では私達の修行仲間に マスターに従って 修行した後の体験を 分かち合って頂きます マスター 出家者の皆様 高潔な 善智識の皆様 こんばんは 本日は私の故郷 澎湖で皆様と一緒に マスターの経の講義を 聴くことができ 嬉しく思います 私は大学で 勉強を始めた時から 教会に通い始め あらゆる団体に参加し 人生の真義と 宇宙の真理を 求めました しかし 良い答えは 見つかりませんでした 後に観雲で 林先生について 太極拳を習い 易経も習い 昨年まで続けました 約二年前に 私は偶然の機会に 栄容書店で 本を読んでいる時 マスターの 本を見つけました
その瞬間 私はハッと悟りました 私は菜食しようと 決めました ついに 台北でマスターから 印心を受けました あれから 一年近くなります この一年間 私は 内面外面共に多くの 体験があります これから三つの 違った体験を皆様と 分かち合いたいと 思います まず 哲学的な面の話です 去年の六月マスターが 台東に経の講義に 行こうとした時 二十人の修行仲間が 台北からポスターを 貼りに行きました 昼は交通が 混雑しているので 夜貼りに出かけました 台東の水南市場近くで 火事が発生しました 火事が発生しました
私ともう一人の女性の 修行仲間とそこで偶然 火事を目撃しました 最初 火は下の階から 出ていましたが どんどん上に 燃えあがりました 中は食品雑貨店です 小さな爆発音がして 多くの人が 集まりました しかし誰も火を消し 止めようとしません 皆は 火事だ 火事だと 叫ぶだけで 誰も消そうとしません 後になって ある人が 鉄の門を蹴っ飛ばして 開けろと言いました そのとき 私も自然と助けに 乗り出しました 門を何度も蹴っても 開きません 最後に私は マスター チンハイ助けてと言い もう一度蹴ったら 門が開きました 皆が喜びました さっそく鉄の門を 取り除きました
その時火はますます 強く燃えました 人々はバケツで 火に水をかけ 消火器も 持ってきました しかし皆は入り口に 立ってやるので 水が火に かかりません その時私は 大変心配でした そこでさっそく 消火器を持って 中に入りました すると火は 小さくなりました 後から消防隊も来て 彼らの努力で 火は完全に 消し止められました その建物の中には 人がいましたが 後で助けられました この事から私は多くの 示唆を受けました まず火事そのもの 自体から私は 生命は無常である事を 感じさせられました ひょっとすると 私達の命と財産は 一瞬で大きな損害を 受けるかもしれません
次に 内面から見た場合 毎日私達は 貪りと怒り 無知の炎で 寺院であるこの体を 燃やしています しかしこの火を消す ために私達は実際に 何かをしたでしょうか 私達はよく 体を鍛え 本性を培うと 言います しかし私達の 貪りと怒りと無知の 火を消し止めようと したことがありますか 鉄の門を見つける事は 容易ではありません たとえマスターを 見つけ 門を蹴って 開いたとしても しかしその音流と 繋がっていないと または門の中に 入らないと その火を根元から 消し止めることが できないでしょう
同じように修行も まずは私達の智慧の 門を蹴って開けて 開ける手助けをして くれるマスターを 探してこそ実際に 貪りと怒りと無知の 火を消す事ができます これは私の哲学的な 面での認識です もう一つの面では 私は大学で 工学を勉強して 科学の角度から 私の体験を分かち 合いたいと思います 流体力学に レイノルドの変換 システムがあります 一つのシステムを 制御された容積に 変換するものです
このシステムは 私達霊修行者が 小さな自己を 大きな自分と考える のと似ています また道教での小円は 大円と融合するという 説に似ていませんか 観音法門を 修行した後 よく考えると 良い答えが 見つかります 他にも例えば 私達が コンピユータを語る時 人間とコンピュータと 比べると私達の方が ずっと知性的です 何と言っても コンピュータは人間の 頭脳に頼るからです
ですから しっかり修行してこそ 自分の真の智慧を 見つけられるし 本当にコンピュータの ソフトウェアや プログラムの作成を 助けることができ 発展させられます ですから霊修行の 角度から見ると 霊性と科学は 互いによくサポート しています
仏教の観点から すると 少し前 私は 法華経と 楞厳経及び 達磨大師の 破相論などを 読みました これは観音法門と まったく同じだと 分かりました 例えばどうやって 本当のマスターを 判断するかについて 仏陀になる道は 四つか五つあると 書いてあります どれが真のマスターか について こう言っています 真のマスターは 戒律を守り瞑想し 偉大な智慧があると これが第一のことです 私達が印心を 受けてから まずは五つの戒律を 守らねばなりません そしてマスターは 瞑想も教えます すると多くの智慧を 得ることができます
彼女の弟子として 私達は 戒律を守り 瞑想して 智慧を得られます 明らかに私達の マスターは悟りを 開いています 二つ目は 悟りを開いた マスターは必ず すべての経典に精通し大智慧があるはずです マスターは 子供の時から 老子荘子を知り 聖書を読み仏教も 研究していました 更に経の講義の間に すべての質問に対する 完璧な回答からも マスターは 大変博識で経典に 精通していることが 分かると思います 三つ目は 本当に悟りを開いた マスターは法を 伝授せなばなりません 印心の間は 言葉は必要ありません 魂から魂に 伝えるものです
真のマスターは必ず 法(真の教え)を伝授します マスターを選ぶ時 私達は彼に法 (真の教え)を 伝授できるかと 聞くことができます 第四に 真のマスターは 必ず慈悲深いことです 私達がセンターで 道場を作る時 マスターはいつも 樹に釘を打ち込まない よう言い含めました また花や 植物を踏んだり 傷つけたりしないよう 注意しています 竹の中にはアリが 沢山います マスターは私達に 竹を燃やす前に アリが全部出て 行ったか確認するよう 言い含めています これらの細かい事から 私達はマスターの 大慈悲が分かります
最後に 真のマスターは遍在で なければなりません 本当に仏教について 習いたいと思うなら 仏陀について 学ばねばなりません 霊修行には 三つの道があります 一つ目は 仏陀から学ぶ方法 二つ目は 仏陀の弟子に学ぶ方法 三つ目は 経典で学ぶ方法です 仏陀や 菩薩がこの世界に 来ているとしたら もちろん彼らについて 学ぶべきです 仏陀になるためには 仏陀に従って 学ばねばなりません 今私は心から 今私は心から マスターは 仏陀だと言いたいです 今日の講演を聴くと 分かると思います 皆が早くこの 観音法門を修行する 機会を掴む事を 願っております 以上です 有難うございました
では謹んでマスターの 講演をお願いします 有難うございました
有難うございました 本日は皆熱心な方達で インスピレーションが 沸いてきてうまく 話ができそうです 私の講演の 良し悪しは 聴衆によります 私ではありません 聴衆は仏陀だからです
聴衆が「よし」と言えば これは仏陀が「よし」と いうのと同じです
中国語では 「人間の意思は 神の意思」と言います
これは 人々が支持するという ことは神が支持する という意味です
つまり 天が喜ぶという事です 人が 不快だと 天は喜びません どういう意味でしょう 釈迦牟尼仏は 「皆に仏性がある」と 言いました これは 内面の仏陀が 賛同するという意味で 凡夫が賛同する わけではありません 内面にある 無上の智慧が 認めるという 意味です あるいは私たちは イエスもまた私達は皆 神の子だと言ったと 聞いています そうですね(はい) 私達が神の子だと すると きっと神の品性や 神のパワー神の 智慧があるはずです
または神の財産など ですから人間は 凡夫ではありません 私達は凡夫と呼ばれ それに 慣れています そこで自分は本当に 凡夫だと思いこみ 何でもないと思います 実際私達は特別です 何でもないとしたら なぜイエスは私達は 皆神の子だと 言ったのでしょうか なぜ老子はすべての 衆生は一つだと 言ったのでしょうか これは 私達は天と 同じで 天は私達と 同じだという意味です
これは 私達は決して 凡夫ではなく 何でもないのではなく 何かあるという事です ただその「何か」を 分かっていない だけです
今日私は最善を尽くし この「何か」を 皆が理解できる何かに したいと思います いいですか(はい) 宇宙の実態は沢山の 形で存在しています 人間だけではなく 動物も 樹も岩もあります そして 多種多様な動物と 人間もいます またすべての衆生は 一つだと言います どこが 同じなのでしょう なぜすべての衆生は 仏性を持っていると いうのでしょう なぜすべての衆生は 神が生み出したと いうのでしょうか 神から生まれたなら 神に似ているという ことです
そこで聖書に 神は自身の姿に人間を 創造したとあります これは 神は自分と同じ姿で 人間を創造し 私達の内面も神と同じ だということです この同一の物は目に 見えるものではなく 時々 感じることができます ですから誰でも 内面に智慧を持って いることが分かります 似たような事をし 考え方も似ています 皆この神の品性を 持っています 仏教ではこれを 本来の面目 仏性または 大智慧と言います この大智慧は 頭脳ではありません 頭脳はただ大智慧の 指示を受けて 機能しているだけです
大智慧なしに 頭脳は 機能できません だから 人は死んだら そこに横たわっていて 脳も神経も そのままですが 心臓も体も そのままですが 機能していません 考えられず 動けず 話すこともできません
要するに体は自分で 動くことができません これで分かるように 私達は体ではないです 多くの人が 死んでから 戻ってきて 家族の前に現れたり 夢の中で家族に 自分が 本当にいる場所とか 何をしているか どう過ごしているか 苦しいか苦しくないか 幸せか不幸せかなどを 話すと聞いています その戻ってきた人は 誰でしょうか それは仏性という ものではありません その人は仏性では ありません これで分かるように この肉体以外に 人間は別の形の体が あるということです
死んだら私達は 別の種類の体を着ます 今の体とは違います 同じく見えますが 質も 生地も 材料も違います 例えば家の場合 ある家は コンクリートで作られ ある家はレンガででき 鉄筋のものもあります
体の種類だと 肉でできた体もあり 肉は 金属と木と水と 火と土の複合物です ある種の体はこの 五種類を使いません 例えば 仏陀の体は ダイヤモンドのようで 壊れないと 聞いています 要するに彼らの体は ダイヤと水晶のように 永遠に壊れません そして老子も自分は 不滅でいることが できると言ったと 聞いています
老子は 霊修行者は永遠に 死なないと言います 私達は 釈迦が言った 言葉や 老子 イエスの言葉を 信じるべきです 彼らは世界的に有名で 霊修行者で 戒律を厳格に守り 決して うそをつきません 次に明白にしたいのは 老子が永遠に不滅だと 言ったのになぜ私達は 彼を見れないかです 老子はもう ここにいません 彼の弟子ももう ここにはいません 一体何の意味でしょう 不滅それとも 必滅でしょうか (不滅です) 不滅です なぜ見えないか 自問してみて下さい (霊体です)そうです
彼は別の形の 体になったのです それは宇宙のすべての 物質は皆それ自身の 機能と寿命を持って いるからです あるものは長生きし あるものは 寿命が短いです 私達のこの肉体は 寿命が短いです これは 金属 木 水 火 土でできたからで 破壊されるものです
しかし 生まれることもなく 死することもなく 決して壊れない 体があります 老子が語った 不滅に関することは 即ちこの種の 体のことです さっき私は 死んだ人が夢に出る 話をしました 彼らは見た目は 肉体と似ていますが 人は彼らを 掴むことができません 彼らの体は 透明に見えて そこにあるようで しかしないのです それは彼らの 体の形態は物質の 体と違うからです しかしそれも 一種の体です 人間はこのような体を 沢山持っています この肉体は 最も粗くて簡単に 目に見えるものです
後にこの肉体を 離れると また別の体を着ます 内面にはまだまだ 別の体があります この肉体を 離れても まだ第二 第三の体があり これらの体を離れても まだまだ 第四 第五の体があり 最後には それ以上ありません 目に見えない 掴むこともできない 体さえないのです その時にはじめて 不滅になります 体があると 必ず破壊されます 体を持ったものは皆 早かれ遅かれ 破壊されます どんなに頑丈でもです 人は近頃ダイヤも 壊すことができ 別の物で磨いたり 光沢を持たせ 切って形にします
金だって 火で溶かすと 液体に変わります どんな物でも 形と相を持つものは 必ず破壊されます ですから 私達は肉体で 不滅になることは できません イエスは 死後三日目に復活し それから 天に昇りました 彼は天に昇ったと 聞いていますが 彼に関する別の話では 彼は百二十歳まで生き カシミールに行って 真理を伝えた とのことです 彼の死後人は彼を そこに埋めたそうです 私は彼の墓地を訪れ ましたら 彼の名前が 書いてありました ただイエスではなく ユーズアサブと別の 言葉で書かれています
イエスとう意味で 碑文には 彼のこと即ち どこから来て 説教したかとか 命日が書かれています 二つとも信じることが できます もしかしたら イエスは処刑された後 死んでいないか完全に 死んだのではなく 十字架にはりつけられ しばらくの間仮死した かもしれません 仮死とは何でしょう 時々 ヨガ行者は呼吸しない 法門を修行して 何日も呼吸を 止めます 死んでいるようですが 死んでいません 時間になって 人が揺すり起こすと 生き返ります その後イエスは 再び弟子たちの前に 現れました
その後安全なインドに 避難しのでしょう こういう可能性も あり得ます 彼の弟子達がそこに 連れて行ったか 復活後天に昇ったかも しれません 両方可能性があります イエスのような 偉大な人はやりたい 事は何でもできます 私達とは違います
私達は自由ではなく 彼らはパワーに満ち 無数に変化でき 数え切れないほどの 化身があり どこにでも遍在し どこにでも行きたい 所に行きやりたい事は 何でもできます
生きるも死ぬも自由で 彼らにとって簡単です なので両方可能です というのはイエスは インドで十年以上 いながら多くの秘法を 習っています 仏教には八万四千の 法があると言います 彼はインドで多くの 私達が聞いた事のない ヨガ法を習っています ヒマラヤには 多くの人が 秘法を修行しています それは私達が 聞いたこともなく 体験することも 修行することも できない秘法です 私がそこに行った時 この目で彼らが 多くの秘法を習って いるのを見ました その秘法が 究極か否かは 言えません
ただ彼らは大きな 神通力があります それが究極か 否かは別として その秘法は 実に人を当惑させ 驚かせ目を見晴らせる ものがあります この二十世紀に いまだに 古代神話に 出てくるような 神通力を持った 修行者がいることが 分かります それは見事です これは同時に私達に 希望をもたせます つまりこの世界には 物質で充満し お金を稼ぎ酒食遊楽を 楽しむ人間ばかりでは ない事が分かります 仙人もいれば 修行者もいて これは私達の心を 穏やかにしてくれます 私は多くのヨガ行者が ヒマラヤの大変高い 所にいるのを見ました
大変高い所です そこは一年中 雪に覆われていて 決して完全に溶ける ことはありません 彼らは服を着ていなく ただ腰に布切れで 下部の回りを包みます
こんな感じで 下に包みます 古代山の中の人々の ようにです 彼らはこのように 歩きます 訪問者の方は 厚い服をきていても 震えているのに 彼らはこのように 歩き回ります 体は 血色がよく丈夫です 靴も履かずに歩きます ヒマラヤでは靴を 買うのは大変不便です 彼らはそこに大分 長く住んでいて 山を下りて靴を 買いたいと思いません 彼らはこのように 歩き回ります 彼らの体は血色がよく とてもきれいです いずれも男性で丈夫で(たくましい) そうです 歩き回っているのを 人は羨ましがります
彼らはガンジス川に 行って沐浴し それから家へ帰ります 周りに誰もいないかの ように平気で 気にしません 人々は彼らを見つめて 目で彼らを 追いますが 彼らは気にしません 慣れています 元々誰もそんな所には 行かなかったのです 夏の季節だけ 信者達が山々を 敬って来たのです ここと同じで 彼らは 山を敬い 巡礼をします 私が思うに彼らは 山を邪魔し過ぎて 山が震えています それらのヨギは 年中修行しています 冬も夏も 同じです 彼らは服もなく 山を離れません 野生の植物を食べます
何も食べない人もいて これらの人を 気食者と呼びます 私達菜食者は 菜食料理を食べます 彼らは空気を食べます 彼らは気食する 人たちです そうです 気を取るのではなく 気を食べます そうです ですから彼らは物を あまり必要としません そこに住むしかなく そこから出てくると 状況は異なります 非常に純粋な環境から 空気が汚染された 私達の社会にくると 命を落として しまいます 痩せていき 寒さを感じます 山ではあまり 空腹感を感じませんが 下りてくると 空腹を感じます
私もそのような 体験があります 時々 私は自分のテントや 家にいると お腹が空きません または一日一回だけ 空腹を感じます しかし外に出ると 餓鬼達が全部ついて くる感じです 放浪している餓鬼も 私に食べ物を請うので 食べるしかありません 彼らは 肉体がないので 食べられません
私達はこの社会で 時々 汚染された空気と 環境に影響されて 私達は別人のように なってしまいます 私達の考えも 変わってしまい 私達は墨子が言った 人間は本々善良だと いう事も忘れました 彼の言う意味は釈迦が 言ったのと同じです 全ての衆生は仏性が あるということです
善良だとう意味です またイエスも同じ ことを言っています 私達は皆 神の子だと 神の子供の心 または仏性は 「道」であり いわば 「人間の性は 善良なり」であり 私達の本性であり 真我なのです 私達は毎日 外を見るのに忙しくて 真我を忘れて いるのです そうでなければ 私達は皆仏陀なのです これを覚えているほど 仏陀に近く 仏陀に近く 忘れていればいるほど 仏陀から遠いのです この世界は もともと私達が道徳と 苦難を通して学び 選択して目覚めさせ 内面を見るようにする ために創造されました
しかし時には私達は 目覚めません 時に忙しすぎるか 外のことに魅了されて 内面の真我を 忘れたからです 真我は何も 必要としません しかし沢山与えます 修行した後 この真我を見つける ことができます すると私達は智慧と 神通力と 絶対的な自由を得ます 神通力とは決して フーラーホッと言って するものではなく 優雅で全能な パワーのことを 言います やりたい事は 何でもでき どこにでも行きたい 所に行けます しかしこの絶対的な 自由を得るためには 肉体を使うことは できません
この肉体の中では 自由ではありません 肉体をおいて 内面の真我と共に出て 行かねばなりません これが 神の王国 または「道」 仏性というものです 分かりましたか (はい)
修行した後 この真我を見つける ことができます すると私達は智慧と 神通力と 絶対的な自由を得ます 神通力とは決して フラフープと言って するものではなく 優雅で全能な パワーのことを 言います やりたい事は 何でもでき どこにでも行きたい 所に行けます しかしこの絶対的な 自由を得るためには 肉体を使うことは できません
この肉体の中では 自由ではありません 肉体をおいて 内面の真我と共に出て 行かねばなりません これが 神の王国 または「道」 仏性というものです
今何をすべきでしょう どうしたらできますか とても簡単です 方法があります 例えば 私達が初めて ある家に行った時 ドアがどこにあるか 分かりません しかし 知っている人がいると 教えてもらえます ここからは 海に出られて ここからは 町に出られるとか このドアからは 浴室に入れるなどです 私達が浴室を 使うとしたらもちろん その方向に行き 海を見たいとしたら その方向に行きます 私達は毎日 沢山のドアを使います 例えば このドアからは 外を見て 外の世界と 人生がいかに 素晴らしいか判断する ことができます このドアを通して 世界の美しい声を 聴くこともでき この「ドア」を通して この世界の樹木の 香りを体験することが できます
私達の真我が この「ドア」を 世界の良し悪しを 体験するのに用います ですから死ぬとき ドアが全て閉まります もうそれを使いません 誰も使いません 口に食べ物を 運んでも 味も分かりません 目を開けて 美しい女の子を 見せてあげても 何の反応もありません
なぜなら 主人がいないからです 主人がいる時だけ それらの道具を 利用して 物事を体験します ですから私達は この肉体は善悪を 識別する人ではない ことを知るべきです 私達に 真我を出て来させる 方法があるとしたら 自由になります それ以上ここに 縛りつけられません 死んだ時も 同様で 大分自由です しかしその時は その自由を使うことが できません なぜなら別の習慣に 連れ去られたからです 仏教ではその習慣を カルマ(報い)といい 私達は自由に 飛ぶことの できない所に 連れていかれます 元々死ぬときは 自由なはずです
体を離れたからです 体の中に拘束され 閉じ込められて いないのです 自由なはずです これは私達が 生きているとき 準備しなかった からです 良い方法を 学んでいないからです あまりよくない 法門を学んで 海に出る道が 分からず 浴室に行く道しか 分からないのです
そこで一日中 その道を行ったり 来たりしています それだけです 私達が生きている間 他に別のドアがあって そのドアから この世界だけを見たり 聞くのではなく ` 別の世界を見たり 聞いたりできると 分かっていれば 死んでからそこに 行くことができます それを 練習したからです 私達が この世界で すでに世俗的なことを 楽しむことを練習し 外の世界ばかり見て いるのと同じです それで私達は死ぬ時 同じ習慣を持って死に そして同じような体を 見つけて戻りたがり 引き続き外の世界を 見たり聞いたりします この世界で 走り回るだけです
ですから私達には 選択する力があります この内面の真我は 元々この世界の 良し悪しや 苦楽を体験するために 来ていて 後で家に 戻らねばなりません 最後にここに来てから 家に戻ることを 忘れてしまったのです ここであらゆる 世俗的な 楽しみ即ち良し悪しや 苦楽を体験してから ここで道に迷い 他に道があることを 知りません ですから私達に一つの 方法があってこれで 別の世界を体験する ことができます そして今生でそこへ 見に行くことが できます 禅宗の話の中に ある人が自分の体験を 書き記しました 彼は カーテンを開けると 朝が見えると言います
後に ある人がマスターに その意味を聞きました その意味は私達の 内面にはカーテンが あり開けることができ そこから別の境界を 見ることができます この境界は 夜明けに似ていて これは私達が 暗い部屋にいて カーテンをあげると 外に夜明けを見る ことができ 他の境界を見れます それは朝と夜のような 違いがあります ただこれには やや努力が必要であり これを何とかして 探さねばなりません 道は沢山あります 私達は沢山の法門を 聞いています そしてすでに 仏教やカトリック 道教やイスラム教 キリスト教などを 色々なと信じています
なのになぜどんな 法門を修行したら いいか聞くのでしょう それらの宗教は 良くないのでしょうか とてもいいです 私はそれらの 宗教から来ています これらの宗教なしでは 私は目覚めることが できなかったでしょう ただ様々なレベルが あります 私達が 小さいときには 小学校で勉強し 成長すると 高校や大学で 勉強するのと同じです そして博士になり 弁護士や医者などに なります 高校で立ち止っては いけません 決して高校や 小学校がよくないと いうのではありません ただそれは 基礎段階なので そこで止まらないで 続けて上がるべきです
立ち止まっても いいですが レベルが高くなく 違った智慧を体験 することができません 人間の身で 満足しているとしたら それも結構ですが その宗教の戒律を はっきり知らなければ なりません 例えば 仏教を信じるとします すると少なくとも 五戒を守るべきです 即ち殺生せず 盗まず 邪淫せず 嘘を言わず 飲酒せず 賭博せず 麻薬を使わない事です 同じように カトリック教徒は 十戒を厳格に 守らなければ なりません 「殺生しない」とは 菜食をすることが 含まれています
自分で殺さなくても 私達が肉を食べると 人は殺して私達が 食べるように売ります これを「間接的な 殺生」といいます 殆んどの宗教は菜食を 強調していません なぜなら 菜食をしなくても 修行して境界を見たり 神通力を得て楽しむ ことができるからです しかし彼らは それが大したことでは ないことを知りません
後で 肉体が死んだ時は それら超能力は何の 助けにもなりません 釈迦牟尼仏の 弟子の一人である 目けん連は あらゆる神通力を 持っていました 空を飛び 地下を旅し 地獄を訪ね 天国に行けます 天国は 仏土ではありません 彼はまだ仏陀の国には 行けません しかし彼が人に 殺されそうになった時 神通力は彼を 助けられず 彼の命を 救うことができません なぜなら いつも私達より 更にすごい神通力を 持っている人が いるからです その上神通力は 私達の運命を 変えたり 救ったり 不滅にすることは できません
不死の境界に至るには たった一つの方法しか ありません それが観音法門です 他の法門を 修行すると 神通力を得て 色々なものを作り出し 風や雨を降らす ことができ パワーを得ます しかし私達を不滅に することはできません 不滅を得ると この世界を離れるとき 私達は この無常な肉体を 捨てた後 別の体を借りて 別の世界に住み 永遠に死にません なぜなら ある世界は永遠に 破壊されないからです その世界の 住民は 生まれもせず 死ぬこともありません
地球の人間は 生まれて死にます ある世界は 生まれて死ぬ 体験をしません 私達に道が分かれば そこに行って 見ることができます そしてそこに移住する こともできます そこは不滅の 永遠の地です そこに行く道は 観音法門です これが道です
すべての宗教に 無数の法門が あります 余りにも多くの法門と 宗派があって全部理解 する事はできません 人間はどれだけ 勉強できるでしょうか
きっと私達に 以前習ったことのない ものを教えてくれる 人がいます そうではありませんか (そうです) 言葉でさえ 私達はたった数ヶ国語 しかできません 例えば 英語 ドイツ語 フランス語などです 私達が聞いたことも ない言葉も 沢山あります 例えばアフリカの 部族の言語です 私はフォルモサ語 (台湾語)も うまく話せず 四文を習っただけでも 容易ではありません
言葉も 無数にあり 法門は沢山あります 仏教には八万四千種の 法門があると 言われています 各法門はそれなりの 作用があります 各法門はある種の 生き物が習うのに 適しています
悪い法門はありません ただ私達が 究極の解脱と 永遠に生きる境地 成仏し 偉大なパワーを得て 最高の悟りを 求めるとしたら 観音法門を 修行せねばなりません 私達がまだ 生死の輪廻からの 解脱や 大智慧を得て 仏陀になって衆生を 救いたいと 思わないなら 観音法門を 修行すべきでは ありません これは認めるべきです ただその宗教について 知らないからといって それは 間違った法門だと 言ってはいけません 私達には知らない事が 沢山あります そうですね(はい)
私がインド行った時 又はインドに行く前に 私は多くの ラマ僧に従って 仏教の中の 密教を習いました 例えば最初に 私に受戒してくれた マスターはラマ僧で 彼の名前は ゲシナワンダルジェ 彼を知っていますか (いいえ) 彼はとても有名で ダライラマと同じ マスターでした
インドのダラムサラで もっぱら 外国人に 仏教を教えています また彼は阿弥陀経や 世に伝承された 経典などを教えます その他に彼は 私が受戒する前に 呪文を教えてくれて 私が受戒をする前に 長い間この呪文を 唱えるよう 教えてくれました 受戒するために 特別にこの呪文を 教えたのです 戒律の本を読めば 分かると思います 分かると思います 別に神秘的でもなく 皆が知っています 新店で 私の誕生日を祝う時 私はその呪文を 教えました 覚えていますか まあ いいでしょう
彼はこれを書きとめて 人に教えてはいけない と言いつけました とても厳格です この呪文は 仏典に書いてあります すでに書かれていても 人に教えたり 書きとめたりしない よう言いつけています 私は書きとめたかった のです 理解できない 事を心配したからです すると彼は不機嫌です 何も言わずに 身振りで言います
言葉は通じなくても 私は彼の身振りの 意味が分かりました 彼の運転手が私に それを書き止めたり 人に教えてはいけない と言ってくれました 受戒する人にとっては それは普通の呪文です 皆が知っています 私がオゥラック (ベトナム)にいた時 すでにそれを習って 数千回も唱えています 私は彼の所に行った時 誰にも言わず新しい 物のように習いました 私はよく分かります 彼は正しいのです 呪文は口で唱えると 効果があると いうものでは ありません 私達のマスターが 伝えたから 効果があります
呪文の秘密のパワーを 彼が起動させたから 私達に伝授したとき 効果があるのです 他の誰かが それを伝授しても 効果はありません
言っておきますが どんな法門でも 公にできるという ものではありません 分かりますか (はい) 秘密の法門を 伝授する人は 私だけではありません ラマ僧の誰一人として 彼らの法門を人に 伝えたりはしません 彼らについて習う事が できても他人に 伝えてはいけません 皆がこれを知っていて 密教の修行者なら皆 知っていることです そうですね(はい) また ダライラマも オムマニペメフムを 教える時人に伝えては いけないとしています そうです それから教えます それぞれのラマ僧に 異なる法門を教えます こういうことです
すべてのラマ僧が 受戒する時全員に同じ 法門を伝えるのでは ありません 偉大なマントラは 例えばダライラマの ような人にしか 伝えられません または一人か二人の 高僧のラマだけが 教えることができます 他の人はできません 大変不思議です これを知って いますか(はい) もちろんある人は知り 密教を習ったことの ある人は知っています または密教の ラマ僧に聞けば これを教えてくれます 仏教は何でも公開して いると言わないこと それはできないのです
一般の経典は 公開できても 偉大な経典は 大っぴらにできません 普通の経典さえ 仏陀はそれを人に 伝えるとき 気をつけるよう 指示しています 人々がそれを軽視 しないようにです こんな事がありました 私が受戒する前に ドイツでオゥラック (ベトナム)人の 女性法師に習いました 彼女は薬師仏経を 読んでいました 私はそれが気に入って 見せて下さいと というと彼女は そんな気軽に見せる ものではないといい 読ませて もらえませんでした 私は跪いて真摯に お願いしたら 読ませてもらえました その経典を読んでから 私はそれを暗誦し 暗記しました
私は「これは短か過ぎて いいのはないですか」 彼女はそれ以上教えて くれません あなたはレベルが 低過ぎるので別の 経典を教えることが できないと言います 彼女は阿弥陀経を 暗誦できます 私に クンディマントラさえ 教えたがりません 私は以前習いましたが 彼女はそれを 秘密だと思い 教えようとしません 彼女が読み上げた時 私はそれを知っている と言いました 要するに仏教の すべての経典が または教えが全部 普通の人に知られて いるのではありません そうとは限りません 仏教の信徒達は皆 三蔵経を 読んでいますか いいえ 名前さえ聞いたことが ないです 読んだはずありません
ですから 多くの出家修行者も これを知らないで 議論ばかりし他人を 誹謗したりします
出家すると多くの 功徳がありますが 人を誹謗すると カルマ(報い)も 多いです 相殺して 何もなくなります ですから霊修行は 簡単ではありません 身 口 意を 清浄に保つことは 容易ではありません
その日私達が一緒に 食事をしていたとき 私が帰依していた その女性のマスターの 息子が私を 叱るのでした 彼女は私に経典を 読ませてくれません 拒否するわけではなく 私にテストしたのです 彼女は私が 初心者だと思っていて 沢山習う必要がないと 思ったのです
彼女も故意に私を テストしたのではなく ただ私が 無知でまだ子供で 若いと思ったので 沢山読ませる必要が ないと思ったのです しかし彼女の息子が 私を叱るのです 食事しているとき 私が寺院の慣習に 反した事をしたのかも しれません 彼は私を 厳しく叱りました 彼は同じ事を 何回も繰り返し 叱るのでした テープを流したように また阿弥陀仏を 唱えるように 繰り返し 私を叱るのでした 私は申し訳なく思い 私の無知を許し下さい ごめんなさい本当に ごめんなさいといい 私達は各自自分の 「呪文」を唱えました
彼は私の過ちを 唱えて 私はごめんなさい ごめんなさいと唱え 最後に 私の女性のマスターは この様子をみて まあ いいでしょう 彼女に法華経を読ませ なさいと言いました 私は「なぜ 今は簡単に許して もらえるのですか お願いしても 断ったでしょう どうして今教えて 下さるのか」と聞くと 彼女は 「昨日あなたに 薬師仏経を 読ませたので 今日あなたは叱られた あなたはテストされた 経典を読むと カルマ(報い)が 消される」 と言いました それが 彼女が思ったことです
「息子はまだ若く あなたから利益を 得たのにあなたを叱り あなたは反応しない それはあなたが 霊修行に適している ことを示しているので 法華経を読ませても いいということです 彼女は法華経を とても重要視し 私に読ませて くれませんでした ですから殆どの人は 正しい概念がないです 公に 公開したものが いいと思うのです そうとは限りません 安く売ると 人は 大事にしません そうですね(はい)私達はまだ禅物語を 覚えていますね 達磨大師が インドからきて 禅の始祖と なりました 彼の後継者は慧可です 彼が達磨大師に 法の伝授を懇願した時 慧可は外で雪の中で 三日間跪いていました
マスターは無視します 慧可が自分の腕を切り 落としてマスターに 差し出すまでです 彼のマスターは 慧可に強い求道心が あるのを知り 彼に法を伝授しました このように仏教でさえ 完全に公開した わけではありません 私達は誤解しています 不用意に発言し 結果を 意識していません 注意しないと 私達は自分の 身 口 意を清浄に 保つことに失敗します
それは 多くの トラブルを招きます 仏陀の重大な教えは 言うまでもなく 私達は多くの 非宗教的なものさえ 理解できません
しかし この観音法門も 公開されています 興味を持つ人に 公開されています 人々が興味を 持たなければ それを 公にしてはなりません 私達は 市場で 拡声器で私達の法門を 公にする義務は ありませんね そうする義務が ありますか(いいえ)
そうです 人々を強制しては いけません 誰でも学びたい人には 「いいですよ 来て 下さい 教えますよ」
誰でも 学びたい人には 私は常に教えました
それは 私が公然と 伝えるという意味です しかし この法門を伝えるため 私は完全に 明らかに しなければなりません
ただ断片を教えれば 人々に有害です それで私は言います 「公開しません」 望むなら 最初から最後まで その全てを学びなさい それで 少しの 危険もありません 霊修行は 非常に危険です 半分だけ学べれば それを理解せず 誤って唱えれば
取り付かれる可能性が 誰に責任がありますか
たとえ世間のことを 少し学びたいとしても 忍耐強くて先生に 従わねばなりません
英語の学習も 同じですが 数カ月または 数年だけ経てば 少しの結果があります 少しでも結果を得る ために先生の方法と 指示に従わなければ なりません でもたった一日や二日 修行して宇宙の全ての 秘密を知りたいなら それはあまりに ひどすぎます 彼らが理解しないと マスターを非難し 中傷さえします それは さらに悪いです ですからこの世では 教えるのは難しいです そういうわけで 釈迦牟尼仏は 仏陀になった後 出掛けて説教したく なかったのです
人々を済度したく なかったのです 反対に隠れたかった それから梵天は 人間の形で下り 完全に盲目にならない 人々を解脱させる ように頼みました 梵天が同意する前に 三回 彼に懇願しました さもなければ 彼は教えません 私は彼を非難しません 元々 私も何も教えたく ありませんでした 観音菩薩が 私に教えるように 言ったのです 皆さんは口数が多い 観音菩薩に 感謝すべきです さあ 私は この素晴らしい法門を 膨湖の同胞にも 提供したいです 願えば公然と学びに 来ることができます
霊修行において 自分だけが自分を 救うことができるので 私達は勇気と判断を もつ必要があります あなたの親戚 友人 両親と聖職者は あなたを救うことが できません 自身を救うため方法を 知る必要があります 聞いたことですが 聖書か仏陀の名を 唱えるか 他のものを唱えるか 若干の良い行為をする 事によって 死んだ後天国に行ける 福報を得ますが それは頼りにならない 現在天国を 認識できなければ 死後 どのように 盲目的に行けますか 天国への方法があり 今教えられます 皆さんはそこが好きか どうか見に行けます
皆さんは 仏土に行けます ありがとうございます 皆さんは 仏土が好きかどうか 見に行けます そこが好きな場合だけ 留まります さもなければ やめて帰ります とりあえずこの選択の 力を持つべきですね
そして そこがいいか どうか 検討できます それはよりよい方法で 私達は仏土が非常に
素晴しいと聞いても まだ発見していなく その場所は好みに 合わないかもしれない ではあまりに遅いです 天国へ行きたければ すぐに行って下さい そして 再び 人間に戻る機会が まだあります 天国が好きなら そこに行けます 好きでなければ 「気にしない」と言え これこそが 観音法門です
マスター 私が最初に 仏門に入った時の マスターに僧になった 息子さんがいました その時 彼は私に仏教聖典の 本をくれました 家で 最初から最後まで 僧侶の戒律も含み 丸々読みました 後で私は 在家者にとって 僧侶の戒律を読むのは 重い罪と聞きました 私はこれが本当か どうか気になります 私はまだこの本を 持っていますが その本をどうすれば いいか分かりません マスター 教えて頂けますか その理由ですが 私が 自分を含め 皆に 受戒に行った時 戒律を在家者に 漏らしてはならないと 既に知っていました
なぜなら在家者は 出家やあるいは 世俗の束縛から 解放されるための 決意または 一切を放棄する 切望がないからです 私達が一切を棄てないなら 多くの戒律が恐ろしく 聞こえ 私達は怖く なるかもしれませんし 出家者になりたいと 思わないでしょう これが最初の点です 第二の点は 見下すことです 第三の点は 無明 貴重ではないと 感じることです ですから在家者は 僧侶の戒律を読まない ほうがいいです ですが ご自分にそんな考えが ないのなら きっと大丈夫でしょう 恐らくあなたの マスターはあなたが 僧になると思ったので 用意したのでしょう
マスターは 思い違いをされて あなたにあげたのです そうでないなら 僧侶は そう簡単に在家者に 戒律を読ませません 私はそんなことは 聞いたことありません 恐らく 誤解でしょう その本がいらないなら 返せばいいのです そして「僧になりたく ない」と伝えるのです マスター観音法門とは 実際はどんなものです 学びたいなら お教えします 数時間かかりますので 数分間では 説明できません 大まかな案を お話できます この観音法門を 修行することで 私達は 仏陀の光と音に 繋がれるのです
その活用とは 何代にもわたって蓄積された 私達の悪いカルマ (報い)を浄化し 私達が菩薩に 到達したり 仏陀に なるのを助けます 私達の力は修行により 成長します 私達は自分自身と 五代 六代 七代 九代を解脱させる ことができます 私達が望むのなら 世界全体を 助けることが可能です そう これが 観音法門です ですが私には この法門を 伝えるのは 数時間かかります 快適な席の 静かな場所が必要です それだけです
ですのでここでは お話しできません
世界保健機関によると 二〇〇九年豚インフル エンザ流行行は 史上かつてない速さで 広まる流行病でした
インフルエンザ世界的 流行病の科学的基準は 満たされた 私は従ってフェーズ5 から6にインフル 世界的流行病警報値を 上げることに決めた 世界は今 二〇〇九 インフル世界的流行病 スタート地点にいます
先程話されましたが 私達が 誤って修行すれば 取り付かれますか 憑依とは何か 知りたいのですが 何か悪い結果が ありますか 憑依は多くの形で 起こり得ます 最も粗雑なのは 誰にでも認められます 例えば 一日中大声で 叫んでいる人や 下らないことを話す人 あるいはいつも誰かが あれこれするよう 言うのを聞く人 自身に悪い事良い事を するように話す人 無意識に自身を 叩いている人です この場合取り付かれて いると言います
別の種の憑依は 更に悪く それは傲慢さが 私達に表れるときです 人はこの法門を 知らないのに 悪いとか 悪魔の法門と言います これが最悪の 憑依の類で 精神の憑依で 傲慢にとりつかれます
人は無明で 八万四千の法門を 全く知らないのに でたらめを言います この種は 救われません ある人が取り付かれ 大声で叫んだり 体を憑依されたら マントラを唱える だけで悪魔を払えます それでおしまいです でも傲慢さに 取り付かれたら 救うのは難しく 私達がある日突然に 災難に遭わない限り あるいはある難問に 遭遇すれば 私達は後悔し目が覚め 自身の罪を後悔します そうしてマスターは 私達を救えます さもないと 非常に厄介です
マスターこの肉体の 衣は私達の悪いカルマ (報い)でしょうか この肉体は 私達の魂の悪いカルマ(報い)なのですか 悪いカルマ(報い)かもしれませんが 確かではありません 私達が過去世でした事の反映により 細胞は悪いカルマ (報い)であれ 加護であれ 積んだ ものが分かります 例えばキリストや 釈迦牟尼仏や老子 孔子にも私達のように 肉体があります でも彼らは体を 感覚ある衆生の福報や 解脱に達するために 真理を伝えるために 使いました そのため 彼らの肉体は 福報に恵まれました
私達がこの肉体を 世俗の楽しみや 人々を傷つけるために 使い そして後悔せず 真理を求めないなら 霊修行者や 道徳的な経典を 軽蔑するなら この肉体は 私達の悪いカルマ (報い)と言えます マスター 朝の詠唱と 晩の詠唱とは どういう意味ですか それらの詠唱の会は こんな感じです 仏教では あるいは 他の宗教では それをみな強調し 朝に 仏陀や神を 崇拝したり 霊修行をすべきです 晩には 寝る前にも 同じ事を すべきです これは私達に 真理や道徳を気付かせ 霊修行をするためです これは朝や晩の 詠唱と言います 私達は毎日同じ事を 唱える必要ありません
なぜ昔はこのように 唱えたのでしょう それは経典が十分に なかったからです ほとんどの教えは 口伝えで 印刷は遅かったのです 人々は真似て そうして他の人に 伝えたのです 一部の人は文盲で 覚えるために誰かが 声に出し読み聞かせる 必要がありました だから 唱える必要があり 何度も 唱えて覚えるのです わかった後 もう唱える必要は ありません おそらく勉強を始めた 医師には 知らない処方が 沢山あって 覚えるために 真似る必要があります 学生みたいに 多くの事を 覚える必要があります 覚えたら もう復唱の必要は ありません
他の事を覚えるのを 始めます 私達が 何か覚えたいなら 何度か 復唱するだけです 暗記したら もう復唱する 必要はないのです 朝晩の詠唱は 毎日の修行では ありません 正しい方法は 早朝に 心から仏陀を 拝みます
道への切望とともに 全ての仏陀を拝みます 身体的に あるいは 視覚化で礼拝するのは それでいいです 両方OKです でも 私達は毎日 同じ行動や詠唱を してはいけません 仏陀は耳を傾けるのに 飽きるでしょう 仏陀は言います「私は 沢山の経典を有するが なぜ彼らは無視して これをいつも 詠唱し続けるのだ 沢山真言があるのに どうして 他のではなく これを唱え続けるのだ どういう意味だ」 仏陀は困るでしょう ここを見下ろし 人々がしている事が 分かりません
釈迦牟尼仏が 生きていた頃は 自分の弟子に 毎日同じものを 唱えよと教えてません 老子が生きていた時も 毎日同じものを 唱えよと 教えませんでした イエスキリストも 同じものを唱えるよう 教えていません でも私達の宗教の 創始者の意図を忘れた ことをしています それはすべて私達が 開悟してないからです 一度開悟すれば 私達の理解は異なり 仏陀の意図を 理解できます 私達に直接伝えます
マスター 永遠の命と生死からの 解脱との違いは 何でしょうか 違いはありません それらは同じです 永遠の命は 生死からの 解脱と同じことです ただ 霊修行者は 時々異なる表現方法を 用いるだけです 例えば先に私が 言及したように 老子は言いました 「万物は一つ」と イエスキリストもまた 「私達は皆神の子供達 である」と言いました 釈迦牟尼仏は「全ての 衆生に仏性がある」と 言っています 彼らは皆同じ事を 言っています
したがって解脱もまた 永遠の命と同じ意味 だと言えます 生死からの解脱とは 意味一切生まれる事 死ぬ事がないという 意味です お腹の中に入り生まれ 結局死んでいく事は もはやないのです 非常に痛ましい事です 不死の意味は二度と 死なないことです これは私達が 生と死から解脱すると いうのと同じことです マスター 私達はどう自身の 輪廻転生の 四生と六道から 完全に切り離され 解脱することが できるのでしょう
輪廻転生の 四生と六道から 解脱します でも私達は皆に 説明せねばなりません そうでなければ 彼らには全く 何が四生で六道なのか 輪廻転生の意味が 分かりません ここには誰も仏教徒は いません ある人は無宗教ですが 私達は 彼らも歓迎しています あなたに信じる 宗教がないなら 私達は自身の良心を 信じています それが信心でそのようなことです 四生の意味は この宇宙 この世には四つの 種の誕生があります 胎生 卵生 化生 湿生からの ものがいます 何が胎生でしょうか 例えば 人と動物は胚に 運び込まれて そこから生まれます これが胎生です 私達はまず胚に 入らねばなりません
私達は父と母の結合を 必要とします 胚の形成には 男性と女性が 必要です これが胎生です 卵生は卵から 生まれます 鶏 あひる等の 鳥類です 蛇も含まれます いわゆる卵生です まず卵で生まれ 時間が来ると孵化し 誕生します 卵は母鳥により または陰陽で暖められ 孵化されねば なりません しばらくして 卵は分割されて 新たな命が誕生します いわゆる卵生です 化生は胚または 卵を必要としません それは単独で変化し 誕生します いわゆる化生です
例えば蝶ですが それは元々 毛虫でした ある期間がたつと 蝶に姿を変えます これは自然に自分の 体から抜け出します これが化生です 母に体を与える事を 要求しません 変形を通して 新たな体に変わります これが化生です 「湿生」とは 何でしょう この種の命の繁殖は 湿気から発生します 例えばミミズは 湿気のある所から 繁殖します 分かりますか (はい) ひどく湿気た場所は 自然に多くのミミズ 昆虫がそこから 発生します あるいは生物形態が 自然に汚い場所から 発生してきます
これがいわゆる 「湿生」です 輪廻転生の 六道についてですが そこには 天道 人間道 修羅道 地獄道 飢餓道 畜生道があります 「天道」とは 何でしょうか 彼らは 天使 神です 私達は天国への 入り口は神によって 守られると聞きました 私達人間は神に 保護されています これらが神です 時々 私達が問題に 遭遇した時 神が来て 私達を助けてくれる または良いニュースを 知らせてくれます それらは神です 又はイエスキリストが 生まれる前に 天使達が多くの人々の 夢の中に現れて 啓示しました イエスが誰で彼の 両親には彼がどれほど 偉大かを知らせました 大勢が来てイエスを 敬い祈りました
これらは 天国の衆生です 天国の衆生は私達と どう違うのでしょうか 彼らはより美しく ずっと自由で 偉大な権威と 神通力を持ちます 彼らは自由に旅し 彼らが望み使命が あるなら天国へ行くか 地上に戻って 来られるのです
理由がなければここに 彼らは来られません ここに使命がある時 のみ来られます 遊びまわる事はできず 遊ぶと罰せられます しかし天国の衆生は霊修行はできません 開悟するマスターに なれません 彼らは最高の境界に 到達する偉大な智慧を 得ることができません 従って 彼らは人間よりも 自由で力強く見えます けれども彼らは人間 より崇高でもないです 人間は宇宙の中で 二番目に高い存在です 仏陀の次にです 人間は最も高く 天使よりも 高いのです よって天使は 人間を支援し人間を 尊重せねばなりません
これは天道です そういう理由で 私達は天国へ行ける ように天の衆生に祈る べきではありません そういう意味です 仏教では 輪廻転生の 四生と六道について 話をしていています それらは私達に 非常に痛ましく 短命で何も良い事は ないという事をです 天国の衆生になる ことさえ良くないと 次の「道」は 人間道です 私達の意味です 私達は「道」 人間道にいます 「道」は通りの意です この境界にいるなら 私達はこの道を歩き 人間の姿をして 生まれるのです 「道」の意味は 何でしょうか 歩く道または 追求する方法の事です
人間になりたいなら 何をすべきでしょうか 私がただ言うことは 私達は五つの戒律を 守り人間になるのです あなたが修行しなくても五つの戒律を 順守すべきです 「殺生しない」には 肉食をしない 飲酒 喫煙をしない賭け事を しない嘘を言わない 等が含まれます そして私達は再び 人間に転生でき 健康を楽しみ 裕福で 力強く人々に憧憬を 抱かせるでしょう これが人間道です 天道を歩くなら 私達はさらに戒律を 守るべきなのです 例えば他の人々を 中傷せず 私達は嘘を言わず 噂話を人々と 話さないことです 良い事も悪い事も 人間道よりも多くの 戒律を要求されます
それが天道です 仏教経典は この事を明確に 説明しています 繰り返しませんが あなたに人間道 天道を教えることは 私の責務ではないです あなたを仏土に上昇 する事を教えます それで私は 更に戒律と規則を あなたに求めます 高次の階級を学べば 学ぶほど 私達は 勤勉になるべきです 小学校は非常に容易で 高校でも まだ簡単です 大学を卒業するには 懸命に働くことを 私達に要求します 日夜懸命に 私達が勉学に よく励むことをです 懸命に働いた後 私達は将来まだ更に 学ばねばなりません
私達は卒業した後 引続き 勉強せねばなりません 良い医者 良い弁護士 または良い技術者に なるために したがって各々の方法 各々の法門は異なる ものを要求します だから私達の条件は むしろ厳しいです 肉食をせず 飲酒をせず うそをつかず 邪淫をせず 賭博もドラッグもせず これら皆許されません 私達は仏陀 菩薩になって 大衆を導くので 普通の人間がする これらをすることが できません 観音法門を修めている 人々は人間として 生まれ変わって来る 事に興味がありません たとえ戻って来ると しても人間としてで なく仏陀または 菩薩としてです
ですから同じではなく これは人道です すでに人道と天道に ついて話しました なら阿修羅道は どうでしょう それは より簡単です 五戒を守る必要は ありません 彼らはありとあらゆる 世間の楽しみを 享受して構いません 他人と対抗したり 戦ったり 他人を侮辱しても 構いません そしたら すぐに阿修羅の境界に 落ちます そこは敵意 そこは敵意 中傷と戦いの雰囲気に 満ちています だから 釈迦牟尼仏は 阿修羅の衆生は戦いが 専門だと言ったのです
戦うのが好きで 戦争を引き起す人は 阿修羅の領域に 落ちます だから阿修羅の衆生に なるのはとても簡単で 大部分の人がなれます では地獄に行きたい ならどうでしょう 地獄に行くのは もっと簡単です 他人を考慮する必要 ありません 隣人の物を盗んだり 隣人の妻と 関係を持っても 構いません 自分の所有物のように 他人の物を取ります 他人の命をアリの命の ように扱います なんでもありです そうなら地獄の衆生に なれます これら「偉大な英雄」は 何も気にしません 戒律や他人の財産など 気にしません 他人の夫や妻など 気にしません 他人の命など 気にしません
これが地獄行きの 道です 地獄に行きたかったら この道を修めます
じゃ 地獄での様子は どんなでしょう 何らガスストーブを 必要としません 毎日 焼き肉を楽しめます 自分の肉を何百万年も 焼くのを すべての悪い部分が 焼却され 癒やされ 回復するまで 焼かれます 体は浄化され 心口意が更生したら 人間か動物として 戻って来られるかも しれません 悪い部分は すべて焼却されました
彼らは火だけを 使うとは限りません 多くの効果的な 工具があります ここの私達のより もっと進歩しています 例えば ガスストーブの代りに 溶鉱炉を使います 温度は 何百万度にも 達します 私達のガスストーブは 百度にしか達さない 彼らのは何百万度に 達します あなたは想像できます いかにすべてが完全に 消えるまで燃やすか すべての悪いものは 焼却されます ここの火は悪いカルマ (報い)を 破壊できません それら邪悪な心を 焼却できません 溶鉱炉でだけしか できません 心や魂のどこかに 悪性ガンが あるとします 彼らはナイフを 使いません
彼らの工具は 非常に進歩しています レーザー光線を使う 何度も何度も切って 体は何百個にも切られ それから修繕されます 切られた部分を 繕うのに縫う必要なし 彼らは多くの進歩した 工具を使います この世には存在しない この世の最先進の 医者でさえ それらを知りません 最高の医者がいます 地獄の病院には 彼らは人間の体を 何百万個にも切り そして元通りに 縫うことができます 縫う速度はとても速く 見る間にくっつきます そしてまた切ります これは皆さんが 経典で読むように 地獄にいる人々が バラバラに切られ そくっつけられ また切られて くっつけられる方法 面白いですか いいえ
地獄道を 修めたいですか (いいえ) そうです 私も同意します そして 餓鬼は どうでしょう
餓鬼道は もっと簡単に 修められます それは多少 地獄道に似ていますが 倍も簡単です
それは簡単です 人々が苦しみ 災難と病気がある時 彼らを無視します 彼らの食物を盗み 奪い 暴行を加え 彼らをののしります
より激しい苦痛を 彼らに与えます そしたら死んだ後 きっと餓鬼になります そしたら私達は 毎日飢えます 食べたかったら 赤い 熱い鉄が あるだけです 飲みたかったら 溶けた銅を飲みます このように 生きて行きます 腹はとても大きくなり 喉はとても狭い 飢えを満たす方法が ありません 何百年も何千年も 毎日飢えます 悪いカルマ(報い)と 罪の重さによります これが餓鬼道です これら悪徳の法門を 教えたくないので そのように速く 言い終えます 最後に 畜生道です それも非常に 修め易いです 私達の人生で 悪人として生きます
私達は動物のように ふるまいます 同じ 種類の行動と思考法で 後で死んだ時 私達は動物になります 動物と類似して いますから 類似しているものに 私達はなります
老子は何か言いました 人間が天に 行きたいなら 天人になる 私達が地に 行きたいなら 地球人になると それが彼の意味です 天の法門を修めたら 私達は天人になり 仏陀の法門を修め 彼の道徳的な 教えに従ったら 仏陀になります 餓鬼 地獄の衆生 或いは地球人の法門を 修めたら その種の衆生になります そんなふうです 老子の意味も 同じです ですからこの 「四生」「六道」から 解脱するのは 簡単ではありません 天人になるには 十戒を守るだけです
しかし天人になった後 戻って来なければ なりません 私達の福報が 使い果たされた時 人間は百年の 寿命しかないので 多くの福報を稼ぐ事が できません 福報が生じると 同時に また世界に借りができ 悪いカルマ(報い)を招きます 私達を救い 悪いカルマ(報い)を 完全に浄化する この無上で 最高の力なしでは 私達の罪の記録は 決して消去できず 決して十分な福報を 稼げません だから私達は やはり観音法門を 修めるべきです それは最高です マスター 彼も知りたいです
「四生」と「六道」も この物質界に 存在していますか と はい そして いいえ 「はい」と言うのは 私達は 「四生」と「六道」を この世で 経験できるからです ノーと言うのは この世で私達は 「四生」と「六道」から 解脱できるからです それは私達の心 智慧と何をしたいかに よります この世界で私達は 何でも経験できます
マスター 臨終の時 何が起りますか 観音法門を 修めている人と 修めていない人に 観音法門を 修行する人は 死ぬ時 仏陀が迎えにきます 死ぬ前に彼らは死ぬ 事を事前に分かります 死ぬ数日前 または数週間前 マスターが来て 知らせます 観音法門を 修行しない人が 修行しない人が ある偉大な パワーを持った人に 出会った場合 彼らは天国か 高いレベルの境界に いくことができます そうでない場合 悪いカルマ(報い)と 福報次第です カルマ(報い)の方が 重いと地獄に行き 福報が多いと 天国に行きます
しかしこれらは皆 一時的です 地獄も 天国も永遠では ありません 人間に戻るか 六度輪廻の中を くるくると 回ります 観音法門を 修行すると 私達は永遠に 生死や 六度輪廻をしません 人間に戻って 衆生を助けたいと 願をかけない限り 戻って来ません 戻って来ません そうでないと 決して私達は 戻ってきて 生死を体験したり 六度輪廻の中の 衆生になったり することはありません 永遠に 仏陀の国で 幸せに過ごします マスター永遠に 生きるためには先ず 肉体を捨てなければ なりませんか だとするとどんな体で 不滅を楽しみましか 元々 この肉体は 一時的な道具であって 無視していいのです
私達には色々な形態の 体を持っています 肉体がなくても 永遠の命を 楽しむことができます 永遠の命を 得てから 私達はいつでも欲しい 体を使う事ができます 例えば一つ下の レベルに降りて行くと 無形の透明な体を 使用できます もう一つと 降りていくと密度の ある体を使います もう一つ降りていくと 更に密度の濃い 体を使います 人間のレベルだと 更に密度の濃い体を 使います 今私達が 着ている体です 私達は物質の世界に いるからです たとえ仏陀や 菩薩 天使が ここに来るとしても 肉体がないと 人々は見えません
それにこの 物質世界の振動力は 粗過ぎて 敏感で繊細な マスターの魂を 圧迫します ですからここでは よく包んで守らねば なりません また人がいつも 私達を見て私達と 交流できるように しなければなりません 彼らと同じく見えると 私達が何を言っている のか分かるのです 私が仏陀だとします 仮にです 私が この「服」を着ないで ここに降りて来たと すると皆はどうやって 私の話を聴きますか そして私が 仏陀の言葉で話を すると皆はどうやって 理解しますか 仏陀は言葉を 必要としません
彼がここに来た時 見る事もできずそれに 何も言わないとしたら 今日の経の講義は 要らないですね 皆さんはここに来て 何もないステージと いくつのお花と マイク二つだけ見えて ここに座っている人は 誰もいなく 人の話し声も ないでしょう 禅は言葉を必要と しないからと言って これでいいでしょうか (いいえ) そのとおりです マスター 天地創造の 根源のパワー以外に 別の更に高い パワーが存在しますか はい 非創造パワーという ものがあります この絶対的なパワーは 決して創造しません
良くも悪くもなく 決して 誰かを構ったり 愛したり 憎んだりもせず 何も創造しません 創造のパワーは ここから生まれました そこで私達は陰と陽が あると聞いています 陽は 絶対的なパワーで 決して動きません 生死もなく 創造も 破壊もされません 創造のパワーは 創造も破壊もします しかしこの 創造のパワーがないと 私達は生まれもせず 死ぬこともなく 宇宙も存在しません
そこでこういう 事を耳にします 「道は 言葉では表せない」 「道が存在する としたらそれは 万物の母なるもの」で 存在する前は 絶対的な「道」です 存在してから 万物の母になり そして私達は 陰も陽も持ちます これは「男性」と 「女性」をも意味します
または「父」と 「息子」 「神と 神の子」も意味します いいですか これがその意味です それから 聖霊と 三位一体があります 実際これは一つです
仏教でも これを 三身仏といいます これと同じです マスター 法華経に妙なる音と 世俗の音に 言及していて 海潮の音は 世俗の音に勝る とあります 海潮の音とは 何ですか ここ澎湖は海に 囲まれていますが
波の音のことですか だとするとなぜ私は 悟りが開きませんか 一番いい質問です 観音法門を 修行して始めて この海潮音は何かが 本当に分かります この海潮音は 内面の音です この内面の潮の音こそ 私達に悟りを 開いてくれます そうでなければ全ての 澎湖の人がとっくに 悟りを開いたでしょう
これは世俗の音に 勝る音で この世界の潮の音では ありません その音は この世界を超えた音で これが 法華経で 言及した 本当の潮の音です 私達の修行仲間は 皆これを知っています そうですね(はい)
あなたはこの音を 聞きましたか(はい)
あなたが望むとしたら 私はこの潮の音を 聞かせる事ができます 今はではないです 今は時間が足りません 印心の時 観音法門を 伝授する時 あなたは即座に その潮の音を 体験できます その音を超えて 更に高い音に 至ることです この潮の音は最高の 音ではありません
最高境地ではないです マスター 六祖壇経と 般若波羅蜜多心経が 伝える思想は 何ですか それらは 観音法門と どう違いますか 何も違いません 皆同じことを 言っています 観音法門を 修行することで 般若波羅蜜多が 大智慧を意味している ことがわかります 観音法門は 大智慧を つまり般若波羅蜜多を 修行する法門です この修行を通して 智慧が発展し そしてはじめて 色即是空 空即是色の 意味が分かります
ただ言葉だけの ものではありません 色即是空だなんて 何でもないはずは ありません 人に 打たれると痛いのです 何でもなくはないです
もし色即是空なら なぜ花は依然 花なのでしょうか 何でもないでしょうか 霊修行をすると 時々私達は 本当に何も見えなく なることがあります 本当に何もないです 花は花でなく 人間は人間でなく そのときこそ 色即是空 空即是色を理解する ことができ その時始めて 般若波羅蜜多の意味が 分かります 六祖壇経の中に 般若波羅蜜多法 または無相法について 言及しています 「無相法」とは 目に見える明確な法は ないということです しかし私達には 法門があります
無相法は決して 法がなく 法を 必要としないという 意味ではありません だとするとなぜ 彼は十六年も修行 したのでしょうか またなぜ大きな 苦しみを堪え忍び ながら人に法を 伝授したのでしょうか それが無相法だと するとなぜ 彼のマスターが 彼に法を伝授した時 全ての寺院に反対され 全中国に衝撃を 与えたのでしょうか なぜ北と南で 誰が最高の マスターかを めぐって論争が 起きたのでしょうか 相こそないものの 法は確かにあります 無相というのは それは私達が 目や耳 手で感じる ことができなく 言葉で表現できない からです
しかし私達の智慧は それを認知でき 私達は悟りを得て それを理解し 認知します ですから 法門は確かにあります 形はないですが 法はあります 無相の法です こういう意味です 般若波羅蜜多 心経と六祖壇経は 同じ事を 言っています これは私が教えている 観音法門とも 同じです
おやすみなさい 有難うございました 皆様の熱烈な ご応援に感謝します
澎湖の皆さん 印心を受けた人 まだ受けていない人 将来の印心者 過去の 印心者に感謝します