 送られ 開悟した者 真我を見た者が 多くいました 彼女が掲げる

「即刻開悟 一世解脱」という 看板にも 何の 不思議もありませんし 蔡さんがマスターは 文殊菩薩の化身だと 言った事も 不思議な事では なかったのです 私はずっと文殊菩薩が 大好きでした 全仏陀の中で一番 好きです 釈迦牟尼仏は 文殊菩薩は 古仏の再来で 過去七人の仏陀の 師であったと 言っています 未来においても 何千もの仏陀が 文殊菩薩の弟子に なるという事です 宇宙の 全仏陀の中で 文殊菩薩は その智慧で 有名な菩薩です それで「維摩経」に こんな話があります 釈迦牟尼仏が 維摩の病の様子を 見るため 菩薩や阿羅漢の レベルに達した 弟子の誰かに 行かせようと しましたが 誰も行きませんでした 維摩は高いレベルに 到達した修行者で とてつもない 智慧を持つ者 だったからです 高位の弟子たちは みな 彼に 以前 叱られていました それで誰も敢えて 行かなかったのです 結局は文殊を 彼の元へ送りました

楞嚴経の中で 二十五人の 聖人が霊体験を 報告していますが 文殊に判断を 仰がねばなりません 文殊が口を 開くや否や ほんの少しの言葉で 彼は明確に 各菩薩の 修める法門の 長所と短所について 説明しました この事は マスターが 講義していて 簡単な言葉で 古代の聖人の物語の 混乱した部分を 明らかにするのと 似ています 華厳経の中で 少年 善財は川を 南に 五十三カ所に 立ち寄りながら 旅しました 多くの偉大な 修行者に会い 最後に弥勒菩薩に 会いました 彼は文殊と 言っていますが なぜなら 仏陀になった この最高の師は まだ 「文殊さん」だったので 「法華経」の中で 文殊は龍宮の 多くの衆生を 菩薩の レベルへ引き上げたと 書かれています 彼は八歳の龍の 少女も 仏陀に したとあります

文殊の力は 想像も できないものです それで私は 文殊が若い時分から 大好きだったのです 彼の絵を瞑想室の 壁に貼って ありました 彼を礼拝し 崇拝していました 今 私は真の文殊を 見つけたのです ああ 大喜びしました ですから印心後 いつでも瞑想すると 幸せに満たされ よく大きな声で 笑ってしまう程です 夜 眠る時にも その事を考えると そっと微笑みます それ以来 私は 経典 禅問答等  以前読んだものを 理解し 古代の聖人の 開悟の体験が 明確に分る様に なりました 私の心は喜びで 満たされています 即刻開悟を 与えられるというのは 真実でした 暫くマスターに ついて修行した後 何人かの修行仲間が 内面での体験を 話すのを聞きました

時に彼らは マスターが観音菩薩の 姿で現れるのを 見たりしました 時には 六祖恵能の姿だったり 時には 大きな丸い目の 髭に覆われていて  それは間違いなく 達磨の姿でした ほかに人々が見た マスターは 釈迦牟尼仏 老子 地蔵菩薩 阿弥陀仏の姿でした イエス キリスト 聖マリアのマスターの 姿を見た人もいました 奇妙な事です マスターとは誰なのか 後にマスターは講演の 中で説明しました 彼女があるレベルに 達すると  チンハイという者は もはやいなくなると 彼女の肉体は 神の 万能の力 仏陀の力を 伝達する単なる 道具なのだと 言い換えると 完全に仏性の 管理下にある 道具なのだと 従ってマスターには エゴがありません

でも衆生の 神仏の概念は さまざまです 神は観音菩薩のように 慈悲深い はずだと考える者 神は釈迦牟尼仏の ように偉大なはずだと 考える者 神は老子 孔子 イエス キリスト 聖母マリア 阿弥陀仏のようだと 考える者という具合に それで彼女は 衆生の考えに従って 異なる姿で 現れるのです 実際こう言われます 仏陀は衆生を救う為 どんな姿にもなって 現れると 仏陀が僧や 尼僧の姿 ウパサカ(在家の男性)や ウパシカ (在家の女性) 大臣 王 将軍や 天神の姿をとるのは 衆生を救う為です

彼は そういった姿で現れて 彼らに法(真理)を教え 救うのです これが「観音菩薩 普門品」に あることでないなら  いったい何でしょう それでマスターは 度々言うのです 彼女は如何なる 宗教にも属さないと それでも彼女は 全ての宗教の源を 説いています なぜなら どの宗教の 創始者も  内なる神を 認識するよう教え 内面の仏性を探求し 内在の偉大なパワーを 解脱するために使う 事を教えていますから その教えは同じです

けれども衆生は異なる 国々に住み 異なる伝統 慣習 言語と 霊的背景を持ち 使用される用語は 異なるのです 私達は仏典を 二千年 研究してきましたが 翻訳ミスが まだあり 表現方法も 異なります それで 誤解が生じるのです 特に最近の 殆どの修行者は 大きな開悟には 到達していません それで 宗教間の争いが あるのです マスターについて 修行すれば 全宗教は同じで 自らの宗教を 変える必要はない事が 分ります どの宗教も完璧で 良い教えだからです 良い教えだからです マスターは私達が 自らの仏性 内在の神を探す 手助けをし その力で私達は解脱し 仏陀に到達するのです その時 極楽浄土を 思い通りに 行き来できる 真の自由な人間に なれるのです

マスターについて 修行すれば マスターには 何十億の化身があり 遍在すると分ります どの瞬間も 彼女は教え 常に保護し 常に祈りに 答えてくれます 修行仲間は フォルモサ(台湾)の 各地はもちろん 米国 ブラジル アルゼンチン コスタリカほかの  世界各地にもいて 彼らがマスターに 祈れば いつでも 彼女はすぐ現れ 助けてくれます 従ってマスターは 「即座のヘルプデスク」 センターです 一昨年の 宜蘭での国際禅七で あるシスターが 見たマスターは 蓮の華の上に座り 太陽のような光輪に 包まれていました

その光の輪は 何十億もの光線を放ち 各光線からは無数の 仏陀が現れ出たと いう事でした これはいわゆる 「無数の仏菩薩が 光の中に 現れる」です 従ってマスターは もはや人間ではなく 彼女は仏陀なのです 彼女は仏陀なのです 考えてみて下さい ある人の事を 考えるや否や  あるいは  名を唱えるや否や 目の前に現れ 世界のどこにいても 即座に彼女の 加護を受けられ この世だけでなく 三界内どころか 超越した世界でもです 天国から地獄まで 修行仲間が行けば マスターはそこにいて 教え 保護するのです 釈迦牟尼仏に イエス キリスト 老子といった古代の マスターと比べても 遜色はありません

この様なマスターを どう探せ出せますか 今日私達は やっとマスターを この小さな街 屏東に お招きできました あなたの前に 全菩薩がいます ここに私は 心からの言葉を お伝えします 印心とは実際 何でしょうか? 印心とは マスターが 修行によって得た 万能のパワー 或いは 仏陀のパワーを使って 私達の智慧眼 第三の目を開き 即座に私達が真我を 見られるようにし また 自らの 真の身分や 自らの仏光を見せる その時の事です その後 私達は開悟した人 生きた菩薩と なるのです 私達は ますます智慧を パワーを 霊的パワーを 発展させるのです 私達はもっと自由で 自在になり物事を更に理解できる様になり 障害がどんどん少なく なっていきます

そのため 「即刻開悟 一世解脱」と 呼ばれるのです それで 私は ここにいる皆様に  お勧めしたいのです もし 真我を見たいなら 真の身分を 知りたいなら 自分の全てを知る 偉大な智慧を 手に入れたいなら 内面にある 無限の偉大なパワーを 手に入れたいなら 自分の無限の宝物 限りない功徳を 得たいなら 極楽浄土を 訪れたいなら 神の王国 仏国土を 訪れたいなら 六道の 輪廻転生の苦難から 永遠に解脱し 自由になる事を 望むならば 仏陀に 菩薩に なりたいならば どうか速やかに印心の 申し込みをして下さい

どんなに 何度も良い行いを したとしても どんなに 他人に与えたとしても どんなに経典の事を 知っていたり 修行を 何年もしたり どんなにお金が あったとしても 率直に言いますと 開悟しておらず 自身の本質を まだ見ていないなら 生きているマスターに 生きている仏陀に 会っていないのなら 本当の解脱の方法を 知らないのなら 完全に無駄なのです はっきりと 「法宝壇経」で 述べられています 「自身の本質を見て いなければ  法(真理)を 学んでも無益」と 従って 印心の日に どんなに 忙しくても 不調でも たとえ 歩けなくても 這ってでも 印心に参加すべきです

マスターは  何十億年も前に 悟りに達した 古代の仏陀の 生まれ変わりなのです そして世々代々 この宇宙で 彼女は 数えきれぬ 衆生を救い  解放し 仏陀に させたのです 信じ難い能力なのです 彼女は地球に 何度も来ています 霊修行の高いレベルに 達している方ならば 私に 同意するでしょう 私達の世界中の 修行仲間には  多くの経験と 証明があります マスターを 信じる気持さえ あれば 臨終のときに 解放されるでしょう 少し 例を挙げましょう 屏東市の ある修行仲間の母親は 林弄で暮しています 彼女は マスターの 印心を受ける機会は なかったのですが 信じていました

彼女が亡くなる前 マスターは 後ろに大きな光輪を 伴い 荘厳な様子で 彼女の前に現れました その他に 四つの 青 白 黄色  そして赤い色の 蓮の花があり  光を放っていました マスターは この母親の手を取り 一緒に去りました 修行仲間は自分の目で それを見ました 世界中に こういった 修行仲間に 起った出来事が 沢山あります 親族や友人にも あります ですから   先祖五世代を 超生させたいのなら すぐにマスターに ついて学んだ方が 良いでしょう もし この機会を 逃せば  何十億年も待つ事に なるかもしれません! その他に  エンポ郷に 住む仲間がいます

高齢の隣人が 高い所から 落ちて 重傷を負いました 彼は 修行仲間に 車で屏東市にある 病院に連れて行って 欲しいと頼みました 行く途中で 隣人が 亡くなりかけて いることに気づき 静かにマスターに 世話を求めて祈り 仏讃のテープを 流し始めました 結局 隣人は亡くなり 遺体は 火葬されましたが 遺骸が残りました この隣人は 修行も菜食も していませんでした しかし亡くなって 火葬したら遺骸が 残ったのです 同じ様な事が プーリーの仲間の 親戚にもありました 従って 遺骸を 残すのはとても 簡単なのです

すぐにマスターに ついて学びましょう 時々こう思います 隣人や 親戚 友人と いつも美味しい食事を 共にしていれば 私達が病気の時に助け 世話をしてくれたり 火事になればバケツの 水で消火を手伝って くれたりします 彼らが修行を していなくても 菜食でなくても 皆 互いに 世話をしているのです もし自分を 修行者と呼ぶなら 仏陀や 在世の マスターに会って 解脱の方法を得たなら 他の人に知らせるべきではないでしょうか

自由である事の 喜びや 生死から 解放される楽しさを 日々享受しながら 他の人の 生死の輪廻の苦しみを 見ていられる でしょうか それは利己的な事では ないでしょうか それで私達 屏東市の 修行仲間が 様々な手を尽して マスターをお招きし 屏東市の皆さんに ご紹介しているのです しかし 一つ おかしい事があります もし私が皆さんに 寒山 拾得という 中国の歴史上の 風狂の和尚について 文殊菩薩と普賢菩薩の 生まれ変わりだと 言っても 誰も私を 疑いません

もし私が皆さんに 大きなお腹をして 背中いっぱいに 大きな布袋を持つ 「布袋様」は 阿弥陀仏の 生まれ変わりと 言っても 誰も私を 疑いません しかし 皆さんに スプリームマスター チンハイは 文殊菩薩や 仏陀の 生まれ変わりだと 言ったら 多くの人は 疑うでしょう なぜ古代は 生まれ変わりが可能 だったのに 現代は できないのでしょうか 昔は解脱を求める 衆生や 修行者がいました そして今でも そういう人々は いるのです!

仏陀は差別をしていて 古代には来ていたけど 現代には 来ないのでしょうか または 衆生は 無知で 古代の 出来事しか見ず 現代は 見ないのでしょうか もし 寒山と拾得や 活仏で 毎日狂った 振りをしていた 済公が仏陀に なれたのなら マスターはどうですか きちんとしていて 毎日 修行して 勤勉に 瞑想しているのです なれるはずです 妙善王女は 女性でしたが 観音菩薩に なりました マスターは家を出て 観音法門を 修行し  成就しました なぜ彼女が  現代の観音菩薩に なれないのでしょうか 論理はとても単純です

観音法門を 修行して 成就した人は皆 生きた観音菩薩に なれるのです 一度に数千人の 祈りにこたえられ 何十億もの 化身を持ち 遍在します 誰にでもできます 李さんでも 王さん 趙さんでも 男女も関係なく 年寄りか若いかも 関係ないのです マスターは 観音法門を教える 専門家です 彼女のクラスに 申込む限り 卒業できないことを 心配する必要は ありません 秘密を教えましょう クラスの誰もが 卒業を保証されます OK これ以上申しません

皆さん 講義を 聴いてみたいでしょう では マスターの 講義を歓迎して 温かい拍手で お迎えしましょう ありがとうございます 聴衆の皆様 活仏の皆様 彼らの誠実なお話を 聞くと心打たれますね (はい) 屏東の修行仲間に 大きな拍手を 送りましょう 彼らの誠意がなければ 私は今日ここに 来なかったでしょう 仏陀になった後に なぜ人が慈悲心を 失うかと 思うでしょう それは 人々は何も 必要としない 世界は素晴しいと 彼が思うからです 屏東と高雄の 修行仲間が思い出させて くれなかったら 私は皆さんが 必要とすることを 知らなかったでしょう 私は皆が仏陀で あるので よかったと 思うでしょう まだ何を必要とする ことがありえますか?

したがって 私が講義をするために ここに来たく ないのではなくて ただ皆さん平安無事と 思うからです 菩薩は 屏東と高雄 又は 全省の 修行仲間のように 彼らは非常に 慈悲心があり 優しく 講義のために あちこちに私を 行かせたいのです 屏東に来るたびに 小さな町ですが いつも 歓迎する雰囲気を 強く感じます ここの人々は 非常に親切です 素晴しい市長がいて 私達を支持して 進んで来られました

清廉な方なら 市長でも 高官でも 歓迎です 彼らも菩薩の仕事を しています 彼らは人々を助け 国家を 浄化しています もちろん 私たちは 彼らを歓迎します それで 今日私は 再びここに来ました 一緒にグループ瞑想が できると思ったのです また 屏東の皆さんに 思い出して 頂きたかったのです 良いことを忘れないで 私達にもともとある 愛の心を 忘れないで下さいと 経典を読むことも 役に立ちます 時には貪り 怒りや 欲を制御することは 簡単ではありません

時々  誰かに怒りや 憎しみを感じる時 経典を読むと 役立つことがあります それは経典が人々に 善行を教える 良い教えに 満ちているからです 役に立たない経典は ありません 経典を読む場合 自身を浄化し 自身が社会で そして世界で より平安な生活を送り より良い気質に なることを 目的と すべきです

しかし経典を読んでも 悟れる わけではありません この理解があるなら 経典を読むのは すばらしいことです 経典を読む事で 仏陀になれると 思ったとしたら 砂から米を作ろうと するのと同じくらい 空しいでしょう それは宇宙の中で 昔から どんな仏陀も どんな悟った マスターも どんな菩薩も 悟るために 経典を読むことを 勧めてはいません 彼らは 理論的な教え以外の ことを教えました 釈迦牟尼仏が まもなく 涅槃(最も高い天国)に 旅立とうという時も 教えを広める為に 後継者を選ぶ必要が ありましたが 彼は 後継者 迦葉に 経典を読むことを 教えませんでした 釈迦の衣鉢を継いだ 迦葉は 常に瞑想していました 彼はずっと洞窟で 瞑想していました

当時は  釈迦牟尼仏の教えは まだ編纂されて いませんでした 違いますか(はい) 覚えていますか? (はい) 釈迦牟尼仏が 亡くなった  ずっと後に 彼の弟子たちは 教えを集めて 編纂しました そうですね? さて 迦葉はいかに 悟りを得たのでしょう 暗記できるまで 毎日 経典を暗唱した わけではありません 違います 又 彼は釈迦牟尼仏と 常に一緒にいた わけでもありません 皆さん ご記憶のように 釈迦牟尼仏が 亡くなったとき そばにいたのは 阿難だけでした 別のときですが  ある日 迦葉は かなり遠方から 仏陀を訪ねました ちょうど苦行を終え 洞穴から出てきた 彼の服は塵で おおわれていました それで彼が経典を 読んだり 暗唱 しなかったと分ります

どんなに多くの 経典を読み  暗唱したとしても 理解できない部分が まだあります それは私達のレベルが まだ高くなく 智慧が 開かれてないからです それはいいでしょう 講演するたびに 私はいつも今日から 始められることを 人々に気づかせます その都度 新たに開始 できます 毎日 再び 開始できるのです 毎日 新たに 出発できます 過去にどれほど カルマ(報い)を 蓄積したか あるいは どんなに無知で あったとしても  私たちはみな 一世で解脱できます 明日でも今日でも いつでも 私たちは 悟りを開けます 罪を犯したのは 頭脳や肉体であって 魂では ないのです

魂こそが  私達の本性 いわゆるマスターで それがこの体を使って 経験を集め 他の衆生との 関係を持ったり 関係を経験するのです しかし 時々私たちの 道具は故障します 例えば この脳は道具です 私達の真我は これを使わなければ 他人と対話したり 経験を交換したり 又は教育を受けたり できません しかし この脳は それほど賢くないです 単なる機械で皆さんが 使う コンピュータの ようです そうですね 質の良いコンピュータ それだけです 私たちが集めるどんな 情報も記録します あるボタンを押すと 記録された事を 再生します 例えば 最初 脳は 人を叩くとか 叱ることなどは 知りません ところが 毎日 人が間違った言葉を 言った時  別の人が彼を叩いて 叱るのを見ると 脳はその情報を 記録するのです 分りますか?

それから 後日 別の人が 間違った事を言ったら 脳は手に その人を 叩くよう 指示するでしょう 意味が分りますか 脳がそれを 学んだからです それが悪いか良いかを 知らずに 他の人の手本に 続いたからです それはまさに 同じ事をします 私たちの内なる師が 目覚め 語る時以外に それが良いか悪いか 分らないのです あるいは別の 目覚めた魂が 教えに来ます すると分るのです しかしそれはすぐには また そう簡単には 起きません あまりにも多く記録し 多くの映像があるため すぐには全てを 簡単に消し去れない のです

こういう理由から 人の個性を変えるのは 難しいのです だから時々 修行者は  まだ個性を 持っているのです 分りますか 悟って 無我のレベルに 達した時こそ 個人の 人格が全く なくなるのです 状況にしたがって 鏡のように 反応するだけです 鏡は正面に 置いたものを 何でも映します 見え方を 変えたりしません なぜ 悟りを 開いたマスターや 仏陀になった人に 会うと 私達の魂は 解放されるのでしょう なぜ一目 彼を見たり 名を聞く事で 解脱できるのでしょう 彼は修行し 私達は していないからです` なぜ私達は 解脱できるのでしょう 誰か分りますか 蘇さんは一瞥した だけで 解脱したと 言っています なぜか分りますか

それはマスターの 加持によるのです マスターの加持? 答えは実に簡単です その人に 渇望する謙虚な心が あるからです そうとも限りません マスターを中傷する 多くの人々も 解脱できます 大きな開悟を得た人が 私達を見るとき 智慧を開いて 見えない加持を してくれるからです おそらく マスターには多くの 功徳があるからです マスターには 慈悲の心があるから 彼の真我が 既にマスターを 信じているからです 違います 私は既にマスターを 信じている人に関して 話していません

真我がマスターを 信じているから こういうことです 皆さん 道理に 適っていますね 私達の中の真我は 永遠に聡明です 彼は決して生まれず 決して死なず 彼は決して 汚染されず 純粋であり 決して増えも 減りもせず いつまでも賢明で 全てを知っていて 全てを理解しています しかし彼には全てを 知っていると思い出す 機会がありません 頭脳を利用することに 慣れていて 使い続けるからです 別のことをすべきとは 考えません 彼は自身の智慧を 使おうとは思いません この頭脳を使えば 十分と考えるのです 既に解放された 別の魂があります

いかにして自由に なるのでしょう この頭脳と真我を 切り離すのです 分りますか この脳を使いますが それに従属しません 他の 解放された魂を見て そしてその解放された 姿を見たとき 彼の魂は すぐに分ります ああ 元は私は 彼と同じなんだ 分りますか 元々非常に智慧が あるので 彼はすぐその瞬間に 分ります たとえば ふたりの人が宝物を 探すため一緒に 深海にもぐりました 彼らは特殊な装備を たくさん身につけます 酸素タンクを つけて それから目を 完全に覆うマスク そして全身を覆う ウェットスーツを 着なければなりません 彼らが 海中に沈み 離れたとします

海の中での 作業が終わり 上がってきました 1人はダイビングの 装備をすぐに外します 2人目は上がって来て 以前と違う様子という ことを忘れています 彼は忘れたのです 彼はこの偽の手足を 続けて使いました 偽物ではありませんが ウェットスーツに 完全に覆われて カエルのようです 私が話していることが 分りますか (はい) 彼はダイビングの 装備をつけたまま 陸を走り回りました 歩きにくいと感じ この手を 使って働くのは 簡単ではありません そして呼吸も 難しいのです 彼はもがきました どうしたら早足で歩き 仕事をもっと良く できるのか分りません その後 ふと そばにいる人が そばにいる人が 酸素タンクなど 潜水装備を はずし始め 自由で楽になるのを 目にしました

これを見て 言いました 「こうすればいいんだ」 そしてすぐに 同じ事を始めます 分りますか もともと彼らは 同じなので  他の人がした事を見て 自分がすべき事を 理解したのです ですから私達は忘れた だけで知らない訳では ありません  時にはこういうことも ありますね 例えば もし 手袋を長い間 していたら 忘れるかもしれません そして家に帰ってから 手袋をしたまま 食事をしたり 仕事をします 手袋をとることを 忘れます それでは 何かするのに不便で やりにくいです すると側にいる人が 言います「手袋を とればいいんですよ」 又 時には 私達は 帽子などを被っている ことを忘れて 四苦八苦します すると側にいる人が 言うのです「それを とれば 楽になるよ」

同様に 私達の側にいる 悟った人は もう彼のカルマ(報い) 彼の頭脳や どんな普通の人間の 概念にも 縛られません 彼は普通の人のように やはり肉体と 頭脳を持ちますが 自分がこの頭脳や 肉体ではないことを はっきり知っています 分りますか 彼はそれを明確に 区分できるのです それで 他の人が 彼の側にいて その行為を見れば この人も同様に できます 彼らはもともと 同じだからです それで この人は 即座に悟り 一世で解脱が できるのです そういうわけで 悟った人を見る事で 解脱できるのです なぜマスターの 名を聞く事でも 解脱できるのでしょう それも非常に単純です 私達は ある人の名を聞くと その人の影響 個性 レベル 知識や 全ての能力が 私達に繋がるのです 意味が分りますか

必ず影響します 何故なら 私達の真我 内在の マスターは自由で 何処でも 見られるからです たとえ私達の頭脳が 知らなくても  魂は知っています それで私達の魂は ある人の名を聞くと 好奇心をそそられます 魂は頭脳に聞きます 「彼は誰だ?」 そして頭脳は彼と 連絡を取り始めます 「この人は 私達を 知る必要はないが 彼の名を呼ぶか 心の中でその名を 思えば 私達に一切を 送ってくれます 私達は一体だからです

さらに 彼は私達と 同じ世界に住み 同じ空気を吸い 同じものを食べ 同じ服を着ています ですから当然 彼を思えば 彼と 連絡できるのです」 従って 私達が悟った人の 名を聞けば 私達の魂も目覚めます 分りますか 私達の魂は 遠い所が見えるので 気づきます「ああ あの人はこれをして 悟ったんだ」と そして私達の魂も 同じ事を始めて 同じ様に 解脱するのです 一旦魂が 解脱すれば 病気 苦痛 悩み そして無明も  全て去っていきます 分りますか? 私達は世々代々 余りに多くの悩みや カルマ(報い)を集め また余りに 無明なのでそれらを そうすぐには 追い払えません

それで私達は すぐには 仏陀に なれないのでしょう 実は 私達はすぐに 仏陀になりました 私達はその悟った人と 同じなのです 私達が自身の無明を 除去し始めるとき その悟った人は既に 除去しています  それで 非常に遅く見えます しかし 少し経つと 2人は同じになります 暫くして  後に悟りを得た人は 先に悟った人と 同じになります ただ時間の問題です あの潜水服を着て 海に飛び込んだ 人達のようです あのダイバーたちの ように  潜水装備を取った人は 自由になり  簡単に走り回れて 他の人は その行動を見て 同じ事を始めます 彼が潜水装備を すっかり取ると 最初の人と そっくりになります

ただ時間の問題です なぜ仏陀(悟った者)の 目には全衆生が 仏陀にうつると 言うのでしょうか それは 仏陀は 遅かれ早かれ衆生は みな 仏陀になると 知っているので  安心しているからです 彼は弟子たちや 衆生に慌てて 会う必要も ありません わずかな人に教える だけで十分です すると弟子達が 真理を広めます 弟子達は彼の名や 彼の教えを 別の 方法で広められます ポスターを 貼るなどしてです 彼の 弟子と繋がりを 持った人は  彼とも繋がります 分りますか 仏陀は各人の ドアを叩く必要も 衆生を救うために 忙しくする 必要もありません これは仏陀に慈悲心が ないわけではなく 彼は安心して いるのです

彼は自分がやるべき ことを知っています 彼のやり方は 凡夫のやり方と 違います 私たち凡夫はいつも 慌しいです この人 あの人を 捜しては 彼を掴まえて 沢山の理論を使って 印心を受けさせようと あれやこれやと 説得するのです 仏陀はそんなに多くの 弟子を必要としません 分りますか 法脈を続けるための 数人の弟子さえ いればいいのです 弟子に教えた後は 弟子達が どこにいようと仏陀も そこにいるのです 従って彼は確信し 世界は完璧であると 感じるのです 例えば もし貴方が まだ仏陀になって いない場合 後に 仏陀になるのを 彼が助けます これと同じです しかし時々 衆生はずっと 助けを求めて泣く こともあります 彼らは言います 苦痛が多い のです 自分の仏性がどこに あるか分りません 

私達は皆 仏陀だと 貴方は言うが分らない そこで仏陀は 事務室で ある肉体で あちこち飛び回り 皆に再度教えるのです 分りますか 彼が一回話しても 私たちは分らないので 次の日 彼は また来て もう一度話します 私たちが分るまで 話します 実際は 彼が何かを 言ったから 私たちが 分るのではなく 時間がきたら 何を言ったか 言わなかったか 関係なく 分るのです 分りますか しかし彼が 何も言わないと 私たちを慰めたり 勇気づけたり 説明してくれる人が 誰もいないので 私たちは退屈します そこで彼が来て 私たちの手をとって 説明してくれるのです しかし 彼が説明 しようとしまいと 私たちは最後には 必ず仏陀になります 従って仏陀の やり方は 私達と違います

例えば 医者や 霊力で 病気を治す人を 私たちは 偉いと思い とても感謝します しかし後でまた病気に なる事を忘れています しかし 仏陀は 特に治療を 施さなくても どんな人でも 彼の名を聞き 彼に祈れば 二度と病気しません 病気するとしても 今生だけの ことです 分りますか そこで仏陀は決して 凡夫のように 慌てて何かをする ことはないのです 彼は自ら 人の家に行って 手術や 治療を しなくても 自分のいる所で 助けられます しかも一旦私たちが 彼に助けられると 永遠に病気する こともなく 永遠に生死の 輪廻から 解脱するのです これが真の治療です
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