ようこそ 本日の この国際的な集いへ 共に素晴らしい 時を過ごし その幸せな気分が 帰宅されてからも 何日も続くことを 私は望みます ええ これは確実です 私達は真理の講義を 聴くことにより 偉大な恩恵を得ます 神の恩恵がこの集いに 浸透するからです 私がここにいる理由を お尋ねかもしれません まず 私は修行者に 会いに来ました 何人かが誠心誠意で 長い間 私に 会いたかったのです
中国語で 僧侶を「師父」と 呼びます 大した事ではないです 皆さんのマスターに なりたい訳ではなく 皆さんと法門を共有 するために来ました それで皆さんは内在の 最も偉大で最高の 永遠なるパワーと 接触できるように なるのです なぜ私達は この偉大なパワーと 接触すべきなのか 私達には皆 内面に この天国と呼ばれる ものがあるのです 中国語では それを「天国」 「仏性」「道」と 呼んでいます それは創造の力です 西洋のカトリックの 国々では こう呼びます 「神の王国」 「内なる王国」 「神」と 私達皆に この天国 内面の力があります それを見つけ使えば 私達は何でもできます 私達は毎日それほど 苦しまなくてもすみ 私達の力が弱いとか 仕事が沢山ありすぎる 圧力が重すぎるとか 感じる事もないのです それで私はこの法門を 皆さん自身の利益の為 ご提供したいのです この力はいわゆる 神から与えられた パワーなのですから 取り出し使うべきです 無料です 私達は自身の 社会生活 仕事 家族関係を変える 必要はありません 私達は頻繁に聞きます 誰かが瞑想修行を したいと思えば 神を見つけ 仏陀に なりたいと思えば その人は 出家者になるべきだと つまり 剃髪をし 自ら山に隠れねば ならないと またこうも聞きます 多くの修行者は 非常に静かな所に 身を隠し 霊修行を行うと ヒマラヤのような所で ほとんど誰も 行き来しないのです しかし私達の殆んどは 仕事に 家族の責務に 縛られています
それでどうして ヒマラヤに行けますか どうやって高い山で 隠遁できるでしょうか それは私達が仏陀に キリストにグルになれ ないということですか 私達は天国 神と 交信できないという 意味なのでしょうか 何か他に私達が 自分の本性に 接触する方法は ないのでしょうか キリスト教では 「神の王国は 汝の内にある」と言い 仏教では「仏陀は 汝の心に」と言います それではなぜ 私達はそれを探しに 高い山へ行かねば ならないのでしょう ええ 私達は家で 見つけられます それが最も経済的で 便利で 簡単な方法です 未だ私達は社会的な 責務を負わねばならず 皆が 剃髪をし 出家者の服を着て ヒマラヤへ行ったなら 私達の社会に 何が起きるでしょうか そこには誰も 残されてなくて 子供達もいないのです これは非論理的であり 中国の先祖代々 受け継がれる伝統に おいては全く 受け入れられません ブラジル政府も 許可しないでしょう ここは大きな国ですが 人口密度は低いです 私には 中国の伝統や 私達の仕事や社会の 背景など その国固有のやり方に 適う方法があります この法門は中国語で 「観音」と呼ばれ その意味は 内在の本性を 観照するという事です どの様に内在の本性を 観照するのでしょう それは一種の振動で それが仏教で 述べられている 「仏性」です あるいはキリスト教で 言う「言葉」であり 聖書に記されている 「言葉」「音」です
私達がこの内在の振動 神の言葉を 知覚できれば それが神 仏陀と 交信するという 意味であり 私達は 自らの仏性 内なる神の王国を 見つけた事になります そして私達は日々 ますます賢明になり 苦しみは徐々に減り 内在の神 仏陀が あなたの人生の 面倒を見て全ての 問題を解決します 私達の殆んどが自身の 問題を解決するのは 容易ではありません 限界ある頭脳を 使うだけで自身の 内なる全能のパワーを 忘れているからです 一旦それを発見すれば 使い果す事はないです 釈迦牟尼仏はそれを 見つけました イエスも見つけました 彼らは内在する 全能のパワーを見つけ それで彼らは非常に 賢明に偉大になり 数千年経過した後も 全世界がなおも彼らを 崇拝しているのです 私達はイエスや 釈迦を崇拝できますが 私達も彼ら同様 偉大になれることを 忘れないで下さい なぜなら 釈迦は言いました 「私は仏陀になった あなた方もまた 仏陀になれる」とイエスも言いました 「私が本日行った いかなる偉大なことは 汝もできる」と 私達も彼らと同等に なれるということです 同等になるために 私達も彼らが学んだ 法門を 学ぶべきでしょう その法門が 観音法門であり 自分自身の内在の 本性を聞き 真我を 知覚することなのです それが 神の王国であり 神のパワーであり 仏性なのです 更にこの内在する力に 接触するたびに私達は 偉大になっていきます ええ 学校へ 行ってるようなもので 学べば学ぶほど 更に知識を 得るのです 私達は自身の内面から 学ぶこともできます 学べば学ぶほど 私達は賢明になります 中国では言います 「常に仏陀と共に 勉強する」と 意味は 内面から学ぶことです 常に仏陀から 学ぶという意味は 私達が内なる深い所へ 行き 内面の仏性から 学ぶということです
翻訳は頭脳のため だけにあります 目はメッセージを 直接 魂に送ります たとえ私が言葉を 話さなくても 長い間じっと 目を見つめていれば 何か感じるでしょう あなたは開悟 至福 幸福 愛を得ます これが宇宙の 言語なのです 愛と幸福です 中国語 ポルトガル語 スペイン語 英語等 複雑なシステムは 必要ないのです 赤ちゃんが生まれた時 母親はただ腕に 抱くだけで 両者が完全に よく理解し合えます あなたの犬は あなたを理解します 猫もあなたを理解し 両者は話をする 必要がないですね これが最高の言語です それで 私がこの国に 来たのも愛の言語を 皆さんに喚起するため 心の言語を 私達はこの種の言語で いかなる民族とも 共に話ができます 既にそうしていますが 更に発展できます 赤ちゃんへの 母の愛から 夫婦間の愛から 友人間の愛から 民族に対する 人々に対する 大きな愛へです それから この宇宙における 全ての生物への愛です 動物 花々 昆虫や 私達が非常に恐れる 不可視な霊をも 含めてです 幽霊を恐れる必要は ないです 私達に愛が あれば彼らも愛します この内面の愛の 偉大なパワーを使って 全ての暗闇を払いのけ 全ての人々や存在を 一つに結合させます この愛の力は 皆 持っています これは内なる神です 東洋人は「内面に 仏陀がいる」と言い 実際 仏陀 神は 同じです 東洋で「仏陀」は 愛 同情を意味します 西洋で「神」は 愛を意味します それは同じものです 仏陀や神の両方に 愛があれば つまり両方は 同じものですね 今 私達の問題は 内面の神 内面の愛を 探すことです 私達は愛を知ってると 誰もが考えます そう 私達は分ります でもほんの少数です それでイエスが来て こう教えるのです 「汝もまた隣人を 愛さねばならない それから更には 敵を愛せよ」と 仏陀 ムハンマド ソクラテス 老子 荘子も同じことを 教えています
ですから 同じ昔の 伝言を喚起させる為に 私はこの国に来ました 内面のこの偉大な 愛を発展させる方法を 私達の隣人を 愛せるようにです この愛は不可視でも 非常に大きくて 感じることができます 自由にそれを使えます なぜ内面の偉大な力を 「愛」と呼ぶのでしょう 私達のあらゆる罪を 許すからです それは 私達の あらゆる障害や罪を 浄化します 前にどんな悪い事を しても関係なく この愛と繋がり この愛を知れば幼児の ように浄化されます そういう訳で 愛と呼ばれます なぜなら 愛は罪を知らず 境界線を知らず 過去も知らず 現在のみ知っています それでイエスは この愛で弟子の罪を 浄化しました 仏陀はこの愛で 人々を仏土へ 連れ戻しました インドのクリシュナは この愛があったために 現在に至るまで インドの人々に 愛され 称賛され 続けてきました 彼らは 過去の最も 偉大なマスター達です もっと大勢います 昔からの全ての マスターを表にしたら 一日二日、三日では 終えられません 彼らを知っていて 崇拝するのは良いです 自身のマスターに なるよう喚起されます それで 私も喚起する ためにやって来ました あなたもクリシュナ 仏陀 イエス ムハンマド ソクラテス 老子 荘子などのように 偉大になれますと 偉大になる方法は とても簡単です ただ自身の智慧を見つけるだけです 智慧はすでに 内面にあります 私があなたに与えたり 仏陀が イエスが 与えたりするのでなく 自分自身以外 誰も 智慧を与えられません でも彼らは喚起できて 自身の智慧を探す道を 示してくれ 私達の手を取り 側に立って 続けて探すよう 勇気付けられるのです でも私達が知るべきで 見つけるべきで 見つける方法を 知るべきで 見つけた智慧を 大事にする努力を すべきです ですから 神の王国に 戻る道は自身の智慧を 見つける事なのです これが神の王国の 本当の意味です
神の王国とは 至福の状態 幸せの状態 聖人の 状態を意味します それで 聖人になれば 私達は聖人のようで 幸せで 至福に満ち 神の王国を見つけた という意味です でも 至福に満ち 幸せなら それらも本当に 神の王国なのです 私達の理解の レベルによります 従って 私達はよく 沢山の美しい仏国土や 妖精の国 神の王国 天国などが あると聞きます 本当に存在します 私達は自由に そこへ旅ができて そこにいる時は いつでもとても幸せで 至福に満ちています そこへ行けば行くほど より賢くなり より幸せになります そういう訳で 神の王国 仏国土を 探すべきだと言います 何回も 仏国土を見続けた後 私達は仏陀と同様に 賢くなります 私達は仏陀になります 西洋の言い方に あるように 私達がそのように たびたび 神の王国にいれば 神と一つになります 従って イエスがしばしば 神の王国を訪ねた時 「私は父と一体である」 と宣言しました でも当時の人々は 誰一人彼の言うことを 信じませんでした 人々が彼のレベルに 達していなかったため それで 彼らは 彼を理解できず 結果的に 彼を信じませんでした 今の私達と一緒で 誰かがこう言ったら 「私は神と一体である」 「私と父は一つである」 あるいは 私は仏陀に なったと言ったら 私達には理解しにくく 信じ難いのです でも信じる必要はなく 自分自身でそれを 証明すべきです 自分自身でそれを 体験できれば それならまだ 信じる時間があります ですから 私の目的は 自己体験をする機会を 提供することにあり それで信じられます 例えば 仏国土はありますか 神の王国はありますか 天国はありますか はい あります 印心の時 自分で 確かめられます 例えば 過去の全ての聖人の 頭の周りに 光があるのを見ます 彼らが内面の光を 発したためです 発したためです 彼らは神の電気で 充電しています 私達もこの電気で 充電したら やはり光になります イエスが水によって 洗礼を受けた時 彼は魂が白いハトか 白い光のように 天から降りて来るのを 見ました 今 洗礼を受けたら 私達もそれを見れます または少なくとも 何か似たものをです それで本当に洗礼を 受けたと分かります でなければ それは 一種の儀式にすぎず 真髄がありません
印心の時 恐らくこの種の イエスの体験とか 似たようなのがあり 聖書にあるように 彼が神を見た時 神は大きな炎のようで 神の声は 雷のようで 雷鳴のようで 沢山の水の音の ようだったと 私達が印心した時 同じ体験や より高い体験さえ あって それで私達は信じられると分ります そういう事はあります 過去の聖者と同様に 私達が開悟していれば 私達が神の面前に いることが分ります また 仏教の経典でも 誰かが菩薩になった時 やはり違う音と光に 言及しています 音も違います ですからこれらの音も 印心の時に見聞き するかもしれません それで 正しい道にいると分り 本当に開悟していて 菩薩になったと 分ります 仏陀が在世の時の 彼の弟子のようにです
今日 車中で アマゾンに関する 面白い話を聞きました ある人が私に アマゾンの ある部族は 現在でも人を殺して 食べると言いました 多くの探検家がそこに 入った切りで戻って 来なかったのです やっと 逃げ帰ってきた人々が そう語ったそうです 私はショックを受け 恐ろしく感じました 私は 殺された時の 人々の恐怖に怯える 気持ちをもろに 感じ取ったのです 私は同行した人に 言いました 「自分が殺されて ランチになると 分かったら きっと恐怖で 怯えたに違いない」と 彼は「ええ きっと 恐ろしかったはず」と というのは すぐ殺すのではなく ゆっくり殺すのかも 彼らには 殺される人に対する 感情がないからです 殺される人の 気持ちを考えるという 習慣がないからです 彼らの習慣は人を 殺して食べることです 殺される人だけが 恐怖に怯えるのです どんなに怖かった事か だから私は人間が 動物を殺して食べるの と同じだと言ってます 動物達の感覚を 無視しているのです
きっと恐怖に怯えたに 違いありません 動物は人間の言葉が 話せないので 自分を 守れません 今 私達が 動物と立場が 交代したら 動物達の気持ちが 分かると思います 自分を動物に置き換え アマゾンの 探検家に置き換えて 捕まった時 そこの部族の人に 切り裂かれると 思う時 きっとその恐ろしさが 分かると思います だから聖書に「殺生 すべからず」とあり 仏陀も強調してます 「殺生すべからず」と どんな宗教でも 最初の戒律に 不殺生とあります 私達は忘れています 殺生は二通りあります 直接と間接殺生です 動物を食べなければ それを殺して売る人は いないはずです ですから不殺生とは 菜食を意味します 全ての人が 菜食をすれば 世界は 平和になって 平和を 語る必要もありません 平和で 楽園になります 人間だけでなく 動物にも同様に 平和が必要だからです 動物も人間も皆 同じくこの地球の 住人だからです 人類が現れた時に 動物達はすでに 存在していました だから私達は隣人です 人間と動物です 平和になりたければ 人間だけでなく全てが 平和であるべきです 動物達も毎日 平和を求めて 泣いているからです 私達が内面の 神の耳を持てば 動物達が泣いてるのが 聞こえ 彼らの言葉が 分かります
野菜はどうですか 野菜にも命があります しかし野菜の意識は とても低いです 殆ど感覚がありません 実際 野菜を食べても やはりいわゆる 悪いカルマ(報い)を 集めてしまいます カルマとは 要するに 「蒔いた種は刈らねば ならない」のです もし殺せば 殺されます これがカルマ(報い)の 意味です 人を殴ると 後で人に殴られます これがいわゆる 悪いカルマ(報い)です 今 植物を食べても やはりありますが 最小限の悪いカルマ (報い)で ほんの少しです 毎日二、三時間 瞑想したら カルマを 洗い流せます 神に瞑想しないと 最小限の悪いカルマ (報い)でも 洗い流せません ですから 天国の 神の 内面の 神の王国の修行は 必要なのです 菜食をする前に すでに殺生をしている からです 呼吸したり 歩いたり 手を洗ったり すべて殺生なのです ですから菜食をすると 罪がないという訳では ありません 例え何も食べなくても 罪があるのです 過去生での 悪いカルマ(報い)が あります 聖書でいう原罪です 呼吸すると 見えない 生物を沢山殺します これは罪になります 洗濯したり 体を洗うとき 体を消毒して 沢山の目に見えない 生物を殺して 罪になります 地面を歩いても 芝生の上を歩いても どこでもです だから 逃れる道はありません 内面の偉大な力で 全て洗い流さない限り 方法はありません それを「神の慈愛」と 呼びます 私達は毎日 神の慈愛を持って 私達の家をきれいに 洗うことができます 神の恩恵なしに 神の王国へ戻る チャンスは ほとんどありません これが皆さんと 分かち合いたい事です 避けられない罪を 毎日どのように 洗い流すかです 霊的な永遠の存在を どう感じるのですか 死後も 命があると どう信じますか
信じるまでもなく 体験することです 私には体験の仕方を 示す方法があります 私や仏陀やイエスが 言ったことを 信じるまでもなく それを知ることです 内面の自性を知り 見て分かることです ですから この世界には 数多くの 宗教経典があって いずれも沢山の 天国や地獄について また全ての 美徳や罪について 述べているわけです ですが人々はなおも 悪い事をします 経典が言っている事を 信じられないからです なぜなら天国とか 地獄について彼ら自身 体験がないのです 心に深い印象が ないのです それで 問題を 起こしかねないし 過ちを 避けられないのです
コペンハーゲンでの 気候変動サミットで このビデオが上映 されるよう投票しよう
「VOTE」をクリック SupremeMasterTV検索
Without a guide, is it without an interior work, is it possible to
obtain enlightenment? To a very small degree, not to the highest, and
and often with a lot of dangers to the health and to the mentality.
That’s why we see someone, they’re practice ing alone and they get very
weak or they become mentally disturbed or they become possessed; we
have heard about this. If you have a Master, this won’t happen. But the
Master must be a perfect, a real, a competent Master who has reached
the highest goal, who are is omnipresent - means who are is in one
place, and in many places, in all places, in the whole universe at the
same time.
If we awaken that sleeping spirit up - that is God - then we become
God. Like Jesus said, “I and my Father are one.” And then we become one
with the whole universe, then we reach the stage which Lao Tzu
described as…, means all things in universe are one. Then we become
perfect, as God in Heaven, as Father in Heaven, is perfect. At that
time, people will say we are the Buddha or the Christ. To reach this
stage demands perseverance and regular practice. It’s like a baby, he
has to eat a little every day, but every day he must eat; then he grows
up and becomes an adult. He couldn’t eat the whole thing and become an
adult in one night, and that also would kill him. But he must eat
…little, little, …but every day. Now, we must take a little bit of
God’s food every day to be great and to be completely enlightened like
Jesus or Buddha. Then the inner Man, the God in us, is completely
awakened, completely grown up, then we become God, - the God that walks
the Earth, that eats, that sleeps, that loves people, and contacts
people. Outside - we don’t change; we only change in the consciousness,
in wisdom, in the viewpoint of life.
Why do we live in a time so full of disharmony and problems? What is
the future of mankind? Because we chose to live in this time, because
we haven’t corrected our way of life in the past; but we can correct it
from today. And in future, we don’t have to live in this kind of
disharmonious world anymore. It’s still not late, not yet the end of
the world. If you believe in the end of the world, then correct it
quickly today and then escape it. I have the way, I will show you. I
will show you at initiation how to escape. We escape into the Kingdom
of God; We don’t need to move our house or move the body. We have a
metaphysical way to move out of trouble - very safe, very quick. Any
instant we can move “in.”
Like someone, as it is stated in the Bible that when he’d seen God,
God is like a great flame and Hiers sound is like thunder, like the
sound of thunder, like the sound of many waters. When we are initiated,
we will have the same experience or even higher.
Some people told me that in the Amazon there are still some tribes
that kill people and eat them. Many adventurers went there and never
came back. And some escaped and went home and told their story. And I
was struck with the feeling of fear - I was feeling the fear of the
people who are were being killed at that moment. And I said to my
companion, “It must be a terrifying feeling when you know you are going
to be killed for lunch.” And he said, “Yes, yes, it must be horrible.”
Because that killing way might not be very quick; but it might be
slowly even. Because the people, they had no feelings for the victims.
They don’t have the habit of thinking how the others who are killed
will be feeling. It’s their habit to kill and eat. It’s only for the
victim, it must be horrifying, it must be terrible. So, I say this is
just the same just as when people kill animals and eat. We’ve lost the
consideration for the feelings of the animals.
You are attached to the language, the sutra. What I am teaching is
out of the religion, it is without sutra. It’s good to have it, it is
okay without. What if all our sutras are burnt tomorrow? Couldn’t we
practice without it? There was no Buddhist sutra before Buddha’s time,
how did he practice? There was no Catholic no Christian Bible before
Jesus Christ’s time, how did he reach enlightenment? There was no Tao
Te Ching before Lao Tzu’s time, how did he fulfill the Tao? Ask
yourself. All the sutras are beneficial if we understand them it;
however, we are harming ourselves if we are attached to the sutras. In
this case, sutras are harmful. We have to be aware.
According to the World Bank, developing countries across the globe
generate about one-third of global greenhouse gas emissions and endure
80% of their harmful impacts. My humanity is bound up in yours, for we
can only be human together. - The Most Reverend Desmond Tutu -
Archbishop of South Africa